梗 概
今日は名古屋・静岡紛争について勉強します
1950年制定の文化財保護法には、ほとんど知られていない付則が存在する。
「江戸時代以前に当時の政府機関(幕府・藩)によって製造・設置された構造物は文化遺産とみなし撤去を禁じる。稼働展示の可否は、当該構造物の所在する都道府県の知事の判断に委ねる」
2037年。
リニアモーターカーは、名古屋・大阪間で開通していたが、静岡が工事を認めないので名古屋・東京間は未開通。静岡と愛知は対立を深めていた。
そんなおり、名古屋城木造天守閣復元工事が最終フェーズにはいる。
天守台の地下精密掘削中、考古学チームが記録にない空洞を発見する。内部に踏み込んだ調査員が見たのは木組みに囲まれた異様な構造物だった。無数の鏡と水晶の複合体が、精緻な歯車機構で連動する巨大な光学装置。
解析の結果、尾張藩が享保年間に秘密裏に建造した「尾張光輝機関」と判明した。
設計思想はこうだ。木曽三川の水面が太陽光を反射し、天守閣の各階に仕込まれた鏡群が連動してその光を収束させ、コヒーレント光に変換し、知多半島へ向けて照射する。受光施設がそのエネルギーで海水を加熱し淡水化する。渇水に苦しむ知多半島のための壮大な水資源システムだった。
問題は装置の見た目だ。広報は水資源システムと繰り返したが、公開された写真はどう見ても熱線兵器。
これを威嚇と取った静岡県民が怒って名古屋に押し寄せる。名古屋市民はびっくりして名古屋城に立てこもる。
静岡県知事も動く。徳川家の出身地である駿河国には、古くから「富士の山懐に眠る秘密の仕掛け」という言い伝えがあった。徳川家ゆかりの郷土史研究家が代々書き継いできた私家版文書「駿河秘録」には、「富士の地熱を以て遠き敵を打ち払う機関、山中に在り」と記述がある。
静岡県議会は発掘調査を即決。洞内から出てきたのは「富嶽式マグマ圧力砲」だった。
武器をしまえとの声に対し静岡県知事は、これは「江戸遺産特例条項による展示」と開き直る。
名古屋市長は尾張光輝機関の実演で静岡を説得しようとしたが、これが熱線兵器発射と報じられてしまう。静岡県知事は「稼働展示」を宣言した。
富士山の山腹から岩塊が射出された。轟音とともに弾道を描いた巨大な岩塊は、名古屋城を目指して伊勢湾上空を飛翔した。
その瞬間、リニア名阪線の名古屋駅地下ホームから青い閃光が走った。
東京・大阪間の開通を望む大阪が、JR東海と共同で転用した「東海道超電磁砲」で迎撃したのだ。
これに、前々からリニアのうまみが少ないと腹を立てていた山梨・長野が反発。東西を分けた戦争になりかける。
「待ちなさい」
京都府知事が緊急会見。江戸中期に京都所司代が製造した「雅楽共鳴砲」の存在を公表。これは特定周波数の音波を指向性照射し、照射範囲の全員を強制的に眠らせる音響兵器。
「停戦を求めます。聞かないなら、どちらにも撃ちます」
名古屋・静岡・大阪の三首長は後に「京都が一番怖かった」と述懐している。
文字数:1196
内容に関するアピール
これは愛知県の高校の歴史の授業なので、語り部は社会の先生です。
名古屋では、名古屋城天守閣の復元計画というものがあったのですが、木造にこだわるかエレベーターを設置するかで意見が別れ、プロジェクトが止まってしまっています。
そこで、実はエレベーターというのは符牒で、本当は名古屋城から超兵器が出てきてしまい扱いに困ってるのではないかと思い、この梗概を書きました。
今回の自分なりの取り組みのテーマは、どんどんスケールが大きくなっていくSF小説を書くことです。
文字数:225
富士山麓に曙光なく
西暦2035年の秋。
名古屋城天守閣の復元工事現場は、骨格だけで立ち尽くしていた。鉄骨の足場が旧天守台の石垣を囲み、クレーンが灰色の空に向かって腕を伸ばしている。
名古屋市長笠倉定雄が足場の最上階に立ったのは、午前7時を少し過ぎた頃だった。鉄骨の隙間から木曽三川の川面が光の帯を作っていた。晴れた日には遠く伊勢湾まで見渡せると聞いていたが、今日はその手前の濃尾平野が、秋の朝靄の中に白く滲んでいた。
天守閣復元事業は市民の間に分断をもたらしていた。歴史的考証に基づく完全木造での復元か、それともバリアフリー化のためにエレベーターを設置するか。二つの方針は根本的に相容れず、議論は十年以上に及んでいた。この事業をめぐって市民は二分し、決断が下されないまま、工事は半端な状態で止まっている。
「市長」
後ろから声がかかった。
「地下で変なものが見つかったようで、確認していただきたく」
呼びに来た職員の表情をまじまじと見た。困惑しきっているように見える。
「はいはい」
笠倉はヘルメットを直して、足場の階段を降りた。
地下に降りる前に、笠倉は改めて天守台の石垣を見渡した。この石垣は江戸時代から残っている本物だ。その下に、まだ誰も知らない江戸時代が眠っていたとしたら。
地下は昼でも薄暗く、仮設照明が白い光を投げていた。作業員たちが遠巻きに立ち、誰も口を利かなかった。中央に、技官の大原が腰をかがめて何かを覗き込んでいた。
「市長、よくいらしてくださいました」
大原は六十代の男で、名古屋市の土木技官を長く務めてきた。滅多なことでは表情を崩さない人物として知られていた。その大原が、今日は珍しく焦りを隠せないでいた。
「これをご覧ください」
差し出されたのは、薄い和紙の束だった。四隅が朽ちかけているが、墨書きの文字と、細い線で描かれた図面が見て取れた。
「設計図です。天守閣の」
「設計図ならあるでしょ」
「表に出ている設計書とは食い違う部分があります」
「何のためにそんなものを」
「こちらは言わば裏の設計書と申しましょうか。当時の幕府に隠していた機構があるようです」
大原は慎重に紙をめくった。
「ご覧ください。この部分」
笠倉は目を凝らした。図面の端、天守閣の断面図とおぼしき部分に、縦に走る一本の線がある。その傍らに、細かな記述が添えられていた。
「これは……なんだ?」
「おそらく昇降機です」
「エレベーター!?」
「そうです。江戸期のものですから当然動力は人力か水力でしょうが、発想そのものは現代のエレベーターと変わりません。この設計図に沿って復元すれば、木造でありながらバリアフリーにも対応できます」
笠倉は声を上げそうになった。この十年、木造復元派とバリアフリー派の間で繰り広げられてきた論争が、江戸時代の設計図によって一息に解決される可能性が目の前に開けていた。
「それともう一つあります」
大原が奥へ誘った。仮設照明の光の中に、それは静かに立っていた。
高さ三メートルほどの、巨大な板。表面は鏡のように磨かれているが、角度によって無数の細かい稜線が走っているのが見える。板は丸い石の台座に据えられ、中心の軸で固定されていた。台座には歯車の痕跡があり、板が軸の上で回転する仕組みになっているようだった。
「表面の加工を分析しました。入射光の方向に関係なく、特定の角度にだけ光を集中反射するような微細構造が施されています。道路標識の再帰反射に近い原理です。しかもコヒーレント光に変換しているようです。要するに、狙った方向に光を届ける装置です」
大原の説明が続く中、笠倉の目はその傍らの一点に止まった。
木製の、大きなレバーだった。1メートルほどの柄に、両手で握るような把手がついている。長年の風化でくすんではいるが、しっかりとした作りは見て取れた。
「一つ申し上げておかなければならないのですが」
大原が厳しい顔になった。
「法令の規定で、これに触れるには知事の許可が必要なのです。江戸時代以前に幕府や藩が製造・設置した構造物は文化遺産とみなし破壊を禁じる、稼働展示については当該都道府県の知事の判断に委ねる、と定められています。ですから許可を取らずに操作することは……」
ガコン、と音がした。笠倉の手がレバーを握っていた。
「市長! なにやってんすか」
鈍い機械音が地下に響いた。歯車が動き、板が傾き、床の石畳の一部が割れ、ゆっくりと板が上昇し始めた。笠倉は階段を駆け上がった。
石垣の外に出ると、天守台の頂点に向かって水晶の板が昇っていくのが見えた。秋の朝日を浴びてそれは白く輝き、濃尾平野に光を落としながら、最上部で静止した。木曽三川からの反射光が板に当たり、収束した光の束が、東の空へ向かって細く伸びていった。
「これは……灯台のようなものか」
笠倉は呟いた。
記者がやってきた。カメラを向けながら駆け寄ってくる記者に笠倉は振り向き言った。
「まあ、東海道を通る人のための灯台みたいなもんでしょうな、当時の。これで静岡を通りやすくなったんじゃないか?」
◆
静岡県庁の七階会議室は、南向きの窓から駿河湾が見渡せる。晴れた日には水平線の彼方に伊豆半島が浮かぶ。今日は秋晴れで、水は深く青かった。
松平誠一は、その景色を背にして腕を組み、部屋の中で沸騰しかけている職員たちを眺めていた。
きっかけはその朝の大阪府知事のコメントだった。リニアモーターカーの工事が静岡と山梨の一部区間で止まっていることについて、「利益誘導にはしる地域が広域インフラの整備を妨げている」と述べたのだ。大阪・名古屋間の開通からすでに一年が経つものの、静岡では農業への影響調査が完了せず、一部の工事が遅れているのだ。
「農業への影響が出ると分かってるのに、黙って工事させろなんて虫が良すぎるだろ!」
「大阪は恩恵受けてるから好き勝手言えるんだ!」
「カチコミしましょう! やっちまいましょう!」
松平は黙って聞いていた。
松平誠一。静岡県知事、57歳。松平という苗字が示す通り、徳川家の末裔だった。しかし彼が幼少期に育ったのは、富士山の西側、梅林坂という村だった。日当たりが悪く、急斜面で、農業には向かない土地だ。駿河大納言 徳川忠長が寛永年間に処分を受けたときに、松平の先祖も巻き込まれる形で改易され、この土地にやってきた。その地面を懸命に耕し、米を作り、野菜を作り、それでも収量は平野部の半分にも満たなかった。農地のコンディションに敏感なのは、そういう育ちによるものだった。松平誠一は農地を守る。リニアのトンネル工事が地下水脈に影響を与える可能性があるなら、松平にとって妥協はできない。
「オヤジ、どう思います?」
職員の注目が集まる。
「まあ待て若」
松平がゆっくり言った。職員たちが静まった。
「理はこちらにある。根拠を示して説明するだけだ。感情論で世論を操作しているのは大阪だとはっきりさせよう」
机に手をついて立ち上がっていた若い職員たちが、「さすがオヤジっす」と口々に言いながら椅子に座り始めた。
と、どこからか焦げる匂いが漂ってきた。指先がピリッといたんだ。
「アチイィ」
次の瞬間、机の上に広げていた資料が燃え上がった。
火災警報が鳴り響き、天井のスプリンクラーが作動した。会議室に水が降り注ぐ。職員たちが立ち上がり、椅子が倒れ、叫び声が上がる。
松平は西側の窓の外を見た。
名古屋城があった。名古屋城が光っていた。白く、灼けるように輝く光が、愛知方面の地平線から射してきていた。焦点を絞った光は、窓ガラスを通り越してまっすぐ会議室に差し込んでいた。それが資料を焦がし、書類を燃やしていた。
「笠倉だ!」
若がテレビを指差した。画面には名古屋市長の姿が映っている。マイクを向けられた笠倉が、ご機嫌な顔で言っていた。
「これで静岡を通りやすくなったんじゃないか?」
静寂。静岡県庁の職員は一瞬で理解した。
「光学兵器で威嚇してきやがった!」
「リニアのためにそこまでするか!!」
会議室が再び沸騰した。
松平は濡れた資料をゆっくり机に置いた。そして言った。
「土木の技官に繋げ。梅林坂には有事に尾張を攻撃するために駿河大納言 徳川忠長が作らせたという大砲の言い伝えがある。それを探させる。古代兵器には古代兵器で対抗する」
職員が困惑しつつ電話をかけた。部屋のスピーカーから、ブチ、という音がして、のんびりとしたおじさんの声が流れてきた。
「はい、寺田ですー」
「徳川家ゆかりの郷土史研究家が代々書き継いできた私家版文書『駿河秘録』には、富士の地熱を以て遠き敵を打ち払う機関が山中にあると記されている。これを探せ」
沈黙。職員たちの顔に、それぞれの程度に不安が浮かんだ。スーツから水が滴っていた。
一時間が経過した。スーツがだいぶ乾いてきた頃、スピーカーが再び音を立てた。
「ありましたー」
「あるんかい」
職員が一斉につんのめった。
「静岡と愛知上空の飛行機を退避させろ」
松平は腕を組みなおした。
「まずは三河湾に打ち込め。ラグーナ蒲郡を水浸しにして差し上げろ」
法務部の職員が携帯電話を片手に走り寄ってきた。
「防衛大臣が自重しろと言ってきてます。防衛省で今すぐ解体すると」
だが松平は動じなかった。
「法律を知らんのか。『江戸時代以前に幕府や藩が製造・設置した構造物は文化遺産とみなし破壊を禁じる』。そしてこれは『稼働展示』だ」
◆
富嶽式マグマ圧力砲は、富士山の西麓、標高900メートルの山腹に埋設された構造物だった。
砲身は玄武岩と花崗岩を組み合わせた多重管構造で、全長は400メートルを超える。砲身の底部にはマグマ溜まりへの接続管が延び、地下深くの熱と圧力を引き込む仕組みになっていた。砲丸は近傍の採石場から集めた花崗岩の塊で、直径1メートル、重量は3トンに及ぶ。
発射機構は三段階に分かれていた。第一段は砲身後部の低圧室でマグマ圧力を蓄積し、砲丸を初速に乗せる。第二段、第三段と、砲身の途中に設けられた加速室で追加の圧力を加え、砲丸を段階的に加速させる。一度に最高圧力を加えると砲丸が砲身内で粉砕されてしまうための設計だと、『駿河秘録』には記されていた。砲丸が砲身を通過する間に回転を与えるため、砲身内部には螺旋状の溝が刻まれており、これがジャイロ効果を生んで空気抵抗による弾道のズレを抑制する。
寺田技官がレバーを引いた。
低い振動が地面を走った。山腹の木々が揺れ、葉が舞い散った。次いで轟音が来た。腹の底に染み込むような、地鳴りに似た爆音。
花崗岩の塊はマッハ3で西南西に飛び出した。静岡県庁北側の上空を通過するとき、衝撃波で窓ガラスが激しく揺れた。
砲身後部の排気口からも高圧のガスが激しく噴出した。一般的な銃器が発射の反動で薬莢を後方へ排出するのと同じ原理である。富嶽式マグマ圧力砲の場合、その排気は砲身と同径の管を通じて山腹の斜面に解放される仕組みになっており、発射のたびに富士山東側の山肌の一角から黒々とした煙が柱のように噴き上がる。
三河湾に達したのは発射から2分50秒後だった。海面への衝突は爆発のような水柱を生んだ。直径百メートルを超える波紋が広がり、周囲の漁船が大きく揺れた。ラグーナ蒲郡のテラスに出ていた観光客は悲鳴を上げ、波しぶきを浴びながら建物の中に逃げ込んだ。住民は頭を抱えて「海苔が」「アサリが」と絶望の金切り声をあげた。波は防波堤を越え、護岸の遊歩道を水で覆った。
「着弾確認しましたー」と寺田の声がスピーカーから流れた。
◆
名古屋城の庭に三脚を立てたカメラに向かって、笠倉はご機嫌で話し続けていた。
「エレベーター付きの設計書が見つかって、本当によかったですわ。これでバリアフリー派の方にも木造復元派の方にも、納得してもらって……」
「市長! 大変です!」
職員が全力疾走で駆けてきた。
「市民が押し寄せています!」
土煙が見えた。城門の方角から、人の波が押し寄せてきていた。
「おい笠倉! 静岡を怒らせたじゃねえか!」
「アサリどうしてくれんだ!」
笠倉はうろたえた。
「わ……わしは知らん! あれはただの灯台で……!」
だが市民の声はやまなかった。
◆
富士山の東麓、山梨県の緩やかな斜面に、海老名ミオのぶどう畑は広がっていた。棚仕立ての巨峰が規則正しく並び、実が重く垂れていた。収穫まであと二週間もあるかどうかという時期だった。海老名はその朝も早くから畑に出て、一房一房の状態を確かめていた。
「収穫が楽しみね、信勝」
役馬の信勝は、黙って地面の草をはむ。栗色の毛並みが朝日の中に輝いていた。
大地が揺れたのはそのときだった。
地鳴りに続いて轟音。振り返ると、富士山の西側の山肌から、黒煙が柱のように立ち上っていた。煙はみるみる広がり、秋の青空を覆い始めた。灰が落ちてきた。葉の上に、地面に、白く積もっていく。
「信勝!」
呼ぶと口に灰の味が広がった。手で口を覆い、信勝の首に縋りつく。煙は低く垂れ込め、視界を奪った。海老名は信勝の手綱を引いて斜面を下りようとしたが、方向が分からなかった。叫んでも声が霞の中に吸い込まれた。
どのくらい経ったか。煙が晴れたとき、ぶどう棚の一面が灰色に覆われていた。葉は色を失い、実の表面にも灰が積もっていた。
海老名はしばらく動けなかった。
それから、ゆっくりと鎌を握りしめ、信勝の背に乗った。復讐してやる。
◆
「名古屋市民が名古屋城に逃げ込んで、籠城戦の構えを取っているようです」
若が地図を広げながら言った。静岡県庁の会議室では、スーツがほぼ乾いていた。
「オヤジ、もろともやっちまいましょう!」と年少の職員が立ち上がった。他の職員も続こうとした。
「市民には手出しするな」
一瞬の間があき、どさりと椅子に戻る音が響く。
「わかりました。しかし光学兵器だけを破壊する方法がなにか無いでしょうか」
全員が黙り込んだ。会議室に沈黙が満ちた。
「こう……」松平がゆっくりと言った。「黒い服を着て、こっそり忍び込むのはどうだ?」
全員がハッとした顔を上げた。
「さすがオヤジ!」「それしか無いっす!」
しかし若が手を挙げた。
「名古屋城の石垣は、一番低いところでも三メートルあります。それを飛び越えられる職員がいるでしょうか」
松平は少し考えた。
「麻を植えろ。毎日飛び越えさせろ。麻が成長するにつれ、跳躍力も伸びていくはずだ」
「さすがオヤジ!」「それしか無いっす!」
◆
かくして、最初に3メートルの麻を飛び越えたのが牧本香澄、21歳だった。
静岡県庁採用2年目。彼女は潜入任務に抜擢された。
「なんで私がこんなことに」
夜。名古屋城の外堀は月光を受けて静かに光っていた。手には竹をくり抜いた筒がある。こんなこともあろうかと用意しておいたのだ。これで水中でも息ができる。ひと呼吸ついて、音もなく堀の水に滑り込んだ。冷たかった。竹筒を口に当て、水面に顔を沈めた。水の抵抗を感じながら横切り、対岸の石垣の根元に手をかけた。
石垣はぬめっていた。指の力で一段一段、登った。腕が震えた。最後は腹這いで縁を乗り越え、塀の上に体を引き上げた。そして堀の内側には3メートルの石垣。彼女はそれに飛び乗った。
目の前に広がっていた光景に、牧本は息を呑んだ。
松明と投光器が至る所に灯され、城内は夜にもかかわらず昼のような明るさだった。数百人の市民が広場を埋め尽くしていた。怒号と熱気が渦巻いていた。
◆
「皆さん! 落ち着いてください!」
壇上の笠倉が、メガホンを両手で持って叫んだ。
「静岡との件については、こちらに非はありません。あの光は兵器でも何でもなく、江戸時代の遺産であって! 灯台のようなもので!」
しかし群衆の怒号はやまなかった。「静岡に謝れ!」「市長を辞めろ!」。
笠倉は何度もメガホンを構え、何度も声を張り上げたが、言葉は人波の中に消えていった。
◆
塀の上から群衆を見下ろす牧本の目に、壇上で声を張り上げる市長と、拳を突き上げる市民たちの姿が映った。声は明瞭には聞こえなかった。距離と喧騒のせいで、言葉が届かなかったのだ。
静岡への怒りが爆発寸前なのだ。群衆は、あの兵器を使って静岡を焼き払えと要求しているに違いない。まずい。早くあれを壊さないと。牧本は塀の内側に飛び降りた。
◆
富嶽式マグマ圧力砲の内部は、玄武岩を削り出した廊下が続いていた。海老名ミオは信勝とともに中に入った。警備の者はいたが、彼女と馬は全身煤だらけで真っ黒だったため、誰にも気づかれなかったのだ。
壁に沿って管と歯車が並び、足元には重厚な石畳が敷かれていた。
最深部にたどり着いた。砲身の根元に近い、石造りの操作室だった。
三本のレバーがあった。それぞれ「弱」「中」「強」と刻まれていた。
海老名は三本のレバーの前に立ち、しばらく動かなかった。
リニアが通れば大阪が便利になる。名古屋が便利になる。しかし山梨の農家には? 地下水の味が変わった。工事の振動で目が覚めることもある。その上今日。静岡と愛知の無益な争いのせいで、ぶどう畑が灰に沈んだ。
もう全部壊れてしまえばいい。
海老名ミオは「強」のレバーを引いた。
轟音が山を揺らした。
◆
「市長! 飛翔体がこちらに接近しています! 城への衝突コースです!」
職員の報告に、群衆がパニックになった。人々が散り散りに走り、悲鳴がこだまする。
そのとき、笠倉の携帯電話が鳴った。画面を見ると「時浦」とあった。
時浦陽翔、大阪府知事。38歳。爽やかな笑顔と率直な物言いで知られる好青年だった。笠倉にとってはなにかと頼りにしている存在だった。
「時浦くんか!」
「笠倉市長、ご心配なく。こんなこともあろうかと、リニア名阪線はレールガンに転用できるよう設計してあります」
「それ……誰が許可したんだね」
「細かいことは後で。すぐやります」
電話が切れた。
間もなく、関西から東海上空にかけて航空機への退避勧告が流れた。
大阪城の地下から、青い閃光が天に向かって立ち上った。光は北東に走り、夜空を裂いた。東海道超電磁砲から放たれた砲弾が名古屋城上空に達したとき、富士山から飛来した花崗岩の塊を正確に捉えた。夜空に白い爆発が咲いた。
二の矢が来た。迎撃する。三の矢が来た。また迎撃する。富士山から次々と飛来する岩石を、大阪からの砲弾がことごとく撃ち落としていく。名古屋城の上空で、花崗岩と金属の砲弾が何度も衝突し、砕け、散った。破片が星のように降り注いだ。
◆
縁側の向こうの小さな庭だけが、外の世界と室内をかろうじて繋いでいた。鹿威しが、不規則な音を立てていた。束帯姿の職員たちが、畳に正座して並んでいた。全員の頭に烏帽子が乗っている。彼らは皆、目を伏せていた。
御簾の向こうに、飛鳥井京都府知事がいた。
「今日はえらい元気どすな」
朝からずっと、遠くで地面が揺れていた。静岡方面と愛知方面で何かが起きているという報告は届いていたが、知事への上申はまず文書でまとめてから文台に置く決まりになっている。職員の一人がその文書を清書している最中だった。
東の方角から、また地面が揺れた。天井から埃が落ちた。若い職員の懐でスマートフォンが振動した。ちらりと画面を確認すると「防衛大臣」とあった。その職員は顔を伏せたまま、さりげなく通話を拒否した。いまそれに出られる状況ではない。
「……」
御簾の向こうで、何かが動く気配がした。職員全員が背筋を伸ばした。
次の瞬間、天井が落ちてきた。砂埃が舞い、悲鳴が上がった。几帳が倒れた。職員たちが四方に転がる。砂煙が薄れていくと、畳の上に、人の背丈ほどの花崗岩が鎮座していた。
御簾が破れていたことに気づいた。職員たちは全員、反射的に顔を畳にこすりつけた。しかしすでに遅かった。飛鳥井のこめかみに、くっきりと血管が浮いていた。
「恐れながら」
額を畳に押しつけたまま、最年長の職員が声を絞り出した。
「御簾が破損いたし、御尊顔を拝してしまいましたこと、万死に値します。ただちに自らを慎む所存ではございますが、その前に、ご下命があれば」
静寂。
「あれを使いなさい」
唾を飲んでから答えた。
「御意」
職員たちは顔を上げなかった。全員が畳に額をつけたまま、下がっていった。
◆
なぜか空が紫色だった。
笠倉は城内を走っていた。市民を城の奥に誘導しなければならない。
「市長! こちらです!」と職員が叫ぶ。
そのとき、白いものが頬に張り付いた。
手のひらほどの、紙でできた人形だった。両手を広げた形で、表面に細かい文字が書かれている。引き剥がそうとすると、紙が指に絡みつく。剥がれない。
二枚目が脇腹に張り付いた。
笠倉は立ち止まった。
上空から、白い紙人形の群れが降ってきた。川の流れのように、薄い紙の塊が空中を漂いながら近付いてくる。一枚、また一枚と体に張り付いていく。笠倉は両手で払い、走り始めたが、紙人形は追いかけてくるように集まってきた。肩、背中、両腕、頭。紙人形に全身を覆われ、笠倉は動くミイラのようになった。
「む、これは何だ!」
声はくぐもった。体が持ち上がった。紙人形の群れが一体となって、笠倉の体を空中に運び始めた。
「離してくれ」
笠倉は西の空へ、ゆっくりと運ばれていった。
◆
天守閣の最上階は、静かだった。
城内の喧騒が遠く、かすかな歓声と爆発音が断続的に響くだけだった。牧本香澄は石段を上りきり、その場に立ち尽くした。
水晶の板があった。
無数の細かい面で構成された、巨大な多面体だった。地下から引き上げられ、天守閣の最上部に固定されたそれは、秋の夜空の下でかすかに輝いていた。
牧本は窓の外を見た。
木曽三川の川面が月光を受けて光っていた。その光が板の表面に当たり、収束し、東の方角へと細く伸びていった。
東の方角。富士山の西側。梅林坂。
牧本はその土地のことも、この装置が作られた経緯も知らなかった。しかしこの装置が何のために作られたかは、見ていれば分かった。木曽三川の川面の光を集め、遠くへ届ける。日の当たらない土地へ。川の光も、月の光も、集めて届ける。
梅林坂に改易させられた家臣のために、駿河大納言 徳川忠長がここに作らせたのだ。尾張の川の光を、静岡の日陰の土地へ。それだけのために、この精巧な装置を。
兵器でも、威嚇でも、なかった。
「きれい」
牧本は小さく呟いた。
光が、東の空へ続いていた。
◆
三日後。
京都府庁の大廊下を、三人の男が無言で雑巾がけしていた。
名古屋市長。静岡県知事。大阪府知事。廊下の端では記者たちが写真を撮り続けていた。フラッシュが光るたびに、三人の手が止まりそうになった。止まると廊下の奥から気配がして、また動き出した。
「京都が一番怖い」
笠倉が絞り出すように呟いた。松平と時浦は答えなかった。三人とも雑巾を押さえ、廊下の板張りを黙々と拭き続けた。
しばらくして、松平はふと窓の外に目をやった。
京都の東、比叡山の稜線の向こう、霞の中に、白い三角形がかすかに見えた気がした。
富士山か。いや、こんなところから見えるわけないか。
文字数:9240




