梗 概
リーゼンレーベン市の紋章について
十四世紀初頭、まだ幻獣が生息していたドイツ。
ハルツ山地の麓、ボーデ川のほとりに築かれた自由都市・リーゼンレーベンは大型ドラゴンの営巣地に近い。街はドラゴンにたびたび破壊され、住民は防衛用に蒸気と歯車で駆動するゴーレムを発明。街を囲う外壁にゴーレムたちが立ち、襲来するドラゴンを駆逐した。
ゴーレム使いのギルドに所属する青年ハンスはドラゴンと戦うが重傷を負い、街はずれの森で倒れた。森には光人と呼ばれる異人が住む。かつて天から下ってきたという光人は人の姿をしているが夜になると体が光り、街の人は光人を畏怖すると同時に不気味がった。
光人は倒れていたハンスを助け、懸命に看病し、やがてハンスと光人は恋に落ちた。ハンスは怪我が治って操縦に復帰しても毎晩森へ行き、光人と愛を育む。
ある夜、光人はハンスに「わたしは天の遠くから旅をしてきたが天を翔ける舟が壊れ、この大地に降り立った」と打ち明け、その舟を見せる。ハンスは光人から機械の技術を学び、ゴーレムを強化。ハンスは数々の巨大ドラゴンを倒し、街いちばんの人気者になる。
ギルドの親方たちはハンスの人気と技術に嫉妬。ハンスを呼び「異人の情夫となったお前にギルドも街も守れない!」と叱責し、光人と別れるよう命じる。同僚らも説得するがハンスは拒否し、ギルドから追放された。
街を去るハンスの背中に住民は石を投げ、ふしだら者と罵倒する。暴徒化した住人は光人を街へ連行し、光人を魔女とみなし処刑すべきと主張。だが領主と教会は「魔女は神のような知恵を持てない」と反対する。
翌朝、ハンスを同僚が探しだし、「光人は魔女だった。裁判にかけられ、広場で住人が火あぶりにした」と知らせる。しかしそれは嘘だった。ハンスに光人が魔女で殺されたと言えば、ハンスは改心して街に帰ってきてくれるだろうと親切心で嘘をついたのだ。
愛する光人を街の人たちに殺されたと思いこんだハンスは絶望し、盗んだゴーレムで山を登る。
ボーデ川は上流の渓谷に治水用のダムがあり、ハンスはゴーレムでダムの壁を破壊、ダム湖の水が一気に山を下りた。大量の水がリーゼンレーベンの外壁を越え、建物も人も流し去った。
ハンスは壊滅させた街を歩き、光人の亡骸を見つける。しかしハンスは生き残った同僚から、ハンスに嘘を言ったこと、光人が洪水で死んだことを伝えられる。ハンスは、洪水は自分が引き起こしたと語り、遺体を抱くと泣き崩れた。
その日の夕方、空に巨大な鉄の舟が現れた。舟がハンスと光人を光で包み、二人は空へ昇って消えた。
ゴーレム使いのギルドは洪水で壊滅し、蒸気で動く機械と技術は消失。やがてペストの大流行により幻獣も絶滅した。
だが人々は一連の悲劇を「ハンスと光人の結婚」と呼び、現在まで語り継いだ。現在のリーゼンレーベン市の紋章には鉄のゴーレム、その肩に立つ青年、その横で光を放つ女が描かれている。
文字数:1199
内容に関するアピール
本作はドイツの架空の都市を舞台にしたスチームパンクSFであり、ファーストコンタクトSFでもある。語り手はドイツ各地の伝承をまとめている作家とする。
蒸気で物体を動かすという考えも大型のダムも古代ローマ時代に存在していた。――このような古代文明の高度な技術を知ると驚くと同時に疑問が湧く。なぜ人類はここまで文明を発展させるのに時間がかかったのか?
宗教のせい? マヤ文明の天文学やアラビア科学は宗教的かつ科学的であった。国家のせい? 理性を失った独裁国家も技術と資源があれば核ミサイルを持つことができる。
もしかしたらクラークの言ったように「十分に高度な科学技術は魔法と区別できない」から、人々は歴史の要所要所で、理解のできない高度な技術に混乱し、技術を絶やす悲劇を引き起こしたのかもしれない。本作ではそのような悲劇を架空の街・リーゼンレーベンと蒸気機関の技術が消える様子を描くことで表現する。
文字数:396
リーゼンレーベンの結婚式
グリム童話は二百十編あると言われる。だが、そのうち史実に属するものは二つしかない。ハーメルンの笛吹き男と、もう一つ――リーゼンレーベンの結婚式である。
リーゼンレーベンはザクセン=アンハルト州の南西、ハルツ山脈の襞のなかに沈む小さな盆地にある。いまでは、低い駅舎と、観光客向けに建て直された家並みと、四方十キロほどの盆地を埋める菜の花畑があるばかりだ。春になると街は黄色の海に浮く島になる。風が吹くたび花が波立ち、晴れた日には盆地全体が光そのもののように見える。だが、その黄色の下には旧市街が眠っている。大聖堂も、市庁舎も、領主の城も、皇帝のための離宮も、いまは跡形も残っていない。
かつてこの街は、ハルツの玉座と呼ばれた。神聖ローマ帝国の皇帝たちに愛され、十四世紀前半の最盛期は当時のライプツィヒよりも巨大な――それこそヨーロッパ全土で五本の指に入る巨大な城塞都市が、菜の花に囲まれこの盆地に君臨していた。
しかし一三三七年八月七日、あの忌々しき「結婚式」により旧市街は跡形もなく壊滅し、かつてザクセン公の墓のあった大聖堂も、ドイツで随一の高さを誇った市庁舎も、神聖ローマ帝国の皇帝がたびたびお忍びで通われた別荘も、いまではみな、菜の花畑の地下に埋まっている。
しかし、旧市街の歴史はたしかに残っている。巨人たちが棲むところ――その名のとおり、かつてこの街には巨人がいた。
*
一三三七年五月七日、早朝。
ハルツの山際から陽が差し出すと、盆地を囲う菜の花の海は一斉に燃えはじめたように黄に輝き、その中央に浮かぶ城塞都市の赤レンガは、朝の光を吸っていっそう深い紅へ沈んだ。夜の湿気はまだ石と木の隙間に残っていたが、空は晴れていた。
見習い竜殺しのハンスは、その朝を最悪の頭痛とともに迎えた。
「昨日は飲みすぎたんだよ、勘弁してくれ」
鍛冶屋通りの泥を跳ね上げながら、ハンスはふらつく足で走る。昨夜のビールがまだ胃の底で泡立っている。こめかみは拍動し、舌は乾ききって、口の中は錆びた釘を噛んだような味がした。
前を行く兄弟子フリッツは振り返りもせず言った。
「甘ったれるな。十だぞ」
「……十?」
「見張り台からの報せだ。群れで来た」
「なるほどな。だから酔いどれの俺まで叩き起こされたわけだ」とハンスがうめく。
「天罰かもしれんぞ。リーゼンレーベンの淫蕩と堕落に神がお怒りになられたのだろう」
「どこの坊主の言葉だ?」
「昨日寝た女がそう言っていた」
「聞かなきゃよかった」とハンスは笑った。
朝の鍛冶屋通りは、夜の宴の死骸でできている。酒の酸えた臭い。吐瀉物のむせ返る臭い。小便と馬糞と、人の汗が一晩かけて混ざりあった臭い。前夜の雨がそれらを薄めるどころか、泥に溶かして通りじゅうへ均等に塗り広げていた。踏みしめるたび、地面はぐちゅりと鳴る。鼻で息をすると、その臭いが肺の内側へ貼りつく気がした。
かつて鍛冶屋通りは、鉄を打つ槌音で朝を迎えたという。いまでは夜になると、酔漢の笑い声と、安宿の軋む寝台の音と、娼婦たちの甘ったるい声ばかりが壁に跳ね返る。
二人はパン職人通りとの交差を抜け、そのまま川へ出た。
ボーデ川からの風は、鍛冶屋通りよりなおひどかった。染色工房の薬液の金属臭。屠畜場から流れ出た血と脂の匂い。なにかが常に腐りつづけている水の匂い。
その向こう、大聖堂の鐘楼が朝焼けを背に黒く切り立っていた。
そして、その尖塔に黒い影が取りついていた。
翼を持った巨大な蛇。長い首を反らし、鐘楼へ巻きつくように身をよじらせ、耳を裂くような金切り声をあげている。竜だった。逆光のなかでも鱗の縁が見えた。濡れた鉄のように光っていた。
「もう壁を越えられたのか」
ハンスの二日酔いが一瞬で吹き飛んだ。
「急げ」
フリッツはそれだけ言ってハンスの袖を引き、川沿いの整備場へ飛びこんだ。
建屋の片側はほとんど壁がなく、その内部では親方衆が怒鳴り散らし、徒弟たちが謝り、道具が飛び、蒸気が立ちこめ、朝だというのにすでに戦場のような騒ぎになっていた。その混乱の中心、一階と二階をぶち抜いた空間に、それは立っていた。
巨人――リーゼンレーベンを守る機械兵士。
鋼鉄の肢体は、まるで教会の祭壇画から抜け出してきた大天使のように、無言のまま直立していた。胴は厚い鉄板で覆われ、関節からは歯車と軸とピストンがのぞく。背には円筒形の蒸気釜。天窓から差しこむ朝日が装甲の縁にひっかかり、鈍く、しかし神々しく光っている。
隣の機体では、先に来ていた搭乗者が脇腹の扉から内部へ滑りこみ、すぐさま釜が唸り、蒸気が吐き出され、歯車がゆっくり回り始めた。
「遅えぞ、この屑ども!」
ヨハン爺さんが怒鳴ると同時に、革手袋が飛んできた。ハンスは反射で掴む。
「ありがとよ、ジジイ」
そのまま愛機――鉄の聖マリアの梯子を駆け上がる。
「おめえらは大聖堂だ」
「もう誰か向かってるんじゃねえのか」
「……今すぐ行け!」
わずかな躊躇。もう一機か二機、やられたのだとハンスは悟った。
扉を開け、ハンスは機体の胎内へ潜りこむ。狭い操縦席は、熱と油と鉄の匂いでむせるほどだった。横の補助席では、ボイラー担当のマルクスが小柄な背を丸め、石炭を釜へ放りこんでいる。
「今日はお前か、マル坊」
「よろしくお願いします、ハンスさん」
鼻の頭を煤で黒くしたマルクスが振り向く。
ハンスは操縦桿を握った。掌に馴染む木と鉄の手触り。その瞬間、自分の骨と機体の骨がぴたりと重なる感覚がある。
――これが自分の身体だ。
「鉄の聖マリア、発進!」
ハンスが吼え、マルクスが弁をひねる。轟音。釜の奥で水が吼え、蒸気が配管を駆け、全身の機構が目を覚ます。操縦桿を押す。巨人が前へ出る。床板が呻く。視界の小窓の向こうで、朝焼けのリーゼンレーベンがわずかに揺れた。
かつてこの地は、菜の花しかない寒村だった。ハルツの山から竜が降りてきては人も家畜も焼き払い、村人はただ祈るしかなかったという。だがある夜、鍛冶屋の息子が神託を受けた。岩を裂き、谷を穿ち、竜を殺す機械を造れ。そうして最初の巨人が作られた。竜が減り、修道院が建ち、皇帝の縁者が入山し、村は街になり、街は都になった。
巨人の造り方も、動かし方も、竜の殺し方も、すべては竜殺しギルドの秘中の秘だった。漏らせば永久追放。ゆえに竜殺しは、この街で血筋のない者が人間扱いされる、ほとんど唯一の道だった。 石工の息子ハンスも、金貸しの息子フリッツも、その道にしがみつかなければ永遠に下々のままだっただろう。
聖マリアが建屋を出る。ボーデ川沿いの堤から見下ろすと、水位は昨夜の雨で高い。橋は避難民と荷車で詰まりきり、今から渡っていては間に合わない。
鐘楼にしがみついた竜が吼える。
「マル坊、もっと焚け」
「まだ圧が足りねえ!」
「知るか、街が壊れるぞ」
「このまま飛んだら川に落ちる!」
ハンスは川面を見た。係留されたままの船が何艘も揺れている。渡し舟。家畜船。穀物商の荷船。
「船を踏み台にする」
「正気か!」
マルクスが悪態をつきながらも石炭を投げこむ。釜の唸りが一段深くなる。
「歯ァ食いしばれ!」
ハンスは操作棒を引いた。
巨人が跳ぶ。巨体が朝の空へ放り出され、一瞬だけ音が消える。直後、着地の衝撃。最初の一歩で荷船の甲板が砕け、水と木片が噴き上がる。二歩目で別の船腹を踏み抜き、三歩目で対岸に届いた。
「越えた、だろ」
「脚がイカれたらどうすんだ!」
「そのときはお前が直せ」
ハンスは笑って大聖堂通りへ駆け上がる。
そこは巨人のために広く取られた道路で、石畳は厚く、家々は肩がぶつからぬよう引いて建てられていた。その真ん中を、ハンスは鉄の聖マリアで疾走する。警笛を引くと甲高い音が通りいっぱいに走り、窓が開き、青ざめた顔が覗き、女たちが子を抱えて壁際へ身を寄せる。パン屋の籠がはね飛び、固いパンが石畳を転がる。誰も文句は言わない。そもそもここに残っているのは、もう逃げる暇のなかった者ばかりだった。
広場にはすでに何機かの巨人がいた。フリッツの鉄の聖ヨセフが毒矢をつがえ、別の機体が棍棒を振り上げている。だが足元には、倒れた機体もあった。装甲の継ぎ目から血が流れ、石畳を濡らしていた。
「フリッツ、開けろ!」
聖マリアを割りこませ、ハンスは背の武器架から長槍を引き抜いた。
竜は鐘楼の周囲を低く旋回している。背に矢が立っていた。傷ついた右の翼がわずかに遅れる。首がそのぶん流れる。翼膜の張り、骨の傾き、体重移動、風を掴む角度。すべてが線になる。
街の喧騒が遠のく。鐘の音も叫びも蒸気の唸りも沈む。残るのは、竜の動きだけだ。
――見える。
「そこだ!」
槍が放たれた。
巨人の肩口から解き放たれた鋼が空を裂き、鐘楼の影へ吸いこまれる。鈍い衝突音。槍は竜の頭部を横から貫き、眼窩の奥深くまで刺さっていた。
竜の旋回が崩れる。咆哮とも悲鳴ともつかぬ声が広場を震わせ、その巨体は鐘楼を擦りながら落下した。石畳が揺れる。翼が痙攣し、尾が荷車を薙ぎ、血と泥が噴く。
「まだだ!」
ハンスはもう前へ出ていた。聖マリアが蒸気を吐きながら突進する。のぞき窓の向こうで竜の顎が開く。折れた牙の隙間から血泡が吹く。遅い。
ハンスは操縦桿を叩きこむ。聖マリアの鋼の拳が振り下ろされ、竜の顔面を打ち砕いた。頭蓋が潰れ、骨が割れ、鱗の下の肉が崩れる感触が腕へ返る。竜の頭から灰白色の脳漿がこぼれ、巨体はついに沈黙した。
静寂。
それから遅れて歓声が湧いた。帽子が舞い、誰かが十字を切り、誰かが泣いていた。空には薄い煙と血の匂いだけが残る。
「勝ったぞ、マル坊」
返事がない。見るとマルクスは煤まみれの顔で気を失っていた。
「情けねえな」
笑いながら扉を開け、ハンスは梯子を降りる。石畳へ降り立つと、自分の身体がやけに軽く、やけに頼りなく感じられた。さっきまで鋼鉄の肢体を自分のものとしていたせいだ。
フリッツが近づいてくる。
「今日はビールを奢ってやる」
二人が拳をぶつけた、その瞬間だった。
光が翳る。歓声が悲鳴に変わる。
顔を上げると、もう一体、竜がいた。
片翼は裂け、腹の鱗は剥がれ、死にかけているのは明らかだった。だがその滑空には、不気味なくらい静かな意志があった。そして眼だけが、壊れかけた体に不釣り合いなほど冴え、一直線にハンスを射抜いていた。
「逃げろ!」
フリッツの声より速く、竜は降りた。風圧が広場を打ち、瓦礫と砂塵が舞い、次の瞬間には鉤爪がハンスの肩と胴をまとめて締め上げていた。骨が軋む。呼吸が潰れる。
街が遠ざかる。
大聖堂が縮み、ボーデ川が黒い糸になり、人間は砂粒になる。
*
目を覚ますと湿った土と落ち葉の上だった。
森だった。すぐ傍らには竜の死骸が横たわっていた。体温を失い、巨体はただの肉塊になっている。
叫ぼうとしても声が出なかった。喉の奥で血の味がしただけだった。
どれほど気を失っていたのか分からない。再び目を開けたときには、森は夜になっていた。梢の間に月は見えず、空は暗い藍色の蓋のように低い。土の冷たさが背中から染みてくる。
その闇のなかで、ひとつだけ光があった。
火ではない。焚火のような揺れはなく、月光のような遠さもない。もっと近く、もっと静かで、もっと冷たい光。水底で何かが息をしているような光だった。
「……目が覚めたのね」
女の声だった。
ハンスはそちらを見る。
そこに女がいた。いや、女の形をした何かがいた。輪郭は人間なのに、皮膚は淡い銀の光を帯び、闇のなかでも体の線が明瞭に見えた。髪も、指も、首筋も、すべてがほんのわずかに発光している。火に照らされたのではなく、自ら冷たく光っているのだと分かる。
「……魔女か」
鍛冶屋通りの安宿では、最近その噂でもちきりだった。森に光が落ちた。光のあとに、光る魔女がいたと。
女は首を振った。
「そう呼ぶ人もいる。でも違う」
女はハンスの側へ膝をつき、破れた服の下の傷へ手を当てた。指先が触れた場所から、灼けるような痛みが、静かに、しかし確実に引いていく。
「なぜ助ける」
「あなたが死ぬから」
あまりにも簡潔な答えだった。
ハンスは、喉の奥だけで笑った。
「そりゃ困るな」
女の口元がほんの少しだけほどけた。
それから数日は、夢の残骸のなかを歩いているようだった。
昼は静かで、夜になると木々のあいだを風が抜け、その風に乗って女の光がわずかに揺れた。女は多くを語らなかった。だが沈黙を押しつけもしなかった。自分の足で立てるようになったころには、ハンスは自然に女の名を呼んでいた。女もまた、ハンスの名を呼んだ。
夜の食卓には黒パンと煮豆と塩漬け肉が並んだ。街の飯より貧しいはずなのに、なぜかこちらのほうがまともな食事に思えた。
それを運んでくるのは、小柄な男だった。髭面で、山民にも見える。だが歩き方にどこか硬さがある。
「こいつは?」
「手伝い用の機械」
女はそれだけ言った。
食事の途中、女は不意に言った。
「私は、ここよりずっと遠いところから来たの」
「遠いところ?」
「空の向こう。星と星のあいだから、舟に乗って」
ハンスは笑った。
「空を渡る舟なんて、吟遊詩人でももう少しましな嘘をつく」
女は言い返さず、立ち上がって壁へ手を触れた。
空間が揺れた。
粗末な小屋の壁が剥がれるように消え、その下から別の構造が現れた。滑らかな曲面。金属とも石ともつかぬ素材。継ぎ目のない壁。内部を走る白い光。透明な膜のような板。触れてもいないのに、やわらかく明滅する面。
「……なんだ、これは」
「舟よ。修理はしなくていい。あなたたちの時間で九十日くらいしたら、仲間が迎えに来るから」
そのとき、例の小柄な男が黙って皿を片づけに来た。ハンスはその腕を掴んだ。
冷たい。
人肌の弾力ではない。筋肉でも骨でもなく、整いすぎた構造体の感触だった。皮膚の下に機械がある。そうとしか思えない。
「こいつも、機械か」
女は頷く。
その瞬間、ハンスの胸の奥で何かが爆ぜた。
恐怖ではなかった。嫌悪でもない。純粋な、どうしようもなく卑しいほどの歓喜だった。
歯車がない。蒸気もない。釜も石炭も、唸るピストンもない。それなのに動く。
「すごい……」
思わず声が漏れる。
「こんなものがあれば、鉄の聖マリアを――」
そこから先は、もう彼自身にも止められなかった。
これはどう動く。力はどこから来る。なぜ遅れない。どうしてこれほど小さくできる。どうやって指令を伝える。女はそのたびに答えた。答えが終わるころには、たいていハンスのほうが先へ行っていた。ばらばらの知識が勝手に結びつき、頭の中で新しい巨人の内部が組み上がっていく。
ハンスは部品を分解し、組み直し、失敗し、また試した。女は最初こそ驚いたように見ていたが、やがて口数を減らし、必要なときだけ細い指で一箇所を示した。
「あなたは覚えるのが早い」
「俺はただの竜殺しだ。槍を投げて、竜を殺して、運が悪けりゃ食われて終わる。だけど、これがあれば……」
ハンスは息を呑む。
「この街の歴史を書き換えられる」
女は静かに言った。
「違う。あなたが書き換えるのは、この星の歴史よ」
*
数日後の夕方、ハンスは袋を担いで森を出た。
袋の中には、見慣れぬ工具と、女の舟から持ち出した小型装置が詰まっていた。金属とも石ともつかぬ殻に包まれたそれらは、袋のなかで微かな音を立て、そのたびハンスは卵でも運ぶように肩を慎重に揺すった。
整備場へ戻ると、同僚たちは亡霊でも見るような顔をしたあと、一斉に騒ぎ出した。
「ハンス、生きてたのか!」
杯が回り、ビールが注がれ、死者の帰還のような扱いを受ける。その騒ぎを適当に受け流しながら、ハンスは聖マリアの腹を開いた。
「何だ、それは」とヨハン爺さんが訊く。
「新しい臓物さ。今夜はこいつと寝る」
女は電気と呼ぶ力で動く武器を見せてくれた。だがあれだけでは巨大な竜は殺せない。ならば、こちらの持つ熱と圧力を電気へ変えればいい。石炭と水と鉄は、この街があるかぎり尽きない。その不滅の資源に、異界の知恵を噛みあわせる。
ハンスは小型発電機を蒸気機構へ組み込んだ。石炭を焚き、ピストンを動かし、その回転を別の力へ変える。蒸気は熱く、重く、鈍い。だが見えない力は違う。細く、速く、迷わず伝わる。ハンスは汗だくで配線を這わせ、歯車の噛み合わせを直し、火花を散らし、夜通し手を止めなかった。
夜明け、女の舟にいた小さな機械人形のひとつを、聖マリアの腹の深くに収める。それは力を蓄えるだけでなく、判断の補助までこなした。新しい心臓と新しい神経。聖マリアに、これまでと別の鼓動が宿った。
その日から、戦いは変わった。
竜が現れるたび、ハンスは最初に駆けつけた。他の機体がまだ釜を温めているうちに、聖マリアはもう街路を駆けている。槍はより正確に、拳はより速く、機体はより滑らかに竜の急所へ届く。空の化け物は次々に地へ落ちた。
竜は減り、ハンスの名は広まった。
石工の倅は、気づけばリーゼンレーベンの英雄になっていた。酒場では吟遊詩人が大袈裟な英雄譚を歌い、子供たちは棒切れを槍に見立てて「俺はハンスだ」と叫び、女たちは笑いかけ、酔漢は肩を叩き、昨日まで名も覚えようとしなかった連中が勝手に旧知のような顔をした。
だが喝采は、いつだって嫉妬を連れてくる。
ある夜、同僚たちと鍛冶屋通りの酒場へ入ると、川上のダム工事に出ている男たちが奥で笑っていた。
「槍を投げるだけで英雄様か」
「女も酒も寄ってきて結構な身分だ」
「お前の親父も、俺らと同じ石工だったのにな」
ひとりが立ち上がり、ハンスの肩を押した。
ハンスは無意識のうちに拳を腹へ叩き込んでいた。男は吐きながら倒れ、椅子が折れ、ビールが飛び、悲鳴と歓声が混ざる。
「帰れ」
短く言うと、荒くれどもは何も言い返さず去った。
同僚たちが笑う。
「やるじゃねえか」
「お前がいりゃ十匹来ても怖くねえ」
ハンスも曖昧に笑った。だが心はもう、街の外の森へ向いていた。
毎夜、女のもとへ通った。
並んで窓から星を見るだけで、視線や賞賛や嫉妬を全部輪刷られる気がした。女は少しずつ自分のことを話すようになった。
「もうすぐ仲間が来ると思う」
「舟は直さなくていいのか」
「迎えの舟は大きいから、この舟ごと運べる」
来る。帰る。ここからいなくなる。その言葉がハンスの胸の奥へ細い釘のように刺さる。
「帰ったら、お前はどうする」
「また飛ぶわ。仲間と別の星へ。いろんな星を調べなきゃいけないから」
「占星術師のようだな」
冗談めかして言ってから、息をひとつ呑み、ハンスは続けた。
「俺も行きたい」
女はしばらく黙っていた。
「……あなたには、あの街に居場所があるでしょう」
その言葉が、逆にハンスを黙らせた。
居場所。あんなものが、本当に自分にあったのか。
*
その後、ハンスは森へ行く回数を減らし、ますます機械に没頭した。聖マリアの内部へ新しい機構を仕込み、応答を高め、補助腕の案を練り、配線を這わせた。考えているあいだだけは、胸の棘を忘れられる。
だが噂は先に広がった。
ある日、フリッツが革袋のビールを持って来た。
「お前、大丈夫か」
「機械いじりで寝不足なだけだ」
「そういう意味じゃねえ」
フリッツは声を落とした。
「森に光る女がいて、お前が入れあげてるって話だ」
「噂だ」
「教会が聞きつけたら終わりだぞ」
翌日、ギルド会館へ全員が呼ばれた。油と鉄と革の匂いがするはずの場所に、その日は別の匂いがあった。
長机の向こうに並ぶ長老たちの顔は石のように硬い。
「ハンス」
名を呼ばれ、前へ出る。
「お前の功績は認める」
そのあとに浴びせられた言葉は、賞賛の裏返しではなく、露骨な拒絶だった。
「森の魔女と通じているそうだな」
「異人の情夫に、この街を守る資格はない」
「異界の技を混ぜた巨人は、もはや我らの巨人ではない」
「外から来たものは、いずれ街を売る」
最後に、市長であり裁判長でもある老人が言った。
「その女と縁を切れ」
ハンスは答えた。
「嫌です」
空気が凍る。背後で誰かが息を呑む。フリッツの声が小さく飛ぶ。
「今ならまだ……」
「嫌です」
本当はもっと言えた。あれは魔女ではない。教会の学僧が百年かかっても届かぬ知を持っている。女の知恵なしに、この街はいずれ滅ぶ。だが言っても無駄だと分かっていた。理解する気のない者に理解を乞うのは、力の無駄だ。
「ならば去れ!」
追放はその場で決まった。ギルドからも、街からも。
夕暮れのリーゼンレーベンを一瞥し、ハンスは工具と衣類と、女にもらった小さな部品だけを背負って門を出た。鉄の聖マリアは、自分の手で解体させられた。
背後から罵声が飛ぶ。
「魔女狂い!」
「竜殺しの面汚し!」
石が肩に当たる。痛かったが、振り返る気にもなれなかった。
森へ向かう。光のあるほうへ。
その夜、女は何も言わずに肩の傷を洗い、痣へ冷たい布を当てた。
「戻れなくなったのね」
「最初から、あそこは俺の場所じゃなかったのかもしれない」
しばらく沈黙があった。
「少し、ひとりにしてくれ」
ハンスはそう言って革袋を持ち、夜の森へ出た。
*
ハンスの不在は、ハンスの存在よりも住民を恐怖に陥れた。守り手の巨人が一機欠けただけで、人々は初めて、自分たちの繁栄が何の上に立っていたかを思い知った。竜は来ない。だが誰も安心できない。空のどこかで羽音がする気がする。夜風の音にすら怯える。
やがて恐怖は、理解できないものへ名前を与えはじめた。森の異人。光る女。魔女。悪魔の情婦。呼び方は何でもよかった。要するに、街の外にあるもの、自分たちの理屈に収まらないもの、それだけで十分だった。
人々は武器を取った。
魔女を殺せば、ハンスは戻る。街は元に戻る。
そう思いこむのは簡単だった。
森の家へ最初の松明が投げ込まれたとき、扉は内側から開いた。夜でもないのに、淡い銀の光が外へ溢れる。
女が立っていた。
「まだ理性が残っているなら、話し合いましょう」
静かな声だった。だが群衆はもう言葉の届く場所にいない。石が飛ぶ。罵声が飛ぶ。
「魔女!」
「ハンスを返せ!」
「街を呪いやがって!」
その瞬間、女の手にあった小さな装置が閃いた。音は小さい。だが先頭の男が弾かれたように倒れ、服を焦がしながら地面を転がる。
群衆は一瞬ひるむ。だが数が恐怖を上回った。
「魔女だ!」
雪崩れこむ。光が何度か閃く。だが一人倒しても二人、三人と押し寄せる。腕を掴まれ、脚を払われ、背を押され、ついに女は地へ引き倒された。装置は踏み砕かれ、縄がかけられる。女は抵抗しなかった。ただ呼吸を整え、目を閉じた。
連行は勝利の行進のようだった。
菜の花の刈り取られた畑を抜け、城壁をくぐり、大聖堂通りを進み、群衆は街の中心、城門前広場へ雪崩れ込む。
だが城門の奥から出てきたのは領主ではなく、うろたえた下男だった。
「領主様は……戦に出ておいでで……」
その言葉にざわめきが走る。
ギルドの親方が前へ出て叫ぶ。
「この女は魔女だ! 街の秩序を乱し、若者をたぶらかし、竜殺しを奪った!」
「処刑だ!」
誰かが叫び、その声はたちまち波になる。
*
森の縁でハンスは目を覚ました。夜露に濡れた土の上だった。足音が迫る。
「やっと見つけた」
フリッツだった。泥まみれで、息を切らし、目の下を黒くしている。
「何してやがる」
「聞け」
短く言う。
「女は、捕まった」
ハンスは動かなかった。
「裁判にかけられて……広場で燃やされた」
空気が止まる。
「戻ろう」とフリッツが続ける。「お前は巻き込まれてただけだ。頭を下げりゃ、なんとか……」
そこまで言って、フリッツは自分の言葉の軽さに気づいたように口を閉じた。
ハンスはゆっくり立ち上がる。
「……そうか」
「どこへ行く」
「小便だ。ついてくるな」
そう言って森の奥へ歩き出した。
ハンスが向かったのは、女の舟だった場所だ。擬態の解けた壁の内側には、まだ一体の機体が残されていた。蒸気釜も煙突もない。滑らかな四肢。人の形をしているが、リーゼンレーベンの巨人よりずっと人間に近く、同時にずっと人間から遠いもの。
彼は躊躇わず乗り込んだ。
応答は静かだった。だが確かに、機体の奥で何かが目を開けた。立ち上がっても、蒸気巨人のような轟音はない。ただ無音に近い動きで、全身が起き上がる。
家の天井を引き剥がし、それを背負う。
ハンスは山を登り始めた。森は次第に急な上りになり、やがて谷を塞ぐ巨大な壁へ出る。ボーデ川を堰き止めるダム。山々に抱かれた巨大な人工湖。壁のはるか下には、リーゼンレーベンの街がある。
ふと、ハンスは父の教えを思い出した。
石は力で割るんじゃねえ。弱いところを見つけて、そこへ楔を打ち込むんだ。
ハンスはダムの石積みの継ぎ目を見つけた。そこへ背負ってきた天井板を差しこむ。
一打。
鈍い音。
二打。
細い亀裂。
三打。
壁の内側で何かが動いた気配。
それでも打つ。無言で、同じ場所へ、執拗に。
やがて音が変わる。
ハンスは最後の一打を叩きこみ、壁の縁を走って山の斜面へ飛び移る。
最初は、細い水だった。継ぎ目から滲むだけの、ただの糸。
だがそれは太くなり、唸り、石を食い、裂け目を押し広げ、轟音へ変わる。壁はあっけないほど簡単に崩れた。奔流が谷を呑み、山を下り、岩も木も家畜も道も巻きこんで落ちていく。
その先に、リーゼンレーベンがあった。
*
街はもう街ではなかった。
石壁は崩れ、家々は砕け、通りは泥と瓦礫で埋まり、昨日まで鐘の音と人声と家畜の臭いで満ちていた都は、水の引いたあとに残るぬめった土と、裂けた肉の塊に覆われていた。大聖堂も、市庁舎も、城も、皇帝の離宮も、跡形もない。
ハンスは機体に乗って、その残骸のなかを歩いた。やがて、淡い光が見えた。
崩れた梁の下。泥水に半ば浸かりながら、女は横たわっていた。折れた木片が肩へ食いこみ、銀色の肌は泥に汚れ、それでも完全には曇らない。死にかけた星のように、わずかな光だけが輪郭を守っている。
ハンスは膝をつく。
頬へ手を触れる。
冷たい。人間の死体よりも、もっと静かで、もっと遠い冷たさだった。
「……見つけた」
そのとき、背後で泥を踏む音がした。
振り返ると、フリッツが立っていた。泥まみれで、顔の半分を乾きかけた血で汚し、怯えきった眼をしている。
「……やっぱりお前か」
「ああ」
フリッツはしばらく何も言えなかった。やがて掠れた声で吐き出す。
「処刑されたのは、嘘だ」
ハンスは黙っていた。
「お前を森から引きずり出すためだった。市長たちはあの女を地下牢へ繋いだだけだ。俺は……お前を探しに行って、見つけられなくて、街へ戻ろうとして……そのとき洪水が来た。木に登って助かった。戻ったら、もう何も残ってなかった」
遅すぎた。
何もかも。
ハンスは女を抱き上げた。
軽い。初めて抱いたときも、人間の女よりずっと軽いと思った。だが今の軽さは違った。中身がすでにこの世界から半分抜けたものの重さだった。
夕陽が西の山へ傾く。壊れた街のど真ん中で、ハンスは女を抱き、フリッツは少し離れた場所で、ただ座りこんでいた。涙のあとに何も残らなかった。
そのとき、街に影が落ちた。
二人は顔を上げる。
空に、巨大な舟が浮かんでいた。
翼も帆もない。滑らかな外殻を持つ、巨大な鉄の舟。夕陽を受けて鈍く光り、どこにも継ぎ目がない。それは鍛冶屋で作られたものでも、教会の尖塔でも、巨人でもなかった。それ自体が一つの天体のように、空を塞いでいた。
音はない。だが空気だけが震えている。耳ではなく骨の内側で感じる震え。世界の膜が擦れているような、荘厳で不穏な震え。
フリッツが膝をつき、震える手で十字を切る。
舟の下部が、ゆっくり開いた。
その奥から白い光があふれる。柔らかいのに容赦のない光。瓦礫も泥も死体も梁も、等しく白く照らしていく。
「来たんだ」
ハンスが、初めて感情のある声で言った。
次の瞬間、ハンスの身体が地面から離れる。泥から足が浮く。瓦礫の輪郭が小さくなる。フリッツが何か叫んでいる。だがハンスは応えない。ただ女を抱きしめたまま、目を閉じている。
二人の身体は光に包まれ、舟の内部へ吸いこまれていった。
光が閉じる。
巨大な舟はしばらく壊れた街の上に静止し、それからゆっくり上昇した。夕暮れの空の奥へ、菜の花がしぼむに、静かに消えていった。
*
その後、リーゼンレーベンに巨人は立たなくなった。
蒸気で動く巨人も、その造り方を知る者も、ほとんどすべて失われた。生き残った数少ない者たちは、フリッツのように神へ仕えるため修道院に入るか、鍬と斧を取り、ふたたび土を耕して暮らした。
やがて黒い死が国じゅうを覆い、人も獣も、竜さえも消していった。空を裂く影は二度と現れなかった。
それでも、フリッツが晩年に書き残した記録だけは残った。
後世の人々は、その史実をこう呼んだ。
――リーゼンレーベンの結婚式。
いま、菜の花畑に埋もれたこの田舎街は、土の下の旧市街を忘れぬために、一つの紋章を掲げている。
鉄の巨人。 その肩に立つ一人の青年。 そして傍らで光り輝く女。
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