梗 概
地球文献に基づく始祖イザナミ事績の復元的研究
本稿は、地球文明から入手した文献群を用い、根の国の起源を再検討する考古学報告である。始祖イザナミに関する地球の記述は敵対的偏見に満ちているが、我々自身の伝承が失った細部を多く含んでおり、批判的に読むかぎり史料的価値は極めて高い。以下、地球文献の記述に沿い始祖の事績をたどる。
一万二千年前、酸化的惑星の列島地域。沿岸の小集団で暮らすイザナミは、地殻変動で露出した嫌気性環境を見つけ、岩壁の微生物膜から滲む液体を口にした。嫌気性古細菌の代謝産物は好気性の生物にとって猛毒である。他にこれを口にした者もいたが皆死んだ。イザナミだけが生き延びた。ここは推測であるが、彼女の常在菌叢には硫黄代謝菌が多く、嫌気性代謝への橋渡しとなったのだ。色覚が閉じ、代わりに温度勾配の知覚がひらく。不可逆な代謝転換。地球人がのちに「黄泉戸喫」と呼ぶものである。
地上を去った彼女は地下へ降りる。地下にはすでに先住の嫌気性知性体がいた。燐光を放つ彼らを地球文献は「八雷神」と恐怖をもって記す。イザナミは彼らと交わり、後に地球人の音声と燐光が混じる第三の言語を生む。根の国の文明はここに始まる。
のちイザナギが降りてくる。イザナミは「見るな」と告げ暗闇で迎えた。嫌気性への転換には暗所での連続曝露が必要であり、共に醸されようという誘いだった。だがイザナギは火を灯し、変容した妻の姿を蛆と腐肉の群れと見て逃走。地球文献は彼の恐怖を克明に記している。
別れ際、二人は言葉を交わした。イザナミが「汝の国の人草、一日に千頭くびり殺さむ」と言い、イザナギが「一日に千五百の産屋を建てよう」と応じた。
数百年をかけ地下文明は成熟し、独自の言語体系が確立する頃、バイオミネラリゼーションで船殻を培養し推進剤と光圧帆を備えた。より自らに適した嫌気性の環境を求めて宇宙へ飛び立つ。地球人の神話でいう天の磐船である。ある氷衛星の地下海に至り、繁栄した。別れ際の問答は根の国の典礼に組み込まれ、意味の失われた聖句として一万二千年のあいだ唱え続けられた。誰もその意味を知らなかった。
イザナミが地下に消えてから、数万年が経った頃、地球人の探査機が氷殻に接近する。根の国は安全保障評議会を招集し、神話学者を招聘した。学者は聖句を分析したが根の国のいずれの言語にも属さないと報告した。評議会は紛糾の末、聖句をそのまま探査機に向けて送信した。始祖の祈りをもって応じたのだ。
聖句は地球のとある古代文献の記述と一致した。だがその内容は「一日に千人を殺す」という呪詛であった。根の国の聖なる祈りが、地球には宣戦布告としか読めなかったのである。以後の幾度にわたる争いは我々の記憶にも新しく、本稿の主題からは離れるため割愛する。ただ、幾度もの戦火を経てなお地球の文献を手にし、始祖の事績を彼らの神話と照合しながらこうして記せていること—それは奇跡というほかない。
文字数:1195
内容に関するアピール
着想の発端は古事記に記された「黄泉戸喫」の生物学的再解釈です。もし嫌気性環境の微生物を摂取し腸内菌叢が不可逆的に置換されれば、好気性の世界には戻れない——文字通り「あちら側の食物を食べると帰れない」。このモチーフは世界中の神話に共通しますが、嫌気性環境とは地下深部、硫化水素泉、そして宇宙空間です。黄泉の国に行くとは、宇宙に適応することだった。この転換を遂げて地球を離れた者たちの末裔の文明から、日本神話を逆照射するSF。
語り手はその別文明の考古学者。
本文での肉付けとして地球人にとって猛毒である硫化水素を「甘い」と感じる知覚、バイオミネラリゼーションで都市を「醸す」生活等、異星人視点を考古学者の筆致のなかに滲ませます。
読者の体験として、古事記を典拠としながら異なる生命の世界観を伝える専門性のある文体を目指すことで、異質さを際立たせ、既知であったものが別視点で裏返る驚きを表現したい。
文字数:394




