人との距離のはかりかた

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梗 概

人との距離のはかりかた

その惑星では、空間や時間の尺度が狂う《縮尺崩壊》が時折発生する。以下の文章は、ある日発生が観測された縮尺崩壊について、《縮尺崩壊調査官》が当日の様子を取材したものである。

 *

昼休み、教室では《定規戦争》が始まる。机の上に定規を置き、ペンで弾く。相手の定規を机から落とし合い、最後まで生き残った者が勝ち。それだけの遊びだ。

その教室の定規戦争には四人の参加者がいた。いつも異なる定規を用意する《文具屋》ロニ。かつて二本の三角定規で戦っていたが、ある日片方が謎の消失を遂げて以来、失われた定規を追い続ける《双剣》のジュール。地球から移住してきた少年で、祖母から受け継いだ竹尺を操る《ラストサムライ》のシン。そして、ステンレス定規を手に、近づく者すべてを最短経路で撃ち落とす《鉄の女》サナアだ。ロニ、ジュール、シンはサナアに憧れていた。

サナアは無口で鉄仮面な少女。他人との接し方がわからない。彼女の兄はかつて「時間はどこでも同じように流れるわけではない」と言い残し、縮尺崩壊に巻き込まれて行方不明となった。シンを初めて見たとき、彼女は兄を重ねた。孤立しながらも揺るがない、確固たる自分を持つ人間。近づきたい。同時に怖い。彼女の「守り」のスタイルは戦術である前に、彼女の距離感覚そのものだった。

定規戦争はロニがジュールへ攻撃を仕掛けて動き出す。ペンで弾いた直角定規は死神の鎌のように、ジュールの三角定規を襲うが、机上に留まる。ロニの直角定規はちょうどサナアの定規に喉元を晒す位置に落ち着き、彼女に早々に撃ち落とされる。ジュールは一度、サナアの定規から距離を取るが、シンの強力な一閃によりジュールも盤面から姿を消した。

シンとサナアが対峙する。膠着した盤面、シンの竹尺がサナアのステンレス定規を弾く。机上にかろうじて残った定規を、サナアはまるで自身が弾き飛ばされたように感じた。喜びとも悲しみともつかない、ただ距離がゼロになったことの感情の爆発。その瞬間、縮尺崩壊が起きた。

崩壊範囲は二人と机のみ。外界では僅かな時間が、二人の体感時間では約百五十億年に及ぶ対戦が続いた。無限に引き延ばされた空間と時間の中で、シンはただ一度、竹尺を弾く。百五十億年かけて竹尺はサナアのステンレス定規へ到達し、触れた瞬間に両者の定規は砕け散り消失した。チャイムが鳴り、縮尺が戻る。二人は机を挟んで見つめ合う。チャイムが鳴り終わると静かに自席へ戻った。

 *

この惑星の縮尺崩壊の原因は、未だ解明されていない。ただ、任意の生命の主観尺度と基準尺度のズレが臨界を超えたとき崩壊が起きるとする《縮尺地震論》は、当たらずとも遠からず、という気がしてならない。その後、定規を失った二人は戦争を引退した。今や二人は互いの距離を測らなくていい。二人は一メートルの距離を縮め、零メートルになった。調査官に気づいた二人は顔を赤らめ、こちらに走ってくる。

文字数:1198

内容に関するアピール

語り手
縮尺崩壊調査官。縮尺崩壊の発生現場を取材し、レポートする。崩壊による行方不明者(物)の条件究明が使命。

実作は脱落順に焦点を当てて書く。

ロニ
惑星の統括委員である彼の父は「《崩壊》は、距離を見誤った者を襲う」と忠告する。父の言う意味はわからないが、定規なら何でも買ってくれるため彼は素直に頷く。サナアにかっこつけたい。

ジュール
ある日彼はサナアに最後まで肉薄し、あと一歩で撃ち落とされた。机から落下中、45度の三角定規は消えた。彼にとって消えた三角定規は、憧れのサナアとの距離が最も縮まった瞬間の遺物だった。取り戻すため、失ったその日の再現に固執する。

シン
旧時代の希少な定規、竹尺を持つ。祖母は彼に「心に常に、一本の竹尺を持て」と言った。彼は物事の判断に迷うと竹尺を見つめた。地球の日本から来た彼は、最初周りに馴染めず虐められた。クラスで孤立していた彼を、サナアが定規戦争に誘ってくれた。

文字数:394

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人との距離のはかりかた

00.
 
 昼休みになると、その教室では《定規戦争》が始まる。
「誰が始めたのかはわからないし、いつからあるのかも、誰も知らない」

 最初に出会った少年に私が尋ねると、彼はそう答えた。私が続く会話を打ち返せずにまごついていると、少年は目に見えて私への興味を失い、くるりと背を向け走り去った。私と少年の距離は時間に比例して遠ざかった。

「要するに、つねにすでに、か」周囲に誰もいない空間で、私は一人呟く。
 いつからと確定できる始まりなしに。子どもの遊びというのは往々にしてそういうものだ。遊びが生まれ、育まれ、形を変え、そこにいる者がまるきり入れ替わり、何かしら引き継がれ、何かが失われる、学校とはそんな不思議な場所である。いつの時代も、あらゆる場所における学校が。だから、その教室で行われている遊びの名など、たぶん本質ではない。
 四人が集まり、ひとつの机を囲む。各々が机の角の位置に持ち前の定規を置き、手に握ったペンを使って定規を弾く。ターン制で1ターンにつき1回、定規を弾くことができる。そうして射出した自分の定規を、自分以外の定規にぶつける。定規が机から落下したら負け。最後まで机上に定規が残った者が勝ち。それだけの遊びだ。私がこれから記すのは、そんなありふれた子どもの遊びの記録について。もちろん、それだけではない。
 惑星ウィビル。そう呼ばれるこの星では時々、縮尺が壊れる。いたるところで、気まぐれに。《縮尺崩壊》と呼ばれ、局所的な空間において距離や時間の尺度が狂う。1ミリが100メートルになり、100秒が1秒になる。左と右が入れ替わり、明後日から昨日がやって来る。それはある教室、昼休みの遊びの場もまた、例外ではなかった。
 縮尺崩壊が起きた空間は周囲から断絶され、その時空は直接観測できない。崩壊に巻き込まれた人間はそのまま失踪する場合がほとんどだったが、稀に生きて戻って来た。こうして生還した人間の情報から、それが《縮尺崩壊》と呼ぶしかない現象であることがわかったのだが、ではそれが一体どのように、なぜ、なんのために起こるのか、どうすれば巻き込まれた人間が無事生きて帰ってこられるのか、まるで判明していない。
 ゆえに、私は《定規戦争》という小さな戦争を取材し、こうしてささやかな戦記を執筆するに至ったわけだ。縮尺崩壊の発生現場を取材し、崩壊の遭遇者の生還条件を突き止めるのが、縮尺崩壊調査官の役目なのだ。
 その日、その教室の定規戦争には四人の参加者がいた。いつも異なる定規を用意し戦う《文具屋》ロニ。かつて二本の三角定規で戦っていたが、ある日片方が謎の消失を遂げて以来、失われた定規を追い続ける《双剣》のジュール。地球から移住してきた少年で、祖母から受け継いだ竹尺を操る《ラストサムライ》のシン。そして、ステンレス定規を手に、近づく者すべてを最短経路で撃ち落とす《鉄の女》サナア。
 もちろん、これはある日ある場所で発生が観測された縮尺崩壊のレポートだ。

0
1.
  
 ロニはサナアが好きだ。自覚していた。二人の男子、ジュールとシンも同様にサナアのことが好き。同じ相手を慕う人間として、ロニにはそれが明瞭にわかる。彼は自身と二人の男子との差異を、好意の自認の有無と捉える。幼い彼らはその恋心を自覚していない。恋が何か、好きとはどんな感情か、まるで理解していない。真っ先に12歳を迎えた彼は、この点における優越を確信していた。
 彼はクラスの誰よりも裕福な家で育ち、誰よりもテストの点数が高く、誰よりも早く12歳になった。誰よりも大人に近い彼は、ゆえに己の恋心を認めることができた。
 定規戦争だけは、周囲に遅れをとった。
 彼は勝てなかった。弱かった。弱いことを認めなかった。所詮は彼もまだ12歳に過ぎない。
 定規戦争に勝つため、彼はこの星の統括委員の一人である父に頼み込み、あらゆる定規を買ってもらった。いつも異なる定規を使うため、気がつけば彼は周りから《文具屋》と呼ばれるようになった。
「物事に必要以上に熱量をあげてはいけない。《崩壊》はいつだって、距離を見誤った者を襲う」
 ロニの父は、彼にいつも忠告した。
「常に正しく、冷静に測りなさい。自分と物事、人と人との距離を」
「わかってるよ、パパ」
 ロニは父が言うことの意味がわからなかったが、とにかく定規が欲しいと言えばいつでも買ってくれたから、素直に頷いた。
 その日、彼が新たに用意して持って来たのは直角定規だった。ロニはジュールの定規に矛先を向ける。初手が肝心だ。この一手が序盤の戦場を形成することになるからだ。
「よし。いくぜ」
 両手でサインペンの両端を摘むように持ち、直角定規の端にペンを押し付け、弾く。接触しただけでは足りない。互いを押しつける力があってはじめて、摩擦は生まれる。ペンで弾いた直角定規は死神の鎌のように、ジュールの三角定規を襲う。三角定規の鋭角を芯で捉えるまでには至らず、数センチメートル弾かれた程度で机上に留まった。

 W = Fd
 
 摩擦しながら進んだ距離だけ、エネルギーは失われる。定規が机上を滑り、定規と衝突し、あるいはすれ違うたび、熱だけが余韻のように残る。
 目を瞑る。イメージする。まず、他の男子たちを自分が撃ち落とす。定規戦争でサナアに認められたい。そうして最後に彼女と一対一に持ち込み、優しく彼女を射抜く。完璧なビジョンだった。目を開けると、彼の三角定規をステンレスの定規が薙ぎ払うように弾き、くるりくるりと回転しながら机から落下した。
 ロニは直角定規が描く軌道を計算しきれていない。初めて使うのだから当然なのだが、誰よりも勉強ができるロニは、なぜかそのことに気がつかない。

0
2.

 
 ジュールを攻撃していたロニの定規がサナアの一撃により脱落した。ジュールの定規のそばにはサナアの定規が位置していた。彼は息を止めて盤面を見据える。
 三角定規を使う彼は《二刀流》と呼ばれていた。実質二つの定規を使うのはズルではないかという論争は、三角定規は二つで一組の定規であるとする「二位一体論」が学級裁判で採択されて終止符が打たれた。それから彼は、一躍定規戦争界におけるスター候補となった。彼は唯一無二の二刀流スタイルに自信を持っていたし、何より三角定規の機能美を愛していた。
「ふたつの三角定規を組み合わせると、平行線を引くことができます」
 かつて、彼の教師はそう言った。
「ふたつの三角定規を組み合わせると、垂直線を引くこともできます」
 ふたつでひとつ、三角定規があれば、並ぶことも、重なることもできる。
 ジュールはサナアに並び立つ、あるいは越えることもできると期待されていた。そんな最中、彼の半正三角形の三角定規は、ある日の定規戦争で忽然と消えてしまった。その日、ジュールはサナアに最後まで肉薄し、あと一歩のところで撃ち落とされた。半正三角形の三角定規が机の縁を越えた瞬間、落ちる速度を失った。まるで距離そのものが伸びているみたいに。そしてそれは床に接触する手前で消失した。
 彼は目を疑った。何度同じ場所を見つめても、彼の半正三角形の三角定規は見つからなかった。彼の脳内に《縮尺崩壊》の文字列が浮かぶ。もしも、極めて小さい範囲でのみ、縮尺崩壊が起きたのだとしたら? ありうる話だ。問題はそれだけ小さな範囲の物の消失の場合、縮尺崩壊調査官が出張ることは少ない。それにたとえ本格的に調査をしたところで、彼の失われた定規が戻って来る保証はない。というか、戻ってくることはまずない。
 ジュールは失われた三角定規の一刀を取り戻したい。彼にとってそれは単なる三角定規ではないし、定規戦争を戦い抜くための優れた道具でもない。消えたその三角定規は、サナアとの距離が最も縮まった瞬間を刻んだ遺物だった。彼にはその距離の意味を知らない。もう一度三角定規が1組揃えば、その時は何かを得られるような気がした。
「ふたつでひとつ、三角定規があれば、並ぶことも、重なることもできるんだ」
 直角二等辺三角形の三角定規のみで、彼は戦場に立ち続ける。
 そこに、かつての彼の強さはなかった。そもそも彼は勝利を求めていない。彼は三角定規を失ったあの日の再現を試みる。失われた定規を求めて、彼に思いつく可能性はそれしかなかった。
 サナアの定規から一度距離を取るように、ジュールは己の定規を弾く。二刀流時代は超攻撃的なスタイルを好んでいたが、一刀となってからは間合いを重視する守備的な戦術を採るようになった。態勢をまずは立て直す、そう考えた動きだったが、思った以上に力が入り、彼の直角二等辺三角形はぐん、と弾かれ、シンの定規のすぐ近くまで移動させてしまう。不幸なことに、次はシンのターン。ジュールは思わず天を仰ぐ。
「あーあ」
 既に脱落して一人の観客となっていたロニの声が彼の耳を撫でる。
 古い木でできた変わった見た目の定規が、彼の三角定規を机の上から吹き飛ばした。

03.
 
 シンは居合いのような鋭き一撃で、三角定規の片割れのみで戦う《二刀流》を撃ち落とす。
 ステンレス定規を使うサナアと彼の一騎打ちとなった。戦いを見つめていたクラスメイトたちは、さあここからが本番だと言わんばかりに前のめりになって机を凝視する。サナアは表情ひとつ変えず、盤面に視線を注ぐこともなく、左手に握られたペンをただ見つめている。シンは眉間に皺を寄せ、誰にも聞こえないほど小さなため息をつく。
 シンがまだ小さな子どもの頃、彼の一家は地球からこの惑星ウィビルに引っ越してきた。彼の名前の「シン」は地球の島国の言語の名前だ。彼はそんな故郷に起源をもつ定規「竹尺」を使い、この星の学校で繰り広げられる定規戦争に参戦した。竹尺は確かに彼の祖国の定規ではあるが、材料となる竹が希少化し、彼が子どもの時には既に製造されなくなっていた。彼の持つ竹尺は地球の日本に残った彼の祖母がくれたものだった。彼は祖母を愛していたし、祖母もまた孫を可愛がっていた。シンの一家が地球を立つことを決断し、祖母が地球に残る決意をした際、シンは滝のように激しく涙を流し、悲しんだ。
「心に常に、自分だけの一本の竹尺を持ちなさい」
 祖母はシンにそう言って、30センチメートルの竹尺を渡した。いつもほわほわと笑っていた祖母が、ただ一度、箴言めいたことを伝えた瞬間だった。しなやかで、されど硬い竹尺。シンは自分が物事の判断に迷ったとき、いつもこの竹尺を見つめた。そうすればいつだって、正しく物事を捉えられる気がした。
 ウィビルの学校に転校してきた当初、シンは周りにうまく馴染めなかった。故郷からはるかに遠く離れた惑星は、文化や風習、マナーから暗黙のルールまで大きく異なった。彼はクラスで孤立していた。陰口を叩かれたり、無視をされたりした。
「心に常に、自分だけの一本の竹尺を持ちなさい」と、彼は自らに言い聞かせた。
 他人を測るな。己を測り続けろ。祖母の言葉を、彼はそう解釈した。自分と自分が向き合っている。1本の竹尺が向き合う二人を結ぶ。次第に距離が離れていき、竹尺が延長されてゆく。彼は彼自身に手を伸ばすと、彼らの距離が今度は縮まってゆく。
「ねえ、よかったら、君も一緒に」

 クラスで孤立していたシンを、ある日サナアが定規戦争に誘った。

 彼は竹尺を抜き、定規戦争を戦った。彼の実力は周囲を認めさせ、彼女と唯一対等に戦える実力の持ち主として、《ラストサムライ》と、敬意をもって呼ばれるようになった。
 二人の対峙は一進一退しつつ、全体としては膠着状態に陥っていた。
 シンは竹尺を幾度も放つが、届かなかったり、強すぎて彼女の定規の上を乗っかりながら通り過ぎたりして、有効打にならない。

 ΔE = -Fd
 
 進むほど、エネルギーが減る。シンは幾度も、真っ直ぐに竹尺を放つ。その度にエネルギーが散ってゆく。会うたびに、何かを失い続ける恋人同士みたいに。
 それでも、その度ごとに距離だけは縮まる。収縮と離散を繰り返す。

0
4.

 
 サナアは無口だ。表情のパターンも乏しい。何も言いたいことが無いわけでも、何も感じてないわけでもない。ただ他人に対して何をどう言えばいいのか、その際にどんな顔をすればいいのか、わからないだけだ。いつも、誰に対しても。
 サナアは定規戦争における絶対的な強者だった。相手の定規と自分の定規の位置関係と距離、打ち手の次の次の座標まで脳内でシミュレーションした上で最適な選択を取る。周りから見れば、彼女のスタイルは徹底的な「守り」に見えた。自ら動かず、近づいた敵を最短経路で撃ち落とす。彼女は《鉄の女》と畏怖と尊敬の念を込めて呼ばれた。もっとも、彼女の定規は鉄ではなくステンレスだが。
「時間はいつでもどこでも、同じように経過するわけではない。過去から未来へと流れるわけでもない」
 サナアの兄は彼女に言った。
「どういうこと?」
「いつか、きっとわかる」
「ぜんぜん、意味わからない」
「だから、いつか、だ」
 それから、サナアの兄は姿を消した。兄は《縮尺崩壊》に巻き込まれた。行方不明者として、未だ生きて戻ってくることも、死んで戻ってくることもない。生きているかも、死んでいるのかも、誰にもわからない。
「ねえ、いつかって、いつなのよ」

 シンを初めて見たとき、サナアは彼に兄を重ねた。ただ一人孤独にも関わらず、まるでそれが何でもないかのように、確固たる自分のみを信じているかのように映った。周囲とどう関わればよいかわからず、くよくよ悩む自分とは正反対だ、と思った。
 シンをもっと知りたい。何を考えているの。何が好きなの。もっと近づきたい。わたしのこと、どう思っているの。同時に怖い。とても、とてつもなく。どうすればいいか、わからない。

 F_{max} = \mu_s N
 
 近づきたいと思っても、すぐには動けない。心にも静止摩擦がある。ある種の「限界」を超えるまで、何も始まらない。
 そういう「くよくよ」の一切を内に封じて、手に握るペンを見つめ、それからステンレスの定規をぱちん、と弾く。教室の天井から注ぐ照明の光を反射した定規がまっすぐに伸びて竹尺の角を擦る。ごく小さな接点の衝撃にもかかわらず、竹尺は足を踏み外したみたいにバランスを崩すが、机の中央付近からポジションは変えずに留まった。
 サナアはあらゆる可能性を計算する。その計算を一蹴するかの如く、シンの竹尺がサナアのステンレス定規を弾き飛ばした。机の上にかろうじて残り、九死に一生を得た。その光景をサナアは、まるで自分がシンに弾き飛ばされたように見ていた。机を俯瞰すると同時に、ステンレスの定規となった彼女が竹尺の彼と距離がゼロになり、衝撃を受ける。そこには喜びとも悲しみともとれない、ただ純粋な感情の爆発があった。ロニは思わず目を背ける。ジュールはあと少しで望みが叶うと言わんばかりに、二つの定規の衝突を凝視する。

 d = 0
 
 距離がゼロになるとは、単に接触を意味しない。境界が消えること。彼と自分とを分けていたものが、すべて同時に意味を失う。
 その時、《縮尺崩壊》が起きた。
  
 崩壊範囲は二人とテーブルのみ。無限に伸び続ける時間の中で、シンとサナアは向かい合っていた。二人の立ち位置は幾度となく変わり、左と右と上と下が反転し、あちらとこちらが繋ぎ合わされ、離散しながらも、二人は決して交わることなく、ただ間隙の距離の数値が変動し続けた。動点問題の点PとQのように。しかし他方で、動くのは二点だけではない。二点が移動するためのレールとなる空間もまた、形を変え続ける。
「ここは」シンが言う。「まるで心の中みたいだ」
 サナアの場所まで、その声は届かない。
「ねえ、今は」彼女は言う。「いつ、なの?」
 小さな点となって消失点に吸い込まれゆく彼女を、シンは目を細めて見つめる。
 ただひとり、サナアは崩壊した世界で、手に握られたサインペンを見つめていた。ふと、視界の境界線にフラッシュを観測する。あちらで煌めき、こちらで瞬く光があった。それは彼女のステンレス定規だった。誰もいない世界。手元にペン。遠くに、それでも、自分からつかず離れずの場所を彷徨う相棒。
「あなたのことを」「もっと知りたいの」
 サナアは呟く。
 遠く離れた場所から、自分の声が聞こえた。そんな気がした。

 t = \frac{d}{v}
 
 距離が遠ければ、届くまで時間がかかる。もしも、たとえ、気持ちが同じだったとしても、「わたし」と「あなた」までの距離が違えば、必要な時間も変わる。
「まだ終わっていない」シンは叫ぶ。
「戦いは」サナアは振り返る。「ねえ、よかったら、」
 シンは答える。「一緒に」定規を机の上に置く。机の向こう端は霞んで見えない。
 
 ただ一度、シンは竹尺を弾いた。
 
「いつか」サナアは言う。ふと視線の先に、彼女のステンレス定規があった。
 限りなく無限に近い有限に引き延ばされた時間を、限りなく伸び続ける空間を切り裂くように、彼が弾き出した竹尺が彼女のステンレス定規に辿り着く。その時間、体感で約百年。百年かけて届いた竹尺は、ステンレス定規に触れた瞬間に閃光を撒き散らして砕け散り、一瞬にして消失した。
 チャイムが鳴った。世界の縮尺が正常に戻る。昼休みが終わり、幾度も繰り返される、ひとつの定規戦争も終結した。彼と彼女は小さな机を挟んで、真っ直ぐに見つめ合っていた。二人を隔てるものは何も無いと言わんばかりに。チャイムが鳴り終わるまで、二人の視線は縫い合わされたようにほどけることなく結ばれた。
「いま、わかったよ」サナアの声は教室の喧騒に溶けて、何にも、何ひとつ、痕跡を残さない。
 チャイムが鳴り終わると二人は自席へ戻っていった。

05.

 
 この惑星では、なぜ縮尺が狂い、あらゆる次元の縮尺が崩壊する現象が起こるのか、未だ解明されていない。様々な研究者が仮説を唱えてはいるが証明されるには至らず、大きな枠組みではそういう現象がただ起きるのだ、としか言えないのが素直な実情だ。
 人類が地球外惑星へ進出しだしてから千年が過ぎた。当初はある程度拡散した人類は、結局いくつかの有望な環境をもつ惑星に集約されるだろうという予測が優勢だったが、今の所その予測は外れている。むろん、今後はわからない。惑星ウィビルに関して言えば、この縮尺崩壊を除けば、極めて理想的な環境だと言えた。だからこそ、縮尺崩壊の解決はあらゆる星の人々の関心のひとつだった。
 幾何学、測地学、計量学、物理学、そして数学、あらゆる専門家がこの惑星に結集し、日々研究と議論を交わしている。彼らは縮尺時空学者と呼ばれた。そんな星に住まう子どもたちだからか、あるいは関係ないかもしれないが、あらゆる星と同じような見た目の学校の教室の昼休みの遊びに、消しバトでもバトル鉛筆でも下敷き卓球でもなく、定規戦争が選ばれたというのは、なるほど必然かもしれない。
 そんな惑星における縮尺崩壊調査官の「私」は、その肩書きからイメージされるほど立派な職能を持つわけではない。縮尺崩壊の究明がミッション、と言いながら、現実的にそれを解き明かすのは学者の仕事だ。私たちはそのための材料を、ひとつずつ用意することが主な役目だと言える。
 だから、以降のテキストは少々度が過ぎた真似かもしれない。
 数多の仮説のうちのひとつの言説に、観測者によって尺度は異なる《観測主体説》を前提にした上で、生命の主観に基づく尺度と基準尺度のズレが一定以上を超えた際に、基準尺度が主観尺度に引っ張られ、もとに戻ろうとする際の反発が《縮尺崩壊》を引き起こすとする、《縮尺地震論》と呼ばれる思想がある。
 私は改めてここに議論の俎上にあげる価値があると提言する。今回のケース《定規戦争》における観測データは、重要な示唆を与えているのではないか。
 縮尺地震論において、最も広く参照されるのは次の基準尺度方程式である。

 S(x,t) = λ₀ · e^(α / d(x,t))
 
 ここで S(x,t)は任意の時空点における基準尺度(客観的な物差し)、αは観測主体の主観尺度と基準尺度の乖離量を示す。分母となるd(x,t)はすなわち「対象との距離」だ。サナアとシンの衝突において、心理的・物理的距離が極限までゼロに近づいた瞬間、尺度係数は数学的・物理的な特異点を形成し、爆発的に発散した。
 サナアの兄への思い、シンの祖母への愛、二人が向き合った瞬間の感情の「向き」。サナアの兄がかつて語った時間の非線形性、さらにはジュールの過去への執着と、ロニが夢想する恋の未来。それらの主観の指向がひとつの机上に集約され、縮尺崩壊が発生した。もちろん、人間の感情が頻繁に世界に歪みを引き起こすなどということが、多くの人類にとって到底受け入れられない話なのは間違いない。
「それでも、そんなことがありうると、あるいは言えるかもしれない」私は呟く。
 本ケースを取材しレポートを担当した私は、そう述べないわけにはいかなかった。ひとりひとりの子どもたちが語りかける言葉の記録は、実に豊かな感情を人間は持っていることを示した。時に、それは世界を崩壊しかねない。たとえそれがごく小さな世界だったとしても。それに、崩壊した世界から奇跡的に帰還することだって起こりうるのだ。
 
 後日談を少しだけ。一連の取材を終えてレポートをあらかた執筆し終えた私は、再び彼らの学校を訪れた。ロニだけでなく、ジュールもサナアも12歳になっていた。シンは来月12歳になる。
 竹尺とステンレス定規を失った二人は定規戦争を引退していた。彼らは例え定規を失ったとしても、その心に確かな一本を宿したのだろう。二人は今や、互いの距離を測らなくていい、適切な距離をみつけたのだ。今、私の前にいる二人は一メートルの距離を互いに縮めてゆき、やがてゼロメートルになった。私が二人を見つめているのに気がつくと、二人はパッと離れ、顔を真っ赤にして私との距離を詰めるように、こちらに走ってくる。

文字数:8938

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