桜人

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梗 概

桜人

神々が桜の下で宴に興じる中、木花の神・木花之佐久夜毘売が一つの物語を語る。

桜は温暖化と樹齢の高齢化の影響で自然から姿を消しかけていた。霞野日和は高校二年生の春の夜、忘れ物を探すため校舎に忍び込んだ際、桜の下で骨を手にした春原朔也と出会う。翌日朔也は誤解を解くため百人一首の勝負を挑み、それをきっかけに二人は文芸部で距離を縮め、やがて朔也から揃いの指輪を贈られ、二人は恋人に。

卒業の日、上京する日和に対し、朔也はこの地に残ると告げ、自身の秘密を明かした。自分は死ぬと遺体から新種の桜が育つ桜人であり、桜事業で太古から栄えた花守族に作られた最後のクローンであること。十八の時、死に際の父からその事実を知らされ、桜人の存在を確かめるため、あの日桜の下を掘っていた。日和は、朔也と肌を重ねた際の不可解な嫌悪感の正体を、自らの子が桜になることへの本能的な拒絶と悟る。愛し合いながらも卒業後ほどなくして二人は別れる。

数年後、本土では桜が咲かなくなり、数も激減。そんな折、朔也の訃報が届く。クローンである彼は短命だった。日和は彼が咲くこともできない桜になることを恐れ、遺体を盗み出し、開花の可能性が残る北海道の山中に土葬。

死体損壊・遺棄で逮捕され、出所後再び訪れたその場所には見事に咲いた一本の桜。枝の一本に嵌められた指輪を見つけ、日和はそれがやはり朔也であると確信する。

樹木医となった日和は、日本に桜を蘇らせることに心血を注ぐ。理研と温暖化に適応した低温要求性の低い新種の研究をするが、既に多くの種が消え、既存種の掛け合わせには限界が。新種の系統が不可欠だが、桜人の血族は朔也で途絶え行き詰まる。

日和は死後に自分が新しい桜になれるかもと考え、賭けで朔也の桜遺伝子を自らに取り込む。ついに北海道でも桜が咲かなくなり、やがて桜は人々から忘れ去られた。日和は山を買い取り、咲かない朔也を手入れしながら歳を重ね、死後この桜の傍らに土葬されることを望む。彼女の指には朔也からの指輪が嵌められていた。

数十年後、彼女は死んで新しい桜になった。朔也と日和の桜遺伝子の交配から、温暖化に適応した新種の桜が生まれた。それは日本中に広がり、再び春の風景が戻った。

物語の顛末を語った毘売は、神の彼女しか知らないことを話す。本来日和の賭けは失敗していた。もし朔也の遺伝子で桜になってもクローンとなり、自家不和合性で交配も不可能だった。

しかし日和は太古に枝分かれした桜人の子孫だった。二人が結ばれなかったのは、桜人同士で子を成せない性質を本能的に感じていたからだ。だが桜になればその制約は関係無く交配は成立する。人間として結ばれなかったからこそ、今こうして桜は再び咲き誇っている。

山を登ってくる人々の声が響き、神々は宴から去る。毘売は一対の指輪を宿す二本の裸の桜にそっと触れ、彼らが遺した美しい桜景色に感謝を告げ、静かに姿を消す。

文字数:1195

内容に関するアピール

桜の季節です。日本人が愛する桜ですが、歴史的に幾度か危機にあり、現在再び危機が迫っている事を出発点に構想しています。タイトルの読みは「さくらびと」です。

以下、語り手の説明と設定の補足です。

語り手:木花之佐久夜毘売。花見で神々が寝静まった中で静かに語り、数人の神が耳を傾けている状況。二人の物語を神という第三者視点で、聞き手の神からの合いの手に応対しつつ、情報を補完しながら語りを進行します。

桜人:遺体から発芽、遺体を養分に桜となる。必ず新種で美しく育つため高い価値を持つ。日本では明治以降火葬率が高く、花守家以外には認識されていない。(文献等に記載あっても創作・眉唾として解釈されてきた)

桜の増え方:通常桜は交配や接ぎ木で増え、桜人の桜も植物として同様に交配可能。(=全ての桜が桜人ではない)

花守家:太古から桜人の秘密を知り、遺体から生まれる美しい桜を利用して成長した桜農家の一族。

文字数:391

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遺桜

霞野日和は待っていた。

下校した後、高校の最寄りから一駅隣の駅舎で小説を読みながら時間を潰す。駅舎の窓から見える山の上が赤くなり始めていた。彼女が通う浅間高校はかつての身延線の沿線にある山梨の県立高校。殆どの学生は自転車通学だが、日和は電車で通っていた。

駅の灯がチカチカと瞬きを始め、夕日が山に隠れたかと思えば、あっと言う間に辺りは目を擦ってようやく見えるかくらいの暗さになっていた。田畑を抜けて真っ直ぐ学校まで一駅分続く道に沿って歩き出す。

学校に着くと校舎の正門を裏にまわって、慣れた足つきで柵となっているネットを軽く超えていき、静かに校舎に向かっていた。日和がこうやって校舎に入ったのは一度や二度ではない。校舎は夜間になると非常口の緑色の明かりが点灯し、暗闇の中での目印になっていた。そして日和は、C棟校舎の理科科室の横にある廊下の窓の鍵が壊れていることを知っていた。

職員室の灯りも消えており、もう問題ないと日和は校舎へ向かっていく。いつものように窓を開け、壁の突起に足をかけて乗り掛かり、スパイ映画さながらに静かに校舎の中に入り込んだ。

日和は夜の校舎に来る度に高揚を感じていた。昼はあれほど生徒で騒がしく溢れかえる校舎がこうして沈黙している。この日常と非日常の距離感が不思議な感覚を生んでいた。皮肉なことに、今のような境遇になければ、この感情を知らないままであっただろう。

日和はクラスでいじめに遭っていた。教科書や上履きを隠されたり、無視されることもあった。物静かで文句を言わなかった日和は、多感な高校生にとって丁度良いストレスのはけ口になっていたのかもしれない。学校に忍び込んでいるのは、宿題に必要な教科書を探すためだった。翌日の英語の授業のためにやっておかなければならない。宿題を忘れて、もし何か恥をかけば、それは更に一つのいじめの口実となるかもしれない。

自分の所属する三年D組の教室につき、テレビの下や教卓の中など、教室中の至る所を探した。そして教室の左後ろにある掃除用具入れの底の部分に置かれた教科書を見つけた。埃を払いながら、鞄に教科書をしまった。

日和は自分の境遇に疑問を抱いた。なぜ自分がこのような目に遭っているのだろうと。それは怒りというよりも素朴な疑問であった。この世界の全てのことが少しずつ狂っていて、その間に生じた”歪み”の隙間に自分が落ちてしまったのだろうか。この境遇を憎む気持ちも少なからずあったが日和は復讐しない。しかし取り合わないということが、自分をいじめている人間たちを認識しないことこそが、彼らに対して最大の復讐になり得るのではないかと心の底では思っていた。何かをやり返せば更に状況は悪くなる。こうして静かにしておくことが得策ということがある。

廊下を出て、入ってきた窓に床を強く蹴って再び足をかける。中庭を通っていくと、仄かに光っている電灯が見えた。日和は月光に照らされた染井吉野の樹を見た。この学校で数々の生徒の出会いと別れを見送ってきたその桜。その太い幹には静かだが確かな強さを感じさせた。

その時、微かに光が揺れた。日和は誰かがいることに気がついた。 思わず、誰、と日和は尋ねた。その声に応えるように影が歩み出ると浅間高校の制服を着た青年だった。自分と同じように学校に忍び込んだ人間かと思った。その手に持っているものに気がつくまでは。

男の手には白く弓のように緩やかな弧線を持った物体。両端が少し膨らんでいるそれが骨だと気がつくまでに時間は掛からなかった。彼の足元には染井吉野の根元に差し込まれたスコップ。そして真っ黒に凹んだ深い穴のようなものが見えた。 異常を感じた日和は考えるよりも前に一目散にその場から逃げた。何かを直感した。青年は追っては来なかった。

男の名前は春原朔也。逃げ出した彼女と彼が再び出会うのはすぐのことだった。

—-

日和はいつものように電車に乗り、登校をする。窓の外に広がる緑の田畑を眺めながら、昨晩の出来事を思い出す。今は宿題のことなどは頭に無かった。それ以上のことが起きたのだ。

一度授業が始まれば、日常に埋もれている内に、現実が彼女を侵食した。誰ともほとんど話すことがなく終わる一日。存在が彼らの視界からそこだけぽっかりと除外されているような、時に突き刺さるような冷ややかなクラスメイトの視線でさえも、それが日常になれば空気と変わらない。自分がその内にいること、その空気を吸って自分が生きているのだということを忘れてしまう。

六限の終業のチャイムが鳴るとほぼ同時に日和は、教室のあるB棟の向かいにあるC棟、三階の廊下のつきあたりにある家庭科準備室へと向かった。準備室に着くや否や黒い大きなテーブルにカバンを置き、教室の入り口の鍵を閉める。カシャという音を聞くと、ふうと小さく息が漏れ出る。二冊の本を鞄から取り出して読書を始める。

日和は文芸部の部員だった。ほとんど使われていない家庭科準備室は部室兼活動場所となっていた。窓の隙間から風が入ってくるように、運動部の生徒たちの掛け声が入ってくる。程よいノイズは日和にとっては静寂の条件だった。本に入り込みながら、しばらく日和は自分だけの時間を享受したが、その安寧も破られてしまう。

突然ノックがする。この部室に滅多に人など訪れることはない。予期せぬ来客に、日和は居留守を使おうとするが、霞野さん、という確かな掛け声を聞いた。

まさかと思ったが、もう一度「霞野さん、いる」と言葉の輪郭をはっきりと聞き取った。磨りガラスになった入り口の窓からはお互いの様子は見えない。足音を立てずにそっと入口のドアに近づく。錠が掛かっていることを確かめながら、ドア下にある通気口を覗きこむ。

そこに見えた男子の制服。通気口はブラインドのように返しになっているので顔までは見えなかった。日和は逡巡するが、結局自身の何か変わることを求めていた。

彼女は鍵を解いてドアを開いた。そこに立っていたのは昨晩に見た「骨の男」だった。自身より高い上背に、中性的で薄いがどこか印象に残る顔立ちをした青年。日和は昨晩のことかもしれないと思い、一歩後ずさる。昨晩に何か都合の悪いものを見られたから、ここに来たのかもしれないと危険を感じる。

「どうも」

と日和の目を見ながらそう挨拶をする男。間違いなく昨日の男であった。

「三年D組の春原っていうんだけど」

彼は日和と同じ学年の生徒だった。友達のいない霞野に他クラスの人間など頭に入っていなかった。ただ朔也の口調からは敵意や害意のようなものは感じられなかった。

「何か用」

と日和が声を絞ると、少し迷ったようなそぶりを見せながら、

「昨日の夜、学校にいたよね」

と言った。やはりそのことか。一体どう答えるべきなのか、日和も同じく迷って、思わず下を向いた。そうしてしばらくの沈黙が続いていると、ちょっと弁解がしたくて、と続けて朔也は言った。

弁解。その言葉を聞いて少し思っていたのと違う展開だと思う。日和はひとまず言葉を捻り出した。

「入って」

家庭科準備室とは名前だけで、実際には物置に使われているような場所だ。朔也は初めて入る教室の中を見渡す。壁の戸棚には幾つかのミシンが並んでいるが、その他には辞典のような大きな本から、小さな文庫のような本が本棚を埋め尽くしていた。芥川や漱石、三島といった文豪から、朔也が知らないような外国の作家の本も並んでいた。

「ここは何してる場所」

「文芸部の部室。活動場所でもある」

そう返しながら、少しぶっきらぼうに聞こえたかも知れない、と日和は思う。学校の人と話すことは少ないから、口が思うように動いていないかもしれない。

「この学校に文芸部なんてあったんだね」

「部員は私しかいないから。廃部寸前なんだけど今年まで逃げ切りたい」

日和は文芸部員だった。浅間高校は全員が何かしらの部活に所属する規則があって、日和は仕方なく、文芸部に入った。当時から廃部寸前だったが数少ない先輩たちも親切で温かかった。自分の味方になってくれた人たちだった。

そして先輩たちがいなくなった後は、今度は自分一人で殻に籠ることができる。人と積極的に関わりたくない彼女にとって、文芸部は都合が良かったのだ。

「それで昨日のことなんだけど」

机に並んだ背もたれのない椅子を引いて、朔也は腰掛けながら本題を持ちかけた。

「ごめんやっぱり聞きたくない。きっと何かの事情はあったんだろうし」

日和は朔也の目を見ずに言う。人と関わりすぎても良いことはない。これは日和の経験則。

「それに必要以上に踏み込みたくない」

その言葉に突き放されて、距離を置かれたような気がして朔也は黙り込む。 再び痛いほどの沈黙が続き、朔也は再び口を開いた。

「そこにある百人一首。霞野さんできる?」

朔也からテーブルを挟んだ向かいの戸棚に収められ、小倉百人一首、と書かれた箱があった。古典の授業で使われることのある百人一首がそこには収められていた。

「先輩に教えてもらったことあるから別にルールは分かるけど」

「百人一首で僕が勝ったら、昨日のことを聞いてくれよ。もし負けたら聞かなくて良い」

朔也は勝負を持ちかけた。突然の申し出に日和は戸惑う。

「その勝負を私が受けるメリットある?」

「過度に関わりたくないんだろう。もう叫んであげようか」

「それって脅しじゃん」

「まあそうはしないけど。うーん、そうしたら僕が負けたら文芸部に入るよ」

「いやそれも迷惑なんだけど。私は一人が良い」

「でも部活動審査とかで存続が危ないんだろ。部員が増えればアピールになるし、多少は安心だろ」

「うーん。まあ、それはそう」

日和は押しには弱かった。それを察した朔也は戸棚から百人一首を取り出して、箱の蓋を開けた。四つの山に割られた絵札と字札が顔を出す。

「この勝負をもちかけるってことは、春原くんは強いの」

「からっきし。本当はやるのも初めて。ただ百人一首の句は好きで全部覚えてはいる」

その三十一文字という短い言葉の中に込められた、当時の人々の感情や風情。そしてそれをわざわざ歌にして人に伝えようとした心意気が朔也は好きだった。

「じゃんけんとかでも良かったんじゃない」

「そうかもね。ただ霞野さんとはもうちょっと話してみたかったから」

日和には意外な言葉だった。一体彼に関心をもたれるようなきっかけが、昨晩以外にあっただろうか。とりあえず机の上に取り札を並べていく。朔也は携帯を取り出して、読み札を読み上げるための動画を探して立ち上げた。

「まあ気楽にやろう」

そう言って始まった百人一首対決はぎこちなく進んだ。うろ覚えの暗記でのお手つきや、あれそんな札あったっけといった迷子の札探しになるなど、時に二人は笑った。 ”いにしへの~” その冒頭を聞いて鋭い手つきで朔也が取札を叩く。日和は全く動けなかった。

“いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな”

とは伊勢大輔が詠んだ句である。

「張ってた?」

「張ってた。お気に入りなんだ。いい句だよね」

「ここ山梨だけどね」

人間の作った百人一首には当時の人々の感情が豊かに織り込まれている。そのまま進んだ二人の百人一首対決は一時間ほど続いた。勝ったのは日和であった。

「というわけで真相はお預けで」

日和は少し満ち足りたような感情でいた。それは真相を聞かずに済むという安心というよりは、この時間に対して感じているような気がした。

「勝負だから仕方ないな」

「でも大丈夫だよ。春原くんも普通の人だってことが分かったから。何か理由があったんでしょう。どんな事情かは想像つかないけど」

「それが伝わったんなら、まあ良しとしよう」

朔也は日和と仲良くなりたいと思っていた。そして嫌われたく無かった。違った形で目的は果たされたと思った。真相は重要ではないかもしれない。

「それで活動日はいつなの」

「本当に入るの。無理しなくても良いよ」

「いいよ、勝負だったし。それにこの前に転校してきたばかりだから、何か部活は入らないといけないんだよね」

転校生と聞いて、どうりで知らない訳だと思う。

「転校生さんでしたか。適当に来れば良いよ。活動の事実は要るから、私も週三回くらい部室来て本読んでるだけ」

そんな部活が成立しているのも不思議だなと朔也は思う。

「漫画の文芸部とかでよく見るけど、文集とかも出すの」

「さすがに本読むだけじゃ部活にならないからね。夏と冬に一回ずつだすよ。春原くん好きな作家は」

朔也は最近読んで好きだった本を思い出す。

「太宰とか」

「太宰かあ。若いなあ。皆が一度は通る道」

「あとは基次郎」

「基次郎?」

「梶井」

「か・じ・い。ああ、梶井基次郎か。渋いな。結構ちゃんと本を読んでそうだね。私も檸檬は読んだな」

文学好きな日和は文豪トークが好きだった。先輩たちがいなくなって、鳴りを潜めてしまっていたわけなのだが。ダムが決壊して、自然と言葉が口から溢れて出てくるように日和は感じていた。

「だから桜の木の下を掘ってたってこと?」

「それは偶々だ」

—-

こうして春原朔也は文芸部に入部をし、二人はこの教室で徐々に距離を縮めていくことになる。朔也は幼少の頃に彼女と会っていたことを知っている。日和の方は覚えていないようだったが。転校してきて彼女を見たときに、幼少の頃の記憶が蘇ってきた。その時も桜の下での出会いだった。

朔也は中々大胆な人間だった。日和がいじめられていることを知るや否や、それを勇敢に止めさせてしまった。彼は周囲に慕われる人間だった。

日和と朔也の関係性は傍から見ればもどかしいものだった。時に一緒に街に遊びに行ったり、祭りに行ったり。お互いが強く惹かれ合っているにも限らず、どちらも最後の一歩を踏み出せない状況だったのだ。大胆であるはずもその一歩には朔也は慎重だった。

朔也は”秘密”もまだ明かしていないままだった。

文化祭は二人の関係性を前進させる格好の起爆剤となった。浅間高校は地元では知名度のある進学校でもあったから、その文化祭には在校生の友だちや家族、卒業生なども沢山訪れた。文芸部では自分たちで作った文芸誌を文化祭で販売した。誌の名前は ”黎明” といった。

しかし校門から最も離れたC棟の最奥にある部室は場所が悪かった。せっかく刷った文芸誌も売れない。一日目に顧問の先生が顔を出して一部買ってくれだけであった。

そこから二人は自分のクラスの担当以外で外す以外はこの教室にいるが、面白いほどに誰も来ない。道に迷ってきた人に親切にしてみても、部誌は買ってはくれなかった。静かな部室は賑わう校舎と断絶された異世界にいるかのようだった。

「最終日も誰も来ないね。春原のクラスメイトも」

日和は少し安心もしていた。知らない人と関わるのは得意では無いし、自分の書いた文章を読まれるのもなんだか気恥ずかしかった。 待っていても誰も来ない。しびれを切らした朔也はついに段ボールに黎明を詰め、段ボールの側面に一冊五百円とマジックで大きく書いた。

「もうこっちから行くか。霞野も行こう」

といって朔也は、日和の手を引いて部室を出た。朔也はクラスの友だちやその家族を上手く口で丸め込みながら、黎明をまた一つと売り捌いていった。段ボールに詰められた部誌はどんどんと減っていた。その後ろに日和はついていきながら、時々「文芸部です」と声を絞り出していた。

朔也の意向で強気に三十部刷られた黎明も、文化祭が終わる頃には、なんとか完売させることが出来た。後夜祭が始まる頃には二人は家庭科準備室に戻っていた。

「すごいね、春原。全部売っちゃうなんて」

あれほど高く聳え立っていた黎明が今は跡形もなくなっている。空になった段ボールを見ていると思わず、日和は笑いが込み上げてくる。

「まあ友だちだからね。五百円くらいなら頼み込めばなんとかなるって」

「やっぱすごいなって思ったよ。なんで私と仲良くしてくれるのか分からなくなっちゃうくらい」

「んな事言わないでよ、日和」

ひより。ひ・よ・り。さりげないその言葉は耳をすり抜けようとしたが、追いかけてその手で掴む。

「ひより?」

春原の顔を見ると、今まで見たことないくらい紅く染まっている。耳まで赤い。それはカーテン越しに差す西日のせいか、あるいは。 朔也はまっすぐ日和の目に向かって言う。

「日和が好きだ」

そうして朔也は右のポケットから何かを取り出す。

「手を出して」

日和は言われるがままに右手を出す。そうすると少しひんやりとした重みがその手に乗る。それは小さな指輪だった。どこかでそれには見覚えがあった。

「前に甲府に行った時に見てたから」

この人の視界にはきちんと自分がいるのだなと日和は嬉しくなる。

「いきなり指輪?重くない」

それは照れ隠しだ。

「うるさい」

二人の関係は、確かに前へ進んだ。

—-

高校生二人の交際なんて有り触れたもの出会った。一緒に帰ったり、休みの日に遊びに行ったり、一歩ずつ、時には半歩でも大人の階段を登るというだけ。文化祭、受験、あっという間の時間が過ぎ、二人は高校の卒業を迎えていた。卒業式が終わった後、二人は久しぶりに部室に来ていた。文化祭が終わって、部活動自体は引退となっていたからだ。しかし部活がなくても朔也と一緒にいたから、あまり引退したという自覚もなかった。時々本を読みに来ることがあった。

変わらない姿にこれからもこうあってほしいなと日和は思う。

窓の外の中庭では、桜の下で写真を撮っている卒業生が見えた。二年生までは学校に来ることは辛かったが、こうして終わってみればそんなに悪く無かったかもしれないと日和は思った。

戸棚を見ていた朔也が切り出す。

「もう一回、百人一首をやろう」

その手にはいつしかの小倉百人一首の箱。

「懐かしいね。結局一年前から一回しかやらなかったね」

「そこで俺が勝ったら、一年前の秘密の話させてくれ」

秘密の話。急にその言葉に引き出され、朔也との出会いの日を思い出す。暗闇の中、中庭の桜の下で白い骨を持った朔也。

「そんな話もあったね。いいよもう別に気にしてない」

日和は今が満ち足りていた。変化は望んでいなかった。

「僕が気にしてるんだよ。割と大事な話」

大事。そう言われてしまうと少し不安を掻き立てられる。しかし半年以上交際をして、彼の人間性は理解できたと思っていた。親切な善人。今更に何か大きな亀裂が入るとは思えない。

「じゃあいいよやろう。ちょっと聞くのは怖いけど」

一年前と同じように二人は百人一首を始める。しかし前回と大きく違ったのは、朔也の手つきが手慣れていたことだった。どうやら練習を重ねていたようだった。そこまでする理由もわからなかったが。朔也の勝利で決着はついた。

「突拍子もない話で、信じてもらえないかもしれないけど聞いてくれ。俺は真剣だから」

そう前置きをされると、不安の重みが増す。真剣な面持ちで少し息を溜める朔也。そして朔也はこんなことを口にした。

「俺は死んだら桜になるんだ」

その言葉は日和の頭を素通りする。意味が分からないということだけが分かる。しばらく頭を働かせて見たが、結局その言葉の意味するところが分からずに尋ねる。

「それってどういう意味」

「言葉通りの意味だよ。僕は死んだら桜の木になる。そういう血なんだ。自分も知ったのは一年前で、二年の終わりに転校してきたのも、これが理由。この地には代々そういった血筋の人間がいる。自分のことが色々分かると思って。あの日あの場所で桜の木の下を掘っていたのは、自分と同じ血筋の人間があの桜に”なった”ということを確かめるためだった」

予想もつかなかった内容に日和は言葉が出ない。朔也は説明を続ける。

「死ぬ間際の父に知らされて、そのことを確かめるためにあの桜の木の下にいったんだ。きっと骨が見つかるからって。父は養父だから桜にはならないけれど、というか火葬してしまったらか関係ないんだけど」

「普通の人間と違うの?」

「普通次第だけど、まあ普通の人間だよ。ただ死んだら桜になるってことを除いては」

「それだけ?」

「それだけだ」

少し拍子抜けがしたような気がするが、しかし良くわからないと言えば分からない。

「でも、なんでそんなことが起きるの。皮と骨と肉で出来た人間からあの桜が生まれるなんて」

「僕もどうやって桜になっていくのか詳しくは知らないんだ」

「確証はあるの。だってお父さんから聞いただけなんでしょう」

「父は真面目な人だったからね。そういう冗談を言うような人ではないし、冗談を言うならもっと面白い冗談はいくらでもあるだろう。それにやっぱり父の言う通りに、あの桜の木の下には死体、というか本当に骨があったからね」

朔也は日和の隣に来て桜の木を見下ろす。写真を撮っている生徒たちは、この美しい木の下に骨が埋まっているなんてことは夢にも思わないだろう。

「それに自分が死んだ後のことだから、信じても別に支障はない」

それは確かに朔也のいう通りかもしれない。死んだ後に自分が何になろうと。

「それで私はどうしたらいいのかな」

「別に何も。聞いて理解してくれたらそれだけでいいよ」

日和は少し立ち上がって部室を歩き回った。

「そうね。じゃないとあんなことをしていた理由も良くわからないもの」

あっさりと日和は受け入れていたように見えた。しかしこの時、二人の間に決定的に距離を生んでしまったということになる。

日和は付き合って初めて彼と体を重ねた時に、何か不可解な嫌悪感を感じていた。セックスの経験が少ないとか、そういったこととは別種の何か。腹から拒絶するようなものが。好意といった感情とは全く別の次元の何かが。

「それって子供とかどうなるの」

唐突な質問に朔也は顔を赤らめる。

「恥ずかしいことを聞くな。この性質は遺伝だって父は教えてくれたから、多分同じようになると思う。ただ父は養父だから、血縁上の父はどこかで今桜として生きているかもしれない」

自分の子供は死んだら桜になる。日和はまだ見ぬ朔也との子どものこと考えてみた。高校生には過ぎた想像であったかもしれない。顔の想像も全く浮かばないが、私は桜の子どもを産む。その子は死んだら桜になるのかと考えた。あまりにも実感は分からなかった。

私は死んだら、魂の抜けた、ただの肉と皮のかたまりになって、最後には燃えて骨だけが残るだけ。でも私から生まれた私の子どもは死んだら美しい桜になる。

この不思議な論理に理解は追いつかなかった。押すと凹むような柔らかい体が、小さな体がどうにかすると、あのごつごつとした幹や枝を持った、大きくて美しい桜の木になるとは。

日和は有名な小説の書き出しを思い出した。

“桜の樹の下には屍体したいが埋まっている。これは信じていいことなんだよ。何故なぜって、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか”

燃やされて骨になって、狭い瓶や石の中に一生閉じ込められるよりも、桜として生き続ける方が、確かに幾分ましかもしれないな、と思う。

でも朔也から、桜の何か、が私に入り込む。それが私に”寄生”する。そして私はその”宿主”となって子供を産む。 そう考えると何だか気色の悪さを感じた。

ただその時にはそれは限られた想像で、何の実感も無い話だった。

—-

高校を卒業した後、朔也はまだやることがあると言って山梨の地に残り、日和は進学のために上京した。物理的な距離が恋人の心の距離を冷たく離してしまう、というのはごく有り触れた話だ。

そこに桜なんてものは関係なかったのかも知れない。しかし朔也から真実を聞いてから、日和の心には常に何かが引っかかっていた。卒業後二人はしばらく会っていたが、直に間が空くようになり、遂には別れてしまった。

卒業から五年近い月日が経った時、日本の本土では桜が咲かなくなる日が来た。桜が絶滅の危機にさらされたことは日本の歴史上三度ある。一度は明治の終わり、二度目は第二次大戦中、そしてこの時が三度目の始まりだった。

一時期はニュースでも多く取り上げられた。桜が開花するには十分な寒さが要る。強い寒さによって桜は目を覚まし、それを超えて春が訪れた際に開花する。しかし、人々はどんどんと地球を暖かくしてしまった。桜は必要な寒さが得られなくなってしまったのだ。まだ東北や北海道などは開花していたが、関東の多くの場所では咲かなくなってしまっていた。

それに加えて、日本の桜の中で最も代表的な染井吉野は、接木によって増やされたクローン個体のため、開花時期や寿命なども同じくしており、ある時期に多く植えられた染井吉野たちが一気に高齢化により枯れてしまい始めた。その両方からの危機が致命的だった。

咲かなくなった桜は、新たに植えられることも無くなり、高齢化して腐り始めた木は切られてしまうことになった。こうして春の代名詞であったはずの桜は、どんどんと数を減らしていくことになった。

日和は既に大人になって、企業の会社員として仕事をしていた。卒業後に朔也と別れてから何人かの男性と付き合ってみたこともあったが結局は長続きしなかった。周囲には、男とは上手くいかないタチなんだよね、と話していた。

そんな折だった。朔也の訃報を知ったのは。

上京して山梨の友人との関わりは薄くなってしまい、知らされたのは偶然に母に電話で連絡を取った時のことだった。それは既に彼の葬儀も終わってしまっていた後だった。

山梨で商工会議所に勤めていた朔也は老若男女に好かれており、あまりに若すぎる死に周囲は悲しんだ。事故ではなく、病気でもなく、直接的な理由が良くわからない死因に、やりきれない思いを抱えた人も多かった。

日和は別れた後も、彼のことが常に気にかかっていた。学生時代に自分を救ってくれた自身の恩人であり、自身のことを深く理解し、受け止めてくれていた彼のことを。高校の同級生に連絡を取り、お墓はどこにあるのかと日和は聞くと、そこまでは分からないんだよね、という。

日和はとにかく一度帰ってみることにする。上京以来に初めて戻ってくる地元。田舎は進まないが、遅れもしない。田畑は風に撫でられ右に左に揺れるのを繰り返している。そこでは固定された時間が流れているように日和には思えた。 帰ってきてみたものの、彼に関する手がかりも何もない。学校の近くの墓地を回ってみたり、商工会議所に尋ねて春原朔也をご存知ですか、と聞いて見るも、彼が埋葬されている場所を知っているものはいなかった。

日和には予感がする。彼はどこかで桜になっているのかもしれない。

藁をも掴む思いで、高校に行ってみることにする。卒業生として薄べったいスリッパで床を鳴らしなら校内を歩く。この場所も、卒業してから時が静止しているかのようにそのままだった。

そしてC棟三階の突きあたりまで来る。後から事務員に聞いたことには、文芸部は自分の卒業後に、遂に廃部になってしまったということだった。事務室で借りてきた鍵で家庭科準備室の戸を開ける。 真ん中の大きいテーブルの上には、教科書が積み上げられており、新年度に配布した教科書の余りが置かれているようだった。どうやら現在この教室は物置のように使われているらしい。

日和はしばらく椅子に腰をかけて、棚に並べられている本を眺めていた。芥川、漱石、三島。並び順もそのまま変わっていなかった。棚の並びをぼんやり目で追っていると、百人一首の箱に目がついた。

日和は立ち上がって、薄く埃の被った箱をそっと開けて見る。久しぶりに見る絵札と読み札。それらを懐かしい気持ちで一枚一枚見る。

そうしているとその中の一枚に、付箋が張り付いていることに気がつく。そこには手書きで住所が書かれている。市内の住所だった。彼の文字かは分からなかったが、この百人一首を触る人間には多くはないだろう。そんな思いで、書かれている住所に足を伸ばしてみることにした。

携帯の地図で調べて、学校から歩いて三十分ほどの場所。途中で過去にこの道を歩いた事があるということが思い出されてきた。小高い山の上で、坂を登るのが少々しんどい。その感覚に既視感のようなものがあった。 風景を懐かしみながら、少し息を切らしながら、ようやく紙に書かれた住所にたどり着いた。

そこは街の様子が眺められる、ちょっとした展望台のある公園のような場所。小さな山を越えた奥には富士山が聳え立っている。そうだ、ここは朔也と夏祭りの日に来た場所だったと日和は思い出した。まだ付き合い始める前、朔也から誘われた夏祭り。 穴場がある、といって連れてこられたのがこの場所だった。その時は想像以上に歩かされて、浴衣の下駄の鼻緒が痛くて不機嫌になってしまった。

しばらく眼前の光景に懐かしさに浸っていた。そして本題を思い出し、辺りを見渡して見ると、老夫婦や子供連れの家族もいた。周囲には花をつけなくなった桜の木が並んでいた。

その中にはまだ腰の高さに満たない小さな苗木のようなものが見えた。このご時世に新しく植えられる桜の木だとすれば、珍しいものだなと思った。

日和は大きな事に気がついた。 その苗木の枝の一つに、見覚えのあるものを見たからだ。それは自分が持っているもの、そして朔也が持っているもの。複数に枝分かれした枝の根元に通っているそれは、小さい頃から通されていないとあり得ない形だった。

朔也が持っていた指輪。

日和は突飛だが、今の自分が知っていることを撚り合わせて、最も自然な答えにたどり着いた。

「ただいま」

それはかつて朔也だった桜だった。

—-

桜の咲かなくなったこの世の中で、ただのありふれた一本の木であり続ける。毎年青々として、葉を枯らし、孤独に生きていく定め。日和はそのことを悔しく思った。それを一体彼は望んでいただろうか。こんなに若くして死んでしまった上に、この桜はもうここにいても咲くことはない。

日和は自分にできることを考えた。彼がそうなることを望んでここにいるのかは分からなかったが、せめてそれが桜であるならば、”咲く”という本来の花としての役割を果たせる場所にあるべきなのではないかと思った。

日和は役所に連絡をした。山の上に咲いている桜の苗木を買い取りたいと言うと、本来はそういうことは引き受けていないんだけど、と言われたが、担当の人間から改めて連絡すると言われ、その日の内に電話が掛かってきた。静かで落ち着きのある声の男性だった。一度会って話しましょうという。

朔也の桜のある山の上の公園で待ち合わせることになった。 当日そこに向かうとジャンパーを着た初老の男が立っていた。

「連絡をくれた方かな?」

「はい、そうです」

「欲しいのはこの木かな」

男性は朔也の木に触れる。

「はい」

「桜の木が欲しいなら、今時ホームセンターでも買えるけどね。なんでまた」

もしかすると男性はこの木の秘密を知っているのかも知れない。当然ここに植えた人間がいることは確かであるならば、それがもし死体を伴っていたならば何からの事情を知っているはずである。 とはいえ日和はどのような言葉を出すべきか迷った。

それを見かねたのか、男性の方から核心を切り出してきた。

「もしかして春原朔也の知り合い?」

その名前が出た時、私は心臓が零れ落ちそうになった。

「はい。学生時代に付き合いがありました」

「この木の事は何か知っている?」

「おそらく。春原から聞きました」

そう伝えるのが限界だった。だって本当のこととして言うにはあまりに突飛なことだから。しかし、事情は伝わったようだった。男性は呟くように、そうか、と言った。

「それでこの木は一体どうするんだい」

日和は考えていた。少なくともそれが桜としての役割を果たせる場所に持っていきたいと。

「北へ持っていきます。まだ桜が咲ける場所に」

そういうと、男は少し呆気にとられたような表情をしたが、その後小さく微笑み表情が緩んだ。

「それなら良かった。君みたいな人がいてくれて。日本では日常の風景であったはずの桜が失われて、こんな時代になってしまって私も困っているんだ。きっと彼も喜ぶと思うよ」

その時どこかこの男性の優しい顔つきに懐かしさのような感覚を抱いた。しかし、その正体は分からないままだった。

しばらくして男性が手配した業者の人が来て、桜を周辺から掘り起こして根から抜いた。その作業を見たい気持ちと見たくない気持ちの両方があった。私は一体彼の遺体がどうなってしまっているのか、骨はそこに残っているのか、一体誰があそこに埋めたのか、多くの疑問もあったがそれは飲み込んだ。今となっては重要なことではなかった。

日和は、根の部分をシートに包まれた苗木を持って実家に帰った。 一度東京に戻ってからも、暫くは自宅のベランダに鉢を買って、一定の大きさになるまでは育てていた。その間に植える場所を探していた。

温暖化のことを考えると、冷温帯の限界緯度にあたる北海道でかつ、ある程度の標高がある方が良いかも知れないと思った。それらの条件に合いそうな地点を見つけ、日和は桜を車に積んで、北海道まで植えに行った。助手席を倒して、後部座席まで突き刺さるように伸びた桜の苗木を乗せる。その旅路はシュールだったが面白かった。 北海道の南に位置する函館にある山に入っていき、車を止めた。日和は大きく息を吸った。車からスコップを取り出し、地中深くまで穴を掘り、そこに朔也の桜を植えた。

「また春に戻ってくるから」

翌年の三月、日和がその地に戻ってくると、それは日和の身長よりも大きく成長していた。まだ花は咲いていない。桜が花をつけるのは、生まれてから少なくとも5年程度はかかると言われていた。日和は毎年山に通った。日和が二十八歳になった年、朔也は初めて見事な美しい桜が花を咲かせた。成長するに連れてその幹に通っていた指輪は少しずつ上に昇っていき、いつしか見えにくい所へ昇ってしまった。しかし日が当たるとその輝きが目に入る。

やはり桜は咲いてこそだと、日和は思った。

しかし、花を咲かせたのは最初の一年だけであった。 その翌年からついに北海道でも桜が咲かなくなってしまったのだ。暖冬では桜に休眠打破を促すことができない。日本国内では桜が咲かなくなり、かつての風習が名前だけで残っていくように、春の風物詩としての桜は過去のものとなってしまった。春の季語としての桜も、現実的にはその意味を為さなくなってしまった。

桜が咲かない年が続き、日本の花見という文化に大きな影響を与えた。かつて奈良時代の花見文化の中心は梅だったことから「梅に帰れ」とでもいうように、桜に代わる梅の花見スポットが新たに生まれていった。人々は愛でる対象を求めていたのであり、それは必ずしも桜で無くてもよかったのかもしれない。やがて人々の心からは、桜は忘れられていった。

日和は毎年朔也を見に訪れるが、その度に葉だけの朔也を見て、どこかさみしい気持ちになっていた。彼女はこの世界に美しい桜を取り戻したいと思った。そして、出来ることならばもう一度朔也を咲かせたいと思った。彼女はそれまで働いていた事務の仕事をやめ、アルバイトをしながら専門学校に通った。そうして時間をかけて彼女は樹木医になった。

彼女は熱心に樹木医としての仕事に取り組んだ。 樹木の声を聴き、それを生かすという仕事を彼女は気に入っていた。仕事の傍らで桜を取り戻す方法を考えていた。

シンプルに考えて二つの方法しか無い。温暖化を止めるか、温暖化に強い桜を作るか、のどちらかだった。とはいえ、温暖化を止めることは少数の人間がどうこう出来る問題では全くなく、日和は理化学研究所との共同の有志プロジェクトを旗揚げして、低音要求性が低い温暖化下の中でも咲く事ができる桜の開発に取り組んだ。

様々な手法を試すが、交配が基本的なアプローチとなると、既に桜の品種自体の数が減っており、普及していた桜は低温要求性が弱く、それらの交配では、温暖化を乗り切れるだけの桜を作り出すことは困難だった。違う特性を持った新しい桜が必要だった。突然変異による品種改良も成功率が限りなく低く、その試みは失敗に終わってしまった。

日本に桜を取り戻す、という甘美な目的に最初はプロジェクトの熱気も高かったが、中々実らない成果が次第にメンバーたちの士気を下げていく。ついには目立った成果が出る事なく、プロジェクトは立ち消えることになってしまった。

少なくとも一本の新しい桜が生まれれば。日和はそういう思いだったが、現在の状況下では新しい品種が自然に生まれることも期待はできなかった。

もしかするとこの世には、死んだら桜になる人々が他にも生きていて、その人たちがいれば、桜になれば新しい桜が手に入ることがあるかも知れない。しかし、火葬国家である日本でそんなことは期待できないし、そもそも誰が桜になるのかも分からないのだ。

日和は日本全体に桜を残すことは静かに諦め、ただ樹木医として木々に向き合って生きた。朔也の桜も大きく成長し、6mほどの大きな桜になった。しかし、毎年春が来ても桜の花は咲かず、平凡な緑を湛えた樹木としてそこにあった。

日和はそっと幹に寄りかかった。 日和は咲かなくなった朔也を時々手入れをしながら、歳を重ねた。死んだら桜になってみたいなあ。生涯を独身として生きた日和は周囲にそう冗談気味にこぼしていた。右手の指には、くすんだ銀色の指輪が静かに輝いていた。

多くの日本人はそのまま桜を忘れてしまった。若い者たちが戦争を忘れてしまったように、その言葉だけを知り、その本当の意味を知らないように。時代の流れと共に、桜はただ言葉だけのものとなった。

日和は死後、植物や動物は土に還る方が自然だという彼女の意思によって、朔也の桜のある山に近い霊園で、手続きを踏んでひそやかに土葬が行われた。心残りはあるが充実した人生だったと彼女は語った。

—-

一つ誰も予想をしていなかった事が起きた。日和が土葬されてから、二週間が経つ頃には彼女の埋められていた場所から木の芽が生えてきた。誰かの不謹慎な悪戯のようにも思えたが、次第に成長を続け、苗木のように育ち、それは今では見なくなった桜の品種であることが分かった。不思議なことに枝には指輪のようなものが通されて育っていた。

切ってしまうのも忍びなく、とはいえ、そのままにしておくわけにもいかないので、墓の管理人たちはこの小さな桜の木を慎重に取り出して、山の上にある一本孤独に生えていた桜の横に植え替えた。それは生前故人が大切にしていた桜であったから、これは何かの縁なのかも知れない。

数年後の春、その桜は咲いた。数十年ぶりに爛漫と咲いた桜を初めて発見した女性は、その美しさに目が離せなかったという。人々は沸き立った。多くの人がその桜を見ようと山を訪れるようになった。

調査が行われるとそれは新種の桜ということが分かった。隣に植えられていた桜は別種であったが、自然に残存する貴重な桜として、遺伝子操作の人工的な交配も試みられた。

そうして温暖化に適用した新しい品種たちが生まれ、日本には冬の終わりを告げ、暖かく世界を照らす桜たちが戻ることになった。

桜復活の地として知られるようになったその山には次々と桜が植えられ、今では春になると淡い紅が差したような色の桜が山一面に咲いている。

春の訪れる頃になると、一目その景色を見ようと山を登ってくる人々の声が響く。

その中心にあるのは、一際大きく美しく咲く桜と、花を持たない緑の桜。異なる二つの桜には、同じの一対の指輪が宿されている。

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