梗 概
ミヤギテールズ
これは宮魏親子が三代に渡って地球の変革に立ち会った記録である。
ある午後、R県全域を包む巨大な『プール』が発生した。それは大気の液状化で、微小生物雲によって大気中の水分子が液体様に振る舞うことで起こる、対応方法が確立された安全な現象だった。ヒロシも友人の霞を連れて家を抜け出し、潜水マスクをつけプールに満たされた集合住宅の前の道路を歩いた。髪がゆらゆら浮き上がり路面には海中のような光の反射の帯。
しかしいつも通りなのは昼間だけだった。夜になるとプールを泳ぐ巨大生物が出現、後に『培養体』と呼ばれるこの生き物は島内を破壊。一夜にしてR県は壊滅。ヒロシは生き延びたが家族を失った。
九年後、ヒロシと霞は福岡で再開した。プールの発生規模は上がり、そこに棲む固有の生物も発見されて懸念が高まっていた。漁師をしていた霞をヒロシが誘い二人はプール生物専門の漁師になる。目的は故郷を滅ぼした培養体と対峙することだった。
数年後、ヒロシは十数隻の船隊を束ね『プール嵐』を追っていた。有人島近くの浅海で培養体と対決して針路変更に成功。無事を祝う島民たちを見てヒロシは故郷への気持ちに区切りがつく。
八〇年後、ヒロシの娘のエンブは艦上都市『シマンチュ』の指導者だった。七〇歳で現役だった。霞は相談役。
この頃プールが地表の三割を覆い、その中の特殊生態系は複雑化し、培養体も巨人型のものが多数発見された。そこから得られる情報により人類の生体加工技術は飛躍的に向上した。
シマンチュが設立時から繰り返したプールの情報資源を巡る闘争でヒロシは死んだ。エンブはこの半世紀、シマンチュを安全な場所にするために外部との協力関係を築いた。数日後の遊園地の開業セレモニーは集大成で、来賓予定にプール関連の企業が名を連ねた。住人たちもそれを知って市街を歩くエンブを労った。父親が遺した故郷が皆にも大切な場所となっている、それが誇らしかった。セレモニー当日、ゲノム保守派による襲撃事件が発生するが、エンブ率いる部隊が制圧。シマンチュは企業群との和睦に成功した。
五百年後、エンブの息子のタシは廃墟と化したシマンチュを駆る。艦には生体加工で少年の姿を保つタシと思考機と化した霞のみ。地表の八割はプールに覆われ、それ由来の遺伝変異で不妊となった人類は数を減らしていた。タシは艦を沈めるためにR県へ向かう。
ある朝、針路上に巨人培養体と、その手のひらの上に子供を見つけ保護する。子供は額の角など重度の変異を持っていた。子供の居住地を目指して進む艦の後ろを培養体がついてくる。タシは培養体の友好的な態度に驚く。
数日かけて人工島に着く。子供の家族がいて、彼らは培養体ともコミュニケーションする。タシは、彼らが変異を越えた新しい人類だと気づく。その嬉しさと感謝を霞に記録して、シマンチュを去る。沈む艦の中で霞は宮魏親子の辿った軌跡を整理する。
文字数:1198
内容に関するアピール
語り手は霞のデータをサルベージして解析した後の世代の誰かです。
今回の課題では明確に語り手を設定するということで、詳細よりも壮大さで楽しませるおとぎ話のようなものを目指しました。ただ梗概の段階で文字数パツパツなので、実作の書き込みの塩梅は苦労しそうです。
文字数:126
骨髪(コツハツ)
ここはわたしの故郷。わたしの島。
なんてうるさくてきたない。
わたしこそがこの街の王。
宮魏エンブはそう呟いた。海抜二〇〇メートル、十階建てのマンションの最上階から見下ろす先には建造物が乱立し、その向こうに広がる海は水平線となって途切れるまで続いている。競うように輝く水面の上ではきっとたえ間なく風が吹いていて、こちらに届く潮風にも朝の成分がふんだんに含まれている。エンブは大きく息を吸ってもたれていたバルコニーの手すりから体を起こし、踵を返してガラス戸を押し開けて居室へ入った。室内のすぐこちら側に両袖の執務机が置かれている。卓上には散乱した書類と、重ねられたカフェイン飲料の空容器。そのデスクの前にエンブが立つのと同時に、ほとんど見計らっていたかのようなタイミングで部屋の反対側にあるドアがノックされた。
どうぞ。
エンブの返事から一息おいて、挨拶とともに入ってきたのは秘書の上原露だった。
新作買って来ましたよ。ボスも飲みますよね? 露は片手に持ったボックス型のドリンクホルダーを掲げる。
何味?
当ててみてください。
エンブは露からカップを受け取って飲み口に鼻を寄せた。
これは、イチゴ?
はい。今月のフレーバーはストロベリーチョコレートです。
差し出されたストローを断ってエンブは容器から直に飲んだ。
うーん、まあまあかな。
ほうですね。
露は自身の分を飲みながら返事をした。ドリンクホルダーごと持ち上げてカップにささったストローをくわえたまま、あいている方の手の指を空中で動かす。そのすらりと長い指のいくつかにはめられた“鍵環”ーーリング状のセンサデバイスーーが指示を汲み取り、二人の間に立体映像を表示させた。
これ今日のスケジュールと動線なんですけど、と露がやっとドリンクを飲むのをやめて説明を加えようとする。
エンブはまぶたを細めた。ここのところ立体映像が見えづらく感じるようになっていた。じきにフィジカルな書類や平面表示物でも手元で読むのに苦労し始めるだろう。
もう出発したいから、歩きながら説明して。
エンブは秘書の説明を遮ってそう言いながら部屋を出た。
あ、はい。
近い内に視覚補助インプラントを入れよう。これは口には出さなかった。露ちゃんには知られないようにしないといけない。この子はからかい始めるとしつこいから。
二人は並んで廊下を抜けて玄関から事務所を出た。飾り気のない外廊下を奥へと歩く。手すり越しには海まで続く街並みーーバルコニーから見えたのとちょうど反対側ーーを見ることが出来る。どちらの景色も見下ろす形となるのは、このマンションのこのフロアがこの土地で最も海抜の高い位置にあるからだ。そして、エンブは街で最も人気のこのマンションの最上階を一人で占有していた。二人は扉が一つしかない通路を突き当りまで進み、昇降機に乗り込んで地上へ向かった。
コンクリートの下り坂をエンブと露は歩いていた。エンブの事務所のある高台から街の中央通りである八六番道路へ向かっているところだった。体力維持のために公務ではオートキャブを使わず徒歩での移動を心がけているエンブだが、出発して十五分で息が乱れ始めていた。
大丈夫ですか? 露が聞いてきた。
だいじょうぶ。
あ、苦しくてもマスク外さないでくださいよ。そうしたらキャブ呼んじゃいますからね?
だいじょうぶだって、とエンブも繰り返した。
二人は“肋素“の吸引を防ぐためにフッ素加工された不織布マスクを着用していて、露が釘を刺したのはこれについてだった。
ちょっと、ふう、ちょっと休憩。
エンブが息を切らしながらそう宣言して足を止めた。二人が歩いている坂道はちょっとした山道のようになっていて、道の右側には高台へ続くコンクリートで固められた斜面が、左側は街と海が見える崖となっていた。道路は右向きに緩やかにカーブしているため、正面を向いても道路が切れる向こうに海が見える。
そうだそうだ。今の内に、と露が言って、目に見えない鍵盤を叩くように指を動かしてスケジュールリストを二人の目の前に表示させた。事務所で映したときと違ってこの場の投影機は露が身につけているイヤリング型のものしかなかったから、空中に表示されるのはシンプルな平面情報だった。それがエンブには好都合で、問題なくピントを合わせることができた。投影されているのはこの土地の簡略地図だ。周囲を海に囲まれた縦に長い地形。
まずは、三〇分後に迎賓館で“アバラ協会“のえらい人と会談です、と露が言った。
お願いだから、本人の前では正式な組織名を使ってよ?
え、もちろんです。
露は続けてこの日の分の予定を読み上げていく。それに合わせて、投影地図の上に時刻と開催場所のハイライトがオーバーレイする。地図に縮尺の表示はされていなかったが、一見すると島のように見えるこの土地の全長が約五〇〇メートル、全幅がおおよそ一五〇メートルであることは二人ともよく知っている。確かに露が設定したスケジュールは移動時間も無理なく設定されていた。報告を終えた露が促して二人は再び歩き始めた。
今度は足を止めずにエンブの方から口を開いた。
距離は?
露が一呼吸分の間を置く。高速で指を叩き情報を呼び出す。
現在はおおよそニ.五海里後ろにつけてます。
速度は?
向こうもこちらも十マイル前後です。こちらがわずかに速くて、昼頃には二海里まで詰まる予定です。もう少し距離を置きましょうかね?
エンブは少し考える。そして腕を伸ばして正面の海を指した。
拡大できる?
もちろんです。
露が再び指を叩くとイヤリングの光学フィルタが起動して、歩く二人の正面に平面窓が投影される。窓にはエンブが指した先の光景が、水面で生まれては消える波の一つ一つが見えるほどに拡大して映された。
少し調整します。
露が指を動かして、フレームいっぱいに海面を映していた窓の中に水平線が入り込む。その次にピントが合わされて像が鮮明になる。
うん、ありがとうこれでいいよ、とエンブが言った。
窓の中には水平線の手前に浮かぶ灰色の領域が映された。拡大像の下部、こちらに近い方の水面では通常通りの海が波打っている。しかしそれが奥ーー像の上部ーーへいくにしたがい水の色が暗く白く、波の動きが緩慢になって、ついにその動きが止まった先では陸地のように隆起すらして高さを持った地形を形成していた。領域の向こうへ進むほど立体的で複雑になるそれは、平坦な水平線上に稜線のシルエットを描き、事情を知らない者なら島を見つけたと思っただろう。しかし“あれ“と幾度も対峙したエンブは知っていた。たしかに、あの石灰質の海はときに数百メートルに及ぶ山々や数十メートルほどの屹立する塔のような構造物を生み出すが、“あれ“はあくまで海なのだ。通常のそれと比べるとはるかに緩慢で高い強度を持つが、それでも絶え間無く変化して、その内部に独自の生態系すら抱えている。それがあの石灰質の海域、世界から“肋海“と呼ばれている海だった。
肋素濃度は? 拡大像を見ながらエンブが尋ねる。
安定してます、と露が即座に答えた。
エンブは口元の不織布マスクを外した。それに気づいた露が眉をひそめる。
片手をあげて露を制止し、大きく息を吸い混み、そして吐き出した。再びマスクを着けて窓越しに肋海を見る。
うん、今日は安定してる、とエンブは言った。
もっと近づけても大丈夫だから、一海里くらいまで詰めるように航海部に伝えておいて。
了解です。
あと、一週間くらい追跡をやめるから近場で停泊できそうなとこ見つけるように言って。
いいんですか? 露がぱっと顔を振り向かせる。
前見ないと転ぶよ、とエンブは言う。昔のくせで子どもをさとすような口調になってしまう。しかし露がこちらを向いたままなのでエンブは続ける。
今日は祭だからね。それにかれこれ三年くらい皆んな働きづめだから。一回やすもう。
いえす、とやっと前に向き直った露が片方の拳を振り回す。背中を向けていても喜びが伝わってくる。簡単の手では鍵環を操作して指示を関係部署に通達している。
エンブの言葉通り、彼女たちは三三ヶ月と二一日間の航海を続けて肋海を追い続けてきた。そう、あの灰色の海域は移動をするのだ。それも平均して五ノットを超える、自然環境としては驚異的な速度でその存在領域を動かし続けるのだ。
指示を終えた露が再び振り返る。
もういろんなところに伝えましたからね。もう取り消せませんよ、と言ってくる。はしゃいでいる。
いや別に指示の取りやめはできるでしょ。
そうして話しているうちに二人はセンバル・ステーションにたどり着く。そこは各地に張り巡らされたカルシウムロープ上を走るチェアリフトの乗降駅の一つだが、利用客が少なくて待合所と安全柵だけの簡易な造りで、このときも他に利用客はなく常駐の駅員が一人立っているだけだった。
エンブたちと駅員が互いの顔を視認できるほど近づいたところで軽快なメロディーがどこからか聞こえた。ぱんぽんぱんぽん、と電子楽器で作られたその音は公共放送の開始ジングルで、続けてこもった男性的な声が話し始める。
航海部からの連絡です、と男の声が言った。各所に埋め込まれたスピーカーから再生される放送は大気全体に響いていたが、エンブは何と無く顔をあげて晴れた空を見るともなく見ながら声に耳を傾けた。
いまから十五分後から三〇分間、本船は二ノット加速します。なんらかの準備が必要な人は早急に対応してください、と放送の声が告げる。
またそれによって正午ごろには“肋海“に一海里の距離まで接近する予定です。皆様お誘い合わせの上、ご観覧なさってはいかがでしょうか。
ここまで放送の声が告げたところで、エンブは駅の向こうの街の方からどよめきが聞こえたと思ったが気のせいかもしれなかった。ただし放送が続けて数日以内に航行を止めて一週間の“休暇“を実施する事を伝えると今度ははっきりと街の方から歓声が聞こえた。先ほどエンブが出した指示をひととおり繰り返して“船内“放送は終了した。そしてこれが、周囲を海に囲まれた島のようなこの土地の正体だった。太平洋上を航行する大型船。それがこの土地の本性で、先ほどのマンションもコンクリートの坂道もこれから乗るリフトチェアもその上に築かれた“船上都市シマンチュ“で営まれている生活の一環であった。船内放送の終了ジングルも鳴り終わり、リフトの乗降エリアの目前まで来て視線を正面に戻したエンブは、安全柵の前に立つ駅員が浮かべる満面の笑顔を目にすることになった。露と同年代の、成人したばかりという風に少年の面影を残したその駅員はガラスマスク越しにエンブに声をかけた。
いまのって、と若い駅員が言った。しかし先を続ける前に再び放送が入ってその声を遮った。
ひとつ伝え忘れていました、と放送の男がジングルなしで話し始めた。
先ほどのサービスと休暇はすべて我らが“ゴッドマザー“からの指示です。市民の皆様はママに感謝を伝えてください、と言って再び放送は終了した。
エンブは頭をかいた。目の前に立つ駅員は両手を胸に当てている。
市長やっぱり、と駅員が言った。
その肩書きは嫌いなんだ、とエンブは遮って言った。
エンブでいいよ。
いや、それはいくらなんでも。
ママでいいよ、と横から露が口を挟む。
そうですね、と駅員は少し照れながらうなづく。
寛大な贈り物をありがとうございますゴッドマザー、と駅員が言った。
エンブはうなづいた。“シマンチュ“が船の名前から都市の名前へと変更された当初、つまりこの街に明確な行政府が設置された五六年前からエンブは最高責任者を務めている。この街の最初の市長にして、いまのところ唯一の市長。
君も達者でやりなよコムラム、とエンブは駅員の名前を呼びながらリフトに乗り込んだ。伝説の市長に覚えられていた感動で混乱する駅員のそばを通り抜けて、露が一つ後ろのリフトに座りながら鍵環を叩き、二人のリフトは八六番道路に最寄りの二ライ・ステーションに向かってロープの上を滑り出した。
LNGプラント搭載の大型船を連結・改造して築かれた船上都市シマンチュは約七.五ヘクタールの面積を有しているが、その上に三〇〇〇名を超える人間が居住していて、その人口密度は国際機関に報告されているどの都市よりも高かった。
その人口の娯楽と消費のほとんどを引き受ける八六番道路、通称ユニバーサル通りは人でーー全員マスクをつけているーーあふれていた。全長一〇〇メートルにも満たない通りは普段からにぎわい、そこを歩いている間は常に体のどこか一部が他の通行人にぶつかってしまうと言われ、立ち並ぶ六〇ほどの店舗はいずれも行列の管理に追われてた。それに加えて、今日は特別な日だった。
いつにもまして人が多い通りでは通行人たちが押し合いへし合いしながらゆっくりと進んでいる。通りの入り口のアーチには<骨猟祭>と大きく書かれた垂れ幕がかかる。道路の両脇には平家か二階建ての背の低い商業店舗が軒を連ねるが、それぞれの店先はルーツに応じた祭りの装いで飾られていた。ハイフォンの花飾り、シェトランドの松明、メキシコの骸骨に沖縄のエイサー。様々な衣装やパフォーマンスがフィジカルに、もしくはホログラフィカルに通りを彩っていた。
エンブと露も祭の喧騒の中に足を踏み入れた。しかし二人は押されたり足を踏まれたりして不便な思いをすることはなかった。エンブの存在に気づいた周囲の人々が次々に道を譲ったからだ。ひとりが市長とその秘書に気づいて道をあけ、それを見た人もエンブに気づいて、という風に。住人たちは偉大なゴッドマザーに敬意を払った。それでもエンブの歩みはゆっくりだった。エンブの方も住人たちに敬意を示したからだ。
エンブは通り過ぎるほとんど全員と言葉を交わした。たびたび足を止め、ときには数分間の立ち話をして、子どもに声をかけられたときには近ごろ違和感を感じるようになった膝を折って目線を近づけた。そして話した相手ほとんど全員の名前を呼んだ。
ボス、と露は声をかけた。彼女は悠長に進む上司にしびれを切らしていた。
流石に急ぎましょうよ。すでに会合の開始時間過ぎてますよ。
いいんだよ。あんな連中待たしときゃ、とエンブは通りを眺めながら答えた。
いやでも……
なに?
“協会“ほど巨大な相手を挑発して、その、戦争にでもなったら。
何言ってんのよ。
……心配しすぎでした?
もうとっくに戦争状態だっての。
露は周囲の通行人に聞こえないように声をひそめていたが、エンブは全く気にせず話した。しかし通りかかった誰も二人の会話は聞こえていないように振る舞った。
おおなにあれ、とエンブが声をあげた。老市長の興味が移ったことでそれまでの剣呑な話も打ち切られた。
露もエンブの視線を追って上司の気を引いたものを見つけた。ユニバーサル通りの中央交差点の地上から数メートル上、少し視線を上げるとよく見える位置に立体映像が投影されていた。日中の屋外で様々な角度から鑑賞されることを想定したホログラムは最初から解像度を抑えて作成されていて、エンブの目にも優しかった。
二〇年に及ぶ宿願ここに成就ぅ、と上機嫌な声がホログラムに合わせて交差点に響く。精密さよりも派手さと勢いに舵を切った立体映像作品が今日の祭の趣旨を説明した。
地元食ったのは骨のくじら
見ろよ勝ったぜ おれと君が
新しい故郷で見つけた絆は
復讐を超えて 取り戻す人生
音と映像を組み合わせた立体漫画はそれなりに要点を抑えていた。
今日の祭の主役は漁の獲物で、それは偶蹄類だったと思われる動物が“肋海“の中で変異して外骨格を発達させた“骨鯨“だった。その中でも今回獲ったのは船上都市シマンチュ設立の原因でもある特別な個体で、住民たちは体長三〇メートルを超えるこの骨鯨を“グレイモビィ“と呼んでいた。
グレイモビィは肋海の出現初期から生存が確認されている個体で、八〇年前にエンブの父親の宮魏ヒロシの故郷を覆って壊滅させた“肋海“の中でもその姿が報告されていた。かろうじてその災禍を生き延びた宮魏ヒロシは肋海とグレイモビィの殲滅を決意し、それが“肋海狩猟船シマンチュ“の発足へとつながる。船上都市シマンチュの元来の目的は肋海の完全な消滅であり、グレイモビィの狩猟はそれに付随する大きな目標の一つだった。この街には“肋海“によって故郷を追われてやってきた住人も多く、その人々にとってもグレイモビィは強い報復心を生み出す存在だった。
そんな経緯から街がこんなにも浮き足立っているのは当然のことで、それを眺めながら歩くエンブもマスクの下で微笑みを絶やさなかった。ただ歩き去るだけなら五分もかからないユニバーサル通りをエンブと露は結局三〇分かけて通過した。
中央通りから外れて若干ーー身体をよじらなくても通行人同士がすれ違える程度にーー人の減った通路に入ったときにエンブを呼ぶ声があった。エンブが振り返ると幼児がすぐそばに立っていてエンブの袖を引いた。エンブは子どものそばにしゃがんだ。
ねえねえエンブあのね、と子どもは話しかける。
どうしたナンディ? エンブはうなづいて相槌をうった。足音がするので顔をあげると向こうの方から父親が駆け寄ってくる。
わたしねあのホネのおやまからパチパチするの、と子どもが言った。子どもはマスクを顎の下におろしていてにっこりと笑った表情が見えた。
あなたもそうなんだね、とエンブは言った。
エンブも? 子どもが聞いた。
そうだよ。
ここまで話したところで父親が子どもの後ろに立ってその手を取った。エンブは子どもに手を振って立ち上がりながら今度は父親の方へ顔を向けた。
こんにちはアガタ、とエンブは父親へ言った。
え、あ、はい。アガタという名前の父親はたどたどしく返事をした。父親の顔には恐怖心がはっきりと浮かんでいた。エンブと露はそれに気づかないふりをして子どもにもう一度ばいばいとあいさつをして歩き出した。
あの父親、失礼でした。
人気のない路地裏を進みながら誰にも聞かれないことを確かめて露が言った。
いつものことだから。
エンブはそれだけ言った。その言葉は事実で、先のやりとりはエンブと住人たちとの関係を端的に表していた。子どもはエンブにまっさらな敬意を向ける。しかし大人になるほどそこには怖れが混じる。この街の隠された力学を知ることになるから。エンブが街を守るためなら容赦しないことを分かってくるから。でもゴッドマザーと対立してはこの街で生きていけない。だからみんな出来るだけ本心を隠し笑顔をみせる。エンブはそれをさみしいことだと思う。でも仕方のないことだとも思う。わたしにはそれ以外に責任を果たす方法がないから。この街はわたしの街だ。わたしが守らなければ。
ユニバーサル通りを出てだいたい二〇分後、エンブと露はあばら家の裏手に設置されたぼろぼろのはしごを登っていた。老市長はすでに遅れている会合へあくまで徒歩で向かうと言い張り、二人は都市の道なき道を進んでいた。
シマンチュは最初の二〇年間、一貫した都市計画を持たずにその時の必要に応じた増築を繰り返していた。その名残で現在も都市のあちこちに複雑で危険な通路が隠されており、エンブはそのほとんどを把握している数少ない一人だった。
はしごを登り切ってハッチを押し開けると八六番道路に対して台地となっている漁師町にでた。エンブに続いて露もはしごを登り切って、ハッチをしめた後に周囲を見回した。住人たちはみんな祭に出ているようで、ほとんど人はいない。唯一視界に入った人間が二人の方に近づいてくる。それが誰か気づいて露は驚きの声をあげた。
おばあちゃん?
声をかけられた人物はうなづいた。エンブよりもさらに数十歳は年嵩に見える老人は確かに上原露の祖母の上原霞だった。霞は前任の市長秘書であり、エンブの父、宮魏タケシの同級生でもあった人物でシマンチュの最古参メンバーだ。
唐突な祖母の出現にまだ困惑している露にかわまずエンブと霞は互いだけに聞こえる声量でぼそぼそと会話している。露が気を取り直して近づこうとしたところで二人の会話は終わり、ろくに挨拶もせずに霞は去った。
漁師町から迎賓館まではほど近く、その五分後にはエンブ曰く“すでに始まっている戦争“であるアバラ協会との会合が始まった。
シマンチュの迎賓館という建物は、日本赤坂にあった同一名称の施設とは比べることもできないほど質素な洋風の平家に過ぎなかったが、船の船首側の右舷ギリギリに位置していて、応接室の大きなガラス窓の向こうに広がる海にはなかなかの迫力があった。この時点では肋海へも一海里先まで迫り、その石灰質の領域にそびえる稜線を描く峻険な隆起構造を目視で確認することができた。
しかし、会合の相手であるカルシウム異体管理協会ーー通称アバラ協会ーーの監査特使であるウィンズロウは怒っていた。エンブが入室してーー露と特使のガード二人は隣室で待機することになったーー先に着いていたその男とマスクを外しながら自己紹介を交わした際、彼はファーストネームを名乗ることもしなかった。
私のことはウィンズロウと呼べ。彼はそれだけ言った。
それじゃあウィンズロウ、とエンブが口を開いた。
訪問のご用件は?
エンブの問いかけでウィンズロウの眉間に深い皺が刻まれた。エンブは海に面した大口のはめ殺し窓を背にして執務机に座り、ウィンズロウはそれに向き合う形で置かれたソファに座る。この応接室に灯りはなく、光源は窓から入る光のみ。エンブからはウィンズロウの表情がよく見えたが、ウィンズロウからは逆光になってエンブの表情がほとんど見えない。
事前に通達したはずだ。しかも、あんたが希望した通りわざわざ紙の書面を使って、とウィンズロウが言った。
おそらく礼式設定にしてあるだろうウィンズロウの翻訳機がこの語調で伝えてくるってことは本当はもっと荒い口調なのだろう。そういうことをエンブは考えた。そしてゆっくりと口を開いた。
ごめんなさい。ここ数日はばたばたしていたもので、と言って微笑を浮かべた。
改めて説明していただけます?
ウィンズロウは口を開かない。
エンブは微笑。
二人ともしばらく黙った。
しかしエンブは待つのが得意だった。焦れたウィンズロウが一度舌打ちをして口を開いた。
あんた達が自称している“船上都市“とやらを協会の管理下に置くって話だよ。
ウィンズロウがまくし立てる。その声量が大きいせいで、会話にオーバーラップする自動翻訳音声に混じってウィンズロウの地の声が聞こえるほどだった。翻訳音声を邪魔しないように声量を抑えるのは、偏在スピーカーと翻訳機を使うビジネスシーンで既にマナー化しつつあるテクニックだ。ウィンズロウはそれを無視するほどに怒っていた。
思ってたよりも素直じゃないか。エンブはそう思った。エンブはもちろん事前通達の書簡には目を通していて、そこにはもう少し柔らかい表現が使われていた。シマンチュと協会の協力関係を云々カンヌン、シマンチュの自治権を支持するために云々カンヌン。まあ結局はこの男の言ってることと同じ意味だったが。
協会の役割をあなたの口から説明してくれますか? お互いの認識に齟齬がないように、念のため。
エンブは務めて丁寧にそう言った。それがウィンズロウの怒りに油を注ぐ。いいぞ、もっと怒れ怒れ。
ウィンズロウは咳払いした。
カルシウム異体原子、あんたらの言う“肋素“は世界に良いことと悪いことの両方をもたらした。そこまではいいな?
いえ、ごめんなさい。そこからお願いします。
ウィンズロウがうんざりした顔になる。しまった、やりすぎたか? エンブは焦りが表情に出ないように意識する。
いいか、とウィンズロウは言いながらエンブの背後の窓へ指を向ける。おそらく指しているのは肋海の隆起。
灰色の“あれ“の正体はカルシウム分子に似た性質をもつ微粒子“肋素“だ。肋素が互いに架橋して可塑性の高い繊維を海中に張り巡らせたものが肋海だ。肋海は二酸化炭素など他の分子との結合によって強度が変わって、あんたの後ろにあるような構造物は骨格と言えるほど強固だ。加えて肋海は方向性を持って濃度と繊維強度を変化させることで移動する。そして、肋海中には独自の、しかもかなり複雑に発達した生態系が築かれていて、そこに所属する各生物が肋素の生産に寄与している。つまり一般のカルシウムを吸収して肋素に変える。そういう小器官が細胞中に存在している。流石にこの辺りはあんた達の方が詳しいだろうが。
ウィンズロウは言葉を切った。
いえ。とても勉強になりました、とエンブは明るく言う。ウィンズロウが目をすがめる。
いまのお話は前提の知識ですよね。肋素がもたらす良いものと悪いものについても教えてください、とエンブは言った。重要なのはここからだ。この男の本音を引き出さなければ。
ウィンズロウは目元を抑えながら再び話し始めた。
まずもたらされた良いこと。繊維産業と骨加工を軸にした生体成形技術の発展。ここで使われてるチェアリフトのロープなんかもその一つだ。
エンブはうなづく。
次に悪いこと、とウィンズロウは言った。
肋素を摂取したことによる神経障害が肋海の近隣地域で広がっている。シナプス間の伝達に純正のカルシウムイオンじゃなくて肋素が入り込むことで機能を阻害してしまう。
エンブはうなづいて、ウィンズロウが続けた。
悪いこと二つ目。肋素風邪の流行だ。現在、世界中に蔓延しているこの病は症状こそ軽いがこのウイルスは肋海生物と同じで肋素生産能を持ってる。つまり今や世界中で少しずつ肋素が生産されてる。
エンブはうなづいた。
まあなぜか、とウィンズロウが言った。その視線は自分の手元。爪をいじりながら話す。
この“都市“はこのどちらにも悩まされてないようだが。
ああ、と今度はエンブが口を開いた。
そこは一日の長というものです。除染も感染症対策も、現場レベルのノウハウではこの街が世界で一番ですから。
ウィンズロウがゆっくり顔をあげた。二人の視線が交わる。ここだ。
それでは、本題に入ってください、とエンブは言った。
あなた達はいま話したこと以上の発見をした。そうですね?
ウィンズロウは黙ったまま。
だからこれまで、友好的とは言えないまでも適切な距離を保ってきた我々を強引にでも取り込もうと動いている。そうですね?
ウィンズロウは表情を変えない。
それは肋素間の情報伝達について。そうですね?
ウィンズロウは口を開かない。
しかし、少し待っているとうつむいて、話し始めた。
そこまで掴んでいるなら話が早い、とウィンズロウは言った。
ああ良かった。エンブは内心胸を撫で下ろした。“当たり“を引けた。アバラ協会ほどの資本と政治力を持った組織と正面から闘争をするとかなり厳しい戦いになる。本意をぼかしてシマンチュを取り込もうとする協会=ウィンズロウから今回の接近の意図を引き出して交渉のテーブルに座らせる。それがエンブのこの会合での目標だった。
わが協会は十年以上前に肋素間で情報伝達が行われている証拠は掴んでいた、とウィンズロウは言った。
しかし、それがどのように行われているのかは依然分かっていない。肋素が結合するときに用いる力が関係していると推測されている。肋素はどうやら電子の共有などの既知の結合方法をとっていないそうだ。協会は肋素のタンパク質以上のサイズスケールでの加工は最先端の技術を持つが、それより小さいスケールで起こっていることはほとんど何もわかっていない。
ウィンズロウは一息ついて、再び話した。
五年前ならそれも許容できた。しかし状況が変わった。ここ数年で、肋素間で伝達される信号が洗練され始めた。ある種のパターンのようなものが生まれ始めた。そこに肋素風邪だ。世界中に肋素が広がろうとしている。これがどういうことかわかるか?
エンブはすぐには答えなかった。少し考えて顔をしかめてーー逆光になっていてウィンズロウには見えなかったがーー口を開いた。
もしかしてあなたはネットワークの話をしている?
そうだ、とウィンズロウは答えた。
秩序だった信号を受け渡しできる粒子が世界中に広がっていて、しかもそれは生物の神経系に干渉できる可能性がある。もしプラットフォームを支配できたらどれほどのことができると思う? 協会は肋素に関する知識の平等な分配を目的としている。これほど強大な可能性を秘めたものを単独の国家や企業に占有させるわけにはいかない。なんとしてもわれら協会が最初に肋素の情報伝達を解明しないといけない。
ウィンズロウは言葉を切った。その目には妙に濡れていた。ウィンズロウはそれからシマンチュへの教会からの要求を伝えた。エンブが検討して数日中に答えを出すと返答して会合は終了となった。
ウィンズロウ、とエンブは応接室を出ようとする特使に声をかけた。ウィンズロウが扉に手をかけて立ち止まった。
今日は下の中央通りで祭りが開かれています。夜には二〇年追い続けた骨鯨の水揚げと解体ショーもありますから、よければ見て行ってください。
ウィンズロウは少し考えて首を降った。
やめておく、とウィンズロウは言った。
来る前にこの街のことを調べたときにある話を聞いた。この街の住人たちがどうやら固く信じている伝説のようなものだが。
へえ、とエンブが相槌を打った。
この街には“モップス“と呼ばれる掃除屋がいると。街に仇をなす存在を葬る闇の存在がいると。
へえ。そんな伝説が、とエンブが言った。
すでに陽は傾き、この部屋には灯りがなかった。ウィンズロウはエンブを見ていたが、その姿は薄闇に浮かぶ黒いシルエットと化していた。
私はこのまま失礼させてもらう、と言ってウィンズロウは部屋を出た。
夕刻、エンブと露は事務所の執務室に戻っていた。
けっきょく協会連中の要求はなんだったんです? 露が聞いた。
“肋素適合者“の研究協力、とエンブは言った。
それは、と呟いて露はエンブを見た。エンブは背後の窓を振り返って空を見ていたが、頭には午前にユニバーサル通りで会った少女ナンディを浮かべていた。
シマンチュの住人の中には肋素を摂取しても体内で機能不全を起こさない特異体質の者が数十名ほどいる。彼らは皆んな、肋素を体内に取り込むことで、周囲の高密度の肋素が行う信号伝達を感じ取ることができた。
まあ実験体にされるんだろうよ、とエンブは言った。
もちろんそんなこと許容できない。わたしはわたしの住民にそんな扱いは受けさせない、とエンブは続けた。
どうします?
そうだね、とエンブはため息をついた。
気乗りはしないけど、こっちからも攻勢に出よう。一応次の手も打ってあるし。
そう言ってエンブは席を立つ。
あの、と露が言った。
なに?
これからボスがやること、私もついていきます。
エンブは露の顔を見て、そこに浮かんだ思いつめた表情に思わず笑顔になる。
私では役に立てませんか?
違うそうじゃない、と言ってエンブは露のそばまで行って肩に手をかけた。
君には“そっち側“の仕事をしてもらいたい。一度“こっち“に来てしまうともう戻れないから。
エンブはそう続けながら露の目を見据えた。露は納得してないようだった。それでもうなづいて見せた。
数時間後、夜の洋上に古い小型狩猟船が浮かぶ。その向こうには街明かりに輝く船上都市シマンチュが低速航行している。小型船の方には三つの人影が動いていた。一つは操舵室に立つ上原霞ーー露の祖母ーーで、残りの二つは船尾側のデッキに並ぶ。立っている方の影がエンブで、座っている方の影がウィンズロウだった。ウィンズロウにはプラスチックチェアに縛られて座らされていて、その顔にはいくつかの痣ができ、唇と頰の切り傷からは出血もしている。ウィンズロウの両脇には動かない人影も二つ。それはウィンズロウの警護人たちで、こちらは椅子に座らされた状態ですでに死亡している。遺体の方には暴行の後はなく額に小さな穴が空いているだけであった。エンブの手には、前世紀に製造された火薬拳銃が握られている。
どんな手段を取ろうと我ら協会と貴様らのような一つのコミュニティでは戦いにならんぞ、とウィンズロウは言った。マスクを外された口からは唾が散り、その声にはまだ力が残っている。
わかっていますよ、とエンブはマスク越しにため息をついた。
だけどあなたたち協会を出し抜こうとしている大型勢力は沢山いるでしょう。その方々も関わってくるとどうでしょう。協会もただではすまないかもしれませんね。
操舵室から出てきた霞がエンブに道具箱を渡す。エンブはしゃがんで床に道具箱を広げて中身を物色しながら話を続ける。
わたしは人間が次元が違うと言ったり神だと言ったりして理解を諦める存在は単純にスケールの問題だと思うんです。例えばわたしたちの体は細胞の複合体ですが、それはたくさんの生命体の集合と考えることもできます。単離しても増殖可能な細胞もあるからね。そしてそれぞれの細胞は与えられた指針ーーDNAや化学的・物理的特性などーーに従って自立して生存のために代謝する。しかし、実はその働きはわたしという集合全体の思考や行動に影響を受けている。でもきっとひとつひとつの細胞はそういう上位の存在を感知できない。細胞にとってわたしという全体は遅すぎるし大きすぎるし複雑すぎるから。人が神というような理解できないもののある程度は、単純にこのスケールの違いによると思うんですよ。
そう考えると、人間だけで構成されている組織なんてどれだけ大きくても単純でしょう。必ずどこかに理解できるスケールが近い部分があって、そこを軸に崩していける。
エンブは話を終えた。道具箱のそばにはフルコースで使用するカトラリーのように器具が整然と並べられていた。エンブがその一番外側、ラジオペンチを手にとってウィンズロウを見上げる。
あなたにはまだ選択肢がある、とエンブが言った。
わたしたちが戦いを有利に運ぶための情報を提供するか、わたしたちを脅すとどうなるか伝えるための出来るだけ苦しんだ死体になるか。
ウィンズロウが返答に詰まって、エンブは立ち上がった。
では、指があるうちにまずは爪から……
そこまでエンブが口にしたところで腕輪端末が振動して着信を知らせる。そしてそれは緊急設定でコールされていたようで自動で船のスピーカーに接続して通信が始まる。声の主はシマンチュに残してきた露。
ボス、グレイモビィが!
露の声が響くのと同時に、海の向こうで大きな着水音がしてエンブと霞が同時にその発生源をむく。二人に見えたのは、海面からシマンチュの居住部までーー高さ五〇メートル弱ーー届くほどの大きな水しぶき。
霞は次の瞬間には操舵室に立っていて船を発信させていた。エンブは船首に回りながらマスクを外して大きく息を吸う。深呼吸をして肋素を血液にのせて改めて水面を見る。そして異変に気づいて腕輪に叫んだ。
シマンチュ全速後進、砕骨用の硫素噴射も最大にして!
エンブは下方の水面に急激に肋海の信号が広がり、強まるのを感じていた。しかし足は止めずに船首に設置された砕骨砲に取り付き、動作確認を行う。
砲撃スタンバイ! 操舵室に向かって叫ぶ。
肋切翼用意! 霞の方からも船が翼走待機状態に入ることを伝えてくる。
来る。エンブがそう感じた次の瞬間には水面が石灰質に変化し、同時に肋切翼が船体下部で展開されて船が浮き上がる。完璧なタイミングで翼走に切り替えたことで船は速度を落とさずに進む。そして、
再び予感がして、船首の五〇メートル先にグレイモビィが姿を表す。海面をエンブたちに先行する形で進む。エンブはその姿を見て何故死んでいたはずーー生命活動が止まっていることはエンブも直接確認していたーーの骨鯨が再び動き出したのかを悟る。
霞、前に回って!
操舵室に指示を出す。
この位置ではダメだ。いま狙うべきはグレイモビィの前方に異様に発達した頭部外骨格。肉に当てても意味がない。いまあれを動かしているのは“肋海“だ。
グレイモビィが再び潜る。
どこだ。視線を巡らせるエンブは新しい信号に気づく。
なんだこれは。それは視線を信号の方に向ける前の意識。実際に目を向けると、数秒思考が停止した。
海の向こうの肋海の山を突き破って巨大な鯨が飛び上がった。十秒ほど上昇し、同じだけの時間を掛けて着水する山のように巨大な骨のクジラ。
いまのあれ、シマンチュよりも大きくないか?
エンブの思考が再び動き出すのと同時に腕輪に着信。
ボス! 今の……
わたしも見た。サイズと距離は測ったか?
暗さと出てらめな大きさのせいでエンブは自信の目測に自信がなかった。
待ってください……出ました! 概算ですが全長七〇〇メートル、本船までは二海里弱です。
この間にも水面に超巨大クジラ骨が浮上してシマンチュへ向かう。
接近してきます。このままだと一五〇秒後に衝突します。退避間に合いません!
ここまで聞いてエンブは通信を切った。幸い、やるべきことは感じ取れた。
周囲を囲んだ肋海も向かってくる巨大クジラ骨も、同一の発信源から信号を受けて生成されている。
深呼吸を繰り返す。
血に肋素を取り込む。
集中。
手掌で操舵手に指示をだす。腕の向きで舵の方向、倒した指の数で速度を。
手掌を細かく動かして微調整。
霞がそれに寸分たがわず船を操る。
くる。
ここだ。
エンブは破骨砲を仰角に引き上げて発射する。
ほとんど同時にグレイモビィが海中から飛び出し、エンブに向かってくる形となった。
射出された砕骨杭が加速度と引き換えに速度をあげて、モビィの全身が海面から抜ける前に頭部骨格に杭が命中するが、それでも骨鯨は止まらず飛び上がってエンブたちの船を超えて両者がすれ違うところで杭に充填された硫化水素が炸裂する。
船は速度を落とさず進む。
背後からグレイモビィの残骸の落下音がするがエンブはシマンチュの方に顔を向ける。シマンチュの前方、半海里を切っているだろうところに半身水面から飛び出したクジラの形をした構造物が静止している。
体の力が抜けてエンブは床にへたり込む。
船は速度を徐々に落として止まり、霞が駆け寄ってくる。
エンブはアバラ協会特使の言葉を思い出した。
ーーここ数年で、肋素間で伝達される信号が洗練され始めたーー
すでに“肋海“はグレイモビィを模倣できるほど複雑な信号伝達が可能なのだ。
本当にあの男の言うように肋素が地球全体を覆ったとして、その上で発生した“何か“を人間は認識することができるのか。
霞がエンブのそばにしゃがんで顎の下に下がっていたマスクを着けてやる。エンブは肋素の過剰摂取で軽度の麻痺が発生している。
霞お願いがある、とエンブは何とか声を絞る。
なに? 霞が耳を近づける。
あの男を解放して、とエンブが囁く。
いいの?
しかたない、とエンブが言った。
もう人間同士で争っている場合ではなくなったのだから。
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