三次元から動作する二次元へ、またその回帰、超越的な相互作用
『SuperLite 1500シリーズ 魔紀行』
悪魔を魔の文字だけで表現したようなドス黒いタイトル、その前面に俺が主役だと言わんばかりの毳毳しさを身に纏い出現するPRESS START BUTTONの文字、物語の中へ誘うかのように淫靡に回転する。
ボタンを押すと重厚感のある地獄のような電子音が鳴り響く。
夕暮れ時、人は一人もいない、ただ背の高い木が影を落とす不気味で無機質な並木道、チンアナゴのように首をもたげる街灯。
ドローンキャメラ風の視点がその道をゆるりと突き進み上を見上げて右に曲がると大学講堂内へと移り変わる。
ここから魔紀行の物語は始まっていく。
魔紀行は正確に記述すると『SuperLite 1500シリーズ 魔紀行』というタイトルで2001年5月24日に発売されたプレイステーション用サウンドノベルだ。
この課題は文学についての批評を書くという課題だがここは強引に会話がある物語は全て文学であるという態度をとらせてもらう。ゲームと文学を並列で考えることで文学の外延を拡げてみたい。
簡単にあらすじを説明すると九頭竜大学オカルト研究会所属の主人公佐原明彦とヒロインの後輩水野利佳が「魔界ジャーナル」という心霊スポットを紹介する会員サイトの企画したホラースポットツアーに参加する為に京都に向かう。
物語もCGもBGMも素晴らしく良くできている良作なのだが中盤から破綻の前震が始まる。
このゲームの主軸は安倍晴明の陰陽道にある。
それをテーマにしたミステリーだと期待するユーザーが大半(本格ミステリーアドベンチャーというジャンルだった)だと思うがそれに対するカウンターとしての魚人が突如現れる。
ユーザーの古き良き日本的陰陽道式神伝説感は真正面から切り裂かれ、代替して輸血されるクトゥルフ神話。
この構図は「うみねこのなく頃に」を思い出させる。前提を破壊されるという点において。
『ザ・ゲームメーカー 売れ売れ100万本げっとだぜ!』
1998年9月23日にプレイステーション用ソフトとして発売された。
このゲームは新しいゲーム会社を立ち上げ売り上げ100万本目指すというゲームの中でゲームを作るというメタ的なゲームだ。
「RPGツクール」シリーズのように自分が本格的にゲーム内容を作るゲームでもなければカイロソフトが作るようなシミュレーションでもない。
現実を模した擬似世界の中で人生をよりリアルに体験する為にポリゴンキャラとしての1人称を付与されている。はやしたつおとしてゲーム会社のリーダーとして振る舞っていくのがこのゲームの目的だ。
内容は自分の机で業務内容を打ち出しプログラマー、イラストレーター、サウンド、などそれぞれの得意なジャンルの人に割り当てていく。
私はこのゲームに小学5年生の夏休みを全てをつぎ込んだ。
ここでは多感な時期にこのメタ的ゲームに囚われた私自身を分析しこのゲームについて解明したい。
囚われ抜け出そうともがいた理由、それはおそらくこのゲームのループ構造にある。
朝決まった時間に出社しパソコンで業務内容を打ち出して社員に任せる。時間まで仕事する。帰る。の基本はその繰り返し。
ゲームはこの現実世界の日常的仕事を超圧縮し、刺激的な内容物だけを取り出しこちら側に与えてくれる。
そしてその仕事を通して自分の分身であるはやしたつろうと社員同士の物語がそこにある。
終盤まで進むとその物語は完全にパターン化され物語の変化は閉鎖、経験値としてのパラメータの変化のみが視覚化されていく。
物語性の閉鎖とアクション性の喪失は飽きを生む。しかし私はこのゲームをし続けていた。
物語性の閉鎖に違和感を感じていた。
その頃の私の脳内はこうだ。
私→画面→世界
画面の奥に世界を捉えていた。
その世界が変化していかないことで脳が齟齬をきたしていた。
その齟齬を修正する為に画面にかじりついていた訳だ。
『ピカチュウ元気でちゅう』
世界初のNITENDO64用VRS(音声認識ソフト)が搭載され発売されたソフト「ピカチュウ元気でちゅう」
ピカチュウに対してコントローラのzボタンを押しながら付属のマイクに話しかけることでピカチュウを行動させステージを攻略していく。
このゲームはピカチュウとの対話がメインとなるのだがその対話が上手く機能しない。
なぜならマイクが自分の言葉を上手く認識しないのだ。ピカチュウの得意技である10万ボルトを何回も何回も繰り返し言うことになる。
ゲームはパターンの習得にメチエを感じ快感を得る。しかしこのゲームを動かす前段階としてピカチュウの機嫌を取る前に翻訳者であるVRSの機嫌を取らなければならない。
このゲームを正常に動作させる為に新たなゲームを動作させなければならない状態を「ゲームのそとでのゲーム」と言いたい。
つまり本来は快適にピカチュウを目的に導き操作されるのが理想とされる状態だが、現実はピカチュウ(VRS)にどれだけ自らの思いを率直に伝えられるのかに尽力するという本来とは異なった遊び方になっているのだ。
似た成分のものとして「操作性が悪い」ゲームが挙げられると思うのだがそことの違いはパターン習得によるメチエ習熟が困難という点に置いてある。
そしてこの困難性こそがこのゲームを面白くしているポイントでもあるのだ。
率直に言ってこのゲーム自体はマイクで幾らかの語群をピカチュウが受け取って反応してくれる以外に目新しいものはない。
しかしVRSという壊れた翻訳者が介入することでそこに伝わるか伝わらないか分からないコミュニケーションが発生する。
完璧に伝わってしまう状態は遊びではなく伝達手段だ。
伝達が容易な大人同士は物語の内容の差異で遊ぶが伝達が困難な乳幼児や動物等とは物語性ではなくむしろ語り口を工夫して戯れる。
時代が進むにつれ困難なことは少なくなる。それは遊びの多様性の喪失を意味する。
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