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喜劇・姥捨山・光

笑えない喜劇

『すばらしい新世界』 オルダス・ハクスリー

SF小説における古典的名作であり、またディストピア小説の嚆矢的な作品であるオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』。1932年に書かれた長編小説は、80年以上たった現在でも多くのひとに愛されている。はたしてその理由はなにか。一つはそのグロテスクなユーモアと先駆的な想像力が、後世の作家たちに多大な影響を与えたことだろう。いまだにテレビドラマの原作として親しまれ、人気が衰えない現状を見ると、その存在の大きさは計り知れない。
しかし、同様に親しまれている『1984』との受容のされ方はまったく違う。まず『1984』が全体主義的ディストピアに苦しみもがく主人公を悲劇的に描いているのに対し、『すばらしい新世界』の登場人物の多くは悲観的ではないどころか、享楽的な放蕩生活を何の疑問なく受け入れている。大森望氏が「すばらしく笑える」※1と記すように多くの読者に風刺的喜劇として扱われているは明らかだ。フリーセックスや乱交を推奨し、ソーマと呼ばれる薬物で幸福感に浸るのは当たり前、個人名は科学者や政治家の名前をでたらめにつけたようなものだし、文体も短いセリフが断片的に並べてたりシェークスピアの台詞を頻繁に使ったりと自由奔放である。
だがこれは本当に喜劇だろうか。というより、この小説を私たちは笑っていいのか。ベルグソンによると、近代の「喜劇的」なものとは「生命活動の機械化」により、本来は柔軟で不可逆であった人間活動が、機械的になったり可逆的または交換可能になったが故に生じるという。※2つまり、質問に機械的に答えたり、同じ行動を無意味に反復することで、人々は面白いと感じる。チャップリンの『モダンタイムス』がまさにそれである。
現在の私たちの生活は『モダンタイムス』でも『すばらしい新世界』でもない。それらとはまったく違った形で、確かに「生命活動の機械化」は進行している。小説の冒頭で「孵化条件センター」の所長は社会に必要なのは「哲学者ではなく、」「切手コレクター」であると言う。なぜなら個人は全体を見る必要はないからだ。確かに細部だけ見れば、単なる喜劇の集まりだ。しかしもし小説全体を眺めるなら、もし現在の私たちの立ち位置から見るのなら、最後のジョンの死はオセローの死であり、救いようのない絶望的な悲劇であろう。

 

民話と『楢山節考』の姥捨山

『楢山節考』 深沢七郎

そもそも姥捨山とは何か。本当にあったことなのか。公的な記録で姥捨伝説を残すものはないので民話に依拠するしかない。姥捨山に関する昔話には3つの類型がある。※3
1つ目は枝折・難題型。山に老親を捨てに行く途中、背負われた老親が毎回木の枝を折っていることに気づいた息子が、理由を尋ねると、枝があれば帰りの道を迷わないだろうと老親がいい、心情に感動した息子が姥捨てをやめる。その後、ある時、殿様から提示された難題に老親知恵のために答えられる、という形の話。
2つ目はもっこ(親を背負うための網)型。息子はその息子(老親の孫)を連れて老親を姥捨てに行くが、捨てた後に、息子がもっこを持って帰るという。理由を聞くと、いつか自分も親を捨てる時に使うからであると答える。それを聞いて、反省して姨捨を諦める、というもの。
3つ目は嫁姑型。これは大変単純で、嫁が姑をやっかいに思って姥捨てに追いやるという話。しかしその後に姑はなんとか家戻ってきて嫁に逆襲する、という形もあるらしい。
これらはどれも教訓的であり、初めの類型などは頓智話であると言えよう。では深沢七郎の『楢山節考』はどうか。論を待たず、この3つ類型には全く当てはまらない。深沢が昔話から創作したわけではないので当然ではあるが、それがゆえに、この『楢山節考』は姥捨て伝説の中でも残酷さや不気味さが一層際立つ。三島由紀夫はこの小説を「母体の暗い中に引き込まれるような小説」と評した。
『楢山節考』は坂口安吾が言ったように残酷で美しい「文学のふるさと」であっても「大人の仕事」ではないのだろうか。※4しかしこの小説の最大の特徴は歌である。小説中の歌はギタリストでもある深沢によって作曲されたものだ。つまりおりんが最後に歌ったであろう歌も子供たちが歌う姥捨ての歌もみな同じメロディを奏でている。辰平のやりきれない思いも、おりんの使命感も、一つ一つは虚しい感情だが、「楢山節」によって歌われれば、姨捨という「モラルある」社会儀礼として収束するのである。

 

 

光の逆説

『賢い血』 フラナリー・オコナー

主人公であるヘイゼル・モーツの行いは矛盾に満ちている。戦争で魂の気高さを証明しようと、逆に魂を失い、家に戻れば家族をいない。神を否定するために説教師となり教会をつくり、自分の高潔さを証明するために不純を行う。そして彼の行動には因果性や一貫性がまったく見えない。盲目の説教師に出会い、彼がペテン師であることを暴くが、結局モーツは盲目になることを選ぶ。またほとんど狂人である青年イーノックの言葉「賢い血」に触発され、無神論者ながら宣教活動「キリストのいない教会」を開始するという荒唐無稽さ。その後ライバルの宣教師に利用され、逆上し「ほんとうの預言者」を衝動的にひき殺し、石灰水で自らの目を潰すときも、まったく計画性はなく、支離滅裂である。しかし彼は、その狂信的で無秩序な性格ながら、何かにどこかに突き進んでいる。救済もキリストも信じないし、当然罪だって信じていなかったのにかかわらず、自らの穢れた血を洗うために苦行の道に進み、物語の最後には「一点の光とな」るのだ。
「あらゆる真理の背後には、ただ一つの真理しかない。そしてそれは、真理などというものはない、ということだ。」とモーツは演説する。彼の語り口は神を肯定するどんな説教師よりも力強いのは意外である。作者フラナリー・オコナーは無神論者ではなく、敬虔なキリスト教徒だった。彼女の短編の一つ『善人はなかなかいない』では、作中誰一人善人などいない中、最後におばあさんが命乞いする場面は、どんな悪人であっても善人になりうること強く表わしている。(結局、殺人犯もおばあさんも善人にはなれない。)
『賢い血』において、モーツは自らの汚穢を認め、針金を体に巻き、目を潰したが、結局彼はどこにもたどり着かなかった。しかし真理を否定し、神を冒涜し、醜く無残に彼が死ぬとき、一点の光が「清潔」な希望を私たちに示すのだった。

 

 

※1 『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー著 大森望訳 ハヤカワ文庫 訳者あとがき

※2 新訳ベルクソン全集3 『笑い―喜劇てなものが指し示すものについての試論』アンリ・ベルクソン著 竹内信夫訳 白水社

※3 『柳田国男とヨーロッパ 口承文芸の東西』高木昌史編 三交社 p.183

※4 『文学のふるさと』坂口安吾 青空文庫

 

 

 

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