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文学としての実存

「浸透する言語、浮かぶ身体」

2007年に蜷川幸雄演出でアルベール・カミュの『カリギュラ』が上演された。戯曲というものはそれだけで完結した読み物ではなく、純粋な文学とはいえない。ところが、井上ひさし氏がインタビューで語ったところによると、上演時に神田の古本屋から新潮文庫版『カリギュラ』が払底したという。つまり、本来未完成であるはずの戯曲というテクストそれ自体に、今の日本に生きる人々に強烈に訴えかける何かがあったのだ。

冒頭、カリギュラは愛する妹のドリジュラの死をきっかけに「人は死ぬ、そして人は幸福ではない」という、「単純明快な真理」にたどりついたという。そして「この世界はありのままでは充分ではない」ことを知り、月を欲するようになる。

この物語の中で月は不可能性の代替物である。故にこの物語は、カリギュラが論理を推し進め、皇帝としての絶大なる権力を行使することによって不可能なものを追い求める、あるいは世の中の不条理に敢然と立ち向かう、そしてその論理の行き着く先の破滅、という構造を冒頭で提示するが、その内実は大きな膨らみを持ち、難解かつ複雑で読み手を容易には立ち入らせない。カミュ自身もこの物語を「極めて高度な自殺の物語」と評する。が、逆にそうであるが故に、この戯曲には読み物としての魔力的な力が宿るのではないか。

この戯曲の言葉は、いわゆる劇言語的要素が強い。劇言語は物語を推し進める他目的的な要素もさることながら、実質的な舞台空間と虚構の物語世界の臨場感に拮抗するような身体を発露する為の、自己目的的な要素が大きいものである。その劇言語の内在性、さらには人間の細胞への高い浸透圧が、単に読み物の領域を超えて、言葉と読み手の身体の直接的接続を促成し、人間の意識的な側面により抑圧された無意識的な領域とカミュの言葉の内在的結びつきを可能にする。これによって外在的に見ると獲得不可能な物語が反転して、身体という内部に一点に集約し、内在的に比類なき圧倒的体感を通して、物語の獲得に至らしめる。

そして読み手は異物としての言葉、全くの外部物としての物語を、一旦内部に還元することで、新たな外部を発見するに至る。皮肉にも、カリギュラの「おれは人が真実の中で生きることを望む!そうやって生きるようにおれがさせてやる。」という言葉通り、当たり前に享受していた世界そのものを疑い始め、出会い直しを果たすのである。

 

「物質化する言語、沈む身体」

ウージェーヌ・イヨネスコ作『授業』

この作品は教授と女生徒の授業を通して展開される。

序盤は数学の授業を通して、異なるフォルムの常識がぶつかり合うことで、一方の説明や質問に対して、もう一方の解がその説明や質問自体を無化するという、教育現場でよく見られるようなコミュニケーションの不条理性の形態をとる。

教授 我々が扱っている数字は全てが同じ種類であるとすると、最大の数字とは一番多くの数を持つものとなる。
生徒 一番多くの数を持つのが最大の数字?それじゃあ先生は質と量とは同じだとおっしゃるわけですね。

教授 これらの基本要素、棒即ち数字、これが数を数えるための基本要素であり、それら全てが同時に存在する。これらの要素を使えば、数を数えることができるわけだ。
生徒 みっつの数からふたつの数を引くことはできても、みっつの三からふたつの二を引くことはできるんでしょうか?よっつの数字から二つの数は引けるんですか?

ところが、言語学の授業に入ると、様相は変わってくる。不条理性のモードが転換するのだ。二人のコミュニケーションはある種断絶され、教授は言葉の世界へと没入し、自閉的になってゆく。そこで言葉は教授の玩具と化し、寧ろ教授されているはずの女生徒の侵入を拒み続ける。自らの倒錯した論理に埋没し、言葉はより物質性を帯び始め、女生徒にとって本来の言葉の機能や透明性を失い、実存的な音の塊へと変貌を遂げるのである。
終盤、その音における実存の世界から「目に見えないナイフ」を取り出し、

教授 これ一本であらゆる言語に対応できる。いいかい、ナイフという単語をあらゆる言語で発音してごらん。これがその言語だと一心に想像するんだ。
生徒 何語ですか?フランス語、イタリア語、スペイン語?
教授 そんなことはどうでもいい、どうでもいいからただ言えばいいのさ。

ここで、言葉と対応する現実そのものが言葉を剥ぎ取られあらわになる。最後に、

教授 ナイフが凶器に変わることもある。

言葉としての物質性に一気に世界の機能としてのあり方が集約し、女生徒の刺殺へと至る。物理現実世界と、言語領域世界の狭間のダイナミックな転換が見て取れるが、言葉を発語する、つまりは音としての実存性に比べ、文字としての実存性は強度が圧倒的に弱く、それ故この戯曲は演劇的実存性に依拠しているものであるといえ、読み物としての機能は薄いように思われる。

 

「物語と言葉の狭間に」

文学の実存性は文字や言葉ではなく、読み手の身体に宿るものであるといえそうだ。

では、文学において身体の実存性を担保するものは何か。

別役実は『言葉への戦術』において、文学の下女に甘んじたる演劇に対して、イヨネスコやベケットを「現前の舞台空間の直接的な解明の作業によって、真空状態における実存と実存の触れ合い」に成功し、一定の演劇的直接性を提示し、「日本の演劇界に及ぼした衝撃力は絶大であった」と評している。

しかし、先の論に従えば、読み物としてのイヨネスコ的あるいはベケット的文体は演劇的実存性に依拠しているため、逆に文学としての読み手の身体を沈み込ませてしまうと言える。

劇言語と身体性の問題は、舞台空間の臨場感を内部の身体性に寄せた見方であるが、一般的に観客(外部)というものは内部のストーリーにそのゲシュタルトの第一義を置く。もはや語るべき物語はあるのかという問題もあるが、以前村上春樹氏だったかが語っていたように「物語とはその内部空間の共鳴度を高めるための真空管のような装置である」との前提におくと、戯曲の持つ物語における文学性と、劇言語における身体性は依存関係にある。

これらの力関係の諸問題は日本演劇の歴史とも言えると思うが、同時に、この依存関係の極地に文学としての身体の実存が潜んでいるのではないだろうか。逆に、物語も信じ切れず、劇言語も信じ切れず、実存の拠り所が宙吊り状態となっている文学の場合、読み手の身体はどこに行き着くでもなく、止り木を失い、ついには霧散するのである。

文字数:2650

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