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この美しい、世界の果てに。

◆取り残された時間と、ダンスを。
―『飼う人』柳美里(2017、文藝春秋)

もしかしたら、私の時間は周りと同じ速さではないのかもしれない。誰しも、時間が「早く/遅く」感じる時があるだろう。とりわけ「自分だけが取り残される」状況は最も痛ましい。

柳美里の連作小説集『飼う人』の登場人物たちは行きがかり上、生き物を飼う。人生の淵で、落ちないようにギリギリで生きている彼らの時間感覚は切実だ。始まりは、ただ可愛い、珍しい。そのうちに、ままならない自分の身代わりや姿鏡として愛でていく。

[わたし]は、子どもを授からず夫にも失望する(「イボタガ」)。独身の[自分]はリストラに遭い、コンビニのフリーターをするうちに32歳になった。〈時給820円で働いているのに、時間から疎外されているなんて、奇妙だ〉と思う(「ウーパールーパー」)。[ママ]の発案で神奈川から原発事故近くの町に引っ越した16歳の[ぼく](「イエアメガエル」)もいる。[おれ]は、妻=[わたし]の限界に気づけず、自らのさみしさも埋められない(「ツマグロヒョウモン」)。

[おれ]は非常食を頬張りながら〈東日本大震災の後ぐらいまでは、まだ子どもを持つことを諦めてはいなかった。我が家には、おれと彼女と子どもの三人が外に一歩も出ないで三十日間過ごせるだけの水と食料が備蓄されている〉ことを思い出す。

あの日から、夫婦が子どもを諦めるぐらいの年月が経っている事実にうろたえる人も少なくないだろう。まだ取り残された風景は山積みだ。しかし実は、今に始まったことではない。この国には取り残されて生きてきた人がずっといる。彼らはその象徴だ。

そして、[ぼく]は原発・震災関連の事実に16歳の感想を挟まない。ナレーター的に事実を述べる。それは技巧にとどまらない。著者の眼差しだ。震災後、鎌倉を離れて福島で暮らし始め、この春には自宅で書店兼サロンを開店させた。苦しみと文学・演劇で向かい合ってきた著者だからこそ、取り残された時間をすくい上げることができる。

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◆スワイプの、その先へ。
―『三姉妹とその友達』福永信(2013、講談社)

「日常」と呼ぶ状態は前兆もなく終わりを迎える。その逆も同じ。非日常も、あっという間に広まれば、ただの当たり前になる。

福永信『三姉妹とその友達』は「三姉妹」と「そのノベライズ」という2部から成る。まず「三姉妹」は戯曲のような小説だ。第1幕から4幕まで、長男・次男・三男・四男という順番のモノローグで進行する。「そのノベライズ」はタイトルの通り「三姉妹」のノベライズ。単なる解説や焼き直しではなく、オリジナルパートも加えられている。

舞台の設定は、2012年7~9月と2021年10月。都内に住む四人兄弟が、現代社会における人間性の回復を目指し〈多機能携帯電話を廃棄し、貝がらを耳にあてるよう訴える〉運動を始めた。〈人は心を鎮めることができる〉し、〈本来は聞き取れぬはずの声と交信することまで可能〉だという。他人のスマートフォンを回収する代わりに貝を渡すという奇妙な活動だ。

モノローグには東日本大震災とその後を暗示する内容もあり、一連の活動は2021年に振り返っている設定だ。執筆時点でTOKYO2020は未決だったが、祭典の前夜を生きる私たちには、この一致を無視できない。このように読み手は観客の一部になり、作中の風景にも溶け込む。しかし最終的には、部外者として作品から放たれる。

スリリングな文体にさまざまな試みが練り込まれた本作は、一見すると得体の知れない作品だ。しかし、それだけではない。すでに私たちは、この散らかった感じを知っている。タイムラインに出現する、あの不思議な時系列。「それな!」のひと言で済まされる会話。AIスピーカー。時空間は、すでに変化を始めているのかもしれない。そう考えると、四兄弟の行動は逆説的だ。膨大な情報を扱うスマートフォンも、液晶パネルを介しているからこその制約もある。これが、あの貝のように意識やエコーだけでつながった世界は、どんな色をしているだろう。新しい空間軸を予感させる文学が、ここにある。

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◆This is Japan. これが日本です。
―『ワイルドフラワーの見えない一年』(2016、河出書房新社)

攻めている!松田青子はやっぱり攻めてくる。しかし、喜んでいる場合ではない。私たちは、相も変わらず戦わなければいけない状況なのだから。

かつて『スタッキング可能』が出てきたとき、これが真の「お仕事小説」のスタンダードになるのだと想像して武者震いをしたものだ。これからは、私たちの時代だ、などと。しかし、実際はどうだっただろう。共感の嵐はすぐに去ってしまった。嵐にさせた愛読者の責任もある。もっと、霧のように、プスプスプス……と拡散しなくてはいけなかったのかもしれない。彼女の筆致に好感を持つ人が、必ずしも「そうだ、その通り!」となるとは限らなかったのだから。そもそもマイノリティは、圧倒的に絶対数が少ない。

ある人に感想をもらったら「妄想が過ぎるよ」と言われた。「見たままの世界でしょ?」と息巻く前に悟った。――そう、普通は自分の見えている側からしか見えない。

本作は、表題作と書き下ろしを含めた短編連作集。いつもは見られていない私たちの世界を、著者が日の下に晒していく。槍で突き刺したと思えば炙り出しに、北風を吹かせたかと思えば太陽で照らす。ここには表現の暴力性を知る者の覚悟がある。

その数は50編。そう、50編。攻めているのだ。

「世の中的には連作短編がいい、女流作家は特に」という声に、敢えて乗ってみたという凄みがある。それでいて、必然性のある作品ばかりだ。散文詩に、小説に、色々なワイルドフラワーが混じり合ったこの本には、他ならぬ、この国が写し取られている。

片側から見ているようで、きちんとそちらも見ている。というよりも、社会に出るうちに、自分が所属していない側の視点も持てるものだ。自分がマイノリティの場合は、特に。この本は、読んだ人の心に種を蒔ける。センセーショナルに扱われるのではなくて、色々な人に読んでもらってこそ、真価を発揮する。だから、私たちだけではなく、あなたにも読んでほしい。

文字数:2854

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