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NEVER KNOWS BEST/現代の批判

1.社会生活に疲れたあなたに
理性は自殺を否定しない。ならば、どうしてひとは理性によって必ずしも自殺をしないのか?それは人格/幻想/時間意識の書き換えが生じるからで、そのゆらぎが死を忘れさせる、それゆえ、せいぜい数十年の人生で適度に変質することでひとは生きることが許されている、それが僕が語りうる理性の限界である。どうしてそんなことを語るのかといえば、資本主義が宗教の代用品になってから、ひとびとの不安や鬱屈を鎮めるちからは減退しつつあり、システムがそれを調達することは考えにくいからだ。ギュスターヴ・ル・ボン『群集心理』は、そんな時代を生きるわれわれに<善く生きる>ための指針を与えてくれる一冊になるだろう。ひとが歴史や古典を学ぶひとつの意義は、世の摂理やパターンを知ることで、運と気質が人生を大きく左右するといえど、社会のなかで「自動人形」にならずに済む手がかりを見つけることにある。もちろん、凡庸さを積み重ねる毎日に愛着を覚える生存作法を否定するわけではないけれど、「生存のために存在を放棄している」と感じるあなたには「群衆心理」を考察する意義はあるはずだ。「迷いも疑いもせぬものは早く埋葬されたほうがいい」と時代の教養人はよく言うけれど、「迷いも疑いもせぬうちにできるだけ多くを生きたほうがいい」と僕はつくづく思うわけで、「だました男がだまされる時、はじめて女を知るのか」と、明晰な思考の結末に絶望しないだけの、支離滅裂な愛すべき生のタフネスを思い出してほしい。「書を捨てて、町に出よ」と書を持たない俗物に理性が混ざることの厄介はあるにしても、高潔であるがゆえに早く埋葬されそうなひとびとに、愚が愚なりに持つ偏食的なちからを獲得するのはどうだろうか、と「ペニーレインでバーボン」を飲みながら僕はいいたいのだ。

2.アドルノ/ベンヤミン読者のあなたに
マーティン・ジェイは、圧倒的な学識と魅惑的すぎる記述力で散らばった現代思想を暴力的に繋ぎ合わせ、ひとつの思想からは汲み取ることのできない、思想史だからこそ可能な独特で軽妙で一風変わった<力の場>を形成している。もちろん、それが何をもたらすかはわからないが、愛すべき作家のひとりである。ひとが古典や歴史を学ぶのは、世の摂理やパターンを知ることの処世訓的な意味もあるけれど、本当に大事なのは死んだ人間のやり残した仕事を片付けるってことにあって、その仕事を見つけることが生きている人間の務めだともいえるし、そういう意味では生きる価値はその辺にころがっている。それを思い出させてくれるのが、マーティン・ジェイ『力の場』だ。「力の場」はアドルノが用いる「過去と現在のあいだの緊張にみちた相互作用」を暗喩する観念であるが、批評態度それ自体は、ベンヤミン「破壊的性格」「文学史と文芸学」よろしく、思想状況を使い勝手もよいものにして流動化させつつ、言い換えれば、博物館的性格を放棄した思想史によって、現代社会の相貌を示している。もちろん「真の哲学とは平易な言い換えに抵抗する思想なのだ」というアドルノの主張も存分に継承されており、軽妙で溌溂な文体とは裏腹に、読解は容易ではない。それは<芸術のための芸術>が俗物から芸術を守る最後の<理念>であるように、<力の場>は「肉の値段」を量るみたいに、誰もが彼が<哲学>を簡単に値踏みできない磁場を放っている。そういった難解さは特定のひとびとを解放するというよりはむしろ束縛するのであって、支離滅裂な湧き上がる感情をひとは理性で抑えることはできない。僕たちはそんな彼を愛さずにはいられないのではないだろうか。

3.21世紀を生きるあなたに
水平性は悪であり、垂直性こそが善である。10代の終わりにそんな霊感を与えたのがキルケゴール『現代の批判』だった。教養がもたらすひとつの(一時的)弊害があるとすれば、社会や大衆が嫌になることで、それはキルケゴールにおいても否定できない。なかでも時代を診断する「沖合の薄い氷上にある宝石をめぐる冒険」というべき寓話は見事で、いまなお説得力を持っている。宝石を取りに行く勇者はもはやおらず、氷が割れるギリギリのところでターンする名人芸に分別顔した観衆が喝采し互いの賢明さを称賛しあう、そんな話である。換言すれば、過剰な反省のもたらす無性格な妬みとメディアの変容によって出現した抽象的な公衆の幻影的なちからが、個人の存在を損なわせた。それを時代の病「水平化」と批判しているのである。キルケゴールが実存主義の元祖といわれるのは、そういった時代精神のなかで、もっぱら合理的体系によって主観的直接性を排除するヘーゲルに対抗して、主観的直接性および飛躍(垂直性)を擁護したからだ。さて、20世紀の実存主義を大雑把にみれば、必ず訪れる死の未来を覚悟することで現在の生を漲らせるハイデガーと未規定な過去と現在の緊張関係に救済を追い求めたベンヤミンがその継承といえる。20世紀は資本主義の宗教化と心理学の進展を背景に、両者には時間意識が通底している。もし現代における「水平性」がなにかといえば、時間意識ではないかと僕は思うのだ。「人生は短い」と口走ることが幸か不幸かわからないが、21世紀を生きるわれわれにとって、ハイデガーはもちろんベンヤミンもまた巨大な壁となる日が近いのではないだろうか。それゆえ、唐突ではあるけれど、実存主義はキルケゴールよりむかし、脱時間性による神の流入、すなわち「離脱」を説いたエックハルトに遡るのが、21世紀を生きるわれわれにとって突破口になりうるのではないだろうかと提言したい。

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