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文学を理解・表現・拡張する

 

 

キルケゴール『死に至る病』はキリスト教者にしか理解できないのか?

 

「理解(わか)った? 難しかったでしょ。」

哲学書を読んだことがあり、その事実を他人に話したことのある者なら、一度はこの言葉を聞いたことがあるだろう。『死に至る病』はまさにそういう風な書物である。

「自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことなのである。」

『教養主義のリハビリテーション』(大澤聡)の中で、哲学者の鷲田清一もこの冒頭の一節の「見得」に大学に入って最初にやられたと語っているが、多くの読者がいきなり篩にかけられてしまうことは有名である。ただしそこで躓いたとしても、ある一定以上の読解力と根気がある者ならば『死に至る病』に書かれている「論理」を理解することは難しくない。なぜなら書全体がこの一節の内容の答え合わせをしながら進んでゆくものだからである。

しかしどうにか論理を追って最後まで読みきったところで、キリスト教にあまり縁のない読者には新たな問題が浮上するかもしれない。「私はキリスト教者でないから理屈はわかってもこの書を真には理解できない」という問題である。もしこれがこの書物に対して下す“最終的な”結論であったら、そこには一つだけ真実が含まれている。それは「あなたは確かにこの書を真には理解できていない」ということだ。

キルケゴールは、わけもわからずに賛同することがないように、内容を見抜くのに努力を要する著作だけが価値があるとして、容易に見通せる叙述をしなかった。先述の問題に、容易に見通しを立てられることを恐れずに答えるなら、「キルケゴールはキリスト教の普遍性を証明したが、同時にそれはキルケゴールの普遍性を証明することにもなった。ただしキルケゴールは決してキリストではないから、だからその思想はキリスト教者でなくとも理解できる」のである。

 

 

 

なぜ、爆笑問題太田光は常にメディアの最前線で表現し続けられるのか?

 

売れっ子お笑い芸人。今の日本において最も己の表現が人々の目にとまる職業といって間違いはないだろう。その最前線を30年近くに渡って走り続けている爆笑問題の太田光。現在でも10本近くのテレビやラジオのレギュラーを持つ傍ら、小説・エッセイ・学者との対談本など著作家としても50以上の書籍を出版している。その芸能生活30周年を記念して出版されたエッセイが『違和感』だ。

専業作家ではなくお笑い芸人である彼のエッセイには、本の中で初めて語られる話ももちろんあるが、他のメディア、特に自らのラジオの冠番組で語っていた話も少なくない。このラジオで話したことを自分で文章に落とし込むという作業、この作業は実はとても珍しいものではないだろうか?

基本的に自らのお笑い芸人という職業を遊びの延長に過ぎないと考えている彼にとって、最もその感覚が強いのが、ふらっとスタジオに来て好き勝手なことを自由に喋って帰るだけのラジオの収録だという。ラジオでお笑い芸人の彼はどんな難しい話もおもしろおかしく様々なくすぐりを交えて喋る。一方で、数少ない仕事の意識で取り組んでいるという本の中では、同じ話でもテーマからそれるくすぐりは削られ、その分エッセイ的な心情や思索が追加されている。単にラジオリスナーを笑わせるためだけに語った話を、もう一度頭の中で分解し、笑い以外の表現で再構築しているのである。

日常に起きた面白かった出来事や他人と喋ったことをもう一度自分で振り返って思索し、丁寧に文章に落とし込む。ごく普通のことだが、SNSによって誰もが簡単にメディアとなれる今、本当にこの行為を大切にしている人がはたしてどれだけいるだろうか。

だからそれを大切にする彼は売れ、テレビ・ラジオ・本・映画、あらゆるメディアで表現することを許されているのである。

 

 

 

設定資料集は副読本にすぎないのか?

 

国民的RPG「ファイナルファンタジーシリーズ」は日本の家庭用ゲームの中で最も開発規模の大きいタイトルの一つとして有名である。2009年PS3で発売された「ファイナルファンタジー13」もその例外ではなく、その開発に携わったスタッフは約1000人にものぼるという。

『FINAL FANTASY 13 ULTIMANIA OMEGA』は同ゲームを500ページ以上かけて徹底的に解説した設定資料集である。主な構成としてはストーリーの全脚本、ゲームの世界観を作るために描かれた500枚近くの設定画、そしてそれらをどのような意図で、どのような想いを込めてスタッフは制作したかというインタビューから成り立っている。

この中でも特に圧巻なのが、ストーリーの解説である。ゲームのストーリー中の全てのセリフのやりとりはもちろん、なぜそのセリフを発したのか、その時のキャラクターはどういう心情であったのか、セリフにはない画面上でのさりげないキャラクターの表情の変化の理由まで制作者側からタネ明かしされているのだ。明らかに普通にゲームをプレイしていてもわからない、そこにはゲームとは違った物語が描かれているのである。

もちろん制作者がゲーム以外の媒体を使って行った(しかも設定解説という直接的な)補完を、ゲーム自体の内容・評価として含めるかどうかは意見が分かれるだろう。しかしそれは裏をかえせば、ゲーム自体がどうであれ、設定資料集を独立した文学作品とみなすこともできるということである。

もしこの本を全て読んだ上で、もう一度ゲームを楽しもうとニューゲームを選択したのだったら、もはやゲーム作品とそれを補完する設定資料集という関係性は逆転して、この『FINAL FANTASY 13 ULTIMANIA OMEGA』という作品を味わうための補完としてFF13をプレイするのではないか。

 

 

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