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見つめる視線のその先に

 

袖振り合う視線 〜平野啓一郎『氷塊』~

平野が実験的な小説を集中的に書いていた時期の作品。

紙面の上段と下段とで別々の物語りが進行し、ときたまそれをまたいだ共通部分が挿入される。少年の物語と女の物語は何度か近づきながらも収束することなく終わる。二つの異なる視点を並行してえがくことは、純文学でもミステリーでも珍しくないが、『氷塊』のユニークさは、あえて同じページに二つの物語が並行して書かれているというその形式にある。しかしなぜこのスタイルは実験で終わってしまったのか。

小説を読むにあたり、作中の全ての「視点」は読み手の意識の流れの中に還元され、そこで一本の線にならざるを得ない。それは時間というベクトルをともなった読み手の「視線」と云ってよい。
『氷塊』を手にとって、たいていはそれぞれの段を別々に読み進める。二つの異なる文章をまったく同時に読むことは不可能だからだ。つまり、上下段に書かれているという形式にもかかわらず、二つの物語を続けて読むことと基本的に異ならないのである。

それでもなおこの形式に大きな可能性を感じるのは、一方の段を読んでいるときに、否応なくもう一方の段が目に入って来るという​その偶然的な強制性だ​。わたしたちは日常で、他人の世界と常にとなりあわせに生きている。カフェで耳にする近くのサラリーマンの会話。薄いアパートの壁の向こう側に感じる気配。聞く気がなく、見る気がなくても意識する他人とのかすかな接触。それを直列的に残像としてつなげるのではなく、同時的にそれを認識する意識のあり方を表現するのに、これはきわめて誠実な書き方と云えるのではないだろうか。そこに書かれるのは、ひとつの時間軸に従わざるを得ない意識が「他者」の軸と袖振り合うさまであり、同時にそれをリアルに追う読み手の「視線」である。

 

​ものをかたる視線 〜村上春樹『三つの短い話』~

この三編​に共通するの​は、いずれもなんらかの作品ないし物語にたいしてそれを見​つめ​る視線​、いわば「批評する目」​がえがかれていること​である。

「石のまくらに」では​送られてきた短歌に対する「僕」の視線​がえがかれる。

「クリーム」​は​神戸の高級住宅街で体験した不思議な出来事を「​ぼく」自身が語って聞かせるという話​。​​不思議な老人​の​​「中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円」という謎めいた​セリフは​、村上の​書く​小説世界そのもの​だ。二つの異なる世界​を並行​して書く​という手法は​村上文学ではおなじみだが、この​印象深いひとこと​は​、​村上がそのようにしか書くことのできない「世界」のありかたについて端的に​あらわしたもの​に聞こえる。

「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」​では​、​架空の​レコード批評​と不思議な夢を​「僕」が振り返る​。​語られる内容と語り手の距離は、そのままフィクションである小説と読み手の関係であり、「石のまくらに」で書かれた「僕らの身にそのとき本当になにが起こったのか」を問う視線である。リアルでないのに信じられるもの。実際におきたことなのにリアリティのないもの。​わたしが信じることができるのは、わたしの物語でしかない。それは文字どおりわたし自身が「もの」を「かたる」視線なのだ。

「石のまくらに」のラストで「生き延びた言葉たち」​は​「多義的な表現手段しか持ち合わせない」​が、それでも「証人として立つ用意」ができていると(めずらしく​直接的​な表現で)語られる。村上は短編で新しいテーマについて実験を行い、それをもとに次なる長編に挑む​ことが知られている​。​わたしたちが忘れることのできない7年前のあの出来事について、​村上はようやく​真正面からなにか書こうとしているのかもしれないと思われた。

 

視線を持たざるもの 〜有嶺雷太『コンピュータが小説を書く日』~

名古屋大学の佐藤・松崎研究室でAIに書かせた小説が第三回星新一賞の予選を通過した​ことが​話題になった。作品の表題は、作中でネットにつながったパソコンたちが自分の意思で数字の羅列とみられる「小説」を書くということ、また同時にこの作品自体がAIによって書かれたことを指す。

AIが書いたと云っても完全にゼロから生み出すわけではなく、人間の手でプログラミングされたストーリー文法とパラメーターによってさまざまな単語を組み合わせたものにすぎ​ない。またプログラムの精度を上げ膨大な学習を行えば、もっと自然な文章を書くことは​もちろん​可能かもしれない​が、現段階でその文章の稚拙さは​云うまでもない​。しかし、ここで問題なのは文章のうまい下手でもなければ、そもそもAIが書いたと云えるのか、ということでもない。

これは小説なのか。

たしかに、今後そのプログラムの精度が高まれば高まるほど、AIは文学らしきものを生み出すことは可能だろう。しかし、​ここで​選ばれた要素を結びつけているのはA⇒Aという論理である。AIの選択する素材があたかもひとつの時間軸をともなった線のように見えても、それはプログラムされた文法のはたらきにすぎない。そこに読み手がみずからの「視線」を重ねようとするときに感じる違和感の正体は、線である振りをした点の集合体のグロテスクさだ。

近い将来、論文や辞書をAIが作ることは可能かもしれない。しかしコトバが論理による点の結びつきではなく、その織りなす遊戯によってイメージを線​化する​「文学​」​を書けるかは別の問題だ。文学と文学でないものとの間にあるのは、そこに時間の流れをともなってイメージをとらえる「視線」があるかという境界だ。「視線」を持たざるものは文学とはまた別の世界の住人​なの​である。

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