印刷

文学はどのようにして、自己を客観的にとらえる方法を提示できるか

「もっと自分を高めたい」

ここでは「芸術家」(パトリシア・ハイスミス『女嫌いのための小品集』所収、河出文庫1992年)を題材として、「素人の芸術好事家が、教育を受けることの効用はあるのか」という問いを立てます。そして、自らの受動的な姿勢を矯正しようとしない限り、高名な芸術家に教えを受けても自分の技術を高めることにはならないという解釈を提示します。

この物語は、たった二人の登場人物しか出でこない、わずか六ページあまりの短編です。妻のジェーンは様々な分野の芸術に挑戦し、その全てを中途半端にしたまま放り出します。そんな妻の独りよがりな態度に夫のボブは翻弄され、やがて妻の通う「総合芸術学院(原作ではThe School of Arts)」を憎むようになってしまいます。ジェーンは絵画、ダンス、声楽、彫刻と様々な種類の芸術に夢中になるのですが、困難に直面すると「ぱったり進歩が止まり」、別の分野に興味が移ってしまいます。ジェーンは永久に素人のまま、学校の生徒であり続けようとします。

これに対して、芸術を愛好する人が全員、玄人になる必要などない、という反論が挙げられます。素人でも趣味を持ち充実した余暇を過ごすことができれば、豊かな人生と言えるのではないか、という主張です。しかし論点は、玄人になり金を稼ぐことではありません。私は、自分の困難な状況から目を背けること、つまり自己に対する客観的な観察を欠いたままで「高尚な芸術」に我を忘れることの危険性について指摘したいのです。作品中においてもジェーンは家事を怠るようになり、夫との関係も悪化していきます。芸術と真摯に向き合うことのないジェーンの姿勢は、高尚な芸術に取り組む自分の姿に満足し、また他人を自己の卓越化のための鏡(道具)とする点において、有害であるとすら言えます。

結論として、素人の芸術愛好家が学校に通っても、困難な状況に対して目を背けたままならば、芸術教育を受ける効用はないこと、逆に自分を客観的に見る機会を失ってしまう危険性さえ存在することを示しました。

 

「あなたのことはよく知っているつもりです」

ここでは「悪女について」(有吉佐和子、新潮文庫1983年)を題材として、「複数の視点から構成される小説には『対話』があるとみなしてよいのか」という問いを立てます。結論として「対話があるとはみなせない」のですが、この小説において、なぜ私がそのような見解を持つに至ったかを以下に示します。

この物語は、戦後から1970年代の経済成長期の日本において、多くの男性・女性を翻弄しながら社会的地位を築いた女性の主人公について語られています。主人公からの視点は一切描写されず、主人公を取り巻く27人の証言が、主人公の死後に、マスコミの記者に独白されるという複数の視点による「多元焦点化」の形式で描かれています。主人公の視点による描写がないため、最終的な回答(事の真相)は提示されないまま物語は結末を迎えます。複数の証言が矛盾しあうという映画「羅生門」形式ですが、登場人物は全員、マスコミの記者に各自の体験を語るだけなのです。私は、少なくとも登場人物間に対立や葛藤が生じない限り、そこに「対話」が生じているとは言えず、各自のモノローグに終わっている、と判断しました。

これに対して、物語の最終的な回答が提示されていない小説には、読み手の多様な解釈に対して開かれており、少なくともモノローグに終始しているとは言えないのではないか、という反論が予想されます。しかし小説に限らず、「ある歴史上の出来事」について、価値観が異なる人々の報告・意見が異なるというのは、近年の歴史修正主義に関する議論に繰り広げられているとおり、実社会でも起こりうることです。あえて言えば、この作品は、聞き手であるマスコミの記者が後で全てを暴露する事になったとしたら、物語の結末以降に「対話」が開始されるかもしれない、という予感のみが暗示されているため、そのひっ迫した緊張を読了後の読者に与えていると言えます。

従って、お互いに矛盾する複数の視点から構成されているとはいえ、それだけでは「対話」がこの作品中に展開されているとは言えない、という結論を提示します。

 

「書き言葉が私の反応を変えたとき」

最後に”The little mermaid(人魚姫)”(Hans Christian Andersen,The Best of Andersen’s Fairy Tales, IBCパブリッシング ラダーシリーズレベル1, 2012年)を題材として、「書かれた文字のみから全く異なった印象を引き出すことは可能か」という問いを立てます。この問いに対しては、難易度が高くとも、自分にとって興味ある題材の小説を外国語で読むと、それ以前には注意を引くことのなかった別の容易な作品(物語)を、より印象深く鑑賞できる可能性があることを示します。

「人魚姫」はアンデルセンの有名な童話なので、物語のあらすじについては省略します。この本は巻末に英単語とその品詞、文脈に合った日本語の語彙が掲載されている、大変親切な英語教材です。レベル1は一番やさしいレベルなのですが、一度目に読んだ時、英文を追い続けることが苦痛で、私は途中で挫折してしまいました。そして同じシリーズの教材の「高慢と偏見」という、ジェーン・オースティン作品の縮約版を読みました。内容には興味を引かれましたが、ただしこちらはレベル4で難しく、読了まで時間を要しました。その後、再び先ほど挫折した「人魚姫」を最初から再読しました。すると同じ文字から「生き生きした物語」を感じて、この物語にすっかり没頭することができるようになったのです。

この見解に対しては、難易度が高めの英文読解力がつけば、それより簡単な英文の読解が容易になることは当然であり、「自分の興味を引くかどうか」は必要条件とは言えない、という反論が挙げられます。しかし、難解な英文読解の訓練を積んでも、訳読の際には、日本語の翻訳文を再構築する作業がまず優先されます。ところが、自分の興味を引く英語の物語を読了した後は、物語の次の展開を予測しようとして、目の前の英文により能動的な姿勢をとることができるようになったことを報告いたします。

従って、外国語のダイジェスト版を複数活用し、自分にとって興味関心のある小説を通読することにより、書かれた文字のみから全く異なった印象を引き出すことは可能である、という結論を提示します。

文字数:2645

課題提出者一覧