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ロベルト・シューマンにまつわる三つの断章

ロベルト・シューマン〈フモレスケ〉作品20

シューマンの作品を、ロマン派文学と関連付ける言説は、今日月並みなものとなっている。これを単に伝記的側面にのみ関わる事柄として片付けるのは、早急である。というのも、作品の組成をたどれば、むしろ彼の作品自体が文学であると、主張したくなるのである。彼の作品を単なる音の組成としてみたとき、ともすれば不出来とも捉えられる楽章が存在する。これは例えばオーケストレーションという議題で、ブラームスとの対比で語られうる。しかしシューマン作品のそうした瞬間は、不可解でこそあれ、不出来ではない。音素材に従った論理構成としては破綻しているような瞬間に、何かがある。仮に文学を、「構築と表現との対立のうちに、何かポエジーが浮かび上がってくるテクスト」のこととするならば、シューマンの作品もそのうちに数えられるのではないか。
〈フモレスケ〉は小品集が一続きになったような形式感で、性格のはっきり異なる部分が前後になるようにつくられている。それに加え、最初の曲と終曲以外の大部分が、同じ音型の絶えざる反復で満たされて、音楽はひたすら、あてどなくその都度飽和点に達するまで、前進する。もし本当にこの作品が、ドイツロマン派文学の旗印ともいえる「フモール」を体現しているとすれば、部分部分ではなく作品全体の表現に由来する。つまり、この作品が本当に語りたいことは、部分からは直接理解できない。それぞれ部分ごとに性格が異なるので、どの性格をも中心に据えることができず、それに前後関係でどの性格による主張も是とされえない。
しかしながら、何かが顔をのぞかせる瞬間というのもまた、存在する。それは、前進への運動が一旦止んだ際の、つまり小品のコーダにあたるところの、語りのような箇所や、そしてまた、有名な「内的な声Innere Stimme」が、後にコラールで想起される箇所である。この瞬間には何かが語られる。それでもやはり人は、掴むことはできないのである。

 

 

新宮一成「ロベルト・シューマン、沈黙と幻聴」 (『無意識の組曲』1997年、岩波書店、126-147頁)

「音楽批評は文学である」という。この真意を汲み取ろうとするなら、人は音楽批評にまつわる問題点をいくつか想起せねばならない。しかし大抵、音楽批評の文学性は、楽譜が読めない、演奏できない人にも開かれてあろうとする、啓蒙的な意識に支えられている。当然、そうした啓蒙性に自足してしまえば、音楽批評そのものの重要度を下げかねない。音響芸術としての技巧の問題はともあれ、音楽の内容、内実といったところへ踏み込むことはどのようにしてなされるべきか、ということを考えねばならない。
この著者は、音楽学者ではない。精神科医である。シューマンの沈黙癖、並びに幻聴体験を引き合いに出してこの著者が言うことには、彼の作品は、彼の聴いていた「音楽」――単なる音響芸術ではない何か――であるという。「シューマンにとって物事は言葉になる代わりに音楽になる。『春』と題された交響曲は、『春』を写した音楽ではない。存在以前の『春』が音楽そのものとして存在するようになったのがシューマンの第一交響曲なのである。人々は言葉を通じて世界を構成し、そこで生きるようになる。そしてそれと同時に、いやむしろそれにほんの僅か先だって、世界と人間の間には音楽が出現する。人々はそれを聴き取ることができない。それにもかかわらず、人々にとっての沈黙の中で――つまり言葉による意味が不在である中で――音楽はすでに流れているのだ」(132頁)。
著者はその「音楽」に接近するために、伝記的事実と譜面と、いずれも援用する。具体的には、妻のクララ・シューマンによる日記に記された幻聴である、A(イ)の音と「天使の歌」の主題が、実作品にどのように登場するか、指摘する。それはさながら、かつては盛んに議論された、音響芸術の意ではないところの音楽に、脱魔術化された方法論でもって、再び取り組み直すかのようである。

 

 

高橋悠治「ロベルト・シューマン」 (『ロベルト・シューマン』1978年、青土社、7-87頁)

鮮やかなアジテーションの数々に、読み手は圧倒されてしまう。高橋悠治の「ロベルト・シューマン」、その特異な断章の連なりからなる「音楽批評」は、芸術による革命を夢想、いや実現せんとするがための、綱領である。
これらの断章からは、シューマンのことに混ざって、別のトピックが数多く散見される。1976年にタイで起こったタンマサート大学虐殺事件のこと、「転倒」の方法のこと、なかには〈トランソニック〉(高橋が主導して72年に結成された作曲家集団)への自己批判などもある。全体をざっと読み通したとき、どうしても次のような疑問を抱いてしまう。「何故、シューマンなのか?」「これはシューマン論なのか?」
この著者ははたして、シューマンについて語ったことになるのだろうか。これについては判断が分かれるところだ。とりわけ、クララ・シューマンを批判するかたちでの、シューマン像の描き方については、素直に腑に落ちる人はそう多くないだろう。ときおり出てくるシューマン作品に対する楽曲分析と、著者自身の芸術運動とが、どのように結びつくのか、見当をつけることは容易ではない。それでもシューマンについて語ったことになるならば、それは、ロマン主義の理念と、革命の理念に、読み手が何か共通するものを見出したときである。シューマンの行った表現を、つまり、古典派のくびきから解放されようとする志向を、著者は自身の描く芸術革命と通い合わせて、拾いだそうするのかもしれない。
しかしながら、肝要なのは、「フモール」ではなかっただろうか。現状をひたすら否定し続けるのではなく、現実の悲劇に際して己の有限性を笑う、「フモール」――外側から見えない主体の首尾一貫性――のことではなかっただろうか。

 

 

 

 

 

 

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