印刷

文学を漂流するー3つの経験

①村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」

 私は一年に4回ほど、Bill Evansの音楽に恋をする。彼の音楽は繊細にして内向的であり、「静かな輝き」とは誠に言い得て妙ではないか。曲を選び、そして静かに再生される時間の清澄さに陶然とする、「生きることは愛おしい」と切に思える、世俗世界から浮遊した恍惚の刹那に溺れたい、だから私は彼の音楽に耳を澄ます。
 ジャズと作家、といえばまず私にとしては村上春樹著「Portrait in Jazz」が閃く。ジャズという”即興性の美学”の見地は村上作品にとって一種の成分となっている。それは、生きることの愛おしさはその不可逆性の中にこそある、という物語となって顕現し、私たちの日常の抑圧を静かに解き放つ。
「神の子どもたちはみな踊る」では主人公の意識の流れのままに叙述され、時として断片的に、反復を伴いつつも、その停滞感は読み手の感情に独特の重みをもたらす。
 カルト宗教に没頭する実母は主人公、善也について『お方』という神の子どもであると理解している。父性を欠落させたまま年を重ねた善也は次第に神の不在を疑い、信仰に否定的になるが、母親やその周囲を傷つけまいと言葉に出すことは依然として憚られている。この物語はカルト宗教という世間的には概ね忌避、非難の対象として描かれがちなテーマと堕落した人生の中に迫る”ある過去の行方”とを”それでも生きること”の肯定へと真情溢れるままに昇華させる。超越的で、抽象的な”神”の説明、不可解な戒律、そしてそうした不確かさにすがる大人の後ろ姿が結果として善也の世界を不明確にしていた。善也の歪んだ世界線と遠景化している現実の崩壊(阪神淡路大震災)の最中現れた”導き”を辿り、彼はまるで蛙のようにおかしく踊り狂う。蛙といえば旧約聖書「十災禍」第二の災いにみられる通り戒めの象徴でもある。またここで彼の人生における重要性についての問いは無常の彼方に消えるが、それは赦しにも似ている。善也という生の固有性は、かつて抱え塞ぎ込んできたあらゆる意味や決定論に関する行き場のなさや喪失を、自然界ひいては宇宙に遍在する美しさによって照射し、一転して秘蹟や神の恩寵の再定義が紡ぐ普遍性の中に救い出そうとする。
 人が宿命の荒波に揉まれながら、業を抱え、悲劇的に生きる様子に私たちが時折美しさを見出してしまうのは、生の不可逆性にこそ愛おしさがあるからだ。村上春樹の描出する”とある人生”はまるで再現不可能なジャズの即興的な魅力そのままに例えてもよいだろう。何よりこの物語には、創作のきっかけはともかく、大地震や、カルト教団の地下鉄サリン事件といった現実世界の外的状況に依存することのない文学的な麗しさがある。

 

②大江健三郎「人間の羊」

 文学における外的状況との呼応といえば大江健三郎の初期作品を挙げるのは妥当であろう。戦後民主主義者として多くの政治的活動が印象的な傍ら、大江の文学には明瞭にその主張を唱えつつも、文学的な語りによってしか紡がれない人間本質の実像がある。
 「人間の羊」という作品を一例にとってみる。この物語は三部構成だ。第一部ではバス内において日本人が外国兵に凌辱される。日本人はバスの廊下に列を為して下半身を剥き出しにされ尻を突き出し、外国兵は嘲笑しながらそれを掌で撃つ。バスという逃げ場のない、外部から遮断された密室の中に、これが果たして人間の本性かとでも言うように無秩序に、救いようのない空間が生まれている。理性は通用せず、全く野生的な強者ー弱者の絵図に傍観者たる私たちは言葉を失う。ここでは日本人は羊に例えられる。強者から不可解に下される強圧な侮辱に、羊たちは沈黙し、屈辱や怒りは行き場を失う。敗戦国日本という外的状況を、大江は窮地に立たされる敗者の惨めさを文学という虚構に映し出すことによって現実を逆照射する。しかし物語はここで終わらない。事件時の傍観者たちが、外国兵を糾弾しようと立ち上がる。初めはあれほど非難がましかった教師は「僕は黙って見ていたことを、恥ずかしく思っているんです」と言い、正義や尤もらしさを訴える。だが彼の正義や配慮の言葉はそうした意図を脱線し、尻を撃たれた羊たちの屈辱感と怒りを巻き戻し、増幅させるだけで何の役にも立たなかった。「ねえ、あんたたち、唖みたいに黙り込んでないで立ち上がってください」とかつての傍観者は沈黙を貫く羊たちに諭す。場面から漂う羊たちのこの壮絶な無力感の裏には、傍観者ー被害者という強者立場の転換が由来している。傍観者は暴力的に被害問題に介入する。彼らの言葉を纏った欲望は被害に遭った羊たちの永遠の逼塞を打ち破りたい。傍観者はここで新たに加害者となり、屈辱という心の傷を羊であり続ける者にとってより深刻化させる。第三部ではこうした状況はより当惑したものへと発展する。教師は自らの支配者的性質から執拗に贖罪を追求し、学生に纏いつく。教師の正義の在り方は揺らぎ、他者肯定を得ることによって、外国兵に屈服し惨事を看過した卑劣さを否定し、別個に彼自身が抱える屈辱を晴らしたい。しかし被害者である学生にとって、彼の魂の救済は他者の声の届かない忘却の彼方にしかない。バスを降りた後どこまでも鬱屈として描かれる環境の中で学生と教師の絶望的な葛藤が続く。自由な選択と行為の余地はそこにはない、未来不在の物語の展開に対して、読者の想像力は裏切られ、そこに身を委ねるしかない。救いのない魂にとって、ただ赦しだけがあるという可能性は、傍観し、加害者へと転化した羊たちによって否定され続ける。その奇妙な光景は読み手の心にも纏わりつき、ひた隠しにされた人間の脆さに桎梏を打ち付ける。これは汚れなき人間性の発露は、原理的に罪に堕ちるという原罪性の顕現である。罪は他人にではなく自分の内にこそあり、「人間の羊」とはそうした真実のための虚構である。人間なら誰しも自然に込み上げる感情がここまで醜く残酷に見えるのは、大江の創り出す蠱惑的な混沌の中で根源的な意味を覗かせるからだ。その根源的な意味とは正しく”生と死”である。尚ここで決して忘れてはいけないことは、読み手たる私たちもその混沌の目撃者にして傍観者であり、何も為すすべを持たなかったということだ。大江が持つ平均人の私たちが羊さながらに沈黙する現代大衆への不信と嘆きのベクトルの矢は読み手に深く突き刺さる。

 

③川端康成「片腕」

 人間存在における根源的な意味としての”生と死”。これはエロスを感受する土壌でもある。
 川端康成の幻想文学がそれを語るうえで打って付けであろう。最後に「片腕」を挙げる。この物語には娘の片腕を男性が一晩拝借するという超現実的事態があり、そこでフェティシズムという官能の美学が描かれる。光と影が移ろい、靄が漂い空間の不透明さは増し、視線の行く先をかなり限定することで二人の距離は特別に世界から浮遊したものとなり、その官能的なムードは「私」と片腕だけの室内へと引き継がれる。客我としての片腕とは、象徴にして虚構の娘である。そしてその虚構の女の向こう側に真実(女)がある。娘の肉体全体から限定的に所与された片腕には凝縮したエロスがあり、「私」は夢想的な再現性を見出す。艶めかしい片腕の丸み、線、芳しさに「私」は恍惚とする。そこで「私」は片腕との一体を目論み、実践してしまう。このやり取りは処女性の喪失を示唆する。その後男は自分が犯した行為の矛盾を悟り発狂する。官能の憧れの対象(処女性)に対して、一歩その先へと踏み入れてしまえばその崇高な意味が失われてしまうという禁断が発覚するわけだ。ここで「私」の犯した矛盾とは自壊の本質的な内在の植え付けであった。シュールレアリスティックに描かれる生の異和の蠱惑さに読み手は没頭しながらも、崇高さの一歩手前に引かれた禁断の境界線で足踏みを強いられ、その時官能への憧憬は無常へと帰化する。愛を込めて見たものが真実である一方で、万物は無化(つまり死)と表裏一体な関係にある。そして人間存在とは持てるものの総計ではなく、まだ所有していないものの総計であると物語は落ち着きを取り戻した私たちに余韻となって囁く。生:to beと死:not to be に喚起される宇宙の連続性はある種の優れた文学に根ざしていて、形而上的な魅惑は潜在化と顕在化の両極を行き来し、現実は異化される。文学は日常からの避難場所であり続け、故に私たちは文字の海に揺蕩うことを望む。

文字数:3458

課題提出者一覧