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私を視点を成す作品3つ

私のコンプレックス ~『私の歌舞伎遍歴 ある劇評家の告白』 渡辺 保~

 

人は常に選択を繰り返し、今の立ち位置にいる。すべてそれは自分で選択したからこそである。今の自分の立ち位置が気にいらないのであればそれは自分の選択を間違えてきたということになるのであろうか。

私は渡辺保という人を知って劇評家というものに憧れていた。またどこか羨望も感じていた。しかし劇評家になる資質を私は持ち合わせていない。そのことを私にこの本は改めて痛感させた。批評家としての資質を持ち合わせていないと私が思うのは自分の中に観劇のストックがないからである。私の歌舞伎の鑑賞歴たかが10年、それも費用やスケジュールの関係もありすべての舞台を見ている訳ではない。渡辺保もまた三島由紀夫も親に連れられて歌舞伎に幼いころから行っている。幼いときの記憶は後世に及ぼす影響が大きい。三島由紀夫であれば幼いころに初めてみた七代目沢村宗十郎が彼の財産となり、竹本を使った歌舞伎を書くことにまで至る。現代では情報は外部の媒体を使ってストックされておりいつでも容易に取り出し使用することはできる。しかし舞台というのは実際にみて受ける感触が第一であり自分以外で受け取った感触をそのまま自分のものとして入れることはできない。それが私のコンプレックスになっているのである。

この本は歌舞伎に対峙してきた批評家の記録である。批評家になったきっかけもあれば歌舞伎の本質である型の重要性を説き、それぞれ歌舞伎俳優の特質まで書き表している。その過程は歌舞伎のシステムを明確にし、現代における歌舞伎の存在意義を明らかにする仕事である。現在劇評はうまく機能していないように感じる。内容が表層的なのである。それも割り当てられている文字数が少ないから核心にふれる文章は生まれてこない。それは書き手のベースが確固としていないからだ。批評としてずれたが歌舞伎を勉強するうえで重要な本である。

私が歌舞伎に向き合う理由 ~『戦後歌舞伎の精神史』 渡辺保~

 

私は能を観るのが好きだ。このことを人に伝えるとたいてい歌舞伎ならまだしも能は難しいからわからないと言われる。歌舞伎は何も勉強せずとも見ているとだいたいわかるという。それはそのとおりである。ただそれは上面だけわかるということだけである。本当の興味までは到達しないから、観客はそれをそのまま見るだけで深く知りたいと思わないしそれ以上のことをしない。それを誘発しているのは現代の俳優の功罪である。

歌舞伎役者のこどもは血筋で親と同じ役を振られる。だから親に習えば一定のものができる。しかし親子であっても資質が同じとは限らない。演じるためには役に向き合って考え突き詰めていく過程が必須である。与えられたものが本当に自分にあうものかどうか。今の歌舞伎を考えるとき、検討はされない。それはシステムによって外側から守られているからだ。繕えるのだ。内部では規範を遵守されなくなることで最低ラインが崩れてきている。このままでは将来を背負うはずの役者たちは自分の役割を見いだせず、実力もつけられない状況に陥る。この本では70年歌舞伎を見続けてきて改めて歌舞伎に対する将来の不安を表明している。先人は苦労してそのシステムを守ってきたのだ。戦後の歌舞伎の流れをこの本では世代にわけて書いている。常に歌舞伎は存続の危機にさらされながらもシステムを守ることで歌舞伎を守ってきたことがよくわかる。

今、芝居は多種多様になっており、歌舞伎もその1ジャンルにしか過ぎない。そのようになった結果見る側もまた演じる側も歌舞伎が培ってきた文法を認識することなく享受、役者も演じるようになった。システムに守られて学ぶことをせず何もしないままの役者の先に何があるのか?内部崩壊が起こりつつある中でそのあとに続く世代に対する危惧こそ批評家がこの本を書いた理由なのである。

 

『足跡姫 時代錯誤冬幽霊』 野田秀樹

 

初めて野田秀樹の舞台を観たのはテレビの放送で『パンドラの鐘』であった。中学生の頃で感受性が強く、言葉遊びの向こうに実は大きな日本が抱えてきた問題(パンドラの鐘は原爆投下、戦争責任)を表出し、訴えかける力にすごく惹かれるものを感じた。書籍になっていたので20世紀最後の戯曲集や解散後全劇作などその頃はひたすら読んでいた。

そこから十数年経って、『足跡姫~時代錯誤冬の幽霊~』を観たのは昨年2月の話である。当時の感想としては中村勘三郎へのオマージュとして掲げられた作品であり、あまりにもその意識が強いと感じた。野田秀樹の作品ははじめ言葉で遊んで観客を惹きつけて物語が進んでいくと書き手の問題意識が表出し突き付けてくる。まるでブーメランのように最後には本来の重要なポイントに戻ってくる。ただこの感触を今回の舞台は逸していたように思ったのだ。

だが今回戯曲として改めて読み直し、舞台とは違う感覚を感じた。中村勘三郎の始祖は猿若であり、主人公はなぜ自分がそれを欲するのかは理解していないが筋というものを求め、そこに見世物から芝居へ発展する過程を描く。一方そこに由井正雪の乱をからめ、人を利用して、都合が悪くなると少数を切り捨てる権力者への批判がある。三四代目出雲の阿国は十八代目中村勘三郎、サルワカは野田秀樹である。他の芝居の影響もうけ、常に歌舞伎に対して意義を問い続けた。いい筋に巡りあいたいと思う役者の心。物語をもって現代における問題を訴える作者としての役割。今は個人的な問題に則したもの、また戦争を批判する芝居が殊更多い。その中においてこの戯曲は江戸時代にさかのぼった結果、戦後の日本の問題から離れ、却って直に戦争を描いた芝居よりもっと人間の根源の部分に対する批判を提示する芝居であったと思う。この点においてこの戯曲が野田秀樹を考える上で重要な戯曲になると考える。

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