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文学の全体性を”明示”する

空白に浮かぶ水平線とその揺らぎ 舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』

 

舞城王太郎はその特徴的な文体の饒舌さや疾走感を評価(あるいは批判)されてきた作家だ。一方で、その構成に至ってはほとんど評価、理解されて来なかったのではないか。私はここで、これまで顧みられて来なかった『好き好き大好き超愛してる。』の構成が持つ“文学”の可能性を明らかにしてみたい。

『好き好き〜』は“智依子”“柿緒Ⅰ”“佐々木妙子”“柿緒Ⅱ”“ニオモ”“柿緒Ⅲ”の6つの短編(と冒頭)から構成されている。“柿緒”シリーズの語り手の「僕(=治)」は小説家であり、作中の恋人である柿緒は癌で死ぬ。一般的には“柿緒”が本編であり、治が書いた作中作である短編が合間に挟み込まれている図式だと解釈されている。

しかし、本当にそうだろうか。「作中作説」は舞城によるミスリードを本物として受けとったまま、思考停止しているのではないだろうか。

確かに“智恵子”は「ASMAという癌を想起させる虫が、智恵子の体内を蝕む」という“柿緒”と極めて近い設定だ。さらに舞城は“智恵子”での終盤、ASMAを「蛍のように光」らせることで登場人物に慰めを与え、読者に光のイメージを抱かせている。そして、すぐあとに続く“柿緒Ⅰ”で「今月雑誌に載せてもらった短編『光』を書いて ※p47」と地の文で語ることで、“柿緒Ⅰ”の『光』は“智恵子”のことだと半ば明示している。(つまり、47ページまでだけを読むなら、現代文の試験に出されても「作中作」という答え以外、成り立たないようにできている。)

しかし、ページをめくると「僕が書いた『光』は主人公のガールフレンドの身体の中に懐中電灯が見つかり、(中略)死んでしまったという話 ※p48」とそれまでの読み(“智恵子”=『光』)が明らかに違うと指摘されるのだ。もちろん “智恵子”も『光』とは別に治が書いた短編である可能性もあるが(その可能性があるからこそ、「作中作説」は生き残っていられる)、それならわざわざ『光』が懐中電灯だと、ASMAではないとする明確な理由が見当たらない。ミステリ的に言うなら、犯人だと思っていたものがミスリードだと明かされたが、特に理由もないままやっぱりミスリードじゃなかったって、結構なルール違反じゃないだろうか。

問題は真犯人が見つかっていないことにある。思考停止を超えて、もう少し真犯人探しを進めてみたい。

「作中作」ではないとするなら、それぞれの短編はどのような関係を持つのだろうか。舞城がミスリード=否定という表現でしか語れなかった関係は、やはり否定から語るしかない。すなわち、お互いに主従関係がなく、説明的ではない関係なのだと。「作中作」は主従にくくり、関係を説明に堕す。そうではなく、あるのは独立した個々の短編である。我々は空白を感じなかっただろうか。一度、説明(“智恵子”は治が書いた作中作です)という名の糊で埋められた間隙が、嘘であるとわかった瞬間に。

その空白に我々は自由な想像力を駆使することができる。それぞれの短編が持つ意味と力の関係性の間で遊ぶことができる。空白は短編の間だけでなく、あらゆる語と語の間に存在している。それは文学の全体性を語るとき、何より欠かせないものではないだろうか。語と語の集合が、単なる集合を超えて意味を持つとき、我々は空白を読んでいる。

「水平線」という単語から直接的に想起される水平線と、「月」と「海」という語を並べて見た時に脳に浮かぶ水平線は違う。もしくは水面に反射する月光、月に向かって跳ねる魚かもしれない。それらが多重になったものこそ、空白に、行間に、テクストとテクストの間に豊かな想像を可能にするものこそ、“文学”に他ならない。

言うまでもないことだが、あらゆる小説や短編集に「空白」は存在する。舞城は偽物の関係性を一度与え、剥奪することで、極めて”明示”的に「空白」の力を取り戻させようとしたのではなかったか。

 

 

作者の存在と空白の三次元的認識 ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』

 

『存在の耐えられない軽さ』は端的に言うなら、「プラハの春」時代のチェコの動乱に翻弄される登場人物たちの恋愛を描いた小説だ。だがその内実は複雑で、物語の時系列はバラバラの上、冒頭から作者の「ニーチェの永劫回帰」への考察から始まるのが予見させる通り、哲学的思索と歴史に関するエッセイめいたものが要所に挟み込まれる独特の作品となっている。

それらのテクスト同士が響き合い、我々に様々の「空白」を読ませることは指摘するまでもないだろう。ここで言いたいのは「空白」はテクスト同士の間に存在するのではなく、作者、読者、テクストが織りなす三次元の空間に存在するということだ。そしてクンデラは”明示”的に、作者を浮かび上がらせようとしてきた作家の一人なのだ。

クンデラの小説がしばしばそうであるように、『存在の耐えられない軽さ』でも作者が大胆な形で顔を出している。注意したいのは、作者が登場人物たちに対する全能の神としては登場していないということだ。作者がトマーシュという登場人物を初めて紹介する部分を引用する。

「私はトマーシュのことをもう何年も考えているが、でも重さと軽さという考え方に光を当てて初めて、彼のことをはっきりと知ることができた。トマーシュが自分の住居の窓のところに立ち、(中略)何をしたらいいのか分からないでいるのを私は見ていた。」

ここでいう「私」はクンデラのことだ。トマーシュは作者の手のひらにいるのではなく、完全な他者として存在していることが分かる。このことから指摘したいのは、他者を内に飼うという作家の妙技や聖性ではもちろんない。クンデラは作者の持つ全能性を巧みに回避することによって、登場人物と物語(テクスト)を従属物にすることなしに併置させ、三次元的な空白を生み出していた。

そして我々は、作者の存在という圧倒的なリアルとテクストの間の空白に、新たな水平線を描くことができる。クンデラ自身が「プラハの春」の動乱を生き抜いてきたことと無関係にテクストを読むことはできない。また、全く同じテクストでも、作者の存在が違えば作品には違う意味と解釈が与えられていただろう。

そして、言うまでもないことだが、あらゆる“文学”に作者がいる以上、読者、作家、テクストの間に三次元的な空白は存在する。あくまでクンデラはそれを”明示”したに過ぎない。そして明示するという行為の中に、我々は暗示から抜け出ることをあくまで欲したクンデラの意志を見つけなければならない。

 

 

空白の拡張と“文学”の境界  TCG『フレイバーテキスト』

 

トレーディングカードゲーム(以下TCG)はプレイヤーが集めたカードを使って、決められたルールのもと、対戦を行うゲームのことだ。紙のカードを使ったマジック・ザ・ギャザリング(以下マジック)に始まり、現在ではシャドウバースなどオンラインTCGが急成長を遂げている。(オンラインと物理をあわせた市場規模は57,3億ドル)。

ここで注目したいのはカードにはそれぞれ固有のイラストとそれに適した“フレイバーテキスト”があるということだ。例えば、マジックのルアゴイフという名のカードには凶悪なモンスターのイラストとともに、

 

「ああ! ハンス、逃げて! ルアゴイフよ!」

――サッフィー・エリクスドッターの最期の言葉

 

と書かれている。フレイバーの名の通り、カードの雰囲気作りのための風味に過ぎないのだが、なんとも想像力を掻き立てる文章ではないだろうか。また、カード同士の異なるフレイバーテキストはお互いに空白を生み、見事な文学を作り出すのではないだろうか。

さて、ここまで書くと、文学とは程遠そうに見えるTCGを文学に回収することによって、文学の可能性を肥大させるという物語が始まりそうだが、フレイバーテキストにはある一点欠けていることがある。

それは作者の存在だ。作者が匿名の複数であるだけでなく、そもそもプレイヤーはそのテキスト自体を面白がることはあっても、「誰が書いたのか」ということに注目しない。さらに、作り手も「注目されない」ことに自覚的であり、そうあろうとしているように思える。先のルアゴイフにしても、「断末魔の言葉をそのまま書き写した、という体」=「作家の意図の意図的な不在」が明確ではないだろうか。その他のフレイバーテキストも多くは、もとの文献(架空の神話やサーガ)からの引用であるかのように書かれる。

つまり、「もとの文献―フレイバーテキスト―読者(プレイヤー)」という構図だ。我々はフレイバーテキストが架空の文献に従属している以上、その作り手(カードクリエイター)との間に空白を作ることができない。対話をすることができない。

プレイヤーたちは、新たなカードが発売されるたびに広がる無限の二次元の空白を旅している。広大だが、作者という点が存在しない平らな地平。それは2ちゃんねるに代表される匿名の(無作者の)掲示板を泳ぐことに似ている。

文学の全体性を考えるとき、我々は常にどこで線を引くのか考え無くてはならない。野放図に何かとつながり、二次元の空白を増やすことを文学のリハビリだと呼んではならない。むしろその無自覚な拡張こそが文学の終焉につながったのではなかったか。文学に2ちゃんねるを含めないが、フェイスブックやツイッターは大丈夫じゃない?という微妙で具体的な線引こそ、今必要とされているものではないだろうか。

 

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