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「主題の不在」から萌芽した「弱いコンセプト」

「廃墟」のオルタナティヴとしての「原っぱ」 (青木淳『原っぱと遊園地~建築にとってその場の質とは何か』)

『原っぱと遊園地~建築にとってその場の質とは何か』は建築家・青木淳が2004年に著した本である。青木淳は1982年に東京大学大学院を修了し、83~90年にプレニューアカ期の建築家・磯崎新のアトリエに勤務し、1991年に独立する。この書評では、磯崎と青木の言説を連続的に捉えることによって、大きな物語が終焉した現代における設計の立ち位置を再考したい。

このような意図から、青木の本を紹介する前に、磯崎新が今から50年前の情勢を扱った『建築の解体~1968年の建築情勢』を取り上げよう。『建築の解体』は、当時30~40歳代の建築家(ハンス・ホライン、アーキグラム、セドリック・プライス、ロバート・ベンチューリ、クリストファー・アレグザンダー、チャールス・ムーア、スーパースタジオ、アーキズーム)の活動を紹介したものである。磯崎は、これらの建築家を紹介した上で、1968年当時を「建築の解体」した時代と位置付けている。磯崎は本書のあとがきでこのように述べている。

《建築の解体》と呼んだとき、「建築」は、いまのべてきたようないわゆる「近代建築」の概念をさし示そうとしたものであった。もちろん、物理的な形態をもった建築を技術的にバラバラにしていこうという提案も含まれてはいるが、それは結果にすぎない。その結果を生み出すまえに、完結した形態に導いていた論理が崩れていったことのほうが重要なのである。(『建築の解体~1968年の建築情勢』)

そして、磯崎はこの「建築の解体」した事態は、現代建築が統括的な主題を放棄したことによって開発が開始された領域と位置付け、「主題の不在」という主題を提示した。また、1968年から、フランシス・フクヤマが「歴史のおわり」と位置付けた1989年までの20年間を「歴史の落丁」と位置付けた。磯崎はフクヤマが「歴史のおわり」を発表した1989年を、おわりでなく始まりと位置付けたのである。

青木淳は、そんな「歴史の落丁」(=空白の20年)から現代建築が再始動をしはじめた1991年に磯崎新の事務所から独立し、デビューした建築家である。

本の冒頭で、青木は旧牛込町小学校を原っぱ、横浜美術館を遊園地と例えて美術館論を展開する。青木は、小学校がコンバージョンの方が美術館として魅力的であると述べている。青木はこの比較から、作家と空間が対等の関係にあるのが良い美術館であるという。横浜美術館は空間が作家に先行しすぎて、作家にとって窮屈な美術館になってしまっている、旧牛込町小学校は、小学校としての空間の質だけが残り、機能は失われている。青木はそこに空間と作家が対等な関係になる可能性を見た。

美術館として「いたれりつくせり」でつくられた美術館よりも、もともとは別の用途でつくられた建物が美術館にコンバージョンされた館の方が、作家にとっても楽しい空間を提供がある場合があるという観察を、設計理論として「青森県立美術館」(2005)に応用する

「青森県立美術館」は新築の建物である。そこで青木が構想したのは、美術館のナカミ(プログラム)から空間の決定ルールを導き出すのではなく、一度その関係を括弧にくくり、別の枠組みで決定ルールを自走させ、ナカミとの距離をとり、その間に生まれる自由(=原っぱ的な空間)を構築する設計手法である。決定ルールで用いられたのは、敷地に隣接する三内丸山遺跡のクレーターである。このクレーターを、青木は図式として空間の質に延長させようとした。その空間の決定ルールには、青木の存在は見えにくい。この「見えにくさ」こそが空間の質を保ちながらも、空間と作家との対等な関係を築く設計のプロセスなのである。青木はカタチ、ナカミ、空間の決定ルールについてこのように述べている。

はっきりしていることがふたつあって、それについて書いてみようと思う。ひとつは、空間のどんな決定ルールも、本当のところは、そこでの人間の活動内容からは根拠づけられるべきではないこと。つまり、どんな決定ルールもついには無根拠であることに耐えること。ふたつめは、そのことを誠実に受け入れるならば、より意識的に決定ルールに身を委ねて、それが導いてくれる未知の世界まで、とりあえずは辿り着いてみなくてはならないだろう、ということである。(『原っぱと遊園地~建築にとってその場の質とは何か』)

磯崎がアンビルドのプロジェクトで成し遂げようとしていた「廃墟」というメタファーによる建築の拡張を、青木は「原っぱ」というメタファーで拡張しようとしたのである。

 

図式を意図的に崩壊させること (青木淳『原っぱと遊園地2~見えの行き来から生まれるリアリティ』)

「原っぱと遊園地」の続編として、『原っぱと遊園地2~見えの行き来から生まれるリアリティ』は2008年に出版された。前作は、青木の設計論をまとめた構成となっているが。本作は建築家のみならず、美容師や作家などの話題や対談形式の文章など青木の「日常の気づき」が主題となっている。

青木は、伊藤豊雄の「せんだいメディアテーク」(2000)を図式の新たな展開による方法で構築された建築、SANAAの「金沢21世紀美術館」(2004)をプログラムというルールを育てていくことで構築された建築、青木自身が設計した「青森県立美術館」を、はじめに与えた図式を壊しながら構築した建築と位置付けて論考を展開している。

青木は図式がそのまま立ち上がったような建築を、説明的で「同語反復的な建築」と批判し、このような建築が支配的になっているという。このような位置付けは青木が前書で述べた、現在は遊園地のような空間が支配的になっているという指摘と重なっている。そんな現代の情勢のなかに生まれた「せんだいメディアテーク」と金沢21世紀美術館は今までの「図式と建築」という関係に新たな地平を開いた建築であるといえるだろう。

たとえば、「せんだいメディアテーク」は地上7階の市民図書館、ギャラリー、イベントスペース、ミニシアターの複合施設である。青木はこの建築の図式に着目する。伊東の当初のイメージスケッチには、7枚の水平なプレートにゆらゆらとしたチューブが貫通した図式が描かれている。竣工後のメディアテークは、当初の図式は保たれている。しかし、スケッチでのチューブは無骨な網状鉄骨チューブとなっている。支配的な図式の展開であれば実際に存在感を持たないチューブを採用しなければならないが、メディアテークは繊細な外装や内装の中を、存在感のある鉄骨チューブが貫いている。この新たな図式の展開によってメディアテークは公園的な人の居方という世界を定着させたと、青木は述べている。

一方で、青木の「青森県立美術館」は設計当初の図式の維持にあまりこだわりがみられない。西澤立衛がルールを作る時の客観的で論理的な、マスターアーキテクトの青木さんと、それを壊していくアーキテクトもしくはアーティストとしての青木さん、まるでふたりの青木淳がいるようだと述べたように、青木にとって図式を崩壊させるということも設計の重要なプロセスなのである。

 

「土壌の自壊」に自覚的であること (青木淳『フラジャイル・コンセプト』)

個人的な話になるが、僕はコンセプトというものが以前から疑問であった。はじめのコンセプトを決め、それを肉付けするかたちで設計を進める。日本が、メタボリズムのような成長曲線を前提としていた時代ならば、強度あるコンセプトは機能するだろう。しかし、今後の日本においてそれはいかに機能するだろうか。僕はそんな疑問が最後まで払拭できず、修士設計では大きなコンセプトを掲げることを放棄してしまった。

そんな事を考えていた僕にとって、2018年5月に出版された。『フライジャル・コンセプト』はタイムリーな本であった。

手綱を締めてその先の展開をしっかり牽引するコンセプトというものがある。そこでは、コンセプトがいわば種子でその生育が表現だ。・・・

 その一方で、先々不確定な揺らぎを引き起こすフライジャルなコンセプトがある。行きつく先が見通せず、辿りつき来し方を振り返ってはじめて、その道筋が見えてくるつくり方がある。

 社会はますます前者の世界を求めるようになってきている。その社会は、隙なく、窮屈で、息苦しい。外から求められる約束事がある。内から、つまり自分から自分に嵌めたコンセプトというタガがある。そこから逃れたい。

 その行いがそもそも「つくる」ということではなかっただろうか、とぼくは思うのである。(『フラジャイル・コンセプト』)

青木にとってコンセプトは、あくまでも設計の序盤は設計を駆動するきっかけに過ぎず、設計プロセスを経て「事後的に」生成されるものなのである。

そんな作品を作る上でのコンセプトを考えている青木の職能観をも揺るがす出来事があった。東日本大震災である。青木は、長清水という南三陸町にある小さな漁村で、建築でなくブログページをまず作成する。青木はその意図を以下のように述べている。

そこで求められていることは、誰かが、そこに住んできた人に代わって、これからの生活の場を第三者的に「提案」するということではない、と思いました。そうではなく、そこに住んできた人が、自ら、これからの生活の場を構想していくための道具となるアイデアを誰かが提供することだと思いました。

それは、ふだん、誰かが代わりに、求められる空間のあり方を構想し、それを具体化するための方策をこと細かく検討し、指定する、ということをやっているぼくたち「建築家」にとっては、新しい試みです。(『フラジャイル・コンセプト』)

この言葉はまさに、宇野常一の『ゼロ年代の想像力』で提示された「新教養主義」の想像力である。どういうことか。宇野は、社会倫理学者の稲葉振一郎や評論家の山形浩主といった、かつての浅羽通明の影響下にある六〇年代生まれの論客たちを例に出し、彼らの立場は特定の価値観を示し、ひとつの基準を示す役割を負っていた旧来の「父」ではなく、子供たちのために環境を整備することに注力する新しい「父」の姿を志向していると述べている。

青木の立場は、「父」「子供」の関係を「建築家」「長清水」と読み替えて考えることができるだろう。震災は、青木の建築家としての職能観をも揺るがした。そして青木は、長清水で「新教養主義」を志向した。

青木は東日本大震災に際して、青森県立美術館で2012年に開催された「今和次郎 最終講義」を話題に、東日本大震災と今和次郎が生きていた時代に起こった関東大震災を照らし合わせる。

 青森県立美術館の企画展示の空間は、最初に白い部屋があって、次に黒い部屋があって、それから突然、大きく開けた広場のような空間に出る。「起」「承」ときて「転」が来る。この「起」「承」の空間で、今和次郎の出発点であった農村や民家の研究が紹介される。今和次郎は、民家を単にモノとして見るのではなく、そうしたウツワに盛られた生活をも見ていた、と。ふむふむ。そして「転」の空間に歩みを進めたとたん、思いがけず、関東大震災が起きる。起きて、彼の関心から器の部分が飛んでなくなる。人々の生活が、突然、裸で現れる。空間と展示がぴったりと合っている。と思うと同時に、彼にとっての関東大震災は、ぼくたちにとっての東日本大震災は、ぼくたちにとっての東日本大震災なのだ、と、すぅっと胸に落ちる。(『フラジャイル・コンセプト』)

自分が衰弱したときにはじめて自分を思考するように、震災によって日常が崩壊したことによって僕たちははじめて日常を深く思考できる。震災以後から7年の現在、そんな段階に来ているように思う。

最後に、建築が解体した当時のクリストファー・アレグザンダーが若干二四歳の時に述べた言葉と、東日本大震災以後の青木が『フラジャイル・コンセプト』で柳原照弘が述べた「デザインする環境をデザインする」を引用して述べた言葉を並べてみたい。

革命は二十年前に終わってしまった。それにもかかわらず、現在の若者たちは、いまだに革命家のような態度をしつづけている。彼らの態度は、克服すべきものにたいして無限の抵抗を試みているようだし ― 新しいパイオニアのようでさえある。・・・

革命は二十年も前に終わっている。われわれの仕事が三〇年代の仕事をこえねばならぬのは当然のことだが、三〇年代の連中が、それ以前の仕事をこえたのとは異なった方法によらねばならないのはあきらかだ。『建築の解体~1968年の建築情勢』)

これは、「デザイン」の概念の、一つの拡張ではある。と同時に、土壌が失われてしまっている、ということである。もし土壌が皆に共有されていて、かつぼくたちもまた無条件に帰属していると感じられるのなら、なにも新たに土壌をつくりだす必要はないからだ。

・・・そういう土壌が、いつの間にか、衰退し、自壊に至ってしまった。それは、かならずしも悲観的な状況ではない。むしろ、ぼくたちのつくることへ不自由を与えるものが一つなくなったという点では、喜ばしいことかもしれない。少なくとも、土壌がなくなったことで、デザインという言葉の意味は大きく変わってしまった。そして、ぼくはそこに希望があると思う。(『フラジャイル・コンセプト』)

歴史は繰り返す。磯崎新が、建築が解体した(=主題の不在)時代を乗り換えようとしたように、土壌が自壊した(=大きな物語の終焉)した時代を、青木淳は生きているのである。

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