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読者目線文学論

RADWIMPS「週刊少年ジャンプ」-無力な読者

野田洋次郎作詞のこの歌は、曲名にあるジャンプ的要素を著しく欠いている。よく知られているような「友情・努力・勝利」の要素が歌詞中には見られない。では、この歌で繰り返される「週刊少年ジャンプ的な未来」とは何か。それは歌詞中の言葉を使えば「どんでん返し的な未来」である。

どんでん返しとは読者の予想を裏切ってストーリーを大きく展開することだ。したがって、「どんでん返し的な未来」はその読者を前提として成立する。ところで、この歌は「僕」と「君」で展開する。その周りの人物はほぼ描かれない。とすると、「君」が「僕」の未来の読者なのか。そうとも限らない。歌詞を追ってみると、「君」はもう一人の「僕」としても読めるからだ。ここから導かれることは以下の通りだ。すなわち、「僕」が「僕」の未来を読者として傍観している。

自らが読者である点が肝要だ。作者ではない。「僕」は未来を作り変えようとして実存に主体的に関わることはしない。せいぜい、「僕」が思い描くヒーローらしく自堕落な学生生活を送るに過ぎない。そして最後には、「どんでん返し的な未来」を確信して「ぼろぼろの心を隠さないで泣けばいい」と言う。いわば、一発逆転のチャンスを信じて待つのみなのだ。

未来の自分がどうにかしてくれていることを信じて読者化する主体。ここにおいて現在と未来の結びつきは希薄化してしまっている。週刊少年ジャンプ的に虚構化された未来には、現在から働きかける余地が残されていない。そのことに野田も気づいているだろう。だからこそ、「週刊少年ジャンプ的未来を夢見ていた」と過去形で語るのである。極端に虚構化され読者としてしか未来に関われなくなった時、僕らの実存はどこへ向かうのか。現在に甘んじるのか、或いは安易に過去に回帰するのか。その何れでもなく、虚構と読者の回路を見つけなければならない。

 

和牛「ウェディングプランナー」-現実と虚構の回路付け

和牛によるネタ「ウェディングプランナー」。このネタは水田信二がウェディングプランナーへの憧れを述べ、相方の川西賢志郎が新婦という設定で付き合わされることから始まる。このネタは二部構成。前半はウェディングプランナー扮する水田の突飛な提案に対し、川西がツッコミを入れて修正しながら結婚式を企画していく。そして後半では水田が新郎となり川西とともに結婚式に臨む。しかし、結婚式は新婦の注文通りには実行されない。そこで繰り広げられるのは突飛な内容の結婚式である。

これは一種のメタ漫才である。ネタの後半は前半のやり取りを含みこんでおり、前半のボケがあるからこそ成立する。前半の漫才をネタとした漫才が後半に繰り広げられるのだ。しかし、和牛はそのメタ性についてネタ中に敢えて言及しない。これは漫才の虚構性について観客に強く意識させすぎると安っぽい芝居臭さが増すからだ。ここまでくると観客はネタに入り込みづらくなる。和牛はこのことを踏まえ、メタ性を保ちながら観客を漫才世界に没入させる工夫を施す。

その工夫とは後半の結婚式の進め方だ。後半ではボケへの説明は最小限に留まる。実際、後半だけを独立に見れば、意味不明なボケが幾つもある。それほど状況説明が少なく、速いテンポで結婚式が展開する。しかし、観客が置いて行かれることはなく、目の前で何が起こっているか的確に把握している。それが可能なのは、観客が前半の漫才を基に後半の漫才を読み込んでいるからだ。ここにおいて観客は能動的に漫才を鑑賞しており、漫才世界により強く没入することが可能になる。そして、それに連動するかのように後半にかけて笑いの量も増す。

「ウェディングプランナー」はそのメタ性ゆえに観客を強く巻き込む構造を持つ漫才だ。それは観客に(無意識ではあれ)能動的に漫才に関与させるという点で新しい漫才なのだ。

 

樋口恭介『構造素子』-読者という存在様式

売れないSF小説家ダニエルを父に持つエドガーは、亡き父が残した未完の草稿を手に入れる。この草稿をエドガーが読み進めることで物語は進行する。ただ、エドガーは読み進めると同時にこの草稿を書き加えており、エドガーとダニエルの合作が現実の読者が読む『構造素子』の骨格となる。

本書は読者論として現実の読者の実相に迫るフィクションである。その試みは書き加える行為に言及することで際立つ。エドガーの書き加え方に注目しよう。エドガーは草稿に残されたダニエルのメモに解釈を重ねて書き加える。時には、解釈の手掛かりに現実の本(例えばヘーゲル『法の哲学』)を参照する。したがって、現実の読者が読むのはダニエルが書いたものに加え、エドガーの読みが反映された記述、そして現実の本に拠った記述の混合作品だ。

このような様態を取ることで現実の読者が読書中に行う、書き加えを示す。現実の読者は作者の記述をそのまま読むのではない。読者の解釈を介在させて読む。この解釈こそが読者による書き加えである。この書き加えが最も顕著になるのが、他の本との繋がりを意識する時だ。実際、樋口は現実の書物を想起させるような書き方を意図的にしている。参考文献を読んだことのある読者だけにわかるような形で示す。つまり、『構造素子』はその様態ゆえに現実の読書経験にまで接近する。それは現在だけには収まらない。読者の過去の読書経験まで踏み込み、書き加えを意識化する。読書経験そのものを本書の読書経験を通じて間接的に伝えるのだ。

読書は不思議な経験である。そこでは現実の時間だけでなく、蓄積された過去の時間も入り込む。さらに、虚構と現実という異なる階層構造の枠組みが融解して曖昧になる。その中心にいるのが読者である。『構造素子』は私たちのそのような特別な存在の仕方を教えてくれる。

 

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