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「全体」に対峙する想像力としての文学

村上春樹『風の歌を聴け』

 「僕」はコミュニケーションの不可能性に悩まされている。よく表れているのが、カリフォルニア・ガールズのレコードを貸してくれた女性と、努力の果てに結局は会えないことだ。他にも、親密になった女の子には嫌われ、その理由を自覚することもできない。第一章で言われている文章を書くことによる「自己療養」とは、この不可能性を克服することを指している。「僕」は同じ章で、認識しようとするものと認識できるもののあいだには深い溝があると言ってもいる。人間は言葉を介してものを認識するため、これは言葉で語ろうとするものと実際に語れるものはどうしようもなく違うのだということだと考えられる。すなわち、まず語ろうとするものと語れるもののあいだに、次に語れるものと相手に伝わるもののあいだに、それぞれ不可能性が立ちはだかっている。「僕」の言葉が通じない状態は人間とのあいだだけではなく、もの=世界とのあいだにも生じているのだ。

 彼のデレク・ハートフィールドは、不毛な、不毛を志向した作家だった。そして不毛さとは自分の戦う相手の姿を見極められないことだという。「僕」は文章のほとんどすべてをハートフィールドから学んだ。そしてそれは読みやすさではなく、自分と世界との距離を測るものとして文章を書くということだ。つまり、言葉という「ものさし」を手にして、世界との見果てぬ距離の前に立ち尽くすことこそを彼はハートフィールドから学んだのだ。

 「あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。」これはほとんどこの小説の結論のようなものであり、一言で言い換えるなら、どうやったって言葉は通じないということだ。すぎゆくあらゆるもの=世界は捉えられないし、介抱した女の子とも別れてしまう。結局のところ、「僕」は、あるいは村上春樹は、この小説を書いたところでなにも回復することはできていない。しかし、これはとても重要なことだが、彼は『風の歌を聴け』のあとも小説を書き続けている。言葉というものさしを手にして立ち尽くすことを学び、そのまま立ち尽くし続けることを選んだわけだ。多作な村上春樹のキャリアの始まりは言葉の頼りなさを真摯に受け止めることだったのだと知ることは、彼の他の作品を読み解くうえでも重要な役割を果たすことになるだろう。

MOROHA「革命」

 この作品の歌詞は「俺」が「お前」に語りかけるところから始まる。さらに飲み会という場や26歳という「俺たち」の年齢さえ設定されている。あまりに私的に閉じているように思える。しかし、一瞬の沈黙を挟んだのちの歌詞には一般性もありMOROHA自身を歌っているようでもあり、それでいて聞いているこの自分だけに歌っているようにも感じられる。たとえば、「現実は暗い時に苦しい」は一般的で、「この街で迎えた六度目の春」はおそらくMOROHA自身のことであり、「いつだって本気なお前がヤバイ」の「お前」は聞いているこの私だろう(冒頭の「お前」はいつだって本気ではなさそうだ)。いわば複雑かつあいまいに変化する視線を持っている歌詞なのだ。逆に言えば、この歌詞によって複雑かつあいまいに変化することそのものが示されている。

 歌詞とは反対に、ギターのリフはほとんど同じ繰り返しになっている。けれど重要なのは、その反復が歌詞の複雑さを際立たせているなどということではない。「革命」とはこの作品において、自分を変革するということであり、それによってこれまでの繰り返しの生活から抜け出すことを意味している。ならば、凄まじい変化への熱量を持った歌詞を支えているこの繰り返しのリフは生活そのものだと言えるのではないか。つまり、繰り返しを乗り越えるための情熱は繰り返しのうえに成立する。再び言い換えてみるなら、変化への欲望が生じるのは変わらないものがそこに存在するからこそだといえる。

 音それ自体に注目してみると、歌詞と呼応するように声には力が宿り、あるいは弱々しくもなる。声と共にギターも力強く、あるいは繊細に響く。それは強弱という最もシンプルな変化であり、シンプルであるがゆえにこそ、強烈に心を揺さぶる。

 以上のように、「革命」とはまさに、様々な仕方で変化を描き、変化することの総体を提示しようとした作品なのだ。

水木しげる『水木しげるの妖怪人類学』

 前半には妖怪を描いた一枚絵が並び、後半にはそれぞれの妖怪に関するエピソードが語られている。それは小説風であったり、伝聞的な体裁をとっていたり、水木しげる自身の旅行記のような、ほとんど雑談みたいな部分もある。語り方の多様さは妖怪たちのビジュアルの多様さに重なって、いくつもの小さな世界が立ち上がっているような感覚を与えてくれる。

 妖怪は伝承や昔話など主に言葉で語り伝えられてきたのであり、つまり言葉と想像力の集積だ。そこには教訓であったり、不可解な現象への説明が込められていただろう。その部分は後半のエピソード群に対応する。それらの集積が水木しげるの手によって像を与えられたのが、前半の妖怪たちの絵だ。これらの絵の多くには妖怪とともに人間が描かれている。妖怪は人間のそばにいるというわけだ。人間が想像することで存在するのだから、当然と言えば当然だ。

 しかし、わたし達の想像力は妖怪がほんとうに身近なものだった頃と比べて変質しているだろう。なにかが潜んでいそうな暗闇は減り、わたし達は自然の代わりに画面を眺める。ますます世界は平面的になり、目に見えない領域は忘れ去られていく。わたしはこれを否定したいのではない。むしろ世界を平面的に捉えるなら、その上や下にまた別の平面な世界があって、それらは完全に平行だったり、どこかで交わっていると想像することが可能になるだろう(もちろん実際には上下は存在しない)。ひとつの世界に多様な領域が混在しているのではなく、多様な世界群がところどころ交わっていると捉えられるようになるはずだ。

 そのような想像力のもとでは同じ地球上のことでも別世界のことと受け止められてしまうようになるのではないかという疑問がある。その通りだ。しかしそれらの世界はわたし達の目に見える範囲の世界と、「地球にある」という点で交差していて、決して平行ではない。問題はいかにその交点からその別世界全体へと辿る道筋を示すかだろう。

 水木しげるは、目に見えないがそこにあるものとして妖怪の世界を捉えていた。妖怪たちを集めることを通して現実の世界と妖怪の世界をまるごと捉えること、それが妖怪人類学の試みだと言えるだろう。つまり、妖怪たちの世界も含めた世界全体を把握しようとしたのだ(この点は『風の歌を聴け』と共通する)。そして想像力が変質した現在に生きるわたし達は、この妖怪たちそれぞれの、あるいは他の不可視の世界が可視の世界の上や下にあるのだと想像し、交点を永久に探し求めるほかはない。それが世界群の「全体」につながるための道なのだから。

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