印刷

仮に文学賞から考える、ジャンル小説としての純文学。動態を作るからこそ

 

 

内出血:『緑のさる』

 

山下澄人のデビュー小説『緑のさる』は、野間文芸新人賞を受賞した。物語の主人公タナカは、所属する劇団が解散したのをきっかけに海へ向かう。海岸で出会う奇妙な人物たちと、夢か現実かわからないような世界を彼はさまようことになる。

まず読者に衝撃を与えるのは、小説内で乱れ飛ぶような視点や思考の存在だ。一人称の世界を離れて、唐突にヘリコプターから眺めた視野が導入される。それは空間を移動するだけでなく、過去や未来に起きた出来事の断片をたたみかけるように一貫する。作家が用意する独特のリズムは、多くの小説が表現を避けてきたほどの「視点の酔い」を導いていく。

山下はまた、純文学の世界にありがちな暗黙の了解にも逆らう。「文学以外の他ジャンルに移すことのできる、会話文の使い方には気をつけなさい」。山下作品の読者にとって、情報の出所は、断片的に散らばる登場人物の言葉にも時に大きく依存するのである。

それでも、ストーリーの進行が会話文だけに依存せず、そこにしっかりと〈読者とテクストの間〉とも呼ぶべき感覚が存在することに目を向けたい。縦横無尽な時空間配置と物語との結びつきが精巧に設計されているため、視点の酔いを感じさせながら、読者とテクストのあわいに宿る文学作品としての価値を同時に強調する。

文学の全体性を考える際、〈純文学=文学〉の虚像や他ジャンルのテクストを飛び越え、他のジャンル芸術に想像を飛び地させてたどり着くものこそ、安易に生まれる全体性の幻影になりかねない。たとえば純文学に与えられる文学賞を思考の「計り」にするだけでも(純文学の、文学からの相対化)、深淵でさまようことなく、時空間を広げた視野を保つことができる。そして『緑のさる』のように、権威を伴った〈純文学〉でありながらその動態を刺激し、広い意味での文学に転移しようとする実践が発見されるのだ。〈純文学〉の足場を揺るがすが故に、純文学が逆照射される。

 

(799字)

 

 

地震:『私的なものへの配慮No.3

 

たとえ作家の意志から文学賞に名を寄せることがなかろうと、文学の動態を刺激する作品は存在する。

 

1の死んだ日がいつかを僕2は知らない3。だけどほとんど僕が死なせた4ようなものだから、それだけは忘れないうちに5書き残す6ことを許して7ほしい。

1僕じゃない。

2僕のことだ。

3ひどい書き出しだと僕も思う。

4殺したのかもしれない。僕には分からない。

5細部がもう思い出せない。

6書き換えることは否定されていない。

7許諾しない権利は認められている。

 

いぬのせなか座に所属する笠井康平の『私的なものへの配慮No.3』には、562の注釈が詰まっている。しかしながら、かつて田中康夫『なんとなく、クリスタル』が用意した442の語注とは異なり、上記の引用以外にも様々なバリエーションを持つ笠井の「注」は、読書という体験それ自体を解体してしまう。そこでは「日本語を読んでから読み手の視点が動かされる」のではなく、「日本語を読むというその前段階のプロセスにおいて、読者は総意を取るため本文と注釈の間で視線を行き来させざるを得ない」のである。例えばこの点において、今作は山下澄人の小説に見られるような視点の脱臼とも一段階異なる様相を呈する。

また、笠井による私的な関心は、自然言語処理やゲームの規則、出版物流市場、EUの一般データ保護規則などにも及んでいる。〈純文学〉が長くテーマにしてきた「私」は、現代生活を取り囲むグローバルなネットワークの中で精密に絡みとられ、編集され、再生産されるのだ。

SF小説とも異なるこの作品は、言語芸術の見地から読書を、そしてその先の〈純文学〉を解体しようと試みる。〈純文学〉の基本的なフォーマットに従わない言語実践でありながら、フィクションとノンフィクションの間を漂う同作は、広意の文学の可能性をも問いつめる。これまで文学の世界では見逃されてきた領域の中で、小説に近接しながら批評的な効力を発揮するのである。

 

(795字)

 

 

放射能:『きみの鳥はうたえる』

 

私たちはいま、〈純文学=文学〉の世界が過去に取りこぼした可能性にも目を向けなければならないだろう。1982年以来、5度の芥川賞候補に名を連ねた佐藤泰志は、結局一度もその権威から認められることなく、失意のまま41歳で命を絶った。

彼の『きみの鳥はうたえる』もまた、悲哀の裏側にあり、決してかき消されることのない青春の瞬きをささやかに提示する。北海道の函館を舞台にした作品は、虐げられる労働者の持つ厳しい現実に触れるだけではなく、暗く陰湿な暮らしの中にこそ芽生えるような、儚くも眩しい光明を発見していく。

そこには、不況時代のリアリズムを更新するための可能性も含まれていたのではないだろうか。佐藤の原作小説が度々優れた映画としてリメイクされ、純文学から離れたところでも効力の高まりが示唆される。映像化という翻訳作業を経て、人々はようやく、前衛的な小説の中の文学性を色濃く捉えはじめる。

たとえば、映画やアニメでも文学と同じようなことを語れるのだという主張は数多く存在する。だがそれは映画やアニメが文学なのだという帰着には安易に結びつかない。文学論の話はできても、そこに形式が欠けているからだ。一方で佐藤のリアリズムはテキストという実体を伴いつつ、他のメディアに転移されていく。それは文学賞の選択によって実像を半透明化されながらも、メディア化されることで純文学のエッセンスをわかりやすく抽出し、再帰的に存在感を増すテキストなのである。

数多ある「実写化される小説」ではない。作家が文学賞を何度も直前で逃したという事実や、映画『海炭市叙景』や『そこのみにて光り輝く』、『オーバー・フェンス』の成功をもって、佐藤の作品はいま現在、最も強度を増している。

2018年9月、『きみの鳥はうたえる』が上映される。

佐藤泰志の純文学はそれまでの間、そしてそれ以降も、現在の文学賞が持つ「眼」に揺さぶりをかけていく。亡霊の叫びがこだまする。

 

(797字)

 

 

文字数:2468

課題提出者一覧