いれもの・テクスト・つなぐもの
声
『現代思想について―講義・質疑応答』(新潮CD 小林秀雄講演 第四巻)
僕は教育学部の学生だったとき、急性のアルコール中毒になったことがある。強く記憶しているのは意識を完全に失う前。目の前は深淵の闇で、周囲の大きな声だけはっきりと聞こえた。意識を取り戻すのも耳からだった。ある病院の集中治療室、隣の老人の繰り返すうわごとに看護師が応答していた。この電子音は何だろう、ああ、心電図の音か。
このCDに出会ったのは、僕がそんなときだ。自分の求めるものは、大学の講義にも友人関係にもなくて、図書館で多くの時間を過ごすようになっていた。僕は随分と飽き性だから、読むべき本はいくらでもあったろうに、図書館にあるものすべてにのべつ幕なしあたっていた。
そのときまで、僕は小林秀雄を知らなかった。CDに録音された講演をひとたび聞いて、この声の主に夢中になった。そんなはずないのだが、自分に宛てたものだと思った。小林は言う。
「魂はうつるんです。魂がうつるということに教育の原理があるんじゃないか。
僕の信念はきっとこれを受け取る人があると信ずるんです」
この人の魂をうつしたいと、繰り返しCDを聞き続けた。この人の言っていることを分かりたいと、本を読んだ。そんなことをしていたら、ちょっとおかしくなってきて、本当の自分は小林の生きている時代にいて、今の自分は何かの間違いなんじゃないかと思う心持になった。小林がもういないことに涙し、絶望した。
オウム真理教の元信者が、あれほどのことになりながら、今も麻原彰晃を否定しきれないといったことが時折話題になる。オウム真理教が麻原の音声テープを修行に用いたことを知っているから、僕はそれに何ら不思議を感じない。振り返れば、あのときの自分はおかしかったと思う。しかし本当のところいまだに分からないでいる。おかしいのはいったいどっちなのかと。
彼らも僕も、自分の信じたいものを信じた。ただ僕の信じたものは、信ずるとは何か、声とは何かを問い続けている。
紙片
『Life on the Refrigerator door』written by Alice Kuipers
この小説はシングルマザーで産婦人科医の母親と15歳の娘クレアの二人が主人公です。でも二人が描写されることはありません。この小説のフォーカスはいつも二人が残すメモにしかあたりません。だけど私たちはそのメモを通して、二人に流れる時間と変わっていく関係性、愛する人と共に過ごす時間の大切さを知ります。そして残るのはあたたかい気持ち。これはとても不思議なことです。
この本の著者アリス・カイパースは1979年ロンドン生まれです。イギリス人にとってキッチンは人が集まり会話がなされる特別な時空間です。でも、主人公の二人が残すメモは会えなかったときに残されるものです。悲しいはずのメモがあたたかさを持つのはなぜでしょうか。そのメモが二人にとっては文学作品だから、と私は考えるのです。
欠落を埋め合わせるためにテクストを書いた人がいる。テクストを読んで欠落を埋め合わせた人がいる。それは私たちが文学と読んでいるものの本質なのではないでしょうか。
最近、AIによって将来小説家がいらなくなるかということが話題です。馬鹿げていると私は思います。未来、仮に現在の時点で傑作と呼べる小説をAIが書けたとします。そのとき、言葉を解する人間がいなければその小説を誰が理解するのでしょうか。人間がいなければ文学はない、自明なことです。
最後に悲しいことですが、Life on the Refrigerator doorはもう絶滅危惧種です。私たちのほとんどは、もはや冷蔵庫にメモを残さなくなりました。そのかわりにディスプレイの下にいつ読まれるとも分からない無数のLifeがうごめいています。
喚起装置
『Lifeline』written by Dave Justus
『Lifeline』はスマートフォンで遊べるゲームアプリである。このアプリはユーザーインターフェイス(UI)とテキストで構成されている。『Lifeline』は次のような形で始まる。
[着信中]
[接続確立中]
[メッセージを受信中]
こんにちは。ちゃんと届いているのかな・・・
このメッセージを受け取った人はいませんか?
A<あなたは誰?> B<メッセージを受け取りました。>
A<> B<>は選択肢となっており、ユーザーが選ぶことで物語は分岐し異なったテキストが送られてくる。物語を進めていくと、テキストの送り主はタイラーという宇宙飛行士で宇宙船がトラブルを起こし、どこかの衛星に不時着したらしいことが分かる。タイラーは何らかのトランスミッター(送受信機)でユーザーのスマートフォンにつながった。ユーザーはタイラーの唯一の対話相手(Lifeline)として物語を進めていく。
A<話してくれてありがとう> B<どんな場所にいるのか説明して。>
・・・脱出ポッドは砂漠のような場所に着陸した。
地面にはヒビ割れた白い岩が広がっている。数マイル先に大きな白い山が見える。
山は奇妙なくらい左右対称だ。もしかしたら自然に形成されたものじゃないかもしれない。
ユーザーはタイラーのLifelineであるという文脈により、タイラーの感情を共有し、物語を進めたいと欲望し、想像力を働かせる。思えば、文学作品と読者はLifelineでつながってきたのではないか。生きることはいかなることかと悩むかつての青年にとって、小説や思想書はLifelineであった。いつしか、そのケーブルは劣化し、ほつれ、Lifelineと呼ぶことのできない細い糸によってでしかつながっていないにも関わらず、膨大にテキストを送ろうとしてはこなかったか。
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