梗 概
人類最後の凶器
世界の終わりで起こる殺人事件を描くSFミステリ。
主人公たちが滞在する宇宙ステーションに、地球から「全面核戦争が開始した」報が入る。地球からの通信が途絶え、宇宙ステーションに滞在する5名が実質的に「人類最後の5人」となる。
【登場人物】
A:宇宙ステーションの船長。地球滅亡の報を受け、絶望するクルーをまとめる。
B:副船長。「500mlのアイススラリー経口補水液」を愛飲しており、常に冷凍庫でカチカチに凍らせている。
C:民間の宇宙特派員(ジャーナリスト)。ショックで病に倒れ、長らく寝たきりだったが、射出直前に復調する。
D:ロボットアームの技術を持つエンジニア。
E:船医。食料の配分についてCと対立していた。
【導入】
残された物資から、5人の命は「あと3年」であることが判明。残りの日々を穏やかに過ごすため、数カ所を除くほぼ全ての監視カメラと個人の位置情報をオフに。重病のCを除く4人は「人類が生きた証」を金属レコードに刻み、外宇宙へ射出する計画を進める。核戦争で自滅した事実もありのまま記録され、完成。射出日が1か月後に決定。射出3日前、Cが復調する。
【事件】
射出前日、Cが自室で頭部を殴打され死亡しているのが発見される。全員のアリバイは曖昧。Dの確認により、レコードを乗せたカプセルがすでに宇宙へ射出されていると判明する。食料問題でCと揉めていたEに疑いが向く中、Aはステーションの物理システムログから真相解明を試みる。
【推理】
Aはカプセル射出時のデータから物理的な矛盾を発見する。無重力下の射出では「カプセルの質量×速度」は一定になる。規定の質量(5280g)なら秒速11.0mで飛ぶはずが、実測データは10.0mだった。
実際のカプセルの質量は規定より「528g」重い。Aはステーション内の備品から、その数値に完全に合致する物体――Bが常備している「凍ったアイススラリー」に思い至る。
【真相】
証拠を突きつけられたBは自供。事件当夜、BはCが密かにレコードを操作している現場を目撃。復調したCは完成したレコードを知り、美しい嘘の歴史を残そうと「核戦争の記述」を勝手に削除。「自分たちの罪から目を背けるな」と激昂したBは、手にしていた凍ったパウチで撲殺。
凶器となったパウチは、複雑な飲み口の溝に血が入り込み、完全に拭き取ることは不可能だった。さらに、証拠隠滅ができるステーションのゴミ捨て場は安全管理のため監視カメラが作動したままであり、捨てれば映像が残ってしまう。
唯一、カメラの死角から船外へ物体を永遠に葬り去れる手段は「レコードを封入するカプセル」だけだった。Bは同胞の血を吸った凶器そのものを「人間の暴力性と愚かさを示す記録」としてカプセルに封入し、レコードとともに射出していた。
残酷な真実を乗せたカプセルが宇宙の彼方へ遠ざかる中、残された4人は死を待つだけの日々に戻っていく。
文字数:1189
内容に関するアピール
「人類の滅亡が確定した世界で起きる殺人事件」を描いた作品にいくつか触れる中で、ある作品に対して不満を感じました。殺人の動機が、「世界が終わるなら人はこうなるだろう」という想像の範囲内に収まっている——というものです。「どうせ全員死ぬのに、なぜ人を殺すのか」という問いは非常に魅力的な分、答えが凡庸だと途端に色褪せてしまいます。本作では、この問いへの回答を物語の中心に据えました。殺人の動機は「人類最後の記録に何を残すか」という思想の衝突であり、凶器そのものが記録の一部として宇宙に射出されるという構造によって、トリックと動機が一体となる設計を目指しています。
文字数:279
人類最後の凶器
【112日目】
人類最後の5人が、4人になった。
星野大樹が端末室に駆けつけたとき、最初に見えたのは一面の赤色だった。
作業チェアの脚元に、クリストファーが崩れ落ちていた。後頭部が陥没している。灰白色の壁面に赤黒い飛沫が放射状に散り、擬似重力に引かれて細い筋になって垂れていた。
その傍らに、ビアンカが立っていた。正確には、立っているだけだった。どこか虚空の一点を凝視したまま、微動だにしない。その右手に、見慣れたものが握られていた。
250ミリの大型コンビネーションレンチ。星野が毎朝、毎晩、このステーションの継ぎ目を締め直すのに使ってきた相棒。グリップに巻いた滑り止めのテープが赤く染まり、顎の部分から粘度の高い液体が糸を引いて床に垂れている。
星野の口が動いた。声にならなかった。もう一度、息を吸った。
「——それは、俺の工具だ」
ビアンカは答えなかった。
*
【21日目】
3週間、星野は電波を探し続けた。
VHFからUHF、Sバンド、Kaバンド。軍用の秘匿周波数帯まで含めて、受信機を片っぱしから回した。スペクトラムアナライザの画面には、熱雑音の平坦な波形だけが流れていた。信号はない。どの帯域にも、地球の沈黙だけが満ちていた。
21日目の午後、アレクサンダーが司令モジュールに全員を集めた。全員、というのは正確ではない。クリストファーは通信途絶の翌日にショック状態に陥り、居住区画の一室で寝たきりになっている。集まったのは4人だった。
「報告する」
アレクサンダーの声には、この3週間で染みついた疲労が沈殿していた。司令席ではなくテーブルの端に腰を下ろしている。船長の椅子に座る意味が、もう存在しないかのように。
「大気組成のスペクトル分析。地表温度の赤外線観測。電離層の異常な乱れ。星野が出したデータは全て確認した。——結論を言う。組織的な文明は消滅した。散発的な生存者がいる可能性は否定できないが、我々を救出できる存在はもういない」
誰も声を上げなかった。知っていた。3週間かけて、全員がそれぞれのやり方でその結論に辿り着いていた。アレクサンダーの言葉は、確認に過ぎなかった。
このステーションは、もともと国際宇宙科学プラットフォームとして建造された。低軌道上で地球を周回し、各国から派遣されたクルーが長期滞在する。回転モジュールによる擬似重力区画と無重力の実験区画を併せ持ち、最大8名を収容できる設計だった。星野たち5名の滞在は通常のローテーションの一環であり、3カ月後には次のクルーと交代するはずだった。
異変は、5月17日の早朝に始まった。地上管制から定時連絡の周波数で緊急通信が入った。「全面核戦争が開始された」。それだけだった。音声は途切れ途切れで、背景にはノイズなのか怒声なのか判別のつかない音が混じっていた。送信者の名前も、所属も、聞き取れなかった。
その後、通信は回復しなかった。
最初の数日間は、何かの間違いだと思おうとした。演習の誤報。通信機器の故障。しかし窓の外に見える地球の夜側に、見慣れないオレンジ色の閃光が断続的に走るのを残された5人全員が目撃した。大気圏上層が不自然な色に濁り始め、日を追うごとに雲のパターンが崩れていった。観測機器が拾ったデータは、どれも同じことを示していた。地表で、大規模な核爆発が連鎖的に起きている。
3週間。沈黙は続いた。順応するには、あまりに短い時間だった。
「物資の残量から算出した。5人の生命維持が可能な期間は、約3年だ」
3年。千日と少し。その数字が司令モジュールの空気に落ち、沈んだ。
ビアンカが壁に背をもたせたまま、腕を組んだ。エレナが自分の膝を見つめていた。
星野は窓の外に目をやった。地球は今、昼側が見えている。かつて青と白に輝いていた球体は、灰褐色の膜に覆われつつあった。核の冬の第一段階だ。成層圏に巻き上げられた煤が太陽光を遮っている。
長い沈黙があった。誰も次の言葉を持っていなかった。
星野が最初に席を立った。言葉にできることが何もないなら、手を動かすしかなかった。
クリストファーの部屋の前で立ち止まる。ドア越しに、浅い呼吸の音が聞こえた。星野は音を立てずにドアを開け、中を覗いた。
クリストファーは医療用ベッドの上で、目を開けたまま天井を見ていた。見ていたのかどうかも分からない。瞳孔が焦点を結んでいなかった。通信途絶の翌日から、ずっとこうだった。エレナは「解離性昏迷」と言った。心が受けた衝撃が大きすぎて、外界との接続を完全に遮断しているのだと。食事は流動食をチューブで摂取し、排泄は自動処理。生きているが、ここにはいない。そういう状態が3週間続いている。
星野は環境制御パネルにアクセスした。室温が20℃まで下がっている。寝たきりの人間にはきつい。23℃に上げた。次いで、医療用ベッドのサスペンションを調整する。0.3Gの負荷が局所に集中しないよう、体圧分散モードの感度を最大に引き上げた。空調の気流方向を微調整して、顔に直接風が当たらないようにする。回転モジュールの擬似重力は遠心力だから、頭と足で重力の方向がわずかにずれる。長期臥床では、そのずれが内耳を狂わせて眩暈の原因になる。ベッドの角度を1.5°だけ傾けて補正した。こういう細かい調整は、モジュールの構造を知っているエンジニアにしかできない。
クリストファーは天井を見つめ続けていた。星野のことは認識していないようだった。それでも、部屋の空気は少しだけましになったはずだった。
パネルを閉じ、部屋を出る。
司令モジュールに戻ると、3人はまだ同じ場所にいた。沈黙も、同じ形のままそこにあった。アレクサンダーが顔を上げた。星野がいない間に何かを考え続けていた目をしていた。
「——ひとつ、提案がある」
4人の視線が集まった。
「レコードを作らないか。人類が存在した証を、金属に刻んで、宇宙に送る。ボイジャーのように」
*
【85日目】
星野はB-3区画の床に仰向けに潜り込んでいた。
放出機構の下腹を睨む。旧式の小型衛星放出機構。スプリング式で、もとは10キロ以下の超小型人工衛星(キューブサット)を軌道に押し出すだけの装置だった。これを電磁カタパルトに作り替える。コイルを巻き直し、電源ラインを引き直し、制御基板を一から組む。2カ月。ようやく形が見えてきた。
大型レンチをボルトの頭にかける。全体重を乗せる。
「そんなに締めて大丈夫なの」
声がして、星野は放出機構の下から首だけ出した。ビアンカが通路の入り口に立っていた。手にはデータパッドを持っている。
「限界トルクの8割。折れはしない」
「レコードの内容について、また揉めてる。来ない?」
「中身は俺の領分じゃない」星野はまた機構の下に潜り込んだ。「俺は箱を作る。何を入れるかはそっちで決めてくれ」
ビアンカは少し黙ってから言った。
「アレクサンダーは、なるべく美しいものを残したいと思ってる。人類の音楽、芸術、数学の定理。それは分かる。でも、核戦争のことを書かないなんて選択肢はない。起きたことは起きた。娘が——」
声が途切れた。地球沈黙以来、ビアンカが「娘」という単語を口にしたのは、星野の知る限りこれが初めてだった。
「……真実を残さなきゃ意味がない。それだけ」
ビアンカはデータパッドを軽く振って、通路を戻っていった。
星野はボルトを締め続けた。言葉や思想は人の数だけ形が変わる。だが鋼鉄は違う。トルクが足りなければ緩むし、かけすぎれば折れる。正しい値は一つしかない。物理法則は嘘をつかない。そういうものだけを相手にしていたかった。
午後、司令モジュールで進捗会議があった。レコードの内容はほぼ固まりつつあった。人類の歴史。言語の体系。科学の到達点。芸術と音楽の記録。そして——全面核戦争による文明の自滅。最後の項目については、ビアンカが譲らなかった。アレクサンダーは最終的に同意したが、表情には割り切れないものが残っていた。
「射出日を決めたい」とアレクサンダーが言った。「候補はあるか」
エレナが端末を操作しながら答えた。「カタパルトの完成見込みは?」
「あと2週間あれば」と星野は言った。
「じゃあ、9月以降ならいつでもいける」
ビアンカが顔を上げた。「9月5日」
全員が振り向いた。
「ボイジャー1号の打ち上げ日だ。1977年9月5日」
アレクサンダーが小さくうなずいた。「——いい日だ」
異論はなかった。9月5日。地球沈黙から112日目。カプセルが宇宙に旅立つ日が決まった。
会議が終わると、星野はまっすぐB-3区画に戻った。ここからは制御基板の配線だ。
端末室の近くを通りがかったとき、星野は立ち止まった。250ミリの大型レンチは、細かい結線作業には重くて邪魔になる。星野は端末室に入り、壁際の工具棚にそれを無造作に置いた。ここならカタパルトの作業場にも近い。明日また使う。
通路を歩きながら、頭の中では基板のレイアウトが組み上がり始めていた。射出時の速度制御はどうする。フィードバックループの応答速度は。共有端末からも操作できるよう、簡易インターフェースを切ってリンクを張っておくつもりだった。誰か1人が倒れても、残った人間が射出できる。それが冗長設計の基本だ。9月5日まで、あと27日。手を動かすべきことは、まだ山ほどあった。
*
【109日目】
カタパルトの最終調整を終えたのは、午後3時を回った頃だった。
制御基板の応答テストをすべてパスし、電磁コイルの出力も設計値に収まった。あとは本番前日にカプセルを装填して最終チェックをするだけだ。9月5日まで、あと3日。星野は工具を片づけ、汗を拭いて、共有スペースに向かった。
入り口をくぐると、空気が違った。アレクサンダーとエレナがテーブルについていて、星野を見た二人の顔に、普段と違う表情が浮かんでいた。困惑と、かすかな安堵と、それからもう一つ、うまく読み取れない何か。
「クリストファーが起きた」
アレクサンダーが言った。
星野は立ち止まった。約100日寝たきりだった男が、起きた。
「いつ」
「今朝。自分でベッドから降りた」エレナが答えた。「バイタルは安定してる。筋力低下はあるけど、歩行もできてる。……ただ」
エレナは言葉を選ぶように間を置いた。
「体は回復した。でも、精神的にはまだ不安定だと思う。突然泣き出したり、急に黙り込んだり。地球のことを、まだ受け止められていない」
星野はうなずいた。100日前、通信途絶の翌日にショック状態に陥ったクリストファー。あの日から時間が止まっていた男が、いきなり109日目に放り込まれた。地球が灰褐色の球体に変わり果てた現実に、3週間かけて向き合った自分たちとは出発点が違う。
「気をつけて見ておくね、星野」とエレナが言った。
星野は「そうか」とだけ返した。心の問題はエレナの領分だ。自分にできるのは、あの部屋の重力補正角を調整してやるくらいのことだった。
そのとき、居住区画に続く通路の奥から、足音が聞こえた。ゆっくりとした、不確かな足取り。
クリストファーが共有スペースに姿を現した。
星野は息を呑んだ。別人だった。100日前のクリストファーは、筋肉質とは言えないまでも記者に似つかわしくない精悍さを持った男だった。今、通路の壁に片手をついて立っているのは、頬がこけ、腕が細く、肌の色が蛍光灯と同化した亡霊のような人物だった。ただ、目だけが異様に光っていた。
「……久しぶりだな」
星野が言うと、クリストファーは薄く笑った。笑い方を思い出そうとして失敗したような顔だった。
「みんな、何か計画を進めてたんだって?」
アレクサンダーが椅子を引いてクリストファーを座らせ、この3カ月で起きたことを説明し始めた。レコード計画。金属に刻む人類の記録。電磁カタパルトによる射出。ボイジャーの日に合わせた9月5日。クリストファーは黙って聞いていた。
「3日後なのか」
「そうだ。レコードの内容はもう確定している」
クリストファーの目が、テーブルの上のデータパッドに向いた。「読んでもいいか」
アレクサンダーがパッドを渡した。クリストファーはゆっくりとスクロールしていった。人類の歴史。言語。科学。芸術。その指が、あるセクションで止まった。
核戦争の記述だった。
クリストファーの顔から、さっきまでのわずかな表情が消えた。目だけがデータパッドの画面を追っている。スクロールの速度が落ち、やがて止まった。同じ箇所を読み返しているようだった。
クリストファーが何を思ってその画面を見つめているのか、星野には分からなかった。分かるのは、指先が震えていることと、呼吸が浅くなっていることだけだった。
「……ありがとう」
クリストファーがデータパッドをテーブルに戻した。
「少し疲れた。部屋に戻る」
クリストファーは立ち上がり、来たときと同じようにゆっくりと通路に消えていった。
エレナが星野と目を合わせた。「ね」と、小さく言った。それだけで十分だった。
星野は窓の外に目を向けた。灰褐色の地球が、視界の端をゆっくりと横切っていく。あと3日。カプセルの最終チェックの手順を頭の中で確認した。
*
【110日目】
その夜、クリストファーが共有スペースに全員を集めた。
昨日とは別人のような顔をしていた。あの亡霊じみた虚ろさは消え、代わりに何か一つのことを決めた人間の目になっていた。星野はテーブルの端でカプセル装填手順のチェックリストを手書きしながら、半分だけその場に参加していた。
「レコードの内容を変えてほしい」
クリストファーは静かに言った。
「核戦争の記述を、削除してほしい」
一拍の沈黙。アレクサンダーがわずかに体を硬くした。エレナが視線を落とした。ビアンカだけが、真っ直ぐクリストファーを見ていた。
「理由を聞かせてくれ」アレクサンダーが言った。
「人類の最後の記録だ。最後に——最後に残すものが、自滅の記録でいいのか。人類には美しいものがあった。音楽があった。芸術があった。子供の笑い声があった。そちらを残すべきだ。醜い終わり方じゃなく、美しく生きた証を」
声は落ち着いていた。昨日、データパッドを見て指を震わせていたことが嘘のように思えた。
ビアンカが口を開いた。
「核戦争は起きた。何十億人が死んだ。それを書かないということは、嘘の歴史を送るということだ」
「嘘じゃない。選択だ。何を残すかという——」
「選択?」ビアンカの声が鋭くなった。「あの子が生きていた世界を、なかったことにする選択か」
空気が変わった。ビアンカが「あの子」と言った瞬間、議論が議論でなくなった。
「私の娘は4歳だった」ビアンカは低く、しかし明瞭に言った。「あの子が生まれた世界。あの子が笑った世界。あの子が死んだ世界。全部同じ世界だ。核戦争を消すなら、あの子が死んだ事実も消えることになる。——そんなことを、私は許さない」
クリストファーが何か言いかけた。しかしビアンカは続けた。
「真実を残さなきゃ意味がない。誰かにとって都合が悪くても。それがレコードの役割」
「真実が人類の遺書になっていいのか」クリストファーが声を上げた。平静が崩れ始めていた。「永遠に宇宙を漂うんだぞ。それを見つけた誰かが読むかもしれない。そのとき人類は——核で自滅した愚かな種族としてしか——」
「それが事実だから」
2人の声がぶつかり、重なった。アレクサンダーが片手を上げて制止しようとしたが、どちらも止まらなかった。
エレナが口を開いた。ビアンカのような激しさはなかった。
「クリストファー、私は医者だから、少し違う見方をするけど。——人が亡くなったとき、カルテに本当の死因を書かない医者はいない。どんなに辛い原因でも、事実は事実として記録する。それが、亡くなった人に対する最低限の責任だと思ってる。レコードも同じじゃないかな」
クリストファーはエレナを見たが、言い返さなかった。激昂するビアンカには言葉をぶつけられても、静かに道理を説くエレナには、別の重さがあるようだった。
星野はチェックリストにペンを走らせていた手を止めた。止めただけで、何も言わなかった。
議論は同じ場所を回り始めた。クリストファーは「美しいものを」と繰り返し、ビアンカは「真実を」と繰り返した。アレクサンダーは双方を見比べて、何度か口を開きかけては閉じた。
「星野」
クリストファーの声だった。全員の視線が星野に向いた。
「あなたはどう思う。レコードに、核戦争のことを残すべきだと思うか」
星野はペンを持ったまま、クリストファーの目を見た。それからビアンカの目を見た。
「……俺は技術屋だ」
星野は立ち上がった。
「何を載せるかは、俺の仕事じゃない」
チェックリストをテーブルに置いて、共有スペースを出た。通路に出ると、背後からまだ声が聞こえていた。ビアンカの低い声と、クリストファーの硬い声。何を言っているかはもう聞き取れなかった。聞き取ろうともしなかった。
足を速めた。B-3区画のカタパルトが待っている。明後日の射出に向けて、確認すべきことはまだあった。手を動かしていれば、少なくとも何かは前に進む。
背後の声が、通路の曲がり角で途切れた。
*
【112日目】
深夜のステーションは、機械の呼吸だけで満ちている。
空調の低い唸り。循環ポンプの律動。電力系統が負荷を切り替えるときの、かすかなリレー音。星野はB-3区画のカタパルト制御盤の前に座り、射出シーケンスのパラメータを一つずつ確認していた。今日は9月5日。あと数時間で夜が明ければ、装填と最終チェック、そして射出だ。
声が聞こえた。
遠い。端末室の方角。2つの声が重なっている。ビアンカと、クリストファー。
星野は制御盤から目を上げなかった。またやっている。一昨日の夜の続きだろう。どちらも引かない人間同士が、同じ議論を別の言葉で繰り返しているだけだ。
声が大きくなった。壁と通路を隔てているはずなのに、単語の断片が届く。
「——もう消した」
クリストファーの声。甲高い。
「——消すな! あの子の——」
ビアンカの怒声。聞いたことのない音だった。
星野の手が止まった。制御盤の数字がぼんやりと光っている。
耳を澄ませた。声は続いている。しかし、もう単語は聞き取れなかった。怒声が壁に吸われて、意味のない振動に変わっていく。
星野は制御盤に向き直った。パラメータの続きを確認しようとした。射出速度の上限値。フィードバック——
数値が動いた。
自分が触れていない場所の数値が、勝手に書き換わっていた。共有端末からのリモート操作。射出シーケンスのタイマーが、今夜の時刻にセットされていく。
アラートが鳴った。
短く2回、長く1回。生命維持系の異常パターン。鼓膜を刺すような、あの不吉な音だった。
椅子を蹴って立ち上がった。通路を走った。擬似重力区画に入り、体に重さが戻る。端末室までの距離を、足が測っている。50メートル。40。30。
扉が見えた。開いていた。
*
最初に見えたのは一面の赤色だった。
作業チェアの脚元に、クリストファーが崩れ落ちていた。後頭部が陥没している。灰白色の壁面に赤黒い飛沫が放射状に散り、擬似重力に引かれて細い筋になって垂れていた。
星野は現場を見渡した。データ端末の画面が点いている。レコードの編集インターフェースが開かれたまま。核戦争の記述セクションの大部分が、削除済みを示すグレーアウトに変わっていた。壁際の工具棚は空だった。毎晩、作業の後にそこに戻していたレンチが、ビアンカの手の中にあった。
「——それは、俺の工具だ」
自分の口から出た言葉を、星野は他人の声のように聞いた。
ビアンカは答えなかった。しばらくそのままだった。それから、唇が動き始めた。
「……端末室の明かりが、ついてた」
独り言のような声だった。
「見に来たら、クリストファーが端末を操作してた。画面を見たら——レコードのデータが。核戦争のセクションが。消されてた。それだけじゃない。画面の隅に赤い字で『LAUNCH COUNTDOWN』って出てた。時刻が、夜明け前。あいつ、書き換えたレコードを今夜中に自分で撃ち出すつもりだったんだ」
「やめろって言った。あいつは振り向いて、笑って——笑ったんだ。『もう消した。夜が明ける前に撃ち出す。誰にも止められない』って。安心したような顔で。あの子のことも。あの子が生きてた世界のことも。全部消して、勝手に送り出そうとして——」
声が途切れた。呼吸が荒くなった。
「棚にあったものを、掴んでた。気づいたときには、もう」
ビアンカの視線が、初めて自分の右手に落ちた。血に濡れたレンチを、まるで今初めて見たかのように見つめていた。
「……これ、星野の工具だよね」
星野は答えられなかった。ずっとあの棚にあった道具。ビアンカの手に渡るまで、ずっと。
狂ったように鳴り響くアラートの音だけが、無機質な部屋の壁に反響し続けている。
星野は立ち尽くした。扉の外から、誰かの足音が近づいてくるのが聞こえた。
アレクサンダーとエレナが駆けつけた。
アレクサンダーは壁のパネルを操作し、耳をつんざくアラートを強制終了させた。不気味なほどの静寂が、一気に部屋を埋め尽くした。
二人が現場を見た。クリストファーの遺体。端末画面の削除痕跡。ビアンカの手の中のレンチ。アレクサンダーが星野とビアンカから断片的に経緯を聞き、エレナがクリストファーの頸動脈に指を当てて、小さく首を振った。
沈黙が落ちた。アレクサンダーが端末画面を消そうとして、手を止めた。
エレナがクリストファーの傍らから立ち上がった。ゆっくりと。膝に付いた血を見て、それから自分の手を見て、それからクリストファーの顔を見た。
「分かってた」
エレナの声は小さかった。
「体は治ったって言った。でも——分かってたのに。回復した後も、精神的に危ういって。突然泣いたり、黙り込んだり。あの人の中で何かが壊れかけてるのは、見えてた」
エレナの手が、自分の白衣の裾を握りしめていた。
「でも私は——体しか診なかった。細胞の数値と、バイタルの波形と、そういうものだけを見て。あの人が何を考えているかには、踏み込まなかった。踏み込むのが怖かった。私は医者で、医者にできることだけをやっていれば、それでいいと思ってた」
星野は動けなかった。
エレナの言葉が、一語一語、自分の胸に杭を打ち込んでいた。エレナは自分のことを話している。だが、その言葉は星野自身の輪郭をなぞっていた。
——踏み込まなかった。
星野は壁際の工具棚を見た。空の棚。毎晩、作業を終えるとあそこにレンチを戻していた。
——自分にできることだけをやっていれば、それでいいと思ってた。
一昨日の夜、クリストファーに意見を求められた。「あなたはどう思う」と。星野は「俺は技術屋だ」と言って逃げた。
——踏み込むのが怖かった。
15分前。壁越しに口論を聞いた。「もう消した」という声を聞いた。手が一瞬止まった。それでも制御盤に向き直った。パラメータの数字の方が、人間の怒声より扱いやすかったからだ。
技術を進めれば思想は後から付いてくる。ずっとそう信じてきた。鋼鉄と物理法則だけを相手にしていれば、少なくとも嘘はない。それで十分だと思っていた。
だが。
星野はレンチを見た。ビアンカの手の中で、赤黒く光っている。鋼鉄は嘘をつかない。確かにそうだ。鋼鉄は、人の頭蓋を砕くことにも嘘をつかなかった。
4人は黙っていた。端末の画面が、誰にも操作されないまま光り続けていた。クリストファーが最後に触れた画面。レンチがまだビアンカの手にあった。床の上には、もう誰の領分でもなくなった人間が横たわっていた。
星野の頭の中で、何かが音を立てて崩れていた。だが、崩れた跡に何を建てればいいのか、まだ分からなかった。
*
誰も動かなかった。エレナが壁にもたれて座り込み、アレクサンダーが端末の前で腕を組んでいた。ビアンカはチェアの脇の床に座っていた。レンチはまだその手の中にあった。クリストファーの遺体には、エレナが白衣を被せていた。
星野はずっと工具棚を見ていた。空の棚。30分かけて、頭の中で何かが組み上がっていくのを待っていた。設計図を引くときと同じだった。部品の配置を変え、回路を繋ぎ直し、全体がひとつの機能を持つまで、何度でも組み替える。ただし今、星野が組み立てようとしているのは基板のレイアウトではなかった。
答えが出たとき、それは技術的な解決策と同じ明快さで、頭の中に収まった。
「——ひとつ、提案がある」
自分の声が、記憶の中のアレクサンダーの声と重なった。21日目、司令モジュールで、同じ言い回しでレコード計画を切り出した船長の声。
3人が星野を見た。
「レコードには人類の歴史が記録されてる。科学も、文化も。でもそれは——全部、過去の話だ」
星野は立ち上がった。
「今、人類の最後の瞬間に何が起きたか。それも残すべきじゃないのか」
星野はビアンカの手の中のレンチに目を向けた。
「あれを、そのままカプセルに入れたい。血がついたまま。拭かずに」
静寂が割れた。
「何を言っている」アレクサンダーが腕を解いた。「レコードには人類が積み上げてきたものが詰まってる。音楽も、数学も、言葉も。そこに——殺人の凶器を入れるのか。すべてが台無しになる」
「台無しになるか?」星野はアレクサンダーを見た。「それはクリストファーと同じ考えだ。都合の悪い真実を隠すということだろう」
アレクサンダーの口が閉じた。
星野は続けた。言葉が、普段の自分からは想像できないほど滑らかに出てきた。30分間の沈黙が、すべてを整理していた。
「俺たちは道具を作ることで生き延びてきた。石器を作り、火を起こし、船を造り、宇宙に出た。全部、道具の力だ。——そして道具で自滅した。核兵器で地球を焼いた」
星野は空の工具棚を見た。
「俺は、このレンチで明日を直せると思っていた。毎日ボルトを締めて、配管を繋いで、このステーションを1日でも長く動かすために。でも違った。これが——仲間を殴り殺す凶器になった」
声が震えそうになるのを、星野は喉の奥で押さえた。
「美しい嘘なんかより、よっぽど俺たちらしい真実じゃないか」
誰も何も言わなかった。
ビアンカが口を開いた。閉じた。また開いた。言葉が出なかった。やがてビアンカの視線が、自分の手の中のレンチに落ちた。グリップに巻かれた滑り止めテープ。赤黒く染まった顎の部分。真実を守るために人を殺した道具。その道具を、真実としてカプセルに入れる。
長い沈黙の後、ビアンカは崩れ落ちるようにうなずいた。
アレクサンダーが目を閉じた。眉間に深い皺が刻まれていた。10秒。20秒。やがて目を開け、小さくうなずいた。それは同意というより、降伏に近い表情だった。
エレナは何も言わなかった。ただ、白衣を被せたクリストファーの輪郭を見つめていた。
決まった。
星野は窓の外を見た。暗黒の宇宙に、灰褐色の地球が浮かんでいた。あと数時間で夜が明ける。今日は9月5日だ。ボイジャーが旅立った日。あのゴールデンレコードには、人類の希望が刻まれていた。
数時間後、星野たちが送るカプセルには、血塗れのレンチが載る。
*
夜が明けた。星野は一睡もできなかった。他の3人も同じだったのだろう、全員の目に同じ色の疲労が滲んでいた。
射出室に4人が集まった。言葉はなかった。アレクサンダーが制御室のドアを開け、エレナが続き、ビアンカが最後に入った。ビアンカの右手には、まだレンチが握られていた。一晩中手放せなかったのか、手放さなかったのか。星野には分からなかった。
星野はビアンカの前に立った。
「預かる」
ビアンカは星野の顔を見た。それからレンチを見た。指を一本ずつ開いて、星野に差し出した。握りしめていた手は、強張って震えていた。
レンチを受け取った。グリップの滑り止めテープはまだ赤黒く湿っていた。重さは変わらない。いつもボルトを締めているときと、まったく同じ重さだった。
星野はカプセルの蓋を開け、レコードの隣にレンチを置いた。内部のブラケットにレンチを挟み、固定用のボルトを指で回して締める。
次に、分厚いチタン製の蓋を被せた。外周のロックレバーを倒す。工具は使わなかった。素手で十分だった。最後の締めに、掌の付け根でレバーを押し込んだ。金属同士が食い込む感触。何百回と繰り返してきた、あの感触だった。
制御盤の前に座った。射出シーケンスを起動する。電力チャージの甲高い音がカタパルト全体を振動させ、周波数が上がっていく。計器の数値が設計値に達した。
「射出する」
誰にともなく言って、スイッチを入れた。
重い反動がステーションを揺らした。射出レールの上にあったカプセルが消えていた。
4人は観測窓に移動した。暗黒の宇宙の中に、小さな金属の点が遠ざかっていくのが見えた。少しずつ。少しずつ。灰褐色の地球を背景に、カプセルは直線を引いていた。
1977年の今日、ボイジャー1号が旅立った。あのゴールデンレコードには、バッハが刻まれていた。鯨の歌が刻まれていた。55の言語で「こんにちは」と録音されていた。人類が宇宙に向けて送った、最初の自己紹介だった。
今日、星野たちが送ったカプセルには、血塗れのレンチが載っている。
4人は黙って見送っていた。カプセルの反射光が、やがて星々の中に紛れた。もう見分けがつかなかった。
人類最後の4人が、最後の仕事を終えた。あとは、静かに滅びるだけだった。
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