京伝戯機械作者きょうでんのたわむれからくりのさくしゃ

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梗 概

京伝戯機械作者きょうでんのたわむれからくりのさくしゃ

神保町の裏通りにある古書店へ、雨上がりの午後、会社員として働きながら同人作家を続けるわたしは足を運ぶ。学生時代には江戸時代の戯作を研究していたが、創作では芽が出ず、いまは丸の内のオフィスで消耗する日々を送っていた。次の同人誌の締切も迫るなか、新作は一行も書けない。店主や、大学時代の旧友で古書店の息子・宏隆に会うため立ち寄った店で、わたしは『京伝戯機械作者』という黄ばんだ和装本を見つける。江戸の戯作者・山東京伝が自分を主人公にした黄表紙で、戯作に行き詰まった京伝が不思議な機械を手に入れる奇怪な話だった。

作中で京伝は、天狗からもらったというその機械を覗きこみ、中に広がる「小さな世界」を見る。そこでは町があり、人が生き、恋や喧嘩や火事や殺しが起こり、つまみを動かせば出来事の運びまで変えられる。京伝はその世界から面白い筋だけを掬い取り、次々と戯作を書く。自分で考えずとも、物語はいくらでも生まれるのだ。

巻末には機械の精密な設計図が挟まっていた。わたしは本を買い、冗談半分で図面を参考に現代の部材を集めて組み立てる。すると機械の中に本当に小さな世界が現れた。わたしは夢中で機械を覗き、そこで起こる出来事を選び、少しだけ動かし、推理小説として書き起こしていく。すると、それまで嘘のように進まなかった原稿がみるみる書けるようになり、同人誌の短編は完成し、やがて長編で新人賞を受賞して作家デビューを果たす。作品は売れ、わたしは成功していく。

しかしやがて異変が起こる。自分の小説に登場させた殺人犯そっくりの男が現実の街に姿を見せ、宏隆が作品と同じ手口で殺されてしまうのだ。おそろしくなったわたしは機械から目をそらし、もう一度『京伝戯機械作者』を読み返す。するとその冒頭には、「神保町の裏通りにある古書店へ、雨上がりの午後、会社員として働きながら同人作家を続けるわたしは足を運ぶ」とまさに自分自身のことが書かれていた。続く場面で京伝は、機械があれば三千世界の出来事はすべて見え、戯作者など不要になると天狗に嘲られ、「戯作屋がいなくなったらこの娑婆に何が残る!」と怒鳴って機械を踏み壊す。

その直後、現代の東京の空に巨大な目と顔が現れ、京伝の声が響く。「ずいぶん変わった世の中だ。天狗、この世界はいつの時代だい?」わたしは悟る。自分のいるこの世界は、京伝の物語の中のさらに一つの世界にすぎないのだ。そして京伝のいる世界もまた、さらに上位の誰かに覗かれている。どこが現実で、誰が作者なのか、もはや分からない。やがて京伝がこの世界で機械を壊すと、わたしの世界も同時に崩れはじめ、部屋も街も人間も、文章になる前の素材へとほどけていき、世界も物語も作者も、虚無のなかへ消えていく。

文字数:1129

内容に関するアピール

黄表紙は江戸の出版文化が生んだきわめて先鋭なメタフィクションである。作者が作中に顔を出し、登場人物や読者に平然と語りかけ、物語の外部と内部を軽々と横断し、ときおり版元すら茶化す。その過剰な自意識と悪ふざけは世界の文学の中でも傑出したメタ性を持つ。
本作は、山東京伝が「覗くだけであらゆる出来事を観察し、わずかに改変できる機械」を得る作中作と、現代の神保町でその機械の設計図を発見した同人作家の物語を二重写しに重ねる。機械は無限の物語を供給し、作家に成功をもたらす。だが同時に、書く主体を空洞化し、物語世界を現実へ侵食させ、ついには作者/登場人物/世界の境界そのものを崩壊させる。江戸戯作、現代の知的労働、推理小説の構築性、そして世界生成の装置としての物語を一つの入れ子構造へ束ね、「創作が自動化されたとき、最後に失われるものは何か」を問う。

文字数:369

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京伝戯機械作者きょうでんのたわむれからくりのさくしゃ

神保町のA7出口の階段を上ると、目の前の靖国通りのビル群から、雨上がりの湿気を含む風が吹き下ろしてきた。
 風はどこからか運んできた桜の萎れた花を、わたしの薄い黒タイツにぺたりと張りつけた。太腿にすがるようについたそれを、指でつまもうとしたがなかなか取れず、四回目でやっと花びらは離れ、汚いアスファルトの地面へ落ちていった。
 ――土曜の昼下がりだった。視線を上げると靖国通りは黒のアルファードとジャパンタクシーが我が物顔で走り去り、外交官ナンバーの青いプレートをつけた車も、ときどき混じっていた。
 わたしは靖国通りに背を向ける。さぼうるの前を抜けると裏路地へ入る。幅三メートルほどの裏路地は両脇を高いビルに挟まれて、昼間なのに薄暗くて肌寒さすら感じる。カーディガンを羽織ってくればよかったなと後悔していると、突然、古本屋と喫茶店が肩をひしめき合う街並みに変わった。
 古本屋の軒先には、目が痛くなりそうなビビッドカラーのバックパックを背負った外国人だったり、平積みの本の山に手を突っこんでは値札を見ずに真っ先に奥付を見るような人間――職場の高輪のキラキラオフィスではほとんどお目にかかれない、陰キャ同人作家のわたしの同類たちだったりがいる。
 わたしは古本の臭いを吸いこむ。JTCには腐るほどパワポ紙芝居やエクセル方眼紙があるが、それらからは絶対に漂わない、湿って、黴びて、人生を狂わせさえもする文字の匂いがわたしをクラクラさせた。
 これからもっとクラクラしに行くのに大丈夫かと思いながら、通りを歩き、金持ちが洒落た水槽に熱帯魚を泳がせ愉悦するように、わたしは古本屋の紙魚しみだらけの本の山を眺めて浮きたつ。
 行きつけの店は蔦に半分呑まれたような外観で、緑に呑まれかけながら営業している。わたしが建付けの悪いアルミ戸を引いて店に入ると、なかは奥に細長く、横に置かれた本棚が入口の寸前まで迫っていた。棚を回りこむ。ひとひとりやっと通れるほどの通路の脇は古本が詰めこまれていて、むせかえるような、古紙の匂いがこもっている。
 奥のレジで老人――店主が、眼鏡を額までずらし、スマホの画面をにらんでいた。どうせまたネットで競馬をしているのだろう。ニコニコしているから多分勝っている。
「おじちゃん」と呼びかけると店主はこちらに顔を向ける。
「いらっしゃい。宏隆に会うか?」
「ええ」
「ちょっと待ってろ。あいつ、まーた部屋に引きこもってFPSをやってる」
 そう言って、店主はパイプ椅子から立ちあがり、店の奥へ引っこんでいった。
 残されたわたしは、本棚のあいだを歩く。換気の行き届かない店内は蒸していて、汗を吸ったタイツが膝裏から腿へじわじわはりつく。
 なにげなく棚へ手を伸ばし和装本をとりだす。――黄表紙だった。名前の通りの黄色い表紙はひびわれていて、題箋は本来なら大きく絵が描かれているはずなのにそれがなく、字は目をこらせばようやく判別できるものだった。

京伝戯機械作者きょうでんのたわむれからくりのさくしゃ

表紙をめくると、見返しには京伝戯作覗絡繰という内題があった。その脇に、明治か大正のあたりの蔵書家が書いたのだろう、鉛筆で「機械作者」と補われていた。たしかに江戸なら絡繰、覗き、そのあたりだろう。
 紙は粗かった。漉き返しに近い。虫食いは少ないが、保存がいいというより、読まれなかった本の冷えがあった。丁付は乱れていて、表紙と本文の具合も合わない。改装本だろう。最終丁には改印がない。改めを通っていない本。出版される前に止まった本。大学院時代なら、その時点で手が震えたはずだった。
 むかしはこういうものに夢中になれたのに。大河ドラマのおかげで黄表紙の認知度はあがってくれたが、わたしが大学院で研究していたころは、同じ国文学科の先生たちすらあまり知ってなく、黄表紙だの洒落本だの読本だの授業でもないのに朝まで喋っていられたのは、ゼミでもわたしと宏隆――この店の六代目――ぐらいだった。
 だが青春のすべてを捧げて文学研究をやった人間がいま何をしているかといえば、何を間違えたのか高輪ゲートウェイのキラキラオフィスで事務仕事をしている。本の虫が偽装キラキラOLに転生した件。いっぽう宏隆は実家のこの古本屋を継ぐはずなのだが、実際は昼も夜もゲームばかりしているこどおじで、外とのかかわりなんて、ときどき同人誌に小説を書くぐらいだ。ビジネスの才能? 文フリで同人誌の売り上げがたった一冊の宏隆に商才はない。だが、いい小説を見抜く目はある。学生時代に一本だけ本当に良い短編を書いて、宏隆が読んで褒めてくれた。あの作品は短編小説の賞の二次選考までいったのだがその後、二度と同じ場所へ届かなかった。
 なんのためにわたしは小説を書いているのだろう。昨日もそう思った。昼休み、わたしは職場の自販機コーナーで紙コップのコーヒーを飲みながらスマホを見る。同人仲間のSlackには新刊の進捗報告がすでにあがっていた。表紙作成しました。本文九割です。 わたしだけが既読をつけたままなにも成果物をあげられない。浮間舟渡のアパートに帰っても、パソコンの画面をひらいて、テキストエディタのダークモードの画面をぼんやり眺めているだけだった。物語がまったく出てこないのに、締切は近づいてくる。
 だから今日、神保町にやってきたのだ。宏隆に会えば何か変わるわけでもないけど、自分よりひどい生活をしている旧友を見ると自分がまだマシな人間だと安堵できる。
 黄表紙を開く。漉き返し紙なんていう、当時の再生紙を使っているから当然紙質が悪いが、この本はそこまで劣化してなく、奇跡的に虫食いがなかったので読むのには支障はない。崩し字を読むのは朝飯前だった。

京伝、己が拙きをこぼちつつ、版元にはせき立てられ、朋輩より、いかがはしきからくりを押しつけらる。されど、そのからくりの内に「ちひさき世」の見ゆる条に至りて、京伝おどろき怪しむ。
箱とも鏡とも見ゆる器の内に、町あり、人ありて往来し、祝言あり、喧嘩あり、刃傷あり、火事あり、赤子生れ、年寄咳き入り、夜鷹は客を取り、武家は腹を切る。のぞくたびごとに別の事あらはれ、すこし手を触れれば、はこびやうまで変りゆく。筋をひねれば恋は調ひ、なほひねれば人は死す。京伝、それを覗きみつつ、をかしき場面ばかりを掬ひ取りて、戯作にし立つる。おのが心のうちをしぼらずとも、咄はいかほどにても湧き出づる。

わたしの胸の奥でなにかがぞろりと身じろぎした。胸の奥が、チューハイをあおったみたいに熱くなる。ああ、これがあればな。これがあれば、もう、自分のバカで不出来な脳を雑巾みたいに絞りあげなくてもいい。何もないところから無理にひねり出して、出てきたしょうもない言葉を「創造性」だと言い張らなくてもいい。覗きこめば話がある。触れれば運びが変わる。なら、あとは掬えばいいだけだ。
 ぱたぱたと、素足にスリッパを引っかけたような足音がして、宏隆が奥から出てきた。
 寝癖は左側だけひどく跳ね、頬はこけ、顎の無精髭は剃るのを忘れたというより、剃る理由をなくした人間のそれだった。どこかのVTuberだかソシャゲのキャラだかの女が大きく刷られたTシャツは、洗いざらしの皺だらけで、襟も少し伸びている。
「ひさしぶり」
「これ、どこから出たの」
 挨拶は省いた。宏隆は本を覗きこんで、鼻の脇を掻いた。
「あー、それ? 蔵書整理の一括買いで仕入れた」
「なんで教えてくれないの。京伝で未改なら、わたしに真っ先に教えるべきでしょ」
「どっからどう見ても贋作くさい。奥付もない。版元の名前もない。蔦重なのか鶴屋なのかもわからない。あと、題名が怪しい。機械ってなんだよ」
「見返しは覗絡繰って書いてあった」
「それでも怪しい。で、買うの?」
「買うかどうかはまだ決めてない」
「珍しいのは珍しいよ」
 店主が奥から戻ってきて、にやにやしながら口を挟んだ。
「珍しいけど、うさんくさすぎて売れねえ」
「うさんくさいって」
「見りゃわかるだろ。紙は古いが、仕立てが変だ。題箋は後補、改印なし、奥付なし。京伝の名を出しゃ何でも売れると思ってる連中が、明治にも大正にも昭和にも山ほどいたんだよ」
 宏隆がうんざりした顔で「来る?」と聞いてきた。顎で店の奥をしめした。わたしは宏隆についていき、店のさらに奥へ入る。
 宏隆の部屋は店の裏手の、もとは倉庫だった場所を無理やり人の住処に作り替えた空間で、窓は小さく、空気はいつもよどんでいる。部屋の中央を占領するのはゲーミングチェアと七色に光るPC、それに馬鹿みたいに大きいモニターだった。床に散らばるのは積みっぱなしの文庫本。コンビニの空ペットボトル。脱ぎ捨てたスウェット。端のよれた毛布。打ち捨てられた公務員試験の参考書。大学のサークルの部室がそのままここにやってきたようだった。だが、わたしたちが卒業したのはもう八年前で、宏隆はそのまま腐りかけた。しかし、わたしもまた別のルート――田舎出身の女子が社畜として東京に人生を吸われて死ぬ――を歩んで、結局何物にもなれずに死ぬのだ。
 座るところがなくて、わたしはアマゾンの段ボール箱に腰を下ろした。その拍子に、足の裏で何か硬いものを踏んだ。ごり、といやな感触がして、タイツの底に細いものが引っかかる。なにかプラスチックの破片か、よくてクリップ、悪ければ爪。
「お前さ」
 宏隆が言う。
「最近ほんと何も書けてないの」
「うるさい」
「そうやって何回落とした。もうちょっと現実的に計画立てろよ」
 なぜこいつにそんなことを言われなければならないのだろう。いくらサークルのリーダーをしているからといって、昼間からゲームしているだけの半失業者に締切の説教をされる筋合いはない。ないはずなのに、言い返せないのは、事実だからだ。
 そのとき、手元から、ぱさり、と軽い音がした。
 さっきの和装本に挟まっていたらしい薄紙が、膝のあたりから床へ滑り落ちたのだ。
 三つ折りになったそれを拾いあげて開く。紙質が本文と違う。少し厚く、妙に白い。古びてはいるが、本体の紙と同じ年の取り方ではない。あとから差しこまれたもののようにも見えるし、逆に、こちらだけが別の仕立てで作られた付録のようにも見える。
 そこには細い墨線で、覗き絡繰の図が描かれていた。いや、それは図面だった。三面図、部品表、材料、寸法。外箱。覗き口。小窓。軸。歯車めいた円。黄表紙なんてふざけた本なのに、なぜかその図面だけは真剣に書かれていた。
 背中に汗がにじむ。
 部屋が蒸しているせいだけではない。ふざけた本のなかに、生真面目なほど几帳面で精密な図面がついている。その薄さ、その白さ、その図面の細密さまで含めて、急にこの本だけが、わたしの周りの世界から浮きでて見えた。
 思わず、わたしは身を乗り出していた。
「なにこれ」
 宏隆も肩越しに覗きこみ眉を寄せる。
「そんなの入ってたのか」
「見てないの」
「親父、ああいうの、まとめて適当に値段つけて棚出しするから」
 図の脇には小さな注記があった。

見るには見る心鏡を磨くべし。動かすには細工の真心を失ふべからず。強ひて世を改むれば、世また汝を改む。

わたしはスマホを取り出し、図面を撮った。画面の中で古い紙の皺が平らに均され、墨線はたちまちただのデータになり、画面で人差し指と親指を開くと歯車に見える円弧も、寸法の数字も拡大されてはっきりと見えた。
 わたしは和装本を抱えたまま部屋を出て、レジへ戻った。
「これ、いくらです?」
 店主は本とわたしの顔を見比べ、少しだけ間をおいてから人差し指と中指を立てた。二万円だった。「買います」と即決して電子マネー――といっても宏隆のPayPayに送金するだけ――で会計を済ませる。紙袋はいらないと言って、そのまま鞄に入れた。
 袋に入れてしまうと急にただの買い物になってしまいそうだった。
 店を出る。裏路地の空気はまだ湿り、雨上がりの匂いに喫茶店から漏れてくる焙煎豆の焦げた苦みが混じっていた。神保町駅へ戻る途中、スマホが震えた。どうせ同人仲間からだろうと思い、わたしはあとで返信することにした。かわりに、鞄の上から本の輪郭を確かめる。角張った和装本の手触りが革越しにたしかにある。
 あれがただの贋作でもかまわなかった。冗談でも、悪ふざけでも、誰かのこしらえた手のこんだ偽物でもいい。問題は、あの「小さき世」が、たしかにわたしの中のどこかをひらいたことだ。
 神保町駅の階段を下りる人波に混じりながら、わたしはさっき撮った図面の写真をもう一度ひらく。図面は当然動くことはしないが、覗き口の黒い楕円が目に見えて、こちらをじっと見つめているようだった。
浮間舟渡へ帰り、ワンルームの机に図面を広げるまではまだ自分でも、ただ面白い拾いものをしただけだと思っていた。けれど、寸法を書き写し、必要そうな部材をノートに列挙しはじめたころには、その考えを撤回した。仕事で散々やる要件整理や進行管理と同じ手つきで、わたしは戯作の中の機械を、現代のことばへ翻訳していた。
 アクリル板。小型レンズ。真鍮の蝶番。薄い鏡。模型用のギア。3Dプリンタで出す部品。北赤羽の島忠で足りるもの。モノタロウで買うもの。
 原稿は一行も書けないのに、機械の製作工程だけはするすると立ち上がる。わたしは、ひどく官僚的な人間だと自覚する。企画書、進捗表、フォルダ整理、調査、そして工作。プロセスばかりを器用に作って、肝心の作品は後回し。わたしは、卑怯な会社員で、けっして芸術家ではないんだろう。
 だが、生きるために卑怯になるべき時もあるんじゃないか? このまま平然と暮らしても、わたしの人生に一発逆転なんてない。
 机の蛍光灯に照らされた図面の墨線は古びた虫の脚のように細く、しつこく、確かだった。眺めているうちに、ただの冗談や趣味の工作では済まないという確信だけが、ゆっくりと腹の底へ沈んでいく。
 それから、ずっと放置していた原稿のファイルを開き、題名未定のままの一行目に、こう打ちこんだ。
 ――神保町のA7出口の階段を上ると、目の前の靖国通りのビル群から、雨上がりの湿気を含む風が吹き下ろしてきた。

 

*     *     *

 

会社の昼休み、自販機コーナーで紙コップのコーヒーを取り出し口から出す。
 あまりここは好きではない。隣には、総務部長が駄々をこねて作らせた喫煙コーナーがあり、やたら白い蛍光灯が光り、誰かの放置したラッキーストライクの箱が置かれ、吸殻が、灰皿の箱の穴にねじこまれている。この職場は、偉いおじさんの駄々や欲望や見栄が結晶化してできている。このオフィスの入るビル自体もそうだ。この地上十五階から見える高輪の景色も、ビル自体の設計のときにこだわりにこだわっていて、邪魔だからと近隣のビルを買って取り壊し、緑と木々の溢れる公園にしている。おじさんを絶滅させれば世界は平和になるんじゃないかと思いながら、コーヒーをすすると、自販機コーナーに同僚の安西がやってきた。よれたワイシャツの襟は小さな毛玉がぽつぽつ浮き、社員証を下げるストラップの紐はくたびれている。
「また寝てないの」とわたしは聞く。
「ああ、寝てないよ」
 安西は迷うことなくモンスターのボタンを押した。
「あーあ、宝くじが当たったら絶対この会社を辞めてやる」
 缶が取り出し口へ転げ落ちる。安西はだるそうに手を突っ込んで缶をとる。あの手。付き合っていたときはわたしを撫でたあの手。ぞっとする。言うことは信用していない。辞める辞める詐欺師一級の安西。主任に昇格しても同じことを言っているし、たぶん管理職になっても、定年間際になっても、「宝くじが当たったら辞める」が口癖。そういう人間は、会社に骨を埋める覚悟があるのではなく、覚悟しないまま埋まり、そのまま人生を朽ち果てさせていく。だからわたしと三年も付き合ってプロポーズの話もなく、決断力のなさにうんざりして、結局そのまま別れた。
 わたしはコーヒーを飲む。安西もモンスターを飲む。ヴヴヴヴと自販機が小刻みな周期でうなる。
「で、原稿は」
 安西はわたしの紙コップを見ながら言った。
「進んでない」
「だろうな。顔が死んでるから」
「てかそもそも顔が生きてる人、この部署にいる?」
 安西は笑った。笑うと目尻に細かい皺が寄る。たまにこういう皺をみないと、安西が人間だということを忘れてしまいかねない。わたし以外の人間には、普段、Teamsのアイコンどおりの貼りつけたような笑顔をふりまいているくせに。
「いいな、俺なんか仕事辞めたら空っぽ」
「辞めないくせに」
「辞めないから空っぽでいられるんだよ。お前はいいよな、熱中できるものがあって」
 その返しが妙にうまくて、少しむかつく。
 安西が聞く。
「次の文フリ、出るんでしょ」
「申しこみはしてる」
「じゃあ作品を書かないと」
「それができたら苦労してない」
「昔やってたんだっけ、研究。なんでしたっけ。江戸の……」
「戯作」
「ああ、それ。そういうの書けばいいんじゃない?」
 軽々しく言うな。わたしは紙コップのふちを指で潰しかける。コップが軽くへしゃげる。得意分野で食えなかったから、いまここで給湯室のコーヒーをすすっているのだ、と言うのも面倒で黙る。笑顔で、百パーセントの善意で、デリカシーのないことを平気で吐ける。つくづく素晴らしい才能だと思った。
安西はトイレを済ませたあとのようなすっきりした顔になり、自販機コーナーを立ち去った。
島忠で部材を買ってきて、帰宅する。工具箱を開ける。中にはペンチ、ドライバー、ニッパー、瞬間接着剤、以前同人誌の什器を自作したときの余りのボンドが入っている。
 黙々と作業をする。アクリル板を切り、寸法を測り、ねじ穴を開け、ミラーを内側へ貼る。光の微妙な屈折や反射を使い、摩訶不思議な世界を表すという機械は江戸のものらしからぬほど整っていた。箱とも鏡ともつかぬその器具は、外見だけなら万華鏡と覗き絡繰を掛け合わせたようなものに見える。だが、内部に入る鏡の角度が変則的で、中央に置くべき小さな円盤の構造がよくわからない。中央には、花びらの形を幾重にも重ねて彫られた板が必要で、それが光の反射を調整する。その板を3Dプリンターで出してみたころには日付が変わり、肩がこり、目が霞み、タイツの股下が椅子に擦れて不快だった。会社に行ったときの服のまま作業していたせいで、ブラウスの袖口には粉が付き、指先には接着剤が乾いて白く膜を張る。
 いっそこの工作の様子をエッセイにして寄稿しようかなんて思いながら、最後にねじを締めた。
 箱は、両手で持つには少し大きい。覗き穴はひとつ。穴には拡大用のレンズがあり、穴の縁には、ピントを合わせるためのダイヤルがある。側面には、内部の鏡を回転させる細いつまみが三本ついていて、裏面には例の花弁状の円盤と連動する大きなつまみがある。ねじ頭は少し斜めだし、木枠の角は完全には揃っていない。工作の腕前は中の下だろう。
 わたしは覗き穴へ片目を当てた。
 最初は暗かった。
 自分の睫毛の影と、鏡に反射した微かな蛍光灯の白だけが見えた。失敗だ、と肩を落としかけたとき、底の円盤のあたりで何かが動いた。虫の脚を裏返したような細い影が、ひとつ、ふたつ。続いて、暗闇の奥に淡い明かりが灯る。油のにじんだような黄色い光だった。光は一点ではなく、離れた場所にいくつも灯った。まるで、夜の町が遠くで一斉に目を開けるみたいに。
 わたしは呼吸を忘れた。そこに江戸があった。小さな江戸だった。すぐにピントを合わせると、狭い路地、屋根、格子、橋、川、提灯、往来する人影がはっきりと見えた。人が確かに歩いている。裏面のつまみをまわすと、箱が小刻みに震え、音が鳴りだす。箱の中の世界の声と音が、この浮間舟渡のアパートに響きだす。大八車が通りを疾走する。誰かが振り返り、犬が吠え、女が立ち止まり、子どもが転び、泣きわめく。
 わたしは思わず側面の輪を回した。
 視界がずれた。川べりが消え、書店が見えた。暖簾には、富士の山の形と蔦の葉を合わせたような印が染め抜かれている。耕書堂。蔦屋重三郎の店だった。店のなか、帳場の端には算盤と帳面が置かれ、立派な服を着た男が帳面を見ていた。男が暗い顔をして舌打ちをした。おそらく彼が蔦屋重三郎だろう。その奥では、若い彫師が版木を膝の上に置いていた。小刀の刃先で線を追うたび、細い木屑が膝に落ちる。摺師は袖をまくり、腕に墨をつけたまま、紙の束を軽く叩いて揃えていた。
 その間に挟まるように、机に座る男がいた。やたら鼻筋が通っている。筆を持ってはいるが、紙の上には何も書かれず、机の脇には、わたしの作ったものとよく似た箱が置かれ、隠すように布が乗せられていた。
 蔦重が帳面から目を上げ、男に話しかける。
「京伝さん、いい加減にしねえと正月物が落ちる。落ちたら正月から貧乏神がやってくるぞ」
 京伝は筆を持ったまま、口元だけで笑った。
「貧乏神が来ても結構だね。仕事がねえから動かないで済む」
 京伝があくびをする。蔦重は帳面を閉じ、京伝へ近づく。蔦重の声が少し低くなった。
「近ごろ、そればかり見てるな」
「見てねえよ」
「見てる」
 蔦重は火鉢の灰を火箸で軽く崩した。
「面白いものが見えるのか」
「面白い」
「なら書け」
「書ける」
「なら早くよこせ」
 京伝はそこで笑った。さっきよりも少し嫌な笑いだった。
「のぞけば、いくらでも咄が湧く。町も、女も、侍も、夜鷹も、火事も、心中も、親不孝も、孝行も、全部見える。こっちが筆を絞らなくても、向こうで勝手に暮らして、勝手にしくじってくれる」
「いいじゃねえか」
 蔦重はそう言ったが、顔は笑っていなかった。
「よくねえよ。よくねえが、こいつぁ、便利だ」
 京伝は小さく言った。
 蔦重はしばらく京伝を見ていた。やがて帳面を開き直した。
「便利でも不便でも、売れるものを書け。売れて、改めを通るものだ。片方だけじゃ駄目だ。売れねえ本は腹を減らす。通らねえ本は俺たちの首を絞める」
 はいはい、と京伝はつぶやくと脇の箱を覗きこんだ。
 わたしは、笑った。笑ってしまった。面白すぎた。
 その夜、わたしは一睡もせず、機械の中の江戸をめぐり世界を映しとった。
 こうしてあれだけ書けなかった合同誌用の短編は、たった一晩で書き上げた。
 宏隆にデータを送ると、数分でLINEが来た。
「お前、いきなりどうした」
「死に物狂い」
「死に物狂いの人間がこんな整ったプロットになる?」
「整ってないと困るでしょ、推理小説なんだから」
「いや、そういう意味じゃなくて」
 わたしはSlackに「完成しました」と打ちこむ。画面の向こうで絵文字が飛び、「締め切り間に合ったんですね!」、「楽しみにしてます!」と軽い祝福が並ぶ。その軽さが以前ほど腹立たしくなかった。わたしには、もうなにがあっても書けるという事実があったからだ。
 そのうち、短編では足りなくなった。
 ノートパソコンの画面を立ち上げ、機械を覗き、見えた場面を打ちこみ、また覗いた。
 機械の中には、長編に耐えるだけの世界が、いくらでもあった。ある町で続く不審死。閉ざされた屋敷。鏡。すり替えられる遺体。遠く海の向こうの異国からただよう戦の気配。身分と金。誰が誰を見張り、誰が誰に見られているのか、その向きそのものが途中でひっくり返る仕掛け。わたしはその中から、筋の強いものだけを選んだ。現代の読者に合わせて手触りを整え、心理を足し、トリックの見通しを少しよくし、固有名詞を置き換える。やっていることは翻案に近いのかもしれない。だが、翻案というには、元の世界があまりにも生々しく動いていた。
 一次選考通過、二次選考通過、最終候補に選出。ニュウマン高輪の本屋で、ふだんは買わない小説雑誌を立ち読みして結果を確認するたび、胃が縮み、喉が渇き、指先が落ち着かなくなった。それでも本文を読み返すと、自分で書いた気がしないほど、よくできていた。
 新人賞受賞の電話を受けたのは自販機コーナーだった。頭が真っ白になる、というのは比喩だと思っていた。実際には白くなんかならない。ただ、周囲の色が一段だけ薄くなる。自販機脇に貼られたコンプライアンス標語も、南の島みたいに置かれた観葉植物も、世界の全部が安っぽい印刷物のように遠のく。
 スマホを切ると、安西がこちらを見ていた。
「なんかあった?」
 わたしは口を開いたが、うまく声が出なかった。
 安西はわたしの顔を見て、先に察したらしい。
「まじ?」
 小さく言って、それから、周囲に聞こえない声で付け足す。
「おめでとう」
 なんでそんな素直な誉め言葉を、わたしと付き合っていた時にしゃべらなかったんだ。
 その日の午後の会議で、わたしは話を聞いていなかった。部長が何か言い、課長がもっともらしく頷き、取引先が責任の所在を曖昧にする言い回しを選び、わたしはそれを「今後連携のうえ検討」に均して、議事録をCopilotに書かせる。そんな作業をしながら、頭の半分では別の路地を覗いていた。茶屋の二階で女が毒を盛り、雨のなかを下駄で走る男がいて、橋のたもとに証拠が落ちる。現実の会議より、そちらのほうがよほど単純で明快だった。
 わたしは二重生活者になった。
 昼は会社員で夜は作家。けれど本当のところ、その二つは思ったほど遠くなかった。どちらも、覗いて整える仕事だ。会社では他人の発言の角を削り、体裁のいい文章へ均して、パワポやエクセルを書いて提出する。家では機械の中で起きる出来事を、人が読める筋へ均して差しだす。違うのは、後者には快楽があることだけだった。それもかなり下品な種類の快楽だ。人の破滅を好きな角度から眺め、都合のいい順番に並べ替え、ここで泣かせ、ここで裏切らせ、ここで殺す。
 わたしは覗き穴に目を当てるたび、自分の中にあるいちばん性悪な部分が、ぶくぶくと肥えるのを感じていた。
受賞作が本になり、書店に並び、インタビューが載り、顔写真は断ったので実家でとれたさくらんぼの写真になった。SNSのフォロワーが増え、山形のわたしの実家には、顔も合わせたことのない親戚が寄ってきて、地元紙からエッセイの執筆依頼が来て、来月は県庁に招かれ知事と対談することになっている。
 会社でも空気が少し変わった。
 昼休みにネット記事を見た若手が「あれって先輩ですよね」と言い、部長は急に「うちの社員は多才だな」と機嫌よく笑い、人事は社内報に載せたいと言ってきた。ふざけるなと思った。昨日までわたしのことを議事録を取る女、調整会議で便利に使える女としか思っていなかったくせに、肩書きがひとつ増えた途端、会社の資産みたいな顔をする。
 だが、腹立たしさと同じくらい、わたしはその変化に酔ってもいた。
 くだらない。
 でも、気分はよかった。
 二作目も、三作目も、機械は尽きなかった。
「構成力がある」
「人物配置がうまい」
「伏線の利かせ方が抜群」
 編集者たちが褒めたたえる。違います、と言いそうになるたび、わたしは笑ってごまかした。そんなもの、才能でも技術でもない。ただ、先に出来上がっている世界の、見えやすい筋を拾ってきているだけだ。
 けれど何度も賞賛されると、嘘でもそれが自分の力のような顔をしはじめる。人間の自尊心は安い。二、三冊売れれば、すぐに本気で錯覚できる。
 生活はみるみる変わった。印税が入金され、わたしは浮間舟渡の古いワンルームを出て、文京区へ移り、オートロックと宅配ボックスのあるマンションを借りた。机も買い替えた。ちゃんとした椅子も買った。冷蔵庫も静かなやつに替えた。部屋の真ん中に置いた機械と黄表紙だけが、浮間舟渡から持ってきた唯一のものだった。
 あれだけが、生活の芯だった。原稿が詰まれば覗く。新作の企画を求められれば覗く。担当編集が「次はもう少し広がりがほしいですね」と言えば、広がりのある世界を探して覗く。映像化の話が出れば、画として強い場面の多い筋を探す。プロ作家向けの賞の季節になれば、文学性のありそうな悲劇を拾う。そのうち、覗きながら、これは連ドラ向き、これは単発、これは海外訳権が動く、などと思うようになった。自分でも嫌になるほど、頭に市場原理が馴染んでいった。文学をやっているつもりで、実際には単に商品の開発をしているだけなのではないか。そう思う夜もあった。
 だが、売れた。売り上げの数字はたいていの苦しみを忘れさせてくれた。それに、逆に覗いて書かないと吐き気がしてまともに生活できなくなった。
 宏隆には、最初のうちだけ少し多めに連絡した。本が出ると神保町の古本屋へ献本を持っていった。宏隆は「へえ、すごいじゃん」と言い、わたしの顔より先に奥付を見た。そういうところは昔から変わらない。
 けれど、わたしが次々書けることについては、露骨に変な顔をした。
「お前、急に変わりすぎだろ」
「努力してるから」
「努力で説明つく変わり方じゃない」
「失礼だな」
「やめとけよ、急に売れたヤツは慢心してそのまま真っ逆さまに落ちるんだ」
 その言い方に、わたしはむっとした。書けないまま腐りかけていたころ、こいつは何をしていた。ゲーム機の青い光を顔に浴びながら、締切がどうのと偉そうに説教しただけじゃないか。わたしがやっと浮上した途端、水を差すようなことを言う。
「やめとけって、何を」
「調子に乗ること。山東京伝だって調子に乗りすぎて、幕府から目をつけられた」
「手鎖五十日の刑。いまは令和じゃん。わたしを縛る権力なんてないよ」
 わたしは宏隆の部屋を出た。二度と会わないことにして、LINEをブロックした。
 その晩、家に帰って機械を覗く。箱の奥では、雪の降る夜、雪見障子の向こうで男が手紙を燃やしていた。その手紙の内容がきっかけで秘密が露見し、三人の人生が傾く。その始まりの一瞬が、あまりにも美しかった。こんなものを見せられて、手を引けるわけがない。人が使っていいかどうかではない。見えてしまったものを、見なかったことにはできないだけだ。

 

*     *     *

 

会社の最終出社日。送別会で花束を渡され、部長が「売れっ子作家になっても、たまには会社を思い出してください」などと調子のいいことを言い、安西は「とうとう辞めたね」と笑った。
「そっちは辞めないの」
「宝くじが当たったら」
「まだ言ってる」
 最後までその調子だった。
 だが帰り際、ビルの一階でエレベーターを待っているとき、安西が不意に言った。
「幸せそう、俺と付き合っていた時より」
 わたしは少し考えてから、「そう見える?」と聞いた。
 安西は肩をすくめた。
「俺はお前に釣り合わない男だって気づいたんだよ。ほら、餞別だ」
 安西はわたしに持っていた紙袋を押しつけて別れた。家に帰って中身を見ると、万年筆が入っていた。安っぽいヤツだった。センスがねえなとしか思えなかった。
 作家として食っていけるようになってもわたしは幸福になれない。しょせん、わたしは自分の人生を生きているのではなく、他人の人生を盗み見て売っているだけだ。人間としてもわたしは薄っぺらいままだ。
 けれど、いまさら遅かった。薄っぺらさは、成功するだけでは直せない。
 ある晩、いつものように機械を覗いていて、わたしは初めて、自分を見た。
 いや、正確には、自分によく似た女を見た。
 町ではない。江戸でもない。もっと新しい、けれどどこか歪んだ街路だった。白い蛍光灯。自販機。紙コップ。高層ビルのガラス。
 女は給湯室に立ち、スマホを握っていた。
 疲れた顔。少し乾いた唇。黒いタイツ。見覚えのある、というより、見慣れた身体の線。
 女は笑っていた。
 その笑顔は、わたしが普段、人に見せるものよりずっと冷たかった。
 ぞっとして、わたしはつまみから手を離した。
 だが、箱の中の女は消えなかった。
 ゆっくりと、こちらを向いた。
 覗き穴の向こうで、その女の目がまっすぐに合った瞬間、わたしは自分の背中に流れる汗が、一筋ずつ数えられる気がした。
 それから、わたしは一文字も作品が書けなくなった。
 編集者からのメール。電話。訪問。全部無視して、ずっと布団の中で浅く眠る。起きるとまだ薄暗かった。机の上では、布をかぶせた機械が、小動物の死骸みたいな形で黙っている。その隣に『京伝戯機械作者』があった。最初に買ってから何度かめくりはしたが、機械が本当に動いてからは、ろくに読んでいない。
 わたしはそれを開いた。
 最初の一丁――和本では二ページ分を一丁と数える――を見て、指先が冷えた。

神保町のA7出口の階段を上ると、目の前の靖国通りのビル群から、雨上がりの湿気を含む風が吹き下ろしてきた。
 風はどこからか運んできた桜の萎れた花を、わたしの薄い黒タイツにぺたりと張りつけた。太腿にすがるようについたそれを、指でつまもうとしたがなかなか取れず、四回目でやっと花びらは離れ、汚いアスファルトの地面へ落ちていった。

なぜ。この世界のことが、黄表紙の中に書かれていた。
 丁を繰る手が震えた。
 続く場面で作中のわたしは宏隆の本屋に行き、『京伝戯機械作者』を手に取る。作中の『京伝戯機械作者』では、京伝はいきなり機械を――小さき世が見えるあの機械を壊そうとしている。そこへ天狗が現れる。鼻の高い異形ではなく、妙に俗っぽい、口の減らない天狗は京伝に言う。
これさえあれば、三千世界の出来事はすべて見える。町も、人も、戦も、恋も、心中も、刃傷も、未来も昔も。戯作者など要らぬ。お前すら要らぬ。覗く目だけあればよいんだ、と。
 京伝は怒り狂って啖呵を切る。
「戯作屋がいなくなったらこの娑婆に何が残る!」
 そう怒鳴って、機械をひっくり返し、踏み壊す。箱の底から鏡と歯車と板が落ちて、京伝はそれらを執拗に踏みつける。鏡は割れ、歯車も板もまっぷたつになり、天狗は面白そうにそれを見ている。頁の端に、崩し字で小さく書き足しがあった。

世を見尽くす目は、世を愛でる手にあらず。見ゆるもの尽きずとも、戯作の業は尽きるべからず

わたしは本を閉じた。
 やるべきことは明らかだった。機械を壊す。こんなものを使えば、書くことそのものが消える。作者がただの覗き魔になり、世界は素材に成り下がる。もう十分だ。
 わたしは布団から這い出た。酒を飲むように、氷を割るアイスピックを買ってきたのだが、役立ちそうだ。机の上に置く。しょせん工作の素人のわたしがつくったのだ。思いきり叩けば済む。わたしはアイスピックを振りあげる。
 そのとき、部屋が暗くなった。
 停電か。いや、わからない。
カーテンを開ける。
 空に、目が浮かんでいた。
 巨大な目だった。雲の切れ間でも月でもない。白目の濁った、血管の走る、あまりにも生々しい目が、夜の空いっぱいに開いていた。瞳孔はゆっくり収縮し、その中心が、まっすぐこちらを見ていた。瞳はぐるぐるとまわり、あちこちを覗く。東京がすべて、目に覗かれているようだった。
 街中から悲鳴があがり、スマホの通知が一斉に鳴る。SNSは数秒で狂い、死んだように停止した。
 次に、顔が現れた。
 顔、といっても、空の向こう側にある巨大な面が、こちらへ額を寄せてきたというほうが近い。長い面立ち、乱れた髷、流し目に、通った鼻筋。芝居役者のような男の顔。異常な大きさの顔が夜空からのぞいている。 空から声がした。
「ずいぶん変わった世の中だな」
 軽く、よく通る声だった。
 その声を聞いた瞬間、膝から力が抜けた。京伝だ。『京伝戯機械作者』の中の京伝が、こちらを見ている。では、いまわたしがいるこの世界は何なのか。京伝の戯作の中の、さらに一層内側の小さな世界なのか。なら、京伝のいる世界もまた、本の中なのではないか。わたしが持っている黄表紙の中の世界。では、その黄表紙を書いたのは誰だ。京伝か。別の作者か。その作者のいる世界も、また別の本の中なのか。
 考えようとすると、頭の中がしっちゃかめっちゃかになる。
 京伝はしばらくこちらを見ていた。怒っている顔ではなかった。笑ってもいなかった。
「おめえもその絡繰を持っているのか。ずいぶん楽をしたな」
「楽なんか」
 言いかけて、声が止まった。
 楽だった。覗けばよかった。選べばよかった。人を殺し、助け、恋をさせ、裏切らせ、いちばん読みやすい形へ並べ替えればよかった。書いていたのではない。選んでいただけだ。会社で議事録を作る時と同じだった。誰かの発言を削り、角を取り、責任が残らないように均す。わたしはずっと、他人の人生を読みやすくしていた。
「戯作屋がいなくなったら、この娑婆に何が残る」と京伝は作中で言った。怒鳴らなかった。だから、よけいに嫌だった。
 机の上で、覗き絡繰が鳴った。しゅっ、しゅっ、と紙を摺るような音がする。布をかぶせたままなのに、箱の中で何かが回っている。わたしは机へ近づいた。アイスピックを握る。手のひらに汗が出て、金属の柄が少し滑った。
 京伝はまだ見ていた。
「壊せば書けると思ってんのか」
 わたしは答えなかった。
「壊さなきゃ、もっと書けなくなるぜ。俺みたいに」
 その言い方は、優しさではなかった。ただの事実だった。
 わたしは布を剥いだ。箱の覗き穴が、黒く開いている。中は見えない。あれだけ江戸の町を映していた奥が、ただの暗い穴になっていた。けれど、穴の向こうから、人の声がする。女の咳。子どもの泣き声。蔦重の舌打ち。彫師の小刀が木を削る音。全部が混じり、低く鳴っていた。
 わたしはアイスピックを振り下ろした。
 一度目は、覗き穴の縁を外した。木枠に傷がついただけだった。二度目で、レンズにひびが入った。三度目で、レンズが割れた。
 破片が跳ね、指に刺さった。血が出た。たいした量ではないが、痛みはあった。
 箱の中から、短い悲鳴のような音がした。人の声のように聞こえた。わたしはさらに叩いた。花弁状の円盤が割れ、細い軸が曲がり、鏡が外れて床に落ちた。
 ――箱の中の小さき世はこれで終わった。鏡の裏は安っぽい灰色で埃がこびりついていた。
 窓の外を見る。京伝の顔はまだ空にあった。けれど、さっきより薄い。輪郭がぼやけていた。
「それでいい」
 京伝は言った。
「よくない」
 わたしは床に座りこんだ。
「よくないよ。これがなかったら、わたし、何も書けない」
「そんなの、おめえで考えて何とかしろよ」
 京伝は冷たく吐き捨てた。
 わたしは壊れた箱を見た。アクリル板、木枠、レンズの破片、曲がった軸、薄い鏡。全部ただの部品になっていた。江戸も、耕書堂も、蔦重も、夜鷹も、火事も、雪見障子も、もうどこにもなかった。机の上にはノートパソコンがある。テキストエディタの黒い画面が開いている。カーソルだけが点滅している。
 空の京伝の顔はいつの間にか消えた。夜空はいつもの東京の薄明るい夜だった。窓ガラスにはわたしの顔だけが映っている。疲れた顔だった。売れっ子作家の顔ではない。何も書けない凡人の顔だった。
 スマホが鳴りだした。画面を見ると着信が来ていた。電話をかけてきたのは担当編集だった。
 わたしは逃げられないと悟り、震える指で通話ボタンを押した。
「先生、夜分遅くすいません」
 担当編集の声は、いつもどおり明るかった。
「新作の件、そろそろ具体的にご相談できればと思いまして」
 わたしは壊れた絡繰を見た。そのなかには、もう何もなかった。
「……はい」
 かろうじて喉から声が出た。産みの苦しみに悶える作家みたいだった。

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