1260

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梗 概

1260

世界の重力が減り始めて、1260日が経った。

コロンビア・メデジン。世界最悪の治安とされたスリ鉢状の街は、谷底の都市部こそ復興したが、急斜面にはギャング支配の貧困街が広がる。復興シンボルのロープウェイが両者を繋ぐが格差は深い。
ラロは貧困街の19歳。急斜面をスケボーで滑りギャングの下っ端をこなす。滑りは凄腕だがギャングの境界線を出ないよう、坂の途中までしか滑れない。
苦難を共にした双子の兄は奨学金で都市の大学にいる。ラロがギャングを続けるのは兄を進学させる為のボスとの契約だった。俺達は二人で一つ、どちらかが街を出られればいいと刹那的な生き方を選んだ。

重力減少は誤差範囲との説もあるが、聖書の黙示録「1260日後に終末が始まる」を信じる人々が教会に殺到。だがラロは幼馴染の撮影者フィルマーと900(900度=2回転半する技)の練習に没頭。元スケーターで怪我で撮る側に回ったフィルマーは兄の不在を埋める相棒だった。
映像を見た有名スケーターにスカウトされ、ラロは初めて境界線を越えて滑り自由を感じる。だがギャングにばれ、制裁で足を撃たれ滑れなくなる。

そこに痩せこけた兄が数年ぶりに帰郷。物理学徒の兄は、黙示録派の1260日目こそ重力の指数関数的減少=終末の始まりだと予測する。そして一緒にスケボーしようと言う。スケボーは跳躍と着地を繰り返す遊び。特殊な重力下で未知の落下現象を体感したいという。
終末なのに夢中な兄に昔の姿を見たラロは、重力減ならこの足でも900以上滑れるかもと希望を持つ。兄の計算で3日後の0時に実施決定。以降は着地できず技にならない。

重力減少が加速、異常現象が多発し世界は混乱。練習に明け暮れる3人だが、兄が出自理由に大学で排斥され、退学していたと明かす。奨学金もギャングと癒着した市の復興アピールに過ぎないと語るも、ラロは怒る。殴り合いになるが、折しも自暴自棄になったギャング達の抗争が勃発。異常軌道の弾丸の雨で、カメラを守ろうとしたフィルマーが死ぬ。球状の血が風で浮かぶ。

カメラにはラロの隠し撮りがあった。フィルマーはボスに脅され監視役を務め、ラロの越境を密告していた。
結局全員この街の重力から逃れられないと悟るラロ。だが3人で作ったスケボー映像の美しさだけは本物で、フィルマーは命をかけてこれを守った。最期くらい高く跳びたいと決意する。

0時、双子は坂に向かうも道路は抗争で破壊されていた。ラロはロープウェイを選ぶ。貧困街と都市を繋ぐロープを削りながら、双子は数百m滑り降りる。都市で巨大な炎が空に溶けている。ラロは痛む足で宙を舞い900を超え、前人未到の1260(3回転半)を跳ぶ。

兄は滑りながらフィルマーのカメラを構えて笑う。物理現象は口実で、ただ最期に昔みたいに一緒に滑りたいだけとラロは気づいていた。ラロも同じだったから。双子は境界線を超えて滑り、拳を突き合わせる。

文字数:1199

内容に関するアピール

スケボーは元来、板一枚で街を滑るストリートの遊びだ。街を削りながら遊び場に変えるスケボーは、ある種ルールに中指を立てる行為だとも思う。それで世界の終わりに瀕し、それをも遊びに変えてしまうスケーターを描きたいと思った。
1260は現実では歴史上一度だけ達成された技だが、これは巨大な専用設備での記録。主人公はストリートにこだわり、この技に挑む。
また1260はヨハネの黙示録の数字でもある。1260日間の大患難時代に二人の証人が預言し、災いが世界を襲い、その後審判が下る。本作ではこの転換点を重力の指数関数的減少が始まる臨界点とし、二人の証人を双子に重ねる。

なお重力減少は世界のルールたる重力定数Gが変化したという設定。現実にもGは時間と共に変化するという理論があり、それに則る。
舞台のメデジンの設定も現実に則る。実際に訪れたこともあるが、ロープウェイから見る都市部と貧困街のコントラストが印象的だった。

文字数:399

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1260

世界の重力が減り始めて、1260日が経った。

 

 

終わりのない坂を見下ろしている。
俺は画面の割れたスマホを操作し、ヒップホップのプレイリストを再生する。『Insane in the Brain』。悪くない。かすれた口笛で合わせながら、重心をスケートボードの前側ノーズに傾け、ラ・ロマを滑り始めた。
ラ・ロマの勾配は30%。坂だらけのコロンビア・メデジンでも、一番の急斜面だ。ガタガタと車輪ウィールが鳴る。始めは道路の凹凸に不満をあげていた安物の車輪は、じきに観念してゴーと低い連続音に変わった。速度が上がり、『Insane in the Brain』が遠ざかっていく。バリオの密集した街並みが近づいては、後方に飛んでいった。錆びたトタン屋根に崩れかけのレンガ、洗濯物の絡まった電線。下水の臭いがぷんと漂ってくる。
プロパンガスの灰色ボンベが、山積みになった家が見えた。俺はかかとで後側テイルを押し込み、減速する。そのまま上半身を左にひねると、ガガガガと車輪が悲鳴をあげた。狭い路地へ入ると、家の窓からにゅっと腕が伸びてきた。俺は止まることなく集金袋を受け取り、中身を確認する。
「ラロ、調子いいな!」
声援に手を振って、路地を外れて下の屋根へオーリー。デッキを一回転させてキックフリップ。トリックを繰り返しながら、屋根から屋根へと伝っていく。
「壊すんじゃねえぞギャング小僧!」
怒号が聞こえたが、どのみち壊れているだろうと俺は思う。そうして着地した家の前では、小さな女の子が袋を差し出していた。足下で板をくるりと回すと、土埃が舞い上がる。女の子が拍手をして、今日の集金業務は終わり。でも事務所へ戻る前にもうちょっと遊びたくて、再びラ・ロマの急勾配へと戻った。滑り降りていくうちに、遠くの谷底に都市部が見えた。
双子の兄が、あの街のどこかに住んでいる。名をマルコという。
物心つく前、カルテルの残党に両親を殺された俺たちは、たったふたりで生き抜いてきた。窓ガラスの割れた寝室で目を覚まし、ゴミ山を漁っては、一緒に雨水をすすった。
12のとき、俺とマルコにふたつの救いが訪れた。ひとつはボスだ。ボスは俺たち兄弟を拾って、両親の仇討ちまでしてくれた。以来、俺たちはギャングコミュニティで育てられた。
風が唸る。板が激しく揺れ始めた。振動が膝から腰を突き抜け、頭のてっぺんがぶるぶると震える。そろそろ減速しないと、制御できなくなる。だが俺は止まらなかった。今日はなんだか身体が軽くて、どこまでも滑れるような気がした。
もうひとつの救いが、ゴミ山で見つけたこのスケートボードだ。暗くなるまで毎日、マルコと順番に滑り続けた。あいつが下の街へ移ったあとも、俺はこうして板に乗り続けている。
谷底の都市が大きくなってきた。汗ばんだ足で靴底を握ると、視界の端に、タイヤの抜かれた廃車が見えた。引き返さないと —— と思った瞬間、板が足からすっぽり抜けた。俺は肩から地面に落ち、ラ・ロマをぐるぐる転がっていく。
起き上がると、Tシャツに血が滲んでいた。大丈夫?と上から聞こえた。見上げると、ゴンドラが頭上を通過していくところだった。カメラを向ける乗客たちに、俺は中指を立てた。

 

「これじゃ麻薬密売人ヒバロの方がよっぽど安全だ」
俺の肩に包帯を巻きつけながら、フィルマーが言った。太い指で器用に手当をこなしていく。
「俺たち来年で20だろ。いい加減、集金係じゃ格好つかねえ。ニエベの売人は儲かるって噂だぜ」
「嫌だね。怪我したら滑れなくなっちまう」
「こんなざまで何言ってんだ」
肩を叩かれ、俺は呻いた。フィルマーが笑うと、黒いシャツ越しにその腹が揺れる。
「エル・ガトに憧れるのはいいが、ラロ。気をつけねえと俺みたいになるぞ」
「そのお陰で撮ってもらえるんだろ」
俺はフィルマーの首にかかったSony VXを取り上げ、データを再生する。俺がラ・ロマを滑る映像。下から舐めるようなオーリーの映像。フィルマーの撮ったビデオパートは、どれも息を呑むほど見事だった。
「お前にカメラの才能があったなんてな」
「スケートだって一流だったぜ」
フィルマーは元々スケーターだったが、怪我を機に撮る側へ回るようになった。撮影のうまいこいつはみんなに重宝され、いつしかあだ名もフィルマー撮影者となった。
「このビデオはなんだ?」
データの中に、様子の違う映像があった。画面に映っていたのは教会で、人々がタイルに膝をついて祈っている。
「お前いつから敬虔になった」
俺がからかうと、
「馬鹿、1260だ」
とフィルマーは答えた。
「黙示録派の集会があるって聞いてさ。いい画が撮れそうだと思って、覗きにいったんだ」
—— 1260日後に、終末が始まる。 聖書の黙示録にならって、そんな噂が流行っていることは知っていた。バリオの小さな教会にも、人々が押しかけては祈りを捧げているらしい。
「なんで世界が終わるんだっけ」
「重力が減るからだろ」
「なんで減るんだ?」
「お前の兄貴に聞けよ」
そう言ってフィルマーは両手を上げた。
「マルコはそういうの勉強してんだろ。あいつ下の街で最近どうして……これは?」
俺が差し出したスマホの画面に、フィルマーは驚いた。メデジン市のホームページに、笑顔のマルコの写真があった。成績優秀な学生として、市に特集されているらしい。
「ブサイクな笑顔だな」
俺は画面をつついて言った。
「お前と同じ顔だけど」
フィルマーが首を傾げた。
マルコは昔から頭が良かった。スケートだって、俺が何度も転んでは身体で覚えるのに対し、あいつは板の動きをじっと観察して、なにやら計算しているようだった。それでトリックを決めるんだから驚きだ。
17になったとき、あいつは奨学金を手にし、谷底の大学へ進むことを選んだ。快挙だったが、俺からすれば不思議ではない。あいつは天才なんだ。それに俺が差し出したものを考えれば、それくらい活躍してもらわないと困る。
「あいつはガキの頃から……」
スマホにDMの通知が届いて、俺の昔話をやめた。差出人の名前に、息が止まりそうになった。

<エル・ガト: よう。お前のパート見た。来週会わないか?>

エル・ガト。ストリートから成り上がった憧れの存在。そのエル・ガトが、俺のビデオパートを見て声をかけてきたのだ。
この狭いバリオで、滑り続けている俺のことを知ってほしい。ずっと抱いていた願いが、ついに叶ったのだった。
「マジかよ……」
顔をあげると、隣でフィルマーが目を潤ませていた。自分の撮ったビデオが評価されて嬉しいのだろう。すごいのは俺の滑りだぜ、とからかおうとしたら、
「ラロ、良かったなあ」
そう言って肩をバシバシ叩いてくる。今度は痛みを我慢して、フィルマーとハグをした。こいつのためにも、エル・ガトの前で醜態を晒すわけにはいかない。このチャンスを掴んでやると、俺は固く決心した。

 

翌週。エル・ガトに会った俺は醜態を晒していた。
「どうした、ラロ」
憧れの存在が困惑している。フィルマーを連れて来なくてよかった。俺はタイヤの抜かれた車を指差して呟いた。
「線がある」
すり鉢状の街・メデジンには、見えない線が引かれている。まず「下」と「上」。谷底にある都市部と、斜面にある貧困街 —— すなわち俺たちの地元バリオ。さらにバリオの中にも、ギャングコミュニティの定めた境界線がいくつもあった。俺たちは、許可なしにこの線を超えてはいけない。
「ああ、なるほど」
エル・ガトは事情を察したようだった。
「じゃあちょっと、板に乗ってみろ」
促されて俺が両足を乗せると、背中に衝撃を感じた。エル・ガトが叩いたのだった。俺はそのままつーっと車の前を通過して、あっさり境界線を超えてしまった。
「簡単だろ?」
エル・ガトはドレッドヘアをかきあげ、再び滑り始めた。俺はすこし迷った後、地面を蹴って後を追う。
しばらくトリックを見せ合ったあと、俺たちは広場で休憩した。目に沁みるくらいビビッドなグラフィティアートが、壁面の至るところに描かれていた。紫色の涙を流す象の絵の前で、瓶ビールの底同士を突き合わせて乾杯すると、後ろからよく通る声が聞こえてきた。
<麻薬王パブロ・エスコバルが支配したメデジンは、かつて世界最悪の街と呼ばれていました>
観光ガイドの声だった。ツアー客たちが、熱心にその話を聞いている。
<しかしカルテルの掃討後、ご覧の通り、街は生まれ変わりました。アートと緑の溢れる、世界で最も革新的な都市とまで呼ばれるようになったのです>
隣でエル・ガトがファックと呟いた。
<その復興のシンボルこそが、10kmを超えるロープウェイ「メトロカブレ」です。これに乗って、山の貧しい人々が都市部へ働きに出られるようになりました。分断されたメデジンを、ロープが繋ぎ合わせたのです>
ツアー客たちが一斉にフラッシュを炊いた。エル・ガトはさっきより丁寧にファックとつぶやき、瓶を持って立ち上がった。
「2年前、21人が死んだ」
階段のスロープでグラインドを決めたあと、エル・ガトはあくびをするように言った。
「去年は37人が死んだ」
俺は黙って頷いた。いずれの事件も報道されることはなかった。カルテルが解体されたところで、バリオの毎日は変わっていない。
「俺たちを繋ぐのは線でもロープでもない。こいつだけだ」
そう言ってビール瓶で板を叩く。
「お前は今日、板で境界線を超えた。もっといろんなもんを超えたかったら、うちに来い」
差し出した名刺には、エル・ガトのチーム名が記されていた。俺はビールを飲み干してから、それを受け取った。
俺とエル・ガトが撃たれたのは、その3日後のことだった。

 

 

汗だくで天井を眺めていた。右脚が焼けるように熱い。フィルマーがすぐに医者を呼んでくれたお陰で、大事には至らなかった。だが鉛の玉は俺の太腿をかすり、肉の一部を削り取った。
熱とは裏腹に、迂闊だったなと俺は冷静に振り返っていた。憧れのエル・ガトを目の前にして、舞い上がっていた。コミュニティの監視の目に気づかなかった。制裁の道連れになったエル・ガトからは、もう関わらないで欲しいとDMが来た。境界線を超えた代償は、大きかった。
この足では、前みたいには滑れないかもしれない。いっそフィルマーにカメラを習おうか、と考えていたところで、ノックもなしに扉が開いた。現れたのは俺と瓜二つの男 —— 双子の兄のマルコだった。
「何年ぶりだ?」
俺は拳を突き出したが、マルコは応じず、ひざまずいて俺の脚に触れた。
「撃たれたのはここか?」
そう言って鞄をごそごそやる。
「いいよ、もう診てもらった」
「飲んどけ」
マルコが投げた錠剤を、なんの薬かわからないまま飲み込んだ。
「心配で帰ってきたのか?」
「そうじゃない」
マルコはあっさり否定した。そして、
「もうすぐ世界が終わるから」
と忘れ物をしたから、みたいな口調で言った。

「Gが —— 重力定数が減り始めたのは3年以上前だ。と言っても特殊な精密機器でしか観測できないレベルで、誤差の範囲と言われてた」
マルコはノートに「G」という一文字を書いた。
「でもここ数年の研究で、どこかのタイミングで重力の指数関数的減少が始まる、という説が囁かれるようになった」
ノートに描かれたグラフでは、ある地点から急激にGが下降している。俺はかつてトニー・ホークが跳んだ、巨大なジャンプ台の形を思い出した。
「問題はそのXデーがいつか、ってことだ。5年後だとか、500年後だとかいろんな議論があったんだが、つい最近、見解が一致した」
「いつ?」
「来週だ」
マルコはグラフの右端に「1260」と書いた。
「来週の日曜日。3年前に重力減少が観測されてから、ちょうど1260日目。この日を機に、地球は壊れ始める。気圧が急落し、酸素が減って地殻が崩壊 —— 世界の終わりの始まりだ」
「急な話だな」
「終わりはいつだって急だろう」
「たしかに」
俺は頷き、包帯の巻かれた脚を見つめた。
「1260日目か。黙示録派は正しかったわけだ」
フィルマーの撮った、教会の映像が頭に浮かぶ。
「偶然だが、ある意味な。でもさらに3年後だったとしても、見解が一致してから1260日後、とかこじつけてたろうし、陰謀論なんてそんなもんさ」
マルコはペンを回しながら続ける。
「ともかく、世界は終わる。もうすぐ公になるはずだ。すでに富裕層は、宇宙やら地下シェルターやらに逃げようとしているらしい。意味ないけどな」
「なんで重力が減るんだ?」
「わからん」
ペンを回すマルコの指は、俺の記憶より骨ばっている。
「重力ってのは、そもそも物理学最大の未解決問題なんだ。重力がなぜ存在するのか、完全な理論はない。測定精度も低い。それでみんな誤差だと思い込んでた」
ペンが指から離れた。いつもよりゆっくり落ちていくように見えたのは、錯覚だろうか。俺は視線をマルコの痩せこけた頬へと移す。
「ただ重力は時間によって変化する、って理論は前からあって……なに見てんだ?」
「痩せすぎだろ」
俺の言葉に、マルコはため息をついた。
「俺の話、わかってるか?」
「お前が終わるって言うなら、終わるんだろ」
俺は本心からそう返した。もうずっと前から、毎日が終わりの日だと思って生きてきた。たとえ脚を撃たれたって、来週で世界が終わるとしたって、それは仕方のないことだ。
「惜しいのは900を跳べなかった、ってことくらいかな」
俺は冗談でそう言った。900とは身体ごと900度、つまり二回転半させる技 —— トニー・ホークの決めた伝説のトリックだ。難易度はInsaneありえない。ましてやこの足で跳べるはずがない。しかしマルコは、
「跳べるさ」
と平然と言い放った。
「これから重力が減るんだ。すると高く跳べる」
悪戯っぽく笑う。
「だから一緒に滑ろう。そのために帰ってきたんだ」
その言葉に、俺は釣られて笑ってしまった。最高の提案じゃないか。
「お前はスケートなんてしてる場合なのか?」
一応そう尋ねると、マルコは目を丸くした。
「他になにをやることがある。どこに逃げたって、助かりやしない。まさか祈れとでも?」
俺は首を振る。
「祈るなら滑った方がいい」
マルコは頷いた。
「それに、スケートってのはジャンプと着地を繰り返す。ある意味、物理学の実験みたいなもんだ。だから異常な重力下では、珍しい物理現象が起きるかもしれない。まだ証明されてない理論を観測できるかも……」
夢中で語り始めるマルコは、俺とそっくりな瞳をしていた。ああそうだ、と俺は思う。板も雨水も分け合って、俺たちは二人で一人として生き抜いてきた。
—— 実のところ、俺がいまの仕事を始めたのも、マルコを進学させるためだった。どちらか一方さえ、バリオを出られれば勝ち。たぶんマルコは知らないが、そう考えてボスとの契約を結んだのだ。
「今日から練習するぞ。モルヒネは効いてきたか?」
そういえば足の痛みが、いつの間にか消えていた。研究室からくすねてきたんだ、と錠剤をひらひらさせながらマルコは言った。俺が拳を出すと、今度はそれに応じてきた。

 

 

縁石に乗り上げ、左足で前側ノーズに重心をかける。右足は浮かせたまま、板は縁石の上をガリガリと滑っていく。「粉砕する」の由来通り、街を壊しながら進むグラインドが、俺は好きだった。10メートルほど削ったのち、着地に失敗した板が前方へ吹っ飛んでいく。
マルコが帰ってきて一週間が経った、Xデー「1260日目」の夕暮れ。重力の減少はすでに体感できるほどになっていた。身体が明らかに軽い。着地の衝撃が少ない。怪我した足には助かるが、気を抜けば板が離れてしまって、何度もグラインドしてはその感触を確かめた。マルコはそれを観察しながら、ノートに数字を記入している。
< —— エル・ポブラド通りで玉突き事故が発生。メトロカブレも運行停止し —— >
ラジオから事故情報が流れてくる。都市部は大混乱に陥っているようだった。マルコによれば、重力が下がるとタイヤの摩擦も効きづらくなる。板の車輪でも実感していたことだった。
< —— また一部地域では下水の逆流が発生し —— >
「下もバリオと同じ臭いだ」
フィルマーが笑いながら板に乗った。重力が減って、こいつもスケートの勘を取り戻したみたいだ。俺たちの計画を話すと、じゃあ撮影係が必要だなと言って、あっさりとついてきたのだった。
マルコの計算によって、900に挑戦するタイミングも決まった。明朝、「1260日目」の夜を終えた朝。この時間帯にラ・ロマを急降下すれば、十分な滞空時間が得られるのだという。
「でもさ、マルコ。重力は減っていくんだろ?じゃあ待てば待つほど、高く跳べるんじゃないか」
フィルマーが不思議そうに尋ねると、馬鹿、と板を蹴りながらマルコは言った。
「跳べても、着地できなきゃ意味ないだろ。その時間帯が地面に戻れる最後のチャンスなんだよ」
「その時にはどれくらい軽くなってんだ?」
「普段の月面くらいだ。その頃には分単位でGが変化してるけどな」
Vamosアガる
そう言ってフィルマーは地面に板を叩きつけた。タン!と硬い音が響く。
「月って行ってみたかったんだ」
「それで、ラロ。900はいけそうか?」
マルコに訊かれ、俺は肩をすくめた。
「トニー・ホークが跳んだのは、X Gamesの馬鹿でかい専用ランプだ。ストリートで900に成功したやつは一人もいない」
「だからやるんだろ」
マルコはあっさり言った。
「スケートは、ストリートで滑ってこそ意味がある……ってお前もよく言ってたろ」
「でもさ、重力が減ったんなら、別にラロじゃなくっても跳べるんじゃないの?」
フィルマーがまた口を挟んできた。こいつはたまに、無神経なことを言う。
「いい質問だ」
マルコは頷き、板に乗る。
「答えはNoだ」
旋回しながら続ける。
「900を跳ぶには、身体を二回転半させなきゃいけない。逃げようとする板を抑えながら、それをやるには相当の技術が必要だ。あと —— 」
速度を増してこちらへ向かってくる。
「この期に及んで、スケートするような馬鹿はいない」
マルコはそう言って後側テイルをすくいあげた。板は水平と垂直方向、どちらにも360度回転する。360キックフリップ!とフィルマーが叫ぶ。うまい。いや、うますぎないか?
「お前、本当に学校行ってたのか?」
冗談で発した一言が、まずかった。マルコは少し首を傾けたあと、諦めたように言った。
「大学は半年前にやめた」

なんだって?と聞き返す前に俺は板を放り投げていた。立ち上がってマルコに詰め寄る。
「別にいいだろ。どうせ終末なんだ」
不貞腐れるマルコをとりあえず殴ると、後ろへ飛んでいった。俺の身体も反動で仰け反る。
「順番の問題だ」
俺はそう言ってマルコに歩み寄り、もう2発殴った。
「世界の終わりが分かったのは、最近なんだろ?なんでそれより先にやめた」
マルコの胸ぐらを掴むと、呆れるほど簡単に持ち上がった。
「俺がこの仕事を始めた理由を、教えてやろうか」
フィルマーが止めに入った隙をついて、今度はマルコが殴り返してきた。軽い拳だ。だが踏ん張りがきかず、俺の身体は後ずさってしまう。マルコもまた反動で離れていく。近づいては殴り、殴っては離れる。殴るたびに、どんどん感触が軽くなる気がした。互いにアザひとつつけられないまま、俺たちは疲れ果てて座り込んだ。
< —— 速報です。政府はエストラト5以上の地区を対象に、優先避難を開始しました —— >
エストラト、とマルコは呟いた。
「初日の入学手続きで、身分証を見せたんだよ。そしたら受付の女が、俺のエストラトを見てPobrecitaかわいそうにって言った」
住む場所で番号が振られ、番号で生き方が決まる。この街はそういうふうに回っている。
「俺だってそれくらい覚悟してたさ。でもそいつは皮肉じゃなかった。彼女は心の底から同情してたんだ」
1で生まれたら、1で死んでいく。マルコのように、谷底へ引っ越すこと自体が異例なのだ。
「ほかにも俺だけ研究室に受け入れてもらえないとか、色々あったよ。それでも食い下がって、市のページに特集された時はいい気分だった。自分の力で、数字を超えてやったって思った」
風が吹いた。空き缶がゴムボールみたいに大きく跳ねる。
「だが後から知った。あんなのは、市政のパフォーマンスに過ぎなかったんだ。貧困街の人間が進学したって実績を作りたいだけ。奨学金も同じだ」
「お前が学べることには変わりないだろ」
俺が言うと、マルコは寂しそうな目で笑った。
「順番の問題なんだ、ラロ」
板を指一本で持ち上げる。
「市はコミュニティと癒着している。コミュニティはちょうどいいガキを紹介し、境界線を出る許可を与える。それで市に貸しを作ってるんだ。役目を終えたガキは、結局バリオに戻される。かわいそうに、ってのはそういう意味だった」
マルコが指を振り上げると、板が高く上がった。
「ラロ。俺たちの親を殺したのは、確かにカルテルの残党だ。でもそれは、コミュニティとの抗争に巻き込まれたからなんだよ」
全身の力が抜けた。もう何も考えたくなかった。ようやく板が地面に叩きつけられ、乾いた音が鳴った。どれだけ上がったところで、下水臭いバリオに落ちていくだけだ。
うなだれる俺に、フィルマーが何か声をかけた。そのとき何発かの銃声が聞こえ、それから爆発音がした。

 

白い粉塵がゆっくりと、地を這うようにして漂ってきた。どさり、と何かが落ちてきたと思ったら人間だった。隣接するコミュニティの男で、フィルマーと顔見知りのようだった。フィルマーが事情を尋ねると、男は息も絶え絶えに「戦争だ」と言った。
「ヤケになった連中が、ニエベを奪い合ってる」
パン、とまた銃声がして男の側頭部が弾け飛んだ。脳漿が花びらみたいに散った。俺たちはそれぞれの板を掴み、滑り出した。
路地には濃い血の匂いが漂っていた。爆風で舞い上がったゴミが、落ちることなく浮かんでいた。重力減少が急加速していると、板をプッシュしながらマルコが言った。
タタタ、と鳴ったあと、近くの塀に火花が散った。振り向くと数人の男たちがAKを構えていた。タタタ、ともう一度撃ってきたが、どの弾も大きく外れていく。重力のせいで、うまく狙いがつけられないのだろうか。
「こっちだ!」
そう叫んでマルコとフィルマーを先に行かせた。銃弾が壁と地面を、ピンボールのように跳ねていた。金色の薬莢が、空中でくるくる回っていた。あちこちで閃光が炸裂し、それを照らした。火花はしばらく消えることなく、また新しい火花と合流しては、黄昏のバリオに光の軌跡を残した。
俺でさえ、幻想的だと思ったのだ。カメラ好きにとっては、なおさらだったのだろう。あるいは、ただの無意識の行動だったのかもしれない。
前を滑るフィルマーが、首にかけたビデオカメラに触った。するとストラップが外れ、カメラが地面に落ちてしまった。馬鹿、と俺がつぶやいたのと同時に、フィルマーは板を降りて、カメラを取りに走った。そして拾い上げた瞬間、跳弾がその胸のど真ん中を貫いた。フィルマーは何が起こったのだろう、といった表情で目を丸くしたまま、ゆっくりと仰向けに倒れていった。
駆け寄ろうとした俺とマルコの真横で、また火花が散った。路上に倒れていたバイクに引火し、燃えあがった。マルコは羽織っていたパーカーを脱いで丸めた。バイクに押し付けて火を移し、男たちへ投げた。
ふわりと浮かんだパーカーは、燃えながら宙をぬるり滑っていく。途中でガスボンベの山に接触し、炎が丸く膨らんで、大きな火の玉と化した。家々を飲み込みながら、みるみる膨張していく。男たちが何かを叫びながら、走り去っていくのが見えた。
「ディエゴ!」
俺はフィルマーの本名を叫んだ。フィルマーはしっかりとカメラを握りしめ、不思議そうな顔をしたまま死んでいた。口の端から垂れた血の一滴が、球状になって風で浮かんだ。血の球はシャボン玉のように、次々と空へ上がっていった。隣でマルコが、呆然とその様子を眺めていた。
「行こう」
家々を飲み込んだ火の玉が、こちらに接近していた。俺は素早く十字を切り、カメラを受け取って、マルコと坂道を滑り降りた。

 

 

夜空には、いつもよりたくさんの星が見えた。一帯が停電しているからだろう。
「明日にはもっと綺麗に見える」
カメラの映像を再生しながら、マルコが言った。
「大気が薄くなるからな。光がまっすぐ届く」
背後の教会からは、ぶつぶつと祈りの声が聞こえ続けていた。
教会だけは狙わない、というのはカルテル時代からのバリオの不文律で、俺たちはそれにすがった。教会の内部は同じことを考えた住民たちでごった返していて、中にはコミュニティの仲間もいた。俺たちはこの祈りの宿の駐車場で、1260日目の夜を過ごすことにした。
「まあ星も死ぬけどな」
夜空を見上げてマルコが言った。
「Gは宇宙の法則だ。そのうち太陽も消える」
「最後にはどうなる?」
俺は仲間のトリックを眺めながら尋ねた。奴らは車のライトで駐車場を照らし、逆さになった車両をレール代わりにして、順番に跳んでいた。
「最後には全部ほどける」
マルコがカメラに視線を戻して答えた。
「星も、銀河も。宇宙がぜんぶ解体される。均一で真っ暗な空間だけが残る」
「最高だ」
一人が勢いをつけすぎて、茂みの向こうまでぶっ飛んでいった。仲間たちは板の端を両手で持ち、もう一方をコンクリートに叩きつけて、失敗を祝福する。
「おい、こっちも最高だ」
マルコが言うので、俺も画面を覗き込んだ。フィルマーの遺したカメラには、膨大な映像が収められていた。どれも俺のスケート姿なのに、見惚れてしまうほどの出来栄えだ。だがそのうちのひとつに、違和感を覚えた。
映像はどれも至近距離から撮られていたが、そのデータだけは遠方から、俺の後ろ姿を撮影していた。まるで隠し撮りのような画角に、映っていたのは俺と、それからエル・ガトだった。
エル・ガトが背中を押すと、俺はふらふらと、タイヤの抜かれた廃車を通り過ぎていく。あの日、密かに境界線を超えた様子が、このカメラに収められていたのだ。フィルマーは、あの場にはいなかったはずなのに。
暗いもやが頭に立ち込める。薄々気づいていたのに、見えないふりをしていたピースが合わさっていく。
隠し撮りが1分ほど続いたあと、カメラの向きが変わり、フィルマーの顔面が大映りになった。その目はじっとこちらを見据えている。そして画面が暗転した。終わりかと思ったら、データはまだ続いていた。ザ、ザ、と一定のリズムで地面を踏みしめる音と、フィルマーの荒い息遣いが聞こえる。どうやらレンズに蓋をしたまま、音声だけが記録されているようだ。
しばらく小走りで移動したあと、扉の開く音がし、路上の喧騒がやんだ。コツ、コツ、と石の上を歩くような足音が響いたのち、人々の呟く声が聞こえた。俺はマルコと顔を見合わせた。さっきからこの場で、聞こえてくる祈り声と同じだったからだ。間違いない。音の中のフィルマーは、この教会に訪れている。
またドアが開く音がして、祈りの声が止んだ。深呼吸をしたあと、フィルマーは語り始めた。
「えっと、話していいのか?」
「どうぞ」
会話を聞いたマルコが、「告解室だ」と短く呟いた。懺悔し、神の赦しを得る場所。返事をしたのは、格子越しの神父らしい。
「あー。俺には親も兄弟もいない」
フィルマーの告解が始まった。
「……そんな俺を、育ててくれたのはコミュニティだ。だからずっと、ボスの言うことだけは聞いてきたんだ。そうすべきだろ?」
神父は返事をしない。黙って続きを促しているようだった。
「しくじって足を撃たれた時だって受け入れた。どうせスケートの才能はなかったしな。それから……」
しばらく言い淀んだあと、フィルマーは口を開いた。
「ラロの監視役だって引き受けた」
なんだって?とマルコが叫んだ。
「コミュニティのためなら、なんだってやってきた。それでいまから、一番の親友を売る。ラロの映像をボスに渡す」
おいおい、とマルコが肩をゆすってくる。俺はシッ、と短く息を吐いて黙らせた。
「あいつは制裁を受けるかもしれない。ただ死ぬことはないはずだ。でももしいまラロを見逃して、もっと遠くまで行っちまったらどうなる?そうだろ。だからこれでいいんだ。俺はあいつを助けるんだ」
そう言うとフィルマーは、めそめそと泣き始めた。
「ああ、違う。俺は怖いんだ。ラロが遠くへ行っちまうのが。俺だけが置いていかれるのが。それで結局あいつも、あいつの兄貴みたいに、利用されちまうのが。俺たちみんなが、バリオから逃げられないって、現実を突きつけられるのが。ごめんよ。ごめんよ……」
フィルマーは嗚咽し、そのあとは言葉になっていなかった。しばらくして神父が、神と御子が云々と言って、アーメンと締め括った。教会を出ていくところで、音声は終わっていた。
顔を上げると、仲間たちもカメラを囲んだまま、神妙な顔をしていた。
「お前に話してたな」
マルコが言った。
「神じゃない。フィルマーはお前に語りかけてた」
分かっていた。あいつもマルコも、それから俺も、みんな同じなんだ。どれだけGが減ったところで、俺たちはバリオの重力から逃れられない。
それでも、跳べると信じたかった。
俺は黙って画面を切り替える。マルコと3人で、トリックを練習する今朝の映像が流れた。
画面の俺は板に乗り、後ろ足でプッシュする。その瞬間、フィルマーのカメラが右側に回り込んだ。プッシュするとき、身体が右側へ開く俺の癖を知っているからだ。
俺が跳ぶと、その下へカメラが潜る。俺が着地すると、痛む足をかばって沈み込んだ膝を、カメラは地面すれすれの画角から捉えていた。
跳んだのは基本的なトリックに過ぎない。だが俺のスケートを知り尽くしたからこそ —— そして自身も足の痛みを知るからこそ、撮られたパートだった。
誰かからともなく、板を地面に叩きつけ始めた。パン、パン、パンと、いつもより軽くて間抜けな音が響いた。俺たちの魂みたいだった。それでもリズムを合わせ、弔いのつもりで叩き続けた。愛用する道具を、こんなふうに扱うのはスケーターぐらいではないかと、そんなことをふと思った。いつ壊れたっていい。そうやって生きてきた。
マルコが手を滑らせ、板がするりと抜けて行った。葉っぱのように板がひらひら舞った。まもなく最後の夜が明ける。

 

 

うっすら空が白んできたころ、俺とマルコはラ・ロマへ向かった。
バリオの中心部には人影がなかった。だが進むにつれ、路上に死体の数が増えていった。傾いた電柱同士が支え合い、電線が蜘蛛の巣みたいに絡まって、いくつもの屍が磔になっていた。その下をマルコと走る。すぐに身体が浮かんで、思うように地面を蹴れなかった。むかしどこかで見た、宇宙飛行士が月面を歩く映像を思い出した。
「ラロか?」
声がして、死体のひとつがむくりと起き上がった。その大柄のスキンヘッドの姿に、俺たちは思わず足を止めた。ボスが、血溜まりの上に座り込んでいた。
「そっちもラロか。なぜ二人いる?」
ボスは虚ろな目で俺たちを見比べた。
「おお、神よ。二人の証人を授けなさったられうか」
血を吐きながら言った。呂律が回っていない。手にはニエベの小袋が握られていた。
「時間がない」
マルコが先を急ごうとすると、
「どこへ行く?」
今度ははっきりとボスが言った。身体がぴたりと硬直する。
「下です」
俺は返事を絞り出した。
「どうせ全部壊れるんだから、いいでしょう」
「そりゃそうだ!」
ボスは叫んだ。
「パブロ・エスコバルじゃ足りなかった!この街は、もっと徹底して壊れるべきだったんだ」
そしてひきつけを起こしたように笑った。俺もマルコも、一歩も動くことができなかった。ボスはひとしきり笑ったあと、懐から銃を取り出し、こちらへ構えた。
ボスが引き金を引く瞬間、ふと両親のことが頭に浮かんだ。だがその顔すら出てこなかった。銃声の直後に、背後で悲鳴が聞こえた。振り返ると、M72を構えた男が仰向けに倒れていた。真上に打ち上げられた小型のロケット弾は、文字通りロケットのようにまっすぐ空へと飛んでいき、雲の向こうに消えてしまった。
「……しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ……」
がくんと頭を垂れたボスが言った。
「……彼らは、この聖なる都を……」
聖書の黙示録だった。死に際、意識の混濁した人間がこうして祈る姿を、何度も目にしたことがある。だがボスも同じように終わっていくということが、俺には新鮮に思えた。
「……わたしは、二人の証人に粗布をまとわせ……1260日の間、預言させよう……」
祈り続けるボスを残して、ラ・ロマへと急いだ。

メデジン一番の坂に辿り着いた俺たちは、しかし愕然とした。コンクリートには無数の亀裂が走り、そこら中がめくれ上がっていた。ガラスの破片が散乱し、細切れになった車の残骸が転がっている。誰かがRPGでもぶっ放したのか?
「これでも滑れる」
俺が強がると、マルコは唇を噛み締めた。
「速度が足りない」
マルコの計算によれば、900を跳ぶには時速30km以上を出さなければいけない。重力が減ると速度も落ちるから、300メートルの直滑降が必要だと言った。荒地と化したこの坂には、もうそんな余裕は残っていなかった。
「クソ野郎」
マルコが悪態をついてガラス片を蹴飛ばした。水色のガラスが、音もなく水平に滑っていく。
「バリオも神も、全部クソだ」
そう嘆きながらマルコは天を仰いだ。俺もその仕草にならった。視線の先にはロープウェイがあった。結局、一度も乗ったことはなかった。頭の中で観光ガイドの声が響いた。
<その復興のシンボルこそが、総延長10kmを超えるロープウェイ「メトロカブレ」です。分断されたメデジンを、ロープが繋ぎ合わせたのです>
あのロープは、一体なにを繋いでいたのだろう。
俺はファックと呟くエル・ガトを思い出した。まるで遠い記憶のようだった。重力の消える世界で、あいつも最期に滑れていたらいい。スロープでグラインドするその姿を思い浮かべたとき、俺の身体に電撃が走った。
「……グラインドだ」
「なんだって?」
マルコがガラスを蹴りながら訊き返した。
「あれをグラインドできないか?」
俺はロープウェイを指差した。細長いケーブルが空を横断していた。
「おいおい」
マルコは眉をひそめた。
「お前も天才だったのか」
そして地面にしゃがみ込み、ガラスの破片でグラフを描いて、夢中で計算を始めた。
「双子だからな」
俺は、俺によく似た横顔を眺めながらそう返した。

 

トタン屋根をつたって、停止したゴンドラの上に乗ると、生ぬるい風が吹きつけてきた。太さ5cmほどのワイヤーが、上りと下りの2本ずつ計4本、はるか谷底まで延びている。空は薄い紫をしていた。遠くで地鳴りのような音が響いた。滑るにはいい日だった。
俺が左のワイヤー2本、マルコが右の2本。並んで板の両端を引っ掛けた。重心を前へ傾けると、ゆっくりと板が動き始めた。そのままじわりじわり前へ進んでいく。風が吹き上がって、思わず身体が持ち上がりそうになった。
「この速度で死ぬのは嫌だぞ」
慌ててしゃがみ込んで俺は言った。
「じきに速くなるさ」
隣を滑るマルコは直立したまま、谷底の景色に目を細めていた。下の街ではいくつもの赤い火の玉が、ゆっくり移動しているようだった。
歩くみたいな速度が一分ほど続いたあと、ようやく板が加速してきた。道路よりも細かな振動が、足裏に伝わってくる。じれったくなった俺は、後側テイルをちょっと浮かせてみた。両手をあげるとバランスが取れた。いける。綱渡りみたいに滑ったあと、今度は板の中央部分だけをワイヤーに引っ掛けた。ボードスライド。キィーンと高い音が鳴った。いいぞ。
しかしそのまま足を離して飛び上がり、キックフリップしようとした時だった。力の入れ方を誤り、身体が予想以上に高く浮かんだ。板が足を離れ、俺の身体は放り出された。慌てて腕をじたばた伸ばして、離れゆく板を指で掴む。板を足の下に滑り込ませ、なんとか元の姿勢に戻った。
「エアウォーク!」
マルコが隣で叫び、指笛を鳴らした。期せずして別のトリックが決まったが、俺はハナからそのつもりでしたみたいな顔で親指を上げた。空中での身体操作は、思ったより自由が効くみたいだ。だとしたら。そう思ったところで、宙吊りになったゴンドラが迫ってきた。
自然と身体が動き、マルコ側のワイヤーへ飛び移る。ゴンドラを一台避けたあと、また自分側へ。ぴょんぴょん往復しながらワイヤーを渡っていくトリックに、もはや名前などない。マルコも何と呼べばいいのかわからないのか、ただ指笛を鳴らしていた。土埃の路地で板一枚、二人でどう遊ぼうか考えた幼い頃のことを、俺は思い出していた。
速度が増していく。金属音を立てて板がロープを削り、足元に火花が散った。マルコが首元のカメラを抱えた。900の速度に達した合図だった。だが俺はまだ行こうと腕を回す。もう少し加速したかった。
板がガタガタと揺れる。背骨が震える。マルコが何かを叫んだが、風にかき消された。火の粉が視線の高さまであがり、激しく明滅した。重心を下げ、必死に板に喰らいつく。刹那、右足の付け根に鋭い痛みが走り、俺はバランスを崩した。景色が暗転し、ひととき風の音が止んだ。

タン、タン、タン。
音が聞こえた。板を叩きつける音だった。昨晩の軽い音とは違う、いつものしっかりとした硬い音。重力の音。タン、タン、タン。一定のリズムはどこか懐かしくて、心地よかった。
まだ、落ちられる。だから跳べる。
気づけば俺は宙にいた。風の轟音が戻ってきた。身体をねじって回転させた。180度、360度。スローモーションの視界で、半回転するたびにバリオと谷底が交互に見える。
1回転半、540度。バリオではトタン屋根が舞っていた。2回転、720度。谷底では巨大な炎が縦に伸び、空へと溶けていた。
ついに俺は2回転半、トニー・ホークの900をメイクする。そしてまたバリオを見据える。山の上から、朝日が昇ろうとしていた。燃え盛るような太陽の光が、紫色の空を侵食していた。すべてがほどけていく世界は、上も下もなく、ただ同じように燃えあがっていた。
このまま着地できれば、トリックは成功だ。でも、もう一回転いけるはず。俺は上半身をちぎれるくらい思い切り捻った。姿勢が傾き、眼下にマルコが見えた。マルコは滑りながら、フィルマーの遺したカメラを構えていた。そういえば、こいつは目当ての物理現象を見られたのだろうか。
3回転、1080度。まだだ、と俺が目で伝えると、マルコはにやりと笑った。だよな、と俺はつぶやく。物理現象を見たいだなんて、一緒に滑るための口実に過ぎなかったんだろう。そう思ったのは、俺も同じ気持ちだったからだ。
マルコの飛ばす火花が、夜明けの空に光の線を引いた。そうして俺の身体は3回転半 —— 1260度回ったあと、ワイヤーにふわりと着地する。マルコが拳を突き出し、それに応えた。拳が拳にぶつかり、心臓まで響いた。どこかでまた、板を叩きつける音がした。長い坂の終わりが近づいていた。

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