梗 概
ゆらぎり
佐伯ユウ、四十五歳。小学生時代に対人恐怖をこじらせ、三十年以上ひきこもり生活を続けてきた。外界との接触は最低限で、仕事はオンライン占い師。唯一の娯楽は、ロトの当選番号を“音楽”として聴くことだった。ユウは、ランダムな数字の並びが旋律として聞こえるのだ。
ある夜、ロト専用・電動攪拌式遠心力型抽せん機(愛称:夢ロトくん)が弾き出した当選番号が、いつもの音楽を奏でない。異常を感じたユウは宝くじ公式サイトに「当選番号に違和感があります。夢ロトくんの調子が悪いのではないか?」と問い合わせメールを送る。
翌日、国家量子乱数監視センターから白石ミナという女性がユウの家を訪れる。ミナは、「当選番号の違和感」とはどういうことかとユウに聞く。監視センターなどという名前にビビったユウは、自分の特異体質の話をする。ミナは、「つまり、乱数のゆらぎを旋律として感知している……もしかしたら……」と携帯型量子乱数生成器(QRNG)をカバンから取り出して、起動する。ユウが話す度に、機械の数値が上昇する。「やっぱり。あなたの心が揺らぐと『ゆらぎ』が発生しているわ」確かに、ユウの心は揺らぎやすい。だから引きこもっているのだ。「是非私のプロジェクトに協力してほしい」とミナ。何事かと説明を求めると、乱数研究機関ではすでに「世界が終わる未来しか残っていない」という報告が出ており、未来の選択肢が一本の破滅ルートに収束し、ゆらぎが消えつつあるという。人類の多くは気づいていないが、ロトの当選番号にみられた乱数の異常は、未来の“死”が現在へ逆流している兆候なのだ。「世界は、ゆらぎを必要としています。佐伯さん、人類のためにもっと揺らいでください!」
断る権利などなかった。ユウは「揺らいでゆらぎを発生させる」ために引きこもりの部屋から強制的に連れ出され、これまで避けてきた『心が揺らいでしまうこと』をするはめに。
朝の満員電車に乗せられ、QRNGは急上昇。 二郎系ラーメン店で「ニンニクマシマシ」を注文させられ、ゆらぎはさらに増大。 市役所の窓口、カフェでの注文、クリーニング店の受け取りなど、過酷なタスクが次々と課され、そのたびにQRNGは大きく反応した。そうして、ユウは世間や社会に慣れ、警備員の仕事に就いた。仕事の初日にミナが就職祝いといってラーメンを奢ってくれた。その後、ミナは現れない。調べてみたのだが、国家量子乱数監視センターという機関も見つけられない。あれは一体なんだったのか? そして、世界の未来はどうなったのだろう?
日勤のシフトを終えたユウは、宝くじチャンスセンターで行われる公開抽選会に参加する。ロト夢くんが数字の玉を撹拌する。目を閉じるユウ。音楽は聞こえない。けれども、ユウには分かる。多分きっと大丈夫。自分も人類の未来も。
文字数:1153
内容に関するアピール
締切日がたまたまロト7の締め切り日ということもあり、Copilotに数字を選んでもらって遊んでいたら、Copilotが「モンテカルロ・シミュレーションをしてみましょうか?」などと言い出して、なにそれすごーい!と盛り上がってしまい、ロトくじと「世界の終わり」で何か書けないか?とそのままチャットでCopilotとアイディアの壁打ちをして、こんな梗概になりました。
文字数:180
ゆらぎり
小学四年生の秋、クラスで飼育していたニホンウサギの「大福」が死んだ。朝の張り詰めた空気のなか、飼育小屋の前で女子たちが声を上げて泣いていた。やがてやってきた担任の熱血教師が、これみよがしに悲痛な面持ちをつくり、「みんな、命の大切さについて考えましょう」と厳かに告げたその瞬間、佐伯ユウはなぜか吹き出してしまった。べつに面白かったわけではない。不謹慎な愉悦に駆られたわけでもない。ただ、人間がこれ以上ないほど生真面目な、記号的なまでに「正しい」顔をつくるとき、ユウの胸裏には耐えがたいほどの恐怖が去来するのだ。その硬直した表情の裏にある、底知れない悪意のようなものに、防衛本能として笑うしかなかった。だが、世界はそれを許さない。
「なんで笑ってるの」
隣にいた女子が、裏切者を見る目でユウを凝視した。
「サイテー」
クラス中の視線が、針の筵のようにユウの全身を突き刺す。
その日から、ユウの「世界」に対するチューニングは決定的に狂ってしまった。教室の引き戸を開ける前に、胸が激しく動悸した。廊下を歩くだけで、「自分は何か致命的な過ちを犯しているのではないか」という根拠のない不安に背中を焼かれた。中学へ上がる頃には、ユウの精神は完全に摩耗し、不登校となった。それが原因で両親が離婚した。完璧主義者の父親と過保護な母親。どちらからも逃れたくて、ユウは一人で暮らすという選択をした。「ちゃんと自立する。迷惑はかけない」という約束で、父親の名義でワンルームのアパートに引っ越した。あれは、18歳の春だった。
それから、三十年以上ユウは四角いワンルームで生きている。引きこもりのユウにも一応の「仕事」はあった。オンラインの予想屋だ。競馬や競輪の類ではない。彼の専門は、数字の羅列――具体的には、毎週開催される「ロト6」および「ロト7」の当選番号を予想だった。
ユウには、幼少期から奇妙な共感覚があった。彼にとって、数字の並びは単なる数論的な記号ではなく、固有の「旋律」として聴覚にダイレクトに響くのだ。たとえば、「05、12、19、24、31」という数列。これを眺めると、ユウの脳内には、どこか寂れた夕暮れの商店街に流れる豆腐屋のラッパのような、哀愁を帯びた木管楽器のメロディが鳴り響く。あるいは、「02、09、17、21、37」。これは、深夜の地下鉄のホームで、誰かが落とした真鍮の鍵がコンクリートに跳ねるような、硬質で冷ややかな金属音がする。
本人にもその構造的理由はわからない。ただ、数字が特定の並びを構成するとき、そこに独自の音楽が生まれる。そして、過去のロトの当選番号の歴史を紐解くと、そこには毎回、奇妙なほど調和のとれた、あるいは完璧に計算された“曲調”が存在していた。ネットの片隅で、ユウはその能力を切り売りしていた。ハンドルネームは『ロトの吟遊詩人』。彼の予想は妙によく当たった。
「今週の乱数は金管楽器風の華やかさがあるので、偶数のコード進行が来ます」とか、「今日は低音部がひどく濁っているので、二十番台後半の領域は崩壊しています」といった、他人から見れば誇大妄想狂のポエムにしか見えない解説を添えて数字を提示すると、それが面白いように三等や四等の当選を引っかけるのだ。一等こそ出ないものの、その驚異的な的中率によって、ユウの個人ブログには少数の、しかし熱狂的な固定客がついていた。彼らの支払うささやかな購読料が、ユウの唯一の生存資金だった。
その夜も、ユウは遮光カーテンを閉め切った薄暗い部屋で、液晶画面に映し出されるロトの公開抽せんライブ配信を眺めていた。画面の向こうに鎮座するのは、ロト専用・電動攪拌式遠心力型抽せん機。通称、「夢ロトくん」。透明なアクリル製のドームの中で、着色された番号付きのポリウレタン製の球たちが、下部から吹き出す強烈な気流によって激しく撹拌されている。機械的な公平性と、数理的な確率論だけが支配するその空間。球が一つずつ、重力の法則に従って排出口へと導かれ、数字が確定していく。
ユウはいつものように、画面を見ながら静かに目を閉じた。脳内のオーケストラを指揮するように、神経を集中させる。球が混ざる。数多の未来の可能性が、アクリル球の衝突という物理現象を通じて、純粋な乱数の渦を巻く。ここから、いつもの美しい数字の音楽が始まる――はずだった。
「――05」
司会者のアナウンスとともに、最初の球が固定される。その瞬間、ユウは不意に激しい耳鳴りに襲われたかのように、眉をひそめた。音が、おかしい。濁っているのだ。いつもの清澄な木管の音ではない。まるですり減ったレコードの溝を、錆びた針で無理やり引っ掻いたような、不快な摩擦音が脳裏を掠めた。
「――12」
二つ目の数字。旋律が、繋がらない。前の音との間に、音楽的な脈絡が完全に欠落している。それは不協和音ですらなかった。音楽という概念そのものが、ぷつりと切断されたかのような無音の空白。
「――21」
三つ目の数字。途中で音が死んだ。それは、内部の歯車が噛み合わなくなり、異音を立てて停止した壊れたオルゴールの音色だった。ユウは跳ね起きるようにして目をあけ、パソコンの画面を凝視した。
抽せんそのものに、目に見える異常は一切ない。スタジオの照明は明るく、司会者の女性は変わらぬプロフェッショナルな笑顔を浮かべ、アシスタントのスーツ姿の男たちも厳粛な態度を崩していない。夢ロトくんのドームの中で、白い球は物理法則通りに回転している。
だが、ユウの耳に届く「数字の音楽」だけが、完全に崩壊していた。それは、世界の皮膚に、目に見えないほど微細で、しかし致命的な亀裂がピキリと入ったかのような、背筋の凍る不気味さだった。
三十年以上、社会のノイズを遮断して生きていると、思考をアウトプットするための独り言が自然と増える。ユウは冷や汗で湿った手でマウスを握り、しばらく狂ったように画面をスクロールさせた。胸のざわつきが収まらない。これは単なる直感ではない。彼の共感覚が、何らかの「決定的なバグ」を検知している。ユウは迷った末、ブラウザの別タブを開き、宝くじ公式サイトの「お問い合わせフォーム」をクリックした。そして、キーボードを叩く。
『本日開催のロト抽せんにおいて、当選番号に重大な違和感があります。音が違います。抽せん機の電子制御システム、または球の撹拌効率に不具合は発生していませんか?』
送信ボタンを押した瞬間、脳が急速に冷え込み、猛烈な後悔が押し寄せた。
「……やらかしてしまったかも」
予想屋の仕事は思いっきりグレーゾーンだ。しかも、自分の能力をどう説明するのだ? デジタルデータのパケットはすでに光回線を通り、一瞬で東京都内のサーバーへと吸い込まれていった。もう取り消せない。
「終わった。もう終わりだ……」
ユウはノートパソコンの画面を乱暴に閉じ、そのまま這うようにして万年床の布団の中へと潜り込んだ。不安な時は寝てしまうというのがユウの対処法だった。
翌朝、午前九時。静寂に包まれたワンルームに、突如として鼓膜を裂くような電子音が響き渡っ全身た。
『ピンポーン』
ユウは、まるで心臓に直接高電圧の電流を流されたかのように、布団の中で跳ね起きた。の毛穴から冷や汗が噴き出す。宅配便の配達予定は、今週は一切ないはずだ。母親からのレトルト救援物資の段ボールは、先々週に届いたばかり。ということは、この訪問者は「予定外の異物」である。つまり、最悪の事態だ。脳内に昨日の宝くじセンターに放ったメールの一件がフラッシュバックする。ユウは呼吸を止め、布団の中で完全に硬直した。居留守だ。引きこもりの第一奥義、徹底的な完全静寂。気配を消し、この部屋には最初から酸素しか存在しないと世界に錯覚させる。だが、インターホンは容赦なく二度目の音を鳴らした。
『ピンポーン』
続いて、ドアの向こうから声が聞こえた。合成音声のように極めて平坦で、しかし妙に通る女性の声だった。
「佐伯ユウさん。お宅にいらっしゃるのは分かっています。――私、国家量子乱数監視センターの白石と申します」
ユウの思考が停止した。国家、量子、乱数、監視、センター? なんだそれは。その知的でありながら、同時にどこかディストピアめいた響きを持つ単語の羅列に、ユウの防衛本能は限界を迎えた。ユウは反射的に布団から飛び起きると、部屋の隅にある押し入れの戸を開け、その中へと滑り込んだ。体育座りでガタガタと震える膝を抱える。子供の頃、激しい雷雨から隠れたときと同じ姿勢だ。ドアの向こうの白石という女性は、ユウのそのパニックを見透かしているかのように、落ち着き払った声で言葉を重ねた。
「怪しいものではありません。昨夜あなたが送られたメッセージについて、少し専門的なお話を伺いたいだけです」
昨夜のメッセージと聞いて、ユウは激しく震えた。やっちまった。オレはついに、社会から抹殺される――。すると、女性は切実な声で訴えてきた。
「世界が、終わるかも、しれないんです!」
益々怪しい。昨夜のメールがハッキングされて、どこかの怪しい組織の手に渡ったのかも知れない。そもそも本当に世界が終わるかも知れないというのなら、そんな重大な局面に、引きこもりの四十五歳のおっさんを巻き込まないでほしい。しばし、沈黙が流れた。アパートの前の通路を、カラスが鳴きながら横切っていく羽音が聞こえる。諦めて帰ってくれただろうか。ユウがほんの少しだけ安堵の息を漏らしたその時、外から、先ほどまでの厳粛なトーンとは明らかに質の異なる、どこか気の抜けた声が響いた。
「……あの、駅前のケーキ屋で、期間限定の特製シュークリーム買ってきちゃったんです。カスタードと生クリームのダブルのやつ。これ、常温で放置するとクリームがダレちゃうんですけど」
シュークリーム。それはユウが最後の晩餐で選びたい唯一の食べ物。世界で一番大切で大好きで最高の食べ物。しかも、駅前のケーキ屋の限定品。引きこもりでビビリなおっさんは、シュークリームという食べ物を救うために玄関へと向かった。とりあえず、のぞき穴から様子を伺う。女性が立っている。見える範囲では一人だ。白石ミナという女性の年齢は三十前後、あるいはもう少し若いだろうか。一応、黒いリクルートスーツのようなジャケットを羽織ってはいるが、インナーのシャツは第一ボタンが外れていて微妙に着崩れているし、肩にかかる黒髪も寝癖なのか、少し乱れていた。そして何より、その大きな瞳の下には、濃い紫色のクマがくっきりと刻まれている。学位論文の提出締め切りを三日後に控えた、限界状態の理系大学院生という表現が最も的確だった。ミナは、シュークリームの入った箱を掲げて見せた。
「早く。お願い、保冷剤、入れてもらうの忘れたの」
シュークリームの運搬に保冷剤を忘れるなど言語道断。ユウはドアを開けた。
「どうぞ……。狭い、ですが」
ミナは部屋の一歩足を踏み入れるなり、その限界まで澱んだ空間を興味深そうに見回した。床にうずたかく積み上げられた、空のペットボトルの山。過去十数年分のロト予想雑誌や数学の専門書の古本。壁に貼られた、独自の乱数周期を表す手書きのグラフコード。
「引きこもりのお部屋に入るのは、初めてです。なるほどですね」
何がなるほどなのだろう。ミナはシュークリームの入った袋をユウに手渡し、部屋の唯一の家具であるローテーブルの前に勝手に膝を突き、カバンから無骨なノートパソコンを取り出して開いた。
「早速ですが、昨夜のの問い合わせメールの発信者は、あなたでお間違いないですね?」
画面に表示されたのは、ユウが深夜の錯乱状態で送信したあの文章だ。改めて第三者の視点、しかもディスプレイの高解像度で見せられると、背筋に冷たいものが走る。完全に、文章の終着点を見失った人間の、精神的エラーログそのものだった。
「……すみません。勘違いで送りました。ごめんなさい」
「謝る必要はありません」
ミナはキーボードを叩きながら、真顔で言った。
「むしろ、送ってくてありがとうといいたい。私たち組織は、あなたのような人材を探していたんです。正確に言えば、昨夜の『夢ロトくんの不整脈』を、外部の人間で唯一、かつリアルタイムで検知した異常個体を」
「『夢ロトくんの不整脈』? 異常個体って?」
シュークリームを冷蔵庫にいれながら、ユウはミナに尋ねた。ミナはユウの質問には答えずにさらに質問を投げてよこした。
「あなたが書いた『音が違う』という表現について、詳細を聞きたい。比喩ですか? それとも、文字通り聴覚的な現象として認識しているんですか?」
話を聴かない女は苦手だ。自分の母親を思い出す。同じタイプであるのなら、質問をはぐらかすとキレる可能性がある。慎重に丁寧に余計なことを省いて答えなければならない。
「……数字には、旋律があるんです。単体じゃなくて、並びとして提示されたときに。ロトの当選番号には毎回、ある種の共通した“曲調”や“コード進行”が存在していて、僕はそれをロトの予想に利用していました。でも、昨夜の数字の並びは……音楽の体を成していなかった。楽器の弦が切れ、スピーカーがハウリングを起こしたみたいに、構造そのものが壊れていたんです」
話し終え、ユウは「いや、やっぱり妄想ですよね」と自嘲気味に付け加えた。だが、ミナは否定しなかった。顎に手を当て、「なるほど、クオリアとしての乱数知覚……。脳の側頭葉における超感覚的マッピングか」と、難解な専門用語をブツブツと呟くだけだった。用事が済んだのなら、早く帰ってほしかった。ひとりでゆっくりコーヒーをいれて、冷やしたシュークリームを堪能したい。だが、彼女は帰るどころか重厚なカバンの中から、スマートフォンを一回り大きくしたような、メカニカルな灰色のガジェットを取り出した。上部には小さなアンテナのような突起があり、液晶画面には緑色の複雑なサイン波と、リアルタイムで細かく変動する十六進数のカウンターが表示されている。
「これは?」
「携帯型量子乱数生成器(ポータブル・クォンタム・ランダム・ナンバー・ジェネレーター)です。簡単に言うと、宇宙の『気まぐれ』をリアルタイムで測定して、それをデジタルデータに変換する装置です」
簡単に言ったが、内容は全く簡単ではない。
ミナは装置のセンサー部をユウの胸元に向け、スイッチを入れた。チチチ、とガイガーカウンターに似た微細な駆動音が部屋に響く。
「佐伯さん、そのまま何か話してください。昨日の晩御飯のことでも何でもいいです」
「ええと……昨日は、夜中にローソンの大盛りカップ焼きそばを食べました。マヨネーズがついてるやつです」
ユウが消え入るような声で答えると、装置の画面の数値が「0.02」ほどわずかに上昇した。ミナの目が細められる。
「ふむ。ベースラインは極めて平穏、というか、社会活動が停止している分、周囲のノイズが少ない。では、次の質問。――佐伯さん、あなたが最近の人生で、最も恐怖を感じた瞬間はいつですか?」
「……さっき。あなたがインターホンを鳴らした瞬間です」
ユウがその瞬間の恐怖を思い出した途端、
『ピピピピピピピッ!』
と量子のなんとか装置が、鼓膜を刺すような激しい警告音を鳴り響かせた。液晶画面の緑色のサイン波が、まるで巨大な地震を検知した地震計のように上下へ激しく狂い咲き、十六進数のカウンターが視認できないほどの超高速で回転し始める。
「ビンゴ!」
ミナが弾かれたように立ち上がり、ローテーブルを激しく叩いた。叩いた音にびっくりして、ユウの心臓がキュッとなった。再び装置のカウンターが回転する。
「やっぱり私の仮説は正しかった! 佐伯さん、あなた自身の感情が激しく変調し、心が激しく揺れ動くとき、あなたの脳から放射される局所的な精神場が、周囲の『量子的ゆらぎ』に直接干渉し、その確率分布を書き換えているんです!」
何をいっているのかさっぱり分からないが、ミナが興奮していることは理解できた。そして、他人の激しい感情は、ユウにとって恐怖でしか無い。さらに量子のなんちゃら機械が鳴り響く。ミナは大きく深呼吸をし、乱れた前髪を無造作に掻き揚げると、再び元の限界大学院生のような、しかし芯の通った真顔に戻って席に着いた。
「佐伯さん、落ち着いて聞いてください。今、この世界は、非常に危機的な状況にあります。――世界は今、あらゆる意味での『ゆらぎ』を失いつつあるんです」
「ゆらぎ、ですか」
「そうです」
ミナはノートパソコンの画面を操作し、今度は世界地図の上に、無数の赤いドットが蜘蛛の巣のように網羅された不可解なシミュレーション映像を表示した。
「ここ数年、人類の科学技術は『未来予測AI』と『量子観測技術』の融合によって、一歩先の世界をほぼ完璧に計算できるようになりました。気象予測、株価の変動、都市の交通渋滞、マクロ経済の動向、個人の購買行動にいたるまで。しかし、ここに致命的なパラドックスが発生したんです。――未来を『観測』し、『予測』しすぎることで、本来なら無数に分岐するはずだったパラレルな未来の可能性が、異常な速度で『一つのルート』へと収束し、固定化され始めている」
ユウは腕を組み、かつて読んだSF小説の記憶を必死に手繰り寄せながら、彼女の言葉を咀嚼しようとした。
「つまり……未来の選択肢が減っている、ということですか?」
「減っているどころではありません。完全に、一本の強固なレールへと『硬直』し始めているんです。量子力学の世界では、観測される前の粒子は確率の波として『ゆらいで』存在しています。しかし、人間がそれを執拗に観測し、システムが最適化のルートを規定しすぎると、世界から『偶然』という名の遊び、余白が消えてしまう。コイントスの結果も、明日の天気も、そして――宝くじの当選番号すらも、あらかじめ決定された『確定事項』へと劣化していく」ミナは夢ロトくんの画像を指差した。
「昨夜、あなたが感知したロトの音楽の崩壊。あれは、夢ロトくんの機械的故障ではありません。夢ロトくんの内部にあるアクリル球の運動という、純粋な物理的乱数(偶然)の領域にまで、未来の『確定という名の死』が逆流し、世界線が完全に固定化されたことの物理的証明なんです。このまま世界のあらゆる偶然が硬直すれば、人類の未来は、完全に計算可能で、一切の進歩も変化もない、緩やかなディストピアへと収束します。文字通り、可能性という意味での『世界の終わり』です」
ユウはめまいを覚えた。話のスケールが大きすぎる。宇宙の崩壊、確率の死、世界の終わり。どれもこれも、四角いワンルームでカップ焼きそばの湯切りをしている男が関わっていい規模のトピックではない。
「……で、なんでその大問題の解決策に、僕みたいな、三十年も社会から逃げ回っている引きこもりの中年男性が必要なんですか。国家の偉い科学者たちで、その量子なんとかいう機械をいじって直せばいいでしょう」
「無理です」ミナは即答した。「科学者たちの脳は、すでに『論理』と『最適化』という、最も強固な決定論に汚染されています。彼らが何をどう計算しても、それは未来をさらに固定化する観測行為にしかならない。世界を救うために今必要なのは、システムの計算をあざ笑うような、圧倒的な『非論理』。社会のルールや最適化のグリッドから完全にドロップアウトし、社会的な死の恐怖と個人的な偏執病的なこだわりとの間で、不規則かつ激しく、予測不可能に心が揺れ動く――そう、あなたのような、究極の『ノイズ原動機』なんです」
褒められてる気が、一ミリもしない。
「佐伯さんのヘタレ、ビビリ、最高です。佐伯さん、人類の未来を救うために、もっと外に出て、社会の荒波に揉まれて、心臓をバクバクさせて、極限まで揺らいでください」
最悪だ。何が一番最悪かと言うと、ミナの推しの強さがユウの母親と同レベルのユウが絶対に断れないタイプのモノであるということだった。
翌朝。午前七時三十分。ミナが時間通りに現れ、ユウに持参したビジネス・スーツを着るように告げた。もちろん、人生で一度たりともスーツを着たことはない。ネクタイはミナが結んでくれた。スーツを着ただけでストレスを感じる。ミナから押し出されるように用意された革靴を履き、玄関を出た。これから満員電車に乗ることを思い出し、座り込む。
「……無理です。本当に嫌です」
「落ち着いてください。まだあなたの部屋の玄関を出て、三歩しか歩いていません」
ミナは、華奢な見た目からは想像もつかないような怪力と、一切の妥協を許さない合理的な強引さで、ユウのスーツの袖を引っ張っていく。もう片方の彼女の手には、あの携帯型量子乱数生成器がしっかりと握られていた。二人が辿り着いたのは、朝の通勤ラッシュのピークを迎えつつある、主要路線のターミナル駅だ。
午前八時。プラットホームには、寸分の狂いもない正確さで運行される鉄の塊を待つ、おびただしい数の人間の群れが形成されていた。全員が同じような暗い色の服を纏い、スマートフォンの画面を一心不乱に見つめ、死んだ魚のような、あるいは極限まで感情を去臭した「最適化された社会人」の顔をして整列している。
その異様な光景、空間に満ちる張り詰めたストレスの圧力を肌で感じた瞬間、ユウは文字通り膝から崩れ落ち、ホームのコンクリートに両手を突いた。世界なんて滅んでしまえば良いとマジで思った。そんなユウを嬉しそうに見つめているミナに殺意を覚えた。
「ユウさん、どんどん揺らいでください。ちなみに、この駅だけで、毎朝約二千万人規模の移動が、完璧なダイヤグラムに基づいて制御されています」
激しい動悸がユウを襲う。脳内の数字の旋律が、不快な電子音のノイズとなって頭蓋骨の内側をガンガンと殴りつけてくる。そこへ、金属の悲鳴を上げながら、超満員の電車が滑り込んできた。プシューという不吉な排気音とともにドアが開く。
「さあ、いきますよ!」
「無理無理無理、絶対に死ぬ――」
ユウの拒絶は、背後から押し寄せてきた「一秒でも早く会社に遅刻せず到着せねばならない」という強烈な社会的強迫観念を孕んだサラリーマンたちの濁流によって、一瞬で圧殺された。背中を押され、巻き込まれ、足が宙に浮き、ユウは抵抗する術もなく、汗と脂の臭いが充満する密閉された車内へと押し込まれた。ドアが閉まる。そこは、物理的な地獄の具現化だった。
他人との距離が、あまりにも近い。近すぎる。隣の中年男性の安っぽいナイロン製ビジネスバッグの角がユウの脇腹へ情け容赦なく刺さり、吊り革を掴む見知らぬ誰かの衣服から漂う、強烈なシトラス系の整髪料の匂いがダイレクトに鼻腔の奥深くへと侵入してくる。前方では男子高校生が、音漏れ防止機能など皆無の骨伝導イヤホンから、脳を揺らすような重低音のデジタルミュージックを周囲に撒き散らしており、優先席の前では、杖をついた老婆と、狸寝入りを極めようとする若きビジネスマンが、目に見えない強烈な心理的牽制球を投げ合っている。
情報量が、多すぎた。三十年間、世界のノイズを極限まで遮断したクリーンルームで生きてきたユウにとって、満員電車という空間は、生の人間たちのドロドロとしたエゴと、生存本能の、あまりにも生々しい暴力の乱気流だった。
「ひっ、ふー、ひっ、ふー……」
ユウは完全に過換気症候群の一歩手前になり、半泣きで目を血走らせながら、車両の隅で硬直していた。そのすぐ隣で、狂ったように数値を更新し続けるガジェットの画面を覗き込みながら、ミナが、この世のものとは思えないほどの眩しい、至福の笑顔を咲かせていた。
「素晴らしい! 素晴らしいです、佐伯さん! 測定器の針が振り切れています! あなたの脳内から発生した凄まじい確率のノイズが、この車両全体の『未来の予測可能性』をガンガンに破壊している! 過去最高値のゆらぎです!」
満員電車で自分は死ぬ、とユウは本気で思った。だが、電車がいくつかの駅を過ぎ、二十回ほど激しい急ブレーキの衝撃に耐え、ユウの肉体が文字通り他人の肉体のクッションによって押し潰され続けた頃、彼はある不思議な「事実」に気がついた。精神は、間違いなくズタズタに削られている。だが、生きている。
「あれ……? 意外と……僕、平気に……? なんとか、なってる……?」
ユウが呆然と呟くと、ミナは満足そうに装置をカバンに仕舞いながら、当然のように言った。
「人間、どんな不条理な環境にも、三十分で適応するようにできていますから」
三十年間、彼が「触れたら一瞬で自分の存在が消滅してしまう」と頑なに信じ込み、恐怖し、避け続けていた社会という名の怪物は、ただの「雑多な人間の集まり」に過ぎなかった。
「さあ、どんどんゆらいで人類を救いましょう」
と、次にユウが連行されたのは、とある学生街の路地裏に店を構える、黄色い看板が禍々しい光を放つ、二郎系ラーメンの店舗の前だった。ユウは店の前に立った時点で、肉体的拒絶反応から、踵を返して逃げ出したくなった。
店外にまで漂ってくる、煮詰まった豚骨の野生的な臭気と、強烈なニンニクの匂い。そして何より、オープンキッチンの店内から漂ってくる、独特の張り詰めた緊張感。カウンターに並ぶ客たちは、一言の私語も交わさず、ただ眼前の巨大な麺の山を「処理」することだけに全神経を集中させて猛烈に麺を啜り上げている。対する店員たちは、ドスの効いた声量で怒鳴り合っていた。
「……あの、白石さん。ここのラーメンを食べ切れば人類を救えるのですか?」
「単に食べるだけではありません。店員からコールがかかった瞬間、明確な発声で『ニンニクマシマシ』と注文してください」
食券を購入し、狭いカウンターの端の席へと押し込まれる。ユウの心臓は、先ほどの満員電車以上の不規則なビートを刻んでいた。周囲の客たちの、流れるような滑らかな着席からオーダーまでの無駄のない儀式。空間の中で、ユウという存在は完全に「異物」だった。アウェーだった。コワモテの店員が、「食券」と無愛想に怒鳴る。食券をどうすればいいのか? と、隣でミナが食券をテーブルに置いた。慌ててユウも食券をカウンターの上に置く。
「――オーダー、言って!」
キタ。ユウの脳内が、真っ白なノイズで埋め尽くされる。後ろには、次の席を待つ空腹の学生たちの無言の行列(プレッシャー)。左右からは、他の客たちの「おい、早くしろ、モタモタすんな」という無言の視線。どこにも、逃げ場はない。完璧な、社会的な包囲網。ミナが隣の席から、悪魔の囁きのような小声で促す。
「今です、佐伯さん。あなたの心が、過去最高に非論理的に揺らいでいます! 世界の確率をぶち壊してください!」
「――ああああ、もうどうにでもなれ! ニンニク、マシマシで!!!」
ユウが人生で出したことのないような、喉をからした絶叫が店内に響き渡った。一瞬、周囲の学生たちの箸が止まり、店内が奇妙な静寂に包まれた。四十五歳の小綺麗なスーツを着たおっさんが、悲壮な覚悟でニンニクマシマシを要求したのだ。だが、百戦錬磨の店員は、フッと口元を不敵に歪めると、さらに恐ろしい追撃を放ってきた。
「アブラは? 野菜は? 麺は?」
さらなるオーダーが必要が必要とは。フリーズするユウに代わってミナが叫んだ。
「全部マシマシで!」
出てきたラーメンは、もはや食べ物というよりは、高度な有機物の堆積岩のようだったが、ユウは涙を流し、強烈なニンニクの刺激で舌を麻痺させながら、必死でそれを胃袋へと流し込んだ。胃が焼けるように熱かった。だが、その熱さは、彼が三十年間忘れていた、「自分は今、確かに生きている」という強烈な、圧倒的な生命のリアリティそのものだった。その日、佐伯ユウの脳内から放出された局所的量子場は、ミナの持つ測定器の液晶画面を物理的に焼き切る寸前の、前人未到の新記録(ニューレコード)を叩き出した。
ミナの課すミッションは、普通の人間にとっては単なる「退屈な日常の1コマ」に過ぎないものばかりだった。市役所の複雑な窓口へ行き、住民票の写しを申請する。オシャレなサードウェーブコーヒーのカフェへ一人で入り、呪文のようなトール・大豆ミルク・バニラシロップ追加のラテを注文する。近所のクリーニング店へ行き、十年前の冬物のコートを預け、引き換え証を受け取る。地元の美容院に電話をかけ、週末のカットの予約を入れる。
引きこもりではない人間からすれば、「だから何だ」と言いたくなるような些細な行為。だが、三十年間社会のシステムから隔離され、自らの中に閉じこもっていた佐伯ユウにとっては、その一つひとつが、命がけの、失敗すれば精神が崩壊しかねないほどの高難度ミッション(無理ゲー)だった。
しかし、それらを何度も、ミナに背中を押されながら繰り返していくうちに、ユウの肉体と精神は、驚くべき速度でその「恐怖」を学習し、無害化していった。一ヶ月が経過する頃には、彼は平日の昼下がり、混み合う牛丼チェーン店のカウンターに一人で腰掛け、やってきた店員に対して、極めて自然な、滑らかな発声でこう告げられるようになっていた。
「あ、牛丼の並、玉子と、あと――“つゆだく”で」
数秒後には正確に汁の多めの牛丼が提供される。ユウは箸を握ったまま、感動のあまり目頭が熱くなるのを止められなかった。
「……白石さん。僕、今、ものすごく自然に、『つゆだく』って言えました……」
隣で器用に紅生姜を山盛りに盛っていたミナが、嬉しそうに目を細めた。
「素晴らしいですね、佐伯さん。これぞまさに、人類の、そして引きこもり界の偉大なる一歩、量子的跳躍です」
ミナは、よく笑う女性だった。そして、よく食べる女性だった。ユウがストレスで胃を痛めているのを尻目に、彼女はどんなジャンクフードも、定食屋の爆盛りご飯も、実に見事な食べっぷりで平らげていった。
だが、彼女は自らの個人的な背景については、徹底して話そうとしなかった。ユウが何度か、彼女の所属しているはずの「国家量子乱数監視センター」という組織について尋ねても、いつも煙に巻くような態度で、巧みにはぐらかされる。
「機密事項ですから。話すと、上層部から消されます」
「いや、絶対そんな組織、現実の日本の官僚機構に存在しないでしょ」
「ありますよ。ただ、存在そのものが『量子的に重ね合わせの状態』にあるので、一般の人間が観測しようとすると、確率の波が縮退して消えてしまうんです」
「要するに、言いたくないんですね?」
「正解です」
それでも、ユウは、ミナと過ごすその不条理で騒がしい時間を、次第に、自分でも驚くほど心待ちにするようになっていた。誰かと他愛のない話をすること。理不尽な要求に対して、文句を言いながら一緒に笑うこと。カレンダーの中に、「明日、誰かと会う」という明確な予定が存在していることが嬉しかった。
バスで高齢者に席を譲るというミッションの帰り道、ミナがコーヒーの缶をユウに手渡しながら、不意に言った。
「佐伯さん。次は、最終段階のミッションです。就職の面接に行ってもらいます」
ユウは口に含んだばかりの微糖コーヒーを、文字通り霧吹きのように盛大に吹き出した。職歴なし、四十代後半の引きこもりに、どこの企業が門戸を開いてくれるというのだ?
「大丈夫です。すでに私が最適な職場を選定しておきました。ショッピングモールの、夜間および日中の『警備員』です」
最後に「これも人類を救うためです」、と彼女は笑った
数日後には地元の総合警備会社の面接室へと送り込まれていた。極度の緊張で、面接官の前で声が裏返り、尋常ではない量の脇汗をかき、心臓が口から飛び出るかと思った。不採用になる未来しか見えなかった。けれど、「健康で若い」という想定外の理由で採用が決まった。警備員の応募は高齢者が圧倒的に多く、ユウはダントツで若者なのだ。
警備員としての勤務初日。ユウは、身体に馴染まない、少しゴワゴワとした濃紺の制服を着用し、頭に金色のエンブレムがついた帽子を被り、腰に無線機を装着して、巨大な複合ショッピングモールの正面入口に立っていた。
「いらっしゃいませ」
彼は、ぎこちなく、しかし精一杯の声を絞り出して、自動ドアをくぐる客たちに一礼した。小さな子供が、風船を手に持って目の前を走り抜けていく。若いカップルが、今日の晩御飯のメニューを巡って、微笑ましい口喧嘩をしている。道に迷ったお年寄りが、「あの、ユニクロはどこかしら」と、頼りなげに声をかけてくる。誰も、彼の過去を詮索しなかった。世界は、少年時代のあの飼育小屋の前で彼を糾弾したクラスメイトたちのように、敵意と悪意に満ち満ちた場所ではなかった。ただ、それぞれの人間が、それぞれのささやかな生活を営んでいる。
昼休み、モールの裏手にある従業員用のベンチでユウが腰掛けていると、どこからともなく、いつもの着崩れたスーツ姿のミナがふらりと現れた。その手には、コンビニのシュークリームが二つ。。
「はい、就職祝いです」
二人は並んでベンチに座り、シュークリームにかぶりつく。カスタードと生クリームの甘さが体に染み渡る。今日のミナは計測装置を持っていない。仕事できたわけではないようだ。
「佐伯さん、普通のおじさんになりましたね」
と、ミナが天気の話をするようなテンションで言った。普通のおじさん、それは褒め言葉なのだろうか?
「まあ……あなたのおかげで、引きこもりではなくなりましたね。それで『世界のゆらぎ』とやらは、少しはマシになったんですか?」
「ええ。完璧です。佐伯さんが社会の中で激しく葛藤し、一歩を踏み出すたびに発生した莫大な確率のノイズが、未来予測AIの計算グリッドを完全に狂わせました。収束しつつあった未来の世界線は、再び無数の可能性の枝葉を伸ばして、豊かに広がり始めています。世界の硬直化は、阻止されました」
「本当に?」
「たぶん」
「多分? 多分じゃこまります。こっちは理不尽な目にあってきたんだから」
ミナは可笑しそうにクススと笑うとベンチからすっと立ち上がった。その瞳が、午後の柔らかな木漏れ日を反射して、一瞬だけ寂しげに揺れた気がした。
「未来っていうのは、誰にも、最後の最後まで確定させることなんてできないから面白いんです。だから、『たぶん』でいいんです」
ミナは衣服の埃を払うと、ユウに向かって小さく手を振った。
「じゃあ、佐伯さん。私はこれで。次の現場が私を待っていますから」
「え? 次の現場?」
「はい。今度は、ちょっと大仕事になりそうです」
ミナは、どこか遠い世界を見つめるような視線で言った。
「あなたは人類を救った。そのことを忘れないでくださいね」
これは別れの挨拶なんだ、とユウは直感した。そして、焦った。
「また、会えますか?」
ユウの質問には答えず、ミナは「じゃ」と片手を上げて去っていった。その後、ユウの予感は的中し、彼女は二度とユウの前には現れなかった。
それから、季節は巡り、凍てつくような冬の夜。仕事帰りの佐伯ユウは、東京宝くじドリーム館に向かっていた。会場には、実に多様な人間たちが集まっていた。仕事帰りのくたびれたスーツを着た会社員。祈るようにくじを握りしめている老人。デートのついでに、冷やかし半分で立ち止まった若いカップル。みんなが、それぞれのささやかな欲望と、期待と、未来への不確かな希望を胸に抱きながら、ステージの壇上を見つめている。
ステージの中央には、「夢ロトくん」が、スポットライトを浴びて厳かに鎮座していた。内部には、色とりどりの白い球たちが、静かにその時を待っている。
司会者のファンファーレとともに、抽せんの開始が宣言された。ドームの下部から、強烈な気流が噴き出す。ゴオオオ、という物理的な風の音が会場に響き、白い球たちが一斉に回転を始めた。ぐるぐると、激しく。無数の偶然が、確率論の海のなかで激しく混ざり合う。
ユウは、静かに目を閉じた。かつてのように、全神経を集中させて、脳内のオーケストラを起動させようとした。球が衝突する。数字が選択される。
だが――。ユウの脳裏には、もう昔のような「数字の音楽」は一切聞こえてこなかった。数字は、単なる数字として、ただの物理現象としてそこに存在していた。
抽せん機が、次々と数字を吐き出していく。
「――05」
「――11」
「――23」
「――27」
「――30」
「――36」
会場から、大きな歓声と、ため息が同時に沸き起こる。ユウはゆっくりと目を開けた。音楽は聞こえない。だが、彼には明確に理解できた。この世界は、今も、そしてこれからも、予測不可能な偶然の波に満ち溢れ、豊かに揺らぎ続け、理不尽や不条理を繰り返す。それでもきっと大丈夫だろう。自分も、たぶん人類も。
完
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