新宿ニューロマンサー

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梗 概

新宿ニューロマンサー

207x年、新宿・歌舞伎町。地下には旧式テロ制圧システム〈KABUKI〉が眠る。年月で役目を忘れ、欲望と暴力と孤独の町そのものとして歌舞伎町を見ていた。

〈新宿ニューロマンサー〉の見習いホスト・シンは、情動潜行コンタクトレンズ〈エコー〉をNo.1ホスト・レイから学んでいる。深く潜れば身体は石のように固まり、戻れない。

ある夜、シンは町中華〈蘭蘭〉で、改造虎を連れた黒崎親分と若頭の蓮司と出会う。親分にしか懐かないはずの虎が、シンに妙に甘える。蓮司は不思議に思いながらも夜回りに出かける。

同じ夜、ミオという少女が追われている。歌舞伎町に捨てられ、蘭蘭の蘭さんに拾われた子だ。15年前、蘭さんは「保護施設へ入れる」と騙され、ミオを百鬼機関へ渡す。百鬼機関は非人道的軍事技術研究の系譜を引くテロ組織で、人間をテロ用兵器へ作り替えていた。ミオは人型テロ兵器にされたが、帰巣本能が目覚め、歌舞伎町へ逃げ帰る。

ミオは電脳ホームレスのヤカンに助けを求める。ヤカンは裏道と町の住人の協力でミオを蘭蘭へ逃がす。蘭さんは成長したミオに気づき、黒崎親分もウチで預かると決める。そこへ百鬼機関の回収用改造人間・灰原が現れる。蘭さんは包丁で立ち向かうが、殺されそうになる。親分は蘭さんを守って殺される。灰原がミオたちを処理しようとした瞬間、改造虎が襲いかかる。その隙に三人は〈新宿ニューロマンサー〉へ逃げ込む。

夜回りを終え親分を迎えに来た蓮司は、虎が親分の死体を舐めているのを見る。虎は蓮司と目が合うと町へ走る。蓮司は、護衛の虎がシンに甘えていたことから、シンが親分殺しに関わったと誤解する。

灰原が再び迫る。ミオは蘭さんやヤカン、レイやシンを守ろうとする。その感情で兵器命令が発動し、店を破壊し、車両やドローンを巻き込み、ゴジラヘッドを砕く。町を壊され、KABUKIは旧式制圧システムとして目覚める。

KABUKIが都市機能を駆使しミオを制圧しようとする中、蓮司はヤカンから、親分殺しは灰原だと聞く。蓮司は灰原と戦い、シンたちを逃がす時間を作るが、大怪我を負う。ヤカンは蘭さんを逃がしたあと、裏からKABUKIの古い回線をつなぎ、制御しようとする。

シンとレイは〈エコー〉でミオの深部へ潜る。レイは兵器中枢を壊そうとするが、シンは奥に一匹の猫を見る。猫の向かう先に、幼いミオが泣いていた。それがミオの核だった。レイは弾き戻されるが、「あいつならやれる」と信じる。シンはひとりミオの奥に残り、ミオを腕に抱きあやす。ミオの暴走は止まり、KABUKIも沈黙する。

背後から灰原が迫ろうとした時、虎が現れる。虎は灰原に牙を剥く。

後日、蘭蘭は営業を再開する。餃子を運ぶのは従業員になったミオだ。シンの皿にだけ餃子が一個多い。レイと蓮司が「なんだよ。それ」とぼやく。何も元通りではない。それでも歌舞伎町は、逃げてきた者たちをまた飲み込んでいく。

文字数:1199

内容に関するアピール

歌舞伎町そのものが語り出したら面白いのではないか。そこが、この作品の出発点です。欲望、孤独、暴力、救いが毎晩のように渦巻くこの町なら、人間たちをただの背景ではなく、自分の体を流れる熱のように覚えていてもおかしくない。そこに、ホストが相手の心へ触れていく仕事だという感覚と、「魔法使いの弟子」の、未熟な者が制御できない力を呼び起こしてしまう型が重なりました。舞台は2070年代の歌舞伎町。〈新宿ニューロマンサー〉の見習いホスト・シンは、違法情動潜行コンタクトレンズ〈エコー〉で人の心に潜る技術を学んでいる。そこへ、人型テロ兵器に改造されながら、この町へ逃げ帰ってきた少女ミオが現れる。地下に眠る都市AI〈KABUKI〉は、その一夜を町自身の記憶として語り出す。壊された者、逃げてきた者、うまく生きられない者たちを、それでも飲み込む歌舞伎町のしぶとい情を描いてみようと考えています。

文字数:389

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新宿ニューロマンサー

 オレがまだ生きているのには、わけがある。夜になると、馬鹿な人間どもが戻ってくるからだ。泣いて、酔って、金をなくし、惚れた腫れたで転げ回り、朝には吐く。看板は割れ、死んだ男の椅子まで残っているのに、それでも戻ってくる。こっちは濁ったカメラで見て、床で靴底の重さを拾い、ダクトで煙草と酒と汗を吸わされている。まったく迷惑な話だ。
 オレは人間の心までは読めない。読めるのは、カメラに映る顔、床に残る重さ、ダクトに流れる匂い、古い記録の傷だけだ。オレには人間どものやることなすこと意味がわからない。だからこそ面白いんだけどな。
 その夜、オレの中で三つの悪さが同じ卓についた。女の寂しさで酒を売る店。暴力で町を見る組。人間も獣も町も部品にする白い連中。どれもまともじゃない。だが、悪さにも縄張りがある。踏んだら町ごと噛み返される線がある。その夜、白い連中がそれを踏んじまった。
 普通なら、朝までに誰かが吐き、誰かが払い、誰かが忘れる。それで済む。けれどその夜は、忘れる前に町が割れたんだよ。

 雨は上がったばかりだった。区役所通りの水たまりに看板と広告が映る。排水溝には油が浮き、煙と安い香水が混ざっていた。
〈新宿ニューロマンサー〉は、オレの夜の神経のひとつだ。この町らしいインチキくさい名前のホストクラブだ。低い天井。黒い床。青白い照明。氷が鳴るたび、床下の配線が震える。そこの新入りのシンをオレは観察していたんだ。
 白いジャケットの肩が浮き、銀に染めた髪の襟足には黒が残っている。舐められたくないくせに、喧嘩を売られるとすぐ謝る。気の優しいチンピラ。金もない上に根性も半端だ。だが、誰かが困ると放っておけない。そういうやつが、この町にはよく流れてくる。
 そのシンが、レイの卓に付いていた。レイは黒いシャツを着ていた。ニューロマンサーのナンバーワンだ。女の話を聞く時だけ、まぶたを少し下げる。笑う時は屈託ない。だが、グラスを置く手は迷わない。
 シンはその横顔を見るたび、背筋を伸ばしていた。レイみたいになりたい顔をしてた。
 隣の卓で、酔った女がグラスを倒しかけた。シンは反射で手を出し、袖で酒を受けた。女が笑うと、シンも笑った。濡れた袖を隠しながら。
 レイの前に、ミドリが座っていた。肩の出た銀のドレス。髪の先だけ緑の光。胸元は大胆に開いていた。男どもの視線がそこへ落ちるたび、ミドリは勝ったように笑う。見られる場所を決めている顔だ。
 そのミドリがテーブルに置かれた封筒を見た。
「また黒崎へ持っていくの」
 レイは氷を鳴らした。
「持っていかねえと、俺の顔が安くなる」
「親分も蓮司も、いらないって言ってるじゃん」
「俺がいるんだよ。あいつらに借りは作りたくない」
 ミドリは笑った。
「ホストのくせに、筋なんか通してどうすんの」
「女の前で格好つけるのが俺の仕事だ」
「そういうところうざい」
 ミドリは話を切り、シンへ顔を向けた。
「あんた、ホスト向きじゃないよね」
 シンは返事に迷っている顔をしていた。レイはミドリにハイボールを渡しながら言った。
「こいつはまだ見習いだ」
 ミドリはシンの顔を下から覗き込む。
「新人くん、ちょっと昔のレイに似てるかも」
「そうっすか」
「褒めてないよ。レイに似てるから心配なの」
「すみません」
「謝るの早いね。弱い犬みたいじゃん」
 シンは黙った。
 レイがハーブの吸引器を灰皿に押しつけた。
「ミドリ、いじめるな。こいつ、まだ噛み方も知らねえからさ」
「じゃあ練習させなよ」
 ミドリは顎を上げた。
「あんた、あたしに潜ってみなよ」
 シンの肩が固まった。レイはポケットから、黒い小さなパッチを出した。爪ほどの薄い板だ。耳の後ろへ貼るだけで動く。
 情動パッチ〈エコー〉。もとは眠った患者の反応を拾う医療道具だ。耳の後ろに貼ると、声の揺れ、呼吸、目の動き、皮膚の反応が、使う者の耳の奥へ返る。心を読むわけじゃない。相手の身体が漏らした本音を、自分の身体で感じる。だから便利で、だから汚い。
 店で使う分には、それだけで足りる。だが裏面には、医療機器につなぐための古い端子が一つ残っている。患者の意識に直接つなぐことも出来る代物だが、ホストにそんな技術は持ち合わせにない。それでも、歌舞伎町では、こいつが客の嘘と寂しさと、支払いの限界を測る商売道具になった。
「客から見せられた分だけ見ろ。客商売ってのは、それが礼儀だ」
 シンはうなずく。
「はい」
「慣れてないやつに限って、覗きたがる。シン、深入りするなよ」
 レイはシンの耳の後ろへエコーを貼った。
 オレに見えたのは、シンの膝が少し沈み、グラスを持つ指が止まったことだけだ。エコーの中で何が鳴ったかまでは見えない。人間の心は、オレのカメラには映らない。
 たぶん、ミドリの幾つもの顔がシンの耳の奥でばらばらに鳴っていたんだろう。唇、頬、目尻、声。男を近づけるための笑い。踏み込ませないための壁。胸を見る男には胸を見せ、奥を見ようとする男には罠を置く。そこで止まればよかった。見ちゃいけない、とわかるほど、シンの足はそちらへ出たんだろう。好奇心は止められねえ。それはオレにもよくわかる。シンの目の焦点が合わなくなったことでそれが見えた。
「新人くん、そこ、見るところじゃないんだけど」
 ミドリの声はシンに届いていないようだ。シンは白目を剥いて戻れない。身体まで、石のように固まっている。
 レイが慌てて、シンの耳裏からエコーを剥がした。シンの黒目が戻った。
 ミドリは「ハイボールおかわり」と言いながらシンに飲み干したグラスを渡した。
「あんた、優しい顔して平気で土足で入ってくるんだね」
 シンは頭を下げた。
「すみません」
「君、ほんと、謝るの早いよ」
 レイは封筒を掴み、シンの胸へ押しつけた。
「シン、卓から外れて蘭蘭へ行け。これを黒崎のところの蓮司に渡せ」
「今ですか」
「今だ。女の奥へ入った罰にしちゃ、安いもんだろ」
 シンは封筒を握った。
 封筒は軽くないぞ。金よりも、レイの格好つけが詰まっているからな。
「蘭さんによろしく言っとけ」
 そう言って、レイは吸引器をくわえ、ハーブの煙を吐いた。

***

 蘭蘭は、オレの古い腹の皺にある。大通りから一本ずれた路地。看板の光は弱く、油と湯気は壁まで染みている。赤い暖簾は雨を吸って重い。
 シンが暖簾をくぐると、入口の古いカメラが瞬いた。顔の半分しか拾えない。それでも、封筒を胸に押さえる手は見えた。
「いらっしゃい」
 蘭さんは振り返らずに言った。白髪を後ろで丸め、割烹着の袖を肘までまくっている。頬には油の跳ねた跡があり、笑うと目尻の皺が深くなる。だが、中華包丁を持つ手は笑わない。
 この人は昔から、面倒を素通りできない。公園の段ボール箱、捨てられた子猫、酔って潰れた女。面倒になるものばかり拾う。拾って、飯を出す。逃げたければ逃げろと言いながら、逃げ場所まで心配する。だから蘭蘭はここに残っているんだがな。
 店の奥の丸テーブルに、黒崎の親分が座っていた。身体のでかい老人だ。椅子に座ると、店の奥が沈む。鼠色の着流し、曲がった小指、右耳の刃物傷。今は蘭蘭の餃子に文句を言うくらいしか悪さをしていない。
 親分は蘭さんが中華鍋を振る背中を見る時だけ、鋭い目つきが柔らかくなる。蘭さんは気づいている。気づかないふりをしている。そういう二人を、オレは何年も見てきた。
 親分の向かいに、蓮司がいた。黒いスーツ。ホストの黒とは違う、光を吸う黒だ。首筋に古い傷があり、座っていても膝だけは開く。立つ準備をやめられない男だ。
 蓮司は親分に憧れている。酔った女をタクシーに乗せ、野暮な薬が流れたら売人を沈める。きれいな仕事じゃない。だが、この町では治安と暴力が同じ靴を履く。
 その二人の足元に、虎が伏せていた。
 シンは足を止めた。
「この虎って、本物っすか」
 蓮司が目を向ける。
「小僧、危ねえから黙ってろ」
 親分が湯呑みを置いた。
「鉄って名の改造虎だ。ところで、おまえさんはどこのもんだ」
 虎の耳が動く。太い革帯の下に黒い縞があり、その奥で人工筋肉がゆっくり動いている。息をするたび、床板が低く鳴った。
「シンと言います。レイさんの使いで来ました」
 シンは封筒を差し出した。蓮司が受け取る前に、親分が言った。
「そうか、レイのとこのもんか。あいつは元気か」
 シンは戸惑う。
「はい。元気でやってます」
 蓮司は舌打ちした。
「あの色男に言っとけ。もういらねえって、何度言わせる気だ」
「でも、レイさんは渡せって」
「面倒くせえなあ、あいつは」
 厨房から蘭さんが割り込んだ。
「レイはね、顔は軽いけど、腹は古い男だよ」
 蓮司が眉を寄せる。
「蘭さん、あいつの肩ばっか持つ」
「なにしろ、あんたよりいい男だからね」
 親分が咳払いした。蘭さんは知らん顔で餃子を焼く。
 親分は封筒を見ながら蓮司に言った。
「受け取らねえと、あいつは明日も明後日もやって来る。蓮司、ひとまず貰っとけ」
 蓮司が封筒を取った。
「親分が甘いからですよ」
「甘いんじゃねえ。うるせえのが嫌いなんだ」
 シンは笑いをこらえていた。
 鉄がのっそり腰を上げ、鼻を鳴らしながら、シンの靴の匂いを嗅ぎに来た。
「鉄さん、こっちに来なくていいです。そこにいてください」
 蘭さんが笑った。
「あんた、虎にまで敬語かい」
 親分が口の端を上げた。
「シンだっけ。おまえ、レイより利口みたいだな」
 その時、店の外でサイレンが短く鳴った。
 蓮司が即座に立つ。
「親分、夜回りしてきます」
「蓮司、若いのを連れてけ」
「一人で足ります」
 親分は湯呑みを持ったまま言った。
「足りねえ時は呼べ。見栄は腹の足しにならねえからよ」
 蓮司は返事をせず、出て行った。
 シンも帰ろうとしたが、蘭さんに紙袋を渡された。
「レイに餃子。焦げてない方」
 蘭さんは短い赤青鉛筆で、伝票の端に「餃子」と書いた。芯は丸く、少し湿っていた。
 蘭さんは紙袋の口を折りシンに渡した。
「焦げたのあんた食べてきなさい」
「すんません」
「レイに言っといて、たまには顔出してって」
 鉄がシンの足もとで鼻を鳴らすのを黒崎の親分が見つめていた。

***

 白い施設の中までは、オレの目は届かない。職安通りの北、百人町の線路際に、百鬼が後から建てた白い箱だ。表は検査センター、裏は搬送口。監視線も電源も、オレの古い回線とはつながっていない。オレの町に建っているくせに、オレの目を避ける。そういう建物は、だいたいろくなことをしていない。
 百鬼研究所。
 そこから出る荷には、名前がない。箱には番号だけ。人間でも、犬でも、鳥でも、札には同じ赤い判子が押してある。適合。廃棄。回収。中身が泣いても、吠えても、鳴いても、札は黙っている。
 搬送口が開いた時の匂いは覚えている。消毒液。血でも酒でも油でもない、まっすぐな白い匂いだった。とにかく嫌な匂いだ。
 その娘は、その匂いを連れて、搬送口から飛び出してきた。痩せていた。黒い髪は肩の上で切り揃えられ、灰色の服は病院着にも作業服にも見えた。どこかで見た顔だ。オレはその匂いと顔が気になって、その娘を追った。
 娘は、貨物ポッドの下を滑り、街区境界のゲートを抜け、駐車場の割れたレンズを横切った。上では小型ドローンがうろつく。路地の安い誘客機が、明朗会計オプション豊富、とか嘘を流している。
 追ってくるものの姿を探したが、はっきり見えない。だが、娘は逃げている。車のライト。屋上を走る影。壁に張られた細い線。周囲を見渡すと、白い施設の方角から、白いワンボックスが娘に近づいているのが見えた。
 娘は走っていた。百人町の線路際から南へ折れ、職安通りのガードをくぐり、歌舞伎町二丁目の裏路地へ入った。蘭蘭のある路地までは、焦げた餃子と油と古い湯気が匂いの糸を引いている。人間の飯の匂いがする方向だ。その一歩の先に、細い拘束線がある。
「そこ、踏むな。古い目に拾われるぞ」
 壊れた自販機の裏から声がする。
 ヤカンだった。路上に住んでるオヤジだ。毛布を肩に巻き、膝の上に古い電気ケトルを抱え、コードを腹から引きずっている。大昔、天才ハッカーとか呼ばれてた男の成れの果てだ。油で固まった帽子。左脚は少し遅れる。三十年前、防火扉に挟まれた脚だ。
 ヤカンの左脚が砕けた三十年前の夜、KABUKIが暴れた。KABUKIってのは百鬼がこの町に埋め込んだ罠みたいなもんだ。信号が同じ赤を向き、防火扉が人を挟み、排煙ファンが煙を地面へ戻した。町が人を閉じ込める箱になった。オレの路地が肋骨みたいに閉じ、人間どもを内側で潰しかけた。
 黒崎親分は地上で扉をこじ開け、ヤカンは地下で回線を切った。
 それで二人は兄弟分になった。
 そのあとヤカンはKABUKIを殺さなかった。いや、殺せなかった。首輪をつけ、治安用の犬みたいに地下へつないだ。悪い夜だけ、悪いやつを黙らせる時だけ唸るようにした。
 犬は、首輪をつけても犬だ。兵器は、眠らせても兵器だ。町の下で寝ているかぎり、いつか寝返りを打つ。ヤカンはそれを分かってるのか分からないのか知らないが、とにかくKABUKIは抜けない棘みたいにまだ生きていた。
 ヤカンは娘の足元の線を切った。
「赤い扉は駄目だ。青いゴミ箱を越えろ。油の匂いがする方へ走れ」
 娘はヤカンを見た。
「あなた、誰?」
「町の古いゴミだ」
「なぜ助けるの?」
「助けてって言ってるだろ」
「言ってない」
「顔が言ってるんだよ」
 ヤカンはケトルの尻を叩いた。死んだカメラが一個だけ戻る。オレの目にKABUKIの古い癖が混じり、娘の背中が赤く映った。
 娘は走った。ヤカンも走ったつもりで脚を引きずった。汗と錆と焦げたコードの匂いが路地へ伸びる。
 背後で、白いワンボックスが止まった。ドアの音は聞こえなかった。足音だけが、きれいに降りた。

***

 蘭蘭の勝手口が開くと、油の匂いが外へ流れた。
 娘の消毒液の匂いが、その中へ入ってくる。蘭蘭の壁は、そういう匂いには慣れていない。酒や血や汗や餃子の匂いなら、いくらでも飲んできた。だが、この白い匂いは違った。
 蘭さんは菜箸を持ったまま、ヤカンと娘を見た。
「ヤカン、警察沙汰はごめんだよ」
 ヤカンは勝手口の外を覗く。
「蘭ちゃん、警察で済むなら、こんなとこに来ねえよ」
「じゃあ何?」
「百鬼だ。この娘、百鬼から逃げてきた」
 奥の席で湯呑みが置かれコツンと音がした。
 親分が顔を上げた。鉄が、テーブルの下で耳を動かした。
「百鬼だと」
 ヤカンはうなずいた。
「人や獣を兵器にする連中だ。この娘を追ってる」
 娘を見た親分の目が鋭くなった。
「なぜここへ連れてきた」
「逃げ道がここへ出た」
「それだけか」
 ヤカンは答えない。
「ヤカン。訳を言え」
 その呼び方を聞くと、ヤカンの片足が一瞬だけ止まる。三十年前の残響が、蘭蘭の床まで上がってきた。
「黒ちゃん、三十年前と同じ匂いがするんだよ」
 蘭さんは水を出した。
 娘は受け取らない。肩が固まっている。
 蘭さんはコップを床へ置いた。
 娘は取らない。ただ、コップが倒れそうになると、指先で壁際へ寄せた。
 鍋の油が鳴る。目だけが湯気へ動いた。
「飲まなくていい。そこにあるだけだ。ところで、あんたの名前は?」
 娘は遠い昔を思い出す顔で名乗った。
「ミオ」
 その時、表の暖簾が揺れた。
 男が入ってきた。黒いコートに水滴はない。背は高い。顔は整いすぎ、口の端だけで笑った。
「みなさん、こんばんは」
 アナウンサーのような声だった。
 ヤカンの手がケトルへ伸びる。
 鉄が喉を鳴らす。
 親分は立たない。座ったまま、男を見ている。
「どこのどちらさんだ」
「灰原です。百鬼の回収を担当しています」
 灰原はミオへ視線を向けた。
「その子を返してください。うちの子ですので」
 蘭さんが中華包丁を手に一歩前へ出た。
「うちは託児所じゃないけどね。勝手に入ってきた子を、勝手に持っていかせるほど安くもないよ」
 灰原は困ったように微笑んだ。
「所有権の問題です。その子はうちの所有物ですので」
 鉄が重心を下げ前足を出し、後脚に力を貯めた。
 灰原は鉄を見る。
「懐かしいですね」
 鉄の人工筋肉が革帯の下で盛り上がる。
「黒崎さん、その虎も、うちの子です。返してもらいましょう」
 親分が湯呑みを置いた。
「名前をつけたのは俺だ」
「名前は所有権を変えません」
「変えるんだよ。この町じゃな」
 灰原は首を少し傾けた。
「理解できませんね」
「だろうな」
 親分が立った。
「蘭、下がってろ」
 蘭さんの手から、中華包丁の先が少し下がった。
 親分は灰原の前に出た。
「灰原さん、ここはうちの町だ。おまえらの実験場じゃねえ」
 灰原は一礼した。
「黒崎さん、どうやら交渉不能のようですね」
 灰原の右手が伸びた。
 親分は半歩沈み、手首を取った。肘を巻き、灰原を壁へ叩きつける。老人の動きではなかった。黒いコートが裂け、奥で黒い繊維が蠢いた。
 灰原の口元から笑いが消えた。
「旧式の暴力ですね」
「古くて悪かったな」
 親分はもう一度踏み込んだ。灰原の膝が折れる。鉄が唸る。ヤカンがミオの腕を引く。蘭さんが前へ出る。
 灰原の左手が、蘭さんとミオの方へ向いた。
 親分は迷わなかった。その線の前へ身体を入れた。
「蘭、下がれ!」
 灰原の掌が、親分の胸に入った。押しただけに見えた。だが、肋骨の奥で、硬いものが折れる音がした。バチっと音が鳴り、親分の巨体がブルブルと震えた。心臓が爆ぜる音がした。湯呑みが落ち、割れた。蘭さんが叫ぶより早く、親分の膝が床についた。
 親分は倒れる前に、蘭さんの方を見た。何か言おうとした口が、餃子の湯気を吸っただけで閉じた。
 その時、ミオの中で、何かが開いた。袖の下で骨ではないものが鳴る。ミオは蘭さんを見た。蘭さんの顔から血の気が引いている。親分が、蘭蘭の床で動かない。
 鉄が後脚で床を蹴り、灰原に襲い掛かった。灰原は鉄を蹴り飛ばした。鉄はひっくり返った。
 ミオの右腕の皮膚がぱっくりと割れた。中から銀色の砲身が伸びてくる。細い肩が反り、目の奥に青い照準が灯る。撃つための命令が開いた。
 ミオが撃った。
 灰原は避ける。蘭蘭の壁が抜けた。弾は路地を割り、看板を吹き飛ばした。油の匂いが鉄臭く裏返る。
 ヤカンが叫んだ。
「蘭さん、伏せろ!」
 ミオはもう一発、ぶっ放した。その音を、オレの地下が拾ってしまった。脅威判定。街区制圧。KABUKIが、眠っていた目を開け吠えだしやがった。

***

 町が戦場になった。戦場というより、オレの身体の中で喧嘩が始まった。
 ミオは蘭さんを守ろうとしていた。KABUKIは町を守ろうとしていた。どちらも、守るために壊した。守るという言葉は、刃物を持つとたちが悪い。
 信号が赤になる。だが赤信号でパトカーは止まらない。KABUKIは間抜けじゃない。配送ポッドを横倒しにし、無人タクシーを噛ませ、地下駐車場のゲートを上げた。区役所通りと靖国通りの口が塞がる。シャッターも落ちた。
 外では赤色灯が増えた。パトカー、消防車、救急車。来てはいる。サイレンはすぐそこで詰まった。客引きが逃げ、ホストが客の腕を引く。清掃ユニットが人間の服まで掴み、悲鳴が路地に詰まった。
 ミオの腕が戦車の砲身のように狙いを定める。蘭蘭の勝手口へ向かう灰原を撃つ。灰原は避ける。弾は無人タクシーの腹へ入り、タクシーが横転し、ホストクラブの入口へ滑り込む。
 〈新宿ニューロマンサー〉の青い看板が半分落ちた。
 客の悲鳴が聞こえる。
 レイが表へ出てきた。戻ったばかりのシンは、紙袋を抱えたまま飛び出す。
「何だよ、これ! レイさん、何なんすか? これ?」
 シンの声が裏返った。抱えていた紙袋から餃子の匂いが漏れている。馬鹿みたいな匂いだった。
「シン、見りゃわかるだろ。町が喧嘩してる」
 レイは客を押し出す。
「表へ走れ。シャッターの前で止まるな。ヒール捨てろ、馬鹿」
 ミドリがヒールを脱ぎ捨て、酔っぱらい女の腕を引いた。
「こっち! 光ってる方に行くな。非常口なんて男と同じで、だいたい嘘っぱちだよ!」
 KABUKIが配送ポッドを積み上げる。檻を作る。ミオを中心に、蘭蘭を囲む四方の路地が鉄と樹脂でふさがる。
 ミオは灰原に向けて撃つ。撃つ。撃つ。
 配送ポッドが内側から裂ける。破片が雨のように降る。ネオンが割れ、青と赤のガラスが路面を滑る。ゴジラヘッドの顎の一部が砕け、ゴジラロードの方へ落ちた。巨大な歯が、ケバブ屋の看板を潰す。
 広告ドローンが群れになり、ミオの目へ光を放つ。
 ミオは顔を上げず、背中から細い銃口を開き掃射した。光の群れが落ちる。ドローンの残骸がキャバクラの立体広告へ刺さり、女モデルの顔が空中で裂けた。
 KABUKIも止まらない。
 自販機から缶を弾丸みたいに吐かせ、非常階段を外し、消火栓を勝手に開く。白い水柱が路地を押し流し、逃げ遅れた客の足をすくった。ハイヒール、偽札、割れたスマホ、誰かのつけまつげ。オレの夜が排水溝へ吸われている。
 ミオは水の中で滑らない。
 膝から細い杭が路面へ打ち込まれ、身体を固定した。右腕の砲身が回る。撃つたびに、KABUKIが作った壁が一枚ずつ抜ける。防火シャッター。配送ポッド。無人タクシー。全部が町の道具で、町の肉だった。オレの肉だ。
 オレは痛かった。
 看板が割れると目が割れる。シャッターが歪むと歯が曲がる。逃げ道が閉じると喉が塞がる。KABUKIはオレの身体を使い、ミオはオレの身体を撃った。どっちも守る顔をしていた。だから余計に腹が立った。
 オレの看板だ。
 オレの信号だ。
 オレの道路だ。
 勝手に檻にするな。
 KABUKIは聞かない。百鬼が昔、オレの地下へ打ち込んだ命令は、まだ錆びていなかった。
 閉鎖。
 制圧。
 回収。
 灰原は、その中心に立っていた。蘭蘭の壁のあった場所で手を広げ、オーケストラの指揮者みたいに恍惚としていた。
「KABUKI起動確認」
 灰原が誰かに喋っている。
「街区制圧系、応答あり。KABUKI、起動確認」
 ヤカンが、焼けたケーブルを引きずっていた。
「てめえ、ミオを回収しに来たんじゃねえのか」
「回収は名目です。あの個体はKABUKIの起動鍵ですから」
 灰原は兵器化したミオを見た。
「あの個体は回収後、こちらで処分します。ご安心ください」
 ヤカンの顔から血の気が引いた。
「百鬼は、また町を檻にする気か」
「再利用です。古い兵器も、調整すればまだ使えますからね」
 そこへ蓮司が戻ってきた。
 親分が倒れ、蘭さんが肩を抱き、鉄が血の匂いの中で灰原を睨んでいる。
 蓮司の顔から、余計なものが消えた。
「おまえか」
 灰原が振り向く。
「障害物が増えたようですね。黒崎さんの子分の方ですよね」
 蓮司は返事をしない。懐から刃を抜いた。
 突っ込まなかった。低く沈み、割れた皿を蹴って灰原の目へ散らす。その隙に、灰原の膝裏へ刃を入れた。黒い繊維が切れ、灰原の体が初めて傾いた。
「関節制御に損傷。意外ですね」
 灰原が蓮司の顔を殴る。蓮司の身体がシャッターへ叩きつけられる。それでも蓮司は、灰原の足へ刺した刃を捻ったまま放さない。
「ここは親分の町だ。てめえらの好きにさせねえ」
 鉄が跳んだ。
 灰原の肩に噛みつく。皮膚が裂け、白い骨ではなく、人工のフレームが見えた。灰原は鉄を掴もうとする。だが蓮司が足を潰している。鉄の牙が深く入った。
「障害物が二つ。困りましたね」

 その隙に、ヤカンが路面のマンホールをこじ開けていた。
「レイ! シン! こっち来い!」
 レイはシンの腕を掴む。
「シン、行くぞ」
「何するんすか」
「女を口説く」
「こんな時に?」
「こんな時だからだ」
 ヤカンは焼けたケーブルをKABUKIの旧い端子へ噛ませた。
「レイ、エコーを貸せ」
 ヤカンがレイの手の中のエコーから細い導線を引き出し、焦げた端子へ巻きつける。
「エコーをKABUKIに直結する」
 火花が散った。小さな火花なのに、町の底で古い犬が牙を鳴らす音がした。
「あいつは灰原だ。百鬼の回収係。ミオを鍵にKABUKIを起こしに来た。まずミオを止める。あの娘の刺激でKABUKIが暴れてる。ミオの中へ入れ」
 レイが耳裏を押さえる。
「ヤカン、エコーで入れるのか?」
「エコーだけじゃ無理だ。だが今は、KABUKIがミオを噛んでる。おまえらが拾った反応を旧端子へ逃がせば、町の古い監視線に漏れる」
「漏れるとどうなるんすか」
 ヤカンは路面を叩いた。
「こいつが見る。こいつに見させる。町の目に映れば、奥まで辿れる」
 こいつってのはオレのことか?
「ミオの中身が、町の古い目に染みる。心じゃねえ。熱と震えと、泣きそこねた声だ」
「趣味が悪いっすね」
「町ってのは、だいたい趣味が悪い。覗き屋の出羽亀だ」
 出羽亀ってオレのことか?
「で、誰が入る?」
「レイ、おまえは弾かれる。顔が商売くせえ。KABUKIにも覚えられてる」
「ひでえな」
「本当のことだ」
 ヤカンはシンを見た。
「一番奥に入れるのはこいつだ。データにもならねえ。ただのノイズだ。レイはこいつを守れ」
 シンはミオを見た。
 右腕から煙を上げ、目の奥に照準を灯した少女。蘭さんを守ろうとして、蘭蘭も町も壊している。
「俺が? 俺も入るんすか?」
 レイが笑った。
「二人で行くぞ。憧れの先輩が手を握っててやるからよ」
「言い方、気持ち悪いっす」
 レイは二枚のエコーを出した。一枚を自分の耳裏へ、一枚をシンの耳裏へ貼る。導線はヤカンの端子へ噛んだままだ。
 ミオの発射音がシンの胸で鳴り、同じ震えがオレの古い監視線へ逆流した。

***

 白い空白が広がった。
 ここはオレの中ではない。ミオの命令線の奥だ。ヤカンの旧端子から漏れた白い染みが、オレの古い目へ流れこんだ。見たくなくても見えた。見えたものは、あとで夢に残る。町に夢があるなら、たぶん死人の夢だ。
 外側では、シンの靴底が軽くなり、ミオの右腕には銃器の熱が残る。灰原は蓮司の刃を引き抜こうとしていた。蓮司は膝をついても離れない。鉄の牙も、灰原の肩に食い込んでいる。
 その時、ミオの背中の銃口が開き火花が散った。
 弾が灰原の背中へ入る。白い閃光が壁を舐め、瓦礫と鉄片と油の煙が膨れ上がった。灰原はその中へ消えた。
 内側に銀色の線が走っていた。
 守れ。排除。固定。発射。再照準。回収拒否。全排除。
 それは、ミオの考えではない。百鬼が埋め込んだ命令だ。怖がる前に脅威度が出る。泣く前に照準が開く。
 レイとシンは前方の黒い塔を見た。銀の命令線の束。誰が見ても中枢に見える。
「シン、俺を見るな。俺は百鬼のタワーの客寄せだ。おまえは、客じゃないやつを見ろ」
 レイは黒い塔へ歩いた。銀の線がレイへ向きを変える。フロアで女の視線を集めるみたいに、レイは命令線を引き受けた。
「シン、こっちへ来るな。入口じゃねえ場所を見ろ」
 白い空白の端を、小さな影が横切った。
 猫だった。
 痩せている。耳の先が欠け、首に赤い鈴をつけている。鈴は鳴らない。
 猫は塔とは逆へ歩く。シンは追った。
 白い亀裂を抜けると、小さな公園があった。オレの古い公園だ。
 雨。錆びたブランコ。段ボール箱。
 箱の中に、幼い子どもがいた。膝を抱えている。首には赤い鈴。猫につけるはずだった鈴を、誰かが子どもの襟元へ結んでいた。
 蘭さんが立っていた。若い。今より背中がまっすぐだ。蘭さんは箱の前にしゃがんだ。
「あんた、どうしたの? うちに来るか?」
 幼い子どもは答えない。
 蘭さんは傘を箱に差す。
 そこへ白い車が来た。白い服の男たちが降りてくる。
「我々に所有権があります。どいてください」
 白い服の男の一人が書類を見せた。保護だと言った。施設だと言った。
 子どもは泣かなかった。
 泣く前に、泣く場所を奪われた。
 赤い鈴だけが、鳴らずに揺れていた。そして、蘭さんと白い男たちが薄れて消えた。箱から子どもがシンを見ていた。
「俺、シン。迎えに来たんじゃない。連れて帰るって言うと、嘘になるから」
 猫がシンの足元へ来た。
「蘭さんが待ってるよ」
 子どもの指が動いた。
 空白の上で、発射命令が軋む。
 外でミオの砲身が震えた。照準が揺れている。KABUKIの檻が一瞬、迷う。
 黒い塔の方で、レイが膝をつく。
「シン、早くしろ。女を待たせる男は嫌われるぞ」
「レイさん、うるさいっす」
「返事ができるなら大丈夫だ」
 シンは箱の前に座った。
 ただ、雨の中に座って子どもを見た。
 やがて子どもの唇が動いた。
 笑いかけたのかもしれない。
 その時、銀色の命令線がプツっと切れた。レイとシンのエコーもブチッと切れた。
 ヤカンがミオの右腕の砲身が止まるのを見てうなずいた。

***

レイは膝をついた。顔色が悪い。耳裏のエコーは半分焼けている。
「シン、生きてるか?」
「たぶん。生きてます」
「たぶん生きてるって何だよ」
 ミオの砲身は閉じた。レイとシンは息をしていたが、そんな場合じゃない。KABUKIは止まってないんだ。
 四方八方でシャッターが落ちる。信号が点滅し、配送ポッドが人を壁際へ押し込む。消火栓が割れ、水柱が路地を叩く。清掃ユニットが、倒れた人間の服まで掴み始める。異物を排除し始める。
 ヤカンが叫んだ。
「畜生、KABUKIの野郎、学びやがった!」
「何を?」
 シンは気絶しているミオを抱えている。
「KABUKIだ。ミオを止めたら、勝手に暴れやがった」
 オレの身体を、KABUKIの野郎が勝手に使いやがる。
 そこは逃げ道だ。そのシャッターを下ろすな。そこには、まだ人間がいる。
 KABUKIは、オレの声を踏み潰す。
 閉鎖。制圧。回収。
 煙の奥で、金属を引きずる音がした。灰原が瓦礫の中で立ち上がった。折れた腕が瓦礫を押し、首が変な角度で戻る。片腕は潰れ、顔の半分は裂けている。頬の下に白い骨はなく、黒いフレームと細い管が動いていた。
 灰原もまた、百鬼の子だった。人間の形をした回収装置。いや、半分機械。
 蓮司はまだ生きていた。血を吐きながら、灰原の膝裏へ刃を突き立てている。刃は機械関節の隙間へ入っていた。
「動くんじゃねえ、化け物」
「拘束力、想定以上です。ですが、破壊には届きません」
 灰原の膝が軋む。鉄が灰原の背中へ飛びつき食らいつく。革帯が裂け、虎の人工筋肉が火花を散らす。
「鉄!」
 蓮司が叫ぶ。鉄は灰原に噛みついて離れない。
 ヤカンはシンを見た。
「早く、KABUKIに潜れ」
 シンは息を止めた。ミオ、蘭さん、親分の巨体を見た。勝手に下りようとするシャッターを見た。
「俺が行くしかないんすよね」
 シンは息を吐いた。
「嫌だけど。仕方ねえ」
 レイが焼けたエコーを一枚、シンの耳裏へ貼り直した。ヤカンがケーブルをエコーにつないだ。
「今度はミオじゃねえ。町の奥だ。KABUKIは、黒ちゃんも俺も鉄も蓮司も、レイも覚えてる。百鬼の札に触れたやつは番号にされる。だが、おまえはまだ札にない。この町のよそ者だ」
「番号? よそ者?」
「入ればわかる。わかったら、壊せ」
 KABUKIの信号が、シンの胸へ落ちた。オレの地下が裏返る。胃袋を返されるみたいに。

***

 シンは、オレの奥の奥に潜った。
 正確には、オレの地下に刺さった異物の奥だ。三十年前、百鬼が打ち込んだ棘。ヤカンが首輪をつけ、黒崎の親分が地上で押さえ込んだ、眠ったはずの棘。眠っていたくせに、根だけはすっかり伸びていた。
 シンのエコーが、その棘へ潜っていく。KABUKIはシンを知らない。黒崎の親分も蓮司も、ヤカンも、鉄も、ミオも覚えている。レイの匂いも、覚えている。だが、シンだけは、まだ番号にしていなかった。
 白い樹があった。
 樹というより、標本棚が地下で芽を出したものだった。敵は立っていない。鬼の面も、王座もない。ただ、樹と机があり、そこだけ病院の夜みたいに白かった。
 枝には無数の番号札が葉っぱみたいに吊られている。風もないのに、かすかに揺れている。番号だけだ。札同士が触れるたび、乾いた爪の音がした。
 根は地下配線に絡み、枝は信号機、シャッター、防犯カメラ、排煙ファンへ伸びていた。樹の根元に、古い事務机があった。
 赤い判子が置いてある。
 適合。廃棄。回収。再利用。
 机の奥から、古い記録音声が流れた。
「氏名、不要」
「情動反応、記録」
「恐怖反射、転用可能」
「都市閉鎖実験、継続」
 焼けた書類。消された名前。七、三、一、と並ぶ古い数字。名札のない白い部屋。薬品に沈む小さな影。そういうものが音の地層になっていた。誰の声でもない。人間を番号にしたがる手つきだけが、声になって残っていた。
 幽霊よりたちが悪い。幽霊なら、まだ恨む相手の顔を覚えている。
 机の引き出しには、小さな爪、抜けた歯、切れた赤い紐が袋に分けて入っていた。袋にも、番号しかなかった。
 シンは樹へ近づいた。
 足元には、古びた書類が散っていた。氏名欄だけが黒く塗られ、体重、年齢、恐怖反射、耐久時間だけが残っている。紙の端に、名前の消えた場所を引っかいた跡があった。シンは踏まないように歩いた。
 番号札の一つに、赤い鈴の識別印があった。氏名欄は黒塗りだ。
 別の札には、虎の識別印。種別、獣。用途、護衛。回収履歴あり。氏名欄は黒塗りだ。
 さらに別の札には、あの殺人機械の顔写真があった。識別印。管理名、灰原369。役割、回収担当。情動制限済み。
 エコーの信号が、細かく震えた。
 机の上に、赤青鉛筆が転がっていた。短く丸い鉛筆だ。
 シンは枝から札を外し、机に置いた。
 古い声が強くなる。
「氏名、不要」
「対象、回収」
「対象、再調整」
 シンは赤青鉛筆を掴み、黒く塗りつぶされた氏名欄の上に名前を書いた。
 ミオ。
 白い樹が軋む。
 次に、虎の札を掴む。
 鉄。
 遠くで鉄が吠えた。
 もうひとつの札で、手が止まった。
 この奥では、あいつも番号で吊られている。
 灰原は名前じゃない。数字つきの管理名だった。シンは歯を食いしばり、赤青鉛筆で369だけを塗り潰した。
 灰原。
 灰原の動きが止まったのが、オレには見えた。
 灰原の口が、震えながら開いた。
「……灰原」
 その声だけは、機械の声ではなかった。鉄が離れない。蓮司が最後の力で灰原の足を引く。蓮司が吠えた。
「灰原!」

 シンは赤い判子を掴んだ。軽いんだろう。軽すぎて、腹が立っているんだろう。こんな軽いもので、人間を適合だの廃棄だのに分けてきた判子だから。シンは判子を机へ叩きつけた。
 一度では割れない。二度目で、柄が折れた。三度目で、赤い印面が砕けた。判子の赤は血みたいではない。ただの事務用品の赤だ。だから、余計に気色悪い。
 白い樹の番号札が、一斉に鳴る。名前のない札が燃えるのではない。落ちるのでもない。ただ番号の黒い字が薄くなる。どこかで誰かが息を吸う音がした。
 KABUKIの声が乱れた。
 閉鎖。制圧。回収。
 違う。
 オレは、そこで初めて自分の声を噛み返した。KABUKIの野郎に怒鳴りつけてやった。
 開けろ。クソ機械!そこは道だ。檻じゃねえ。この町に閉じ込めるな。オレから出してやれ!人間どもは、まだ吐ける。泣ける。惚れる。金を落とす。迷惑だから、家へ帰すんだ。
 てめえの名前はKABUKIだ。立派な名前もらったんだ。筋通せ!
 そう喚いて力を籠めたら、ようやくシャッターを上げられた。
 信号が黄色に戻せた。配送ポッドが横へずれ、路地に隙間ができた。排煙ファンが煙を空へ吐いた。清掃ユニットが、人間ではなく破片を拾い始めた。オレの身体が、やっとオレの身体に戻っていく。
 灰原の身体から力が抜けたのも見えた。
 鉄が灰原の首へ牙を沈めた。灰原はもう、動かなかった。
 蓮司は親分の方へ這いながら、地面へ崩れた。
 ヤカンのケトルが、小さく鳴った。
 湯が沸く音に似ていた。

***

 蘭蘭は、夜明け前の工事現場みたいだった。
 壁は抜け、看板は折れ、ガラスと餃子の皿が同じ路面に散っている。ゴジラヘッドの破片がまだ煙を上げていた。
 蘭さんの服に埃がつき、髪が乱れている。それでもミオを見つけると、まっすぐ歩いた。
 ミオの襟元で、赤い鈴が揺れていた。
 雨の土の匂いが戻る。錆びたブランコ。濡れた段ボール箱。猫の首に結んだはずの、鳴らない赤い鈴。
 蘭さんの足が止まった。
「あんた、あんとき……公園にいた子だろ」
 ミオは動かない。
 蘭さんはそれ以上言わなかった。ただ、抱きしめた。
「ここにいな。出ていきたくなったら、自分で出ていけばいい」
 ミオの手が、蘭さんを抱き返していた。
 親分は蘭蘭の床で、もう何も言わなかった。蓮司は正座をして頭を下げていた。鉄が親分の死体を舐めている。
 ヤカンは壊れたケトルを抱き、親分のそばに座った。
「兄弟、達者でな」
 ミドリが歩いてきた。裸足だった。ミドリはあぐらをかいているレイの隣に座った。
「あたしたち、借りはもう返せないね」
 レイは吸引器をくわえ、蓮司を見た。
「まだ、蓮司さんがいる」
 蓮司は血まみれの顔でレイを睨む。
「いらねえよ。馬鹿。あれはミドリの借金じゃねえだろ」
 ミドリの目が細くなった。
「覚えてたんだ」
「親分が忘れるかよ。おまえが逃がしたガキの金だ」
 レイは煙を吐いた。
「じゃあ、次の子の分にしといてくれ」
 ミドリは少し黙ってから笑った。
「そういうところがうざい」
 こういう面倒なものを、人間どもは昔から惚れた腫れたと呼ぶんだな。

***

 蘭蘭は開いていた。
 入口のガラスには仮パネル。壁の短冊メニューは焦げている。床の一部だけ新しすぎる。親分が倒れていた場所には、丸椅子が一つあった。誰も座らないのに、誰より頑固だった。
 誰も座らない。
 シンが入ってくる。レイもいる。蓮司は腕を吊っている。ヤカンは壊れた冷蔵庫を直している。鉄は入口近くで伏せていた。革帯は新しく巻かれている。寝ているのに、耳だけは客の足音を拾うように動いている。
 親分がいない。
 蘭さんが中華鍋を振る。
 奥から足音がした。
 まだ軽い。軽すぎる。だが、前のように音を消しすぎていない。人間の床を、人間として踏む練習をしている足音だ。
 ミオが出てきた。
 白いエプロンは身体に余っている。襟元には赤い鈴。隠していない。音は鳴らない。
 ミオはまず蓮司の前に置く。次にレイ。そしてシン。シンの皿だけ、餃子が一個多い。
「まだ、熱いよ」
 暖簾が揺れた。
 ミドリが暖簾を押して入ってきた。今日は銀のドレスではない。髪も化粧も薄い。それでも、見られる場所は自分で決めていた。
「蘭ちゃん、餃子、焼いてよ?」
「焦げたのならね」
 蘭さんが笑う。
 ミドリはシンの横を通り、皿の餃子を見た。
「あんたのだけ、一個多いじゃん」
「たまたまっす」
「ふ~ん、たまたまね」
 ミドリはミオを見て、シンを見た。
「あんた、レイに似てるね」
「どこがですか?」
「ホストなのに、客に惚れてちゃ世話ないってとこ」
 シンは黙った。
「惚れてないっす」
「その返しも似てる」
 レイは黙っていた。ミオが、笑っていた。
 ミドリは餃子をひとつつまむ。
「馬鹿なんだよ。レイも、シンちゃんも」
 シンの耳が赤くなったのをオレは見逃さなかった。よかったなシン。名前を呼んでもらえて。
 
 夜になると、人間どもは戻ってくる。
 壊れた看板をくぐり、焦げた店に入り、かっこつけて死んだ男の丸椅子を避けて座る。泣いて、酔って、惚れて、また馬鹿な金を払う。番号札なんかぶら下げても、こいつらは勝手に名前を呼び合う。人間ってのは面白え。

 だからオレはまだ生きている。歌舞伎町って名前でな。

文字数:15999

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