みずあわせ

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梗 概

みずあわせ

 惑星間移民船〈オリゼ〉は、人間を目的地へ運ぶための船であると同時に、人間を目的地の風土へ馴染ませる巨大な「蔵」のようなものでもある。
 目的地となる準テラフォーム惑星は、地表での生活が可能になりつつあるものの、その環境は地球由来の肉体には異質だった。そのため乗員たちは航行中、船内に放たれた菌類との共生によって、食事、水、空気、衣服、居住区の匂いや湿度を少しずつ目的地の環境へ近づけられていく。この段階的な環境調整は「馴化」と呼ばれていた。
 主人公は、それを管理する若い見習いである。師匠である老人は、馴化とは単なる身体適応ではなく暮らしの速度を変える過程だと教える。だが主人公には、その言葉が慎重すぎる箴言にしか聞こえない。船内では上層区画の住民が順調に目的地由来の食物や空気に馴染みはじめる一方、低層区画では古い設備と劣化した配給のせいで、子どもたちの免疫不全や睡眠障害が続いていたからだ。
 ある日、低層区画の子どもたちが重い馴化不全で倒れる。主人公はたまらず駆けつけようとするが、師匠は菌のいたずらな拡散は船全体の急激な馴化につながると警告する。しかし主人公は、目の前の苦しみを放置してまで守るべき「速度」など信じられない。師匠が船外点検で不在の夜、主人公は菌床を低層区画へ流す。
 効果は劇的だった。子どもたちの呼吸は安定し、眠れなかった者たちは深く眠り、食事を受けつけなかった身体は新しい配給を求めるようになる。低層区画には、これまで船になかった湿った土と若い葉の匂いが満ち、人々は主人公に感謝する。
 だが変化は止まらない。菌類は居住区の壁、寝具、衣服、人々の皮膚にまで広がり、船内を目的地の風土へ急速に近づけていく。乗員たちはまだ聞いたことのない雨音を夢に聞き、誰も歩いたことのない場所の名前を口にする。子どもたちは船内語にはない言葉で風の種類を呼び分け、地球由来の食べ物を嫌うようになる。彼らにとって目的地は、もはやこれから移り住む土地ではなく、帰るべき場所になりつつあった。
 師匠は馴化の進行を遅らせる処置を行うが、すでに変わった身体と感覚は元に戻らない。師匠は主人公を責めず、その行動は間違ってはいない、とだけ言う。主人公はその言葉に動揺する。自分は失敗したのか。それとも予想外の功名を得たのか。
 主人公は志願して、子どもたちが語る未知の風景、未到達の土地の匂い、新しく生まれた言葉を記録しはじめる。それは事故報告であると同時に、目的地の文化が船内で先に芽吹いた最初の記録でもあった。
 船は目的地の軌道に近づいている。主人公は眠るベッドの中で、かすかに湿った土の匂いを嗅ぐ。移住とは単に別の場所へ行くことではない。身体の中の水が、いつのまにか別の土地の水になっていることなのだ。自分が早めてしまった変化を過ちとも成果とも決められないまま主人公は次代の蔵守としてその記録を引き継ぐ。

文字数:1198

内容に関するアピール

 外で捕まえたり、店で買ってきたりした水生生物を、いきなり家の水槽に入れるのは避けたほうがよいそうです。もともといた場所との急激な水質の変化が、生体に悪影響を及ぼすためです。それを防ぐため、水槽の水を少しずつ混ぜて馴染ませる作業があり、アクアリウムの用語では「水合わせ」と呼ぶようです。
 本作は、惑星に移住するまでの物語です。準テラフォーム惑星という、地球とは異なる環境に身体を慣らすため、菌類の力を借りて、到着までに人体をゆっくり適応させていく。その過程を「発酵」のメタファーとして捉え、師匠と弟子である主人公には、環境を醸す「杜氏」のイメージを重ねました。
 適応が早いことは、本当に良いことなのだろうか。そう考えたことが、この作品の出発点です。適応の過程でしか得られない知識や感覚を、早すぎる順応は取りこぼしてしまうのではないか。本作では、そのような問いを意識しています。

 

文字数:388

課題提出者一覧