梗 概
垂線
その力は、十歳の夜に一瞬で手に入った。
彼は逃げず、目を逸らさず、聴き、嗅ぎ、空間を舐め、全身全霊でそれを受け止めた。
兄の振り下ろした日本刀、は彼の右半身を、頬から目、耳、腕、手のひら、足の裏まで、垂直に貫いた。
痛みの底で、兄の表情の奥にあるものを視た。
痛みより、乗り移られる感覚が恐怖だった。
どの家系にも、何代かに一度、怪物のような子供が現れる。
多世代に積もった家族の歪みを、その一人が一身に背負い、犠牲になることで、一族はかろうじて均衡を保つ。
兄は、選んでそうなったのではない。家系に産まれた子たちの配置から、星座のコンステレーションと同じように役割を負わされたのだ。
観る力。観たものを観なかったことにする、というあの家の呪文を、彼だけが破ってしまった。
観なかったことにされた家は、危険だ。
誰にも観られなかった暴力の記憶は、家の中で像となって膨れ、やがて壁を越えて漏れ出し、近隣の人々にまで感染していく。
観測士という仕事が生まれた。誰も観なかった家へ入り、その像を最後まで観て、一枚の記録に閉じ込め、漏れ出しを止める。
観測士とは、世間が代々となえてきた「観なかったことにする呪文」の、後始末をする者たちだ。
彼の力は増殖していた。年々、観える像は濃くなり、観るたびに右半身の傷が一筋ずつ深く、長く裂けていく。
像は記録用紙の外へ滲み、彼の部屋を、眠りを、起きている時間そのものを侵しはじめた。
足を引きずるたび右足裏の裂傷が砕けたガラスの夜を甦らせる。
観測のたび、彼は少しずつ死んでいた。観る力は、彼を生かしながら殺す力だった。
現実には身体に傷はない。けれど止め方を、彼の奥にいるイマージナルなボディ、精神の奥で右半身を裂かれたまま立つ分身は、知っている。
一本の垂直線を最後まで引ききり、像を縦に断ち割り、記録を完成させ、署名すればいい。
増殖は止まる。彼はその線を、もう三年、途中で止めている。
引ききれば、観たものすべてが自分のものになる。兄の悪魔も、自分の中で育った殴る者も、次の怪物は自分だという予感も、全部。勇気が、出ない。
十歳で二度、自分も日本刃を握った。二度斬り伏せられ、三度目を握る前に兄は失踪した。決着をつける相手は、もういない。
朝、増殖した像が縁を越え、生家がそっくり彼の部屋に立ち上がった。
雨戸の隙間から縦に射す光の筋。その中に、兄がいた。凶器ではなく、ただ幼く、笑顔で、こちらを観ていた。
観られていたのは、ずっと彼のほうだった。誰にも観られなかった怪物が、最後に、彼を観ていた。
記録紙で止まっていた線に、ペンを戻した。
兄が振り下ろした線。体を裂いた線。家を断ち割る線。三本は同じ一本だった。
彼は逃げず、十歳の夜と同じく全身全霊で、今度は自分の手で、最後まで引ききる。
右半身の傷が、いちどに灼ける。
引ききった。記録の中で、兄がまだこちらを観ている。彼は、目を逸らさない。
文字数:1192



