梗 概
Webフォント
カリグラフィを愛する貧乏デザイナーの新条は、新聞と広告の切り貼り風のWebフォントを趣味で一般公開していた。ある日、悪徳で知られる大物経営者の誘拐事件が発生。世間が騒然とする中、新条は犯行声明サイトに自分のフォントが直リンクで使用されていることに気づく。政治や事件には無関心な新条だったが、毎晩騒音を立てる隣人に苛立っていたことから、ある悪戯を思いつく。
新条は警察庁のIPアドレスからのアクセスに対してだけ、フォントファイルを動的に書き換えて配信した。犯人が指定した取引場所の倉庫の住所の文字に全く別のグリフを割り当て、警察のモニター上にだけ隣人の部屋番号が表示されるよう仕込んだのだ。狙い通り、隣人宅へ警察が突入する。壁越しに響く捜査官たちの怒号と大混乱を、新条は自室でほくそ笑みながら盗み聞きした。
新条は、この文字の魔法を使い、身の回りの困りごとを次々と片付けていこうと画策し始める。
文字数:394
内容に関するアピール
すみません、この先何も思いつきませんでした……
文字数:23
レフェリー探偵と世界一の経営者
サッカーの審判が腕時計を2つつけているのは、壊れたときのための予備ではないんです。
1つ目の時計は試合開始からの時間を計測するために使います。
そしてもう1つの時計は
◆
6月14日 6:00(UTC-5)
テキサス州でテスラ・サイバートラックが走っていた。目的地はSpaceXの巨大工場である。運転席に座る経営者のウーロンがハンドルを握らなくても、車体は二本の線の中に収まり続ける。
大きなガード下を通りかかったとき、一人の若者がホームレスをいじめているのを見かけた。ホームレスは地面に倒れ、体をくの字に曲げ、必死にお腹を守るように丸まっていた。若者がその腹部を蹴り上げた。
ウーロンは思わず車を止め、外に出た。
「おい、やめろ!」
ウーロンの顔を見た若者はポケットからスマートフォンを取り出し、レンズをウーロンに向けた。フラッシュが焚かれる。
「警察に通報するぞ」
「うるせえ!」
若者が掴みかかってきた。揉み合いになり、ウーロンがその腕を振り払った。
若者はバランスを崩して後方に倒れ、コンクリートの縁に後頭部を強打した。
鈍い音が響き、若者は動かなくなった。
慌てて駆け寄り、首筋に指を当てる。脈がない。死んでいる。
血の気が引くのを感じながら周囲を見渡す。目撃者はホームレス一人だけ。
「大丈夫だ。まだ息はある。僕が病院に連れていくから」
ウーロンはホームレスに嘘をついた。ホームレスは弱々しく頷いた。その左手首には安っぽいデジタルの腕時計が見えた。
若者のポケットを探り身分証を探す。あった。
「ダニエル、2005年生まれ。住所はサンバーナーディーノ」
サンバーナーディーノからここまで車で1日かけてきたのか。若者にはありがちだが。
財布には明後日テキサスで行われるワールドカップのチケットが入っていた。
ふと、ダニエルのAndroid端末が目に入った。
Google Photosの自動バックアップ機能はまずい。クラウドへ同期されてしまえば、警察が令状を手にGoogleに行くだけで、今の写真を見られてしまう。画面の右上を確認すると「圏外」の文字があった。
良かった。まだ同期してない。ウーロンは素早く端末の電源を切った。
傍らには古びた日本車が停まっていた。20年前のTOYOTA・カローラ。
「あれは、こいつの車か?」
ウーロンが尋ねると、ホームレスは頷いた。
ダニエルの遺体をカローラの運転席に座らせる。
どこかに死体と車を捨てにいかないと。
ふとダッシュボードを覗く。ガソリンがほとんどない。死体を乗せてガソリンスタンドは無理だ。
SpaceXの工場なら、工作機械用のガソリンが備蓄されている。自分が持ち出したところで誰も怪しまないだろう。
ウーロンはサイバートラックのトランクから試作車を運ぶ際に使ったカーカバーを広げる。車体をすっぽりと覆い隠すことができる、クラゲ状の大きな布だ。
そして「トウドーリー」と呼ばれる牽引用台車を取り出し、カローラとサイバートラックを連結させ、SpaceXの工場へ向かう。
守衛はウーロンの顔を見ると、なんの疑いもなくゲートを開けた。
給油スポットで、車をどこに捨てるか考えを巡らせた。
これからロケットの打ち上げがある。自分はその場にいなければならない。遠くへ捨てる時間はない。
そこで、ある天才的なアイデアが浮かんだ。
このままサイバートラックを完全自動運転で走らせるのだ。法律で禁じられているが仕方ない。運転手がいないと自動運転が起動しない制限がかかっているが、解除方法を自分は知っている。
場所は飛行場がある場所がいい。自分はプライベートジェットで先回りし、ダミーの工作をしてから戻ってくる。そうすれば完璧なアリバイが出来上がる。
ラスベガスにしよう。彼はサッカーを見に行こうと思ったら、途上のラスベガスで車上強盗に遭い、運悪く亡くなった。そんな設定だ。
ウーロンは目的地をラスベガスの繁華街から少し離れたダイナーの駐車場に設定し、ルート66に向けて送り出した。
オフィスに戻ったウーロンは仕上げに取り掛かった。
もしダニエルがSNSに「テキサスなう」などと投稿していたら、すべて台無しになる。
管理者権限でXのデータベースにアクセスし、ダニエルのアカウントを見つけ出した。月に一度程度しか呟かない地味なアカウントだった。幸い、今日の出来事については何も書かれていなかった。
もしアリバイを壊すような書き込みがあれば管理者権限で消すつもりだったが、その必要はなさそうだ。
かわりに、ウーロンはダニエルのアカウントに新しいポストを投稿した。
『ラスベガスなう』
データベースを直接編集できる者にとって、他人の投稿をでっち上げるのは容易なことだ。ウーロンがキーボードを叩いただけで、ダニエルが今ラスベガスにいるという事実が捏造された。
問題は他のSNS、例えばInstagram。ハッカーバーグの領地はXのようにいかない。
彼のInstagramを特定したい。わかっているのは2005年10月15日生まれのダニエルという平凡な情報だけだ。
ハッカーバーグに頼むか? いや、あいつに弱みを握られるのだけは御免だ。
ダニエルのスマホの機種名を検索した。2枚のSIMカードに対応したモデルだった。
引き出しから細いピンを取り出し、SIMトレーを慎重に押し出す。
出てきた2枚のSIMカードのうち、一枚はよくあるモバイルキャリアのもの。
そしてもう一枚。ウーロンが経営する「Starlink」のロゴが入ったSIMだった。
ウーロンの口元に、微かな笑みが浮かんだ。
◆
6月14日 15:00(UTC-5)
その9時間後。
カッリーナは、テキサス州ダラスにあるAT&Tスタジアムの関係者席に座っていた。かつて黄金の笛と呼ばれた名審判であり、現在はFIFA審判委員会会長を務めている。
カッリーナの鋭い眼光はピッチ上だけでなく、スタンドの隅々にまで向けられていた。彼の並外れた視野は、超満員の観客席の中に空白を見つけ出した。
あそこだけ席が空いている。この名勝負を見逃すなど同情に堪えない。
ボールがタッチラインを割り、プレーが途切れたとき、巨大ビジョンがVIPゲストの姿を捉えた。世界一の経営者、ウーロン・アックス。観客席がどよめいた。カッリーナは注意をピッチに戻しながらも、視界の端で彼の様子を観察し続けた。
そこへ、金髪の痩せた青年が近づいていく。その姿が映し出されると、観客の反応はさらに激しいものとなった。
もう一人の生ける伝説、ミルク・ハッカーバーグである。
二人の険悪な様子が伝わってきた。ウーロンはハッカーバーグに気づくと、露骨に顔を背けた。椅子に前のめりで座るウーロンに、ハッカーバーグが背後から怒鳴っている。
ウーロンが立ち上がり、ハッカーバーグを睨みつけた。
一気に加熱し、ついに二人は掴み合いを始めた。
いけない。
カッリーナは現役時代の反射で走り出した。乱闘は止めなければ。
たどり着いたときには、すでに泥沼の取っ組み合いが始まっていた。
「やめなさい。二人とも」
カッリーナは、振り上げられた拳の間に自らの体を差し込み、胸のポケットからイエローカードを取り出そうとする。しかし、もちろんそんなものはない。
次の瞬間、左右の頬に衝撃が走った。
視界に火花が散り、カッリーナの意識は急速に遠のいていった。
目が覚めると、スタジアム内の医務室のベッドに寝かされていた。
傍らには、バツの悪そうな表情で座るウーロンとハッカーバーグがいる。
二人は決して目を合わせようとせず、気まずい沈黙を保っていた。カッリーナが上体を起こすと、二人は申し訳なさそうに謝罪を口にした。
カッリーナは静かに首を振った。
「心配はいりません。それより、なぜ喧嘩をしていたのですか」
ウーロンの視線は気まずそうに泳いでいる。
「いや、なんでもない」
ハッカーバーグは怒りをあらわにした。
「こいつがInstagramでスパムみたいなDMを送りまくっているんです。それもサンバーナーディーノのユーザーばかりに。全くなにがしたいんだか」
ウーロンがそれを遮った。
「どうでもいいだろ」
カッリーナは混乱しつつ時計を見た。
「しまった。講演の時間だ」
ラスベガスで開催される「スポーツとテクノロジー」というイベントへの出席が控えていた。予定していたフライトの時間を完全に逃してしまったことに気づく。
ウーロンが申し出た。
「僕のプライベートジェットで送っていくよ。ちょうど僕もラスベガスに用事があるんだ」
ハッカーバーグが横から釘を刺す。
「やめたほうがいいですよ。こんな奴に関わるとろくなことがない」
ウーロンが再び色をなした。しかし、自分は時間がない。ウーロンの厚意を受け入れることにした。
「分かりました。では、お言葉に甘えさせていただきます」
ラスベガスまでおよそ3時間。ウーロンのジェットには、カッリーナとウーロン、そして秘書のようなスタッフが乗り込んでいた。
「実は今朝、ウーロンさんのロケットの打ち上げを見に行ったんですよ。人を乗せて宇宙へ打ち上げるなんて、本当に素晴らしい」
「ああ、ありがとう」
ウーロンが愛想笑いを浮かべた。
「あのロケットは、どのあたりの高度まで到達するのですか」
「540km」
「そんな高く。そういえば今日は、ウーロン自らがゲストの乗員を乗員船までエスコートしていましたが、あれはいつもやっているのですか」
カッリーナの問いに、ウーロンの眉がわずかに動いた。
「まあ場合によるかな」
長年の審判経験で培ったカッリーナの勘が、彼が何かを誤魔化そうとしていることを察知した。しかし、察しの悪いスタッフが補足してくれた。
「SpaceXが人を乗せるミッションには二種類あります。NASAなどからの委託と、民間宇宙旅行の打ち上げです。NASAの場合は厳格なプロトコルがあるので、専任のスタッフが対応しますが、今日は民間の顧客だったので柔軟に」
「なるほど。よほど親しいご友人なのですね」
「まあ、そんなところだ」
ウーロンの返答は曖昧だった。
「どのような方なのですか」
「ええと……いわゆる、あの、ヘッジファンドのマネージャー、っていうのかな」
はぐらかそうとするウーロンに代わり、スタッフが再び口を開いた。
「お金があって、知名度を欲してる方です。そういう方が宇宙旅行をお求めになります」
カッリーナは納得した。ウーロンはアテンド役をやってみたかったのだろう。少々雑に扱ってもいい顧客が現れたのを幸いに、というわけだ。
話題は露骨に変えられた。
「見てくれ。今日の顧客が早速Xにポストしている。宇宙から見た地球の写真だ」
差し出されたスマホの画面を見て、カッリーナは目を見張った。
「宇宙でもインターネットが使えるのですね」
「もちろんだ。Starlinkがあるからね」
「クルーシップの外でも使えるのですか」
「保護袋に入れれば船外活動でも使用可能だよ」
「それなら宇宙で迷子になっても、Google Mapsで帰ってこれますね」
カッリーナが冗談を言うと、ウーロンは膝を叩いて大爆笑した。しかし、その笑い方はどこか後ろ暗いものを隠しているようだった。
「残念ながら、それは無理なんです」
スタッフが冷静に付け加えた。
「宇宙ではGPSが使えません。国防上の規制があるんです。民間向けのGPSモジュールは、高度18,000メートルを超えると機能が停止するように設計されています。ミサイルへの転用を防ぐルールですよ」
「それは存じ上げませんでした」
ウーロンは急に黙り込んだ。
カッリーナは手持ち無沙汰になりスマホでXを開いた。一つの物悲しいニュースが目に止まった。
「テキサスで遺体が発見されたそうですよ」
その言葉を聞いた瞬間、ウーロンが椅子から飛び上がらんばかりに驚いた。
「なんだって!?」
その叫び声の大きさに、カッリーナは逆に驚かされた。
「……道端で行き倒れていたそうです。観光客が発見したと」
ウーロンは目に見えて安堵し、深く息を吐いた。関係ないか、という小さなつぶやきが聞こえた。
「ガード下で見つかったそうですよ」
「いつだ!?」
再びギュンと背筋がのびる。
「時刻ですか? いえ、記事には記載されていませんね」
「そうか……」
今度は顎に手を当て、考え込み始めた。
「なぜそんなに時刻を気にされるのですか。お知り合い?」
「いや、ただ、自分が近くにいたときだったら痛ましいなと思っただけだ」
「そうですか」
また静かになった。
「記事に、壊れた腕時計の写真が載っていますね」
「ふーん」
ウーロンはうつむいたまま、どうでも良さそうに生返事をした。
「時刻が気になるんじゃないですか?」
「え?」
「いや、だから時刻が気になるなら、時計が何時何分で止まっているか聞かないのかなと思いまして」
「あ、たしかにそうだ。気になるな。彼の時計は何時で止まってるんだろう。カッリーナ教えてくれ」
明らかな棒読みだった。
「彼の?」
「あ、いや、その人物の」
その耳の後ろを一筋の汗が伝い落ちた。
「残念ながら液晶タイプなので、針の止まった時刻は分かりません」
「そうか。それは残念だ。そろそろ着陸だ、シートベルトを締めてくれ」
話はウーロンの大声で打ち切られた。
6月14日 18:00(UTC-7)
ラスベガス空港でウーロンと別れたカッリーナは、そのまま巨大な球体型アリーナ「スフィア」へと向かった。
それは、外壁全体が120万個ものLEDで覆われた球体構造物で、ラスベガスの新たなランドマークである。
この会場で、彼は「テクノロジーがいかにレフェリングを向上させるか」というテーマで1時間の講演を行った。
講演を終えたカッリーナが演目表をみると、2時間後に同じ会場でウーロンが別のセッションに登壇することが分かった。せっかくならそれを見てから帰ろう。しかしお腹が空いた。腹ごしらえだ。
ウーロンが経営するもう一つの会社、ボーリング・カンパニーが建設した地下トンネルを利用すると、わずか数分で街の外れまで到達することができた。
中心部のきらびやかなネオンが嘘のように、そこにはアメリカらしいのどかな砂漠と工業地帯が広がっている。カッリーナは広い駐車場を備えた一軒のダイナーを見つけ、中に入ってハンバーガーとコーラを注文した。
運ばれてきたハンバーガーを口に運ぼうとしたとき、北側の歩道からウーロンが歩いてくるのが見えた。
カッリーナはダイナーのドアを開け、彼を呼んだ。ウーロンは少し恥ずかしそうに、手を振って断るジェスチャーを見せた。だが、彼のもとへ駆け寄り、その腕を軽く掴む。
「あなたが世界一の資産家なのは存じておりますが、飛行機のお礼にバーガーをご馳走する権利くらい、私にもあるでしょう」
ウーロンは苦笑した。
「この後討論会があるから、あまり重いものは。そうだね、チョコレートシェイクを一杯もらおう」
店内の客たちは、突如現れた大物に驚きを浮かべたが、すぐに儀礼的無関心を取り戻した。そういう街なんだろう。
カッリーナがもう一度ハンバーガーを口に入れようとしたときのことである。
長年選手を守ってきた彼の視野は、360度すべての方向で急病人を察知する。ダイナーの南側に広がる広い駐車場。店のガラス越しに見える一台のTOYOTA・カローラ。その助手席のガラスの奥に、ぐったりとした様子の人物を発見したのだ。この距離からでは詳細は分からないが、命の危険を感じさせる様子だった。カッリーナは店を飛び出し、一歩ずつ車へ近づいていった。
助手席の窓から中を覗き込む。若者だ。頭から血が流れている。
「いけない」
カッリーナはフロント側へ回り込んだ。フロントガラスには日除けのサンシェードが立てかけられていたため、運転席側から確認しようとした。
そこで彼が目にしたのは、無惨に割られた運転席のガラスだった。
そして、そのシートには、後頭部から大量の血を流し、虚空を見つめたまま動かなくなった若者が座っていた。
カッリーナは叫んだ。
「人が死んでいる!」
すぐに警察が駆けつけ、黄色い規制線が張られた。客は事情聴取を受けることになった。
「私たちも容疑者なのでしょうか」
カウンター席でカッリーナは尋ねた。刑事は首を振った。
「いえ。死亡推定時刻は今日の午前4時頃です。5分前に来たあなた方は関係ないでしょう」
ウーロンもソワソワと落ち着かない様子だった。
「それなら、もう帰ってもいいかな。この後登壇があるんだ」
「一つだけ協力願いたい。現場から被害者のスマートフォンがなくなっているのです。念のため、皆さん所持品を確認させてください」
ウーロンは快く応じた。ポケットからスマホと薄いカードケースを取り出して机の上に置く。警官が服の上からくまなく探ったが、それ以外に持っているものは何もなかった。
カッリーナも応じた。
「問題ありません。ご協力ありがとうございます」
「被害者のお名前は」
「ダニエル」
「どこから来たんですか」
「サンバーナーディーノのようですね」
サンバーナーディーノ。その地名を聞いた瞬間、カッリーナはウーロンと目を見合わせた。いや合わなかった。彼がすぐに視線を逸らしたのだ。
「お知り合いですか、ウーロン」
「いや、全く」
カッリーナは刑事に向き直る。
「ダニエルはどこに行くつもりだったのでしょう」
「サッカーを見に行くところだったようです。チケットを持っていたので」
「へえ。ここから何時間かかるんですかね。ねウーロン」
「じゅ、いや」
なぜか慌てている。
「アメリカにサッカー場はたくさんあるから、僕にはわからないな」
代わりに刑事が答えた。
「テキサスですから、ここから15時間ほどですね」
耳を疑った。
「そんな遠くまで」
「車を手に入れた若者が大陸横断に挑戦するのは、一種の通過儀礼なんです、アメリカでは。彼らなりのスタンド・バイ・ミーでしょう」
警察官が補足した。
「それにしては納得がいきません」
「どうして?」
「私は先ほどダッシュボードを見たのですが、ガソリンがほとんど空でした。サンバーナーディーノからここまでで空にはなりません。長距離のドライブに出るとき、普通最初に満タンにしませんか」
「ガソリン観なんて人それぞれじゃないかな」
ウーロンが横から口を挟んだ。
「テキサスといえば、今朝テキサスで行き倒れのニュースがありましたが、関係があるのでしょうか」
カッリーナが何気なく話題に出すと、ウーロンの顔がみるみる蒼白になった。
「それも無関係でしょう」
警察官は肩をすくめていった。ウーロンの顔に血が戻った。
「残念ながらアメリカでは時々車上強盗が起こります。よくある不運な事件です」
カッリーナがXでダニエルのアカウントを探してみると、見つかった。一ヶ月に一回しかつぶやかないような地味なアカウントだった。そこにははっきりと『ラスベガスなう』の言葉と午前4時というタイムスタンプが刻まれていた。
鑑識の制服を着た男が近づいてきた。
「警部。被害者の腕時計が壊れて止まっています」
ウーロンの顎が外れんばかりになっていた。
「何時だ」
刑事が短く尋ねる。
「6時です」
「6時か。死亡推定時刻の4時とは2時間ほどの開きがあるな」
刑事が唸る。
「我々は、もう行っていいかな」
上ずった声で問いかけるウーロンに対し、刑事は思い出したように「ああ、構いません」と許可を出し、先に店から出ていった。
警察が去った後、ウーロンは凄まじい勢いで残りのチョコレートシェイクを吸い上げた。
カッリーナはその様子をじっと見つめ、思い切って自分の推論を口にした。
「ダニエルという若者は、本当にここで亡くなったのでしょうか。時計の針が死亡推定時刻から2時間進んでいるということは、彼は一度テキサスに到達していたと考える方が自然な気がします」
ウーロンは困ったような苦笑いを浮かべ、空になったグラスをテーブルに置いた。
「まさか。無理だと思うね。なあ、店員さん」
二人の手近にいたナヨナヨとした風貌の若者が呼び寄せられた。
「あのカローラは、いつからあそこに停まっていたかな」
問われた店員は、立て板に水と喋り始めた。
「俺がシフトに入った11時にはあったっすよ。警察にも聞かれたから、朝番のモニカにも確認したんす。そしたら朝7時にはあったって」
それを聞いたウーロンは満足げに頷き、カッリーナに向き直った。
「聞いたかい。じゃ、シェイクご馳走様」
軽やかにそう言い残すと、今度こそ店を出ていった。
カッリーナは密かにウーロンの後を追った。
彼は何かを隠している。そう直感していた。だが、それが何かはわからない。
ウーロンは店の南側の駐車場に停めてある、ひときわ目立つ灰色のサイバートラックに向かって歩いていた。
突然ウーロンが足を止めて振り返った。カッリーナは咄嗟に植え込みの陰へと身を沈めた。枝葉の隙間から様子をうかがい、彼が再び前を向いて歩き始めるのを待つ。そして、再び音を立てずにその背中を追った。
ウーロンの手が運転席のドアハンドルへと伸ばされかけたそのとき、彼はまたしても振り返った。
今度は、そばにあった大きな看板の裏に飛び込んだ。
「カッリーナ、さっきから何をしている」
「あら、バレていましたか」
カッリーナは頭を掻きながら姿を見せた。
「実に立派な車だと思いまして、少し拝見したかったのです」
「悪いが、これはトップシークレットなんだ。乗せてあげることはできないよ」
「いえいえ、乗せてもらうだなんてとんでもない」
カッリーナはそう言い添えながら、フロント側から車体を半周するように歩いた。後部座席の窓は深いスモークガラスに覆われ、中の様子を窺うことはできない。運転席の窓から内部を覗き込もうとしたが、ヘッドレストの背後の仕切りが、後部への視線を遮断していた。
ふと、フロントウィンドウの左下隅に付着した、小さな汚れが目に留まった。カッリーナは右手の人差し指を伸ばし、その感触を確かめるようにそっと撫でた。
「羽虫、ですかね」
「羽虫だろう」
背後でウーロンが不審そうに答えた。
次にカッリーナが注目したのは、後部座席の窓ガラスの不自然な汚れだった。窓全体はうっすらと砂埃を被っているが、下から10cmほどの範囲だけがきれいだ。
「まるで10cmだけ窓を開けて、長距離を走ったような跡ですね」
「10cm開けて運転していたんだ」
「トップシークレットなのに?」
「暑かったんだよ」
窓の最上部には、何かが張り付いていたような粘着質の跡が残っている。
「ガムテープを剥がした跡のようですね」
ウーロンは不愉快そうに咳払いをした。
カッリーナは構わず、今度は左手の人差し指でテープ跡の少し下を撫でた。指先をひっくり返して見つめる。
「煤だ」
ウーロンの瞳に疑問の眼差しを向けようとしたその瞬間、彼がカッリーナの背後を鋭く指差した。
「あ! あんなところで足を攣って倒れている選手がいるぞ」
「なにっ」
カッリーナの身体が弾かれたように動いた。30メートルほど全力で走り、倒れた人物を探して辺りを見渡す。だが、そこには乾いたアスファルトが広がっているだけだった。
「騙された」
振り返ると、サイバートラックは駐車場から去っていた。
カッリーナは立ち尽くした。
規制線の内側では、鑑識員がのんびりと作業を続けていた。
カッリーナは自分の両手の人差し指を顔の前に立てた。どこかで手を洗わなければ。
そのとき、彼の鋭い視線がカローラのフロントウィンドウに張り付いた。身を乗り出し、腰をかがめて、その一点を凝視する。一歩、また一歩とフロントガラスへ。
「あ、ちょっと! これ以上近づかないで」
カッリーナは、制止に来た鑑識員に右手の人差し指を突き出した。
「この羽虫と」
左手の人差し指でフロントガラスの右下隅を指し示す。
「あの羽虫は、同じ種類ですか」
鑑識員はカッリーナの右人差し指とフロントガラスを数度見比べ、面倒そうに答えた。
「まあ、そうなんじゃない」
「これはラスベガスにいる種類の虫ですか」
鑑識員はしばし沈黙し、何かを考えるように眉を寄せた。
「いや。これはラブバグだ。この辺りにはまずいない。テキサスに多い虫だ」
「なるほど」
カッリーナは鑑識員に背を向け、ゆっくりと歩き出した。
確信があった。この車は、一度テキサスに行っている。
カッリーナの脳内でピースが組み合わさり始めていた。テキサスでダニエルを殺害し、その死体をラスベガスに出現させるためのグランドデザイン。
動機はない。証拠もない。本当にやったのかもわからない。
ただ、可能だったかという一点において、カッリーナは一つの結論へと辿り着いていた。
この絵空事、地球上でウーロンだけは実現させられる。
時計の針が2時間進んでいた。ダニエルがテキサスで絶命したと考えるのが今のところ最も自然だ。
では、どうやって死体をラスベガスまで運んだのか。
遺体は運転席に座っていた。もし死体を座席に据え直したなら、鑑識が死斑や血痕の不自然さに気づいたはずだから、プライベートジェットはありえない。
車ごと、というなら、運転席に死体を据えたまま、助手席からハンドルとアクセルを操縦し続けるか。15時間は無理だ。
だが、彼のサイバートラックなら牽引できる。
ただウーロンにはアリバイがある。彼はこの間、テキサスでロケットの打ち上げを見守り、スタジアムでサッカーを観戦していた。
でも、サイバートラックは自動運転ができる。リミッターがかけられているはずだが、ウーロンなら外せるだろう。ウーロンが作った車なのだから。
午前7時にカローラが駐車場にあったという店員の証言も、ウーロンなら覆せる。
彼は、プライベートジェットでラスベガスに先回りし、同じ型、同じ色の「替え玉」のカローラをどこかから調達して駐車場に置いたのだ。富豪なら可能だろう。
その後、本物のカローラがラスベガスに到着したタイミングでダミーの車をどかし、本物を配置し直す。
しかし、この計画には電気自動車の致命的な弱点がある。航続距離だ。
15時間も無充電で走破できる電気自動車など存在しない。
では、予備のバッテリーを積めばいいのか。話はそう単純ではない。
バッテリーはエネルギー密度が低すぎるのだ。
ガソリンと同じ重さのバッテリーに蓄えられるエネルギーはわずか50分の1。サイバートラックの荷台を予備のバッテリーで埋め尽くしたとしても到底足りない。
だが、あのサイバートラックの窓に残された痕跡。10cmの隙間、ガムテープの跡、そして黒い煤。
すべての符合が、一つの答えにつながっていた。
スフィアに戻ったカッリーナは、ハッカーバーグと再会した。これからウーロンと同じステージで討論会を行うという。
「せっかくだから、カッリーナさんも一緒にステージに出ましょうよ」
ハッカーバーグが軽く誘ってくる。カッリーナは精一杯に拒絶したが、無理やりステージへと引き上げられてしまった。IT長者のノリには抗いがたい。
幕が上がる直前、ウーロンがステージに現れた。カッリーナの姿を認めると、彼はぎょっとした表情を見せた。
カッリーナは小声で囁いた。
「私、あれから少し考えてみたのですが、ウーロン、あなたはサイバートラックにガソリンを積んだのではないですか」
「どうしてそう思ったんだい」
ウーロンは穏やかな口調で問い返した。
「あなたはダイナーへ、北側の歩道から歩いてやってきました。ですがシェイクを飲み終えた後は、南側の駐車場に停めてある車に乗り込んだ」
ウーロンは何も答えず、ただ静かにカッリーナを見つめた。カッリーナを見極めるような視線だった。たっぷりと間を置いてから、ウーロンは微笑みを絶やさずに言った。
「いや、サイバートラックは充電中に走行することはできない仕様なんだよ」
指摘したのはそこだった。ウーロンは牽引についても、午前7時の駐車場についても、自動運転についても触れなかった。互いが同じ思考に至ったとわかる。
「そのリミッターも、開発者であるあなたなら容易に外せたはずです。だから、サイバートラックに大量のガソリンを積み込み、発電機を繋いで自動運転させた。窓を10cm開けたのは、発電機の排気パイプを外に出すため。ガムテープは、そのパイプを固定するためです。警察があなたを疑えば、アメリカ連邦航空局からプライベートジェットの飛行計画書を照会できます。そうなれば、あなたが今日の午前7時に一度ラスベガスへ来ていたことも知るはずです」
「根拠が薄いな。それだけで警察がわざわざ僕を調べることはないだろう」
「ですが」
「もうステージが始まるよ」
ウーロンが会話を打ち切ると同時に、華やかな音楽と共に幕が上がり、討論会が始まった。
討論が始まると、出だしからハッカーバーグが攻勢に出た。
「今やスポーツ中継にはインターネットが不可欠だが、通信事業者は回線の逼迫に悩んでるはずだ。ウーロン、君のStarlinkではどう対策しているんだ」
カッリーナは思わず遮って尋ねた。
「初歩的なことを聞いてすみません。インターネットの通信会社は、ケーブルの中を何のデータが流れているのか、すべて把握しているのですか」
ウーロンはぼかすような口調で答えた。
「まあ……大まかな統計は取っているよ」
即座にハッカーバーグがそれを否定する。
「いえ、通信事業者はすべての通信の宛先と送り元を完全に把握しています」
「中身が丸見え、ということですか」
「いえ、通信の中身は暗号化されています」
「封筒に例えると、封をされているので中の手紙は読めないけれど、表に書かれた宛先と裏の差出人は読める、という状態でしょうか」
「まさにそのとおり」
ハッカーバーグが人差し指を振り肯定した。
「回線事業者は、その差出人を見て、特定のサービスの通信だけを意図的に後回しにしている疑いがある。これは通信の公平原則に反する。どうなんだい、ネットの中立性を謳うウーロン」
「スパムを遮断することはあっても、正常なサービスを不当に扱ってはいない」
ウーロンの答えは余裕を欠き、どこか刺々しいものになっていた。
カッリーナはさらに問いかけた。
「すみません、また初歩的なことを聞かせてください。回線事業者は、ケーブルに通すデータの順番を自由に決められるのですか。特定のデータの優先順位を下げたり、あるいは止めてしまったり」
「していないよ」
即答したウーロンにハッカーバーグが畳み掛ける。
「しているかはともかく、技術的には簡単です。そして動機がある。ワールドカップをネットで見る人が増え、回線が逼迫すれば、事業者は選別を強いられるはずだ」
その後の話は専門的すぎて、カッリーナが入り込める余地は完全になくなってしまった。
討論が終わり、幕が下りた後、カッリーナはもう一度ウーロンを呼び止めようとしたが、彼はやんわり拒絶した。
「決定的な証拠があるなら聞くよ」
ウーロンはそれだけ言い残し、足早にステージ裏へと姿を消した。
ハッカーバーグが気さくに声をかけてきた。
「いや、本当に楽しかったです。ぜひまたお話しさせてください」
彼は満足げに頷き、去り際にこう付け加えた。
「何か困ったことがあったら、いつでも俺に言ってくださいね」
ハッカーバーグもまた楽屋の方へと歩き去り、周囲に静寂が戻ったとき、カッリーナのポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面を見ると、ハッカーバーグからInstagramのDMが届いていた。
『今日はありがとう。それから殴ってごめんね。ミルク』
その短い文章を目にした瞬間、カッリーナの脳内で、バラバラだったすべての謎が強烈な光を放って結びついた。
「これだ!」
カッリーナは走り出した。重い防音ドアを三枚叩き開け、ようやくハッカーバーグの姿を見つけ出した。
「ハッカーバーグ、一つお願いがあります」
肩で息をするカッリーナに、ハッカーバーグは驚きながらも丁寧に応じた。
「なんでしょう」
「今朝亡くなったダニエルという方に、Instagramのサーバーからなにか通信を送ってもらえませんか」
「どういうことでしょう」
「その通信が、Starlinkの回線を通るか確認したいんです。お願いします」
ハッカーバーグはカッリーナの真剣な眼差しを受け止めると、手元のノートPCを開いた。
「それなら、すぐに分かりますよ」
彼は素早くキーボードを叩き、画面を注視した。
「確かに、このIPアドレスは、確かにStarlinkのものです」
「今も、Starlinkの回線の中にありますか?」
「それならtracerouteコマンドを打ってみれば分かります。少し待ってください」
ハッカーバーグが再び巧みな手捌きで操作を行うと、ほどなくして近くのプリンターから一枚の紙が吐き出された。彼はそれを手に取り、カッリーナに手渡した。

「1がインスタグラムのサーバー、2が衛星通信の基地局、3が衛星で、4がダニエルさんのスマホです」
カッリーナは紙に記された数字を凝視した。
「この右側に書いてある数字が、到達時間ですか?」
「はい。正確にはRTT、往復にかかった時間です」
「完璧です。ありがとうございます!」
カッリーナは踵を返し、再び走り出した。
すべての謎は解けた。
◆
【読者への挑戦】
皆さん、いかがでしたでしょうか。
もうはっきりしたはずです。犯人はウーロンです。
彼はこの完全犯罪の中でたった一つだけ、絶対に言い逃れのできない致命的なミスを犯しています。
さて、それは一体何でしょう。ヒントは「時間」です。
少しだけ、お考えください。
カッリーナでした。
◆
カッリーナはスフィアの無機質な地下通路で、ウーロンを呼び止めた。
「まだいたのかい?」
ウーロンは歩みを止めず、肩越しに軽く振り向いただけだった。ポケットに両手を突っ込んだまま、呆れたように先へ進もうとする。
「証拠です。ウーロン、あなたはまだダニエルのスマートフォンの電源を切っていませんね」
カッリーナは、どんどん歩行速度を早めるウーロンの背中に向かって、必死に声を投げかけながらついていった。
「あなたは、サンバーナーディーノに住む若い男のInstagramアカウントに向けて、片っ端からDMを送っていますね。送られた側のスマートフォンがどうなるか。こうなります」
カッリーナは自分のスマートフォンの画面を高く掲げた。ウーロンは振り返らないため、言葉で説明するしかない。
「ロック画面に、通知が出ます」
「つまり、通知で彼のアカウントを特定しようとしたと言いたいんだね」
「ええ、おそらく、あなたにとって不都合な写真を撮られたのでしょう。それをインスタに上げられてないか確認したかったんだと思います」
「でも、僕は今、その人物のスマートフォンなんて持っていないぞ」
「もちろん、それは警察も確かめました。あなたはそんな迂闊なことをしない。画面を見なくても特定は可能です。Starlinkの管理者権限を持っているあなたなら、先ほどの討論会で教わった通り、ネットワークの経路を通ったデータの『宛先』と『送り元』が分かるんですよね。ということは、あなたがDMを送信した時刻と、Instagramのサーバーからの通信がStarlinkの回線を通過した時刻を見比べれば、ダニエルさんのアカウントが特定できるんです。あなただけはね」
「不都合な写真といったね。もしそんなものを撮られていたとしよう。その写真を撮ったスマホの電源を入れたら、AndroidかiPhoneか知らないけど、どちらにせよGoogle PhotosかiCloudの同期が走るよね。それが証拠になって警察に捕まるほうを僕なら心配するけど」
「いいえ、捕まりません。それも討論会で教わりましたよ。回線事業者は、特定の宛先への通信だけを遮断できるんですよね。だからあなたは、ダニエルのスマートフォンをStarlinkのネットワーク圏内に置いた上で、Instagram以外のすべての通信をブロックしているはずです」
「ほう」
「ですが、この方法には一つだけ厳しい制約があります。Starlinkは上空が開けていないと電波が通らない。机の引き出しに隠すわけにはいかない。上空が完全に開けていて、かつ誰にも見つからない場所。そんな都合のいい隠し場所は意外と少ない。まさかテキサスの荒野に放置するわけにもいかないですし。大富豪なら庭付きの家でも持っているのかと思いましたが、あなたは工場の隣に建てた簡素なプレハブ小屋に住んでいるそうですね。だからそれも違う。ところが」
カッリーナは、スフィアの低いコンクリートの天井を指差した。
「あなたは世界で一番高いところに、自分専用の『物置』を持っています。宇宙です」
「面白いSF小説だね。でもカッリーナ、証拠がないと警察は動かない」
「これが証拠です。Instagramのサーバーから、ダニエルさんのスマートフォンへ向けて打ったtracerouteの結果です」

「ウーロンさん。あなたの打ち上げた人工衛星の高度は、何kmでしたっけ」
ここで初めて、ウーロンが完全に足を止めた。そして、ゆっくりと振り返った。
「540km」
「光の速さで地上から540km進むのに、何秒かかりますか」
「1.8ミリ秒」
回答は即座。だがその声は重い。
「tracerouteの一番右側に書かれている数字は、往復にかかった時間です。いいですか。人工衛星は地上540kmにあり、Instagramのサーバーは地上にあります。もし、ダニエルのスマートフォンも地上にあったとしたら、信号が移動する距離はどうなりますか」
「1080km」
「往復ですよ」
「2160km」
「光の速さで、何秒ですか」
「7.2ミリ秒」
「あれ、おかしいですねえ。この記録を見ると、ダニエルのスマートフォンまでの往復に、5.4ミリ秒しかかかっていません。もしスマホが地上にあるなら、物理的にあり得ない数字です。この宇宙の物理法則に反している。だから、スマートフォンは今、地上ではなく、宇宙にあるとしか考えられないんですよ」
ウーロンは何も答えない。通路の冷たい静寂だけが二人を包んでいた。
「私、調べました。ダニエルさんが亡くなってから今までの間に宇宙へ飛んだロケットは、地球上でただ一基。あなたが今朝エスコートしたあのロケットだけです」
カッリーナは一歩、ウーロンへと歩み寄った。
「SpaceXのクルーシップに触れられて、Starlinkの設定を変えられて、他人のXのアカウントにアクセスできて、完全自動運転のテスラを公道で走らせられる人間。それは、世界であなたしかいないんです」
長い沈黙の後、ウーロンは少し笑った。
「もしその人工衛星がいま地上にあると言ったらどうする?」
「言われるんですか?」
「いや、もし言ったら、だよ」
「その時は、今日打ち上げられた人からtracerouteしてもらいます」
それを聞いてウーロンは大声を上げて笑った。
「ハッカーバーグよりも、レフェリーの方が抱き込めないものだね」
「お認めになるということで、よろしいですか」
「ああ。笛を吹いてくれ」
「はい。参りましょう」
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