梗 概
もしも後白河法皇が確率論を学んだら
治承四年六月、平清盛は福原への遷都を断行。しかし急遽つくられた新しい都はまともに整備されておらず、京の貴族や寺社は強く反発し、清盛への不満は爆発寸前だった。
そして後白河法皇は福原の海辺の御所に幽閉され、毎夜、清盛は御所を訪れて「勝てば京へ帰してやる」と盤双六(日本版バックギャモン)を持ちかける。
海の見える部屋で二人は双六で闘い。序盤は法皇が勝つが、中盤になると振る賽の目は必ず清盛に有利なものになり、結局法皇は必ず負けてしまう。
ある夜、清盛の背後から法皇は笑い声を聴く。法皇は部屋の窓にかかる御簾から福原の海を見る。と海面に巨大な骸骨が浮かび、賽の目を振ってケタケタと笑う。法皇は、清盛が骸骨の怨霊の力を借りて賽の目を操っていると疑った。
法皇は使いを立てて京から三善康信を福原に呼び寄せる。康信は数の理を究める算博士の家系に生まれた下級貴族だが双六狂いの博徒で、また関東にいる源頼朝に密かに京の情勢を知らせていた反平家の策士だった。
御所に来た康信は事情を聞くと、双六の傍らに立ち、法皇へ講義をはじめる。双六はかつて白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師。是ぞわが心にかなはぬもの」と嘆き、勝つためには運や神仏、清盛のように怨霊に頼るものと考えられがちだが、実は天の理――算道によって勝てると説く。康信は博徒としての経験と算道の知識をもとに編み出した「三善確率論」を法皇に授ける。盤双六では二つの賽を振りその目の合計数で駒を進めるが、よく出る数と出にくい数があり、その起こりやすさ――すなわち康信が名付けた確率という考えを使えば、双六にも戦略と戦術を持ちこむことができるのだ。法皇は学ぶうちに、算道が加持祈祷や陰陽道、清盛が使う怨霊の邪な力よりはるかに力を持つことに気づく。
その夜、清盛が御所を訪れる。清盛は変わらぬ余裕を見せたが、法皇は冷静に賽を振る。しかし、中盤になると清盛はまた有利な目が出た。清盛はおごり高ぶり「天も怪も我に味方しておる!」と言う。
だが法皇は、後半になると清盛に有利な目ばかりが出ることを逆に利用した。清盛に都合のよい目が出たとき、かえって清盛の駒が不利になるよう駒の配置を少しずつ誘導していたのである。
盤を見て慌てふためく清盛。そして法皇はついに勝利を引き寄せた。
敗北の瞬間、骸骨は海から罵声を浴びせ、やがて清盛は叫び気を失う。骸骨は法皇に「我は清盛に力を与えたが、所詮力を受ける器がなかった」と吐き捨てた。
その後、清盛打倒を掲げて頼朝が挙兵。清盛は軍事上・政局上の判断という理由で都を京へ戻し、数ヶ月後、清盛は熱病にかかり死ぬ。
京に帰った後白河法皇は御所で康信と双六で闘う。だが康信の冷ややかな態度に、法皇は自分が助けられたのは康信が清盛を倒すためであって、自分のために戦ってくれないことを悟る。
のちに康信は京を離れ、死ぬまで鎌倉幕府に仕えた。
文字数:1200
内容に関するアピール
魔法使いの弟子から最初に連想したのは、映画『ファンタジア』で箒に水汲みをさせて調子に乗るミッキーマウスでした。ですがさすがにミッキーをSF小説に出すといろいろ面倒なことになりそうなので、ミッキーのようにおごり高ぶるキャラを書きたいと考えながら本棚を眺めたらふと平家物語が目に留まり、今回の話を書くことにしました。
おごり高ぶる平家の棟梁・平清盛。その清盛に立ち向かうのは福原に幽閉された後白河法皇。怨霊の力を使う平清盛は自らを過信して、後白河法皇の知性、そして天の理である数学に負ける、そんな話を後白河法皇の視点から書きます。
【盤双六】バックギャモンに似た対戦型ゲーム。2人がそれぞれ15枚の駒を持ち、2つの賽を振って、出た目の数だけ駒を進め、早くすべての駒をゴールに入れたほうの勝ち。途中で相手の駒を蹴散らし振り出しに戻すことができ、勝つには単なる運任せでなく戦略性が必要。
文字数:388
遊びをせんとや
福原の御所はいたるところに真新しい木の香りが漂い、その香りにときどき海の潮の香りが混ざっていた。
「康信、聞いておるのか」
御簾の奥から後白河法皇が狼狽した顔をして言った。
聞いている。聞いているが、聞きたくない。
三善康信は困りはてた。これ以上、法皇の面倒ごとに巻き込まれたくない。できれば京の家に帰り、いますぐにでも東国へ手紙を書きたかった。頼朝が手紙を待っているのだ。西国でなにが起きているかを知りたがっている。法皇を無下にしても、康信は平家打倒の使命を果たしたかった。
なのに、法皇に呼びだされて、康信は福原なんぞという辺境――険しい六甲の山と大輪田泊の海の間の、猫の額ほどの地に急ぎ作られた新しい都――にやってこさせられた。この御所も居心地が悪い。柱や床は海から吹く風のせいでどれも湿気を吸い、ほんのりと湿っていた。京の内裏のなかならば、悠久の年月を経て積もった埃やこもった香りが、冬の鴨川に張る氷のように固まっているが、福原にはそれがなかった。
ぜんぶ、平相国清盛入道のせいだ。
清盛が急に命じ、急に六甲の山の木々を伐り、急に立てた都。大工たちは一様に疲れた目をして福原をかけずりまわり、雑色は敷き終わらない畳をかついで御所の廊を行き来し、庭を見ると、片づけ忘れたのだろう、いくつもの縄、瓦、削り屑が散らばっていた。
ここは都ではなかった。都のなりかけだった。
ふたたび部屋の中に視線を戻す。
御簾の前には人型の機械が座っていた。
「若乙が動かなくなった。どうにかしてくれ」と法皇はつぶやく。
「いや、どうにかしてくれっておっしゃっても。まずこれはなんなんですか」
「これなんて呼ぶな、愛しい若乙じゃ」
面倒くさいなと康信はつぶやきそうになった。
「誰がこんなもの、失礼、若乙さまを御所に入れたんですか」
「大輪田泊は宋のものがなんでも入ってきての、宋船に紛れて来たらしい。大食国の賢き機械師と天竺のこれまた賢き算者が作ったらしい」
「紛れてやってきたものをどうして院がお持ちで?」
「うるさい。都に来たものはみんな儂のものじゃ。のう、若乙?」そんな都合のいい論理があってたまるか。康信は機械を見た。若乙は身の丈ほどの大きさで正座しており、顔は宋風の美人顔、つまり細く、知的で、どこか儚げだった。
しかし、はだけた服のなかはその美しさとはかけ離れている。
胸は真鍮の板で作られ、腹は木製の板が覆っていた。そして下半身は、機械の目の前にある双六の盤と一体になっていた。
康信は機械に近寄り、念のため「若乙さま、失礼つかまつります」と言って、真鍮の板を観音開きのように開ける。
中は人の腸に似せて作ってあるのではなかった。もっと悪い。人の腸を、できそこないの算博士が悪い夢のなかで組み直したようなものだった。水を通す管が肋のように左右へ分かれ、その先で革袋をふくらませたり、しぼませたりしている。革袋がふくらむたびに小さな錘が持ちあがり、錘が落ちるたびに糸が引かれ、糸の先の爪が歯車を一歯だけ送る。胸の奥、ちょうど心の臓の位置には、拳ほどの箱があり、その内側から、ぎり、ぎり、ぎり、と、噛み損ねた歯のような音がした。
直すのには手間がかかる。しかし、康信は算博士の家系に生まれた下級貴族だった。つまり、数の理に通じていて、算博士を名乗っている。この機械を直せるだろうと法皇に見こまれた以上、拒否する権利はなかった。
「で、これを直してさっさと双六の遊び相手をさせたいと」
「これと呼ぶな。若乙はな、わしに双六で必ず勝たせてくれるんじゃ。あの入道とは違ってな」
法皇は御簾越しに機械――若乙へ舐めるような視線を送った。
双六。われわれ現代人が呼ぶ双六は正式には絵双六というもので、本当の双六は全然違う遊戯だった。
――古代エジプト発祥のその遊戯は、ヨーロッパへ伝わるとバックギャモンと呼ばれ、中国経由で日本に伝わると双六と呼ばれるようになった。実際、バックギャモンと瓜二つの遊びである。
白と黒の駒がそれぞれ十五個。盤にはこちら側と向こう側に十二マスずつ、合わせて二十四のマスがある。
プレイヤーはまずこのような位置に石を置く。

先攻と後攻を決め、順番に二つの賽を竹筒に入れて振り、出た目にしたがって敵の内陣にいる駒をそれぞれ矢印の方向、つまり自分の内陣へ進める。

駒の進め方は二通りある。
二つの賽の目の合計分だけ一つの駒を動かす。もしくは、それぞれの賽に書かれた目だけ、二つの駒を動かす。
たとえば二と六が出た場合、一つの駒を八マス分動かすか、もしくは一つの駒を二マス、もう一つの駒を六マス動かすことができる。
敵の外陣の端までやってきた駒は真下、つまり自分の外陣へ石を動かせる。
しかしどこへでも駒を動かせるわけではない。
敵の駒が二つ以上あるマスには入れない。逆に、敵の駒が一つだけならそこへ入って「切る」、つまり相手の駒を追い出すことができる。
切られた駒は盤の中央、自陣と敵陣の間に上げられる。
駒を切られたプレイヤーは自分の手番が来たとき、切られた駒を出目に応じた盤上のマスに戻してからでないと、他の駒を動かせない。
こうして駒を動かし、全部の駒を自分の内陣に先に入れたほうが勝つ。
双六は飛鳥時代にはすでに日本に入ってきていて、たびたび賭博に使われた。
日本書紀には持統天皇によって禁止令が出されたと書かれているし、正倉院の宝物には聖武天皇が愛用した紫檀の双六の盤面が納められている。
つまり、数多の貴人の人生がこの双六で狂わされたのだった。後白河法皇もその一人だった。
福原に都が移ったのも双六のせいである。ある日、京の法皇の御所に突然清盛がやってきて、「勝ったら都を移したい」と双六で勝負を持ちかけた。
法皇は冗談だろうと思いながら打った。結果、清盛が勝ち、本当に都は福原に移され、法皇は福原の新しい御所に押しこめられていた。
――いや、押しこめられたのではない。実態はもっと陰湿だった。
御所からは一歩も出られない。勝手に人を呼べない。食事は出るし、今様を歌わせてもらえるし、双六も打てる。
だが、どれだけ願っても京に帰れない。
福原の夜は京よりもはるかに美しい。
海辺の法皇の部屋からは大輪田泊の煌めく海が見える。夜になると海は月に照らされ、夜更け近くになれば近くの浜から舟が出て、漁火がぽつりぽつりと夜の闇に映える。
別荘としては最高だった。だが都としては最悪だった。道は狭い。女房は蚊に刺される。牛車を引く牛は慣れない環境でいつも体調が悪い。何から何まで都に向いていない。
だが清盛は遷都をやってのけた。世の中には「できるからやる」という人間がいる。清盛はそういう人間で、派手なことをして、派手に犠牲を出して、さまざまな人間から妬みを買う。
清盛は法皇の御所へ毎夜やって来る。
「法皇さま、今宵もお遊びいたしましょうぞ。勝てば京へ帰して差し上げましょう」と、清盛は双六の盤を持ちながらいつも同じことを言う。
「毎夜同じことを申すの」
「毎夜負けておいでゆえ」
嘘であると法皇は思っていた。
どうせ勝っても清盛は絶対に帰さないし、しかも絶対に負けない。
双六の盤越しに、二人で相対し、勝負する。
最初は法皇も善戦する。
双六は運だけではない。
十五個の駒をどう自分の内陣へ運ぶか。どこで相手の駒を切るか。どのマスで二個以上重ねて壁を作るか。相手の駒を中央に上げたあと、どのマスを塞いで復帰を妨害するか。
法皇だって、宮中で権謀術数をはりめぐらせて生きてきた人間だ。策略のひとつやふたつ、練れなければいまごろ生きてはいない。
ところが中盤になると、清盛にだけ都合のよい目が出る。
一と二を出されればこちらの駒が切られるというときに、清盛の賽は一と二が出る。こちらの駒が一つだけぽつんと孤立した時、清盛の賽が都合よく転がり、こちらの駒を切って追い出す。法皇が復帰しようとすると、よりによって出た目のマスには、清盛の駒が二枚、三枚、五枚に重なっていて置けない。
出目が偏っている。いや、偏っているどころではない。
――賽がなにかおそろしいものに操られている。
法皇の手のひらに汗が滲む。清盛の駒のうち、十四個がすでに内陣に入っていて、残り一個ははるか遠く、法皇の外陣のいちばん真ん中側にある。つまりここから清盛が一気にこの駒を内陣へ入れるには、六と六を出さなければいけない。
灯明の火が清盛の頬を赤く照らした。
その背後、蔀が開けっ放しになっていて、海の風が直接法皇の顔に当たる。
まだ夏なのに、吹く風は骨に染みるほど冷たかった。
そして海から音が聞こえた。
最初は波の音かと思った。だが違った。笑い声だった。乾いている笑いだった。
しかも、そのカラカラとした笑いは、次第に増えていき、法皇は耳をふさぎたくなるほどだった。
法皇は目だけを動かした。
夜の海の水面が黒い布のようにゆったりと持ちあがると、その中央に白いものが浮いて出ていた。――山のように大きな髑髏だった。
髑髏は海から出ると、御所をのぞきこむように顔を近づけた。目の穴には海水が溜まっていたが、髑髏が顔を傾けると、その海水は法皇の部屋へ落ちた。
法皇は悲鳴をあげた。
その髑髏は人の頭蓋がただ大きくなったものではなく、いくつもの顔の骨が合わさってできたものだった。折れた顎、歯がない顔、焼かれて真っ黒くなった顔、痩せこけた骨が寄り集まって、一つの丸い頭になっている。
髑髏が口をあけると、その口の中には、賽が無数に転がっていた。
カラカラカラカラ。
髑髏は法皇をさげすむように笑った。
法皇である自分が、妖ごときに笑われるなんて。
法皇が髑髏を叱ろうとしたその時、清盛の賽が転がった。
出目は、六と六。重六だった。
「天も怪も、我に味方しておる」
清盛は高笑いして、駒を進めた。
駒は堂々と清盛の内陣に入った。
清盛は立ち上がると、盤を見下ろしたまま笑わずに言った。
「また明夜」
清盛は盤を持ちあげると、部屋を去っていった。
康信は法皇の話をひとしきり聞くと質問をした。
「なぜ、妖は清盛に力を貸すのです?」
「それが気になって陰陽師に調べさせた」
「この部屋には勝手に人は入れられないんでしょう」
康信は若乙の修理のために呼ばれ、清盛も承諾していたから御所へ入れた。
どうやら、清盛は人間の愛人を持つのに飽きて、若乙のような機械の愛人を作りたがっていると聞いている。康信はそのうち清盛へ呼ばれ、若乙もどきを作らされるかもしれないと覚悟をしていた。
「儂を見張っている平家の郎党どもに『言うことを聞かなかったら陰陽師に呪ってもらうぞ!』と脅した。そうしたら入れてくれての。陰陽師が言うには、どうやら、あの髑髏は清盛に殺された人間の恨みでできている。清盛の課した、過酷な普請で死んだ者。清盛に焼かれて死んだ僧侶、もちろん、清盛と戦って死んだ武士どももな」
「どうしてです。恨んでいるなら清盛を倒せばいいのに」
「恨みというものは、そんなに単純ではない」
法皇は含みを持たせた言い方をすると立ち上がり、御簾を上げた。
「それで、院は昼間、この若乙と双六を打っておられた」
「そうじゃ。こやつはよいぞ。負けても文句を言わぬ。勝っても威張らぬ。清盛より人ができている」
法皇は若乙の顔を撫でた。
木偶よりも人ができていないと馬鹿にされた清盛を、康信はすこし哀れに思った。
「だが壊れた。賽を振ったまま止まった。胸の奥から変な音がする」
康信は若乙の胸にもう一度手を差しこみ、心の臓の箱を開いた。
箱の中には、極小の歯車と薄い真鍮の板が何層にも重なり、その脇に円筒が回転していた。
板には、虫食いのような穴が穿たれている。水の動きに合わせて板が少しずつ動くたび、穴のあるところだけ細い針が通り、穴のないところでは針がはじかれる。通った針とはじかれた針が、それぞれ別の棒を押し、棒はまた別の爪を動かす。零か一か。通るか、通らぬか。その二つだけで、箱の奥は盤面を読んでいた。
すぐに分かった。これはただの遊戯機械ではない。
若乙の手を広げると、手のひらには舌のような板が数十ほどしこまれていた。
これで賽の目を読み、心の臓のなかで回転する円筒と賽の目が連動する。
若乙はその組み合わせから、どの駒を進め、どの駒を切り、どのマスを塞ぐべきかを選ぶ。局が終われば、盤の下の糸と爪が駒を初期の位置へ戻す。そしてまた次の一局を始める。
つまりこれは、自動双六機械だった。
しかも、ただ決まった手を打つだけではない。心の臓の箱の奥には、櫛の歯ほどの木片が何百と並び、一本一本が表と裏を持っていた。
円筒と算木は回るたびに、ある木片は表へ返り、ある木片は裏へ戻り、ある木片はそのまま残る。前にどの目が出て、相手がどこへ駒を逃がし、どこへ裸石を残したか。若乙は勝った手と負けた手を、木片の表裏として腹のなかに記録していた。
ただ、その記録を送る歯車の一つが割れている。
勝った手を勝った手として残すはずの爪が空を掻き、木片が途中で止まり、同じ失敗を何度も読みに戻している。
ぎり、ぎり、ぎり。
胸の奥で鳴っているのは、若乙が痛がっている音ではない。考えが、同じ場所でつまずいている音だった。
若乙の下半身は双六の盤とつながっている。
康信は双六の盤の上部をすこしゆすってみる。
上部が外れた。中には、駒の位置と数を読むために細い舌のような白い木が、駒の置ける二十四マスと、陣と陣のあいだの切られた石を置く場所へ並び、その舌の下で算木が何百何千と縦横に渡されていた。算木は、箱の中の木片と連動し、あるものは零を示し、あるものは一を示す。そしてその算木は、腹のなかにたまった過去の対局の結果と細い舌の位置、そして賽の目から、次に駒を動かす位置を、赤く塗られた舌が差ししめす。
聞いたことがある。天竺の算道はこの国よりはるかに進んでいる。すべてのものは数字、究極的には零――つまりなにもない状態と一――なにかがあるという、このふたつの数だけで表せると論じたものがいたという。
「院、この腹の木片と盤の算木は?」
「ああ、腹の木片は儂がむかし打った手を覚えてくれて、算木は次に駒を動かす場所を計算していると聞いておる」
「やはりそうですか。院、若乙は院のことを学習しています」
「学習とな?」
「院が若乙と何度も双六を打つことで、勝ち筋を覚える。賽の目の組み合わせと、院がどこに駒を配置するかという癖を全部、算木に覚えさせている」
「つまり賢いのか」
「賢すぎます」
「清盛に似ておるな」
「清盛よりは狂っていませんよ」
法皇は笑ったが康信は笑えなかった。
双六は単なる運任せの遊びではない。
十五個の駒を自分の内陣へ運ぶ戦略を練る必要があり、相手の単独の駒を見つけたら切り、その復帰を妨害する。
たとえるなら宮中の陰湿な政治である。貴族が好むのも当然だ。貴族の人生そのものだからだ。人の出世を妨害し、たまたま一人で立っているやつを叩き落とし、再出発する芽も潰す。
しかも、その策略も、「賽の目が悪かったんだよ」と相手を慰めるふりもできる。考えれば考えるだけ、貴族にぴったりな遊戯だ。
「康信」
「嫌です」
「まだ何も言っておらぬ」
「だいたい分かります。若乙を直して、清盛と双六で闘わせて倒せ、でしょう。嫌です。私は下級貴族です。算道の者です。たしかに院と同じぐらい双六に狂っている自覚はあります。しかし……」
「そういえば、お主。頼朝になにやら熱心に手紙を送っておるな」
康信は黙った。
「余を誰だと思っておる。今様、双六、人の弱みにつけこむこと。それだけでやってきた男じゃ。――清盛を倒せ。そなたも平家が邪魔であろう」
「院のために?」
「いや、そなたのために」
康信は唇を噛んだ。
清盛も最低だが、このジジイも最低だ。清盛は武力。後白河は権力。使う武器は違えども、どちらも最低なことに変わりない。
だがしかし、平家を倒したい思いはある。康信は考えた。自分が強いとおごり高ぶる人間を倒すには――。そうだ、有頂天になるまで勝たせてやるのだ。そうしたら勝手に地獄へ堕ちてくれる。
康信は若かりし頃を思いだす。双六狂いだった康信はまだ腰の曲がっていない院と双六を打ち、ほかの貴族の家でも打った。
次第にやんごとなき人々と双六を打つのに飽きて、京の河原へ行き、有象無象の庶民とも双六をした。
康信の経験上、ダメな博徒は二種類いる。
負けても勝負の引き際を知らず、ずるずるそのまま負け続ける野郎。もしくは、勝ち続けて有頂天になったが、いったん負けたら一気に崩れる野郎だ。
康信は作戦を法皇へ伝えた。
「分かりました。倒します。ただし、双六で勝つのではありません」
「どうする」
「まず清盛を勝たせます」
「清盛を? なぜじゃ?」
「清盛を勝たせます。勝たせて、清盛を疲れさせるのです」
康信は若乙の胸にふたたび手を突っこみ、水管を握った。
「若乙に動きを伝える、この水管を太くする。歯車や棒の動きがすぐ盤へ伝わるようにする。算木は増やすのではなく、清盛相手に要るものだけ寄せる。腹の木片を増やして、盤面をより多く覚えさせる。いくらでも速くできます」
「打つのを速くするってことじゃな。でも、そんなことをするより、清盛に勝つように直したらいいのでは?」
「若乙の学習には一局や二局程度では足りません。院、若乙と双六をするとき、試合の仕方が違ったように感じませんでした?」
「ああ、たとえば駒の置き方がおかしいことがある。普通、最初は黒い駒なら自陣の内陣は右側じゃろ、でも若乙は左側に置きたがる。それもお主に直してもらいたかったのじゃが」
「見立てどおりです。それは異国での遊び方、おそらく天竺か宋の遊び方です。異国で覚えた癖が、院との対局だけではまだ抜けきっていない。清盛に勝つには一夜に一局では足りない。十局でも百夜でも足りません。ならば一局の時間を縮める」
「つまり、何百も、何千も打たせると?」
「天竺には零という数があるといいます。一局にかかる時を限りなく零に近づければ、清盛の打ち手を読むことができ、勝つことができるでしょう。しかし、それだけ清盛がすさまじい速さで双六を打てば……」
一局を一息つく時間まで短くする。そしてその一息を、刹那にまで短くする。清盛に膨大な回数の対局を高速でさせ、脳に大量の盤面を流しこみ、清盛をぶっ壊すのだ。
その夜、法皇の部屋に清盛が来た。
「法皇さま。今宵もお遊びに参りましたぞ」
清盛は盤を抱えていた。
「勝てば、京へ帰して差し上げましょう」
「毎夜、同じことを言うの」
「だったら勝てばいいのではありませんか?」
清盛は笑った。
康信は部屋の隅に控えていた。
康信ははじめて清盛を見て圧倒された。
大きい。腹が大きい。声が大きい。態度が大きい。足音が大きい。
平相国清盛入道は、御所をまるで自分の部下の家を歩くよう、雑な態度で進んできた。この御所の真新しい柱も、真新しい床も、新品の御簾も、まだ普請中の庭石も、そして海の怨霊も、すべて自分の意志でそこに生まれたのだと思っている。
「いつもお主に盤を持ってこさせて悪いと思い、今日はこちらで用意した」
法皇は御簾のなかでほくそ笑むと立ちあがる。
御簾があげられた。法皇のそばには若乙が座っていた。
康信が改造したおかげで少しふくよかになってしまった。宋の美人ではなく、唐の時代の美人、つまりふくよかで健康的な見た目になってしまったがまあいいだろう。
庭を普請していた大工を十人程度呼び、昼のうちに水管を太くし、噛み合わぬ歯車を直し、円筒を二つ、木片をたくさん足した。算木はむやみに増やさず、よく使う読みだけを手前に寄せた。深く読むよりも、速く読むことを目指した。
水管を太くしすぎて、若乙の腹は孕んだ女のようにすこし膨らんでいた。ひどい改造である。しかし、これが清盛に勝つ最善策である。
「これはなんだ」
清盛が法皇に聞いた。
「お主がいない昼に、わしの相手をしている女じゃ。三善、説明せよ」
「入道さま、こちらはただの木偶ではありませぬ。天竺と大食よりわが国に来た、双六打ちでございます」
「ほう。これが噂の」
清盛は笑ったが、若乙を見る目は冷ややかだった。
そのとき、御所の外で潮の音がした。
康信は海へ目をやる。
開け放たれた蔀の向こう、大輪田泊の海が黒く光っている。
その沖合で、夜の水が盛り上がった。月の光を浴びて、白いものが浮かぶ。
髑髏だった。
山のように大きい。いくつもの人の頭蓋が寄り集まり、ひとつの顔を作っている。髑髏は御所に顔を近づけた。
歯のない者。顎の折れた者。焼け焦げた者。泣いているようにも笑っているようにも見える骨が、ひとつの巨大な笑みになっていた。
清盛は振り返らない。振り返らなくても、そこにいると知っているのだろう。
「始めよ」
法皇が言った。康信は若乙を盤ごとゆっくりと移動させ、清盛の前に置く。
康信は部屋の隅に行く。
若乙の水管は、御所の側を流れる小川から引いている。小川からの水を、管に差した栓で止めていた。
康信はその栓を抜く。管がぶるるんと震え、胸の革袋が息を吸うようにふくらんだ。若乙の胎内で水が走り、錘が落ち、歯車が一斉に目を覚ます。きゅる、かちり、きゅる、かちり。滑らかに手が動き出した。
白黒十五ずつの駒が並ぶ。外陣、内陣。敵の陣から自分の陣へ、駒はまわり、重なり、切られ、戻され、また進む。
康信はその対局を見ながら考えた。
双六は貴族の人生そのものだ。
最初の駒の位置のように、人生が始まった時の位置は決まっている。
動ける距離は賽の目のように運で決まる。行けない場所がある。たまたま一人でいると後ろから切られる。二人以上で固まっていれば安全である。
最低の遊びだ。だから流行るし、止められないんだと思った。
一局目。若乙はわざと駒を浮かせた。重ねるべきところで重ねず、一つだけ孤立させて置いた。清盛の賽が転がる。二と五。都合のよい目だった。
清盛の駒が進む。案の定、若乙の駒を切る。
若乙の駒が盤の中央へ行く。若乙は賽を振った。しかし、中央の駒をマスに戻そうにも、出目の先には清盛の駒が二つ以上ある。置けない。置けないから、ほかの駒も動かせない。
盤の中央に若乙の駒は幽閉された。
――清盛が勝った。
海の髑髏が笑った。カラカラカラカラ。
「ほれ、また余の勝ちよ」
清盛は立ちあがろうとした。その瞬間、法皇が御簾の奥からつぶやいた。
「一局で足るか」
空気が張り詰めた。
「どういうことだ?」と清盛が聞く。
「清盛。そなたは勝つ者であろう」
「無論」
「ならば百局でも勝てよう」
清盛の眉が動いた。
「千局でも勝てよう」
清盛の口もとが動いた。
「一万局でも、百万局でも、一億局でも勝てよう。お主は絶対に勝つ者であろう。おいぼれの儂と違ってな、若乙は疲れることを知らないんじゃ」
清盛は盤を見下ろした。海の髑髏が口を開けた。口の中には、無数の賽が転がっていた。歯がない骨の口の中で、無数の賽が転がり、からからと鳴っていた。
ああ、釣れたなと康信は思った。
「よかろう」
清盛は口をゆがめながら言った。
「百でも千でも勝ってやる。余は勝つ。勝ったゆえに、この都を作れた」
法皇は笑った。
「康信」
「御意」
康信は若乙の背に手を伸ばす。手を差しこみ、歯止めを外した。
水の音が大きくなった。水管のなかを勢いよく水が巡り、排水用の管へと流れ、庭の池へ放出される。歯車が高速で回りだす。盤の下で算木がいっせいに回る音がした。
二局目。清盛が勝った。三局目。清盛が勝った。四局目。清盛が勝った。十局目。清盛が勝った。
若乙の腕はだんだん速くなった。人の手ではない。賽を筒に入れる。振る。落とす。読む。駒を動かす。切る。上げる。戻す。塞ぐ。入れる。盤面を戻す。初期配置。ふたたび賽。ふたたび駒。ふたたび切る。ころころ。かちり。ぱし。ころころ。かちり。ぱし。音が重なっていく。
双六の音は、鍛冶場の音のようになり、やがて大雨の音になった。最後には、なにか大きな虫が部屋いっぱいに羽を震わせているような音になった。
若乙の後頭部には、清盛との対局数を数えて教えてくれるよう、数字の書いた筒を十数本横に連ねている。その筒が対局を重ねるごとにくるくると回る。五十局目。清盛が勝った。百局目。清盛が勝った。清盛は笑っていた。笑っているが、息が荒い。顔が赤い。もともと赤ら顔だったが、さらに赤い。茹でた蛸というのはこういう色だろう。福原の海で獲れた蛸でもこんな赤くはならないだろう。
「まだやるか」
法皇が聞いた。
「当たり前よ」
清盛がせせら笑った。だが、その声はすこし遅れて出た。
若乙は待たない。清盛の返事を聞くより先に、次の賽が落ちていた。
勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝ち続ける。
清盛は一度も負けていない。髑髏が賽の目の出方をねじまげ、清盛に都合のよい目が出る。若乙の駒は切られる。若乙は切られた駒を中央に置く。出目に応じて戻そうとする。戻れないなら、また盤面を読む。もっと早く読む。もっと早く負ける。もっと早く清盛を勝たせる。
こちらは不正を一切していない。盤の掟は守っている。敵の駒が二つ以上あるマスには入れない。ひとつだけなら切れる。切られた駒は戻さねばならない。全部の駒を自分の内陣へ入れた者が勝つ。
掟は守られている。だからこそ、清盛は勝負から降りられない。
「院、入道さまはずいぶん勝っておいでですね」と康信は言った。
「見れば分かる」
「ですが、勝ちすぎておいでです」
清盛の目が康信を向いた。その目の焦点がすこし合っていなかった。
「勝ちすぎると、人は負けた時より悪くなりますぞ」
「何を申す」
「負ければ恥を知ります。勝てば恥を忘れます。さらに勝てば、勝つ前の自分も忘れます。もっと勝てば、負けという考えそのものを忘れます」
「へ、三善などと言ったな。馬鹿にしよって」
清盛は鼻で笑おうとした。だが、その前に次の局が終わった。清盛が勝った。若乙はまた盤面を戻した。賽が転がった。清盛の肩がびくりと跳ねた。
「止めよ」
小さな声だった。法皇は聞こえぬふりをした。
「止めよ」
今度は少し大きな声で清盛は言った。
しかし若乙は止まらない。海の髑髏も止まらない。カラカラカラカラと笑い声が、賽の音に混じる。
「止めよと言っておる!」
清盛が盤に手を伸ばした。その瞬間、若乙の腕が動いた。ぱしん。清盛の手の甲が叩かれた。
「痛え!」
康信は驚いた。
日本秋津島はわずかに六十六か国。平家知行の国は三十余国。その棟梁である清盛入道が、木偶に手を叩かれて普通に痛がった。
都を動かし、六甲の山の木々を動かし、瀬戸内に運河を切り開いたときには普請をせかすあまり、沈みかけた太陽を扇で招きあげたと言われる男でさえも、手の甲を叩かれれば痛いらしい。
法皇はどこからか盃を持って、顔を真っ赤にした清盛をせせら笑うように、酒を飲みはじめた。
――福原の海にうっすらと曙のやわらかい光が見えるようになる。
若乙の頭を見る。数字の書かれた筒のうち、末尾から四本が九、九、九、九と表示されていた。末尾の九が零になると、そのほかの筒も一斉に回転して、一、零、零、零、零と表示した。
対局数、一万回。
駒の配置。若乙の内陣に石が十五個、すべてそろっていた。
一万回の学習の末、若乙は清盛から勝利をつかみとった。
清盛の口から、荒い息が漏れた。
「……都を京へ戻す」
清盛が言った。
「戻す。福原は、もうやめる。やめるゆえ、止めよ」
法皇は黙っていた。その沈黙は、清盛の怒号よりずっと恐ろしかった。
清盛の巨体が床に倒れる。汗が滴り、盤の縁に落ちた。駒がすこし濡れた。
それでも若乙は止まらない。
清盛が負けて膝をついても、若乙は盤面を戻す。清盛が白目を剥いても、若乙は賽を振る。清盛が盤面を見られなくなっても、若乙は自分の駒を動かす。清盛が許しを乞うても、若乙は清盛が駒を動かさなければ手を叩く。
康信は、法皇の魂胆にただただ戦慄した。
「康信、止めよ」と法皇が命じた。
康信は若乙の背に手を伸ばした。
管に栓をする。水が止まる。歯車の音がゆるやかになる。
若乙は賽をつまんだ姿勢のまま静止した。
部屋には、清盛の息だけが残った。
海の髑髏はまだそこにいた。
法皇が立ちあがって、部屋を歩く。
法皇は倒れている清盛の側を無視するように通ると、髑髏へ向かって言った。
「妖よ、これで満足か」
髑髏は一斉に笑った。
「ああ、満足したよ。俺たちはな、ただこいつが負けて死ぬところなんてみたくない。勝って勝って、どこまでも勝って、人生の絶頂に立った時に、ころっと負けて、そこから生きながら地獄に落ちてしまえばいいって思っていた」
海の髑髏が叫んだ。髑髏の口から海水がこぼれた。
「だから賽の目をねじまげた。馬鹿め、おごり高ぶりやがって」
するとたちまち髑髏はばらばらになり、数多の骸骨に分かれると、大輪田の海の水面に漂った。そして顔を出した太陽が光で海を照らすと、髑髏たちは泡沫のように弾けて姿を消していった。
清盛は立ち上がろうとした。
だが膝が崩れた。清盛は盤の縁に手をつくが、滑ってしまった。なんとかして盤にもう一度しがみつこうとしたが、駒しかつかめなかった。白い駒も、黒い駒もはじかれ、床に転がった。賽も転がった。
その清盛を、若乙のまがいものの目は冷ややかに見つめていた。
清盛は叫んだ。頬の赤みが一瞬で濁り、目も濁り、窪んでいった。
途端に部屋の外から足音が聞こえだし、幾人もの郎党たちが入ってきた。
「入道様!」
郎党たちは清盛に駆けより、清盛の身体を支えた。
清盛は「暑い、暑い」と言いながら、厚い衣をはだけると、その下から、汗と薬草のむせかえるような臭いがした。
「この負けの恨みを晴らしたければ、もう一度勝負しに来るように。ただ、そなたは次の一局を打てやしない」
法皇は清盛に言い捨てた。
郎党たちに肩を抱かれて運びだされながら、清盛はぎろりとした大きな目で法皇を見た。
法皇はひどく面倒くさそうな目をして清盛を見つめかえした。
都は京へ戻った。
帰京の日、康信は法皇一行と一緒に京へ行くことを許された。
法皇は輿の簾越しに福原を眺めていた。
立ち並ぶ屋敷の白木はすでにところどころ黒ずみ、土の塀はひび割れ、たった数カ月だけの都は早くも老いがはじまっていた。
大輪田の海には相変わらず宋船がいくつも浮かんでいる。
この都をつくった入道清盛はたった一度、双六で負けるまで勝ち続けた。
そう、勝ちすぎた結果、壊れた。
しばらくして清盛は熱病で死んだ。
その夜、康信は法住寺、つまり法皇の御所へ呼ばれた。康信は嫌な予感がした。
夜御殿――法皇の寝室へ康信が入ると、盤が置かれていた。
盤の向かいには若乙が管を繋がれた状態で座っていた。
「康信」
「嫌です」
「まだ何も言っておらぬ」
「言わずとも分かります」
「余は院ぞ」
「私は算道の下級貴族です。算博士でございますが、若乙のために双六の手を教える博士ではございません」
「違う」
「清盛を死なせたばかりで、いささか疲れております」
「違う!」
法皇はすくっと立ちあがった。
「若乙に勝てなくなってしまっての。儂はいったいどうやったら勝てるのか、教えてほしい。ほら、見ておれ」
法皇は部屋の隅の童に「栓を開けよ!」と言うと若乙の前に座った。童は栓を抜いた。きゅるきゅると音がして、若乙が動きだす。
法皇と若乙は盤に向かう。一局打った。若乙が勝った。「もう一局」と法皇が言った。二局目。若乙が勝った。「もう一局」と法皇が言った。三局目。若乙が勝った。「もう一局」。若乙が勝った。
康信は法皇の顔を見た。
清盛のようにはぎらつかず、ただいつもにたにたしていて何を考えているかわからない顔。しかし、院と清盛は、双六狂いという点では同じだった。
清盛は勝つことをやめられなかった。
法皇はいくら負けても遊ぶことをやめられない。勝ちつづけた清盛は港を作り、都を動かし、人を殺し、そして足元をすくわれて死んだ。
法皇は無様に負けつづけ、武士どもに幽閉されること数知れず、しかしすぐ敵の弱みを握り、復活するとその敵をひねりつぶし、好みの今様を呑気に歌う。
どちらも、人を駒だと思っている。ただ駒の動かし方が違うだけだ。
「院」
「なんじゃ」
「若乙は清盛を相手にしすぎたせいで、少し癖が残っております」
「どんな癖じゃ」
「相手が壊れるまで遊びます。その癖が抜けないかぎり若乙は負けないかもしれません」
康信はあくまで冗談で言った。法皇は笑った。
「よいではないか。壊れるまで遊ぼうぞ」
駒を並べ終わると法皇は口ずさむ。
遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとや生まれけむ
法皇は大きく息を吐いた。
「もうお主に用はない。下がれ」
「御免こうむります」
「……どうせ京から離れるんだろうに」
法皇はくくくと笑った。康信は法皇へ背を向けながら肝の冷えた思いがした。背後から賽の音が聞こえた。
ころころ。
ころころ。
ころころ。
康信は頼朝へ文を書いた。
清盛が死んだこと。法皇のこと。しばらくしたら京を発つこと。書けることを書き、書けないことは書かなかった。清盛の死因が双六で勝ち続けたということは書かなかった。書いたところで信じてもらえないだろうと思った。
それに、双六のことなんて書きたくない。頼朝も源氏の棟梁だ。どうせ面倒な男だろう。どうせ人を駒にするだろう。どうせ新しい盤を作るだろう。京という盤とは違う形の、もっと野蛮で、もっと実務的な盤を。
のちに康信は鎌倉へ下り、問注所の執事となった。
康信は東国のありとあらゆる裁判を処理しながら、鎌倉という盤のうえで、武家という打ち手がどう賽を振り、駒を動かすかを目の当たりにした。源氏は、政という双六が苦手だった。
落馬する将軍。
流される将軍。
優れた歌詠みの将軍。
そして源氏は切られ、北条の家が鎌倉を取りしきるようになった。
康信は天寿を全うし、八十歳を過ぎてから亡くなった。
ただし、双六は二度と打たなかったという。
【参考資料】
『平家物語』上巻 佐藤謙三(校注) 角川ソフィア文庫 1959年
『盤双六の5種類の遊戯法の由来』 高橋浩徳(著) 大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要(第26号) 2024年
『【Physical AI】麻雀牌を切る動作をロボットアームに学習させてみた【模倣学習】』
https://nttdocomo-developers.jp/entry/2025/12/23/090000_8 ドコモ開発者ブログ NTTドコモR&D 2025年12月23日
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