ゐ臓

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梗 概

ゐ臓

主人公・唐木は健康診断で奇妙な影が見つかる。胃と脾臓の隙間に、胃の形をした小さな臓器があったのだ。ネットで偽の胃「ゐ臓」と呼ばれる稀な症状。突然変異の奇形とされ、害も益もない無用の臓器だが、不気味に思った唐木は仮想空間の「地図」に入り原因を調べる。

ヒトゲノムの配列が解読され数十年、研究はその三次元的な構造へ移っていた。ゲノムの折り畳み方は個人差があり、構造によって誘発される遺伝子も変わる。
かつて成果を盗用され研究者の道を絶たれた唐木は、ゲノム構造を表現する地図会社を創業。地図は製薬会社に高く評価されたが、すぐに海賊版が出回った。研究を残せなかった唐木にとって地図は生きた証で、唐木はコピー対策に躍起になった。

自らの地図を唐木は歩く。機能で色分けされた紐の道を上っては下り、ぐちゃぐちゃに畳まれた深部へ入り、ゐ臓を誘発する構造を探す。
そして異常を見つける唐木。地面がこじ開けられ空洞となっていた。地図職人の経験から人工要因と踏んだ唐木は、常飲する取引先A社の薬の薬害を疑う。

そこで唐木はメンテを称しA社の地図に入るも閉め出される。
隠蔽を確信し、研究者の妻と薬の特許を分析。薬が稀に空洞を生む — 進化過程で失った器官の遺伝子を開き、ゐ臓を作ると突き止める。薬は販売中止に。

原因は解明したが、唐木は満腹の度にゐ臓で圧迫される錯覚に陥る。食欲が減り、海賊版の訴訟も長引きやつれていく。
そんな中、妻が待望の妊娠。唐木は証への執着から解放された気分になる。

しかし子のエコーにはゐ臓の影が2つもあった。唐木は戦慄。ゐ臓は遺伝し、しかも世代ごとに複製・倍増されると考える。だとしたら孫世代は4つ、そしてどこかの世代で内臓が圧迫され生まれられなくなる。だが科学的証明は無く稀な症状で世間の関心は薄い。

調査で再びA社地図に入る唐木。そこで空洞の隣に、自分の地図にはない道を発見する。昔、唐木が海賊版対策の一つとして、コピーの証拠になるよう古い地図に仕込んだ偽の道=トラップストリートだった。
A社は海賊版をコスト削減で併用していた(当初拒んだのもその為)。そして偽の道を信じ、周囲を標的とした薬を開発。それが偶然ゐ臓を作ったのだ。

自分が元凶だったと唐木は絶望。更に他国の薬でもゐ臓が発生する。もはや地図がどこまでコピーされ、どんな薬が生まれたのか追いきれない。
唐木は事実を公表するも世の対応は鈍い。確認された被害はまだ一部で、ゐ臓は無害。危機が迫るのは何世代も先だからだ。

だが我が子にはゐ臓がある。子は子を持つことをどう思うか。唐木は当事者として誰よりもその不安を知っていた。
出産に立ち会い唐木は決意。世界の対応を待ってはいられない。自分にできるのは地図作りだけ。人にゐ臓があるのが前提の地図を作れば、治療薬開発に繋がるかもしれない。
唐木は生まれた子を抱きしめ、一滴の血を採取し、そこから新しい人間の地図を描く。

文字数:1198

内容に関するアピール

ヒトゲノムは、史上最も偉大な地図 — ヒトゲノム解読に際し、クリントン元大統領はそう言った。ただ配列は解読されても、全体の98%を占める非コード領域の意味や、折り畳み構造については謎が多い。

本作はゲノム研究が進んだ時代の「地図」職人の物語。
現実でもゲーマーが空間認識能力を活かし、タンパク質構造を解いた例がある。その延長として、主人公は中に入れる3D地図を作り、通常なら見えない角度からの構造をも観察する。だが自分の作品を守るべく入れた仕掛けが、意図せず「ゐ臓」を生み、制御不能となってしまう。

作品のテーマはコピー。コピーは盗む行為であり、繋ぐ行為でもある。生命自体もコピーの仕組みだ。そんな様々なコピーの姿を描く。

なおトラップストリートは現実の地図業界に実在する手法。故意に架空の道路を記載し、無断複製された時の証拠に使う。またゐ臓の倍増は自己複製するトランスポゾン的な仕組みを想定。

文字数:391

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ゐ臓

唐木一貫からきいっかんのゐ臓が見つかったのは、脂肪肝のMRI検査だった。中性脂肪が基準値の倍を叩き出し、しぶしぶ受けた精密検査で、胃と脾臓の間に3cmほどの影が写ったのだ。楕円形のそれは、はじめは悪性腫瘍が疑われたが、腫瘍ではなく臓器だった。仕事柄、人体の構造には詳しい唐木だったが、こんな臓器を見たのは初めてだった。
「層構造がある。血管ともつながっている」
大学の同級生でもある医者が、MRI画像を指しながら言った。
「副脾とは違うんだな?」
唐木は尋ねた。副脾とは先天性の変異で、脾臓の隣にできるしこりのことだ。
「僕も最初はそう思った。だが君の臓器は、内部が空洞なんだ。小さいけれど、しこりじゃない。それに生検で直接採取した組織は……」
医者はためらいながら続けた。
「胃粘膜と同じ構造をしていた」
「おいおい。おれには胃がふたつあるのか?」
唐木は笑ったが、医者は肯定も否定もしなかった。
「臓器として機能はしていない。神経系にもつながってないらしい。らしいってのは、ここ数年でいくつか似た症例が報告されているみたいなんだ。迷入性胃器官発生症、って呼ばれてるんだけど」
モニターに向かって論文データベースを叩き、医学ジャーナルの要約を表示する。
「副脾とは違って、後天的な突然変異とされている。害もなければ、益もない。ただそこにあるだけの、言ってしまえば無用の臓器だ」
「取らなくていいのか?」
医者は首を振った。
「切除しても、時間が経つと再生するようだ。そこは肝臓みたいだな。まあ大きさも変わらないらしいし、放っといてもいいんじゃないか」
「さっきから随分と曖昧だな」
唐木が身体を揺らすと、シャツから腹の肉がはみ出した。
「仕方ないだろ。症例が少なくて、論文もほとんどないんだ。少なくとも君の場合は、中性脂肪のほうがよっぽどリスクが高い。薬は別で処方されてるんだろ?ちゃんとそれを飲むんだな」
ふん、と唐木が鼻を鳴らした。
「知り合いだからって、適当言ってるんじゃないだろうな」
医者は目を見開いた。
「……久しぶりに会ったが、唐木。体型も見違えたが、中身も変わったな。学生の頃は、もっとなんというか、素直だった」
「馬鹿だっただけだ」
唐木が吐き捨てると、医者は「ジャーナルのデータ送っとくから」とだけ言ってモニターに向き直った。
帰宅して調べてみると、医者の説明は、実際のところ的を射ていた。迷入性胃器官発生症について、日本語の文献はほとんど出てこない。原因不明であり、無用の臓器という点も、医者の説明と一致していた。唯一役に立ったのが希少疾患のコミュニティで、そこでは臓器が「ゐ臓」と呼ばれていた。偽の胃、ということらしい。
ゐ臓の保有者たちは、体内に原因不明の臓器が現れたことを、一様に不気味に感じていた。それを読んでいるうちに、唐木も自分の身体に、なにか得体のしれない生き物が棲みついている気がしてきた。それで思わず、白米を3合、炊飯器ごと抱えてかっこんだ。いくぶん気分が落ち着いて、気休め程度に肥満防止薬を飲んだが、白米の栄養分がゐ臓にも流れると思うと、また腹立たしくなってきた。
このままでは、仕事にも集中できない。原因がわからないなら、おれが突き止めてやる。唐木は書斎でゴーグルを装着し、ゲノム地図へと入っていった。

仮想空間の中で、唐木は紐の道を歩く。両腕を広げたくらいの幅の道が、縦横無尽に曲がりくねっている。この紐は、唐木自身のDNAを表現していた。
2022年に配列が完全解読されたヒトゲノムには、未だに謎が多い。ぐちゃぐちゃに折り畳まれたゲノムは、その構造によって、誘発される遺伝子が異なるためだ。同じ配列でも、ある部分が畳まれているかどうかで、発症する病気も変わってくる。
このゲノムの3次元構造を、「地図」として表現するのが唐木の仕事だった。元々ゲノム地図は創薬現場で使われていたが、こうして中へ潜ることで、内部構造まで確認できる地図を作ったのが唐木だった。製薬会社から高く評価され、地図プラットフォームを提供する会社を立ち上げたのが、いまから15年前のことだ。
唐木は上り坂へと入る。半透明の道は、ところどころ機能に応じて、青や橙で塗り分けられている。坂は徐々に勾配を上げ、ジェットコースターのようにぐるりと巻き上がっていた。唐木の100kgを超える巨体も、仮想空間のなかでは軽やかに持ち上がる。さらに奥に入ると、道は複雑さを増し、上へ下へと何往復も折り返されていた。道そのものが壁をつくり、天井をつくり、視界を埋め尽くしていく。毛糸玉の内側のような景色を、唐木は進み続けた。
唐木がゐ臓の原因として目をつけたのは、胃の形成に関連する区間だった。中でもいま歩いているのは、昔は「ジャンクDNA」と呼ばれ、なんの機能もないと考えられていたエリアだ。研究が進むにつれ、そういった区間にも、なんらかの機能があることがわかってきた。
角を曲がると、地面が白く光っていて、思わず唐木は立ち止まった。光の中では道同士が折り重なり、接点が生まれている。まるで大通りをつなぐ細い道のように見えることから、業界では「路地」と呼ばれるポイントだった。
路地では、ゲノムの離れた区間同士が物理的に接近し、新たな遺伝子が誘発されるケースが多い。だからこそ製薬会社は、薬の標的に路地を選ぶ。薬で接点を固定すれば、誘発される遺伝子を操れるからだ。そんな路地を、毛糸玉の内側からも観測できることが、唐木の地図の強みだった。
だがいま唐木の目の前にある路地は、普通とどこか違っていた。まるでペンチでねじ曲げられたように、不自然な曲がり方をしていたのだ。違和感を覚えた唐木は、地図のバージョンを一年前に戻してみる。すると目の前にあった路地が、すっと消えた。ここ一年の間に、新たに生まれた接触点らしい。
ここだ、と唐木は思った。この路地ができたことによって、新たな遺伝子が誘発され、ゐ臓ができたのではないか。そしてこの不自然な曲がり方は、人工的な作用 —— つまり薬によるものではないか。

そこまで考えたところで、唐木は現実に引き戻された。部下からの通話だった。興奮さめやらぬまま、ゴーグルを外してそれに応じる。
「インドの弁護士事務所からまた書類です」
部下がくたびれた声で言った。
「うちのフォールドマップの技術要件を整理してほしいと」
「この前出したばかりだろ」
「あっちの裁判所が要求してるみたいで。あと深圳の海賊版の件も、来週までに」
唐木は舌打ちをして通話を切った。目をこすりながら、デスクに積まれた書類に目を通していく。
ゲノムの3次元データは複雑で膨大だ。それを扱いやすい形で整理するためには、創意工夫が必要となる。道路地図と同じように、ゲノム地図にも著作権が認められるのはそのためだ。
にもかかわらず、いまでは地図の海賊版が、世界中で出回っていた。あらゆるコピー対策を施してきたが、まるでイタチごっこだ。海賊版を一部混ぜ込んだ正規品や、海賊版の海賊版まで流通しており、収拾がつかない。
5年前、裁判の進捗が悪いことに唐木は怒り狂い、自ら法務の指揮を取るようになった。いまでは仕事時間のほとんどを、こうして海賊版への対応に費やしている。暴食の日々が始まったのもそのせいだった。
1時間ほどして、旧態依然とした紙の手続きに気が狂いそうになった唐木は、立ち上がって台所へ向かい、炊飯器のスイッチを入れようとした。そこでさっき飲んだ肥満症の薬の「常和製薬」という文字を見て、あっと声をあげた。

「いっそ、地図を公開しちゃったら? Googleマップだって無料で使えるじゃん」
三日後の朝、妹のりつはパフェをすくいながら言った。ゐ臓の件で、唐木が近所のファミレスに呼び出したのだった。
「地図とゲノム地図は違う。そういう会社は他で稼いでいて、おれたちにそんな余裕はない」
唐木が言い返すと、すぐに律が反論する。
「にしても、海外企業相手の裁判なんて、絶対不毛だよ。正直、いまじゃどこの地図を使ったって、構造データに大した違いはない。わたしたちの部署も、調達先の見直しをするって話だし」
律は中堅製薬会社である常和製薬の、基礎研究部門で働いている。だから地図のことも —— それからあの薬のことも、それなりに詳しいはずだった。
「おれの地図は、おれしか作れない。おれの作品を、盗むことは許されない」
ステーキを口に押し込みながら唐木は言った。律が眉をひそめる。
「朝からステーキって。身体に悪いよ」
「お前だってパフェ食ってるじゃないか」
「妊娠してから、甘いものが欲しくなったの」
苺を慎重に運びながら、律は口を尖らせる。
「元からそうだったくせに。だからお前も、妊娠前は飲んでたんだろ」
そう言って唐木が卓上に置いたのは、「ヤセリラ」という肥満防止薬だった。血糖値を下げ、胃の吸収を抑える効能を持つ。「痩せ」を想起させる露骨な名前で流行った薬は、常和製薬の製品だ。前に飲んでいたという律に紹介されて、唐木も半年前に処方してもらった。常和は唐木の取引先でもあり、営業の話題になるという下心もあった。
「……やっぱり、ヤセリラが原因なのかな」
律はうつむいて、少し膨らんだ自分の腹を撫でた。そこにはもうすぐ4ヶ月になる胎児と、それから別の異物が棲んでいる。
「おれたち両方が飲んで、胃に効能をもつ。これしかないだろ」
「病院には気にしなくていいって言われたんだけど。でも、赤ちゃんのこともあるし」
ゐ臓がもし薬の副作用だったとしたら、毎日飲んでいるヤセリラが怪しい。そして似たゲノム構造を持つ兄妹であれば、同じ薬に対して同じ反応がでやすい。その唐木の悪い予感は、的中してしまった。律にも精密検査を勧めたところ、ゐ臓の存在が判明したのだ。
「一通り論文を調べてみたんだけど、胎児への影響について書いたものはなかった。そもそも症例が少ないし」
律はスプーンを置いて言った。揺れる瞳には研究者としての理性と、母親としての感情が混ざっている。
「……明人に言ったら、障害を持った子が生まれるんじゃないか、とか動揺しちゃって」
明人とは律の旦那だ。唐木も一度だけ食事をしたことがある。ニコニコと外面ばかり良さそうな性格は、まるで馬が合いそうになかった。
「お前の会社だろ。ヤセリラの臨床記録は見られないのか」
唐木が尋ねると、律は首を振った。
「そんな権限ないよ。別部署だもん。まさか証拠でも掴もうとしてる?」
唐木は頷いた。
「これが薬害だとなれば、世間は注目するはずだ。そしたら、ゐ臓の研究も進むだろう」
律は呆れたようにため息をついた。
「だったら常和の創薬地図に入ればいいんじゃない?お兄ちゃんの会社は、地図のプラットフォームごと提供してるじゃん。薬効シミュレーションを見ればなにかわかるでしょ。ほら、その手があったか、みたいな顔してる」
図星だった。常和は唐木の取引先なのだ。常和の地図をみれば、なにか証拠が見つかるかもしれない。
「いきなり地図を見せてくれ、なんて言ったら怪しまれるだろ」
「なに言ってんの。メンテに入りますとかなんとか、適当な理由つくればいいのよ」
唐木は押し黙った。グレーゾーンではあるが、たしかに可能だ。
「お兄ちゃん、やっぱり経営者なんて向いてないと思う」
律は口元を丁寧に拭いて、身を乗り出した。
「研究に戻ったら?うちでよければ、紹介くらいできるよ」
「いらない」
唐木はぽつりと呟いた。牛肉にフォークを突き立てると、赤い肉汁が皿へと染み出していく。
「おれには、地図しかないんだ」

その夜、唐木は律のアドバイスに従い、メンテナンスを称して常和の創薬地図へと入りこんだ。先日見かけた、ねじ曲げられたような不自然な路地を探して、紐の深部へと歩いていく。
あのとき入った唐木個人のゲノム地図にくらべれば、ここは道の曲がり方が滑らかで、入り組んだ路地も少ない。まるで再開発された街のように、随分とすっきりとしている。地図の製法自体が異なるためだ。
そもそもゲノムの三次元構造は、どんなに優れた顕微鏡を使ったとしても、直接見ることはできない。長さ2mのゲノムは、わずか5μmの核に押し込められている。あまりに小さく、高密度な毛糸玉の構造は、外から見たところでなにもわからない。そこで「Hi-C」と呼ばれる手法で一度毛糸玉をほどき、バラバラに刻んでから、計算によって構造を推測する。それが個人のゲノム地図となる。
そしてその個人地図のサンプルを、数千人分統合したものが、唐木の歩いている「創薬地図」だ。推測に過ぎない個人地図のデータを、アルゴリズムに学習させ、共通構造を表現する。するとノイズが消えて、整然とした道だけが残る。製薬会社はこの創薬地図をもとに、新薬を開発するのだ。
5分ほど歩くと、水色の粒子の川が目の前に現れた。宙に浮いて流れるそれは、ヤセリラの薬効シミュレーションだ。唐木は川の下流に向かって歩き続けた。川は思った通りの方角へと向かっている。やがて辿り着いた角を曲がると、唐木の探していた景色が見つかった。薬効の川が、あの不自然にねじ曲がった路地を流れていたのだ。ヤセリラがゐ臓に関係していることの、有力な証拠になりうる。
だが唐木がそのデータを保存しようとした瞬間だった。突然、視界がブラックアウトした。慌ててゴーグルを外すと、いつもの書斎にいた。しばらくして、唐木は自分の身に何が起こったかに気づいた。常和製薬の地図から、強制的に追い出されたのだ。

「ゐ臓の原因が、ヤセリラにあることは間違いない。しかもお前んところの会社は、恐らくそれを隠蔽している」
翌日、唐木は鼻息荒く、通話で律に告げた。
「外から入れないなら、やっぱり内から攻めるしかない」
律は黙ったままだ。唐木は続ける。
「お前にはアクセス権限がないと言ってたが、たとえば特許ならどうだ。化学構造が公開されてるだろ。お前の知識なら、おれの仮説と組み合わせて、証拠に近いものを出せるんじゃないか?それを持って、マスコミにリークするとか……」
興奮に任せるまま喋ったあと、なに考えてんの、とあしらわれると思った。だが返ってきたのは、意外な言葉だった。
「いいよ。記者やってる友達いるし」
「いや、でも、お前のキャリアに悪いぞ。やめたほうがいい」
自分の提案なのに、思わず引き止めてしまう。
「もし本当に隠蔽してるなら、そんな会社こっちから願い下げよ。それに……」
ためらうような口調に、唐木は黙って続きを促した。
「堕ろそうって、明人が。もし、その、そういう子が生まれたら。育てる自信がないって」
絞り出すような声だった。唐木は無意識に手のひらを、自分の腹へと当てていた。

 

 

ゐ臓を生み出すメカニズムは、律の協力もあって、ものの一ヶ月で全容が見えた。原因はやはり、ヤセリラにあった。
薬は意図せずゲノムの折り畳み構造に作用し、新しい接触点 —— 路地を生み出した。そしてその路地は、閉じていたはずの遺伝子を誘発した。本来は胎児の発育過程で使われ、そのあとは役目を終えるはずの「胃をつくるプログラム」を再起動させてしまったのだ。
こうして生まれたのがゐ臓だった。一度開いたプログラムは、ゐ臓を何度でも再生させてしまう。
常和製薬はこの事実を認め、ヤセリラは販売中止となった。隠蔽こそ否定しているものの、真相はじきに明らかになるだろう。流行りの薬から生まれた、謎の臓器。ゐ臓はここで初めて、世間の耳目を集めることとなった。
だが予想外だったのは、ゐ臓と同じくらい、告発した律自身が話題となったことだ。記者の友人に背中を押され、律は報道の前面に出た。薬害を生んだ会社の研究者でありながら、自身が被害者ともなった母は、悲劇の告発者として脚光を浴びた。律が会社を去る結果になったことも、話題性を後押しした。

一方の唐木は、釈然としない気分のまま、相変わらず書類作業に追われていた。
「原因を見つけたのは、おれだ」
唐木は呟いた。告発までの絵を描いたのもおれだ。それなのに、誰もおれのことなど気に留めない。幼稚な嫉妬だとはわかっていたが、どうしてもこの状況に、かつての構図を当てはめてしまう。
唐木はもともと研究者を目指していた。ゲノム構造の微細な接触点を、三次元で復元する。いまの地図に不可欠な技術を、教授と一緒に確立した。だが科学誌に掲載された論文に、唐木の名前はなかった。唐木がそれを問いただすと、逆に教授は唐木のことを糾弾した。唐木が研究室の成果を、不正に主張していると申し立てたのだ。大学は教授の言い分を認め、唐木の居場所はなくなった。唐木は地図作りへと、キャリアを変えざるをえなかった。
それ以来、唐木は自身の作るものに執着するようになった。守らなければ、奪われる。地図の海賊版が出回ったとき、はっきりとそう自覚した。ウォーターマークにフィンガープリンティング、難読化……社員にも呆れられるほど、執拗にあらゆるコピー対策を繰り返してきた。だが盗人たちは、どんな網も潜り抜けてしまう。
研究であれ製品であれ、作品と呼ばれるものたちは、自分の費やしてきた時間そのものだと、唐木は考えている。すなわちそれは、差し出した命そのものだ。だから作品を奪われることには、まるで命を削られるような痛みがあった。
書類作業に嫌気がさした唐木は、今日も台所へ行き、炊けたばかりの米を口に運ぶ。白米を噛み締めると、甘い香りが口の中に広がって、気分が落ち着いていく。だがきっちり2合を食べ終わったところで、胃を押し返されるような苦しさを覚えた。唐木はうずくまり、身体を曲げて嘔吐した。涙の滲んだ目で、さっき飲み込んだばかりの白米を見つめる。
最近の唐木は、食事のたびに、強烈な異物感を覚えていた。もちろん3cmしかないゐ臓が、胃を圧迫することなどありえない。改めてMRIを撮り直してみたが、医者にも心理的な錯覚だと断言された。
だが落としたものを拾おうとして身を屈めたとき。あるいは夜に寝返りを打ったとき。日常のふとした瞬間に、ゐ臓の存在を感じた。ゐ臓が内側から膨らんでいって、最後は身体ごと破裂してしまうのではないか。そんな妄想に苛まれ、寝不足の日々が続いていた。
このままでは身体がもたない。医者に連絡しようとスマホを握ったところで、ちょうど届いた通知をタップしてしまった。律からのメッセージがずらりと展開される。昨日から何度か連絡があったが、開く気がしなかった。仕方なく内容を確認すると、何枚かの写真が送られていた。白黒の写真は、胎児のエコー画像のようだ。そのうちの一枚を見て、唐木はすぐにかけ直した。
「見た。たしかなのか?」
唐木が尋ねても、律はすすり泣くばかりだった。
「遺伝するとはな……しかもそんなふうに」
3Dエコーに混じった、胎児MRIの画像。そこには、胎児の胃の隣に小さな臓器が写っていた。ゐ臓だった。それも、2つある。
「まさか増殖するのか?」
唐木は震える声で言った。
「いや、しかしありえないこともない。もしトランスポゾン的な仕組みを持っているとすれば……」
「産んでいいのかな」
律がつぶやく。
「いいに決まってるだろ」
唐木は即答した。
「2つあったところで、ゐ臓のサイズなら害はない」
「そういう問題じゃない!」
律が叫んだ。
「この子は一体、これからどんな不安を抱えて生きていくの。私を恨む?」
答えられなかった。唐木自身も抱える不安だった。そしてゐ臓がもし、世代間で増えていくとしたら。
「ねえ、大きくなったら、この子は、子を持つことをどう思うんだろ?」
取り乱す妹に、唐木の頭はむしろ冷静になっていた。成果を横取りされた、などと考えていた自分は、いかに愚かだったのか。
「ごめん。お兄ちゃんには、わからないよね」
「ちょっとは、わかる」
床の吐瀉物を眺めながら、唐木はそう答えた。

ゐ臓は、遺伝する。しかも世代間で、倍増しながら。
2ヶ月後、スイスの研究機関が、その仕組みを突き止めた。原因は「トランスポゾン」と呼ばれる遺伝因子だ。トランスポゾンは自身をコピー&ペーストして、ゲノム上の別の場所に挿入する。それによって、元の場所に配列を残したまま、増幅していく。
このトランスポゾンもまた、薬によって目覚めてしまったのだ。ヒトゲノムの45%は、トランスポゾンの残骸だとも言われている。胃をつくる遺伝子の隣に、眠っていてもおかしくはない。
目覚めたトランスポゾンは、胃をつくるプログラムごとコピーする。コピーは生殖細胞の分裂時に発生するため、世代を経るごとにゐ臓の数は倍増していく。親世代で1つだったゐ臓は子世代で2つに、孫世代では4つに。ねずみ算式に増えていけば、いずれどこかの世代で、体内のスペースが足りなくなる。内臓が圧迫され、胎児が生まれられなくなる。
この事実はすぐに公になり、大騒動となった。これまで「薬害と悲劇の告発者」という物語に包まれていたゐ臓そのものが、関心の的になったのだ。自分やパートナーは、大丈夫か。不安を覚えた人々が検査へ殺到した結果、ゐ臓の新たな保有者が続々と発覚した。ゐ臓は考えられていた以上に、静かに広まっていたのだ。その中には、ヤセリラを飲んだことのない人々も含まれるという噂だった。憶測が憶測を呼び、ネットの一部では、ヒロインだったはずの律へ非難が飛んだ。
子を産むな。人類を滅ぼす遺伝子を残すな。
直視できない誹謗中傷が相次いだ。それを見た律の夫は、離婚を切り出したらしい。守られるべき存在に傷つけられ、ついに律は体調を崩し、入院してしまった。
唐木は連日、彼女の見舞いに訪れた。会うたびに律の身体は痩せ細り、腹だけが大きく膨らんでいった。そのコントラストに、唐木はやり場のない憤りを覚えた。それでも律は、自分の腹を愛おしそうに撫でた。
「もうすぐ会えるね」
こけた頬で微笑みながら、胎児に語りかける彼女を見ると、唐木は俄然燃え上がった。仕事そっちのけで書斎に篭り、ゐ臓の複製について調べ続けた。だが調べれば調べるほど、粘膜層、筋層、漿膜、すべてが正確に再現されるコピーの精度に驚いた。憤りとは裏腹に、完成度の高さに感心してしまう自分がいた。そのことに気づき、唐木は慌てて目を逸らした。

「Ectopic Gastric Organogenesis Syndrome(迷入性胃器官発生症)、通称EGOSについて、『特定』と『根絶』の両面から対応を急いでおります」
記者会見で、WHOの事務局長は力強く述べた。
「『特定』とはEGOSの保有者や原因となる薬を特定することです。こちらは急ピッチで進捗しており……」
嘘つきめ、と会見を見ながら唐木は毒づいた。進捗がないことを唐木は知っていた。WHOの主導するコンソーシアムには、唐木も招聘されていたからだ。表向きは3D地図の専門家として、ということだったが、唐木自身がゐ臓の当事者であること、それから有名な律の兄であることが、人選に影響したのは明らかだった。
「現在のところ、保有者数は全世界で数万人程度と見積もられており、大きな影響はないとみられ……」
これも嘘だった。ヤセリラの販売中止後にも、新たな保有者が次々と見つかっている。保有者の地域や年齢は幅広く、すでに一企業の薬害の話ではない。ゐ臓にはもっと、別の原因があるはずなのだ。
潜在的な保有者数は、ひょっとしたら桁の違う規模感かもしれない。それすらもわからないのは、ゐ臓が無害で無症状だからだ。これこそがゐ臓の厄介なところだった。ゐ臓は精密検査でしか判明しない。だが世界中で何割の人が、そのような検査にアクセスできるだろうか。影響範囲は、まったくの未知数と言って良かった。
「その上で『根絶』とは、EGOSを根本治療する新薬や、遺伝を防ぐ新薬の開発です。こちらも各国政府と連携しながら……」
そんな状況だから、新薬の開発など進むはずもない。ゐ臓をゲノムレベルで治すには、起きた遺伝子を再び眠らせる必要がある。だがそれには正常な遺伝子までを、巻き込んでしまうリスクが付きまとった。そもそもの話、創薬というのは5年や10年の単位で行われるプロジェクトなのだ。

唐木は会見映像を消し、ゴーグルを装着する。コンソーシアムの立場を利用して、今度は正式に、常和製薬の創薬地図へ入る許可を得ていた。ずっと抱えていた、違和感の正体を確かめたかった。
数ヶ月前に歩いた道を、唐木は再び行く。薬効の川を下っていくにつれ、胸騒ぎが大きくなってきた。おれはなにかを、見逃している。そうして角を曲がり、ゐ臓を生み出した路地に到着したとき。唐木は愕然とした。
目の前にあるのは、薬によってねじ曲げられたゲノムの路地だ。だがその不自然な路地の隣に、もう一本、自然な角度で生えた、別の路地があった。
この2本目の路地は、唐木の個人地図には存在しない。にもかかわらず、唐木はこの路地のことをよく知っていた。
これは、おれの作った路地だ。
足元が崩れていくような感覚を覚え、唐木は思わず座り込んだ。10年以上前の出来事が、停止中の映像を再生するように、鮮明に流れ始める。
それは地図の海賊版が、大量に出回り始めた時期のことだった。コピー対策に躍起になった唐木は、コピーされた「あと」の対策にも取り組んでいた。将来的に訴訟を起こすなら、海賊版であることを証明しなければいけない。だが単なるウォーターマークなどでは、容易に改竄されてしまう。
そこで唐木が目をつけたのが、「トラップストリート」と呼ばれる手法だった。
トラップストリートは、道路地図でむかしから使われる、伝統的なコピー対策だ。地図の制作者が、地図にこっそりと架空の道を記載する。地図を無断複製されたときに、その道があれば、複製者は言い逃れができない。文字通り罠の道だ。BBCの調査によれば、ロンドンの道路地図だけで、100本以上のトラップストリートが描かれているという。
この最もアナログで効果的な罠を、唐木は踏襲することにした。10年以上前、当時ジャンクDNAとされていたゲノムの深部に、小さな嘘の路地を複数仕込んだのだ。そのうちの一本が目の前にある、この路地だった。
呼吸が荒くなっていた。くらくらと目眩がする。
たとえジャンクDNAであったとしても、ゲノム地図に偽情報を入れるなど、本来あってはならない。何より、不純物の混ざった作品を残すことは、唐木のプライドに反していた。現にその後思い直した唐木は、すべてのトラップストリートを地図から削除した。だがすでに海賊版として、出回ってしまっていた。
落ち着け、と自分に言い聞かせながら、唐木は立ち上がり、トラップストリートをわたる。あの道を入れたことを、職業人生の汚点として苦々しく思っていた。だからこそ、10年以上が経っても、これが嘘の路地であることを、唐木は確信していた。
「一つずつ整理しよう」
唐木は独り言をつぶやきながら、自問自答する。
「ここにトラップストリートがあるのはなぜだ?簡単だ。常和が海賊版を利用したからだ」
製薬会社が創薬地図をつくるには、何千人分もの個人地図のサンプルが必要になる。おおかた費用削減のために、正規の地図に加え、安価な海賊版を学習データとして混ぜ込んだのだろう。海賊版のほとんどにトラップストリートが含まれていれば、アルゴリズムはそれを個々人の共通項だと判断する。結果、最大公約数である創薬地図にも、トラップストリートが反映されたのだ。
「とすると、隠蔽は嘘じゃなかったのか」
唐木は一人で納得する。唐木を地図から追放したのは、薬害を隠蔽するためではなく、海賊版の存在を知られたくなかったからではないか。
「いや、内情なんてどうでもいい」
唐木は頭を振った。重要なのは、なぜここにトラップストリートがあるのか、という原因ではない。ここにトラップストリートがあると何が起こるのか、という結果のほうだ。
「考えろ。最悪の想像をしてみるんだ」
唐木は足元を睨んだ。ヤセリラの薬効の川が、唐木が立つトラップストリートの上にも、太く注ぎ込んでいた。
「常和はトラップストリートを見て、実在する路地だと思い込んだ……それで、この嘘の路地を、標的とする薬を作った。そうだ。存在しない接点を、固定しようとしたんだ」
当時はジャンクDNAだと思われていたこの区間も、いまでは胃に関する遺伝子群があることがわかっている。この路地を標的とすれば、ヤセリラの薬効に有意だと判断したのではないか。
「そしたら、なにが起こった?この嘘の路地を標的にして、何が生まれた?」
深呼吸しながら唐木は考えた。動悸が止まらなかった。
「普通は、空振りするはずだ。だがそうはならなかった」
薬は存在しない接点を固定しようとして、道同士を無理やり引き寄せたのではないか。ゲノムをねじ曲げ、新しい路地を作ってしまったのではないか —— ゐ臓を生み出した、あの路地を。
「嘘の路地が、本当になってしまった」
全身の鳥肌が粟立っていた。視界がぐにゃりと歪んでいく。
「おれのトラップストリートが、ゐ臓をつくったんだ」
すべての元凶は、唐木にあった。
いまにも叫び出しそうになりながら、唐木は地図を見渡した。ゲノムを、人間そのものを表現した、自分の作品を見渡した。
地図とは、世界の基準だ。単なる薬害なら、薬を止めればいい。だが薬をつくるための、基準自体が間違っていたとしたら。その影響は、どれほどのものになるだろうか。一体、いくつの海賊版が生まれ、そこからいくつの薬が、そしていくつのゐ臓が生まれたのか。
かつて自分が描いた道が、地平線の向こうまで伸び、世界中へ広がっていく光景を想像した。その途方もなさに圧倒され、唐木はいつまでもその場に立ち尽くした。

 

 

新生児の身体は、驚くほど軽かった。力を入れ間違えると、そのまま崩れてしまいそうで、唐木は微動だにせず固まった。律がくすくすと笑っている。その頬には、以前より赤みが増していた。
シングルマザーとして、ゐ臓を持つ子を産む —— 律の決断を、唐木は全力で支えた。入院手続きから面会、退院の手配まで、唐木ひとりで全部済ませた。
赤ん坊があくびをした。小さな命が放つ輝きは、自分などが触れてはいけない神聖な存在に思えた。まだ十分に見えない目はきょろきょろと動き、必死に世界を観察している。人間だ、と唐木は思った。腕の中に、律の遺伝情報を受け継いだ、小さな人間がいた。この小さな身体のなかに、ゐ臓がふたつも入っているなんて、とても信じられなかった。
頭のなかで、赤ん坊のゲノム地図が展開され、トラップストリートが伸びた。道は赤ん坊の子へ、またその子へと続いていく。気づけば唐木は涙を流していた。
もうおれは、目を逸らさない。おれは、おれにしかできないことをやる。決意を固め、小さなお腹に頬をすり寄せると、赤ん坊はふにゃふにゃと泣き始めた。

書斎からオンライン会議に参加すると、WHOのコンソーシアムは、いまだに保有者の特定方法について議論していた。トラップストリートのことを、唐木は伏せていた。案の定、まだ誰も気づいていない様子だ。
とはいえ、地図に原因がある、ということ自体は、そのうち気づかれるだろうと唐木は踏んでいた。だがそこからが難しい。製薬会社の創薬地図は、製造工程がブラックボックス化している。そこに海賊版を混ぜ込んだことを、各社は認めようとしないだろう。正規の地図を使っている限りは、地図会社に責任を押し付けられるからだ。トラップストリートという結論に至るまでは、まだ時間がかかるだろう。
「実際、そこまで急ぐ必要があるのでしょうか」
議論が膠着状態になったところで、アメリカ人の研究者が言った。
「シミュレーションによれば、出産に致命的な影響を及ぼすゐ臓の数は、13以上。つまりゐ臓を一つ保有するのが第1世代だとすれば、最短でもあと4世代分もの猶予がある」
場が静まり返った。薄々思ってはいたが、口に出すのは憚られることを、代わりに言ってくれる。静寂は、そんな期待を表しているようだった。
「人類にとっては、100年単位の時限爆弾とも言えるわけです。であれば根絶以外にも、『どうやって数を13未満に抑えるか』という議論をすべきではないですか」
唐木は思わず笑みをこぼした。アメリカ人は雄弁に語り続ける。
「倍加を防ぐ新薬の開発が、解決策の一つでしょう。遺伝自体を防ぐのは難易度が高い。そうではなく、トランスポゾンのコピー機能だけを防げば、倍加は止まる。こちらの方がよっぽど現実的だ」
「それなら、薬すら要らないかもしれない」
参加者のひとりが口を挟んだ。
「EGOS保有者に、開示義務を課せばいい。13の子が生まれないよう、社会的な制度で担保するんだ」
「つまり隔離すべきと?」
誰かが言い返し、場がざわめいた。
「議論が飛躍しすぎだ」
事務局長が場を制した。局長は頷きながら、しかし、と続ける。
「しかし倍加を防ぐ、という方針には検討の余地がある。我々はもっと長期的な目線で、この問題に向き合うべきかもしれない」
賛同を示すアイコンが画面に飛び交った。
「お前はいいよな、あと3年で任期が終わるんだから」
マイクをオフにしたまま、唐木は呟く。こんなことだろうとは思っていた。所詮、こいつらは当事者ではないのだ。
場がまとまろうとしたところで、唐木は初めて発言ボタンを押した。簡単な自己紹介をすると、画面の向こうから値踏みするような沈黙が流れてきた。
「必要なのは隔離ではなく、共生だと思います」
唐木はつとめて笑顔で言った。
「倍加を止める薬の開発にも、一定の時間はかかる。それまでにEGOSを1つ、あるいは2つ持つ保有者が、当たり前に受け入れられる社会をつくるのです」
そんな社会になれば律も、律の子も、きっと生きやすくなるはずだ。
「そしてそのためには、具体的な開発方針を提示しなければいけない。将来が安心だとわかってはじめて、社会はEGOSを受け入れるでしょうから」
「具体的な方針とは?」
自動翻訳のラグがあったあと、局長がつまらなそうに尋ねた。唐木は引き出しから試験管を取り出し、カメラに向ける。
「血です」
唐木は言った。律と病院にお願いして、新生児の血液を採取させてもらったのだ。
「EGOSを2つ持つ、子世代の血です。私は地図屋だ。だからこの子の地図を描こうと思います」
沈黙が続く。唐木は構わず弁を振るう。
「倍加を止める薬をつくるには、ゐ臓保有者のゲノム地図が必要だ。トランスポゾンがどこに挿入され、当該区間はどのような構造をしているのか。正確に把握しなければ、新たな災厄につながる危険が……」
「つまり、唐木さん」
アメリカ人の研究者が、咳払いをして割り込んできた。
「要は、製薬会社と新たなビジネスをしたいと?」
参加者から失笑が漏れた。
「金なんて要らない!」
唐木は拳を机に叩きつけた。
「作った地図は無料で公開する。どんどんおれの地図をコピーしてもらって構わない」
アメリカ人は眉をひそめた。
「だとしても、創薬には何千人もの地図サンプルが必要だ」
「もちろん、他の地図会社にも協力してもらう。そのための協力を、我が社は一切惜しまない。なんなら、3D地図作りの工程も無償提供しよう。それでEGOSの倍加を防げるのなら、安いもんだ」
「立派なことだ」
アメリカ人が呆れたように頭をふった。
「局長、ひとまず今日の議題は……」
そう言いかけたところで、アメリカ人は眉を吊り上げ、カメラに顔を近づけた。
「なんだそれは?」
どの参加者も一斉に同じ表情をしたものだから、唐木は愉快な気分だった。小さなジップロックのような袋を、さらに近づける。液体で満たされた袋には、淡いピンク色の物体が浮かんでいた。
「EGOSだ。日本ではゐ臓と呼ばれている」
唐木は袋を開き、ゐ臓をつまみ上げた。
「実物は初めてか? ちょうどこの前、切除したんだ」
滑らかな光沢を放つその姿に、参加者たちは息を呑んだ。医者の同級生に無理を言って、持ち帰った甲斐があったと、唐木はほくそ笑んだ。
「おれは地図屋だが、当事者でもある。妹も、妹の子もそうだ。誰よりもその不安を知っているし、だからこそ情熱を持てる」
指にすこし力を込めると、ゐ臓がふにゃりと歪んだ。今朝抱いた赤ん坊のことを、唐木は思い出す。
生命とはコピーの仕組みだ。40億年前、この星にはじめて自己複製する存在が現れ、生命が誕生した。そこからDNAを複製し、細胞分裂して、次世代へと受け継いできた。コピーこそ命の根本原理だと、いまの唐木は考えていた。
「研究試料が必要なら、いくらでもおれのゐ臓をくれてやろう。何度切ったって、いくらでも生えてくるからな」
唐木はそう言ってゐ臓を掲げた。一同がその迫力に気圧され、空気が変わった。地図をオープンソース化すれば、たしかに開発は加速するという意見がいくつか出た。最終的にゐ臓の地図化は、プロジェクトの一つとして承認され、唐木はリーダーに任命された。

会議から退出し、モニターの電源を落とすと、薄暗い書斎に静寂が戻った。唐木は卓上の書類の山から、一枚の封筒を取り上げる。「ライセンス許諾契約書」と書かれた封筒は、唐木が毎年払い続けている、特許の更新通知だった。
かつて研究室で成果を独占した教授は、論文をもとに特許を取得した。ゲノム地図をつくるにはその特許が必要で、唐木は自身が生み出した技術に、ライセンス料を支払うことになった。毎年この封筒を見るたびに、心臓がえぐられるようだった。
だがもう、どうでもいいことだ。
唐木は書類の束を腕で薙ぎ払い、床に落とした。バサバサと鳴る音が気持ちよかった。久方ぶりに平面を取り戻したデスクの上に、ゐ臓を置いた。卓上ライトが、小さな臓器を妖しく照らした。唐木は顔を近づけ、ゐ臓に頬をすり寄せた。粘りつく感触に、唐木はうっとりとして思う。
これがおれの、最高傑作だ。
ずっと目を背けてきた感情を、いまでは受け入れていた。
研究成果は奪われ、地図もコピーされた。だがゐ臓は、紛れもなくおれが生み出したオリジナルだ。おれは人類に、新しい臓器を生み出した。それに比べれば特許など、ちっぽけな話にすぎない。
ゐ臓を抱き寄せながら、唐木は考える。今日はいつになく思考が明瞭だった。
ゐ臓を末長く残すためには、増えすぎてもらっては困る。1つや2つがちょうどいい。害のないまま人体に留まってくれれば、人類とともに永らえられる。結果として律も、律の子も、生きやすい社会になるだろう。
だからこそ遺伝を止めず、倍加だけを止める薬が必要だ。薬をつくるための地図が必要だ。ゐ臓があることを前提とした、新しい人類の地図が。ゐ臓を100年、200年と、生命に残すための地図が。おれはいまから、そんな地図を描く。
律の子を抱いた時の感慨が蘇ってきた。自分が死んだあと、何世代も経て生まれた赤ん坊の身体にも、ゐ臓が佇んでいる。そんな光景を想像して、唐木は身悶えした。
炊飯器の炊けた音がした。唐木は目元をぬぐって、小躍りしながら台所へと歩いていった。

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