その夢を形にしてはいけない

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梗 概

その夢を形にしてはいけない

西暦215×年。日本のある研究施設で、設計図に従って結合を組み替える灰色の自己組織化材料が開発される。宇宙構造物の自己修復材として期待されたが精密制御が難しく計画は頓挫する。開発主任の佐伯正雄は、人間の脳内イメージをBMI(ブレイン・マシン・インターフェース)で読み取り、補正AIが簡易設計図に変換すれば、この素材が「想像に近い立体物」へ変化することを発見する。こうして家庭用ホビー機「イマジナリ・プリンタ(IP)」が生まれる。子どもが思い描いた空想の動物、恋人への贈り物、昔好きだったキャラクター。人々は楽しい想像を形にして部屋に飾り、SNSに投稿して楽しんでいた。

正雄の娘・佐伯菜緒は二十五歳の会社員。父から誕生日に贈られたIPで、子どものころの落書きキャラや仕事のストレスを込めた奇妙でも可愛いマスコットを出力して楽しんでいる。IPは常時ネット接続され、出力ログは匿名データとしてクラウドに送られる。正雄は「性能向上のためだ」と説明する。同時にBMIを装着したまま眠ってはいけない、と警告する。夢や無意識のイメージは安全補正が効きにくいため危険な物を具現化してしまう恐れがある。

菜緒には幼いころから繰り返し見ている悪夢がある。裸電球の下、コンクリートの階段を降りていくと、闇の中から灰色の手が何本も伸び、足首を掴もうとする夢だ。ある夜、会社で責任を押しつけられ逃げ場を失った菜緒は悪夢と同じ恐怖を感じる。悪夢の中の灰色の手を形にして外へ出せば楽になるのではないか。そう思った菜緒はBMIを装着したまま眠る。

翌朝、IPの出力台には灰色の塊があった。握りこぶしほどの大きさで指のような突起が生えかけている。菜緒は誤作動だと思って捨てる。だが数日後、また同じものが現れる。今度は指の数が増え関節も人間に近づいていた。

やがてSNSに同じような報告が増え始める。世界中の家庭で「灰色の手のようなもの」が出力されていた。BMIは人の脳内の無意識の奥に沈んでいた恐怖心までIPに送っていた。暗闇から伸びる腕や暗闇で足首を掴まれるなどの、人類がそれぞれ別々に怖がっていたものはIPの中でひとつの形へまとまり始める。

その夜、菜緒のプリンターが勝手に動き出す。出力台には、人間より一本多い指と不自然に多い関節を持つ灰色の手が置かれている。触れた瞬間、それは菜緒の指を握り返す。窓の外では無数の家庭用プリンターが駆動音を鳴らしていた。人々を楽しませていた機械は今や人間の恐怖心を次々に形にしている。

菜緒はIPの電源を抜く。だがIPは止まらない。出現し続ける大量の灰色の手はゆっくりと彼女の足首へ這い寄ってくる。
 正雄からメールがくる。「私たちは楽しい想像を形にしているつもりだった。だが、形を欲しがっていたのは人間の無意識のほうだった」
 菜緒は悟る。自分は恐怖を消そうとしたのではない。恐怖に手を与えてしまったのだ。

文字数:1200

内容に関するアピール

「想像を現実にする」という夢の技術が「想像してはいけないもの」まで形にしてしまう恐怖を描いた近未来SFホラーです。便利な技術への依存、人間の無意識に潜む暗部、を魔法使いの弟子の型にしました。ラストは型を崩して、師匠の魔法使いは戻ってこない破滅型にしました。

文字数:128

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その夢を形にしてはいけない

佐伯菜緒は二十五歳の誕生日に父親の正雄からプレゼントをもらった。二十五回目にして初めてのことだったので戸惑いながらも嬉しかった。
 贈られたのは、ひと月ほど前に発売されて爆発的に売れまくっているイマジナリ・プリンタ<アトリエ>だった。
「今これ、お店でもネット販売でも、どこも売り切れなんでしょ。製造が間に合わないって、お父さん言ってたじゃない」
「これは試作品だ。廃棄するというから私が引き取ってきた。試作品といっても本製品と同じ品質・性能だよ」
 得意げに言うアトリエの開発者である父親の声を聞いて、燃えないゴミをわたしに押し付けただけじゃない、喜んで損した、と菜緒は心の中で思った。
 正雄は電子レンジほどの大きさのイマジナリ・プリンタを両手で抱えながら、何処に設置しようかと菜緒の十二畳のワンルームの部屋の中をウロウロする。
「もう、急に持ってこられても置くとこないよ。えっと、じゃあ、ここに置いて」菜緒はフローリングの床の角を指さす。
「床の直置きはあまり推奨しないんだけどなあ」とブツブツ文句を言いながらも、娘の指さす場所に正雄はイマジナリ・プリンタを置く。
「コンセントはそこにあるから」と菜緒は家具の隙間を指さす。ワンルームのLED照明器の下で、灰色がかった髪の父がしゃがみ込んで、電源コードをコンセントに差し込んでいる姿は、妙に不器用で少し可笑しかった。
「これでよし」正雄はそう言ってアトリエの起動ボタンに触れた。
 内部で低い音がした。冷蔵庫の奥で氷が割れる音に似ていたが、菜緒の耳には、もっと生き物めいて聞こえた。眠っていた昆虫の群れがいっせいに翅を震わせたような細かい振動音のような音だった。
「これはイマジナリ・プリンタ。愛称はアトリエだ。脳内イメージをBMI(ブレイン・マシン・インターフェース)で読み取り、補正AIがそれを簡易設計図に変換する。材料は灰色の自己組織化素材だ。その微細なブロックが設計図に従って結合を組み替える」と自慢げに喋る父親の声を聞いて、菜緒はこういう言い方をする人だったと今さらながら思う。昔から父は、家族に向かって話しているのに、研究室の若い部下へ説明するような口調になる。菜緒が子どものころは、その話し方が嫌いだった。難しい言葉の向こうへ、父だけが先に行ってしまうような気がしたからだ。
「ねぇ、お父さん、もう少し普通の言葉で言ってよ」
 父は苦笑しながら「頭の中で想像した形を、こいつが現実の形にしてくれる」と言い直す。
「最初からそう言ってよ」
「正確ではない」
「あのね、お父さん、普通の人には、そっちの方が分かるの」
 菜緒は父に反論しようとしたが、父の困惑している顔を見てやめた。無駄なことをしても仕方ない。
「さっそく試してみよう」何事もなかったかのように正雄は言って、薄い帯状のBMIを取り出して菜緒に渡した。菜緒は恐る恐る受け取って触る。柔らかいゴムのような質感で、内側に細かな銀色の接点が並んでいる。
「これをどうするの?」
「額に巻く。大丈夫だ、痛くはない。菜緒の脳波を読み取るだけだ」
「ちょっと怖いんだけど」
「脳の表層のイメージだけだ。家庭用では深いところまでは読まない。安全補正も入っている。尖りすぎた形、重すぎる形、危険な構造は出ない。アトリエは基本的には玩具だ」
 菜緒はBMIを額に巻いた。ひやりとした接点が肌に触れて首筋が少し粟立った。
「えっと、何を思い浮かべればいい?」
「ナキムシとかどうだ?」
「え、お父さん、覚えているの?」
 ナキムシとは。菜緒が小学生のころ、ノートの端に何度も描いていたキャラクターだ。丸い体に短い足が三本あって、大きすぎる目からいつも涙を流している。でも口だけは笑っている。なぜそんなものを描いていたのか、菜緒自身にも分からない。ただ、授業中に不安になると、いつのまにかノートの余白にナキムシが増えていた。
「おまえ、小さいころ、変な絵ばかり描いていただろう。丸い犬とか、泣いてる魚とか、足が三本あるやつとか」
 父が、その名前を覚えていたことに、菜緒は少し驚いた。
 菜緒は目を閉じて集中して頭の中に思い描いた。丸い体。三本の足。泣いている目。笑っている口。小学生のころのノートの匂い。給食袋の布のざらつき。廊下のワックスの匂い。誰かが笑った声。机の下に落ちた消しゴム。
 アトリエが低く唸った。出力トレイの上に灰色の素材が盛り上がってきた。灰色の粘土のような塊が内側から押されるように膨らみ、くびれ、伸びる。丸い胴体。短い足。顔。涙の模様。数分後には、菜緒の掌に乗る大きさのナキムシが出力トレイの上に立っていた。
 淡い黄色の体に青い涙。子どものころ描いていたナキムシよりも少しだけ可愛くて、少しだけ整っていた。
「わー。すごい」
 菜緒の口からはそれしか声がでなかった。
 父は満足そうだった。
「だろう」
「これ、本当に私の頭の中から?」
「おまえの頭の中のイメージを元にして、AIが安全な形に補正して、アトリエが実現化した」
 菜緒はナキムシを指先でつまみ上げた。軽い。表面は硬すぎず、柔らかすぎず、古い消しゴムのような手触りがした。なぜか少し泣きそうになった。
「これは試作品だから取扱説明書はない。まあ、使いかたは今やったように簡単だからいいだろう。でも、一つだけ守らなければいけない禁止事項がある」
父親の真剣な声を聞いて菜緒は不安になりながら「それは、どんなこと?」と訊く
「BMIを装着したまま眠ってはいけない。これだけは絶対に守るように」
「眠ったまま使うと、どうなるの?」
「眠っている脳の信号は不安定だ。夢や無意識のイメージはAIによる安全補正が効きにくいんだよ。だから、本人が形を意識していない脳内データもアトリエに流れ込む可能性がある」
「それって、変なものが出現するかもしれないってこと?」
「想定外のものが出る可能性がある」
「え、それって危険なものなの?」菜緒は不安になって父親に訊く。
「さっきも言ったように、アトリエは一般家庭用の玩具だ。だから、危険なことが起きないように設計してある。とはいっても、どんなものにも想定外は起こり得るものだ。眠る前には必ずBMIを頭から外すこと。これだけは守ってくれ」
 このときの正雄の声は、研究者ではなく父親の声だった。だから菜緒はうなずいた。
「うん、分かった。あ、誕生日プレゼントありがとう」
「ああ」少し照れたように笑顔になる父親を菜緒は初めて見た。
「ところで、菜緒、就活のほうは上手く言ってるのか?」
 菜緒は失業中だった。
「何社か面接は受けたんだけど、まだ決まらなくて」
「もしよければ、父さんの知り合いに紹介してやるけど、どうする?」気恥ずかし気に正雄が言う。

     *

一ヶ月後、アトリエは菜緒の生活にすっかり馴染んでいた。
 菜緒が暮らしているワンルームマンションは、折りたたみ式のベッドと小さなテーブル、窓際の棚を置けば、それだけでほとんど埋まってしまう、誰かを招くには少し狭すぎる部屋だった。壁一面の情報パネルには天気や勤務予定、睡眠不足の警告が淡く浮かぶが、菜緒はいつも半分以上を消していた。窓際の棚の上には、この一ヶ月で菜緒がアトリエで出力したマスコットたちが並んでいる。初めて出力したナキムシ。口の大きなカエル。耳を塞いだ小さな獣。透明な膜に閉じ込められた魚。口のないウサギ。まぶたの重い鳥。どれも菜緒のネガティブな感情から生まれたものだった。

菜緒は、正雄の紹介でアトリエ関連サービスのサポート会社で働いている。肩書きは「ユーザーサポート補助担当」で、分かりやすく言えばクレーム対応だった。
 朝九時までに出社して席につくと、眼の前の端末画面にはアトリエユーザーからのクレーム未処理案件が並んでいる。
〈出力物が思ったより小さい〉
〈亡くなったペットに似ていない〉
〈子どもが怖がった。返金希望〉
〈補正AIが勝手にデザインを変えた〉
〈自分の想像力を侮辱された気がする〉
 菜緒の仕事は、それらに一つずつ返答することだった。
 人間が頭の中で想像する形は、曖昧で、都合よく、感情で膨らんだり縮んだりする。そのことを自覚していない人が多い。だから、出力されたものが期待した形と少しでも違えば、機械のせいにする。メーカーのせいにする。サポート窓口のせいにする。

「ですから、脳内イメージの明瞭度によって、出力結果には差が生じます」菜緒は一日に何度も同じ文を読む。
「いいえ、お客様の想像力に問題があるという意味ではございません」何度も同じ謝罪をする。
「再出力用の補正クーポンを発行いたします」通話を切るたび耳の奥に相手の怒鳴り声が残る。
 同僚の森下玲奈は隣の席でそれを聞いて、いつも舌を出して笑っている。
「今日のクレーム大賞は、さっきの『私の亡き夫はこんな安っぽい質感じゃありません』の人だね」
「笑っちゃだめだよ」
「笑わないとやってらんないよ、こんな仕事」
 玲奈は菜緒よりひとつ年上だった。声が大きくて髪をいつも短く切っている。サポートセンターで唯一、菜緒が昼食を一緒に食べられる相手だった。玲奈の弁当はいつもコンビニの冷凍パスタで、菜緒はいつも手作りのお弁当か、栄養ゼリーだけのときもある。
「ねぇ、菜緒はさぁ、家に帰ってまでアトリエに触ってて嫌にならないの?」
 ある昼の休憩時間中に、玲奈がミートソースをかき混ぜながら訊いてきた。
「うん、仕事とは違うから」
「いや、同じ機械じゃん」
「私のは、クレーム言わない」
「そりゃそうだ」玲奈は笑った。
「でもさぁ、菜緒のあの棚、ちょっと怖いよ。前に写真見せてもらったやつ。耳塞いでる獣とか、膜に入ってる魚とか」
「可愛いでしょ」
「うーん、可愛いというか、菜緒にはアトリエよりカウンセリング必要というか」
「失礼ね」
「でも分かるよ。心の中の嫌なものを外に出すって感じでしょ」
 菜緒は、少し驚いて玲奈を見た。玲奈は肩をすくめた。
「でも、まぁ、私もたまにやるよ。嫌な客の顔を思い浮かべて、あ、通話だけで顔分かんないから、声から想像してね。そんで、ぐにゃぐにゃのダルマみたいなの出す。翌朝見ると、だいたいキモいけどね」
「それ、捨てるの?」
「うん。だってキモいもん」
 菜緒は笑った。自分は絶対に捨てないなぁ、と菜緒は思う。
 嫌なものを形にして棚に並べる。それは菜緒にとって、少しずつ自分の心の中の黒い物を片づけるような行為だった。嫌な記憶も、悔しさも、不安も、掌に乗るくらいの大きさになれば、少しだけ扱いやすくなる。

そんな菜緒の行動を恋人の相馬律からは「菜緒らしいけど、少し心配だよ」と会うたびにいつも言われる。
 律は小学校のスクールカウンセラーをしている。学生のころに出会って付き合い始めた。もう五年になる。彼はいつも柔らかい声で話をして、怒るときも声を荒らげない。菜緒はそれが好きで、同時に苦手だった。律の声を聞いていると自分の中に隠しているものまで見透かされるような気がする。
「嫌な感情を外に出すこと自体は悪くないよ」
 律は以前、菜緒の部屋で棚のマスコットを見ながら言った。
「ただ、外に出したら終わり、って思いすぎるのは危ないかもしれない」
「どういうこと?」
「形にしたから処理できた、とは限らないってこと。そこに置いてあるだけかもしれない」
 律はそう言って、口のないウサギを指先でそっと撫でた。
「この子、何のときに作ったの?」
「会議で発言を全部遮られた日」
「なるほどね」
「かわいいでしょ」
「うん。かわいい。かわいいけど、ちょっと苦しい」
 律はそういうことを言う。菜緒は、そういう律を少し面倒だと思うときがある。けれど、その面倒さに救われる夜もあった。

     *

菜緒には幼いころから繰り返し見ている怖い夢がある。
 ふと気がつくと、頭の上に裸電球が一つぶら下がっている。
 そこは薄暗いコンクリートの階段の踊り場だ。壁に触れると冷たく湿っている。そこは古い地下道のようでもあり、学校の非常階段のようでもあり、祖母の家の裏口のようでもある。場所はいつも曖昧なのに、裸電球だけははっきりしている。黄色い光が頼りなく揺れている。菜緒は階段を下に向かって歩いて行く。どこまで続いているか分からない階段を菜緒は歩き続ける。途中から闇に沈んでいる。
 菜緒は、この階段を降りてはいけないと分かっている。今自分は、いつもの怖い夢の中にいる、ということも分かっている。それでも菜緒は抗うことができずに降り続ける。下には何かがある。見てはいけないものがいる、ということも分かっている。
 いつの間にか菜緒は裸足になっている。足の裏には冷たいコンクリートの感触がある。
 そして、闇の中から灰色の手が伸びる。一本ではない。壁の割れ目から、階段の隙間から、手すりの下から、何本もの無数の手が伸びてくる。人間の手に似ているが、少し違う。指が長すぎる。関節が多すぎる。手首の先が闇に溶けていて、どこから生えているのか分からない。
 その手が菜緒の足首に触れる。ふくらはぎを撫でる。掴もうとする。
 振り向いてはいけない。夢の中で、いつもそう思う。でも、必ず振り向いてしまう。
 その瞬間、目が覚める。心臓が激しく拍動して、足首には指の感触が残っている。

菜緒はこの夢を誰にも話してこなかった。子どものころ一度だけ母に言ったけど「怖い夢ね」と言われて終わった。父には話さなかった。父は当時いつも研究施設にいた。律にも詳しく話していない。ただ、「階段の夢をよく見る」とだけ言ったことがある。律はそのとき、「下へ降りる夢は、不安や抑圧と結びつくことが多い」と言った。「仕事で毎日抑圧されてるからね」と菜緒は笑いながら言った。それ以上は話さなかった。手の話は誰にもしたくなかった。言葉にしたら、何かが近づいてくる気がしたからだ。

     *

その日、菜緒は会社で重大クレームの責任を押しつけられた。
 発端は、ある家庭で出力された空想動物だった。子どもが「青くてふわふわした犬」を作ろうとした。だが実際に出力されたものは、毛並みの奥に黒い斑点があり、顔の中央に小さな穴がいくつも開いていた。子どもは泣いた。母親は怒った。怒りはサポートセンターへ来た。
「うちの子が気持ち悪いものを考えていたって言うんですか」母親は電話口でそう言った。
 菜緒はマニュアル通りに対応した。
「お子様の想像に問題があったということではございません。AIの補正過程で素材反応に揺らぎが生じた可能性がございます」
「揺らぎって何ですか。子どもが泣いてるんですよ」
「再出力用の補正クーポンを発行いたします」
「そういうことじゃないんです。あれを見てから、この子が寝ないんです。部屋の隅にいるって言うんです。あなた、責任取れるんですか」
 菜緒は息を吸い、謝罪した。報告書を書いて上司に提出した。
 次の日の午後の会議で上司の野々村は穏やかな声で言った。
「佐伯さんの対応が、ユーザーの不安を少し刺激したのかもしれないね」
 野々村はいつも穏やかだ。穏やかな声で責任を押しつける。
「家庭用ホビー機は夢を売っている商品だから。夢を傷つけた時点でこちらの負けなんだよ」
 菜緒は膝の上で拳を握った。自分はマニュアル通りに対応したと言い返すべきだ。そもそも製品の出力異常をサポート担当一人のせいにするのはおかしい。でも、声が出なかった。会議室の床が遠くなる。
 白い床がコンクリートの階段に見えた。足首に冷たい感覚が走る。あの悪夢と同じだ。下の闇から灰色の手が伸びてくる。菜緒を掴む。逃がさないぞ、という手の呪縛に捕らわれて、菜緒の躰は固まる。
 会議が終わったあと、同じ会議に出席していた玲奈が給湯室で言った。
「あれはないよ。完全に野々村が逃げたじゃん」
「いいよ」
「よくない。菜緒、ああいうとき黙るから押しつけられるんだよ」
「分かってる」
「分かってるなら怒りなよ」
「怒れたら苦労しない」
 菜緒の声は自分でも驚くほど冷たかった。玲奈は一瞬黙り、それから紙コップのコーヒーを菜緒に渡した。
「ごめん」
「こっちこそ」
「今日、飲みに行く?」
「帰る。ちょっと疲れた」
「律くんに電話しな」
「うん」
 だが菜緒は律と話をする気分ではなかった。帰りの電車で律からのメッセージがくる。
〈お疲れさま。一緒に食事しない?〉
 菜緒は大きくため息をついて短く返した。
〈今日は寝る。ごめん〉
 すぐに律から返事が来た。
〈分かった。おやすみ。変な夢見ないようにぐっすり眠ってね〉
 菜緒はスマホから眼をそむけた。

     *

帰宅した菜緒は、電気もつけずに部屋の真ん中でしばらく立っていた。冷蔵庫の低い音がする。隣の部屋のテレビの声が壁越しに聞こえる。流しにはマグカップが二つ。棚のマスコットたちが暗がりの中でこちらを見ている。部屋はいつもの部屋だった。自分だけが少し違っていた。足首に、まだ会議室の感覚が残っている。誰かに掴まれたような。逃げられないような。
 菜緒はコートを脱いで床に置いた。テーブルの上のアトリエを見る。これを使って嫌な感情を形にすれば楽になる。いつもそうしてきた。
 では、あの手は?
 子どものころから何度も菜緒の夢に出てきた手。足首を撫で、掴もうとする灰色の手。あれも、外へ出せるのだろうか。
 形にしてしまえば怖くなくなるのではないか。
 掌に乗るくらい小さくして、棚に置けばいい。名前をつけてしまえばいい。他のマスコットたちと同じように、奇妙で可愛いものにしてしまえばいい。
 菜緒は引き出しを開けた。BMIが入っている。菜緒は帯を手に取った。「装着したまま眠るな!」父の声が聞こえた気がした。
 眠るつもりはなかった。少しだけ思い浮かべるだけ。あの夢の灰色の手の輪郭をアトリエに渡すだけ。危なそうならすぐ止める。いつものように補正が働けば、たぶん丸い指のマスコットになる。菜緒はBMIを額に巻いた。
 アトリエを起動する。出力室に淡い光がともる。灰色の素材カートリッジが低く震える。菜緒は目を閉じた。そして、あの悪夢を心に思い浮かべた。
 裸電球。コンクリート。階段。下の闇。そこから伸びる、灰色の指。心臓が強く打った。足首が冷たくなる。
 ここまでだ。菜緒は目を開けてBMIを外そうとした。
 だが、その瞬間、強烈な眠気が体に落ちてきた。会議室で押し殺した怒り。終電近くの疲労。帰り道にコンビニで買って歩きながら飲んだ缶ビール。全部が一度に菜緒を沈めた。
 だめ。
 眠ってはいけない。
 でも、机に伏せた頬に、テーブルの冷たさが心地よかった。そう思ったのを最後に菜緒は深い闇の中に沈んでいった。

     *

裸電球が揺れていた。いつもの階段だった。いつもより匂いが強かった。濡れたコンクリート。古い埃。雨の日の地下道。錆びた手すり。菜緒は階段の上に立っている。下へ降りてはいけない。分かっている。でも、足は一段目に降りた。一段。二段。三段。止めることができない。
 闇の中から灰色の手が伸びる。壁の割れ目から、段差の下から、手すりの影から、排水口のような穴から、次々に手が伸びてくる。長い指。多すぎる関節。爪のない先端。足首に触れる。ふくらはぎを撫でる。闇の中には手だけがあった。灰色の手だけが、無数に、菜緒を待っていた。

     *

目が覚めると首が痛かった。
 机に突っ伏したまま眠っていた。頬にはテーブルの跡がついている。額にはBMIが巻かれたままだった。菜緒は跳ね起き、帯を毟り取るようにして外した。
 アトリエを見る。
 出力トレイの光は消えている。操作画面には通常待機中の表示。菜緒は息を吐きかけた。そのとき、出力トレイの上に何かがあるのに気づいた。
 灰色の塊だった。
 握りこぶしほどの大きさ。色は素材そのものの灰色で、補正着色されていない。表面は乾いた粘土のようなのに、ところどころ濡れたような光を帯びていた。片側から指のような突起が三本、生えかけている。
 菜緒は動けなかった。それは、可愛いマスコットではなかった。
 いつものアトリエなら、どんな嫌な感情でも、どこか丸く、柔らかく、棚に置ける可愛いマスコットにしてくれる。だがこれは、AI補正されていなかった。途中で形になることをやめた、何かの残骸のように見えた。

菜緒は操作画面にタッチして出力履歴を確認した。昨夜の記録はない。最後の出力記録は、四日前に出した「三つの首を持つ鳩」だった。
「出力ログ、ないじゃない」声に出すと、少しだけ現実に戻れた。
 誤作動? そうだ。誤作動に違いない。試作型に近い機械だと父は言っていた。古い素材が残っていたのかもしれない。安全補正に引っかからない微細な廃棄物が固まっただけかもしれない。
 菜緒は台所から紙袋を持ってきた。素手で触りたくなかった。紙袋越しに塊をつかむ。それは冷たかった。冷蔵庫から出した鶏肉のような冷たさだ。生きてはいない。でも、死んでもいない。そういう温度だった。
 菜緒はそれをゴミ箱に放り込んで蓋を閉めた。仕事に行く支度をしている間、何度もゴミ箱を見た。蓋は閉まっている。大丈夫だ、あれが動くはずがない。

     *

その日、菜緒は一日中ぼんやりしてミスを多発した。通話相手の名前を間違えた。テンプレート文を読み飛ばした。玲奈に「顔、死んでるよ」と言われた。
「眠れなかった?」
「机で寝た」
「最悪じゃん。首やるやつ」
「うん」
「律くんにマッサージしてもらいな」
「今日は会わない」
「なんで」玲奈は菜緒を見た。
「なんかあったの?」
 菜緒は首を振る。言えなかった。BMIをつけたまま眠ったこと。アトリエが灰色の不気味な塊を出力したこと。ゴミ箱に捨てたとき、紙袋越しに感じた肉のような冷たさが不気味だったこと。全部なかったことにしたかった。
 菜緒は昼休みに父へメッセージを書こうとした。
〈お父さん、アトリエが変なんだけど〉消す。〈BMIをつけたまま寝てしまった〉消す。〈昨日、変なものが出た〉消す。
 結局、父には何も送れなかった。
 父に怒られるのが怖かったのではない。怒られる方がまだよかった。父はおそらく怒らない。静かになり、研究者の声で質問する。いつ、どのくらい眠ったのか。何を見たのか。出力物はどんな形だったか。ログはあるか。素材は保管しているか。菜緒は、父に実験対象のように扱われるのが嫌で怖かった。
 その夜、帰宅して最初に見たのはゴミ箱だった。蓋は閉まっている。近づいて恐る恐る蓋を開けた。紙袋は中にあった。破れていない。中の塊も見えない。菜緒は蓋を閉め、ほっとした。その安堵は数日後の朝までは続いた。

     *

三日後、また出力トレイに灰色の塊があった。今度のはもう塊とは呼べなかった。それは小さな手だった。
 手首の途中で切れている。掌は平たく、そこから五本の指が伸びている。でもそれは人間の手ではない。指の長さがそろっていない。関節が多い。親指がない。すべての指が同じ方向に曲がろうとしている。
 菜緒は、息を吸うことを忘れた。
 アトリエの出力履歴には何も残っていない。
 操作画面には「待機中」と出ているだけだ。
 ゴミ箱を見る。
 しっかりと閉めたはずの蓋がほんの少し浮いていた。
 菜緒はゆっくり近づいた。蓋を開ける。紙袋が破れていた。
 三日前に捨てた塊から細い指が伸びていた。まだ形は不完全だが、紙を内側から押し破って、ゴミ箱の蓋を押し上げていた。
 菜緒はゴミ箱ごとベランダへ出した。蓋の上に重い植木鉢を置いた。窓を閉めて鍵をかける。カーテンも閉めた。意味がないことは分かっていた。でも、見えないようにしたかった。

     *

次の日の昼休みに「菜緒、これ見た?」と玲奈がスマホを菜緒に差し出した。SNSの投稿画面だった。
〈アトリエから変なもの出た。こんなの頭で想像してないよ。怖い〉
 写真には灰色の塊が写っていた。指のような突起がある。菜緒の背中が冷たくなった。
「なにこれ」
 声が自分のものではないように聞こえた。
「分かんない。バグじゃない? コメント見て。けっこう出てる」
 玲奈が画面をスクロールする。
〈うちも出た〉
〈朝起きたら出力トレイにあった〉
〈手みたいで無理〉
〈ログないんだけど〉
〈子どもが泣いた〉
〈捨てたらまた出た〉
〈足首掴まれる夢に似てる〉
 最後のコメントを見た瞬間、菜緒はスマホを返した。
「どうした?」
「なんでもない」
「顔色やばいよ」
「大丈夫」
「大丈夫って顔じゃない」
 玲奈はいつものように茶化さなかった。
「菜緒のアトリエからも出た?」
 菜緒は返事をしなかった。玲奈は、小さく息を吐いた。
「出たんだ」
 休憩室の自販機が低い音を立てて飲料を落とした。誰かが笑っている。いつもの昼休みの休憩室だった。なのに菜緒には、床の下にコンクリート階段が隠れているように感じられた。
「写真、ある?」玲奈が訊いた。菜緒は首を振った。
「捨てた」
「え、素手で?」
「紙袋で」
「よかった。たぶん触らない方がいいよ、こういうの」
「こういうのって何」
「知らないよ。知らないけど、嫌な感じするじゃん」
 玲奈はもう一度スマホを見た。
「メーカーは『素材残留』って言ってる」
「素材残留?」
「出力途中の未確定形状が残っただけで、安全上の問題になるようなことは確認されていません、だって」菜緒は乾いた笑いを漏らした。
「なに、その遠回しな言いかた。確認されていないだけでしょ」玲奈が言う
 そのとき、菜緒の端末に律からメッセージが届いた。
〈今日、少し話せる? 子どもたちのことで変なことがある〉
 律が務めている学校にもアトリエがある。指先が冷たくなった。

     *

その夜、律とはビデオ通話で話した。
 律の部屋はいつも片づいている。背後の本棚には児童心理学の本と、小さな観葉植物と、子どもからもらったらしい紙粘土の犬が置かれている。その犬は青く塗られていた。
「学校でね」律はいつもより声を落としていた。
「最近、同じような絵を描く子が増えてる」
「同じような絵?」
「階段とか、ベッドの下とか、暗いところから手が出てくる絵」
 菜緒は何も言えなかった。
「最初は一人だった。二年生の女の子。夜、布団の中で足を出せないって言ってた。布団の下から手が出るからって。よくある怖がり方だと思った。でも昨日、別の子も同じような絵を描いた。今日は三人」
 律は画面の外から紙を一枚取った。
「見せてもいい?」
 菜緒はうなずいた。画面に映ったのは、黒いクレヨンで塗られた階段。その下から、灰色の手が伸びている。指が多い。菜緒は画面から目をそらした。
「菜緒、大丈夫?」
「この手、見たことある」
「え、どこで?」
 菜緒はしばらく黙った。律は急かさなかった。いつも律は待つ。菜緒が自分で言うまで、待ってくれる。
「子どものころから見る夢に似てる」菜緒はようやく言った。「階段の下から手が出る夢」
 律の顔が少し硬くなった。
「その夢、前に言ってたやつ?」
 菜緒は黙ってうなずく。
「詳しくは聞いてなかったよね」
「うん、話したくなかったから」
「今は?」
 菜緒はベランダのカーテンを見た。窓の向こうにゴミ箱がある。重い植木鉢を乗せている。見えない。見えないが、そこにある。
「アトリエから出てきたの」
 律は眉を寄せた。
「何が?」
「手みたいなもの」
 菜緒は短く説明した。BMIをつけたまま眠ったことは言わなかった。ただ、自分では出力していない灰色の塊が出たこと、捨ててもまた出たこと、SNSでも同じ報告があることを話した。律は黙って聞いていた。そして、
「菜緒、お父さんに連絡したほうがいいよ」
「まだ」
「まだじゃない。今すぐ」
「分かってる」
「分かってないよ」
 律の声が少しだけ強くなった。
「菜緒はいつも、自分の中で処理しようとする。形にして、棚に置いて、それで終わりにしようとする。でもこれは違う。これは外に出しちゃいけないものかもしれない」
 菜緒はむっとした。
「律はいつもそういう言い方するよね」
「どういう言い方?」
「私が逃げてるみたいな」
「逃げてるとは言ってない」
「言ってるよ」
 律は口を閉じた。画面越しに二人はしばらく黙った。その間にも、菜緒の部屋の外で何かが小さく鳴った。
 かり。
 ゴミ箱が置いてあるベランダの窓の方からだった。菜緒はカーテンを見た。
「ごめん、切るね」
「待って。今、何か音が」
 菜緒は通話を切った。スマホをテーブルに置いてカーテンに近づく。
 かり。
 また音がした。爪でガラスを引っかいたような音だ。でも、あの手に爪はなかった。菜緒はカーテンの隙間からベランダを見る。ベランダのゴミ箱が倒れていた。植木鉢は転がり土が散っている。蓋は外れている。ゴミ箱の中身がベランダの床に散らばっていた。
 灰色の手が窓のすぐ外にあった。手首の途中で切れた小さな手。六本の指がガラスに触れて擦っている。
 かり、かり、かり、かり。
 爪のない指が窓を引っかいている。菜緒はカーテンを強く締めて耳を塞いでうずくまった。

     *

その夜から異常は加速した。
 職場には問い合わせが殺到した。回線は常時パンクし、上司の野々村は「落ち着いて対応しましょう」と言い続けた。その顔は落ち着いているように見えたが額には汗が浮いていた。
「灰色の手という表現は使わないでください」野々村は朝礼で言った。「未確定形状の素材残留です。ユーザーが不安になる表現は避けてください」
「もう不安になってるっつうの」玲奈が笑いを含んだ小声で言った。
 菜緒は笑えなかった。クレームの通話は次々に入った。
「子どものベッドの下にあるんです」「捨てたのに戻ってる」「足を触られた」「夢で見たのと同じ形なんです」「これ、本当に安全なんですか」
 菜緒は定型文を読み上げた。
「直接触らないで専用廃棄袋に入れてください。補正更新をお待ちください」
 補正更新。その言葉が、いまはひどく頼りなく聞こえた。昼過ぎ、玲奈が菜緒の席に来て言った。
「うちにも出た」
 菜緒は手を止めた。
「どんな形してるの?」
 玲奈は無言でスマホを菜緒に差し出した。
 台所の床に灰色の指が三本伸びている。出力トレイの上ではなく床に落ちている。まるでどこかから這い出してきたようだった。
「昨日、帰ったらあった。うちのアトリエ、電源切ってたのに」
「触った?」
「触るわけないじゃん。トングでつまんで袋に入れた。今朝見たら、袋破れてた」
 玲奈は口元だけ笑った。
「菜緒、これ、やばいよね」
 菜緒は答えられなかった。
 その日の夕方、律から電話が来た。
「学校で、アトリエを一時使用禁止にした。今日、その出力トレイに灰色の手があった」
「子どもたちには?」
「見せてない。でも、見てなくても絵に描くんだよ」
「何を」
「手だよ」
 律の声は疲れていた。
「場所は違う。階段、布団、ロッカー、排水口、机の下。でも、どの絵にも手がある。足首を掴もうとしてる」
「やめて」
 菜緒は思わず言った。
「ごめん。でも菜緒、君の夢だけじゃない。これは、たぶん、みんなの中にある」
 みんなの中にある。その言葉が菜緒の胸を締め付けた。
 各家庭のアトリエはネットで繋がっている。菜緒がBMIを付けたまま眠ってしまったため、菜緒の悪夢の中の灰色の手が、全てのアトリエに感染したのか? もしそうだとしたら、私の責任だ。菜緒はどうすればいいのか分からず、途方に暮れた。律の声はもう耳に入ってこなかった。

     *

その夜、父から着信があった。
 午前三時十二分。菜緒は眠れずにいた。ベッドの上で膝を抱え、カーテンの向こうのベランダを見ないようにしていた。アトリエの電源は抜いてある。BMIは引き出しの奥にしまった。だが、部屋の中にはまだ何かがいる気配があった。
「お父さん」
 通話の向こうは騒がしかった。警報のような音。誰かが走る足音。遠くで怒鳴る声。
「菜緒、BMIをつけて眠ったのか」
 父の声は低かった。菜緒は答えられなかった。
「眠ったんだな」
「ごめんなさい」
「いつだ」
「数日前」
「夢を見たんだな。階段の夢か」
 菜緒は息を呑んだ。
「どうして分かるの」
「菜緒だけじゃない」
 父は言った。
「クラウドに似た深層信号が大量に残っている。家庭用イマジナリ・プリンタは通常、脳の表層イメージだけを扱う。だがユーザーが出力を迷ったとき、補正AIはその揺らぎも記録してきた。怖いと思って消した形。可愛いものに補正される前の不安。言葉にならない嫌悪。それらネガティブな思いを全部、性能向上のためにデータとして保存されていた」
「そんなこと、聞いてない」
「私も、重要視していなかった」
 父の声が沈んだ。
「楽しい想像の裏にあるものを軽く見ていた。人は、自分の中の怖いものを、なかったことにできると思っている。だがデータは残る。素材も、形を覚える」
「私のせいなの?」
 菜緒の声は震えていた。
「菜緒の夢は、単なるきっかけだ。人々の深層心理の中になある恐怖に輪郭を与えた。階段、闇、足首、手。補正AIはそれを共通する完成形として処理し始めている」
「止められるんでしょう?」
 菜緒は子どものように訊いた。
「お父さんが作ったんでしょう。止められるよね」
 沈黙があった。
「全端末の停止を試みている。だが、すでに出力されたものは止められない。灰色素材は、出力後もしばらく安定形を探して組み替わり続ける。完成形が曖昧な場合、動き続ける」
「動き続けるって」
 窓の方で音がした。
 かり。
 菜緒は固まった。
「どうした」
「いる」
「部屋の中か」
「まだ外。でも、窓のところ」
「触るな。燃やせるなら燃やせ。水は駄目だ。近くに素材があれば結合しようとする可能性がある」
「可能性って何」
「まだ分からないことが多すぎる」
 父の声が初めて大きく乱れた。「菜緒、すまない」
 かり、かり、かり、かり。
 また音がした。
 カーテンの下から、細い灰色の指が一本、室内へ入り込もうとしていた。窓は閉まっている。鍵もかかっている。だが、指はゴムパッキンの隙間を押し広げるようにして、少しずつ中へ入っていた。
「お父さん」菜緒はスマホを握りしめた。「入ってこようとしてる」
 父が何かを言った。その瞬間、通話が切れた。

     *

菜緒は台所から包丁を持ってきた。
 手は、窓の下から三本の指を入れていた。指先は丸く、爪はない。表面は灰色で、微細な粒子が寄り集まったようにざらついている。だが動きは滑らかだった。菜緒の知っているどんな機械の動きとも違う。生物の動きに近い。
 菜緒は窓に近づいて包丁を手に振り下ろした。指を切れなかった。灰色の素材が、包丁の刃が当たる直前にへこんだ。水面が石を避けて形を変えるように、刃を受け流した。菜緒はもう一度振り下ろす。今度は少しだけ切れた。だが切れ目はすぐに寄り合わさって元の指に戻った。
 菜緒は後ずさった。アトリエの方で、こん、という音がした。出力トレイの内側からだった。
 電源は抜いてある。出力トレイの奥で灰色の素材が動いていた。カートリッジに残っていた材料が、ゆっくり盛り上がっている。透明な扉の内側に細い指が触れた。
 こん。
 もう一度、叩いた。
 菜緒はアトリエに駆け寄ってカートリッジを抜こうとした。だが、内部で素材が固着しているのか動かない。引っ張ると奥で濡れた音がした。出力トレイの中で掌ができていた。六本の指が透明扉の内側を探っている。
 窓の指。
 アトリエの中の指。
 ゴミ箱から出てくる、最初の失敗作。
 部屋のあちこちで、菜緒の悪夢が現実化して小さく息をし始めていた。

     *

ニュースは朝から灰色の手の話題であふれいていた。
 政府は、家庭用IPアトリエの使用停止を呼びかけた。メーカーは全端末への緊急停止命令を発表した。
 SNSには映像があふれた。
 玄関の靴の中から伸びる手。
 風呂場の排水口を押し広げる指。
 子どものベッドの下から出てくる掌。
 駅の階段で誰かの足首に触れる灰色のもの。
 それらは人間を襲う怪物ではなかった。噛まない。叫ばない。走らない。ただ、触れる。掴もうとする。足首を、ふくらはぎを、布団からはみ出した指先を。その控えめさが、かえって不気味で耐えがたかった。
 昼前、玲奈から電話があった。
「菜緒」
 玲奈の声はかすれていた。
「うちの、増えた」
「玲奈、今どこ?」
「部屋。ドアの前にいる。床に三つ。いや、四つ。やばい、あれ、くっついてる。小さいのが、合体してるみたい」
「逃げて」
「足元にいるんだよ」
 電話の向こうで何かが倒れる音がした。
「玲奈!」
「触られた」
 玲奈は笑った。泣いているような笑いだった。
「思ったより冷たい。ねえ菜緒、これ、何なの」
 通話が途切れた。菜緒はすぐにかけ直した。つながらない。次に律へかけた。律は出た。後ろで子どもたちの声がしている。泣き声も聞こえる。
「いま学校?」
「うん。避難中。図工室のアトリエから出た。あと、机の下にも」
「机の下?」
「子どもたちが言ってる。足を引っ込めろって叫んでる。菜緒、これはもう、君だけの問題じゃない」
「分かってる」
「違う。責めてるんじゃない。君一人で抱えないでって言ってる」
 律の声は揺れていた。
「僕も怖い。子どもたちも怖がってる。でも、怖がるほど、あれがはっきりする気がする」
 菜緒はベッドの下を見た。暗い。そこに何かがいる気がする。
「律、私、あれを形にすれば楽になると思った。でも、違った。外に出したら、終わりじゃなかった」
 律は黙っていた。その沈黙の向こうで、子どもの叫ぶ声がした。
「先生、足、足」
 通話が切れた。

     *

夕方、父からメールが届いた。件名はなかった。
〈菜緒、すまない〉
 その一文だけで、菜緒は胸が冷たくなった。
〈全端末の停止は間に合わなかった。補正AIは、灰色の手を異常出力ではなく、人類の深層信号、集合的無意識に共通する完成形として処理している。楽しい想像を形にする技術だと、私たちは信じていた。だが、人間は楽しいことだけを想像しているわけではなかった〉
 菜緒は画面を見つめた。
〈形を欲しがっていたのは、人間の無意識のほうだった〉
 それが最後の文だった。父がそのあとどうなったのか菜緒には分からない。
 部屋の中では灰色の手が増えていた。
 アトリエの出力トレイの扉は内側から押し開けられている。そこから這い出た手がテーブルの上を進んでいる。ゴミ箱から出た失敗作は、最初より大きくなっていた。窓から入った手は、カーテンの裾を掴んでいる。
 菜緒はベッドの上に座って膝を抱えた。床に足を下ろせない。
 想像するな。
 考えるな。
 階段を思い出すな。
 そう思うほど、裸電球が浮かぶ。湿った壁が浮かぶ。闇が浮かぶ。そこから伸びる灰色の指が浮かぶ。

アトリエの電源は切ってある。動くはずがない。それなのに、私の頭の中を覗いている。私の想像を読んで形にしようとしている。出力トレイの上で灰色の手が増殖されている。もう誰にも止められない。

ベッドの端に灰色の手がかかった。
 六本の指が布団を掴む。関節が一つずつ曲がる。手首の切断面から、さらに細い突起が伸びようとしている。完成形を探して、まだ変化し続けている。菜緒は足を抱え込む。だが、別の手がベッドの下から伸びてきた。
 いつのまにか、そこにいた。冷たい指が菜緒の足首に触れた。
 夢と同じだった。裸電球の下で階段を降りる夢。闇の中から手が伸びる夢。振り向いてはいけないのに、必ず振り向いてしまう夢。
 菜緒は悟った。自分は恐怖を消そうとしたのではない。
 恐怖に、手を与えてしまったのだ。
 灰色の指が足首を掴んだ。
                了

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