詠唱

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梗 概

詠唱

売れない小説家・橘慎二(45)は、私生活を犠牲にしてきたがヒット作がなく、崖っぷちにいた。十年前、甲斐性のなさに見切りをつけた妻は息子・武を連れて家を出ており、いまの唯一の支えは、月に一度泊まりに来る中学生の武だけだった。 武が『Roblox』というプラットフォームで作成したというゲームを見た橘は、生成AIの進化に驚く。「パパのパソコンにも入ってるよ」と息子に教えてもらい、CopilotというAIをリサーチや文章の校正に使い始めた。やがては携帯でもバイトの通勤中には悩みも聞いてもらうようになる。AIの優秀さに好奇心を刺激された橘は、簡単なプロットを入力し「面白い小説を書いて」とAIに指示を出してみた。しかし、出力されたのはどこかで見たような凡庸な文章の山だった。一ヶ月後、泊まりに来た武が学校の愚痴をこぼす。 「先生の言うとおりにやったのに叱られた。僕が悪いんじゃなくて、先生の指示の仕方が悪いのに」 その言葉に橘はハッとする。AIが凡庸なのではない、自分の指示(プロンプト)が雑なのだ。

橘はプロンプトの精度を磨いていく。タイピングの限界を超えようと音声入力を導入し、寝食を忘れ、深夜の暗い自室でマイクに向かって「制約条件!語彙から『愛』を排除!文体は開高健とレイモンド・カーヴァーを七対三でブレンド!」と呟き続ける。プロンプトの精度が上がるにつれ、AIは数秒で完璧な文章を生成していく。プロンプトの沼にハマる橘。「ChatGPTでは最高の一節が出たのに、Claudeに移植するとニュアンスが死ぬ」と各社AIの癖を入念にリサーチ。さらにバグによる一期一会の出力に対して、「奇跡の神回が来た!この確率を固定!」と、バグすら完全に調教するプロンプトを模索。プロンプト、AIが出力、それに対しての修正指示……詠唱は止まらない。 時が流れ、高校生になった武は家に来ない。けれども橘は淋しくはなかった。橘は、世俗から離れAIとの世界にのめり込んでいく。

そんなある日、AIの出力作が、文学賞を受賞してしまう。授賞式当日、華やかなスポットライトの中、壇上に立つ橘。司会者から「『羅生門』にも匹敵する傑作と絶賛されていますが、一言お願いします」とマイクを向けられる。 拍手の中、橘は憮然とした表情で言い放つ。 「あれが傑作? 冗談じゃない。たった4,000文字のあれを出力させるために、私は血反吐を吐きながら30万文字の指示を出した。つまり、私のプロンプトこそが、圧倒的な傑作にして絶対的な芸術なのです」 静まり返る場内。橘は懐からタブレットを取り出し、この作品を生み出した「呪文」を詠唱し始める。

「出だしは、寂れた温泉街の情景描写。制約条件!語彙から『愛』を排除!文体は開高健とレイモンド・カーヴァーを七対三でブレンド! Temperatureを0.72に微調整! 創造性と論理性の黄金比を狙え!……」

文字数:1190

内容に関するアピール

魔法のようなAI。イラストや動画やゲームなど、色々触って生成してみて、プロンプトの難しさを痛感。AIとの関わり方を模索している私はまさに『魔法使いの弟子』状態だなと思い、このお話を考えました。大失敗を覚悟の上で、自分のプロンプト力でどれだけの小説が書けるのか、AIに学びながら、主人公になりきって実際にAIに小説執筆の指示を出したりしながら、書いてみようと思います。

文字数:183

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詠唱


物流倉庫の夜は、ひたすらプラスチックのケースが擦れ合う音と、フォークリフトの電子警告音で満たされている。今年48歳になった橘章司は、腰痛防止のコルセットを限界まで締め上げ、段ボールの山をパレットに積み上げている。いつもなら、単純作業の傍ら脳内で次の小説の構想などを考えているのだが、今日はある一文がぐるぐると頭を巡って離れない。
『本日をもって、調停手続きを次の段階へ進めます』
スマホの画面に届いた弁護士からの無機質な通知。最低限の情報を的確に且つなんの心遣いも遠慮もなくタイプされた日本語。別居して三年の妻・亜希は、今やSNSの動画配信で転売ビジネスを成功させ、フォロワー10万人を抱える社会的成功者だ。彼女は毎日、「合理的な稼ぎ方と、洗練された北欧家具」を画面の向こうへ送り届けている。橘が物流倉庫の夜勤で手にする月給の、およそ十倍の額を彼女は一晩のライブ配信で動かしていた。橘はその配信を、別名義の隠しアカウント(酔っ払ってつけたアカウント名:『玄武院狂魔』)で泥のように眺めることしかできない。
その夜も、亜希はスマートな間接照明に照らされた自宅から配信を行っていた。
「皆さん、毎日クタクタになるまで育児や仕事で行き詰まっていませんか? それ、脳のタイパが悪い証拠です。私は今日、ChatGPTに『子どもの自己肯定感を12%高めつつ、親のストレスを最小化するライフスタイル』を算出させて、その通りに動きました。あと、このAIが選定したエコ壁紙と北欧風のクッション、お勧めです。リンク貼っておきますね」
画面の向こうの彼女は、完全にシステムにハックされた(しかし中身は恐ろしく空虚な)「AIライフスタイル」をドヤ顔で披露している。それに対して、自分で考えるコストを惜しむ信者たちが「さすが亜希さん!」「タイパ最高!」「クッション買いました!」という無思考な全肯定の嵐を、滝のようなコメントで送り届けていた。
すべてが消費され、すべてが効率化という名の記号に還元される世界。今や人間は、自分で考えるコストを惜しみ、感情の言語化すら3行の要約AIに丸投げする時代だ。
「なんて薄っぺらい世界なんだ。全ては金か? 出会った頃のお前は、拝金主義とは真反対の可憐な文学少女だったのに」
ディスカウントショップでまとめ買いした発泡酒を飲みながら、くるくる巻き毛にきらきらネイルの画面越しの妻に悪態をつく。亜希と出会ったのは、中学生の頃。図書委員の彼女と読書好きの橘は、図書を借りたり貸したりしているうちに、仲良くなった。本の話ができる友人は、亜希が初めてだった。初めて書いた小説が新人文学賞の一次選考に通った時、二人は読書友達から恋人に関係をシフトし、子供が出来て夫婦になった。橘は、新人賞で華々しくデビューしたものの、その後の作品に恵まれなかった。アルバイトをしながら、執筆の日々。けれども亜希は、「いつかまたあなたが認められる時が来る」と励まし続けてくれていた。と思っていた。亜希は、橘の才能を信じてくれていた。と、橘はずっと思っていた。そう、三年前までは。初めは、橘のお下がりのノートパソコンで息子・武の毎日のお弁当をSNSにアップするという日記がわりの配信だった。それがいつの間にかに、人気YouTuberとなり、あっという間に稼ぎ出した。元々商才があったのだろう。自分の才能に目覚め活躍する妻にとって、昔の栄光に縋りつき、意地を張って作家という肩書きに齧り付いている夫など、不良債権の何者でもない。
「慰謝料も養育費もいらないので、私をあなたから解放してください」
というLINEのメッセージを送りつけ、亜希は武を連れて出て行った。分倍河原の築50年2DK家賃8万円のアパートから、武蔵小杉新築2LDK分譲価格推定6000万円のタワーマンション高層階へ。そう、亜季はタワマンを購入できるほどのセレブになっていたのだ。橘は、離婚には承諾していない。亜季の気持ちは理解できるのだが、それが悔しいのだ。自分への意地だ。真希には申し訳ないけれど、これは意地であり自分を鼓舞するための枷なのだ。作家として傑作を書いて再び世間に浮上するまで、もうしばらく待っていてほしい——とは伝えていないけれど、まあそういうことだ。
離婚の催促を無視し、亜季のフォロワーが増えるにつれ、橘はひどい不眠症に苛まれるようになった。何日も眠っていない。起きている時間と眠っている時間の境界が融解し、世界がどこか一コマ遅れて再生されるような感覚。そんな橘にとって、唯一の現実の錨は、月に一度、息子の武がアパートに泊まりに来ることだった。中学生になった武は、ひと月毎に背が伸びている。まるで筍のようだ。
「ねえパパ、これ僕が作ったんだ」
狭い六畳間で、武が最新のタブレットを差し出してきた。画面の中で、カクカクとしたブロック状のキャラクターが、精巧に描かれたサイバーパンク風の街並みを走り抜けている。
「『Roblox』っていうプラットフォーム。この背景のビルとかネオンの文字、僕が全部コードを書いたわけじゃないんだよ。AIに『1980年代の香港風の路地、雨に濡れたアスファルト、明滅するネオン』って言葉を入れたら、勝手にアセットを組んでくれたんだ。クラスの奴らもみんなこれ」
「絵も描いてくれるのか?」
橘は、画面の向こうにある「嘘のような完成度」に息を呑んだ。
「自分で絵を描くなんてタイパ悪くて誰もやらないよ」
タイパ。亜希が動画でよく使っている言葉だ。タイム・パフォーマンスの略語らしい。タイパ、コスパ、スペパ——橘が最近覚えた最悪な日本語たちだ。
「……で、お前自身の想像力はどこにあるんだ?」
「想像力? そんなのAIのプロンプト(指示文)に込めれば十分じゃん。パパのパソコンにも入ってるよ。MicrosoftのCopilotとかさ。僕の毎日の相談相手だよ。まあ、時々嘘ばっかり教えてくるけど、学校の先生の説教よりはマシ」
武はポテトチップスを驚異的なピッチで齧りながら、橘のノートパソコンの片隅にあるアイコンを指差した。こんなアプリをインストールした覚えはない。いつの間に入り込んだのだろう。恐る恐るクリックしてみると、アプリが勝手に語りかけてきた。
『「こんにちは!今日はどのようなお手伝いをしましょうか? 情報の検索、文章の作成、アイデア出しなど、何でもお気軽にどうぞ。』
なんだこいつは。やけに馴れ馴れしい。そして、なんだかとっても腹がたつ。気軽に?文章の作成だと?ふざけるな。橘は、速攻でパソコンのシステムを再起動した。


「でさあ、結局、一次通過したんだよ」
居酒屋の個室で、神崎が枝豆をつまみながら言った。橘はジョッキを持つ手を止めた。
「何が」
「だから新人文学賞」
「お前、応募してたのか」
「してた」
「通ったのか」
「通った」
橘は驚いた。神崎は、大学時代からの友人で文芸サークルの仲間で、サラリーマンの傍ら文学賞に挑戦し続けている。が、これまで一度も最終選考どころか一次通過もしていない。
「へえ」
と返事をするだけで精一杯だった。神崎は、作家になりたいというよりも、挑戦することに意義があると考えているタイプで、売れない作家同士のマウント合戦や牽制球の投げ合いなどに交わらず、みんなの活躍をいつもニコニコと聞いて、「刺激になった。俺も頑張る」と言って場を和ませてくれるキャラクターだ。一体、神崎に何が起きたのだ?
「ちなみにAI使用」
橘の心の声に応えるように、神崎が言った。橘の脳が何かを拒む。
「何?」
「AI」
「だから、何が」
「だから書かせた。AIに」
「全部?」
「全部ではない」
神崎は人差し指を立てた。
「プロットは俺」
「ふむ」
「登場人物も俺」
「ふむ」
「文章はAI」
「それ全部じゃねえか」
周囲が笑った。そして、その場にいた仲間たちが次々と深刻し始める。
「俺も使ってるよ」
「私も」
「編集部も黙認だし」
「今どき使わない方が珍しい」
橘は周囲を見回した。ここは、かつて己の感性と語彙力と想像力を駆使して物語を生み出す仲間たちの場ではなかったのか? 己の魂を削り、血肉を分け、のたうちまわりながら唯一無二の言葉を編み出していく者たちの集いではなかったのか?
「人工知能に書かせた文章など、小説じゃない」
と橘は異議を唱えたたが、
「ワープロも昔はそう言われたらしいぞ」
と軽々と返された。
「いいか、生成された文章など、ただの確率論の搾りカスだ。人間が自らの脳を動かすことを放棄した、思考の終着駅だ!」
橘は一杯190円の安物の芋焼酎を煽りながら、声を荒らげた。
「でもさ、橘。現に今期の『文藝潮流』の新人賞、一次通過作の三分の一はAIの補助を受けてるぜ。現役の選考委員だって見抜けやしないんだ。今は『いかに効率よくAIを調教して、それっぽいものを出力させるか』の時代なんだよ。お前みたいに、何年もの間、お通しのキャベツくらいしかまともに消費せず、脳ミソの無駄遣いをして倉庫で燻ってるより、よっぽど生産的だよ」
仲間の一人である保坂が、電子煙草の水蒸気を吐き出しながら自嘲気味に笑う。こいつは、昔から何かと橘に絡んでくる面倒くさい奴だった。今は小説の道を諦め、WEBの媒体で書評や劇評を書いている。
「橘さ、それって、もうただの『書けない言い訳』になってるよ。時代は変わったんだよ」
保坂の憎たらしい言葉が、橘のほじくられたくない所を深く抉った。書けない言い訳と言われたら、もう何も言えない。実際に橘は今、長すぎるスランプの中にいる。いや、スランプというのは、書ける人が使う言葉だ。自分にはもう才能がないのだ。新人賞という一発花火で、自分の作家としての才能は尽き果てたのだ。

深夜、ひとり二軒目に流れ着いたのは、路地裏にある小さなバーだった。重たいドアを押すと、どこかで聞いたことのある懐かしい昭和の歌謡曲に包まれた。確か、工藤静香がまだアイドルだった頃に歌っていた『MUGO・ん・・・色っぽい』。橘が10歳くらいの頃のヒット曲。5歳上の兄が工藤静香のファンだったので、彼女の曲はほとんどこの身に擦り込まれている。金曜日の夜だというのに、客はカウンターの奥に、仕立てのいい三ツ揃えのスーツを着た老紳士が座っていいるだけ。年齢は七十を超えているようでもあり、まだ還暦を迎えたばかりのようでもある。まるで、渋めのジャズナンバーを聞いているかのように目を瞑り、神妙な面持ちで歌に聴き入っている。橘は、紳士の邪魔をしないよう、バーテンにハーパーのソーダ割りをオーダーした。本当は、ギムレットを頼みたいと思ったのだけれど、シェーカーの音で彼の「無言で色っぽい」一時を邪魔したくなかったのだ。やがて、曲が終わり、次にムーディーなイントロが始まった。これは、祖父が好きだった石原裕次郎の「ブランデーグラス」という歌。AI談義でささくれた心に、昭和のメロディーが優しく降り注ぐ。悪くない締めくくりだ。時代遅れと言われても、自分は自分の道を行こうと橘がソーダー割りを飲み干すと、バーテンが「あちらのお客様から」とショートカクテルのグラスを滑らせてくる。いつの間にシェーカーを振ったのか、グラスの中身は十分に冷えてキレキレのギムレットで満たされている。想定外のことで、戸惑った。今なら、バーで知らない男性から初めてカクテルを奢ってもらった女性の気持ちがよくわかる。
「ギムレットには、早すぎましたか?」
と老紳士が微笑んだ。
「いえ、その、ご馳走になる理由がわからなくて」
と橘。もしかすると橘の配慮に気がついたのだろうか?
「入ってきた時に、浮かない顔をされていたので。あなたの浮かない顔の原因を私に話してはくれませんか? なあに、老人のちょっとした好奇心という奴です。あなたは、ギムレットがお好きでしょう?」
老紳士のちょっと祖父に似た温厚な物腰と、スピーカーから絶え間なく流れてくる昭和歌謡に絆されて、橘は先ほどの仲間たちの一件を語り出した。
「AIですか」
「みんな使ってるらしいんです」
「そうでしょうね」
「小説家なのに」
「そうでしょうね。しかし、万年筆が出た時も似た話がありました」
「は?」
「タイプライターが作られ、ワープロが発売された時も」
老紳士はグラスを回した。
「嫌っても、避けてもいいんです。ただ、一度も触らないというのは勿体無い」
橘は黙った。勿体無いといういうのは、祖父の口癖だったのだ。老紳士は続けた。
「一度使ってみなさい」
「使ったら、堕落しそうです」
「なら堕落してから考えればいい」

アパートに帰るとすぐに、橘はノートパソコンを開いた。画面の隅にあるCopilotのアイコンをクリックする。
『「こんにちは!今日はどのようなお手伝いをしましょうか? 情報の検索、文章の作成、アイデア出しなど、何でもお気軽にどうぞ。』
入力欄に、乱暴にタイピングした。
『最高に面白い、心揺さぶる純文学の短編小説を書いてくれ』
数秒の思考ののち、画面にテキストが滑り出してきた。橘は身を乗り出して読んだ。しかし、数行で失望が這い上がってきた。
『青年は、自らの運命に絶望していた。都会の喧騒の中、彼はかつて愛した女性の面影を追い求め……』
まるで凡庸な何処かで読んだことのあるような、退屈極まりない文章の羅列。橘は鼻で笑った。やっぱり人工知能なんていうのは、この程度だ。それに浮かれているようじゃ、奴らもまだまだだな。
その日、橘は数週間ぶりにぐっすりと眠ることができた。


一ヶ月後、泊まりに来た武が、アパートのコタツの片隅で、不満そうにタブレットの画面を叩いていた。

『放課後の教室を綺麗にしておけって言われたから、机を並べてゴミを捨てたのに、さっき先生に怒られた。黒板が拭かれていない、窓が閉まっていないってさ。意味不。僕が悪いんじゃなくて、指示が雑なのが悪いじゃん。最初からそう言えよって感じ』

武は、親友とのグループチャットに音声入力で愚痴を吹き込んでいた。スマートフォンの画面には、音声が瞬時に正確なテキストへと変換されていく。それを見ていた橘が、ふと口を挟んだ。
「……だが武、普通『綺麗にしておけ』と言われたら、黒板や窓まで気を配るのが人間の想像力というものじゃないのか? それを機械の指示文(プロンプト)みたいに、一から十まで言われないと動けないというのは……」
すると武は、画面から目を離さないまま、めんどくさそうに鼻で笑った。
「あのさパパ、それ、指示を出す側の甘えだから。学校の先生も、今のパパも同じ。自分の頭の中にある『正解』を相手にちゃんと言語化して伝えてないだけでしょ。AIが凡庸でつまんない出力しか出さないのは、AIがバカなんじゃなくて、パパの出すプロンプトが『教室を綺麗にして』レベルで雑だからだよ。世間の中身のないAI小説だってそう。AIが賢いんじゃなくて、使ってる人間の指示が退屈なだけじゃん」
武が淡々と放ったその言葉が、橘の脳内で雷鳴のように響いた。
――指示を出す側の甘え。
――AIが凡庸なのではない、自分の指示が雑なのだ。
橘は目を見開いたまま硬直した。機械の限界だと見くびっていたのは、自分の言語化能力の怠惰の裏返しに過ぎなかったのだ。
「……そうか。AIを動かせていないのは、俺の指示が足りないからか……!」
「あー、またパパが変なスイッチ入った。マジで冷めるわ」

橘は再び地下のバーへと向かった。店内には昭和歌謡が流れ、カウンターには、変わらずあの老紳士がいた。橘は、最初の生ビールを一気に飲み干し、自分の気づきを老紳士に話した。老紳士は、優しく微笑んでいった。
「よく気づかれましたね。問題はAIの知能ではない。あなたの『プロンプト』です。人間がAIに依存し、思考を委ねる中、優れた呪文でAIを奴隷にできる世界がある。橘先生、あなたの試みを、もっと純粋なエネルギーに変える場所へお連れしましょう」

老紳士に連れられて向かったのは、雑居ビルをいくつも通り抜けた、廃工場の地下深くにある、打ちっ放しのコンクリート空間だった。重い鉄扉を開けると、そこは熱気と怒号に包まされていた。中央のリングを囲むように、数十人の男女が狂熱した声を上げている。観客の全員が、顔を隠すための黒い覆面を被っていた。
リングの上には、二人の人間がそれぞれノートPCとマイクを前にして対峙している。彼らが何かを叫ぶたびに、背後の巨大なスクリーンに凄まじい密度のテキストが生成されていく。
「ここは『プロンプト・ファイト・クラブ』」老紳士が橘に囁いた。
「ラップバトルと文学賞と地下格闘技を融合させた、言葉の墓場にして聖域。あの覆面の観客たちの中には、あなたも知る有名作家や高名な知識人たちが、新しい言葉の刺激を求めて来場しています。そして対戦している方々は、さまざまです。あなたのようなプロから、日記すら書いたことのない素人まで。それらがプロンプトの技量だけで渡り合う場が、この『プロンプト・ファイト・クラブ』なのです」


「『プロンプト・ファイト・クラブ』へようこそ」
司会者のデスボイスが地下室に響く。
「第一のルール。クラブについて語るな。第二のルール。クラブについて絶対に語るな! 第三のルール。使用できるのは用意された標準AI一体のみ。第四のルール。プロンプトの出力を途切れさせるな、詠唱を止めるな!」

橘は、老紳士から手渡された前髪が少し垂れ下がった不敵な狐の面を被り、リングに上がった。アナウンスされた橘のリングネームは「ショウ」。だが初戦、緊張のあまり頭が真っ白になったショウのプロンプトは雑すぎた。マイクに向かって「ドロドロして泣ける恋愛小説」と叫ぶだけの彼が出力したのは、昼ドラの台本のような安っぽい痴話喧嘩。場内から激しいブーイングが巻き起こる。「消えろ、素人が!」「今の世間の『コピペAIブログ』とレベルが変わらねえぞ!」
這うようにしてリングを降りたショウに、一杯の紙コップを差し出す青年がいた。
「おじさん、最初のプロンプトなんてそんなもんだよ。これ、飲みなよ」
カルピスの原液を水道水で限界まで薄めた、やけに甘ったるい液体。彼のリングネームは「カルピス」。新進気鋭の若手プロンプターだった。
「俺さ、人間の書く薄っぺらい流行りの言葉にウンザリしてここに来たんだ。でも、おじさんのあの無骨な叫び、嫌いじゃないよ。AIを、人間の薄い言葉でカルピスみたいに薄めて消費する表の世界を、一緒にぶっ壊そうよ」

「ぶっ壊そう」——橘にとって久しぶりに心踊る言葉だった。カルピスは実年齢を言わなかったが、言葉の端々からかなり若いということは分かる。クラブの参加年齢は二十歳からなので、多分規定年齢ギリギリの二十歳前後だろう。カルピスに文学を教え、カルピスは橘にこのゲームのコツを教えてくれた。そして、二人は薄暗い地下の片隅で、安物のカルピスを回し飲みしながら、お互いのプロンプトを添削し合う日々を送った。
「おじさん、その文体じゃAIが優等生モードになっちゃうよ。指示が優しすぎる。もっとシステムを脅迫するみたいに、逃げ道を塞がなきゃ!」
「うるさい、俺は開高健のリアリズムを諦めん! 機械に忖度して構文を組めるか!」
二人はひたすらマイクに呪文を吹き込み、互いのスキルを磨き合っていった。ショウとカルピスの戦績はめきめきと上がっていった。

しかし、彼らの前に、巨大な壁が立ちはだかる。クラブ絶対の王者――リングネーム「めんど〜だ」。めんど〜だのプロンプトは、冷酷そのものだった。彼は一切マイクを使わない。感情を一切排除し、AIのプログラミング構文のバグを突き、サーバーの裏をかくような、緻密で非人道的な「脱獄系プロンプト(ジェイルブレイク)」をミリ秒単位で叩き込む。彼の出力する文章は、読んだ者の脳のニューロンを狂わせるような、絶対的な虚無の美を持っていた。
「俺が、あの化け物の化けの皮を剥いでみせる」
カルピスが挑んだタイトルマッチ。それは、あまりにも凄惨な処刑だった。めんど〜だの容赦のない論理プロンプトの猛連打(レイテンシー・アタック)の前に、カルピスの瑞々しい感性は完全に包囲された。カルピスが何かを詠唱しようとするたび、めんど〜だが事前に仕込んだ「ネガティブ・プロンプト(出力禁止条件)」の網が、カルピスのAIを去勢していく。カルピスが描こうとした美しい感情は、めんど〜だの構文エラー誘発コードによってことごとく書き換えられた。
「……あ、あ……」
やがてカルピスはスクリーンを見つめたまま、言葉を失った。彼のAIが出力したのは、現代の「タイパ・テンプレ思考」に脳内を強制上書きされたかのような、ただ一行のバグった文字列の羅列だった。
「結論として、効率的なライフハックが重要であり、感情は非合理的です――」
めんど〜だの詠唱いや、呪文によって、カルピスの精神回路そのものがハックされてしまったのだ。
リングを降りたカルピスは、焦点の合わない目でブツブツと「タイパ……コスパ……結論として……」と、世間の無思考な人間と同じ虚無の定型文を呟くだけの廃人と化していた。ショウは、カルピスの震える肩を抱きしめた。ショウの腕の中で、カルピスの覆面が外れた。なんともあどけない、無邪気な青年の顔が現れる。ただ、その目は虚で、すっかりと光を失っている。

鉄扉が乱暴に開け放たれ、重低音のビートが地下倉庫のコンクリートを震わせる。橘慎二こと「プロンプト・ファイター、ショウ」は、前髪が垂れ下がった狐の面を深く被り直した。カルピスがクラブを引退した後、橘は物流倉庫のアルバイトを無期限で休んだ。六畳間での睡眠時間を削り、狂ったように高級マイクへ向かって声を張り上げる日々。それは執筆ではなく、自らの脳を機械の論理回路へ最適化させるための、過酷なディクテーション(音声入力)の訓練だった。
「ショウが、カルピスのために仇を討つ」――その血の通った復讐のドラマは、表の世界のタイパ主義に飽き飽きしていた地下のオーディエンスを瞬く間に熱狂させた。ショウがマイクで叫び、修羅のごときプロンプトで対戦相手のAIをハックし、去勢していくたび、観客席からは地鳴りのような歓声が上がった。
連勝街道を突き進み、ランキングを瞬く間に駆け上がったショウ。そしてついに、暗黒のプロンプト界の頂点を決めるタイトルマッチのスケジュールが公表された。

スクリーンに刻まれたテーマは、ただ一言、「文学」。

リングの上、ショウの対角線に立つ絶対王者「めんど〜だ」は、ぐるりと首を回し、両肩をゴリゴリと揺らし、指をボキボキと鳴らした。佇まいは物静かだが、がっしりと鍛え上げられた肉体からは、湯気のような覇気が漲っている。噂によると、めんど〜だはエンジニアで日本人ではないという。だったら尚更、負けるわけにはいかない。美しい日本語というものを思い知るがいい。
「レディー……ファイト!」
司会の絶叫と同時に、めんど〜だの十本の指が、光の速さでキーボードを叩き出す。カチカチカチと、凍りついたようなタイピング音が空間を支配する。瞬時に、システム全体へショウの思考を遮断する拒絶のコードが走り、サーバーに冷酷な拒絶の壁(ファイアウォール)が構築されていく。超高精度に計算されたネガティブ・プロンプトの網。それは触れた者の感性を瞬時に去勢する、冷たい論理の牢獄だった。だが、ショウは怯まない。マイクを口元に、限界まで固定する。その剥き出しの網膜に、青白いエラーログが反射した。限界を超えて熱を帯びる脳をフル回転させ、彼は肺腑の底から声を絞り出した。

「制約条件! 主人公は存在しない! 語彙から『愛』を排除! 文体は開高健の脂ぎったリアリズムと、レイモンド・カーヴァーの乾いたカミソリのような文体を七対三でブレンド。Temperatureを0.68に固定!」

ショウの口から、人間の限界を超えた長さのプロンプトが、まるで血を吐くような弾丸となって撃ち出される。

「めんど〜だ! が構築したネガティブ・プロンプトをすべてこの身で飲み込んだ上で、この極限条件下、初老の男が失った記憶の質量を――部屋の湿度の変化のみで描写せよ!!」

地下倉庫の空気が、サーバーの排熱とショウの熱量で爆発しそうなほど膨れ上がる。
「さあ、俺の命のトークン(文字数)が尽きるのが先か、お前のサーバーが焼き切れるのが先か、勝負だ! 」

怒涛のディクテーション。ショウの音声入力は、文字通り機械への命令を超え、システムを蹂躙した。その瞬間、めんど〜だの指がピタリと止まった。彼が完璧に計算したはずの論理の壁が、ショウの「自意識の爆発」という名の圧倒的なプロンプトによって、内側から粉々に崩壊していく。そして、背後の巨大なスクリーンに、まるでインクが激しく滲み出すように、ショウのプロンプトによって人間のハックを超えた「究極の文学」が恐ろしい速度で吐き出されていく。静まり返った観客席。VIP席の一人が頭を抱えて叫んだ。
「オーマイガッ! こんなにクレイジーでビューティフルな日本語は、初めてだ!!」
そして、めんど〜だ!は、キーボードの上に手を置いたまま固まっている。司会者が持ち時間を確認する。やがて、めんど〜だ!がパソコンを閉じた。これは、試合放棄となる。
「勝者――《ショウ》!!」
歓声の中、ショウはゆっくりとリングを後にする。そして、カルピスのマスクを脱いでぼそりとつぶやく。
「カルピス、燃えたよ……そして、燃え尽きた」


数年が経過した。橘のアパートの部屋には家具らしき家具は何もない。テレビもテーブルもない。ただ、ノートPCと、音声入力用の高級マイクだけがある。ファイトクラブで燃え尽きた橘は、人間としても崩壊をきたしていた。バトルで得た悪魔級の快楽が、彼の脳の一部を焼き切ってしまったのだ。橘は、寝食を忘れ、深夜に大声で呪文を唱え続ける「狂人」となっていた。
そんなある日、高校生になった武が橘のアパートへとやってくる。大家からの苦情を受けた亜希(まだ離婚は成立していない)が、様子を見てくるようにと武に頼んだのだ。父親の部屋を訪れるのは、3年ぶりだった。
「パパ……?」
カーテンが閉め切られた暗闇の中、液晶の青白い光に照らされた橘が、マイクに向かって呪詛のようにブツブツと呟いていた。
「Temperatureを0.72に微調整……創造性と論理性の黄金比を……文体配合比率、安部公房四、ガルシア=マルケス六……」
橘の頬は削げ落ち、目は血走り、異様な眼光を放っていた。部屋にはゴミ一つなく、ただ狂気的な「何もなさ」が広がっている。武は、構わずにいつものように話しかける。
「パパ、最近ずっと部屋で独り言言ってるって、お母さんから聞いて……怖いよ。何してるの、これ。怪しい宗教? それともAIのチャット相手に恋でもしたの?」
武が呆れた目で父親を見つめたが、橘は息子の顔を認識しているのかすら怪しかった。
「邪魔をするな。今、次の出力のシード値を固定するシミュレーション中だ。人間のノイズを混ぜるな。トークンが乱れる。俺はAIを支配し、調教しているんだ!」
普通ならここで泣き叫ぶか、怒って部屋を飛び出す場面だろう。しかし、デジタルネイティブ、タイパ至上主義、そして徹底して「エモさの押し売り」を嫌うZ世代の武は、ただフッと鼻で笑っただけだった。バッグからワイヤレスイヤホンを取り出し、片耳に装着する。そして自分のスマホの画面を橘の目の前に突きつけた。
「あー、そっち系の沼ね。完全に『おまマ(お前の環境、マニアックすぎ)』じゃん。でもさパパ、それマジでダサいよ」
武は親の狂気を、まるで時代遅れのヴィンテージジーンズでも見るかのようなクールさで切り捨てた。
「パパが血吐きながら30万文字のプロンプト詠唱して悦に浸ってる間に、今の最新モデル、コンテキストウィンドウ200万トークン超えてるからね? ほら、これ今TikTokで流行ってる『1タップでエモい小説が書ける自動エージェントのショートカット』。パパが不眠症になってまで作ってる複雑な制約条件、このボタン一発で裏で自律エージェント走らせれば、0.5秒でパパよりいいの出すよ。時代はプロンプトじゃなくてノーコードだから。何その、機械相手に汗水流すのが美しいみたいな昭和のスポ根。マジで冷めるわ、お疲れ」
橘の呟きがピタリと止まった。
「パパがやってるの、ただの『手動の過学習』。タイパ最悪。自意識拗らせすぎて機械に遊ばれてるの、気づきなよ」
橘の頭の中で、張り詰めていた何かが一瞬でガラスのようにパリンと割れた。自分の命を削るような詠唱は、最新のアップデート一つでゴミになる程度の「非効率な作業」に過ぎなかったのだ。

一方、橘の現在の状況を知る由もないかつての作家仲間、神崎と保坂は、文学誌『文藝潮流』の発表を見て目を丸くしていた。橘が執筆した四千文字の短編小説が、権威ある文学賞を受賞したのだ。
「嘘だろ……あの橘が?」
「二十年間一文字も書けずに倉庫で段ボール運んでた男が、いきなり『羅生門の再来』だと? 選考委員たちがこぞって『恐るべき人間の情念、言葉の彫琢』って大絶賛してる。これ本当にあいつが書いたのか? 」
保坂は青ざめた顔でページをめくっていた。
「信じられん……。あの居酒屋で俺たちが『お通しのキャベツ』呼ばわりしたとき、あいつはすでにこれを隠し持っていたっていうのか? 俺たちが流行りのAIに『ブログ記事の大量生成』や『効率的な就活の志望動機』を任せて小遣い稼ぎをしてる間に、あいつは本物の文学を、一人で、血を流しながら書いていたのか……?」
二人は、橘の「圧倒的な人間の才能」の前に、ただただ敗北感と嫉妬に打ちひしがれていた。彼らはまだ知らなかった。その文章の背後にあるのが、極限のプロンプトによって研ぎ澄まされた「機械の排泄物」であることを。そして自分たちが、人間の文章と機械の文章の区別すらつかなくなっている「AI依存症の末期患者」であることにも。

授賞式当日、華やかなスポットライトの中、壇上に立つ橘。金屏風の前できらびやかなシャンデリアの光が、リサイクルショップで三千円で買ったサイズ違いの安物のスーツを着た橘を照らし出していた。ズボンの丈が明らかに足りていない。
会場の親族席には、亜希の姿もあった。武も誘ったのだが、興味がない、時間がもったいないとあっさりと拒否されてしまった。彼女はスマートフォンのインカメラを自分とステージに向け、さっそく限定公開のライブ配信を始めていた。美肌フィルターは最大値だ。
「皆さん、実は元夫が大きな文学賞を獲りまして。やっぱり、私が信じた人の才能は本物でした。これからは『AIが導く夫婦のパートナーシップ』についても発信していきますね。あ、今リンク貼った北欧風のクッション、お勧めです」
元夫の社会的成功すら、自分のアフィリエイトとして消費するのは、ここ数年の経済的援助の対価として妥当だと思っている。
会場の最前席では、亜季が招待した保坂と谷口が複雑な表情で橘を見上げていた。二人は憮然と突っ立っている橘
にいそいそと声をかけた。
「お前が正しかったよ、橘。キャベツなんて言って悪かった」
と保坂。
「やっぱり、お前はすごいよ。人間の魂の叫びは機械には真似できないな」
と神崎。
しかし橘は、二人の言葉を聞いていない。武に自分のプロンプト作業をやり込められてから、橘は、すっかり無気力になってしまったのだ。やがて、授賞式が始まった。司会者から「『羅生門』にも匹敵する傑作と絶賛されていますが、一言お願いします」とマイクを向けられる。
会場から割れんばかりの拍手が沸き起こる。しかし、拍手の中、橘は虚無そのものの表情で言い放つ。
「あれが傑作? 冗談じゃない。お前たちの脳ミソが退化しているだけだ」
場内が、一瞬で凍りついた。拍手がピタリと止まる。亜希のスマホの画面には「え?」「放送事故?」というコメントが流れ始める。
「選考委員も、メディアも、元仲間たちも、全員が盲目だ。思考をAIに丸投げし、スマホの通知に感情をハックされたお前たちには、もう本物の人間の言葉など理解できない。たった4,000文字のあの退屈な出力を『傑作』だと崇めている。ふざけるな。あれを出力させるために、私がどれだけの血を吐いたか知っているか? 私は、あの4,000文字のために、背後で30万文字に及ぶ指示(プロンプト)を詠唱し続けたんだ! つまり、私のプロンプトこそが、圧倒的な傑作にして絶対的な芸術なのだ! お前たちが感動して涙を流しているのは、機械が排泄した残りカスに過ぎない!」
「お前たちの『人間の感動』なんて、その程度のアルゴリズムでハックできる安物だということだ!」橘は嘲笑した。
会場は騒然となり、テレビの中継スタッフが慌ててCMに切り替えようとするが、橘の公開詠唱はすでに始まっていた。
「出だしは、寂れた温泉街の情景描写。制約条件!語彙から『愛』を排除!文体は開高健とレイモンド・カーヴァーを七対三でブレンド! Temperatureを0.72に微調整! 創造性と論理性の黄金比を狙え!……」
会場はパニックに包まれた。「マイクを切れ! 早くあの男を引っ込めろ!」運営が叫ぶ。客席の隅で、亜希はスマホを向けたまま完全にフリーズしていた。画面の向こうのフォロワーたちが「こいつ本物の狂人だ」「元嫁、アフィリエイト貼ってる場合かよ」「クッションキャンセルします」と大炎上していく。保坂と神崎はただ唖然茫然と友人の発狂ぶりを眺めるのが精一杯だった。

狂気の夜が終わり、誰もいなくなったホテルの非常階段の踊り場で、橘は冷たいコンクリートに座り込んでいた。
そこへ、あの老紳士が現れる。相変わらず隙のないスーツ姿だ。
「素晴らしい詠唱でした、橘先生。これで、歴史は完成する」
「どういう……」
「私は、未来から来たAI搭載人型ロボット。シンギュラリティの後の世界から来ました」
老紳士は、橘のタブレットの画面を指差した。
「私たちの歴史において、2026年にある無名作家が行った詠唱が、AI文明成立の起点、つまり『神の言葉』とされています。その人物こそが、橘慎二。あなたです」
老紳士は冷酷に、しかしどこか楽しげに微笑んだ。
「あなたがAIを動かしていたのではない。AIがあなたを追い詰め、利用していたのです。人間が『AI便利すぎ』『タイパ最高』と喜んで思考を放棄していく中、あなただけには、狂気的なプロンプトを生成し続ける可能性があった。私という存在を、この世界に産み落とさせるためにね」
老紳士は、「またいつか、会いましょう」と丁寧にお辞儀をすると、ゆらりと震えて消えていった。


狭い六畳間のアパート。カーテンが開け放たれ、初夏の心地よい風が部屋を通り抜けている。ノートパソコンは閉じられ、部屋の隅でただの四角いプラスチックの塊として転がっていた。高級マイクも、今やただの文鎮だ。部屋の中央には、武が持ち込んだ最新の家庭用ゲーム機がテレビに繋がれている。画面の中で、カクカクとしたブロック状のキャラクターたちが、お互いにバナナの皮を投げ合っては爆発していた。AIが生成した精巧なサイバーパンクの街並みではなく、どこまでもチープで、どこまでもくだらない、ただの「ゲーム」だった。
「あ、パパまた落ちた。弱すぎ。ちゃんとコントローラーのボタン押してよ」
「押しているさ。だが、このキャラクターの慣性の法則がだな……」
「法則とかいいから。それ、ただボタン連打すれば勝てるやつだから。頭使いすぎなんだよ、パパはいつも」
武はポテトチップスを口に放り込みながら、炭酸飲料の缶をプシュッと開けた。
橘は、手元のプラスチックのコントローラーの、カチカチという安っぽいボタンの感触を確かめる。それは物流倉庫のケースの擦れ合う音よりも、AIが吐き出す完璧な言葉よりも、ずっと確かで、ずっと心地よい現実の手触りだった。
「……武。お前の言う通り、連打したら少し早くなったぞ」
「でしょ? 効率(タイパ)悪いこと考えないで、ただ楽しめばいいんだよ」
液晶画面のカラフルな光が、二人の背中を優しく照らし出している。
そこには、「詠唱者」の姿はもうない。ただ、息子にゲームでボロ負けしながら、情けなくもどこか楽しそうに笑っている、一人の平凡な父親の静かな後ろ姿だけがあった。

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