ホログラム書架でまた会いましょう

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梗 概

ホログラム書架でまた会いましょう

主人公は〈ホログラム書架〉の司書として働いていたが、あるとき衝撃的な一目惚れのために小型宇宙船の操作を誤り、書架へと落下しはじめる。〈ホログラム書架〉とはある種のブラックホールの愛称であり、古今東西の書物のきわめて精巧な複製をまるごと溜め込む巨大な情報保管庫として使用されているが、そこに放り込まれた情報を取り出すための技術はいまだ確立されていない。理論的には読み取り可能であることを前提に、無数の複製書籍を〈ホログラム書架〉の地平面に規則正しく投下してまわるのが主人公の職務である。

この小説は、突然の恋に落ちた主人公が〈ホログラム書架〉へと落ちはじめ、そしていわゆる事象の地平面を過ぎ越して死ぬまでの間に書き記すラブレターの形式をとる。落下しているにもかかわらず、一目惚れの高揚感のためかその筆致は浮かれている。

我に返ったときには、この小舟は書架へと向かって落下しはじめていました。狭い座席の下にぬくぬくと寝そべっていた星間オットセイが、あわてたような奇妙な声をあげています。どうしようもありません。どうやら私は恋に落ちたようですし、それが至上の恋であるなら死ぬのもべつに構わない、少なくともいまのところはそんな気がしています。

能天気なラブレターにおいて、以下のことがおぼろげに明らかになる。主人公には、付近の事物から量子的な情報を部分的に読み取って過去の状態を算出し、その結果をイメージとして把捉する謎めいた能力がある(それは特殊な司書としての職務になにかと役に立つ)。主人公は書架の地平面にこびりついた灰をみとめ、そこから復元されたとある人物のまなざしのイメージにどうやら魅了されたらしい。

その能力とて万能ではない。イメージは限定的にしか復元されないし、その過程には一定の時間がかかる。一目惚れの相手にかかわるイメージは、最期のまなざしから順に時間をさかのぼりながらゆっくりと復元されていく(それは忘れていたことを思い出す過程に似ている)。恋の相手は、〈ホログラム書架〉が実用に供されるよりもずっと前に、調査のためにこの天体のもとを訪れて落下した研究員だったことがやがて明らかになる。ラブレターにおいては、元は小学校の図書室の司書だった主人公自身の半生や、復元されゆく研究員の数奇な過去イメージ、〈ホログラム書架〉の歴史、妄想された宇宙論などがうっとりと語られる。生きた時代の異なる二人の人生は、見たところ特に交わることはないように思われる。しかし最後には、主人公が幼少時代に読んだ、イメージの復元過程の寓意にみちた童話の著者が、じつはその研究員であったことが判明する。

だからといって恋が成就するというわけでもない。事象の地平面を超えて身体を引きちぎられるその瞬間まで、主人公はあくまで一方的なラブレターを書き続ける。

いつしかホログラム書架のひらかれる日をともに待ちましょう。それではまた。

文字数:1198

内容に関するアピール

物理的に落っこちながら恋に落ちる話を書いてみたらどうだろう、という駄洒落のような発想から設定やストーリーを組み立てました。いわゆるブラックホールの情報パラドクスを解消する仮説の正しさがどういうわけか明らかになった後の世界をなんとなく想定しつつ、あくまで優しげなラブレターの語彙を用いることでそうした背景を包み込んでしまいたいと考えています。

ロマンティックさと滑稽さの按配に気をつけつつ、ちょっと気味の悪い一方通行のラブレターを丁寧に綴ってゆきます。

かくて恋せし者の語りていわく——

文字数:240

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ホログラム書架でまた会いましょう

途方もない速度のためにゆがんだ星々のひかりが花火のようにあざやかに咲いています。あざやかに咲きながら、漆黒を白く蝕みながら、信じがたいほどまばゆくかがやいている。かなたの光源とこの機体とをへだてるのはどこまでも透徹した真空ばかりで、まぼろしのように、偽物のようにくっきりと数々の天体をみとめることができます。前方にすこし手をのべるだけで、光る白砂をあふれんばかりに掬いとることができるものと信じたくなるほどに。
 とうに見飽きたはずの景色がどうしてか鮮烈に、刻みつけるように目に映るので涙がじわりとにじむ。
 計器盤にはあかるい赤のランプが明滅し、機体が非常に危険な状態にあることを示しています。もはやひとつの打ち手もありません。気づいたときにはすでに、最後の一線を踏み越えていた。遅ればせながら危機管理にまつわる知識をどうにか思い起こし、エンジンの出力や角度を工夫して脱出を試みてはみたものの、もとより操縦はさほど得意ではないし、機体の力強さにも限界があります。かりに救助をもとめる信号をいまさら発したとしても、時空のゆがみのために極端に引き伸ばされてしまうので、向こう側でなにか有効な意味をむすぶ望みはうすいでしょう。
 最善の処置としてひとまずのところ、落下をなるべく遅らせることのできるよう上向きに舵を固定しています。それでも速度や重力をあらわす数値、その他の細々とした指標はゆるやかに、容赦なく上昇してゆき、高度は着実に下がりつづけている。真下を見やればくろぐろとした穴が口をひらいてすべてを呑み込むのを待ちかまえ、重力のために極端にねじまげられた星々のひかりが、その周囲をさざなみのようにぼうっとふちどっています。環になったひかりのところどころが青くひらめくので、水をたたえた深い井戸のようにも見える。
 この恐るべき天体を、私たちはいまではその用途にちなんでホログラム書架と呼んでいるのですが——この遠大な書架のまわりを旋回しながら、思えばずいぶん長い時間をひとりきりで過ごしてきました。
 落ちてしまったのならもう仕方がない。怖くはありません。怖くはないけれど、残された時間は長くはないでしょう。この機体も私も、いま書き始めたばかりのこの手紙も、遅からずそこに吸い込まれて灼けはてるでしょう。
 すさまじい重力に引きちぎられてしまう前に、あなたのことをもっと知りたい。あなたにもっと話しかけたい。

まなざしに射竦められて、機体の操作を誤ったのです。目があったのはほんの一瞬だったけれど、それだけで十分でした。あなたの生きたすべての時間がそこに凝縮されて、さみしくてつめたい湖のような複雑な青みをおびて、うっすらとした微笑みをやさしげに投げかけて。それ以外のありとあらゆるものが、またたく間に私の視界から融け消えました。
 たしかに見つめ合いました。あまりの衝撃に時間が止まったのかもしれないし、たんに呼吸や心臓が止まっただけかもしれない。時間が止まったわけではないにせよすべてが、少なくとも私の意識はすっかり凍りついてしまって、その間になにが起きたのか覚えていません。気づけば目前の天空がぐらりとかたむき、赤いランプが機内を照らし、するどい警報が鳴り、座席の下で眠っていた星間オットセイが目をさまして鼻を鳴らし(この旅の唯一の同伴者です——)、ようやく私は我に返りました。
 先に記した通り、我に返ったときには遅すぎた。遅すぎたのだということにすらもしばらく気がつきませんでした。
 どうしても振り払うことができません。あのときあなたは何に向かって笑いかけていたのか。もちろん私ではないことくらい承知しています。まだあなたのことをほとんどなにも知らないけれど、私とあなたのあいだに果てしない隔たりが横たわっていることはたしかにわかる。いかなる可能性を検討したところで、あなたが私に笑いかけることなんてありえないのは明白で、だから目があったと思ったのが誤認に過ぎないということも明確に理解しているのですが、これほどに烈しいひとめぼれを経験したあとではその誤認すら運命的だったような、むしろその晴れがましい誤認だけが運命だったような気すらもしてしまいます。

一方的に語りかけることしかできません。あなたはいま、当たり前のことだけど、私のことばを読むことも耳にすることもできない。それでもどうしても黙っていることができなくて、不在のあなたへと宛てた手紙を書くことにしました。この手紙があなたに届く見込みはあまりにうすく、決してありえないと言うほうが正しいのですが、それでも書かずにはおられないのです。
 順を追って話します。その名があきらかにしめすとおり、この天体まるごとがひとつの書架であり、そこにはもちろん書物がおさめられているのです。私はそのとき分類番号027.57.021にふくまれる書籍群を機体に積んで、この天体をとりまく無数の外回り航路のうちの一筋に沿って、書架のまわりを比較的ゆっくりと飛行していたところでした。この書架の地平面のさだめられた座標をめがけて複製書籍を投下してまわるのが、この書架につとめる司書としての唯一の、しかし果てしのない業務です。およその配架座標は機体が自動的に同定するのですが、最後には地表面に薄い光をなげかけながら、私自身が専用の硝子窓をのぞきこみ、目視で確かめます。書架をとりまく地平面にはこれまでに投下されてきた書物の灰が薄くこびりついており、こびりついた灰から燃え尽きるまえの書物の表紙や書誌情報のおよそのイメージを逆回しに読み取ることで、正確な相対位置をつかむ必要があるのです。
 そのとき私は書物の灰ではなく、偶然にもそこにあなたの落下の痕跡を白くみとめていたのでした。
 逆回しに読み取るということをうまく説明できればいいのですが。なにか特定のものを目にしたあとでそのイメージを巻き戻すことで、脳裏においてその事物の過去のすがたをおぼろげにあきらかにすることができる。きちんと説明すれば、それは非常に微細な粒子にかかわる物理的な演算をあいまいに、なかば無意識に行なっているのだということになるらしいのですが、経験としてはやたらと負荷の強い追憶、私自身の記憶の膜をつきやぶってその外側を頼りなく泳ぎ、遠いイメージをどうにか捕まえているといった感覚です。
 灼けはてるまえの書物のすがたを復元しようとするとき、これは私のひそかな癖のようなものなのですが、ある種の歌のようなものを小さな声でくちずさみます。くちずさむと頭がくらくらとして、ちいさな楽器がかすかな伴奏を鳴らすのが遠くから聞こえてくる。その音や私自身の声に感覚をゆだねていると頭のなかにこもっている靄がじわりと晴れて、在りし日の書物の像がぼんやり浮かび上がってきます。もしもさらに強く、根気よく念じつづければその書物になにが書いてあるのかすらも見てとることができるはずですが、そこまでせずとも、書名と著者名、ならびに分類番号さえみとめられれば正確な配架のための準備としては十分です。かならずしも書物のすみずみまで把握しなくても仕事が成り立つという点においては、地上で司書の仕事をしていたときとそう変わらない。
 もちろん、あらゆる過去を瞬時にあばくといったような大それたことはできません。星間オットセイやそれに類する自由な存在ならばあるいは可能なのかもしれないけれど、過去イメージを弾き出すための膨大な計算のようなものを擁するのに、あきらかに私たちのからだは適したつくりをしてはいない。ホログラム書架の司書をつとめるには人間離れした知能が必要だと思われることもあるのですが、決してそんなことはありません。たしかにその一点に関しては抜きん出た能力ではあるけれども、知能の全体から見ればむしろ欠陥というほうが近いような気もします。私自身、とくにすぐれた思考力を持ち合わせているわけではありません。それに、ゆたかで意味ありげに見える目の前の事物が結局のところ、ただ積層する過去のあらわれに過ぎないのだとまざまざと知ることは、基本的にはかなり憂鬱なものです。

藍色のインクでしたためています。あの濡れた惑星のちいさな街に住んでいたのはもうずっと前のことだけど、記憶違いでなければ、たぶん夜明けまえの東の空はこんな色をしていた気がする。分厚い大気にまもられた気まぐれな空が懐かしく思い出されます。ここではどちらを向いても空間はもっぱら透徹してひたすら黒く、まばゆさと暗さとは截然と分かたれ、あわい彩りやくすんだ色味は遠くに小さくみとめられることすらあれ、私の視線をたっぷりと包みこむようなことはありません。
 このおおらかな夜明けのインクと、無重力状態でもなめらかに字を書くことのできる特別な万年筆は、そういえばあの街の子どもたちが私に贈ってくれたものでした。いまこの機体は円弧状の自由落下にゆだねられており、私のからだもこのペンも、兎の穴を落ちるアリスとおなじ浮遊感をおぼえています。地上ではすぐれて機能的な多くのペンも、この条件下ではインクがこぼれたり掠れたりしてあまり役には立たないはずですが、このペンには特別な仕掛けがあるようです。軸もほっそりとして扱いやすく、長い旅のあいだに筋力の著しくよわってしまった私の手にもすっぽりとおさまって、その先からつぎつぎと文字を吐き出すのを支えてくれる。
 この手にペンをにぎるのはずいぶん久しぶりのことです。あまりに多くの時間をこの狭い機内で過ごしているので、書きたいことのすべてを紙に書き連ねていれば、いくら白いノートがあっても足りなくなってしまう。この機体はいくぶん時間を圧縮しながら移動しているし、私自身もからだの時間を遅らせるための薬を断続的に服用しているけれど、それでもなおとりとめのない時間をどうにかやりすごさなくてはなりません。最も近くにある流通拠点と書架とのあいだを往復するだけでも非常に退屈です。とかくどちらを向いてもなにもかもが遠いので、だれかと言葉を交わすにはなにかと困難がともないます。いつのまにか機内に棲みついていた星間オットセイは、おそらく私たちよりもよほどすぐれた知性を持ち合わせているにちがいないと思うけれど、私と通じ合うことのできる言葉を話しません。いくつかの端末を——寒々としたテキストデータを保存するにはあまりに十分な記憶領域をもつ端末をここに持ち込んでいるので、そこに文字情報を、だれに語りかけているのかもよくわからないなにがしかをひたすら入力して過ごすことならよくありました。
 いま連ねている言葉に宛先のあることがとても嬉しい。たとえどこにも届かないのだとしても。
 この手紙を書き始めるにあたって、司書としてあるまじき行為に手を染めました。コンテナに詰め込まれた貴重な複製書物の何冊かをまさぐって、なにも印刷されていない見返しの紙をいくらか破り取ったのです。機内で使うことになるなど思いもよらず、便箋やノートの類をひとつも持ち込んでいなかったから。細ってしまった腕で分厚い紙を破り取るのは、骨こそ折れないにしてもなかなか骨の折れる作業だったのですが、でも、この書架の特性を鑑みれば、この手紙はどうしても手触りのある媒体に書かれなくてはならなかった。どうせまもなく死ぬのだし、ささやかな禁忌にふれることくらい大した問題ではないでしょう。

あなたのことをもっと知りたい。いま、ふたたびあの歌をささやきながら、あなたの過去をもう少しだけ詳しく見出していたところです。まなざしのまわりをいろどる愉しげな表情を。つめたくかがやく強烈な好奇心を。落下を少しも恐れず、口許にほほえみすらもたたえて。この書架に、おそらくまだ書架と呼び習わされるまえのこの真っ黒の天体に、魅惑されていたのでしょう。あなたは旧式の、いやそのころはまだ新型だったかもしれない小ぶりの調査船に乗って、船もろともこの天体の地平面に叩きつけられ燃え尽きた。叩きつけられたというのはこちらからそのように見えているだけで、あなたの側から見れば地平面を苦もなくすりぬけているはずなのですが、それに関してはいくら目を凝らしてもイメージを立ち上げることができません。私が見ることができるのは地平面のこちら側、あなたがむごくも引きちぎられることになる側の時間だけ。
 どうやら数百年ほどまえの出来事です。数百年だなんて、この無窮の空にあっては笑ってしまうくらいささやかな時間にすぎないけれど、それでもさみしいと思ってしまう。もしもあらゆる次元を軽々とつらぬいて生きることができたなら、こんなにも拙い物思いに沈む必要などないはずだけど、私たちにできる時空間の操作などいまでも本当につまらないものです。星間オットセイならば時空のフープをやすやすと潜り抜けることができるし、私たちの視座を遠く離れてはるかかなたの事物を見透かしているはずだと思うのですが(ただ、そのくせ、この生き物はさみしさという取るに足らない情念をほんとうに理解しているわけではないような気がする。たまに私の膝にやさしく鼻を押し付けたり、ベルのような声で甘く鳴いたりはするのですが、そうした所作のひとつひとつがあまりに愛らしいので、却って作りものめいて感じられることがよくあります)。
 伸縮する時空に身をさらしているので正確な数値はよくわからないけれど、なんにせよ数百年の隔たりは、私たちのからだにおいては誤差では済まされない。あの地上で、私たちがすれちがったことすらもなかったのだということが不思議に思われます。あなたのことをこんなにも明瞭に、決心さえつけば抱きしめることができそうなくらい親密に、そんな決心はつかないにしても、くっきりとまなうらに思い浮かべることができるのに。あなたのもとへ飛翔してゆくことができないのでさみしい。長い間ずっとひとりぼっちで空を横切ってきたのに、こんなにも甘美なさみしさがあることになぜだか気づいたことがありませんでした。

あなたに語りかけるのはナンセンスなのかもしれないけれど、それでも書き続けます。夜空のあちこちに遍在するこの手の天体のうち、まさにあなたの落下したこの淵こそが、もっとも書架としての利用にふさわしいのだということが後に明らかになりました。もしも仮に限りなく強力な計算機や、あるいは極端に大きなエネルギーをも跳ね返す堅牢な宇宙船を持つことができたなら、天体の善し悪しにこだわる必要はありません。どれほど歪んでいようと、燃えさかる不純な物質に取り巻かれていようと、理論的には問題なく書架としての役割をはたしえます。けれども私たちの持てる技術は、いまだに驚くほど複雑な制約に満ちている。あの濡れそぼる惑星にひしめいて、難解でゆたかな生態を形成してきたにもかかわらず、あるいはだからこそというべきなのか、よくわからないけれど、私たちはある一定のスケールを超え出るということがいまもなおどうしてもできないのです。そうであるからには、書架として用いる天体は、可能なかぎり扱いやすいものでなくてはなりませんでした。
 よく考えれば、あなたには説明するまでもないことだったかもしれません。あなたはたぶん、書架として用いるのに最も適した天体を見定めるためにここに来たのでしょう。あなたがその楽しげな調査によって明らかにした通り、この天体はたしかに強大ではあるけれど、雑味がうすく、その状態もさほど複雑ではなく、相対的にいえば非常に安定している。書架にしまいこんだ書物を復元しようと試みるとき、この静的な性質のおかげで、壊れた迷宮をゆくような込み入った演算が少しばかり楽になるはずだとされています。
 あなたは呆れるかもしれません。あるいは落胆するのでしょうか。じつはいまもなお、この書架は重大な欠陥をかかえています。いや、書架はもとよりひとつの孤独な天体にすぎないのだから、欠陥というのもおかしな話で——問題は、いかにも無謀な私たちのほうにあります。現在の私たちには、ひとたびこの書架に放り込んでしまった蔵書をふたたび取り出すことができません。遠くからはるばる書物を運び込み、どうにか規則的に配架することはできても、一般の閲覧に供することができない。なんということはない、その天体から書物を復元するために必要とされる知的な強度や工学的な達成、あるいはそれらを支える政治的な成熟、そうした実際的なあらゆる水準が桁違いに冴えないままだということです。
 理論的には——わかったような口ぶりで言いますが——そこに放り込まれた情報はすべて完全に復元することが可能です。そのことはずっと昔に、おそらくあなたの生きた時代よりもずっと前からすでに証明されていたはず。それに、ここに勤める司書たちの脳裡においてはいくらかのベクトルと精緻さとを大きく犠牲にしながらもなんとなしにその復元を行うことができているのだから、不可能ということはないはずでしょう。でも、すっきりと抽象化すればまちがいなく可能だと言い切れることであっても、あるいはほとんど無意識の領域においてはなぜかすでに実現されていることでも、私たちが恣意的に実をむすばせようとすればとたんに、あらゆる困難に道をはばまれてしまう。それにもかかわらず私たちはまぶしい夢を見つづけていて、いまもあの惑星の地上や、あるいはその近郊の星ではどうにかして蔵書をテクニカルに復元するための研究がほそぼそと継続され、じつをいえば私だって、このばかばかしいほど遠大な計画の末端にたずさわるものの一人として、その潜在的な功績をひそかに信じています。

この機体が砕け散るまでもう少しばかり時間があるので、まだあなたを見つめていることができます。
 あなたの頬が、首すじが、肩が見える。長くて退屈な空の旅があなたのからだをすべらかにして、皮膚にはあまり血の気がなく、うすい脂肪の下のなかみもやわらかく、骨格すらも軽くほっそりとなって、同様に損なわれてしまった私のからだとなんだかよく似ています。もしかしたらその細い腕ならば、私のからだを壊さないままにつつみこむこともできるのでしょうか。
 抱き合うことは破壊的です。もし地上に暮らす健康なひとと抱擁を交わすことになったとしたら、よほど注意しなければ怪我をしてしまう。私のからだはこの機内での暮らしにはよく適合しているし、それが不調を呼び起こさないようにいくらかの処置をほどこしているから、茫漠たる星間を飛行している限り、あるいはこのように天体をめぐる自由落下にふわりと身をゆだねている限りにおいて苦しみを感じることはありません。けれども、もしもだれか、地上で健やかに暮らしてきたひとと身を寄せ合うことになったとしたら、文字通りの苦痛につらぬかれることになることは予想がつきます。
 けれども、そのやわらかな手脚、ひんやりとした指先ならば、あるいは。手にとるように思い浮かべることができます。あなたにふれたいような気がする。ふれるのが怖くないような気がします。
 でももちろんそんなことはできない。手をふれることもふれられることもできません。いまできるのは、ただ一方的に話しかけることだけ。あなたを見出しつづけることだけ。そんなことは果たして正しいのでしょうか。正直なところ、罪の意識すらもおぼえています。あなたは私を知らないのに。あなたから私を見ることはできないのに。あなたはいま、一言たりとも話すことができないのに。
 それなのに見つめてしまう。書きつづけてしまう。どうしても目を離すことができません。暗がりで砕け散る直前のあなたの、ほとんど全身がはっきりと見えました。とりわけ小さな調査船がばらばらになったその瞬間、けれどもあなたのからだがまだぎりぎりかたちを保っている奇跡的なその一瞬、真っ暗にひらいた口に向かって、青いひかりにとりまかれて充実したその穴へ、無骨ながれきと微笑をたたえたあなたとがまっさかさまに吸い込まれていくイメージは、ぞっとするほど劇的で思わず溜息をついてしまう。
 ごめんなさい。けれどもさらにこの先を。最期の瞬間だけでは足りない。あなたのことを。あなたの過去を。あなたが落ちる前のことをもっと知りたい。もっと昔にまでさかのぼって、あなたのことをくわしく知りたい。もっと書きつらねたい。私が燃え尽きてしまうまえに。ことばを失ってしまう前に。もう少しのあいだだけ。
 いまふたたび下方をのぞめばあの暗い穴はさきほどよりもずっと巨きく、視界をいっぱいに埋め尽くし、その縁から縁までを一望することもかなわないほどです。どうかあともう少しだけ、話しかけることをゆるしてください。この途方もない落下に免じて。まもなく燃えつきる手紙ですから。

無数のイメージがいりまじっていてまだうまく像を結びません。できることならすべてを知りたいのに、いくら急いても、私にはいかにも人間的な限界があって、過去へとさかのぼってそれらをとらえるのに焦れったいほど時間がかかります。
 たいていものを自在に見ることができるはずの星間オットセイがすこしうらやましい。いまはもう、機体の操縦を放り出して手紙を書く私を見てあきれはてたのか、いつものように床にべったりと——自由落下しているというのに、なぜか当たり前のように呑気に寝そべっています(私はといえば、もちろん太くて柔らかいベルトで身体を固定しつつなんとか手紙を書いているのですが——)。
 正確なところは知るべくもないけれど、私とあなたの目の合ったあの瞬間、星間オットセイには、私が落ちる場合の未来と、落ちない場合の未来のどちらもが見えていたのではないかという気がして、だとすればいまの私は落ちる側の私でしょう。落ちる側の私でよかった。死んでしまう側の私でほんとうによかった。あなたのことを知らない世界を生きる意味なんてないと、いまでは確信しています。
 ゆるやかにあなたのすがたが見えてくるので幸福です。どうやらあなたは必ずしも空飛ぶ調査船に乗りつづけてきたというわけではなく、そこらじゅうの観測拠点をつぎつぎとめぐりながら技師として働いていたらしい。どこだろう、たとえばあれは、いま私に見えているのは、きっと太陽系のはるか周縁をめぐる、いわゆる準惑星のどこかに据えられた天体望遠鏡です。氷と砂礫からできたその脆弱な大地に、丈夫でひらべったいシェルターが貼りついていて、そこであなたはほかの何人かの技師とともに思いのほか睦まじく生活している。その薄弱な大気は私たちのからだには間違いなく脅威ではあるものの、空のかなたから降ってくるかすかな信号を混じり気なく受け止めるのにはうってつけです。まさかガリレオのようにレンズに目をあててをのぞきこむことはしないけれど、その望遠鏡が毎夜さまざまなひかりや電波を揺らぎなく正しくとらえ、あの濡れた惑星へと向けてその様相を送信することができるよう、繊細な仕組みを日々整え、点検しながら暮らしているのでした。そのころにはからだもまだそれほど衰えておらず、味覚もはっきりとしていて、その星の水の低すぎる沸点のせいで香りのたたない珈琲に、冗談混じりの文句をつけたりもしていた。
 笑んでいるあなたのすがたが繰り返し目に浮かびます。ある時期は木星の衛星のいずれかに据えられた観測施設や、あるいは月の仮設住宅にも住んでいた。求められた調査やら探索をすっかり終えてしまったら、白銀にかがやく自由な月面でかるがると踊って遊んだのでしょう。私たちの濡れた星を離れるまえにも、各地を転々としていたようだけれど、つめたくて清澄な大気のはりつめた山岳地帯に住んでいたころのことがいまちょうど見えました。高い標高のために樹木は茂らず、低木や青草、あるいは苔類ばかりをうすくいだいて、あとは白っぽい岩肌がむきだしになっています。独りで住むには広すぎるロッジの、広いばかりの寝室で何重もの毛布にくるまって、真っ青なひかりのさんさんと降る真昼間にはぐっすりと眠っている。日昏れのころに起き出したあなたは、あらんかぎりの防寒具をふかふかと身につけて、小さくて古びた自動車のようなものに乗って、細くて曲がりくねった山道をのぼって天体観測所にたどりつく。一通りの仕事を終えたあとの明け方に、淡い空気のために息をあらげながら刃物のように鋭い尾根をわたり、青くつらなる峰の向こう側で、夜と朝とがゆるやかに入れ替わるさまを眺めて——

あのどこまでも深いまなざしのことが思い出されます。さまざまな景色を受け止めては笑みをたたえ、ついには空のひとつの果てにまで流れついてしまった双眸。あなたは世界の秘密にせまる大それた謎を解き明かすためではなくて——謎解きだけなら研究室でもできるのですから——ただまだ見ぬ場所へと向かうだけために、未知の事物に目とからだとをありありとさらすために、天体やその他のあれこれの調査にかかわる技師の仕事をしていたのではないかという気がします。私はといえば、じつのところ天文学とはまったく縁のない人生を送ってきたし、この奇妙な書架の司書となるまえは、霧に閉ざされた埃っぽい街の、狭くてうすぐらい小学校の図書室にずっと閉じこもっていたので、あなたのように多彩な景色を見たことがありません——狭い図書室の古びた書棚と、あとはあの天の書架をめぐる燦然とした光景ばかりが目に焼き付いている。いまあなたの過去のイメージを借りて、それだけではない景色をうっすらと見通すことができるのでうれしく思います。
 星々のはざまを飛ぶようになってからずいぶん経ちますが、いまでも天体にかかわる物理学を深く理解しているとはいえません。それでも司書がつとまるのは、私が図書館司書としての基礎的な技能をもとより身につけていたからでもありますが、もちろんなんといっても最初から——少なくとも文字が読めるようになるころには——巻き戻しのための視覚がそなわっていたからです。
 あるときほとんどさらわれるようなかたちでホログラム書架の司書に採用されたのですが、それまではずっと小学校の図書室ではたらいていました。このペンを贈ってくれた無口な子どもたちがてんでばらばらに書棚からえらびとって、読んだり読まなかったり、食事をこぼしたり、雨に濡らしたり、誤ってやぶいたり、ともすれば落書きを仕込んだかもしれない書籍を、所定の分類法にしたがって書棚にもどしてゆく。子どもたちとあたたかい交流をもつような良き司書教諭では決してなかったけれど、返却された本をいつものやり方で見ていると、かれらがどのようにその本を取り扱っていたのか思い浮かべることができるので、ささやかな自信をもって次に薦めるべき本を見繕うことができました。何年かにいちど、自分と似たようにものを見ることのできそうな子どもに出会うことがあって、そういうときは貸出図書に、とある絵本をこっそりまぎれこませていたのを覚えています。それは私が幼年時代から、文字すらおぼえる前から繰り返しめくってきたとくべつな一冊で、あるのかないのかよくわからない事物をめぐる冒険がゆるく韻を踏んだ文章で綴られたものですが、私があなたを見るときに決まって口ずさんでいるのはこの絵本にふくまれていた優しい一節です。それは呪文ではないにせよ、ある種の触媒のようにイメージの演算を助けてくれる不思議な語の集合なのでした。けれども私の見立てでは、学校に入学したあとでは遅すぎる。とかく論理的に、ひとつひとつを順番に考えるよう訓練された子どもたちの思考には、極度に細分化された粒子とイメージの操作を馴染ませる余地がもうあまり残されていないことを知りました。

あなたがなにか弾いている。弾いているところが目に浮かびます。ピアノに似ているけれどやや小ぶりの、楽器の名前はなぜか忘れてしまったけれど、飴色の古めかしい楽器を愉しげに。妖精の羽音のような、妖精なんていうものがいるのだとすればの話だけれど、その羽音に似たきらきらの音がして、あれは気まぐれな古典音楽でしょうか、思わずなつかしく聞き入ってしまう。私は楽器が得意ではないけれど、ささやくような歌でもよければ一緒にうたうことができればよいのにと思います。
 あるいは、やや意外でもあるのですが、防虫剤のにおいに満ちた古物商のせまくるしい店内で、はるか昔の活字の色香をいっぱいにたたえた揺籃期本インキュナブラを品定めしている様も目に見えました。壁にかけられた無数の振り子時計がせわしなく、何重にもカチカチと鳴って、その音に耳を澄ますだけで、はるかな時を越えてきたような気にさせられます。白い手袋をはめ、眉根をよせながら品定めし、そのくせ値札をちらちらと気にしているのがなんだかおかしい。もしも私がその本をじかに目にすることができたなら、太古の昔にその本を縫い閉じた職人たちの工房にまでイメージをさかのぼり、その熟練した手つきをじっくりと見ながらたのしむでしょう。そして目にしたものを詳しく、細部にわたって明瞭に目に浮かぶほどていねいに、あなたに話して聞かせることができる。あるいは骨の折れる作業ではありますが、その書物を構成していた紙の漉かれる前のことまで、つまり羊皮紙ならばかけまわる羊のところへ、紙ならばすらりと伸びる青い樹々のところへ、パピルスならば水辺にゆれる長い草木ところにまでさかのぼってみることだってできます。
 それにしても揺籃期本インキュナブラだなんて。書物は単なる工業製品ではありえない、あるいは少なくとも人の手に取られ、その頁をめくられ、本棚にしまいこまれ、埃を吸い込み、陽射しをあび劣化してゆく過程において、複製物ではありながらもなにかしらの風合い以上のものを帯びてゆく、そのようなややもすると感傷的な信念がなくては、読めもしないぼろぼろの古書に魅入られることなどないでしょう。それは古風でつまらない感傷に過ぎないのかもしれないけれど、でも、そうした感傷は、いまではますます普遍的に共有されるようになっていて、私がこの奇妙な司書としての仕事にありつくことができているのもある意味そうした傾向のおかげです。
 この書架に放り込まれるのは、刷りたての真新しい書籍ではありません。すでに古びて蒼然とした書籍が選び抜かれ、精巧な複製書籍が一冊ずつ丁寧につくられて——ひとたび人の手にわたったあとに付される書き込み、頁の折れ、黄ばみ、署名、かび、食べこぼし、そうした取るに足らない情報を付された書物こそが保存に値するとされています。書物にふくまれるテキスト情報をそっけなく溜め込むには十分すぎる情報ストレージなら、たしかにとっくの昔から使用することができていたのだし、この書架はそこに収まりきらない超微視的な情報までもを受け止めることが期待されているのです。つまり、私たちが永続化したいのは知識そのものではなく、知識とともにある私たちの存在の痕跡なのでしょう。残したいのは物語ではなく、物語を語っていた私たち、語られた物語の頁をめくりもう一度くちずさむ私たちの亡霊のようなものなのでしょう。
 はるか昔に打ち上げられた、歴史的な宇宙探査機に積み込まれたといわれるゴールデン・レコードのことをご存知でしょうか。金メッキされた円盤に、私たちの話し声、笑い声、泣き声、音楽、大統領演説、種々の景色を切り取った画像、それに加えてまだ見ぬ知性へのメッセージまでをも刻み込み、探査機に付して空のかなたへと投擲したものです。その金属盤はいまもなおだれにも読まれることのないまま、無為に太陽系から遠ざかりつづけている。たった一枚のレコードでこの星をとりまく生命を代表できると考えるその発想はいかにも傲慢ですし、そんなひとりよがりの言葉がだれかに届くと期待するのも稚拙な願望だと言うしかないでしょう。でも、このホログラム書架だって、いつか書架から情報を回収するための技術に出会うかもしれない未来の私たちか、あるいは超越的な他なる知性の存在をあてにしているのだから笑えない(星間オットセイに出会ったことのあるひとならば、かれらが私たちという種の存在についてほとんど興味を示していないことがなんとなくわかると思うのですが、実際に目にしたことのある者はまだごく少数であるようです)。こんなにも長い時を経たくせに、変わっていないことがあまりにも多すぎます。いくらさみしさを埋めようとしたところで、さみしさはいや増すばかりなのに。

さきほどから実を言うとちらちらと浮かび上がってはいて、どう言及したものかと迷っていたのですが——あなたのもとを折々おとずれるだれかの指や腕が、そのからだに親密に絡むのが見えています。狼狽したり、まさか怒りをおぼえたりするわけではありません。ただその親密さがうらやましい。
 少なくとも月面に据えられた仮設住宅にはたびたび足を運んでいたはずです。あるいは山上の天文台にも。
 ずっと前からそうなのでした。よく晴れた午後の湖に一艘のボートが浮いている。その光景から目をそらすことができません。あなたたちはまだ若い学生で、長く気怠い試験期間を切り抜けて、待ちかねたようにすべてのいまわしい教科書を放り出し、まっしぐらに水辺まで駆けてきたのかもしれない。ためらいなく陽射しをうけとめる素肌を汗ばませ、しばらくはそこらじゅうを漕いでまわり、じきに漕ぐことに飽きたのか、半分まどろみながら言葉を交わしたり、頬をあわせたり、飴をなめたりしながら舟底でぼんやりとしている。
 そのうちに湖は完全に凪いで、次第に昏れはじめた空をくっきりとあざやかにうつしていました。
 急に転覆したその理由はよくわかりません。まどろんでいるうちに、なにかの均衡がうしなわれたのか。突風にあおられたようには見えませんでした。ただボートは唐突にぐらりと傾いて、あなたたちのふたつのからだと、菓子やら日焼け止めクリームやらのわずかばかりの荷物がすっかり水中に投げ出されてしまった。そして思いのほか長いあいだ沈んで、なかなか浮かび上がってこない。
 ひとはどれほどの間なら呼吸をとめていることができるのでしょう。
 やがて二組の肺腑が思いっきり外気を吸い込み、けたたましい笑い声をあげます。ふたつの頭部が水面にゆらゆらと浮いて、いくつもの水滴を顔じゅうにひからせたまま、なおもはじけるように笑っている。そして魚のようになめらかに泳いで、それほど小さい湖でもないはずなのに、ふたりそろってあっというまに岸へとあがってしまいました。
 狼狽してはいないと思います。そんなことを気に病むつもりはありません。
 あなたのことを見られればよい、あなたのことをひたすら知りたいだけでした。取り乱すつもりなどないのです。もとより一方的に、なんの断りもなく盗み見ているだけのくせに、落ち込むなんてどうかしている。でも覗き込んだあなたの目に、知らないひとへと向けられた親密さが満ちていて、当たり前だけれどそれは私のほうを向いてはいない、そのことを目前にすると息が詰まります。そう、すべては誤認から始まったのでした。はじめからなにも噛み合ってはいないのでした。

いまいちど冷静になる必要があるようです。こんな話をあなたにむかってするべきじゃなかった。
 私自身の夏について、ひそかに打ち明けることができたらいいのに。でも、あの街では夏も冬もずっとじめじめとした雨が降っていて、夏場には図書室にいくつもの除湿剤を置いては取り替えるばかりで、それ以上なにか特筆すべきことはあったでしょうか。あったのかもしれない。あなたのイメージが鮮明すぎて、自分のことがうまく思い出せません。あなたとの出会いがあまりに衝撃的で、あなたのことを知るまえの私をもはや自分だとは思えないのです。この手紙のうちに継起する時間の中で、私は生まれなおしている。これまでに交差してきた一切のひとびとの影がうすれてゆきます。どうでもいいのです。あのうすぐらい街に暮らしながら、私には私なりの愛情と向き合っていたのかもしれない。愚にもつかない恋文を書いたこともあったかもしれない。ともすれば婚姻の書類に署名したことすらあったのかもしれません。でもすべて地上に置いてきてしまったから、いつしか霞み、忘れ去られるでしょう。
 幼年時代のことはまだ思い出すことができるようです。もはや自分の記憶の正しさを担保できる気はとてもしないけれど。なにかの事情があってあの灰色の街から連れ出され、地方の親類一家にしばらくあずけられていたことがありました。先にふれた絵本を見つけたのは、その古い家の大きな物置にかくれていたときのことです。かくれて遊んでいたのか、それとも閉じ込められていたのかよくわからない。遊んでいたのだということにしましょう。その本はすっかり古びていたけれども、菓子箱のようないたずらっぽい色彩をしていたことは見て取ることができて、退屈していた私はなんとなく手をのばしたのだと思います。まだ文字は読めませんでした。文字をつないで歌えるようになったのはもう少しあとになってからのことです。
 読むことがなにかを直接的にあたえるわけではありません。年長のいとこにせがんで読み聞かせてもらったこともありますが、だからといっていとこが私のようにものを見られるようになったわけではないと思います。それほど簡単な話ではないのでしょう。ただその読み聞かせの声をきいていると、目の前にあるひとつの状態に、それまでの時間がすべて細やかに織り込まれているのだということが私にははっきりとわかりました。その発見は当たり前のようですがじつのところあやうく、前にも書いたとおり、ともすれば目にするすべてのものがただの膨大な結果の集積として味気なく感ぜられ、無気力にさいなまれるということもありえたかもしれない。来し方が、ただ来し方のみがあらゆる行く末を規定しているのだと知るのはやはりかなしいことです。でもその絵本は、法則にしたがってさかのぼられた事象から空虚な関係性を見出すだけでなく、見出された時間をきらきらと反射させあって愉しむ方法についても教えてくれました。だから私は過去だけではなく記憶に、過ぎ去った日々の記憶の亡霊たちにまもられているような気がしていつだってむなしくはなかった。
 絵本はあの街に置いてきてしまいました。くりかえし寝床に持ち込んだせいで表紙も背表紙もすりきれて外れかけ、頁のふちはぼろぼろで、これ以上の旅には耐えられそうにもなかったし、そのころにはもう手元におく必要すらもなかったから。その韻律はすっかり染み付いて、軽くくちずさむだけで懐かしい音色をおびて、すぐれたペンが文字のなめらかさを支えるように、私が見知らぬ記憶をさぐりさぐり思い出すのを助けてくれる。いまでもそうです。いまもまさにそうして心地よい音を聞きながらあなたを見ています。
 そういえばまだあなたの名前を知りません。あなたと呼ぶだけで十分だったから知ろうとも思わなかった。でも、これは私の願望にすぎないのか、それともほんとうになにかを思い出そうとしていて、まだなにも思い出してはいないけれど、あらゆる観念の渦にとらわれた思念が、論理をとびこえて強く確信しているのか。もしかしてあの絵本をつくったのはあなただったのではないですか。あの本の作者の名前ははっきりと覚えています。あなたもまた、私たちのそとがわをとりまく膨大な記憶の積層に気づいていたのではないですか。私が持っているのとおなじ力能にあなたがめぐまれていたのかどうか、そんなことを問うているのではない、ただ、他なるものの過去がそのように、きわめて微視的な演算から見出されうるということはわかっていたのでしょう。そうして見出された遠い記憶にとりまかれることのさみしさも想像することができたはずでしょう。あのテキストを書き記すあなたのすがたが見える気がする。ほんとうにそうなのでしょうか。ほんとうに正しく見えているのでしょうか。でも、そうでもなければ報われない。報いとはなんのことだろう。ひとめぼれに理由はないけれど、理由がないのならば、その報いとは、私とあなたは、だからこそそれは、因果すらもほつれるならば、そうならば、いいえ——私はいったい何を書いているのでしょう。なにかが破綻している気がする。私はいったいここに何を書き残すつもりなのでしょう。

いま、しばらく鳴り止んでいた警報がふたたび鳴っています。もう猶予はありません。まもなくこの手紙を書き続けることはできなくなる。このからだも手紙も真っ白な灰になって、少なくとも書架の外側にいるひとにはよごれのような痕跡にしか見えなくなるでしょう。
 すさまじい速度で落ちているようです。機体の後方ではすべてのひかりが置いてけぼりになって、ただするどい虚無ばかりがひろがっている。前方にははげしくゆがんで見える星空がかたちをうしなったままぎらぎらとして、そして眼下をうめつくすのはまぎれもないこの巨大な天体です。すでに想像もしえぬほど多くのことばとイメージと、とりとめのない痕跡とを吸い込んだ底なしの書架。
 このひとめぼれは、裏をかえせば死にも値する失恋だったということになるのでしょうか。こばまれることもできないのだから失恋というのもおかしいのだけれど、むしろあらかじめ失われた恋だったのだと思えば正しいような気がします。そんなことは最初から分かっていました。あなたのことを、そのまなざしを措いてはまだ何も知らなかったあの瞬間からすでに、どうしようもない隔たりのあることだけは知っていました。手遅れになるまえに引き返すことができればよかったのに。あとからそう言ってみることは簡単です。でもはじめから手遅れでした。はじめからすべて奪われていた。
 あなたのすがたがなんどもよみがえるので、だから私は、もしかしたら幸せなのかもしれないけれど。いま私はいつわりの走馬灯を見ています。私とあなたとがともにあった世界のことがありありと胸裡に浮かんでは消えてゆく。もしも何の采配も間違っていなければ、何の采配だか知らないけれど、私たちは確かにいつか、どこかで出会っていたはずでした。私たちの生が一度も交わることがなかったなんて、交わる兆しすらもなかったなんてあまりにもむごすぎる。どうして一緒に落ちてゆくことができなかったのでしょう。この果てしない空の旅が、至上の終わりへと向かう逃避行だったらよかったのに。血の気のないからだを凭せあい、やわらかな肌をあわせ、力ない腕をぐったりと組んで、それでもなお満ち足りたまま、視線をしずかに絡ませあったまま落ちてゆければよかったのに。あなたの生きた時間のすべてに入り込んで過去を書き換えたい。あの準惑星の灰色のシェルターの灯りを落とし、分厚い天窓のもとで身を寄せ合って、夜も昼もまっくらの夜空の隅で、月のようなまぶしさでかがやく太陽をあおいで、濡れた星での暮らしをたわむれに懐かしんでいたかった。あの白銀の月世界で、真っ白の防護服に身をつつんだまま、円い地平の向こう側にあおあおとひかる惑星が暮れてゆくまでいつまでも、無音のまま奏でられる旋律にからだをまかせて、手を繋いだり離したりしながら、地面を蹴って高くとびあがり、舞いあがり、ちいさな双子のように踊っていられればよかった。あるいはあなたはチェンバロを弾いて、どうして忘れていたのかわからないけれどあの楽器は間違いなくチェンバロです、そのかろやかにあふれるかなしげな音をろうそくの灯った部屋の暗がりで聞きながら、繊細な鍵盤のうえをころがる指にみとれながら私は、すこしだけ、邪魔をしない程度にひかえめに、そらんじている短いいくらかの歌をうたって。それとも。それとも私たちは学期末の試験をおえて湖畔へとかけだして、まだ損なわれていないまぶしいからだで、はつなつの太陽のしたで遊んでそして、私たちのボートは、夜をうつした湖で、無風の夜に、星のこぼれる夜に、声もなく、しずかに、青く、なにもかも、はるかに、どうしようもなく、どうすればいいのでしょう、わかっています、もちろんめちゃくちゃなのはわかっています。私は泳ぐことだってできないのに。
 嘘ばかり見えるのでさみしい。一度でいいからあなたに会いたい。こばまれてもかまわないから。

星間オットセイのすがたが機内から消えてしまいました。たぶん私がこの手紙を書くのに夢中になっているあいだに、急拵えのフープを潜ってどこかへ逃げてしまったのでしょう。長い時間をともにしてきたつもりなのに、さよならのような仕草も見せずないまま行ってしまったので少しつまらないような気もします。私には長大な旅であっても、あの不可思議な生き物にとっては瞬きのような出来事にすぎなかったのかもしれません。それにしても、星間オットセイすらもこの書架にはあまり落ち込みたくはないらしいということに、正直なところすこし驚いてしまいます。いまとなっては、この書架のなかだってそれほど恐ろしい場所だとも思えないけれど。
 少なくともこの書架にはあなたがいる、あるいはあなたの痕跡がある。
 すっかり絶望しているわけではありません。いつしかこの書架もきっとひらかれるでしょう。どのような技術で、どのような方法で情報が復元されるのかわからないし、それを果たすのが私たちとおなじ種の生命なのか、それともなにか思いもよらぬなにか未知のいとなみによるものなのか知るべくもないけれど、いつかこの淵から私たちが掬い上げられる日が来ないとも限りません。どこまでも卓越した技術がもしも、私たちを組成するすべてのものを寸分たがわず再生するのであれば、もしかしたらいまと同じままの意識で、ほんとうにあなたに会うことができるのかもしれない。深い眠りからさめたばかりのわたしとあなたが出会って、落ちる瞬間のことを昨夜のことのようにはっきりと思い出しながら、おなじくらい激しい情熱をもったまま微笑みかけることができるのかもしれない。
 それが無理だとしても、手紙だけは必ず復元される。そのことを承知で、夢中で手紙を書きつづけていたような気もします。
 そもそもこの書架の地平面の向こう側で、とりわけその中枢において何が起きているのか、さまざまな憶測はあってもほんとうのところはなにも知られてはいないのです。なにも知らないのなら、だれも知らないならば、それは真っ暗の死の世界だと言い切ることもできないはずだと信じたい。落下したすべてのものたちの幻燈が、こちら側とは異なる法則のもとであざやかに立ち上がり、あれこれと自律的に夢想して、情報をつぎつぎとたくわえながら豊かさを増していくのだとしたら。もちろんいまとおなじようなからだや言葉のままというわけにはいかないでしょう。ことによると、私たちを組み上げる諸相のすべてが、こことはまったく異質の世界に吐き出されてしまうのかもしれない。そんなところでいまだにこの私が保たれているとも思われないけれど、どうでしょう、逆に決して私のままではいられないと言い切ることもできない気がする。
 そんなことはありえはしない、絶対にありえはしないけれど、万が一にもそうなったら、きっと手をたずさえて、あるいは手のようななにかをたずさえて新しい宇宙をともにゆきたい。星とも銀河ともきらめきとも無縁の、未知ばかり詰め込まれた宇宙をどこまでも飛びまわり、もしもそこにひかりか、あるいはひかりに似たなにかがあれば、あらゆる景色を私たちのまなざしのうちにおさめたい。

またいつか会いましょう。はるかかなたの未来でも、あるいは時間などすっかり無効になったあとだってかまいません。空間も、私たちのからだすらなくても良いから、それでもきっと。お願いだから、またいつか、どこかでまた、どうかいつの日か——

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