シェヘラザードは電気羊の夢を見るか?

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梗 概

シェヘラザードは電気羊の夢を見るか?

 

高校生のアヤは文芸部に所属している。SF小説を書く予定だが、〆切が近いのに書けずに行き詰まっていた。気分転換のために深夜、マンションの屋上に行ったアヤはフェンスを乗り越えようとする二十代の女性に出会う。殴られた痕が目立つ沖花という女は、彼氏に振られたので死ぬつもりだという。盲目的に男を愛しているらしい、美人だが高慢な彼女をアヤは何とか説得し引き留めようとする。必死の思いで、書き途中の宇宙船の物語を語るが、反応がはかばかしくない。そこでとっさに八人の中に一人アンドロイドが紛れており、一夜に一人ずつ人間を殺していくという設定にする。沖花は初めて興味を示し、アヤは続きは明日話すと何とか引き延ばす。

とっさに語った設定は、友人とよくやっていた人狼ゲームをもとにしたものだった。翌日の夜もアヤは沖花を屋上で待ち構えて、警察官や予言者などの役割の人物がアンドロイドを見つけ出そうとする物語を語る。何とか沖花は興味を継続してくれ、再度翌日への引き延ばしに成功しアヤは安堵する。

三日目、四日目…と物語は続き人間は減っていく。警官たちはアンドロイドを探しているのだがうまくいかないのだ。沖花とアヤは少しずつ雑談もする仲になるが、あくまで夜だけの関係だった。

とうとう物語の中の予言者も死に、アヤはオチを思いつけないまま残り三人になる。追い詰められたアヤはつい「沖花を大切にしない男なんてクズだ」と言ってしまい、沖花は機嫌を損ねて部屋に帰ってしまう。沖花が先に帰ったのになぜかエレベーターも階段も使われた形跡はなかった。

アヤは沖花が心配になり、初めて翌日昼間に彼女の部屋を訪ねる。だけど教えられた部屋は空だった。疑問に思いつつもアヤはその日の夜、残り二人となった物語を語る。だがやはり結末は思いつけないままであり、沖花は明日にはもう死ねるから楽しみだと言う。

どうしても沖花の納得するような物語を思いつけず、アヤは沖花の元彼氏が働くレストランに向かう。彼は彼女らしき女といて、幸せそうだった。アヤは包丁を握りしめるが、結局何もできない。

夜の屋上に向かったアヤは沖花に、「あの男のことはもう忘れよう」と伝える。アヤは、警官こそがアンドロイドだったのだとやっと見つけた物語の結末を話す。彼はずっと自分を探していたのだ。沖花を助けられないと泣くアヤに、もう大丈夫だと沖花は笑う。

目が覚めると、アヤは病院のベッドに寝ている自分に気づく。そばには沖花が白衣姿でうたた寝をしている。アヤはやっと、彼氏に暴力を振るわれていたのも、飛び降りたのも自分だったことを思い出す。沖花は疎遠になった高校の同級生だった。すべては沖花による治療であり、夢の中にいた沖花は現実のアヤの境遇を演じていたのだ。過去の姿を取ったアヤは、ずっと自分自身に対して生きようと説得をしていたのだった。目覚めた沖花にアヤは初めて「おはよう」と告げる。

文字数:1193

内容に関するアピール

小説つばるの読者さんは普段どんな生活をしているでしょうか。このご時世、何不自由なくストレスもなく、というわけにはきっといかないと思います。むしろ、毎日疲れ果てていて、やるべきことばかりに囲まれ、少しの癒やしを求めて小説を手に取るのではないでしょうか。
あるいはコロナ禍の今、もっと辛い状態の人もいるかもしれません。そんな人が偶然手にするのが小説つばるかもしれない。たまたま目に入るのがこの小説かもしれない。だから私もまた一人のシェヘラザードです。

ところで、そろそろ小説つばるでの百合特集はいかがでしょうか? S誌の百合特集もB誌のシスターフッド特集も大変好評で増刷となりました。歴史ある貴誌が特集をすれば、きっといい感じにバズって増刷間違いなしです!その際にはぜひお声がけ頂けますと幸いです。

文字数:345

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シェーラザードは電気羊の夢を見るか?

「屋上へこないか。見せるものがある」 フィリップ・K・ディック 朝倉久志訳『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』

 

 アヤには小説が書けない。
 スマホのメモ帳に少しずつ文章を連ねてはみた。今考えているのは、様々な人間が八人、同じ宇宙船に乗り合わせる物語だ。そこでトラブルや恋愛が起こりつつ目的地まで航行していくのだけれど、どうしてもうまく書けない。
「あーあ、やっぱ向いてない……」
 だから結局はスマホを放り出して、マンガに手が伸びることになる。アヤはもとから本を読むのが好きだったし、文芸部に入ったのは自然な流れだった。だけどいざ自分で書こうとするとうまくいかない。部誌の〆切はどんどん迫ってくる。
「どうしよ……」
 もう書くのなんてやめたら楽になるかもしれない。でもやめると決意することもまたできなくて、アヤはごろごろと何度も読んだマンガを読み返した。
「外の空気でも吸うか……」
 親には禁じられている、夜中のひそかな外出だった。とはいっても、酒を飲んだりクラブに行ったりするわけじゃない。住んでいるマンションの屋上。それがまぁまぁ真面目な高校生であるアヤが、夜に一人で出歩ける限界だ。
 夏には花火が見えたりして結構いい感じのそこは、マンションに住人なら誰でも出入りできる。今の季節はちょっと肌寒いけれど、それでもいい気分転換にはなる。天気のいい昼には布団を干している人に行き会うこともあるけれど、深夜にはさすがに誰もいない――はずだった。
 人の姿を見つけたとき、アヤはまず自分の目を疑った。もう深夜だしまさか幽霊だろうか。だけどフェンスをよじ登る幽霊というのは聞いたことがない。
「待って!!」
 アヤはとっさに大声を出していた。その人物はバランスを崩してフェンスのこちら側に着地する。
「何」
 抑揚のない冷たい声だった。ゆったりとした部屋着を着た、二十代半ばくらいの女性だ。美人だ、とっさにアヤは思った。顎先くらいまでの髪はパーマがかかっていて茶色。そしてその髪では隠しきれないくらい、大きな青黒いあざが左頬にあった。
「あの」
「用がないならいい? 私、忙しいんだけど」
 彼女は再度フェンスに手をかける。よく見ると、どこかで見たことがあるような気がした。だけど誰かは思い出せない。
「ま、待ってください、どこかで会ったことありませんか?」
「何これ、ナンパなの?」
「違います!! ええと、その……いじめられてるんですか?」
 とっさにアヤは言ってしまった。左頬のあざは、どう考えても自然にできたものではない。普通に考えれば、誰かに殴られた跡だろう。
「何それ」
 彼女は相変わらず無表情に、冷たく見返してくる。
「だって、死のうとしてるんですよね、いじめられてるのかなって……」
 アヤは必死に言葉を続けた。もともとアヤは年上の相手には人見知りをするタイプだ。だけど今やそんなことは言っていられない。彼女が死のうとしている理由もわからないし、名前も知らない。でも、目の前で飛び降りられるなんて嫌だ。
「違う、彼氏に振られたの」
「えっ」
「そこ驚くとこ?」
「まさかその人にやられたんですか、顔も……」
 彼女は否定しなかった。だからそういうことなのだろう。こんな人を殴って、しかも振るなんて。怒るよりアヤは呆然としてしまう。
 アヤには恋愛経験がない。殴られて振られたのに死のうとするとは、どういうことなのだろう。よっぽどその人のことが好きなのだろうけれど、想像がつかない。
 アヤは反応に困り、沈黙が落ちる。そうすると彼女はまたフェンスに手をかけた。
「待、待ってください」
「何? もういいでしょ、私は死ぬの、何の価値もないから」
「そんな……!」
 どうしよう。
 アヤは必死に考える。とにかく彼女は振られて、死のうとしている。アヤが何か少し言ったって、彼女の意志は覆らないだろう。力がないアヤには無理やり引き戻すこともできそうにない。通報しようにもスマホは部屋に置いてきてしまった。部屋に戻ったらその間にきっと彼女は飛び降りてしまう。この深夜に屋上で叫んでも、誰が来てくれることもないだろう。
 ――今、ここで、私がやらなきゃ。
 夜の屋上にはゆるく風が吹いていた。とにかく彼女を引き留めないといけない。なんでこうなったかなんてわからないけれど、やらないと。
 恋愛なんて知らないし、彼女の絶望も想像がつかない。でもとにかく死んでほしくない。理由はともかく、やっぱり死んだらだめだ。頭を必死に働かせたときに浮かんできたのは、書けない物語のことだった。
「わ、私、今お話を考えてるんだけど聞いてくれませんか?」
「何?」
 彼女の手の動きが止まる。
「お話、今度の部誌に載せるんです。〆切があと一週間しかなくって」
 喋っている間は、彼女の動きを止めることができる。だからアヤは必死だった。
「今書いてるお話は宇宙船にいろんな人が乗りあわせてるっていう設定で……賞金稼ぎとか、いろんな人がいるですけど……」
 彼女の反応は容赦がなかった。つまらないと顔に書いてある。一瞬で血の気が引いた。それは、さっきまでとは少し違う焦りだった。
 目の前の女性は知らない人だし、死なれても目覚めが悪いだけで何の関係もない。でも、今や彼女は「読者」なのだ。とにかく彼女を自分の物語に引き込まないといけない。なんとしてでも。
「その中の一人はアンドロイドで、人間を一日に一人ずつ殺すんです」
「……なんでアンドロイドが人間を殺すの?」
 アヤの心は跳ねる。冷たい声だったけれど、質問をしてくれた。それは彼女が少しは興味を持ってくれたということだ。
「それはもともと人間側が、アンドロイドを見つけ出して殺そうとしてるからなんです」
 無視されるより、貶される方がいい。とにかくアヤは必死だった。なにせ、彼女の興味を引けなくなったらその時点でゲームオーバーなのだ。クライマックスも何も思い浮かんでない物語だというのに。
「でもアンドロイドなんて見ればわかるんじゃないの」
「ものすごく精巧にできた、人間と変わらないアンドロイドなんです。だから人間に混じっててもわからなくって、そのせいで危険視されてるんですよ」
 事前に考えていたわけでもないのに、言葉は自然と口から出てきた。まるで脳より口が考えているみたいだ。
「人間そっくりなのに、殺されるの?」
「そのアンドロイドは自由が欲しくて逃げてきたんです。本当は人間を殺したいわけじゃないんですけど、このままだと見つかっちゃうから、人間を殺すしかないんです。もちろん人間も簡単に殺せるわけじゃないんですけど、夜にはみんなポットに入って眠る必要があるから、そのときが危ないんです」
 まるで自分が喋っていると思えないほどだった。これまで想像もしていなかった物語の筋だ。
「それで?」
「え?」
「一日一人殺されるんでしょ。それで?」
 アヤは続く言葉を絞り出す。
「続きは明日ですよ。最初の殺人が起こるのは今日の夜。まだ一日目なんで、みんなむしろ和気藹々、アンドロイドなんて気にしないし仲良くしよう――ってなもんですよ。事件がわかるのは明日です」
「ふぅん」
「もう明日以降はお姉さんが想像もしてないようなびっくりする展開でそりゃあもうエモいですから! だからとにかく明日、またここに来てください、お願いします」
「沖花。『お姉さん』じゃなくて」
「え」
 名前を名乗られたと気づくのに少しかかった。名字だろうか。そうなんだろうと思ったけれど、詳しく聞き返すのも気が引ける。
 だからアヤは自分も最低限だけ名乗ることにした。
「よろしくお願いします、私はアヤです」

 ・

 どうしよう。
 翌日の昼、アヤの耳にはどんな授業も入ってこなかった。沖花の自殺をとっさに阻止できたのはよかった。自分にしては快挙だと思う。
 だけどもし今日の夜、つまらない話をしたらそれで終わりだ。彼女はきっと目の前で飛び降りてしまう。あまりにも重いプレッシャーだった。
「どうしよ……」
「アヤ、今日部室行く?」
 話しかけてきたのは、クラスメイトで文芸部員でもある杉田だった。
「え? ああ……ごめん忙しくて」
「別にいいよー。今日他の人も難しそうだって言うし、人数揃わないしね」
 最近、文芸部員の間では人狼ゲームが流行っている。何を隠そう、昨日とっさに「一日に一人殺す」という設定が出てきたのも、このゲームが念頭にあったからだった。
 人狼ゲームでは人間そっくりの狼が一晩に一人、人間を殺す。ゲームによって細かい設定の違いはあるけれど、人間側には狩人や預言者などの能力者がおり、一日に一人処刑をしていく。全滅せずに人狼を排除できれば基本的にはクリアだ。
「杉田は部誌に出すやつ、書けた?」
「まぁね、大したものじゃないし」
 あっさりと杉田は言う。苦労していなさそうな様子が羨ましかった。
 アヤは白紙のノートを見ながら、少し前に文芸部でやったゲーム内容を思い出す。あれは面白かった。杉田はのうのうとしていて、やたら楓は頭がキレて、井川がへまをして……他のみんなも楽しそうだった。
 アヤはノートに設定を書き出した。宇宙船の乗組員は八人。アンドロイドが一人紛れ込んでいる。あまりに精巧なので、人と見分けられない。乗員たちは多数決で一日に一人を処刑できる。処刑をすれば、アンドロイドは死なないので見分けられる。
 人狼ゲームには大抵、預言者や占い師といった人間がいて、一夜に一人だけ人間かそうじゃないかを見分けられる。また狩人は、一夜に一人だけ対象を狼から守れる。
 預言者はいいとして、宇宙船に狩人は変だ。アンドロイドを見つけだそうとする、まぁ警察官というところだろう。
 アヤは結局、警察官、預言者、人間だがアンドロイドの味方をする狂信者の三つの役職を置くことにした。残りの五人のうち一人はアンドロイド、残り四人はただの乗客だ。役職のある者がアンドロイドを兼ねることはない。
 そのまま放課後まで、ほとんど授業を聞かずにアヤはノートに設定を書き続けた。

「こんばんは」
 今夜は、アヤの方が屋上に来るのは先だった。とはいっても両親が眠ってからでないと外に出られないので、もう十時を過ぎている。
 沖花が約束を守る保証はなかった。彼女は昼間に飛び降りることだってできる。アヤにできるのはただ彼女を待つことだけだった。
「こんばんは、いい夜ね」
 沖花がやってきたのは三十分ほどしてからだった。昨日と同じ部屋着姿だ。
「そうですね」
 年上なのに、沖花と話すのはなぜか緊張しない。彼女の顔のあざは昨日と変わりなく、痛々しかった。
「あなた、アヤさんだっけ、高校生? 試験とか大丈夫なの?」
「そうです。試験は終わったばっかりで、部誌に書く物語を考えてるところなんです」
「へぇ。そういうのは得意なの?」
「得意、でもないですけど。文芸部って言っても人狼ばっかやってるし」
 アヤは人狼ゲームの概略を沖花に説明する。
「一人すっごい強い子がいて、すぐ見抜いちゃうんですよね」
「へぇ、わかるものなのね」
「『論理的に考えればそんなの明らか』ってことらしいんですけどね」
 思えば、文芸部でこんなに仲良くなったのもゲームを始めてからだった。文芸部はもともと活動頻度が低く、ちょっと変わったメンバーの寄せ集めだった。杉田は元不登校、楓は転校生、井川は足を怪我した元陸上部、といった具合に。人を殺したり、裏切ったりするゲームをして初めて仲良くなれたのだから不思議なものだ。
「沖花さんはやったことないですか?」
「ないわね」
「沖花さん、でも友達多そうですよね」
 お世辞が半分、本気が半分といったところだった。
「そんなことない。いなくなっちゃった」
「いなくなったって?」
「もう私、彼氏ができたら彼のことしか目に入らなくなってしまったから。ドタキャンしまくってたらいなくなってしまったの」
 沖花は乾いた笑い声を立てる。アヤはどう反応していいかわからなかった。確かに彼氏ができて、友達の扱いが邪険になる子はいる。でも、友達側からしたら何だかなと思う。「そんなに、その彼氏さんが大事なんですか?」
「ええ。私のことかわいいと言ってくれるのは、彼くらいだし」
 そんなことないだろう、何なら自分が言ってもいい。そう思ったけれど口にはしなかった。
「それで、今日はどんな話をしてくれるの?」
 アヤは警察官、預言者、狂信者が出てくることを語った。人間側は嘘をつけないが、狂信者とアンドロイドは嘘をつけるので、自分が警察官や預言者であると偽って名乗り出ることもできる。
「便宜上、乗員A~Hとします」
「別にいいけど……なんか数学の問題みたい」
「一日目、アンドロイドが乗っていることがわかっても、乗員たちはぎすぎすしてたわけじゃなかったんです。ご飯を食べてゲームをして、みんなで目的地にたどり着こう、と和気藹々と過ごします。だけど二日目の朝、乗員たちはAの死体を見つけます。役割を持つ者は名乗り出るよう冷静なCが訴えて、警察官Gと預言者Hが名乗り出る」
 沖花の反応を見ながら、アヤは慎重に語っていった。
「一人を選んで処刑すべきだ、と熱血気味なBは言いますが、この時点では無理だと皮肉屋のDは言い、Fはアンドロイドの人権を認めるべきではと議論は紛糾。結局、処刑は行われません。警察官はその夜に誰を守るか悩みますが、Hが本物という前提で彼女を守ることにします」
「確かに、能力者なら貴重だしね。預言者は女?」
「汎性ですが便宜的に彼女と呼びます。警官は男性です。Hに『君を守る』と言ってちょっといい感じになります」
 最初に考えていたとき、そんなロマンスはなかったけれど沖花には受けるかと思って語る。これはこれでありだろう。
「それで、続きはまた明日です」
「薄々思ってたけど、またそのパターンなのね」
 沖花は大げさにため息をついてみせる。
「だって、そういう設定だからしょうがないじゃないですか。夜になるまでアンドロイドは人間を殺せないんですよ」
 この話はもともと書けないでいた小説だ。一日に考えられたのは、ここまでが限度だった。
「うーん、まぁいいか」
 沖花がしぶしぶながら納得したようなので、アヤはほっと胸をなでおろす。
 物語を語るのは楽しくもあるけれど、ひどく緊張もした。何しろ沖花の機嫌を損ねたら、いつ飛び降りられてしまうかわからない。常に綱渡りだ。
「じゃあまた、明日」
 本当に、明日もまた来てくれるのかと聞きたかった。でも念を押すような確認はいらない気もする。
「なんか夜中のデートって感じ」
 沖花はくすりと笑って言った。
「え?」
「冗談よ。またね」
 彼女は小さく手を振って、アヤに背を向けた。
 気難しい人だと思っていたけれど、意外に気さくなところもあるのかもしれない。まだ会って二日目で、それも夜だけの関係では、詳しいことはわからなかった。
 先に沖花が屋上から姿を消す。そういえば彼女は何号室に住んでいるのだろう。そろそろそのくらいは聞いてもいいのかもしれない。万が一もあるかもしれないのだし……そんな可能性は考えたくないけれど。

 ・

 浅い眠りの中でアヤは夢を見た。杉田が泣いている。場所も、いつなのかもわからない。
〝なんで?〟
 彼女が呟く。それは私が聞きたい、とアヤは思った。なんで泣いてるの? でも、体がうまく動かなくて声も出ない。その場所には、杉田の他にも数人がいるようだった。
〝なんで? そんなに私たちのことは、どうでもいい?〟
 杉田は泣き続けていた。ああ、ラインを返してないな、とアヤは思う。だってもっと、大事なことがあったんだもの。しょうがない。
〝そんなに、そこまで……〟
 誰かが苛立ったように口にする。
〝あんな男……〟
 だけど誰の声なのかはよくわからなかった。

 翌日の夜は、薄曇りだった。
「二○四」
 部屋番号を尋ねると、あっさりと沖花は答えた。
「言ってなかったっけ?」
 夜十時過ぎにアヤが屋上に来ると、既に沖花は来ていた。今日はそのまま買い物にも行けそうなパンツにパーカー姿だった。
「初耳です。私は七階です」
 先に沖花がいるのを見つけたときはどきりとした。だけど、彼女は今日もフェンスを乗り越える様子はなかった。
「へー。まぁタワマンでもないし、別にそんなに変わらないよね」
 大して興味もなさそうに沖花は言う。
「まぁそうですね……。家族と住んでるんですか?」
「そんなようなもの」
 彼女の家族は、彼女の様子がおかしいと気づかないのだろうか。顔にはあざもあるのに。
「三日目ですね」
「そうね。いい夜」
 彼女の指さす先に目をやると、三日月が出ていた。確かに屋上に出るのにうってつけの夜だった。
 だけどここに何をしに来たのか忘れたわけではない。アヤはまた物語を語った。
 三日目の朝、誰も死ななかったので乗員達はほっとする。恐らくアンドロイドは預言者を狙い、警官がそれを阻止できたのだろう。生きているのは乗員B~H。Hは、乗員Bが人間だと預言でわかったと告げる。身分が保証されたBは、処刑をするべきだと強く主張する。強引な彼に飲まれ乗員達はアンドロイドの味方らしき発言をしていたFを犠牲者として選ぶ。
「Fの処刑はつつがなく行われました。死んだ以上Fは人間だったはずですが、Bは満足げです。警官はBに反発を感じつつ、人間と判明した彼を守るか、また預言者を守るか悩みます。俺を守れとBは強く出る。Hは私のことはいい、偽物かもよ?と微笑みます。警官は悩みながらも、またHを守ることを選びます。Hに惹かれてるんです」
「それで?」
「続きは明日です」
「じゃあさ、このHが嘘つきで、つまり狂信者なんじゃないの? それで本物の預言者はもう死んでるA。あ、死んだ人が実は生きてるってあり?」
「待ってください、えっと、死体のある部屋は外から施錠してます!」
「じゃあ全員が共犯」
「それもありません! とにかく次です、次……!」
「えー、私の説結構面白くない?」
「私はもっと面白くします!」
 プレッシャーを感じながらもアヤは言い切る。もしここが教室で、相手がクラスメイトだったらこんなことは絶対に言えない。そう思うと、改めて沖花に対して自分の物語を語っているこの状況は不思議だった。
「まぁ、いいか。明日ね。変な引き伸ばしはやめてよね」
 三日月がよほどお気に召したのか沖花はすぐに部屋に戻ろうとはしなかった。良い機会だったので、アヤは疑問に思っていたことを聞いてみることにする。
「あの、元彼氏さんは何してる人ですか?」
「レストランの店員」
「あ、じゃあお店で知り合ったんですか?」
「ううん。店も駅の向こうのイタリアンだから近いんだけど、会ったのはアプリ」
「そうなんですか」
 その店ならアヤにも何となくわかる。だがアプリは使ったことがないし、今時はそういうのも当たり前なんだろうな、と思うばかりだ。
「そんなにイケメンなんですか?」
 沖花が何もかも捧げたくなるくらい好きになってしまう相手だ。きっとイケメンなんだろうと思って聞いたのだが、沖花は曖昧に笑っただけだった。
「全然。わりと地味な方かも。背も高くなくて、ご飯もワリカン」
「……じゃあ、どこが?」
 沖花は困ったように笑った。
「そうだね、優しいってほどでもないし、偏食が激しいし、気分屋だし」
 アヤはますます言葉に困ってしまう。そんな男ととっとと別れて、もっといい男と付き合った方がいい。よほど顔に出ていたのか、アヤを見ると沖花は笑った。
「アヤさんは、今好きな人いる?」
「……いません。今っていうか、いたことない」
「まだ誰も好きになったことないんだ」
「んー、まぁ……」
「そのうちわかるよ」
 子ども扱いされたようで癪だった。でも、確かにわからないのだから反論できない。
 恋愛にも、誰かを好きになることにも憧れはある。でも、死にたくなるのだったら、別にいいかなという気もする。
 沖花は昼間は病院で働いているらしい。それは彼女のイメージにぴったりの職場だった。きびきびしてシビアな彼女にはナース服も似合いそうだ。
「やっぱり大変ですか? 仕事」
「まぁね。でも、新しい技術とか色々学ばせてももらってるし、研究職とかより臨床……実際に病院で患者さんと会うことね、その方が私には合ってる」
 沖花ははっきりと言い切る。
「でも、難しい患者さんとかだっていますよね」
「まぁね。でも、結局何の仕事だって、コミュニケーションだから」
 まだ高校生で、進路も決めていないアヤには、沖花がひどく大人にうつった。こんなに大人で素敵な人が、どうして恋愛では冷静な判断をできないのだろう。
「沖花さんって、たぶんほんとはしっかりしてるんですよね」
 思わずアヤは呟いていた。
「それ、どういう意味?」
「あ、いや、仕事とかもちゃんとしてて偉いなぁって」
「女は仕事だけできても意味ないでしょ。だって……私のこと、かわいいなんて言ってくれたのは彼だけだし」
 またそれだ。アヤにはよくわからない。確かに、人生が仕事しかないのは寂しいと思うけれど、だからといって彼氏に殴られるのは嫌だ。
 そうは思ったけれど言わなかった。不安げな沖花の顔を見ていると、言えなかった。
 どうせ、アヤにはわからない。人を殴る男は普通にクズだと思う。でも、そんな男のことをそれでも沖花は好きなのだ。
 アヤが死なないでと何度も言っても意味がない。その男のただ一言の方がきっと彼女を救うんだろう。
 空に引っかかったような三日月が屋上を見下ろしている。顔も知らないその元彼氏に対して、できることなら恨み言の一つも言ってやりたかった。

 ・

「四日目、処刑を先導したBの死体が見つかります。残っているのはこれでC、D、E、G、H。人間と預言されたBが襲われるのは予想できたのに守らず、Hに惹かれて理性を失ったのではと警官は自分を責めます。HはCが人間だと確認したと告げます。処刑を強行したBがいなくなりみんな疑心暗鬼になり口論は紛糾、意見がまとまらず処刑は行われません」
 残りは五人。人間はまだ十分多数を取ってアンドロイドを処刑できる。だけどそういう雰囲気でもない。
 結局、話は膠着状態だった。アヤなりに頑張って展開は練っている。だけど今日の授業中も、結局は沖花の恋愛のことが気になってしまい、手に着かなかった。
「え、もうここで終わり?」
 案の定、沖花は言う。
「あの、どうしても聞きたいんですけど。沖花さんは、彼氏さんのどこを好きになったんですか」
 アヤは沖花の言葉を無視して話題を変える。
「うーん、私のことを好きだって言ってくれたところ?」
 そんなこと?と言いたくなったけれどアヤは黙っていた。沖花は美人だし、恋愛なんてお手の物に見えるのに、意外と奥手なのかもしれない。
「じゃあ、どうして振られたんですか?」
「痛いとこ突くね」
「えっ、すみません……」
「まぁ、結局は私がかわいくないからかな」
 そうだとはとても思えなかったけれど、やっぱりアヤは何も言わなかった。だって、彼氏の存在の前には自分は無力だ。何を言ったって、きっと通じない。
「振られたのに、まだ好きなんですか?」
「うん」
 彼女は一瞬の迷いもなく答えた。それが眩しいようで、同時に苛立たしかった。アヤだってこんなに真剣に彼女のことを考えているのに。
「初めての彼氏なの」
「でも、その人は沖花さんを大事にしてくれないんですよね。殴りはしても」
 苛立ちにまかせてアヤは口にする。
「……何が言いたいの?」
「沖花さんのこと、大事にしない男なんてクズじゃないですか。殴られたなら、怒るべきじゃないですか?」
 はっとしたときにはもう遅かった。案の定、沖花は冷ややかな目でアヤを見下ろしていた。しまった。そう思ったけれど口から出た言葉は取り返しがつかない。
「あなたに何がわかるの? 誰も好きになったことないくせに」
「……わかりません、でも」
 友達にもアヤとは恋バナができないからつまらない、と言われたことがある。どうしてみんな、そんな風に自然と人を好きになれるのだろう。
「もういい」
 沖花はぷいとアヤに背を向けた。すみません、とアヤは反射的に言いそうになった。だけど、自分が間違ったことを言っているとは思えなかった。
「そろそろマンネリじゃない? 明日も同じような展開だったら、私はもう興味ないかな」
「え……」
 一応アヤの進行に、納得してくれているのだと思っていた。このところ、沖花はフェンスを乗り越えるそぶりは見せなかった。雑談もするようになったから、もう大丈夫だと錯覚していたのかもしれない。
「待ってください」
「期待してるから」
 ちらと振り向いて沖花は言う。
「また明日ね」
 そのまま沖花は去っていった。アヤは思わず自分の胸を押さえる。自分は友達じゃない。あくまで沖花を引き留めているだけ。
「無理……」
 もとからアヤには小説が書けないのだ。そんな重圧をいきなり負わされてもどうにもできない。
 アヤはフェンスに手をかけてみる。冷たい。空を見上げると、今日は曇りだった。一日に一人しか殺せない、という設定は便利だと思っていた。だけど、沖花に納得してもらえないなら意味がない。
 これ以上屋上にいても風邪を引くだけかもしれない。アヤは部屋に戻ろうとした。だけどエレベーターは一階に止まったままで一向に来る気配がない。仕方なく階段に回った。今まで、屋上に来るのにはずっとエレベーターを使っていた。
「……あれ」
 階段のドアには鍵がかかっていた。屋上側からは手元で開閉できるが、階段側からは鍵がないと開けられないシリンダー錠だ。自動で閉まるタイプでもない。沖花は鍵を持っていたのだろうか。アヤがいるとわかっているのに鍵をかけた? もやもやした気持ちのまま、アヤは階段を降りた。

 ・

 翌朝、ほとんど眠れなかったアヤは眠い目をこすりながらリビングに向かう。そこで母から、エレベーターが故障していると知らされた。
「え、いつから?」
「昨日の夜からみたいね」
「夜って……何時」
 昨日も屋上に向かうのにアヤはエレベーターに乗っている。使わなかったのは帰りだけだ。だからまだ早い時間には、動いていたはずだった。
「二十二時くらいかしらね。一階で止まったまま動かなくなってたらしくて。閉じ込められなくて本当によかったよね。今日中には修理が来るっていうけど」
 母は何でもないことのように言う。屋上に二人でいたのは一時間くらいだろうか。部屋に戻ったときには、もう日付が変わりかけていた。
 だとしたら沖花は昨日、どうやて降りたのだろう。
 階段ではない。だけど、エレベーターでもない。いや、鍵を持っていたのかもしれない。
「まぁアヤも階段を使うのがたまには運動になっていいんじゃない?」
「私もう受験生なんだから配慮してよ」
 母には沖花のことは言えなかった。もし伝えたら、大人として対応はしてくれるのかもしれない。沖花を本当に助けたいなら、大人の手助けを借りるべきなのかも知れない。でも、どうしても伝えようという気になれない。
「昨日も遅くまで勉強してたの?」
 お疲れ様ねぇ、と笑う母に、アヤは苦笑いを返すことしかできなかった。

〝誰かを好きになると世界が変わるんだよ〟
 クラスメイトがそう言っていた。そんなことある?と当時のアヤは思った。世界変わるとか怖すぎ。アイドルの男性たちをかっこいいとは思うことこそあれ、恋い焦がれることはなかった。
〝何がわかるの?〟
 結局授業中、何をしていても手につかず、アヤは家に帰る。楓や杉田からゲームをしないかとも誘われたが断った。それどころではない。
 あんなこと、言わなければよかったのだろうか。確かに自分は沖花の事情なんてわかってない。
 でも、あくまで彼氏を最重要視する沖花を見ていられなかった。彼女の考え方はどうかしている。もっと彼女を愛してくれる人はきっといる。でも、そんな言葉をいくらぶつけても無駄なのだ。
 もっといい人がいるよ。出会いがあるよ。……何を言っても、アヤの言葉はきっと彼女には届かない。
「どうしよう……」
 アヤには物語をどうクライマックスに持っていき、閉じればいいのかわからなかった。やっぱり小説なんて書けないのだ。沖花のこともきっと助けられない。自分がやらなきゃなんて思ったのがおこがましかった。
「第二弾、続、ううん……」
 これ以上の引き延ばしをしたら、きっと今度こそ見限られる。アヤは頭の中であれこれシミュレーションする。とびきりの解決が欲しい。でも、そんなの思いつかない。
 もちろん、アヤはこの物語の作者だからルールを破ることもできる。だけど、それでは沖花が納得しないだろう。そう思うと改めて重圧だった。突然小惑星帯に突っ込んで全滅、というエンドにすることだって可能だけれどそれでは意味がない。
 そもそもそれ以前に、機嫌を損ねた沖花にもし、何かがあったらどうしよう。アヤは自室に向かわず、階段で二階のフロアに向かった。アヤの住んでいる七階とまったく変わらない廊下が続いている。
 沖花の無事を確認できるだけでよかった。だけどやってきた二○四号室には表札が出ていなかった。
「あれ?」
 いや、それ以前の問題だった。廊下から見えるその部屋は、明らかに空だった。窓にカーテンもないので、さすがにこの状態で人が住んでいるとは思えない。
「間違えた……?」
 ありえない可能性ではなかった。アヤはそのまま二階を端から端まで歩いた。二○四号室以外の部屋にはちゃんと「沖花」以外の表札がかかっていた。
「すみません、七階の住人ですけど、お隣の部屋について聞きたいんですけど……」
 不審に思われるのも覚悟で、チャイムも鳴らした。だけどしばらく前にその部屋の住人は引っ越して、誰も住んでいないことがわかっただけだった。
 ――なんで?
 沖花がわざわざ部屋番号を偽る理由があるだろうか。昼間にこうして訪ねて来られたくないから?
 わからないけれど動悸がした。もしかしたら彼女はもうとっくに死んでいて幽霊だとか。まさかと思う。でも少なくとも何かはおかしい。一体、彼女の何を信じられるのだろう。

「五日目、Cの死体が見つかりました。HはEを人間と預言します。そして役割を担っておらず、預言もされていないDがアンドロイドだと告発する。処刑の危機を感じたDは本当の預言者は自分だと訴えます。DはこれまでにHが人間、Gは警官ではなくアンドロイド、という預言を得ていたと言います」
「ユニコーンの夢でも見たのかしらね」
「え?」
「つまりDはGがアンドロイド、Hが狂信者だって言ってるのね」
「そうです。もともとHに惹かれつつ疑っていた警察官Gは、どちらの預言者を信じていいのかわからなくなっていく。本当に自分は人間だろうかと思い悩んでしまいます。DはGを処刑しようと言い出しますが、Hに人間と診断されているEは反対します。結局、処刑は行われません」
「詰んでるじゃない。DがアンドロイドならGを味方にすれば翌日には勝ち」
「それは……」
「私には時間がないの」
 沖花は冷たい目でじっとアヤを見ていた。
 それはつまり、早く死にたいということだろうか。確かに、アヤはここまでずっと結論を引き延ばしてきた。自分なりに納得できる物語にしようと苦慮もしてきた。でも、どこかで無難にまとめようと思っていたのかもしれない。
「このまままた明日、っていうのはもうやめて」
 沖花がフェンスの方に目をやる。
 じっとりと手に汗をかいていた。初日と同じ緊張感だった。
 このままではだめだ。アヤは、何も考えつかないまま口を開いた。
「その夜、GはHに詰め寄ります。お前は最初から嘘つきだったんじゃないかと言って。惹かれていたからこそ、信じ切れなかった」
 考えるのと喋るのが、ほとんど同時だった。
「だけどHは自分を信じてほしい、と切々と訴えます。Gは確かに彼女が好きで、だからこそ信じられない。揺らいでしまう。この世界は夢なのか現実なのか、何もかもすべてを信じられなくなり、Gは船内に備え付けの非常用の斧でHを殺してしまいました」
 沖花が少しだけ目を見開くのがわかった。
「Dはやっと脅威がなくなったとGを褒めます。だけどそんなDも嘘つきだと感じ、Gは殺してしまいます。それを目撃して逃げようとしたEも同じくGは殺します。一人残されたGは、正義を守るべき自分が殺人をしたことに絶望して首を吊ります」
「えっと待って……色々言いたいけどまず、警官や乗員は人を殺せるの? あと宇宙なのに首を吊って死ぬの?」
「常識的に考えて人は人を殺せます。あと人工重力が発生してるのでちゃんと死にます」
 ほんの少し前までアヤ自身、まったく考えてもいなかった内容なのに、気がつくとすらすらとアヤは話していた。緊張感は強いけれど、楽しい。沖花が驚いてくれたのが嬉しい。
「死ぬのは一日に一人じゃなかった?」
「それはアンドロイドが夜に人を殺す場合です」
「まぁいいか……それで、真相は? 犯人は誰なの?」
 沖花がアヤを見る目は、さっきまでの冷たい目とは、少し違っていた。
 いつまででも話していたい。でも、終わりの時は来る。アヤは意を決して言う。
 トリックも犯人ももちろん思い付いていない。昨日より更に状況は悪い。後がない。はっきり言って、ピンチだ。だけどアヤは涼しい顔をして見せる。
「もちろんそれは、明日です」

 ・

 沖花と元彼との出会いを想像してみる。
 アプリっていうことはまず駅かどこかで待ち合わせて、カフェにでも行くのだろうか。沖花さんですか? 写真より美人ですね。そんなやり取り。
 駅向こうのその店は、こじゃれた小さなイタリア料理屋だった。
 アヤは今日の夜、沖花に最終話を語らなければならない。苦肉の策だったけれど、皆殺し作戦は効いた。沖花はこれが最後になるのならと言って、翌日への持ち越しを認めたのだ。だけどもう二度とは使えない手だ。
 アヤは元から人狼ゲームにも強くないし、小説も書けない。
 どうしていいかわからず、アヤは午後の授業をサボって駅向こうのレストランに来ていた。
 友達から何通か連絡が来ているけれど、今は見ていられなかった。例の男が今日、働いているかどうかもわからないけれど、まずは一目見てみたかった。アヤはぎゅっと手のひらを握り閉める。
 ありがたいことに、特別高級な店ではない。意を決して中に入ると、すぐに店員が寄ってきた。
「いらっしゃいませ」
 ひと目見てすぐにわかった。三十歳くらいで、痩せていて優男風。見ようによってはイケメンに見えなくもないけれど、華はなくて地味なタイプだ。
「お客様?」
「え、あ、いえ、一人です」
 気にした風もなく男はアヤを席に案内する。こじんまりしたかわいい感じの店だった。アヤはアップルパイと紅茶を頼んだ。男はつつがなくオーダーを厨房に伝える。
 ――こんな男のために、沖花は。
 アヤはフロアを歩き回る男をそっと目で追う。ポケットに入れた手をぎゅっと握りしめると、ナイフの感触がある。ポケットに入れた記憶なんてなかったのに、なぜとは思わなかった。ただそれが今のアヤにとっては自然なことだった。
 彼は沖花を傷つけた。死んでしまってもいいと思うほどに追い詰めたのだ。暴力を振るったのが一度とは限らない。もっとひどいこともしているかもしれない。だから相応の報いを受けるべきだ。
 彼がいなくなればきっとすべてが解決する。もう頭を悩ませて、わざわざ物語を語る必要もない。
 ――この男さえいなくなれば。
 頭がかっと熱くなって、それしか考えられなくなる。
 そのとき店のドアが開き、取り付けられた鈴が鳴った。
「あ、いらっしゃい」
 男はさっきアヤに向けたのよりも、ずっと柔らかな笑みを浮かべていた。まさか沖花だろうか、と思ってアヤは様子を窺う。店に入ってきたのは沖花とはまるで似ていない、小柄で黒髪の長い女だった。二十代前半くらいかもしれない。スカートが短くて、ブーツを履いていた。
 女の声はアヤの方にまで聞こえなかった。だけど親密そうな二人の様子に、すぐにわかった。あれが今の彼女なのだろう。アヤは改めてナイフを握る。そしてそのままじっと二人を見続けた。

 その日の夜、空は曇っていた。
 何を信じたらいいのだろう。登場人物は全員殺してしまった。役立たずな作者だ。沖花とは今日が、別れの日になるのかもしれない。
 沖花は十時過ぎに屋上にやってきた。二○四号室に住んではいないのなら、どこからやって来たのだろう。
「あの男に会いました」
 アヤが開口一番に言っても、沖花は聞き返さなかった。まるで最初から、アヤがそうしたことを知っていたみたいに。
 アヤはポケットから手を出し、ずっと握りしめていたナイフを取り出す。力を込めすぎて、右手は震えていた。
「殺してやろうかと思ったんです」
 アヤの手からナイフが落ちる。
 やれると思った。それはただ静かな確信だった。あんな男は死んだ方がいい、沖花のためにもそうするべきだと思ったのだ。彼は沖花と違う女といちゃついていた。沖花より若い、かわいらしい子だった。
 二人の関係はいつからなのだろう。沖花と別れた後? 何もわからない。でも、沖花が苦しんでいるのに、あの男は幸せそうだった。
 沖花は、推し量るような目でじっとアヤを見ていた。
「それで、今日の物語は?」
「そんなのもうどうだっていいじゃないですか」
「よくないよ。ちゃんと、最後まで教えて」
「わかりません、私には才能もないし、面白い展開なんてわからないし、小説なんて書けない」
 アヤには本当に、どういう結末が相応しいのか、わからなかった。
 無人になった宇宙船がそのまま太陽に突っ込んだっていい。だけどそれでは沖花を納得させられない。頭を悩ませて色々なパターンも考えたけれど、結論は出せなかった。可能性ばかりが無限に広がっていて、道筋がわからない。何だってできるからこそ、どっちに向かっていいのかわからない。
「教えてよ。せっかくここまで付き合ったんだから」
 沖花に言われると苦しかった。アヤだって、できることならちゃんと最後まで語りたい。
 だけどもう本当にわからなかった。
 もっと沖花に楽しんでもらえるような物語を語りたかった。彼女を少しでもこの世に足止めできる物語を。だけど頭痛がするほど考えて考え尽くしても、ふさわしい答えがわからない。
 頭の中に浮かんでくるのは、あの男の幸せそうな横顔だけだった。
 刺そうと思えば刺せた。後先を考えないでもよいのなら。だけどそうしなかったのは、あの男を許したからではない。幸せそうな表情にほだされたからでもない。
「あいつは殺す価値もないです」
 アヤは空っぽの手のひらを沖花に差し向ける。
「どこにでもいるような、つまんない男ですよ。沖花さんが執着するような男じゃない」
「……そうかな」
「そうだよ……! もう忘れましょう、あんな男」
 うつむくアヤの目から涙が溢れかける。彼女の人生を、あんな男に費やしてしまうにはあまりにもったいないと思った。
「そんなことよりねぇ、教えてよ。誰が犯人だったの?」
「わかりません」
「え、ちょっと待ってよ」
 沖花が初めて慌てた態度を見せる。でも、アヤはもうひるまなかった。
「お願い、一緒に考えて下さい」
 アヤには答えがわからない。
 でも、もうここまできたら仕方がない。顔を上げて、アヤは沖花をはっきりと見据えた。
「だって……私が一人でできることなんて、そんなにないんです。だから、一緒に考えてください。ううん、二人で考えたいんです。だって、これは沖花さんがいたからできた、二人で作ったお話だから」
 アヤはちっぽけで無力だ。でも沖花がいたから、一人の時は全然想像もしていなかったお話ができた。だから二人なら、きっと一人では行けなかったところにも行けるのだと思う。こんな風に助けを求めるのはおかしいのかもしれない。アヤだって誰にでもこんなことを言うわけじゃない。沖花だからだ。短い時間だけれど屋上で会い、夜を一緒に過ごした彼女だから。
「お願い、私と一緒に解決してください」
 空は曇っていて、静かな夜だった。月は見えない。しばらく沖花は何も言わなかった。
 怒らせたかな、とアヤが思っていると彼女は突然小さく笑った。
「もちろん、私はあなたを助ける。そのためにここに来たんだから」
「え?」
 それからひとつ息を吸い込み、彼女は「さて」と口にした。
「論理的に考えれば、そんなの明らか」
 沖花の表情が、屋上の空気が変わる。
「アンドロイドは死なない。だけど登場人物は全員死んだ。これは矛盾してる。だからつまり、アンドロイドは死んでない――殺されたふりをしていたということ。つまりアンドロイドはA。初日は和気藹々、って言ったでしょう? 追われて仕方なく宇宙船に入り込んでいたアンドロイドは人を殺すつもりはなかった。だからずっと死んだふりをし続けるつもりだったの。でもAがアンドロイドだと気づいていた人間がいる。いい? アンドロイドは人間そっくりで見分けられない。でも、死なない。処刑されたらすぐにわかるけれど、それ以外で見分けられるのは預言者だけ。本物の預言者は嘘をつけない。でも、Hが一日目の夜に誰を預言したのかは語られていない。アンドロイドが自ら眠りにつき、人を殺さないと気づいたHは、到着地での成果を独り占めするために人間を減らしていった、QED。どう?」
 アヤはあっけに取られて、しばらく何も言えなかった。
「でも……死んだふりをしていただけなら、Aとは限らないんじゃないですか」
「D、Fと警官であるGは死んだと明言されているから人間。首つりだろうと何だろうとね。つまりDは狂信者でHは本物。そもそもB、C、Eは預言で人間と確定しているからAしかいない」
 アヤは何か反論したかった。でも確かに沖花の語った解決は矛盾していない。もっと考えたら他の答えだって見つかるかもしれない。でもこの物語で大事なのは、読者である沖花と、作者であるアヤが今、納得するか否かだ。
「でも……アンドロイドが死んだふりをやめたら、もうみんな死んでるんですよね、寂しいです」
 アヤは何とか口を開く。沖花は一瞬目を閉じると、静かに語り始めた。
「アンドロイドが休眠から目覚めると、船にはもう誰もいなくなってしまった。それからアンドロイドは孤独な航行を続けるの、この広大な宇宙で、いつか誰かに出会えることを願って」
「一人ぼっちで?」
「だけど彼の中にはちゃんと楽しく過ごした日の記憶も残っている」
 沖花はふっと表情を和らげる。
「いじめられてやっと転校して、でも全然馴染めなくて辛くて、そういうときゲームに誘ってもらえたら人数合わせでもものすごく嬉しい、そういうこともある」
 彼女は何を言っているのだろう。
「あなたがそうしてくれたみたいに」
 アヤは何も言えなかった。ただ、かろうじて疑問を口にする。
「あなたは、誰?」
「もうわかるでしょ?」
 そう言って沖花は柔らかい表情で笑った。
 混乱した頭のまま、アヤは物語が終わったことを理解する。もう沖花を止める手立てはない。
 だから今、一番伝えたいたった一言だけをアヤは口にする。
「……死なないで」
 こらえていた涙が一粒こぼれた。沖花はアヤに向けて、穏やかに微笑む。
「もちろん。もう、大丈夫」

 ・

 もともと文芸部は、ほとんど活動のない部だった。アヤだって、小説が好きだというのもあるけれど、正直楽そうだから選んだところもある。杉田は不登校であまり学校に来ていなかったし、井川は陸上部をやめたばかりで病んでいた。
 人狼ゲームを提案したのはアヤだ。だけどなかなかメンバーが集まらない。そのとき、たまたま楓が所在なさそうにしていたのを見つけて、一緒にやろうと呼んだ。楓は転校してきてから一ヶ月だったけれど、あまりクラスに馴染んでいなかった。
「どうせなら文芸部にも入ろうよ」
 部員が増えたらゲームがしやすい。そのくらいの気持ちで気軽に誘った。
 でも実際ゲームを始めたら、一番強いのは楓だった。
「えー、なんで? なんでわかるの?」
 みんな回数を重ねたらそれなりに強くなった。それでもでたらめな行動や自滅をしてしまうことも多い。だけど楓だけは、いつも最小限の犠牲で人狼をぴたりと言い当て、滅多なことでは殺されなかった。その分、彼女が人狼側だと大変なことになるのだけれど。
「別に、論理的に考えてるだけだから」
 遠慮深く、真面目な彼女はいつも言っていた。

 真っ白い天井が見える。
 寝すぎたな、と思った。頭がぼんやりしている。
 だけどいつベッドに入ったのかも記憶がない。だんだんはっきりしてくる視界にうつっているのは、知らない部屋だった。
「あれ……?」
 そこは自室ではなかった。カーテンに囲まれた白いシーツのそのベッドは、どう見ても病室だ。右足と左腕には包帯が巻かれていて、うまく動かせない。記憶にはないけれど、どうやら怪我をしたようだった。
 アヤはあの屋上で、沖花を説得していたはずだった。なのにどうしてこんなところにいるのだろう。怪我をしたり、入院したりした記憶はなかった。
 頭がぐらぐらする。マンションの屋上に上って、どうにかしてあの人を助けたくて、物語を語った。でも一人では解決できなくて、結局助けを借りて……。
 アヤの眠るベッドの脇には、白衣の女性がうたた寝をしていた。長い黒髪が、今は少し乱れて彼女の顔にかかっている。二十代半ばぐらいだろうか。その胸元には、特殊精神療法士という肩書きと、「沖花楓」という名前の記された名札がある。アヤの知っている楓の苗字とは違う。それに、彼女は高校生だ。
 アヤは自分の手を見る。私は文芸部に所属する高校生で、沖花を助けたくて……違う。
 もう高校なんてとっくに卒業した。短大に進学して、それから働き始めた。そして初めての彼氏ができた。
 アヤは初めての恋愛にのぼせた。この人は私を一番に好きで、かわいいと言ってくれるんだ。それは麻薬のような体験だった。彼のためなら何だってできた。彼がすべてだった。
 腕に巻かれた包帯を見る。そしてとっさに頬に手をやった。
「痛っ……」
 最初に殴られたときは、何が起きたのかわからなかった。彼は二度目からは、やたらと甘く優しくなった。だから愛されていると実感できた。彼との約束を優先してあらゆる友人との約束を破った。そんな男はやめなよ、とみんなに言われた。それがうざったくて、一方的に連絡を絶った。
 そう、彼氏に暴力を振るわれていたのも、マンションの屋上から飛び降りたのも全部、アヤだった。
 振られて世界のすべてを失ってしまったように思った。彼の愛情を失ってまで生きていけない、生きている意味がなかった。どんな友達の言葉よりも、彼の態度ひとつが大事だった。
 手をかけたフェンスの冷たさも、何もかも覚えている。
 高校時代のように小説を書くことも、友達とゲームすることもとっくにやめていた。そんな時間があったら彼のために使いたかった。
「でも、なんで……」
 楓とはもう何年も会っていなかった。だからアヤは、大人になった彼女の姿を見たことがなかったのだ。苗字が変わったことも、病院で勤務していることも知らなかった。
 彼女の手元には、診療記録らしきものがあった。アヤはそれを覗き込む。
 〝対象は高校生の姿。私は彼女自身の自殺未遂前のふるまいを演じる(できるかな)〟
 〝対象は物語を語り始めている。少しずつ自分を取り戻しつつあるように見える〟
 できるかな、の文字だけが薄く小さい。
 夢の中での沖花の言動は、かつてのアヤそのままだった。ただ彼氏一人だけに執着し、友人や家族からの言葉を突っぱねた。何も見えなくなっていた。だから彼に振られることで、すべてを失ってしまったと思った。自分に価値なんてもうなにひとつないと思っていた。
 〝あなたを大切にしない男なんてクズだよ〟
 〝もう忘れよう〟
 沖花のノートに記されているのは几帳面な文字だった。そこにアヤ自身の発言が記されている。
 読んでいるうちに少し泣きそうになったけれど、もう涙は出なかった。あれほど世界のすべてだった彼氏のことを思っても胸が痛まない。何もかも、はるかに遠いことのようだった。
 〝死なないで〟
 長い長い、悪い夢から目覚めた気分だった。
 どうしてわからなかったのだろう。彼女も杉田も他の友だちも、みんな、アヤのことを思っていてくれたのに。
 カーテン越しにうっすらと外が明るくて、夜明けが近いことがわかった。丁寧に記された診療記録は、楓が毎日アヤのことを考え、連れ戻すために苦労していたことを伝えていた。真面目な楓らしい、細やかな記述だった。
 目覚めた彼女に何を伝えたらいいだろう。話したいことはいっぱいある。高校を卒業してから、どんな風に過ごしてきたか。みんなで一緒にゲームがしたかった。久しぶりに集まって、またみんなで。
 カーテンの隙間から、斜めに朝の日差しが差し込み始めていた。その光がちょうど、沖花の顔に当たる。
 眩しさに反応したのか、楓のまぶたがぴくりと動く。それからゆっくりと、彼女は目を開いた。アヤは思わず微笑む。それから初めて、あの夢の中では決して言えなかった挨拶を口にした。
「おはよう」

文字数:19900

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