転生できずゾンビになった件

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梗 概

転生できずゾンビになった件

小説家「私」の一人称。主な登場人物は、私(30代)、編集者(40代)、漫画家(20代)。
 主要な舞台は心霊スポット「人喰いの家」。

 プロローグ
「いや、ゾンビは死んでるから、転ではないのかなと」
「そんなこと訊いてねーよ、中途半端にパクりやがって。だいたいな……」
 罵詈雑言を吐く編集者と対峙する「私」。

 本編
 心霊スポットとして知られる廃墟で、私は目を覚ます。泥のようによどんだ脳細胞で、状況の理解に励む。──目のまえに死体。編集者だ。
 一瞬、殺されて当然、ざまあ、と思う。つづけて、殺人事件という非現実を理解し、考えはじめる自分自身への違和感がすさまじい。
 ほどなく気づく。割れた鏡に映る自身がことに。

人間を食いたいという激しい衝動。同時に、ゾンビらしからぬ思考力も保っている。腐っても作家、濫造された「ゾンビもの」の知識は豊富だ。走るゾンビや恋するゾンビなどの前例から、いまの自分は、思考力を保っているタイプらしいと把握する。
 ほどなく、こうして「考える」こと自体が重要であると気づく。過去を思い出すほど、人間に戻っていく実感。生き返る可能性のあるゾンビだ。であれば、いかなる黒歴史であろうと取り戻さねばならない。

周囲を調べるなか、ロッカーを開けると、頭にGペンを刺して死んでいる漫画家の死体を発見する。まずはこの新人漫画家との記憶を、ひとつずつ掘り起こしていく。
 彼とはネットの掲示板で知り合い、わざわざ地方から出てきて照英社に持ち込みするというので、それならと待ち合わせた。
 そのとき休憩室で、やたらと口の悪い顔見知りの編集者につかまり、取材も兼ねた打ち合わせと称して、この心霊スポットを訪れた。フラッシュバックの手法で、次々に記憶をたどる。最初は和気あいあい、呑みながら話した。一応まじめな創作論、生々しい業界話など、酔っぱらった編集者の舌鋒は鋭さを増す。

私はそれなりに同意も反論もできるが、気の弱い漫画家は打たれるままだ。
 ついにブチ切れた漫画家が、編集者を殺した。武器らしいものがやたら転がっている廃墟だった。その後、彼は自責の念でロッカーに閉じこもり、自殺したらしい。
 一方、ゾンビ化した編集者に噛みつかれ、反撃してその首を落としたのは私だった。ほどなく自分もゾンビ化し、相手の肉を食ったときには得も言われぬ快感をおぼえた。
 終幕、すべてを思い出し、葛藤しつつ、編集者と漫画家の死体を地下室へ「捧げる」私。食欲に負ければただのゾンビ、人喰いの家に喰わせればそれはイケニエ(という文化をもつ人間)。
 捕食の快楽に負けそうな衝動を振り切って、かろうじて「人間になる」私。

 エピローグ
 そんな話を書きました、というメタ展開。
 冒頭のような罵詈雑言に、私は『転ゾン』のモデルになった家について語る。
 取材に行きませんか? と、物語の円環を予感させて幕。

文字数:1197

内容に関するアピール

ゾンビものです。いろんな意味で「怖い」話です。
 テーマの「小説つばる「新人SF作家特集号」の依頼」がオチになります。

主人公はマンガ原作に手を出している小説家ですが、これは何人かの漫画家さんとの打ち合わせやネームの持ち込みなど、著者自身の実体験を活かしています。
 醗酵した低能ワナビの承認欲求を腐す、リアルでシビアな「現実という吐き気のする恐怖」だけは、しっかり表現したいと思います。
 心の弱いワナビの方は、読まないほうがいいかもしれません。

「大口開けて、俺たち(の夢)喰って、太って喰って噛み(飼い)殺す、そんなおまえを、なんて呼んだらいいんだ?」
 叫ぶ主人公のダブルミーニングに、チクリと胸が痛む人もいるでしょう。「人」喰いの家と、「夢」を喰う業界を重ねています。

(論文)「ゾンビはいかに眼差すか」福田安佐子(2017)などを参照しました。京大は変な論文(誉め言葉)が多くていいですね。

文字数:394

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転生できずゾンビになった件

プロローグ

「そういうことじゃねーんだよ、だからさあ」
 皺の寄ったワイシャツ、ノーネクタイ、10分カットらしい短髪の編集者が、苦虫を噛み潰した表情で言った。
「じゃあ、どうしたらいいんですかね」
 鬱屈を押し隠し、私は静かに反問する。
「それ考えるのが仕事だろうが、原作者さんよォ」
 四十代で衰えの著しい体育会系、空回りすることの増えた骨太の身体が揺れて咳き込んだ。最近、タバコをやめたと自慢していたばかりだが。
 まだ無茶のきく三十代の私は、未来の自分を憂いながら答える。
「常に一定の需要はあると思うんですよ、ゾンビものって」
「んなこたーわかってる、じゃなくてさ、たとえばタイトルよ」
 編集者がリズミカルにたたくテーブルの横を、若手たちが通り過ぎていく。
 数個のテーブルが並んだ広めのワンフロアは、何人かの若い漫画家と編集者が集い、議論を戦わせる場所だ。
「転生、ゾンビ、一応キーワードは入れてるつもりなんですが」
「だからその置きにくる感じよ。微妙にパクりやがって」
 なにが言いたいのだろう? 私は必死に忖度を働かせる。
「いや、ゾンビは死んでるわけじゃないですか、だから転ではないのかなと」
「突っ込み待ちのタイトルとかうぜーんだよ、とにかくやり直せ」
 突き返される原稿。
 折れ目のついたト書きのコピー用紙の束に、めくられた表紙がかぶさる。漫画家さんに頼んでおいたキャラのラフスケッチと、ペン入れ前の扉絵構図。
 やれやれ、今回もボツか。漫画家さんに申し訳ないな。
 私は短く嘆息し、静かに目を閉じた──。

 

 

視界がフラッシュする。
 ハッと息を呑んで、あたりを見回した。
 ──暗い。
 闇夜から届く街灯の光は遠く弱い。それでもかろうじて視界が確保されているのは、持ち込んだLEDランタンのおかげだ。
 そこは──「廃墟」。
 前世紀から取り残され、再開発の手から漏れて放置されたままの雑居ビル。最後のテナントが撤退した原因が、消防法に違反した建築運用と、それを襲った火災だと聞いた。
 あちこちに、それらしい痕跡はある。
 火災の理由が、入居していたブラック企業への抗議による放火だった。その恨みつらみで悪霊が徘徊している、という噂も漏れなくついてきた。
 そう、ここは「心霊スポット」と呼ばれる場所だ。
「ああ……」
 意識的に声を出す。私が何者なのか、必死で思い出そうとしても、脳細胞がなかなか起きてくれない。
 曰く言い難い不安がかき立てられる。周囲に散らばったチューハイの缶のせいだろうか、この死んだような脳細胞は。
 身体を反転させ、背後の状況を確認して──ぴたりと動きが止まった。
 人が、死んでいる。
「うわ、あああ、ああっ!」
 苦労して起こした身体が、その場にぺたんと沈んだ。
 目の前の恐怖から逃れようと、カサカサと昆虫のように手足を動かして企図する脱兎の業は、あまり成功しない。
 一瞬、死体と目が合う。
 ……編集さん。
 顔見知りであることに混乱が高まると同時に、ある種の脈絡もついて奇妙な安堵感もあった。
 そうか、あんた死んだのか、首を斬られて、殺されたみたいだな、なるほど、まあそうだろう、死んで当然だよ。
 脳が奇妙な配線でスパークしている。
 私はいつもこんなふうに考える人間だっただろうか? そうではない、そう思いたくはない、だが、わからない。
 逃げることをあきらめ、動きの鈍い身体を叱咤して、どうにか立ち上がろうと試みる。
 何度か失敗するうちに、いくつかのことに気づく。いろいろぶつけている身体に、あまり感覚がない。そもそも目のまえの死体と同じくらい、自分の手指にも血色がない。
「どうなってんだ……」
 喘鳴のような声を漏らし、首を巡らした私の動きが、再び止まる。
 割れた壁の横、鏡のように反射するガラスに映る、自分自身。
 ゾンビだ……。

 

私は胸を押さえ、必死に考えを進めた。
 ヒビの入ったガラスのまえに立ち、典型的なゾンビ顔を確認する。
 泥のようによどんだ白目、拡張した瞳孔、灰色に変色した皮膚、黒く浮き上がった血管、そしてすべての無感覚。
 私は死んだのか……。
 思い出したように意識して胸を動かすと、横隔膜の動きに連動して、ぜえぜえと呼吸らしき音が聞こえる。
 だが、肉体が酸素を必要としている気配がない。
 皮膚にも感覚はない。
 胸を押さえてみて、わかったことがある。
 心拍もない。
「死んだ……」
 これは夢だろうな、という思考がまず浮かんだ。
 妥当な線だが、状況は正確に踏まえるべきだ。
 私は編集さんの死体に歩み寄り、細かな観察をはじめる。
 全身がズタズタに突き刺され、かなり悲惨な状態にある。私が刑事なら、強い怨恨の線を疑うだろう。
 ざまあ、という気持ちが再びよみがえる。あらためて自分の両手を見ると、だいぶ赤い。たぶん返り血だろう。
 目のまえに死体があって、どうやら自分も死んでいる。
 私が、殺したのか。
 ……いや、待て。順番に片づけよう。もっと大事なことがある。言うまでもなく、他人が死んでいることより、自分が死んでいることのほうが重要なのだ。
 そもそも「ゾンビ」って、どういうことだ? 私は、ほんとうにゾンビなのか?
 そこで、これは画期的な設問だと気づく。
 たとえば現在、見ている景色が「夢かどうか」をたしかめる古典的な方法といえば、ほっぺたをつねってみるなど、痛みを感じるかという基準がよく知られている。
 ゾンビはどうか?
 だらだらと脂汗が背筋を伝う感覚はあくまでも錯覚で、ひきつったような背中のしびれは死後硬直かもしれないし、痛みは感じない可能性が高い、というか事実、感じない。
 だとすると同時に「夢」の可能性も強まる。
 冷静に考えてみれば、それがもっともらしい。
 では、目を覚ますには? 目のまえの編集者のように、首を斬り落としてみるか?
 ……待て。死ぬのはいつでもできる。まずは見た目の問題から、順に解決していこうではないか。
 そうだ、夢でもなんでも、これは
 多くの名作が、作家の見た「夢」から紡ぎ出されていることを思えば、せっかくネタになりそうな夢を見ていることを利用しない手はない。
 まず、ゾンビって思考力あったか? 問題。
 部屋の隅に落ちて傾いた割れ鏡に向き直り、自分自身に問いかける。
 ゾンビは、ヴードゥー教という古典的な世界観から生み出され、もっぱら映画界によって受容され、消費されてきた。
 クラシックゾンビ、モダンゾンビ、新ゾンビといった進化を遂げ、ただの動く死体から、噛まれると感染する、走る、考える、果ては「恋をする」などといった要素が付け加えられていったのが、昨今のゾンビ業界だ。
 理性の喪失という基本的な「アイデンティティ」までが取り払われてしまったとき、いったい、生者と死者の垣根をどこに見出せばよいのか。
「……ゾンビ的IDクライシス、か。こんなネタ、あんたなら即刻ボツだろうなあ、おい」
 振り返り、編集さんの死体に歩み寄る。首が半ば落ちているから、ゾンビとしては活動限界を迎えているのだろう。
 軽く蹴ってやる。足から伝わる感覚に、ゾクリとした実感が伴われて、私の思考は加速される。
 どうやら動作を司る各機能も、さしたる欠損はないらしい。状況に慣れてきたのか、ゾンビの肉体をうまく使えてきているような気がする。
 あらためて自分の肉体を眺める。
 心臓が止まっていて、顔色が死人であること、それから五感のうち触覚がほとんどないこと以外、生きているときとあまり変わらない。
 触覚を失った分、味覚が鋭敏になっている気がする。ふと、口をもごもごと動かして、口中に残っていたものを咀嚼、嚥下した。
 血の滴る生肉を飲み下した感覚。……うまい。
 突如、強烈な「飢餓感」が突き上げてくるのは、ゾンビに特徴的な「肉食」を促す傾向と合致する。
 やおら、ぞくりと全身が揺れた。
 心臓が鼓動した。そう感じたのだ。
 あわてて指を触れる。心臓が鼓動している……?
 ……いや、感じない。
 私は短く吐息し、それでも未練がましく胸に手を当てたまま、考えを推し進める。
 あたりをふらふらと歩きまわり、ひとつひとつ事実ファクトを積み重ねていく。
 一般的な人間の歩行速度は、だいたい時速三~四キロメートル。一方、ゾンビの歩行速度はその半分、時速一・七キロメートルだという。老人車カートを押すお年寄りと、ほぼ同じ速度で「デッドヒート」するコメディ映画によれば。
 走るゾンビというパターンもある。しかし、神経伝達の問題か、関節のひきつったような現状に限っては、この「這うような速度」が限界と思われる。
 考えるゾンビというパターンもある。感情を取り戻していく復活の物語も。バラエティはさまざまだ。
 考える。
 再び、どくん、と心臓に響き。
 どうやら足元から届いたものだ、と理解するために視線を下ろす必要があった。恐竜のように感覚が鈍っているが、感覚があること自体がすこしだけうれしい。
 見回すと、焦げ跡の残る床面に、手の形をした黒い霧のようなものが這い回るさまが見て取れた。悪霊というやつだろう。自分もその一味であることを思えば、特段、怖いという感覚もない。
 そいつらが、どうやら自分の足に噛みついている(?)ようだ。その場で地団太を踏んでみると、霧のようなものは慌てたように霧散した。
 ザコの悪霊を倒して経験値を得た、というRPGまがいの状況に自分を当てはめてみて、このゲーム脳が、と自嘲した。そもそも、この自らの状態こそが「ザコ」だ。もしいま、冒険者を名乗る追いはぎが出現したら、一方的に殺されて経験値に変えられるのは私だ。どっちがモンスターなんだか。
「弱い者いじめ、カッコわるい!」
 ザコ狩りに耽溺する若者が現れたら、そう叫んでやろう。……叫ぶ?
 自分の喉に手をやり、力をこめる。……どうやら発声システムは掌握した。
 ただし、かなり意識的に力をこめる必要がある。人間であることを捨てさせようとする、なんらかの外的要素に対して、人間であろうとする内的要素による葛藤、という図式がつづけて想起された。
 冷静に自分を省察し、思考を進める。
 ふいに閃くインスピレーション。
 
 パスカルもそんなことを言っていた……気がする。
 積み重ねた記憶、それに基づいた人間的行動だけが、私を人間に引き戻してくれる。
「生き返れる……人間に、戻れるぞ」
 言い聞かせるように口走った瞬間、再び心臓から痛みに似た感覚が響いた。
 なるほど、だとしたら最適解は見いだせる。それはたぶん、ヒトが、どこかの洞窟で、あるいは岩陰で、はじめて刻んだ人間的行動の記録、記憶をたどること。
 道を選ぶのだ。

 

私は目のまえの死体を眺めながら、ゆっくりと彼との来歴を思い出していた。
 ……彼の名は田中さん、照英社の社員で、『週刊少年ジャンボ』の編集者だ。
 だれもが知るマンガ雑誌、かつて六百万部を発行した『ジャンボ』は一時代を築き、マンガ業界では三大出版社の一角としてゆるぎない存在感を示している。
 エリートが集まる編集部だが、四十代で一介の編集者をしている彼は、出世の本流からは外れているようだ。私の知る限り、現場が俺の生きる道なんだよ、と吹聴しながら新人漫画家をたたき上げる、古いタイプの人物だ。
 彼と知り合ったのは、半年ほどまえだったろうか。
 ……さて、その私だ。
 二十代を費やして小説家を目指したが、芽が出なかった。
 三十代、社会復帰しよう、夢から覚めようと決意してSEになったが、結局、夢をあきらめることができなかった。
 ただ、同じことをやっていたのではおもしろくない、マンガの原作はできないだろうかともくろみ、ネットで仲間を募るようになった。『ジャンボ』にもそういうマンガがあったが、まずは絵の描ける人とつながらなければならない。
 漫画家を目指す人々も、また多かった。
 私の原作でネームを切ってもらい、そのデータをプリントアウトして、都心に住む私が持ち込みをかける。もっぱらそういうやり方をとった。とくに地方在住の漫画家の卵にとっては、上京するコストが省けて助かる部分もあったようだ。
 そうして私は、何人かの漫画家と知り合い、いくつかの出版社に持ち込みをつづけているなかで、この編集さんとも知り合った。
 最後にフラッシュバックした記憶は、おそらくそのときのものだ。
「またホラーかよ、バカのひとつ覚えが」
 さんざん腐された記憶が脳裏をよぎる。田中さんは、とにかくたたく人だ。
「いや、あるんですよ、。火災とかいろいろあった雑居ビルで、このあと取材してくる予定なんですけど」
「あ? ああ、そういや言ってたな。ふーん、そうか。いいね、付き合うぜ、ロケハン」
 映研出身らしく、なぜかロケハンと言いたがる。下見でいいのに。
「は? えっと」
「よかったらネタにしてやるよ、次回の『菊と熊』で」
「ああ……キック魔さんの番組ですか」
 私は内心、舌打ちした。またパクられる。
 心霊芸人のキック魔がパーソナリティをつとめる、ローカル局の一時間番組『菊と熊の世界』は、地味に人気があってシーズン2に入った。キック魔は、CXの正社員から芸人になって、いまは個人事務所を回せるまでになった異色の経歴の持ち主だ。
 菊は葬儀、熊は三毛別、菊熊はキック魔を象徴しているらしい。
 五反田に本拠を構える月刊『ヌー』編集長をはじめ、交流のある雑誌やタブロイド紙の記者、好事家のオカルトマニアなどが集まって、地域の心霊スポットを荒らしていく番組。たしか『ジャンボ』からも、持ち回りでホラー担当が派遣されている。
「次回はトンネルのネタでいくんじゃなかったんスか」
「ネタなんて、いくらあっても困りゃしねーよ」
 そうやって私から、苦労して集めたネタだいぶ絞ってくれた。
「いいですけど、こっちもそろそろ世に出してもらえませんかね」
「うるせーな、下積みは大事なんだよ、どこの世界も」
 もちろん理解はしているが、結果が伴わないのはつらい。
 一応そのおかげか、ある程度は提出した作品、企画にも、目は止めてもらえる。
 小説を書いていたころと同じだ。そこそこ選考には残る。が、毎度のことながら、最後かその手前くらいで切られる。
 ボツるのは、しかたない。全部が全部、採用されるなんて世界線はファンタジーだ。それにしても……この人は、上澄みだけは吸っていくのだから始末が悪い。
 そうして私の憎悪は、着実に涵養されていたのだろう……。
 だから私が殺した……殺したのだろうか?
 ──目のまえの死体と向き合い、より慎重に記憶をたどる。
 ここにはもうひとつ、重要なパーツが欠けている気がする。
 私はうろうろと廃墟を歩き回り、本来あるべき記憶の穴を埋める努力をつづける。
 ふと、編集さんの周囲の血溜まりの形に目を止める。……本来もっと早く気づくべきだ。完全に頭がよどんでいる。
 私は床についた血の跡を追いかけ、部屋の奥まった片隅に向かい、足を止めた。
 壊れたロッカーがある。半分の確信と、半分の好奇心を伴って、それを開けた。
「うわ、あ……あ」
 絶叫するという選択肢は、途中で放棄した。
 ここに別の死体があることの事実を、私は最初から半ば予期していたのだ。
 ……伊藤くん。
 私は彼を、そう呼んでいた。

 

「てめえこんなんが売れると思ってんのか? 正気じゃねえな、引きこもりが。クセえ沼みたいな妄想の殻に閉じこもって、二度と世間に出てくんじゃねえよ、こんなつまんねえ話、よく他人の目にさらそうと思い立ったな、クズが」
 漫画家が必死に仕上げてきたマンガを、とことん酷評する編集者。
 昔は、けっこういたらしい。
 マンガは体育会系であり、たたかれて育つのがマンガ家である。それ以外の根性なしには用がない、なりたいやつはいくらだっているんだ、盆暮れ正月のつけ届けを欠かさず、殴られても蹴られても揉み手ですり寄ってこれる漫画家でなきゃ、生き残れないんだよ。
 極端な話、そういう業界だった。
 一部の天才を除けば、マンガで食っていこうなどという正気を失った人間は、正気を失った業界に合わせて自らを改造できなければ、生き残ることはできなかった。
 昭和の話だ。
 もちろん最近はそうでもないし、少女漫画を中心として「蝶よ花よ」とちやほやしなければ、いい作品どころか作品そのものができてこない、という業界もある。
 とはいえ、傍若無人な編集者がいなくなったわけではない。
 自分の低能を作者のせいにするタイプは、自分が上司にゴマをすって出世したという成功体験をもとに、要するに権限を持った自分に追従する書き手を求めている。
 彼の気に入られることが、業界のスタンダードであるという思い込み。
 そういう編集者に当たって、伸びるはずの芽をつぶされた哀れな漫画家の卵を、どうにか助けてやりたい──そんなごりっぱな思いで彼と組んでいるとしたら、私も人格者といっていいかもしれないが。
 残念ながら私自身、実績があるわけではない。たまたまネットで知り合った相手と組んで作品を書いてみましょうという、ちょっとした偶然から結ばれた関係だった。
 たしか別の出版社にも持ち込みたいという話だったが、もう一度、東京の雰囲気を味わいたいという目的もあって、上京した伊藤くんと照英社で待ち合わせた。
 その後、たしか私は彼とふたりで、「人喰いの家」を取材する予定だったのだ。
 そこに、この編集者が割り込んできた。
 三人で連れ立って目的地に着いたのは、午後八時を回ってからだっただろう。
 近所のコンビニで、大量の酒とツマミを買った。
 最初から田中さんは飛ばしていた。ストロングという名のチューハイは、猛毒だと思う。彼の舌鋒は、いつにも増して攻撃的だった。
「だいたいなんだよ、ピ忌中ってよ。そんなふざけたモンスターが出てくるヒーローものとか、雑誌に載っけれるわけねーだろうが」
 伊藤くんのマンガは、たしかにどこかで見たようなキャラとストーリーだったが、私はその変な感性がきらいではない。
「おもしろいじゃないスか、ピ忌中。一・五ボルトくらいの衝撃は受けましたよ」
「ギャグやりてーのかホラーなのか、はっきりしろ」
 田中さんは、がぶがぶとチューハイを呑みながら、伊藤くんをいじった。
 私は視線を転じ、痩せた小柄な青年を慮る。
「きれいな絵、描くよね。伊藤くんの絵、私は好きだけどな」
 静かに飲んでいるのか、いないのか。まだ「編集者」という肩書にビビっているのか……いや、上京は三度目だというから、さすがに慣れてはいるだろう。
「ありがとうございます、小林さん」
 ぺこんと頭を下げる伊藤くん。
「あんな絵、クソみたいなもんだよ。あの程度、描けるやつなんてゴマンといるんだ。伊藤とか小林とか、そういうレベルでうじゃうじゃいるんだよ」
 あんただって田中だろ、ゴマンといるわ、と思ったが黙っておいた。
 ちなみに田中とか小林は、五万どころか百万のオーダーで存在する。ありふれた人波から、一歩でも抜け出るものがなければ、この世界で這いあがるのは難しい。
 伊藤くんは黙って、缶を口に運ぶ。打たれ弱いタイプだ。
 褒めて伸ばす、という方法が最近は主流のはずだが、体育会系のマンガ業界では、まだ古い育成法が幅を利かせている。
 昭和を知る世代で、まだ一介の編集者から抜けられていない時点で、こっちとしてもお察しな部分はあるわけだが、それでも田中さんは権限をもった編集者だ。
 私はここに伊藤くんを連れてきたことを申し訳なく思いながら、近況を報告する彼の話に耳を傾ける。
「新しいペンタブ、買ったんですが、ちょっとPCがパワー不足で」
 小さな声にうなずき、話題を合わせる。
「けど静止画でしょ。動画ならわかるけど、そんなハイパワー必要なの?」
「レイヤー何百も重ねてると、すごく重くなるんですよ。けど、せっかくイラストの仕事もらったんで、やっぱりちゃんとしたの納入したいし」
 割り込む、怒声に近い野卑な声。
「おうおう、イラストレーターさまに出世街道驀進かよ。おまえにはそのくらいがちょうどいいって。毒にも薬にもならないような平べったい絵ェ描いてよ、平べったい人生歩いてんのが分相応ってか。二度と山ァ登る夢とか語るんじゃねえぞ、クソガキ」
 うるせえなこのおっさん、と思ったがここは無視するのが正解だ。
「そうだね、当面はイラストでもなんでも、やっといたほうがいい。一応経験や経歴にもなるし、こっちは仕事になってないし」
 あんたのせいでな、と冷たい視線で顧みると、そこには鬼がいた。
「てめーらがマトモなの描いてくりゃ、こっちだって先生サマサマとおもちあげ申すんだ、低能どもが。ガキの使いじゃねーんだよ、小学校の学芸会で、おじょうずおじょうず言われる程度のマンガ、ボランティアでもあるまいし載せられるかってんだ」
「で、あんたらのお眼鏡にかなって盛大に売り出したところが、半月で大爆死とか、どういう慈善家の芸風っスかね、え?」
「んだと、コラァ!」
 空き缶を床にたたきつける、酒癖の悪いおっさん。
 この夢を喰う業界で、イラストレーターにしろアニメーターにしろ、漫画家にしろ小説家にしろ、生き残る人々には、どこか余人に代えがたい「なにか」がある。そのはずだ。ここで引くわけにはいかない。
 にらみ合う、私と編集さん。
 いたたまれなくなったらしい伊藤くんが、ちょっとトイレ、と言いながらその場を離れていった。

 

この編集者は、たしかにろくでなしなのだが、言っていることが完全にまちがっているというわけでもない。
 たぶんいい仕事ができるのだろう。
「なに、ラノベやりてーの?」
 私が提案した、いくつかの企画に対して彼は言った。
「やりたいことは売れてからやれ、でしょ」
 肩をすくめる私に、
「見透かしてんじゃねーよ。ピカソのつもり?」
 応じる彼の顔は、それほど邪悪でもない。
 個性的な絵で知られるピカソは、「青の時代」からもわかる通り、写実的な絵も描ける。アンリ・ルソーなど例外もあるが、名のある前衛的なアーティストには基本的に「まともな絵」の基礎はある。
 一方、個性的な文体が散見されるラノベ業界は、一発当てれば延々と飯が食える。古典の知識やレトリックを駆使して、伝統的な文壇、いわゆる賞レースに媚びを売る必要はない。
 文学性のカケラもない擬音だけの戦闘描写や、ご都合主義の俺TUEEE展開は、ある意味マンガ的でもある。自由な天才を待望できる反面、空気を読むことに長けたフロックの余地も大きい。
 いずれにしろ、売りやすい。いうまでもない、ラノベはアリだ。マンガとの親和性を考えれば、最初から原作という道のほうがゴールに近い可能性もある。
「本格派や大衆文芸に捨てられたから、ラノベついでに少年『ジャンボ』ってか。いい御身分だね、原作者さんよ」
 新しいことに挑戦しようとする気持ちを、そう表現したいなら否定はしない。
「文壇バーには不向きなんだと思いますよ、正直、学歴も受賞歴もないですから」
 どこの世界もそうかもしれないが、俺の学歴はこう、資格はこう、受賞歴はこうと、クソみたいなマウントの取り合いに終始しているイメージが、文壇には強い。
 それ自体がマーケティングに直結するパターンもあるが、そんな連中に気に入ってもらうよりも、純粋に「おもしろい話」が書きたい。……偉そうに言わせてもらえば。
「口だけなら、なんとでも言えるさ。なにが原作者だ、ただの社会不適応者、犯罪予備軍じゃねえか。絵も描けねえで、おもしろい話をつくってきました、じゃねえんだよ。どこがおもしろいんだ、こんなもん。乱打賞だかホラーショーだか知らないが、二次に残りました、最終までいきましただ? そんなんが自慢になるとでも思ってんのか? 気づいてないのか、そういうフリしてるだけなのか知らねーがな、悪いけど言ってやるよ、小林。てめーに価値はねえ。一番になんなきゃ意味なんかねーんだ。五番や十番とったところで、だれも見向きもしねーよ。十番の意味を教えてやろうか? てめえは無価値ってことだ、さっさと夢に喰われて死んじまえ」
 いよいよブチ切れてもいいかもしれない、と私は思った。
 酒のせいだ、と心を決めて伊藤くんのぶんまで言ってやることにした。
「わかりました、私が無価値でもいいですけど……じゃあ、あんたはなんなんだ? 若手を育てようって気もなく、売れてる作家のケツにへばりついてるクソ虫は、あんただろ。そもそも自分でから、他人があるって言ってる価値を信じるしかできないんだ、あんたは。心配すんな、そういうやつは多い。とある失業者の女が、ものすごく魅力的な魔法使いのキャラを出版社に持ち込んだんだってよ。だがみんなに断られ、その後、その物語はものすごく有名になったわけだが、どういう気分なんだろうな、彼女を追い返した連中は。ええ? ハリーが見えない編集者の目玉ってやつから、まずははりを払ったらどうよ?」
 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除けるがよい。
「てめえはローリングじゃねえだろ! いいか、これは試練なんだよ。困難をくぐり抜けるからこそ、作者も作品もその価値を磨かれるんだ。若手ってのはみんな、たたかれて育つんだよ。かのスティーブ・ジョブズだって言ってる。どんなにすばらしいアイデアをもってきても、最初は貶すんだ。それで次にもってくるアイデアが、もっとすばらしいものになってるからだよ」
「あんたこそジョブズじゃねえだろ!」
 脳内では、酔いに任せた思考がぐるぐると巡っていた。
 否定から生み出されるものがあるか? 聖書の次に売れたベストセラーの出版を拒否した編集者の目ってなんなのよ? 価値なんかわかりもしないのに、否定だけはごりっぱだな。どうせ売れるか売れないかわからないから、最初から市場に任せよう、というのがオンラインの投稿サイトだ。大手もそちらに舵を切りつつある、あんたんとこもだ。
 もちろん批判や意見は大切だし、無価値ではない。しかし、単純否定や拒絶だけ伝えることに意味はあるのか? 自分の仕事を減らす意味はあるだろう、あんたのストレス解消にもな、このクソ編集者が!
 と、どうやら私は、彼と殴り合いを展開していたらしい。
 いつのまに戻ったのか、伊藤くんが私たちのあいだに入って、仲裁役を買って出てくれていた。
 殺伐とした夜は更けていく……。

 

私は胸を押さえ、苦労して、伊藤くんの死体をロッカーから出した。
 彼がどうやって死んだのか、いまさらながら推し量る。
 優しい青年だった、と思う。
 いろんな漫画家さんとつき合ってきたが、いちばん繊細で、なんというかそう……少女漫画の描き手に近いタイプだった。
 細い身体から、死臭が漂っている。こめかみに、昔、尊敬する漫画家の大先生にもらったという記念のGペンが突き刺さっていた。
 それだけでは死にきれなかったのだろう、ガラスの破片で喉元を切り裂いている。首のどこかの神経が切れると、ゾンビとしては動けないルールらしい。
 彼をここまで追い詰めたものは、なんだろう。
 そもそも彼は、どうしてこうなった?
 謎を解かねばならない。どうしてこうなったのか。
 私は部屋の中央、田中さんと伊藤くんの死体を並べ、記憶をたぐり寄せる。
「……だからおまえはよ、小林、理屈とかいいからパッションを前に出せよ。クソおもしろくもない人物ばっか出しやがって……アスペなのか?」
 田中さんの矛先は、私に向いている。伊藤くんが心配そうに見つめている。
 たしかに私自身、感情を読むのが苦手で、人間関係がうまくつくれない傾向はある。
「設定に執拗にこだわる作品だってあるじゃないですか、『甲殻類自衛隊』とか」
 どちらかというとストーリーや世界観をつくりこむタイプの私は、一般のマンガ屋さんにとっては使い方が難しいかもしれない。
 マンガにとって重要なのは、1にキャラ、2にキャラで、とにかくキャラを立てろ、という絶対的な要求がある。3で、印象的なセリフまわし。マンガで表現される文字列は、ほとんどがセリフだ。
 私が得意とする物語や設定の優先順位は、4以降になる。それもキャラに合わせた「エピソード」があればよく、それ以外は極端な話、連載がはじまってから読者の反応に合わせて考えればよい。
 マンガとは、そういう世界だ。
「……だから性欲なんだよ、重要なのは」
 断定する田中さん。創作において重要なもの。バカのひとつ覚えのように、よく聞くフレーズだった。
「性欲性欲いいますけどね、読者どころか書き手もバカにしてるでしょ、あんた」
 私は不貞腐れたように言った。
「バカに合わせるんだからバカなんだろ。ハスミ先生も苦情よこしたぜ。あの原作者、逮捕される前になんとかしろ、だってよ」
 ハスミ。中年の女漫画家で、男の名前で少年漫画を描いている。
 私は苦虫を噛みつぶしたような表情で、軽く舌打ちをする。
 ちょっと見どころのある短編ということで、編集部から原作の候補として紹介された。その後、しばらくして彼女からキャンセルされた。
 あとで聞いたところによると、私という個人に対する不興が理由のようだ。逮捕云々は「物語は女子高生のスカートの中にあるのだ」とかなんとか言いながら、わいせつ行為をしかねないという意味らしい。
 私は憤然として、反対論陣を張る。
「逆でしょ。むしろもっと性欲をかき立てるようなセリフまわしだの展開だの、かなり煽られましたよ、あの先生には。クールなミステリもってったつもりなんですが、かなり長いこと性欲の話ばかり聞かされましたね。しかたなく話を合わせたら、その場は流されて、あとでセクハラだと逆切れですよ。なんなんですか、あの人」
 すると田中さんは、げらげらと下卑た笑いを発して言った。
「あはは、そうだろうな。こじらせた中年女の性欲は厄介だぜ。ま、そこでおまえが手を出さなかったことが、むしろあの先生を逆切れさせたわけだが。その点、おまえを評価はしてるよ。最低限の良識はあってくれないと、採用してから逮捕されたらかなわんからな」
 性欲と良識のバランスを調査するために「使われる」女漫画家。そんな人もいるらしい。
 さっきから飛び交う「性欲」という言葉に、伊藤くんは困ったように首をかしげている。
 リビドー溢れる物語を書かないと、市場には受け入れてもらえない、というのが多くの漫画家や編集者たちから聞いた限りの真実だ。
 そういう意味では、伊藤くんは植物系すぎるかもしれない。
 この女(男)とヤリてえ、と読者に思わせるようなキャラを作らないとダメなんだよ、というのが、すくなくとも漫画界隈では常識になっている。そういう作品ばかりでもないだろうが……。
 ちんこがかゆいぜ、と言いながら田中さんが部屋を出て行く。
 チャックを開けながら歩く、ああいう下品な人のリビドーに訴える作品でないと編集会議は通らない……としたら、私も伊藤くんもその先へ行くことは難しいかもしれない。
 伊藤くんは、ちびちびと水を飲んでいる。顔は首まで赤い。どうやらかなりアルコールに弱いらしい。
「小林さんも、いろいろやってるんですね」
「いや、まあ仕事にはなってないけどね。キャンセルとかボツとか、もう慣れたよ」
「ボツか……わかりますけど、きついですよね。才能ないのかな」
 才能。あるかないかはわからないが、あの編集者にだけは決めつけられたくない。
 単純否定する編集者。心の弱い漫画家。かたくなな原作者。
 ともかく創造的であることが、ものづくりをするのに必要な資格だとは思う。
 そして残念ながら、彼が決めるのだ。もちろん彼だけではないが、週刊少年ジャンボの採否については、彼が一定の権限を持っている。
「あのおっさんはともかく、厳しい会社ではあるかもしれないね。照英社は……生え抜きは大事にするけど、それ以外に対しては鬼だから」
 やや声をひそめて言った。彼もなんとなく察している部分はあるだろう。
「三大出版社では、やっぱり落語社がいちばん行きやすいですよね」
「うちらみたいな落伍者も拾ってくれるからね」
 皮肉っぽく応じる。
 じっさい照英社、中坊館、落語社のマンガ三大出版社では、落語社がいちばん間口が広い印象がある。たとえばわれわれのように、大きな賞には縁遠く、ある程度年齢を重ね、中小の出版社などで仕事をしてきた人間も、それなりに拾ってくれるということだ。
 一方、照英社は、中高生からの青田買いで才能ありそうな若者を囲い込み、徹底的に鍛え上げてモノにしようとする傾向が強い。変に他社の色がついた描き手を雇うより、自前で完成品を出したいわけだ。
 その分、育て上げた作家に対する扱いは極上らしいが……。
「夢なんですよね、少年『ジャンボ』は」
「わかるよ」
 どうしても『ジャンボ』で描きたいという若者は、昔から一定数いた。築き上げられたブランドというものは、やはり強い。『ヨンデー』や『ゲキジン』にも、いい作家やファンはたくさんいるが。
「一応、明日は中坊館にも行こうかとは思ってるんですが」
「照英社よりは優しいけど、落語社よりは厳しい、って感じかな」
 伊藤くんは真剣な表情でうなずく。
 照英社と中坊館は、同じ八つ橋グループで、互いにうまく住み分けている。一方、三ノ輪グループの落語社とは永遠のライバル、といったところか。
「なんの話だ、おい」
 小便から戻った編集さんと入れ替わるように、私は立ち上がる。
 このふたりを残しておくことに一抹の不安は感じたが、パンパンの膀胱に逆らうことはできない。
 私が部屋を出ると、さっそく背後からは田中さんのダミ声。
「……だからおまえはよ、あんな絵で、ほんとに売れると思ってんのかって話だ。絵ェ描けるやつなんて、いくらでもいるんだよ。虫でも考えつきそうな陳腐な話もってきて、絵で個性発揮できんならともかく、てめえのクソみたいなアニメ絵につきあってられるほど、こっちも暇じゃねえんだ。やめちまえって」
 私は悪寒をおぼえながら、廃墟のトイレを目指す。

 

膀胱から人肌に温められた液体を絞り出しながら、私は考えていた。
 やめちまえ、という言葉について。
 他人事ではない。私も伊藤くん同様、たまに聞かされる。さほど才能に恵まれていない人間が、ときおり出会う試練だ。
 おまえには才能がないからやめろ、か。
 なるほど。
 だが、いかなる前世の業なのか、創作をあきらめきれなかった私にとって、もはや書くことは生きることと同義になっている。
 書くのをやめろは、生きるのをやめろ、という意味に等しい。
 さて、ところで私は生きていていいのか?
 もちろん基本的人権のもとに、生きるのは自由だろう。むしろ「死ね」と言われる意味が解らない。
 この「生きる」というのは、要するに、作家を目指すというユメマボロシのようなものを追いかける「生き方」をしていていいのか、という問いだ。
 生き方なのだから、それは好きにすればいい、という突き放した言い方もできよう。
 自分のために、別の道を選んだほうがいい、という助言もまた正しい。編集さんが、そういう親心を発揮してくださっているのかどうかについては、大いに疑義があるが。
 認めよう、というのは、ひとつの良識ではある。
 たとえば将棋のプロ棋士には、二十六歳までに三段リーグを抜けられなければ、基本的になれない。なぜか。彼にはその後の人生があって、二十六歳なら、まだやり直しができるから、という配慮だ。
 夢は見てもいいが、見つづけてはいけない。
 ……では、作家はどうか?
 二十代を必死に努力して、かなわなければ諦めるという選択肢で、作家になった人の話はある。あきらめた人の話を聞くことはあまりないが、なった人の何倍も、いや何十倍もいるだろう。
 伊藤くんは口癖のように「あきらめたら試合終了だよ」と、『ジャンボ』のえらい先生の言葉を引用するが、全員の夢がかなうわけではもちろんない。
 病膏肓に入っているのは、こちらも同断だ。
 いくら賞に送っても、箸にも棒にもかからなければ、あきらめやすい。雑誌にもネットにも、一度も自分の名前が出たことがない。才能ないんだな、と思えるかもしれない。
 しかし私の場合、送れば送っただけ、毎回、名前くらいは出る。努力すれば、いけるのではないか。そう……誤解する。
 これは「希望」という名の「麻薬」だ。
 いやがらせなのか? 人生を棒に振らせるための罠なのではないか?
 もちろんそんな暇な人はいないわけだが、落ち着いて考えれば、いろいろなことがわかってくる。
 主催者が「募集」しているのは、毎回十番をとる人ではなく、一番をとる人だ。
 枯れ木の賑わいを目指して応募するならともかく、夢をかなえるために作品を書いている。その夢は、主催者から必要とされていない。
 そういうことだ。
「やめちまえよ、もう、なにもかもさ」
 生きることさえも。
 ……だから私は、ゾンビになった、のか。

 

絶叫する伊藤くんが、地面に転がっていた割れガラスを手に、田中さんに襲いかかった。
 おそらく、そういうことだ。
 何度も何度も何度も何度も、彼は彼を否定する編集者の身体に鋭い切っ先を突き刺した。
 見回せば、武器になりそうなものが、やたら転がっている廃墟だった。鉄パイプ、釘の飛び出た板切れ、切れ味のよさそうな陶器の破片。
 最初からこの家は、人を喰うための口を開けていた……。
 私は半ば呆然として、目のまえの死体を眺め下ろしていた。
 ざまあ。
 一瞬、そう思ってしまう自分を反省できない時点で、すでに私の心もそうとう汚されていた。
 背後からロッカーの締まる音。なにかを突き刺す音。くぐもった絶叫。静寂。
 私は振り返ることもできず、ただ目のまえの死体を見つめる。
「……あんたの最期の仕事、自分の人生の編集ってやつかな」
 口走ったセリフの意味を、自分でもよく理解していない。
 もちろん彼は答えない。全身からどす黒い血をあふれさせ、二度と口を開けない。
 私は静かに、語りかける。
「編集者ってなんだろうね? 絵や文章を編集する仕事? あんたがやってるのは新人を発掘する仕事だよね? 新人に向き合うってどういうこと? 可能性を見つけ、育てるのが仕事なんじゃないの? つぶすのが仕事なの? だからそうなったんだよ」
 すると突然、田中さんの身体から黒い影のようなものが浮き上がってくるように見えた。それは、どうやら彼の魂で、霊魂になってまで私に言い残したことを伝えようとしているようだった。
 ──たたいても伸びてくるやつが本物なんだよ。ちょっとイジった程度でメソメソして引きこもるやつなんかと、いっしょに仕事はできねえんだよ。
 私は首を振り、悪霊に反論する。
「どうやらあんた、数は数えられるみたいだね。腐して、たたいて、追い返して、それでも戻ってきた回数が既定に達したら、よっこらせ相手をしてやろう、ってか。ねえ、そんな仕事要る? 数が数えられればできる仕事っていいね、田中さん。才能を見る目とか、時代を読むセンスとか、そういうのいらない、指折り数えられればできる簡単なお仕事でうらやましいよ」
 ──ケンカ売ってんのかてめえ! たたいて育ててんだよ、ちゃんと育つやつを見てんだよ、文句あっか!
「あるね! ケンカ売られたように感じるとしたら、そんな相手には売らざるを得ないね! どうぞ買ってくれよ、なあ伊藤くん!」
 一瞬、背後に視線を走らせようとした私の隙を突くように、起き上がってきた田中さんの死体が大口を開き、私の肩口に噛みついた。
 全身を激痛が貫き、絶叫する。
 がぶがぶと食われる自分の肉体。私は地面をのたうちながら、手に触れるものをつかみ、振り回す。
 がごん、ずしゃ、べりゃ。
 いまいましい打撃音と、それでも離れないゾンビの口腔。
 肩口の肉がむしり食われ、激痛にのたうちながら、私の手は伊藤くんが使ったらしい破片を探り当てる。
 横に一閃、恐ろしく切れ味のいいガラスで、ぱっくりと首の半ばまでを切り離された編集者の死体が、どさりとその場に斃れる。
 ゾンビの弱点は脳、あるいは首だ……。

 

私は静かに、目のまえのふたつの死体を見比べる。
 伊藤くんの狂気と恐怖にゆがんだ表情から、彼をここまで追い込んだ元凶について思いを致す。
 ここに連れてきたこと自体が、私の罪。
「ごめんな、伊藤くん」
 自分の血と返り血にまみれた腕を伸ばし、見開かれた伊藤くんの瞼を閉じてやる。
 きみは、弱すぎた。
 秒で折れる心、カフカの檻、這い出した毒虫、歪んだ顔……。
 そう、弱すぎたんだ。私も強い人間ではないけれど、きみは……。
 夢かなわず、新たな道は無明、ゾンビにもなれず、殺しを背負えもしない。
 きみは……こうなったほうが、よかったのかもしれない。
 自分自身、勝手な理屈であると理解しているが、この忌まわしい呪いの家に追い込まれたら、そうとでも考えなければやっていられない。
 このまま生きていたら、それを後悔することのほうが多いかもしれない人生を、自ら終えたのは、彼にとって最適の危機管理だったかもしれない。社会的なアポトーシスは、現にある。
 一歩、死体に歩み寄る。
 新たな道を探さなければならないのは、私も同じだ。むしろより切羽詰まっている。
 血まみれの腕時計に目線を落とす。午前三時。
 タイムリミットは迫っている。おそらく……人外の時間帯という意味では、夜明けまでがギリギリだろう。
 心臓を押す。生き返るんだ。生きて、人間として、ここから出る。
 怨念が渦巻き、瘴気をかき乱す。逃がすものかと。
 獲物を求めている。地底から声がする。こちら側へこい。悪魔が呼んでいる。
「ふざけんな……ゾンビなんて……まっぴらだよ」
 低レベルのやられキャラとして知られる、ゾンビ。
 私は脳を働かせる。人間になるんだという決意をこめて。しかし同時に、強力な食欲も沸き上がってくる。人間である前に、生物であることを思い出す。
 生物? ゾンビは生物なのか?
 目のまえに食事。ぱっくりと開いた腹腔からは、おいしそうな臓物がはみ出している。
 喰いたい喰いたい喰いたい喰いたい……。
 肉を食う、というサティスファクション。脳内に美食家たちが現れて、人肉の代わりになるものを次々と提案する。いや私はベジタリアンだから、ってなんの話だよ……。
 必死に欲望をおさえながら、もとの自分に戻るため、数々の記憶を絞り出していく。いい記憶も、悪い記憶も、栄光も、トラウマも、いまの自分を形成しているすべての記憶を。
 自分の顔面を殴りつける。ちっとも痛みはないが、振動によって脳に血流が促されたかのような感。
 私はふたつの死体を担ぎ上げる。
 どこにそんな力があったのか、機械的に、肉体という臓物袋を担いで目指すのは地下だ。
 見回せば、低レベルなポルターガイストが攻撃を仕掛けてくる。ダメージを負っているようだが、痛みはない。足元には粘着質の物体、おそらくスライムだろう。
 このレベルのモンスターは、敵味方の区別がほとんどつかない。同族以外は敵とでも思っているのかもしれない。まあ同族で殺し合う人間よりはマシか。
 群がる「敵」を殴り返し、踏み潰す。なんとなく倒したような気がする。経験値3くらいをゲットだ。
「……どんなRPGだよ」
 自身を鼓舞して、一歩一歩、足を進める。ぞわぞわと地中から湧き出す、黒い手を蹴散らしながら、進む。
 霊魂と肉体を同時に喰う下級霊、おまえらに、このを与えるわけにはいかない。
 生の肉。よだれが垂れる。
 肉体を叱咤し、食料を運ぶ。
 こいつを使って、やらなきゃならんことがある……。
 生きるために肉を食うことは、正しい。「ヒトを食う」ことも含めてだ。
 生物の多くで「共食い」が行なわれている。代謝過程において、たんぱく質や脂質がどう処理されているかを考えれば、とても合理的な態度だ。
 虫や小動物の一部は、わが子さえも食う。次世代につなげるため、母体が必要とする栄養素の確保など、合理的な理由によって。
 ヒステリックな批判が予期される。が、その感情的なうさんくさい議論によって、共食いが禁止されるのは、脈絡としておかしい。
 喰ってもいい、という議論が脳内で勝利しかける。
 喰いたい、喰うとき、喰えば、喰う……ダメだ、喰うな!
 私は肉塊を担いで進む。
 ……これは、イケニエだ。
 人間が古来、しばしば執り行なってきた儀式。それによれば、生きている人間の目的を達するために、動物あるいは人間を殺して、人間ならざるものに捧げることがある。
 動物は、そんなことをしない。ゾンビだって、たぶんしないだろう。
 おいしいエサを、なぜ他のモノに捧げなければならないのか?
 それはイケニエだから。
 イケニエを捧げる。そんなことができるのは、だ。
 そうだろ?
 ああ、あんたに捧げるよ。
 だから返してくれ……等価交換してくれよ……。

 

ここにはもともと、神社があった。
 夢の実現を謳う神さまの住処で、最近までアニメ制作会社が究極のブラック体制で営業していた。
 夢を喰う世界は、無茶なデスマーチに踊り疲れ、狂ったファンが火をつけて燃えた。
「余裕がねえんだよ、余裕が」
 ガソリンをまいて、何十人も殺した。そして夢のスポットは心霊スポットになった。
 ……という話はどうですか。
 そう提案するつもりだった。
 多少の脚色はあるが、いつくかの事実に支えられてもいる。
 ここは夢を喰う場所だ。私のような人間が、たどり着くべくしてたどり着いた吹き溜まりだ。
 肩にかかる死体の重さも、薄暗い廃墟も、ゾンビに許される限界の現実感を伴ったまま、あくまでもそこに在る。
 これは現実だ。
 私は死体を担いで、イケニエの祭壇を目指す。
「わかるよ。あんたらも喰われたんだよな。夢を」
 見回せば、悪霊たち。壊れた机に向かい、あるいはその場にうずくまり、むさぼるように、なにかを喰っている。
 それは人の魂か、あるいは別のものか。
 ──ブラックな過重労働にさらされ、疲れはてて眠ったまま何人もの犠牲者が焼け死んだ、というのは都市伝説だが(死人は出なかったと聞いている)、長時間労働で搾取され、精神の均衡を失った労働者が放火したことまでは事実のようだ。
 下請けの下請けで、労働量に見合った給与が支払われていたとは思えない。ただ自分たちの仕事が動く絵になる、という夢の実現だけに慰められて──喰われつづけた。
 集まっている悪霊は、いまも夢を抱え込んで生きているスタッフたちの生霊かもしれないし、それらをエサにするだけの無関係な浮遊霊たちかもしれない。
 小さいころから育てていた夢を、だれかに喰われて、ぼろぼろになった大人たちの痕跡。
 その地下に住まうは、ずっと神饌エサを待っている。
 ここにいる全員が、そのカケラだ。
 すべての夢追い人が、釣られたエサを追いかけ、踊らされている。
 小さな賞をとった。大きな賞の選考に残った。才能がないわけではない、だが、あふれているわけでもない。
 あとから出てきて、トントン拍子に階段を登っていく若者もいる。悔しさ、ふがいなさ、嫉妬。必死でチャンスを待ちながら、運命の出会いに賭ける。役に立つ人、足掛かりの賞、作品それ自体に、出会えるとき。
 部活からはじめ、文化祭で評判をとり、小さな仕事をこなし、大きなプロジェクトに食い込む。
 いろんな人が、集まっている。夢を追う人々は、いつも同じ。
 作家になりたい、映画を撮りたい、アニメをつくりたい。
 長い下積みを必要とすることもあれば、パッと飛び出す人もいる。新しい道を探して歩き出す人も、死ぬまでその場に止まったままでいることも。
「喰わせてやるよ、あんたが何者かは知らないが」
 私は地下室の奥へと進む。
 ──われわれは喰われる側だが、喰う側とは対等であると知れ。
 なぜなら捕食とは、相互依存の関係だからだ。
 人間が動物を喰うように、人間も悪魔に喰われている。
 物質として呑み込まれ、精神構造に一体化する。生きるとは、そういうことだ。
 一連の流れは全体性によって考慮され、拡張的に理解されるべき一般概念である。
 これが「生」の本質だ。
 私は地下室の最奥にたどり着き、その床にある戸を跳ね上げた。
 瞬間、凶悪な瘴気が立ち昇る。
 クワセロ、クワセロ、クワセロ……。
 猛烈な陰圧を受けて、私の左右にいた低級霊が泣きながら吸い込まれていった。
 私は片方に抱えていた編集者の遺骸を降ろし、そのぶざまな死に顔を見下ろす。
「書くな? ああ、そう。死ねってか。いいよ。死んだほうが楽だもんな」
 足元の死体を蹴ってみる。楽かい? そうでもないだろ?
 私は地獄の底へつづくような深い穴に向けて、彼のむくろを蹴り落とした。
 咆哮のような絶叫と、咀嚼音。……そうかい、うまいか。もともとあんたらの仲間の肉だ、たっぷり味わってくれよ。
 私はつづいて、痩せた若者の身体を床に置いた。
「伊藤くん……ごめんな、きみには謝るよ。だけど、きみの生き方は危うい。きみは」
 漫画家として、いまの成功の理由はなんだと思いますか?
 そう問われたとき、彼はこう答えるつもりだと言った。
 ──あきらめなかったからです。
 じつに感動的だ、あきらめなければ報われる、目を輝かせて、そう語っていた声が脳裏をよぎる。
 彼は、あきらめないだろう。
 その姿を自分自身に重ねながら、表裏一体であるもう一面について思う。
 市民として、いまの惨状の理由はなんだと思いますか?
 ──あきらめなかったからです。
 同じこと。同じことなのだ。
 これらの事実は、すべて同じひとつの「夢」によってもたらされた成功であり、失敗なのだ。
 ここんとこ直してきてくれるかな、こんどの編集会議にかけるよ、ごめんね次がんばろう。
 唇を噛み締めて悔しがる伊藤くんの姿は、これから増えこそすれ、減らないだろう。あきらめなければ、そうなる。
 聞き飽きただろ? もう、そういうキツい思い、しなくていいんだよ。
 おためごかしに言いながら、私は伊藤くんの身体を深い穴に落とした。
 ぐしゃ、ばり、ぎゃり、めしゃ。
 さっきよりも軽い咀嚼音、死臭と貪食の噯気。
「うまいか? だろうな。私たちが、おまえらが、必死に食わせて太った夢は。引き返せなくなって、取り返しがつかなくて、もう墓場まで持っていくしかなくなった、何十年分の夢を吸って太った悪夢に、どんな名前をつけりゃいい!?」
 叫んだ瞬間、心臓に激痛が走る。
 脈動する怒りに押し出されるように、踵を返す。
 ここではないどこかで、私にはまだ、やることがある……。

 

 

エピローグ

「で、夢オチなんですか、これは」
 小説つばるの稲松さんが、私を見て言った。
 彼から丁寧に失礼なメールを受け取ってから、短いあらすじを送って、なんとなく話を聞こうという流れになったのは、雑談で『ジャンボ』の話が出たからかもしれない。
 ホラー界隈でお世話になってます、『菊と熊の世界』にもネタを提供していますと、すこしだけ話を盛った。
 会ってみると、稲松さんは田中さんとは比較にならないほど、温厚そうな人柄だった。
 すごくいい人なんだろう、ちっとも失礼な感じは受けない。私は問いかける。
「どう思います?」
「うーん、どうですかね。残念ながら、どうかとは思いますよね。夢オチは」
 口調は温厚だが、しっかりと意見は伝えてこられた。
「そうですよね。でも……疑いはじめると、キリがないと思いませんか? それを読んでいるときのあなたも、仕事を終えて帰途についたあなたも、結局は全部、夢の可能性だってあるわけですよね?」
 稲松さんは、いぶかしげな視線を私に向けた。
 ……なにをもって、これが現実であると証明するのか。
 そんなことはできない。
 これが記憶を失って動く死体が見ている最後の夢だろうと、じつは不法侵入の家で転んで頭を打ちベッドで植物状態になっていようと、その状態であることを自分自身が未来永劫、認識できないとしたら。
 哲学的な世界観の映画が選んだ結末と同じオチでも、そこに恐怖をおぼえるかどうか決めるのは、読者それぞれに委ねるべきなのではないか?
「クリストファー・ノーランですか?」
 そのくらい大物になってから言えよ、そういう偉そうなことは。稲松さんはきっと、そう思っているのだろう。
「ああ、いや……すいません。そうですよね、こういうのやって許されるのは、スティーヴン・キングの域に達してからですよね」
「いやあ、わかりづらい作品は、だれが書こうと評価されづらいとは思いますが」
「わかりづらいですか。だったら」
 どう決着をつけるのか……あなたが決めてくださいよ。
 恐怖は体験するのが、いちばん手っ取り早い。
 私はゆっくりと手を伸ばし、別の企画書を取り出した。
 肩口の傷が、ずくん、と痛んだ。
 あなたの雑誌に足りないのは、きっとラブクラフトですよ──。

 

(了)

 

文字数:21524

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