奪文字

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梗 概

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   脱毛サロンで働く28歳の田中美咲は、男女問わず毛を剃って、IPL脱毛の施術を担当している。施術台に横たわる体をいくつも操りながら、ひたすら脱毛処理を行う毎日だった。

 数日前に籍を入れたばかりの夫の鈴木から、「ふくらはぎ」を「二の腕」、「尻」を「太もも」と言っていると指摘される。指摘されて気づくものの、家に帰ってくると言葉が入れ替わってしまうのに注意して話そうとしてもうまく喋ることができない。名義変更したはずの書類が返送されてくる。訂正が必要だと言うことで、指示書を見ながら何時間もかかって書類を直す。「名前をいくつ変えたらいいんだろう」と漏らしたが、鈴木は黙ったままゲームをしている。

 仕事場では、言葉の言い間違いを指摘されることはなかったももの、自分の発言に自信を無くし、過度に注意しすぎて言葉を間違ってしまっているような気になる。休憩中、同僚の山田にそれとなく相談してみるが、考えすぎと言われる。職場でも言葉に注意しているうちに、あることに気がついた。アンケート用紙や顧客のカルテに書かれている漢字が闊歩しだすのだ。やたらと動きだす漢字はニクヅキだ。腋は腹にぶつかって、腹は股に落ちていく。腿は途中で動きを止めて、落ちてきた腹を受け止めた。顧客の体を触って処理していると、身体を触って、その部位を触ったあとは、カルテを見ても文字は踊らなかった。VIOを処理すれば、股は闊歩をやめたのだ。化粧水を高圧噴射すれば、脚も背中も動くのをやめた。少しでも文字をなんとか固定させるために、田中は何人もの顧客を捌いた。

 家に帰ると、鈴木からまた言葉を訂正され続ける。「太もも」は「尻」であり、「ふくらはぎ」は「二の腕」だった。漢字が踊ることについて相談したところ、突然、「毛のない体よりも毛のある体の方がよりいい」と言われる。「見られないところを見てみたい」と。毛のある体を手に入れるべきか判断はつかなかったが、田中は、自己処理をやめてしまう。持ち帰った仕事の書類から、毛の漢字が暴れ出す。同時に鈴木の体毛も暴れ出す。たが鈴木は頓着することなしに、毛の塊となっていく。田中は変わりゆく鈴木に戸惑いつつも共に就寝し、毛むくじゃらの鈴木に覆われて意識を失った。

 通勤電車に乗ると、乗客たちも毛むくじゃらである。スマホに「結婚おめでとう、田中さん」と友人からメッセージがくる。ふと窓に映った自分の顔をみると、毛むくじゃらの自分がいた。仕事で体の至るところに毛を植え付けていく。同僚の山田は、田中の植毛技術の高さを褒め称える。また名義変更の書類が戻ってくる。そこには、何度も書き直されて田中以外には判読できない、鈴木という文字がこびりついていた。

文字数:1118

内容に関するアピール

 SF専門誌以外の依頼ということで、SFを普段読まない人に向けて、いろんなジャンルを知ってもらうきっかけになったら…と、SFジャンルでも一番好きな言語SFを目指しました。

 一方で、主人公と世界観はわかりやすく、ブラック企業で働く女性を設定しました。男と女の役割の対立も踏まえてます。過労による疲労と、自分の名前が奪われる無力さ、それが主人公の言語認識に影響を与えています。これは、作中では言及しませんが、主人公には元々軽度の識字障害があることによってます。

 読みやすいものを描くなら、ディスレクシアの男の子が、宮沢賢治の注文の多い料理店を読んで、文字が暴れ出す話を書こうと思っていました。

 

文字数:294

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冷えたジェルが、脚首に落とされる。ビクッと脚が動く。箆で薄く足の付け根まで伸ばされたジェルが、皮膚の温度を吸い取っていく。皮膚の表面にぶああと鳥肌がたったのを感じた。ヒーター付きの施術台と背中にかけられたブランケットの有り難さが身にしみる。
 「こういう時さ、やっぱり冷たいですよねって声掛けちゃう」
 同僚の山田が言った。どんな顔をしているか見えなかったが、きっとその顔は無表情に違いない。私は、U字型のフェイスクッションに埋めていた顔を、目を閉じたまま頷くように動かした。
 「流石にね、緊張して体が硬いと施術しにくいしね」
 変なお客さんがさと話を続けながら、山田は素早くジェルを塗り終える。個室の左奥にあるIPL脱毛機のスイッチを入れたのだろう、低音の振動音が鳴り出した。簡易的なパーテーションで区切られた4帖の個室は、施術台がほどんどのスペースを独占する。故に、縦33cm×横33cm、高さが100cmと小型の脱毛機を使っている。狭い個室を最大限生かすために、従業員の施術用具は、二段式のカートに詰め込んで個室に持っていく。エントランスと個室を繋ぐ通路との仕切りはカーテンだけで、脱毛機の振動音は、他の個室にも聞こえているはずだ。光脱毛特有の、連射される光が、閉じたまぶたからでも感じ取れる。普段はアイプロテクターをつけてしまうから気づかないが、顔を伏せているとはいえパチパチと消えたりついたりする光が妙に気になってしまう。
 「じゃあ、田中さん、当てていきますよ」
 山田は仕事用のマニュアル通りに声をかけていく。脱毛機からハンドルタイプの照射器を取り出して、脱毛機から伸びるチューブを脇に挟んで邪魔にならないようにし、ハンドルの照射面を足首に当てるのが手順だ。そして、山田はやっぱりマニュアル通り「痛くないですか?」と言った。
 「ねえ、ふざけてるでしょ」
 「従業員の施術でも、しっかりやりたいじゃん?」
 山田は、ハンドルの照射面をゆっくりと足首から足の付け根に向かって滑らしていった。施術を受けはじめた時は、わずかな光の痛みでも敏感に反応していた。輪ゴムを伸ばして当てていくような痛みを感じる人もいるとクチコミで読んで、余計変に感じてしまったのだった。脱毛効果が出てくると光によって破壊された毛乳頭が再生されるまでの毛周期の間隔も長くなってくる。最近では1年に2回施術していればよかった。
 足の裏が終わると、背中から腕へと背面の毛を剃ってからの脱毛に移る。背中から腰まであるエステガウンのボタンが外される。その代わりにとブランケットを脚にかけてもらう。フェイス用のシェーバーで手のどどかないところの皮膚から産毛を削がれている感覚は、妙に気持ちいい。毛と共に皮膚の垢もとられているからなのだろうか。背面が終わると、その流れでやらなきゃいけない部分があった。
 「とりあえず今日はいいんだよね? Oはさ」
 ピクッと、体に力が入って、左脚の付け根が痙攣した。
 「うん、また今度でいいよ」
 山田は丁寧にガウンのボタンを締め直す。ガウンを伸ばしてブラックのサニタリーショーツも覆い隠した。本来なら紐パンツを履いているはずだった。

 実際は、別になんでもなくて、ただ自己処理が面倒だっただけだった。
 仰向けになって、また脚首から上へと順番に処理が進んでいく。顔にかけられたフェイスタオルをすかして、さっきよりも強く連続で照射される光を感じた。脚の付け根まで照射を終えると、股の上を素通りし、そのまま腹の施術に移っていく。エステガウンのボタンを外して顕になった乳輪に、山田は化粧水を含んだコットンをさっと乗せた。化粧水の冷たさが、じわっと皮膚に染み込んでくる。
 「コットンを乗っけるときに、触れちゃったときとか、あってならない? まあそれでも終わった後は拭き取りあるからガッツリ触るんだけど」
 光脱毛は、毛根の黒い部分である毛乳頭を消滅させる方法だ。そのため、黒い毛であればあるほど除毛の効果は高い。けれどその一方で、皮膚の黒いところ、乳輪やほくろと言った黒い皮膚組織は施術することができない。
 ハンドルの照射機で腹から胸にかけての処理が終わると、ハンドタオルでしっかりと腹から胸のジェルを拭き取った。ぶるんと余分な贅肉が揺れ動いた。力をこめて拭き取らないと、ジェルは体の温度を奪い続けばかりだ。こういう時、躊躇してしまってはだめだ。迷いがない処理をされると、施術されている側も身構えなくて済むのだ。何も考えずに施術台の上に横たわっていれば、流れていくように気づいたら終わっているのだから。ただ、人の体に無心に向き合っていると、なんだか妙な気分になってくるのだ。私も山田に施術されているときは、こんな珍奇な格好をしているのかとお客の施術をしている時に考えてしまう。
 顔の見えない裸体が目の前に無防備に横たわる。施術をする側は、その体の持ち主でさえも直視では見ることのできない部分を見ることができる。背面から股、後ろ脚は特にそうだ。脚を広げてくださいと言えば、脚は施術台いっぱいに広がる。後ろ脚の処理を終えたら、尻から肛門、大陰唇、小陰唇の処理を行う。自分の体の部分であっても、うまく扱うことのできない最たるものだ。処理をしにくいのか、それとも触りたくないのか、自己処理を綺麗に済ませてあるものを見るのは滅多にない。基本的に脱毛サロンでは、処理の手伝いは背面だけだ。例外は自己処理に慣れていない新規の場合だけだ。自己処理ができていない体で施術した場合、脱毛効果が低く、だだ肌にダメージを与えるだけになってしまう。
 背面の自己処理は、客が持ち込んできたフェイスシェーバーで丁寧に毛を剃っていく。産毛の色の濃さは、一本だけではわからない。けれど、フェイスシェーバーで剃り上げて産毛が集まると茶色だったことがわかる。フェイスシェーバーに乗り切らなくなった毛の塊が、ころりと背中に落ちると、まるで毛虫のようだ。全く重さがないから、毛を剃ろうと腕を動かすわずかな空気の動きで、ころりころりと背中を蠢くのだ。
 黒々とした背毛を剃ると、フェイスシェーバーの刃が当たった時にぴょんと跳ねるようにして背中に転がる。振動する刃にパチパチパチと毛幹にあたって音がする。産毛の頼りない様子と違って、この場合の背毛は必死な様子に見えた。必死に生きようと足掻いている諦めの悪い虫のようにも見えた。
 「お疲れ様です」
  一日の施術を終えて、エントランスを挟んで反対側にある従業員用の控室に下がった。まだ書き終わっていなかった顧客の施術カルテを埋めた。従業員の控室と言っても、ただの更衣室で、椅子もなければ机もない。自分のロッカーに寄りかかって、カルテの下敷きを傾けて記入する。部位ごとの施術前と施術後の皮膚の様子や顧客の反応、今後別の従業員がやった時の注意点を簡単に記しておく必要があった。
 「今日は何人捌いた?」山田は、控室に入ってくるなり、まとめ髪を解きながらカルテに書き込んだ内容を盗み見た。顔に迫ってきた山田の髪から、ツンとした整髪剤の香りがした。むくんだ奥二重が二重になって、アイラインがまつげの隙間を埋めないで適当に引いてあるのがよく見えた。背中の項目を書いている途中だったからか、その項目をマジマジと読まれてしまった。さっとカルテを内側に傾けて隠したが、すでに遅かった。
 「背毛が太く、毛穴に赤みあり注意って、この人そんなに剛毛なの?」
 「フェイスシェーバーと張り合おうとするくらいにはね、今日はフルで三人だったよ」
 隣のロッカーを開けて、すぐに山田は制服を脱いで下着だけになる。白くて柔らかそうな肌があわらになる。ヒーターも何もない控室は寒いので、とにかく早く着替えたい。カットソーとセーターを着る。弾力のあるふととももを、スキニーのズボンで覆い隠して、落ち着いたように、山田はふっと息を吐いた。
 「全身で三人か。私はキャンセルが二人もいていやんなっちゃった。結局先輩のヘルプだけだし」 
 山田は、私と同じように、ロッカーに寄りかかる。二人分の体重がかかったロッカーから鈍い音がした。
 「今日は、脱毛してかないの? この前私のやってもらったばっかりだし」
 「この前のは、私のスキル向上に付き合ってもらっただけだし気にしなくていいよ。なんか疲れちゃったし、また今度お願い」そう言い捨てて山田は、お先にと語尾をやたらに伸ばして、控室から去っていった。
 また控室に私だけになる。同期の山田がなかなか顧客から指名予約をもらえなくて微妙に焦っているのは知っていたけれど、こういうとき、やってあげられるのは施術のしあいっこに付き合ってあげることぐらいしか思いつかない。脱毛サロンでは新人研修中に新入社員同士で施術し合う。山田とは、実店舗に移る前の本社研修からの付き合いだ。初めて他人の裸を施術するときは、お互いに緊張してしまっていた。肛門から奥の部位についてのカルテを埋めている時に、そういえば最近は、誰かの施術に付き合ってばっかりで、自分で同僚や先輩の施術をやっていないことに気がついた。

 
 スーパーに寄って、一房99円の白菜を買ったはいいものの、お弁当と菓子パンを入れたエコバックに収まり切らず、カゴを仕分けていたおばちゃんに5円払ってレジ袋をもらう。『鈴木』と表札のついたアパートの郵便受けには大量のチラシと三つの封筒が入っていた。
 「おかえり」ドアを開けると、玄関に翔が立って待っていた。ワックスで固めた髪に灰色のスウェットを着ていた。白菜の入ったレジ袋とエコバックを受け取ってくれる。
 「ただいま、なんか変なのその格好」
 「仕事が終わったら早く着替えたいじゃん」
 1L DKのこの部屋に引っ越して来てから数日しか経っていなかった。部屋の匂いに慣れていないのか、帰ってくるたびに違和感がする。働き出してからずっと一人暮らしをしていたから、誰かと暮らしてるという現実に未だ体がついていってないのだ。キッチンの正面にある二人用のテーブルに封筒を置いて、チラシはゴミ箱に捨てた。一つはマイナンバーカードと、スマホと銀行の書類で、全て私宛だった。封筒の宛名の「鈴木美咲」の名前をまじまじとみてしまう。
 「今日も遅かったね」翔は、エコバックからお弁当を取り出して、レンジで温めていた。19時過ぎてのスーパーのお弁当は大半が値引きされていて、今日の買ってきたお弁当は、一番安かった苔弁当とさば弁当だった。
 「全身の予約が多かったから」封筒の右端を切り、封筒から書類を取り出す。どの書類も、名義変更の書類に不備があるので、改めて同封した新しい用紙に提出するようにという旨の内容だった。
 翔が、レンジから温め直したお弁当を取り出して、ラップとプラスチックの蓋を取って、テーブルに並べた。蓋についた水蒸気の粒が、テーブルにたれる。だいふきんでテーブルの水滴を拭き取ると、椅子に座った。
 「今日はさばにするわ」
 テーブルに並べたお弁当を徐に自分側に引き寄せると、翔はすぐに食べはじめた。大盛りの白米にの上にのったさばを、箸でほぐして混ぜ合わせ、口の中へと放り込んだ。さばの脂が白米について光っている。咀嚼している最中に、口から器用に骨を容器の端に吐き出した。何年付き合ってみてもわからないということはあるものだ。初めてお弁当を買ってきて夕飯に食べた時も、そういえば同じお弁当だった。
 書類をテーブルの端に置いて、向かい合わせの椅子に座り、海苔弁当を引き寄せる。翔の咀嚼音が、部屋にやけに響いているように感じる。
 「今日はね、背毛が剛毛の人がいてさ、その処理が特に大変だったんだよね、シェーバーで剃っていくとパチパチ弾いちゃうの、あと続けてふくらはぎを剃ったんだけど、そこもかなり濃くってびっくりちゃった」
 この海苔みたいに黒いの、と箸でちくわを割く。割いたちくわを持ち上げると、海苔がべっとりと貼り付いて持ち上がってしまう。そのまま口へと頬張った。
 「でね、背中から太ももにかけて、VIOを施術するんだけどさ」
 「また言い間違えてない? こないだも言った気がするんだけど」
  箸を一度止めて、翔が眉を顰めた。食べようとして箸で持ち上げた魚のフライが空で止まる。その顔を見て思い出した。一昨日も、確か同じ事を言われたっけ。
 「えっと、そうかVI Oの施術なんだから、背中かから尻にかけてか。あれ、私なんて言ってたっけ?」
 「太もも」
 そう言って翔はまた止めていた箸を動かす。皿の端にあるさばのカスを丁寧に取って、残さず食べる。
 「ふくらはぎも、違くない? 背中からの施術なんだから二の腕じゃないの」
 食べるのを終えて、じっとこちらをまっすぐ見つめる翔の目線が冷たい。注意をそらそうと魚のフライを口へと運んで食べたけれど、翔の目線が気になってしまって味がわからない。翔の言葉に返す内容が思いつかなくて、何度もフライを噛み続けた。
 ごくん、とのみこんでしまった時もまだ思いつかなかった。
 「…全然気が付かなかった」
 「仕事の時も間違ってんじゃないの?」
 「そ、そうかな」
 ぎい、と音を立てて椅子を引いて立った翔は、お弁当の容器を潰して捨てて、リビングのTVをつけた。コントローラーを持って、向かい側のソファに座る。ふうと息をついて、
 「環境が変わって疲れてるかもしれないけど、気をつけなよ」
 うん、と小さな声で返事をする。翔の目線がゲームへと移って、私はすぐに残りのお弁当の具を食べ切った。なんで言葉を言い間違えてしまうのか、そんなことを聞かれても答えられなかったし、そもそも私自身もよくわからないのだ。テーブルの端に置いた書類をもう一度手に取る。はじめに提出した書類で間違えて記入してしまった箇所を一度確認してから、新しい書類を書きはじめた。籍を入れてからずっと書類の提出に追われている。免許証の名義変更が終わったと思ったら、今度は銀行のキャッシュカード、スマホの名義変更が必要だった。クレジットカードの名義変更は、こないだやっと通ったばかりだ。「SUZUKI 」と加工されたカードは、新しくツヤツヤとしていた。財布から「TANAKA」のカードを取り出して比較すると、財布と擦れて細かい傷がついてツヤが消えてしまった表面がやけに目立って見えた。書類には、古いカードはハサミで切って捨てることと書いてあった。カードをハサミで切る時、パキパキと音がした。思っていたよりも力がいるなとぐっと手に力を込めてカードの端を切った。ICチップの部分を細かく切る。さらに「TANAKA」の真ん中にハサミを切り落とす「TA N」、「AKA」と分けられてしまったカードの切れ端は、もう意味をなしていなかった。
 「何回名前変えたらいいんだろうね」
 書類の訂正を終えて、リビングにいる翔に目をやったけれど、翔は何も言わずゲームの敵を倒し続けていた。

 

 翌日、仕事場でも変に言葉を使ってないかと思って気にしてみたものの、誰かが指摘することもなかれば自分で気づくこともなかった。そもそも翔が気づいて自分では気づけないことが、仕事の時なら気づけるわけもなかったのだ。翔から、これで録音してみたらと渡されたボイスレコーダーを持ってきてはいたが、流石に仕事場で使うのは気が引けた。
 「変な言葉遣いしてないと思うけどねえ、気にしたこともなかったわ」
 予約客の少ない午前中の受付業務で、山田はあくびを堪えながらスマホをいじっていた。取り止めない話の中で、「新婚生活はどう? 」と聞かれたついでに相談してみた。
 「脱毛しすぎてるとさ、こう部位とか対してそんなに気にしなくない? この前もさ、美咲言ってたじゃん、どうせ無表情で言ってるんだって。でも実際そうじゃん? いちいち考えてられないよ、腟だとか肛だとか」
 「部位に対して鈍感になってるってこと?」
 「そう、カルテなんて私は適当に書いちゃう」山田は、デスクにおいてあった次の予約客のカルテを私の前へと滑らした。カルテの項目は部位ごとに分かれているけれど、どの項目も言葉が少なかった。『処理完了、赤みなど異常なし』
 「でも、美咲はびっちり書くよね、この前の背毛の項目とかさ、もしかすると部位を気にしすぎ てわけわからなくなってるのかもよ」
  気にしすぎないのが一番じゃないと山田は、私の肩を叩いた。「いらっしゃいませ!」と先ほどとは声色が高くなった山田の声に、驚いて受付前を見る。話に集中しすぎて、受付前にあるエレベーターから客が来店していたことに全く気づいていなかった。山田の担当の予約客であった。山田は、私と話していた時よりも倍に広角を上げて、緩やかな動きで客を施術室へと案内していった。
 次の私の担当の予約客が来るまで、30分ほど時間があった。その間に、私はカルテとアンケート用紙の整理をする。カルテは施術後すぐに記入してしまうのが一番いい。けれど、一日に多くの施術を担当した時は、その日にうちに書くことができないこともままある。こないだ中途半端に埋めたカルテを、記憶を思い出しながら項目を読み直す。背毛は特に濃かったが、さらに腋も剛毛だった。ひどい腋臭持ちで、思わず息を止めて施術してしまった。毛穴を埋めてしまうので、施術前にやってはいけないはずの制汗剤の香りもした。聞いてみたものの客はやってないと答えていたっけ。
『強い月夜臭で、妙にツンとした匂いがする。制汗剤使用も残り香から判断できた。顧客は使用を否定した。肌の保護のため、最低限の光力にて施術した。特に赤みや痛みなどの報告はなし』
『右月匈の乳輪周りに未処理の部位あり。鎖骨からに月复かけての産毛は丁寧に自己処理を済ませていた。月齊の周りに濃いシミがあるため、コットンを使用し、肌を保護した』
『恥丘に小さな赤みが10カ所程度見られた。数時間前に処理したばかりだと思われる。阴裂内部に数カ所未処理部分あり。大阴唇の脱毛は完璧だった』
 確かに、山田の言う通りかもしれなかった。マニュアルでもここまで細かく書くように言われていなかったはずだ。
いつからこんなに細かく書くようになったのか、ここ最近の顧客カルテも見返してみる。
 『処理済み。VIO未処理のため、今回分をキャンセル消化した』 と手短に書かれていたの、数日前のカルテであった。その日以降のカルテは、項目のスペースをなんとか埋めようとしているかのようだ。書いてあることは別にたいしたことではないのだ。
 書き終わっていなかったカルテの残りの項目を、山田のように適当に書いてみる。予約客がくるまで後10分。太腿の項目は余裕で書き終わった。
 『太腹腿、内腿に未処理あり。初来店のため特別に処理した』
 書き終わって見直すと、そこに腹の字が書き込まれている。もう一度消しゴムで消して、書き直す。他の項目も見直してみると漢字を書き間違えていた。 漢字を書く度に、いちいちスマホで検索してから漢字が間違っていないか確認してから書き写した。消しゴムで何度もこすった部分が薄汚れて今にも破けてしまいそうだった。昨日書き直した書類の事を思い出す。書類は今日投函してしまったけれど、ちゃんと訂正できていただろうか? それと同時に翔に言われた言葉も思い出してしまう。まぶたの筋肉が痙攣し出して、思わずギュッと目をつぶった。
 仕切り直して、もう一度、カルテを見直した。
『強い臭で、妙にツンとした匂いがする。制汗剤使用も残り腋香から判断できた。顧客は使用を否定した。肌の保護のため、最低限の光力にて施術した。特に赤みや痛みなどの報告はなし』
『右腋の乳輪周りに未処理の部位あり。鎖骨からに胸かけての産毛は丁寧に自己処理を済ませていた。月 齊の周りに濃いシミがあるため、コットンを使用し、肌を保護した』
『恥丘に小さな赤みが10カ所程度見られた。数時間前に処理したばかりだと思われる。月复裂内部に数カ所未処理部分あり。大腿唇の脱毛は完璧だった』
『太阴、内阴に未処理あり。初来店のため特別に処理した』
 何度書き直しただろうか。「あのう、すいません」という声ではっとした。目の前に怪訝な顔をした客がいた。
 「いっいらっしゃいませ、すいません、お待たせいたしました」 時計を見ると予約時間からすでに15分は過ぎていた。予約時間の五分前にはついていたという客の言葉を信じるなら、20分は待たせてしまっていたことになる。汗ばんできた手を一度、制服の端で拭いてから、客から会員証を受け取った。予約客が施術台にうつ伏せになって、カートからジェルを取り出すときに、焦るあまりにカルテまで施術室に持ち込んでいたことに気づいた。施術中にカルテは必要なかった。文字が視界に少しでも入りさえすれば、見ないではいられない。マニュアルを意識しながら体を動かし、施術をしていたら、やっと落ち着くことができた。脹脛、膝、太腿、股へと登っていく。ジェルを引き取る際に、カートからタオルを取り出す際に、カルテを見てしまう。
 『太腿、内腿に未処理あり。初来店のため特別に処理した』 
 他の項目は、さっきと同じままなのに対して、腿の項目だけが正しく書かれていた。
 次の施術場所は、VIOだ。ちらりとカルテを見てから、施術の方へ意識を集中する。肛門の毛をフェイスシェーバーで剃り、小型ハンドルの照射機で、光を当てていく。Iラインの部分に達した時、はやる気持ちを抑えて、紐パンツの部分を使って、大阴唇のたるみを伸ばしてハンドルを当てやすくする。恥丘まで処理を終え、ジェルを拭くタイミングで、再びカルテを見た。
 『恥丘に小さな赤みが10カ所程度見られた。数時間前に処理したばかりだと思われる。阴裂内部に数カ所未処理部分あり。大阴唇の脱毛は完璧だった』
 予想があたっていた。施術をすると、移動してしまった文字が正しい位置に戻ってくるのだ。あっちにいったりこっちにいったりとまるで生きているかのように動き回っているように思えた文字が、やっと定位置に収まったのだ。
 全ての施術を終えた後も、カルテの事が気になってしまう。控え室で、さっそく新しいカルテに、先ほど施術した客の状態を記入してみる。息を吐いてからカルテを見ると、文字は別々の項目へと飛び回っていた。
 控え室に貼ってある担当表を確認してから、上司に残業を申し出た。それから閉店まで、できるかぎりの施術のヘルプに入った。ポケットに忍ばせたカルテを盗み見しながら。
 
 

 お弁当を買って家に帰ると、郵便受けにまた名義変更の書類が来ていた。翔はまた、玄関で出迎えてくれる。
 「ボイスレコーダー使ってみた?」 ボイスレコーダーはバックに入れたまま出してもいなかった。忙しくて余裕がなくてと言ってごまかす。嘘はついていなかったけれど、翔の顔を見ることができなかった。
 「あっそ、スイッチいれるだけでしょ、次はやってみな」
 「でも、同僚からはそんなことはないって言ってたよ。脹脛を二の腕とか部位で間違えて言ってることはないって」
 レンジのボタンを押して、翔の方を振り向いた。翔はまた眉を寄せていた。
 「何言ってんの? 俺が言ったのは脹脛が二の腕だって」
 その言葉を聞いたとき、カルテを何度も見直したときと同じように、まぶたが痙攣し始めた。
私の言葉に翔はため息をついて、椅子に座り、付けっぱなしのテレビに視線を移した。私は、名義変更の書類を一度バックにしまい、持ち帰って来た一枚のカルテが入ったファイルを取り出す。何度もこすってしまい、結局破れてしまったカルテを捨てることが出来なかったのだ。時間のあるときはいつでもカルテを見てないと落ち着かなくなっていた。カルテの文字は仕事場で見たときのままで、正しい位置に存在していた。
 「ねえ、文字が動いていることってある?」
 「毛のある体より毛のある体の方がいいだろう」
 突然、翔はそう返事をした。いったいどういう言葉のつながりがあるのか分からなかったが、もしかしたらまた思っていることと違うことを言ってしまったかと思って聞くのを止めた。カルテをテーブルの端において温めたお弁当をいっしょに食べ始める。翔は続けて、「見られないところを見てみたいんだよね」と言った。そういうものなのかと思って、今度自己処理を止めてみることにした。
 海苔弁当を食べていると、視界の端で何かが動いているのに気がついた。カルテから太い毛が翔の方へと伸びていくのだ。その太い毛は、カルテの『剛毛』の字から伸びていた。カルテの毛が、翔の毛髪に絡みつく。けれど翔は気にする様子を見せずに、さば弁当を混ぜあわせている。しだいに毛のカタマリになって、最終的にさば弁当を放り込む穴しか残らなかった翔は、以前今までの調子で話し続けていた。翔はずっと毛むくじゃらのままで、毛むくじゃらの翔といっしょに眠りについた。
 
 翌朝、隣に眠っていた翔は元に戻ってはいなかった。通勤途中で、黒いカタマリに何度がすれ違ったが、どうやら出会う人たち皆が毛むくじゃらのようだった。通勤電車の乗客も毛むくじゃらであった。電車の外をふと見やると、窓に映った毛むくじゃらが映っていた。それが私であると気づくのに、だいぶ時間がかかった。毛むくじゃらの手でスマホを取り出すと「田中さん結婚おめでとう」とメッセージが来ていた。
 思い出して、バックから昨日の名義変更の書類を引っぱりだす。書類には、何度も書き直されて田中以外には判読できない、鈴木という文字がこびりついていた。

 

文字数:10378

課題提出者一覧