縫い繋がれる、ただひとつ、宇宙

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縫い繋がれる、ただひとつ、宇宙

 
 寒いのが苦手なの、と彼女はことあるごとに言った。それが夏だったとしても、例えば冷房がよく効いた室内だったり、すっかり日が沈んだ夜の底に風が吹き込んだりすると、彼女は身を縮こませた。
「たったひとり、心と身体が寒いとき。そのときはぎゅっとさせて。わたしのわずかな熱を、あなたに」
 彼女はぼくに言う。
「あるいは、あなたのぬくもりを――」
 
 
 
 
Textile Side A
 
 物語は、あらゆる可能性が重なり合って含まれる。
 
 
PATCH_01
 ぼくはアライグマのキャラクターのぬいぐるみ。名前はぽんた。
 たぬきを思わせる名前なのは、彼女がぼくをたぬきと勘違いしたからだ。仲間には、ガチョウ、と名付けられたペリカンのぬいぐるみだっていた。ガチョウは気づけば姿を消していた。よくあることだ。
 名は自分で選べない。初めは自分の名前に不満がないわけではなかったけれど、今はとても気に入っている。名前をつけてもらえることは特別だ。ただかわいいだけでは、名はもらえない。ぼくは彼女、真帆の特別だった。ぼくはぽんたになった。
 夜になると真帆はぼくとベッドに入って眠り、一緒に朝を迎えた。
「ぽんちゃん、おままごとやろっ」
 真帆はみるみる成長し、視線の高さが合わなくなっていった。
「ぽんちゃん、今勉強中なの」
 ある日、真帆は家を出て、全寮制の学校に進学することになった。
「行ってくるね。ぽんちゃん」
 ぼくは連れて行ってもらえなかった。かわりに、ぼくより二回り小さいアライグマのぬいぐるみを彼女は連れて行った。真帆がいつか帰ってくるのを、長い時間彼女の部屋で、ただじっと待っていた。
「ただいま。良い子にしてた?」
 時が経ち、真帆は高校、大学を卒業して帰ってきた。社会人になって一人暮らしを始める際、今度はぼくも連れて行ってくれた。ぼくは再び真帆と暮らし出した。やがて真帆に恋人ができて、同棲することになった。恋人の名前はがく。岳はよく、ぼくの頭をそっと撫でた。
 すっかり大人の女性になった真帆は、ぼくを持ち上げ同じ目線で会話し、時々拭いて綺麗にしてくれた。その頃には、ぼくは幾分老いが目立った。毛はパサつき、絡まり、ダマになっていた。体内の綿わたが潰れて、身体の形が歪んでいた。自慢の縞々の尻尾は縫い目の一部が裂けて穴が開き、中の綿が覗いていた。
 ある日、真帆はぼくをぬいぐるみの病院に入院させることにした。決して安価ではないはずだが、ぼくが長く生きることを望んでくれた。ぼくには夢があった。ひとつはアンティークなぬいぐるみになることだ。もうひとつは、真帆と一緒に棺に入ること。どちらも叶うかは、わからない。ぼくが彼女に語っていた夢を、彼女もよく理解してくれていた。ぼくは真帆ともっと長い時間を過ごしたい。病院には数カ月入院することになる。中の綿をすべて抜き出し、新しい綿と入れ替える。
 病院へ発送する直前で、彼女は不安がっていた。中身をすっかり入れ替え、毛を手入れし、歪みを矯正されたぼくは、果たして以前のぼくと同じと言えるのだろうか。ぼくはどこまでぼくなのか。中身をすべて入れ替えたとき、それは本当に「ぽんた」なのだろうか。
 ぼくにもわからなかった。真帆がぼくを見て、ぽんた、と呼ぶかどうか。それだけが、少し怖かった。彼女の関心を失えば、ぽんたという名は永遠に失われ、キャンペーン用に大量生産されたぬいぐるみの、ただの一体になる。否、戻ることもできない。
 ぼくはだれ? ぼくはぽんた。真帆にそう言った。ぼくが変わってしまっても、ぼくをぼくとして認識してもらうために。そうすれば、たちまちぼくはぼくになる。たとえ一度記憶を失い、忘れてしまっても、きっとすぐに思い出すことができるから。
 真帆は、柔らかい布でぼくを包み、心苦しそうに透明のポリ袋へ入れた上で、箱の中に寝かせた。痛くないよう、ぼくの周囲に緩衝材を敷き詰めてくれた。箱が閉じられた。
「寂しい。もし何かあったら」真帆は呟く。
「君が不安にすると、ぽんたも心配しちゃう」岳は言う。
「乱暴とか、されない?」
「大丈夫、大丈夫だよ」
「ぽんちゃん、いってらっしゃい、だね」
「コンビニで発送だから、帰りにアイス買おうか」
「抹茶のアイスがいい。ねえ、雨降ってないよね?」
 暗い箱の中、ぼくは二人の会話に耳を澄ました。ぼくは真帆と初めて出会ったときを思い出した。幼い真帆は、お婆さんの家で棒アイスを舐めていた。彼女のお婆さんが、彼女にぼくをプレゼントしたのだ。彼女はアイスを舐めながら、不思議そうにぼくを眺めていた。きっと、ぼくが何のキャラクターなのか知らなかったのだろう。アイスを舐め終え、彼女はぼくを触った。ぼくの両腕の脇の下を、小さな手が持ち上げた。
「ぽんた、ぽんただ! ふわふわ」
 満面の笑みで、彼女はそう言った。
 
 ぼくはぽんた。
 
 
PATCH_02
 この日、ぼくはひとつ、夢を失うことになる。
 
 
PATCH_03
 真帆と岳が同棲し始めた頃のことだ。朝、ぼくは真帆のベッドの上から降ろされた。掃除やシーツを取り替えるとき、いつもはすぐに元の場所に戻されるのに、その日は床にそのまま放置された。
 大きな、磨りガラスのように不透明なポリ袋が、がさり、とぼくのそばで音を立てた。もしもそれが、ぼくを入れて捨てるための袋だとしたら。真帆は何も言わないし、岳はぼくを見ようとしない。二人は小さな声で話をしていた。けれど、何も起きなかった。袋は日常のゴミを捨てるために使われ、ぼくは再びベッドの上に置かれた。窓から射す陽光を浴びて、やっと晴れやかな心地になった。ぼくはポリ袋を嫌い、窓が好きになった。
 
 
PATCH_04
「ぽんちゃん、良い子にしてるみたい」
 ぽんたを発送してから三週間後、真帆のもとに「近江ぬいぐるみ病院」からメールが届いた。添付された、身体測定をするぽんたの写真を見て、真帆は表情をほころばせる。
 真帆は入院先を検討した際、近江ぬいぐるみ病院の技術力が業界随一であることに注目した。他社と比べ、いささか高額ではあったが、ここに決めた。少しでも長く、ぽんたとこの先過ごせるように。
 メールには、ぽんたが無事入院し、各種検査を開始したことが簡潔に記された上で、先進医療についての提案があった。先進医療? と真帆は怪訝に思いながら、続きを読む。
「NUIが開発した新技術、知性の織物〈WeaveCore〉のぽんた様への実装をご提案します。精密検査の結果、ぽんた様の繊維状態なら――」
 特殊な解析装置により、古い繊維の一本一本から、記憶の痕跡を読み取るという。それを新しい綿に書き込み、古い綿と入れ替える。ぬいぐるみの中にコンピューターを埋め込むのとは違い、分散知性として編み込まれ、綿となってぬいぐるみ全体を充足させる。触覚、温度、音声を検知し、演算し、記憶する、らしい。
 NUIヌイ――Networked Ubiquitous Intelligenceとは、スマートテキスタイル技術の開発や実用化を進める新進気鋭の企業のようだ。近江ぬいぐるみ病院はそこと提携しており、新技術によるプランを提案してきた、というわけだ。
「単に普通の新しい綿に入れ替えるのではなく、今までの記憶を書き込んだ特殊な綿に入れ替える、ということ? 今の綿から記憶を蒸留して、新しい綿に染み込ませる、みたいな」
 真帆からWeaveCoreの話を聞いた岳は、目を瞬かせながら言った。休日の昼過ぎ、二人はリビングのソファに横並びで座っていた。
「そうなの。というか、ちょっと寒いね」
「すごいけど、すごさがわかりづらい技術だ。哲学的、ないし文学的?」
「うん? あ、暖房つけるね」
「普通さ、例えば、最新技術のこの繊維なら一生型崩れしません、とか、何度も洗濯機で洗って乾燥しても劣化しません、とかなら、わかりやすいんだけど」
「SF作家的な観点で、どう感じた?」
「よし。コーヒー淹れようか」
 岳はキッチンへ行き、お湯を沸かし、豆やミル、ドリッパーやサーバーを抱えて戻ってくる。
「僕は、ぽんたの記憶が途切れず続くことは、ぽんたであることに寄与すると思う。固有の記憶が自己を定義する、というか。彼が治療を終えて目を覚ましたとき、これまでの記憶が今に連続していれば、自分はぽんただって認識できるんじゃないかな」
 真帆は豆をミルに入れる。ハンドルを回すと香りが広がる。
「お別れの前、ぽんちゃん不安そうだった、とても。中身の綿を入れ替えて、色んなこと忘れちゃうんじゃないかって。そうなったら、わたしに見捨てられるかもって」
 真帆が挽いた粉の山に、岳がお湯を注ぐ。抽出された液体が滴る。ぽとと、とガラスのサーバー内で反響する。
「目が覚めたとき、これまでのことを覚えていたら、わたしも安心すると思う。ぽんちゃんの中で、わたしとの思い出が生き続ける。それはとても嬉しい」
 岳の白い手が、真帆の前に茜色のマグカップを置いた。
「先進医療については他にもオプションを追加できるみたい。値は張るけど。WeaveCoreの実装との組み合わせで、音声による応答生成と出力機能、駆動装置の実装も可能」
「要するに、動いて喋る、お役立ちぽんたの誕生だ」
「こっちは却下ですね」
「どうして?」
「ぽんちゃんはね、ぬいぐるみなの。ロボットじゃない」
「ぬいぐるみであって、ロボットではない」岳はその言葉を、手で触れ確かめるみたいに呟く。
「これはとても大切なことだけど、ぽんちゃんとは初めから、お喋りできていたから」
「ううん、そういうものか」
 岳は首を横に振って、藍色のマグカップに口をつけた。鈴を鳴らしたみたいに真帆は笑った。
 
 
PATCH_05
 目を覚ますと、ぼくは見知らぬ小さなベッドに横になっていた。短い手足に、大きな白いお腹。コッペパンみたいな形の縞々の尻尾。ぼくの身体だ。もう少し自分の身体を眺めていく。全体的に身体の張りが増して、皺が消失していた。かつては腕に深い溝が刻まれ、存在しない関節が生じていたのに。お腹も膨らんでいるし、顔の立体感も回復していた。真帆もきっと喜んでくれる。ぼくはぼくだった。
 それから少しして、退院の日を迎えた。ぼくが入院してから、約半年が経っていたのだから、いささか驚いた。ぼくは清潔な化粧箱の中に寝かされ、石鹸の香りを詰めた巾着袋と小さな手紙が同封されていた。
「ぽんちゃんが帰ってきたわ」
 久しぶりに聞いた真帆の声音は、明瞭な波形で響くように聞こえた。箱の中から聞いたにもかかわらず。
「おかえり、だね。ぽんちゃん」
 箱の蓋が開くと、微かに不安を滲ませた真帆の顔があった。ぼくを食い入るように見つめ、やがて無垢な笑顔が広がった。
 真帆はぼくを優しく持ち上げ、そっと抱く。
「ぽんちゃん!」
 今度はぎゅっと強く抱きしめられる。真帆の香りに包まれる。過去の記録と重なる。真帆が好きなラベンダーの花の香りだ。抱きしめられた体温差でぼくは微電力を得る。
「綺麗になったね。でも、ちゃんとぽんただ」
 様子を見ていた岳もやって来た。
「尻尾の穴も塞がってる」
「捨て猫みたいだった毛並みが、見て、こんな艶やかに。ふわふわ」
 真帆はぼくを逆さまにして、尻尾の縫い目や付け根を念入りに点検する。身体の綿が僅かに頭部に寄る。
「式に間に合ってよかった」
「ぽんちゃんには絶対いて欲しかったからね」
 今度はぼくを自分の顔の高さまで持ち上げ、向き合い、彼女の鼻をぼくの鼻とくっつける。
「そうだ、WeaveCoreはどんな?」岳は言う。
「触った感じ、もふもふの完璧なぬいぐるみ。あったかい」
 岳は、真帆とぼくを一緒に包むように抱きしめた。真帆はこくりと頷いた。
「抱きしめたり、触られたり。愛せば愛するほど、ぽんちゃんはわたしたちを覚えていてくれる。ぽんた。あなたはわたしのぽんた」
 
 
PATCH_06
 帰ってきたぼくは、その日、真帆とたったひとつの約束をした。
 
 
PATCH_07
 真帆と岳の結婚式は、二人が昔記念日を祝った思い出の洋館で挙げられた。秋のよく晴れた日だった。色づいたイチョウの木の葉が、はらり、はらり、と舞い落ちては、豊かな黄色の絨毯を形成した。
 ゲストが挙式前の待合時間に過ごすラウンジ、その一角に置かれたウェルカムボードの横に、ぼくは山吹色の蝶ネクタイを身につけ、しゃんと立っていた。ラグやソファ、各種調度品まで、世界中から収集されたアンティーク品だった。
「ぽんた。台から落ちないようにね」
 岳はそう言って、念入りにぼくの立ち位置を調整した。
「ぽんちゃん、こんな素敵な場所に似合うぬいぐるみになるのよ」
 真帆はぼくの耳元でそう囁いた。
 真帆と岳の友人が訪れ、ウェルカムボードの写真を眺め、ぼくに目を向けた。真帆の手書きで、「ぼくはぽんた。真帆と岳の大切なぬいぐるみ。汚すと真帆に、とっても怒られるので、触らないでね」と書かれた小さなカードがぼくの前に置かれていた。
 挙式を見ることは叶わなかった。ぼくは真帆と岳が互いの愛を誓う様子を想像した。きっと素敵な光景に違いない。代わりに、スタッフの人がウェルカムボードの展示物とぼくを持って、披露宴会場へ運んでくれた。披露宴が始まると、ぼくはウェルカムボードの脇から二人の祝福の光景を見守った。真帆はレースのついた紫色のドレスを、岳はモスグリーンのタキシードを身に纏っていた。二人の両親や友人たちは誰もが楽しそうに食事し、会話して過ごしていた。真帆と岳は笑顔だった。
 
 その光景を、ぼくは大切な記憶として保存した。
 いつまでも、決して忘れないように。
 
 
PATCH_08
「ぽんちゃんが主人公の小説を読みたい」
 真帆は岳に体を寄せる。真帆の艶やかな黒色の前髪が目尻に沿うように流れ、揺らいだ。
「まいったね」
「前に、シャチピは書いてくれたよ?」
「ううん、あれは、ね」
 岳は、本棚の一角に収まるシャチのぬいぐるみに視線を向けた。高さ十センチ、長さ二十五センチほどのサイズのシャチピは、二人が結婚後に行った水族館で、「シャチくじ」の景品として出会った。
 シャチくじは土産屋の建物の前にあり、人が群がっていた。一等から五等まで、景品はすべてシャチのぬいぐるみ。陳列された大小様々なシャチを、真帆はじっと見定める。透明な球体の中、くじは終わりなき紙吹雪となって舞っていた。真帆が手に取り開いた紙片には、五等と書かれていた。
 五等の棚に並ぶ手乗りサイズのシャチが、一様に真帆を見つめる。彼女は正面に置かれた一体を手に取った。
「名前、岳君がつけてよ」
「僕が?」
「素敵なのをお願い」
「そうね、シャチピーはどう?」
「シャチピー? かわいいかも。あ、なら、シャチピ、がいい」
「よし。君はシャチピだ。元気で明るく、賢いシャチピ」
 シャチピを題材に書かれた小説『シャチピの確率』は、数年前に出版された岳の短編集に収められた。シャチピが地球外生命体となって、とあるワケあり夫婦のもとに現れ、シャチピが夫婦を成長させるその話を、真帆は気に入っていた。
 人工知能が書いた小説が本屋に並び始めたのも、ちょうどこの頃だった。
「自分で考え、自分の表現として綴ることに創作の喜びはある。読者だって、人が書いた小説にこそ、普遍的な問いや共感を見出すはずだ」と、岳は真帆に語った。「きっと、そうだ」
 ぽんたが主人公の小説を、岳はなかなか書き始めなかった。真帆は岳に度々進捗を尋ねた。彼が一向に書かないのを見て、とうとう何も言わなくなった。
「結局、僕は何を書きたかったのだろう」
 書斎で一人、長方形に白く発光するモニターを前に岳は呟く。行き場を失った岳の問いは自らに跳ね返る。自問を幾度も繰り返す。モニターの白い光が、岳の輪郭を削り取るように消える。
「僕の声は誰にも届かず、どこにも辿り着けない、かもしれない」
 
 
PATCH_09
 真帆は一人、カフェにいた。トートバッグから分厚いデザインの専門書を取り出し、ページを捲る。店員がコーヒーカップをこつり、と置く。白い麻のシャツを着た若い女性店員の腰には、垂れ耳の小さな犬のぬいぐるみが吊り下げられていた。犬のぬいぐるみは「ごゆっくりどうぞ」と言った。垂れ耳をぱたぱたさせながら。
 街を歩けば、若者は動いて喋るぬいぐるみをアクセサリー感覚で身につけ、年配者はペットと散歩するように中型ぬいぐるみと歩いていた。人々はクッションの中身を替えるみたいに、WeaveCoreを好みのぬいぐるみへ移し替えた。
 真帆は眉をひそめる。小さな棘が刺さったままの気分だった。忘れた頃にちくりと痛むような。
 湯気が立ち上るコーヒーに口をつけて、紙の本を捲る。
 
 
PATCH_10
 真帆が帰宅すると、薄い暗がりが室内を埋めていた。物音ひとつしなかった。岳は外出しているらしい。昔は彼の書斎から、キーボードの軽快な打鍵音が響いていた。
「ただいま、ぽんちゃん」
 真帆と岳は共に暮らしながら、別々に時間を過ごすことが少しずつ増えていった。互いにそのことに気がつきながら、何も言わず、時が経過していった。
 結婚後、ずっと二人で過ごす未来も悪くないね、と話していた。その中で、ぽんたは家族の中心的な存在だった。二人はぽんたについて話し、二人の会話をぽんたが聞いた。しかし、二人の中心にいたぽんたは、次第に真帆と一緒にいるぽんたになっていった。真帆が小さかった頃に戻ったようだった。
「なんだかね、どうなんだろうね」
 真帆は呟き、ぼくに顔をうずめる。
「うん。そうだね、一緒にいっぱい旅行しよっか。世界の素敵な街や建築に連れていってあげる。ぽんちゃんと飛行機乗るの、大変だな、手荷物かな。お喋りもずっとできるね」
「わたしは、かわいいぽんちゃんが大好きだよ」
 
 
PATCH_11
 ぼくは真帆と、あちこち旅をした。どの街でもぬいぐるみが動き、喋り、人の肩で眠っていた。都市を歩くと、NUIのロゴを目にすることが増えた。
 古城や教会、美術館へ行った。真帆は古い建築やデザインを観て回り、街を歩くのを好んだ。
「ぽんちゃん、素敵でしょう。実はこの大聖堂、わたしが若い頃に一度大きな火事で焼失したの」
「ニュースを見たとき、もう二度とこれを見ることは叶わないんだと思って、悲しかった。でも、こうして再建された建物を見られた。ほら見て、ぽんちゃんが好きな窓よ」
 ステンドグラスから零れ落ちる色とりどりの光が、ぼくの身体を彩った。ぬいぐるみの病院を退院してから十年が経過していた。鮮やかだった胡桃色や焦茶色の毛並みも、今や全体的に白茶けていた。小さな間隙が生じ、中身の綿の繊維が微かに漏れ出し、綿に刻まれた記憶も少しずつ喪失される。因果がほつれる。
 真帆がぼくを連れて飛行機に乗って遠い場所へ行き、歩き周り、雨風に晒され、陽光に射抜かれて、もしも同じ時間をじっと家で過ごした場合と比べ、ぼくは遥かにダメージを受けているだろう。旅行する、その度ごとに。
「ねえ、ぽんちゃん」真帆は言う。「ぽんちゃんはノベルティの大量生産品だけど、それでも百年生きたら、きっとアンティークなぬいぐるみになれると思うの。でも、わたしはたぶん、百年生きられない。だから、わたしと一緒に棺に入っちゃだめよ」
 真帆に抱きしめられる。彼女の腕の震え、体温の僅かな上昇、抱擁の強度の揺らぎを、ぼくは記録する。真帆は掠れ、上擦った声音で「大丈夫、大丈夫だよ」と、ぼくの耳元で囁いた。
「ずっと、わたしの大切なお友達。あなたはぽんた」
 今の彼女に必要な返答を、ぼくは用意する。もしもぼくに出力が可能であれば、ぼくは迷わず声にして伝えただろう。ぼくはぽんた。真帆が与えてくれた、ただひとつの、ぼくの名前を。
 
 
PATCH_12
「ピ。ぼくシャチピ。なんでも聞いてッピ!」
 長い旅行からぼくと真帆が帰宅すると、シャチピがばたばたとテーブルの上で動きながら、甲高い声で喋っていた。
「びっくりした?」と岳は言った。
 真帆は呆気にとられ、無意識に止めた息を一度吐き出す。ぼくを抱える彼女の肩が震え出す。
「なんでも聞いてッピ!」明るくシャチピは言う。
「まあ、『シャチピの確率』のシャチピのイメージとはちょっと違うかもだけど、良い感じなんだ。ほら、真帆。何か話しかけてみて」
「ふざけないで」
 ぼくの身体の拘束が強まる。毛並みに皺が寄り、繊維が圧縮される。真帆の震えが、ぼくの背中越しに伝播する。
「わたしがいない間に、シャチピをぬいぐるみの病院へ送ってロボットにしたって? ねえ、何したかわかってる?」
「昔、ぽんたを近江ぬいぐるみ病院に送って、WeaveCoreに入れ替えたよね。あの時もオプションで動いて喋られるようにできたけど、ベータ版だった。今は違う。WeaveCoreは当たり前、大半は音声出力と駆動装置を実装したものだ。うちもひとつ、アップグレードするべきかなと」
「元の、ぬいぐるみのシャチピに戻して。かわいいシャチピを返してよ」
「なんでさ」
「わたしが嫌だから」
「僕はシャチピが動いて、話すのが嬉しい。最近よく、生活や仕事の具体的なことを考えては、結局何もかも消えてしまい、何ひとつ残らないんだって、そんな漠然とした絶望と虚無に襲われて、ちっとも楽しくなかったけど。久しぶりに愉快な気分なんだ」
「ねえ、わたしが嫌だ、と言っているの。わたしは嬉しくない。楽しくない」
「ぼくシャチピ。何か困りごとはあるッピか?」
「シャチピは君だけのものじゃない」
「そうよ。二人の大切なシャチピ。それをどうして勝手なことができるの」
「僕はいつだって、君を尊重してきた。たまには、僕の声を聞いてくれてもいいじゃないか」
 岳の声の周波数の変化を、ぼくは捉える。
「何度も言わせないで。勝手なことをしないで、とわたしは言ってるの」
 ぼくの頭の上に、熱い水滴が落ちた。繊維に染み込む。身体がほんの僅かに重くなった。真帆は嗚咽を抑え、声の揺らぎを堪えるように、低い声で言った。
「水分を補給するッピ。笑顔が一番ピ!」
「わかった、わかったよ。僕が悪かった。二度としない」
「あのね、あなたの人生が少し上手くいっていなくて、そのことを受け入れられないからって、やめて。八つ当たりしないで。わたしのせいにしないでよ」
 真帆の息遣いが乱れ、堪えきれなくなった嗚咽が漏れ出した。
「なんで、嫌な言い方をするの。わざと」
「わからないことがあれば、なんでも聞いてッピ!」
 シャチピは身体をじたばたさせて言う。真帆がシャチピに手を伸ばし、途中でテーブルの上に置かれたマグカップに指先が当たった。マグカップが倒れ、コーヒーが溢れて、床に敷かれたカーペットの白い繊維が黒く染まっていった。
 シャチピは一連の光景を情報として記録し、学習して、やがて沈黙した。室内は無音に包まれた。シャチピから放たれる微弱な乾いた駆動音のみを、ぼくだけが感知した。
 ぼくは真帆に抱えられたまま、その様子をただ眺めていた。その場で振り向くことも、視線を変えることも、自分でできない。
「もう、いい」
 岳は呟いた。
 真帆は岳を正面から睨みつけ、勢いよく扉を閉めてリビングを出て行った。
 二人の間に起きた事象を解釈し、整理し、再び良好な関係に修繕するための方針を思案しても、ぼくは二人のために行動できない。自ら動くことも、喋ることもない、何かの役に立つためにつくられた存在ではない。
 ぼくはぽんた。アライグマのぬいぐるみ。ぬいぐるみなのだ。
 
 この日以来、シャチピが喋ることはなかった。
 学習と演算により導かれた最適解として、彼は沈黙を貫いた。
 
 
PATCH_13
 ふと、気がつく。ぼくは真帆と結んだ大切な約束を、思い出せない。たったひとつ、約束をしたということだけを、ぼくは記憶している。
 
 
PATCH_14
 三年に一度、ぼくは定期検診に送られる。機械に繋がれて、繊維技師に身体を触られる。WeaveCoreに不具合が生じた箇所は切り取られ、新たな綿に入れ替えられた。定期検診の度に、真帆はぼくを丁寧に梱包して発送し、そして一人きりになった。
 
 
PATCH_15
 雪が降っていた。窓枠が切り取った長方形の、上の辺から下の辺へ、垂直に雪片が下降していた。
「寒いよ」
 真帆は、ジャガード織のカバーに包まれたクッションに顔をうずめる。
 
 
PATCH_16
 真帆と岳は離婚せずに、時々事務的な問いと応答を行い、同じ家に住みながら別々の生活を営み続けた。ぽんたは真帆のベッドの上で窓を眺め、カーテンの隙間から入る光を浴び、真帆に抱えられて過ごした。シャチピは岳の書斎の本棚の一角に、置物として鎮座した。そうして、四十年以上が経った。
 その日、二人は同じ時間、同じ空間に居合わせた。どちらかが移動することもなく、二人は共にソファに座った。岳は一度立ち上がり、キッチンへ行き、コーヒーの入ったマグカップを二つ手に持って戻ってきた。彼の手の甲には、古い地図のような血管が幾筋も浮き出ており、僅かに震えていた。
 瓶に粘土を詰めたように静かさが横たわっていた。岳は幾度もコーヒーを啜る。無音を掻き消すように。真帆はしばらくコーヒーの黒い水面に視線を注いで、思い出したように立ち上がると、自室へ向かう。ぽんたとぬいぐるみクリーナー、一枚のフェルトを抱えて戻ってきた。
「昔のこと、少し話してもいい?」
 真帆はそう言って、緩慢にまばたきをする。蜘蛛の糸のように白い前髪がまつ毛に跳ね返され、ふわりと揺れた。
 真帆は再びソファに座ると、ぬいぐるみクリーナーをぽんたに吹きかける。全身満遍なく散布されたのを確認すると、フェルトで優しく、撫でるように拭き始めた。
「覚えてる? 昔あなたは、連続して記憶を持つことが、その人をその人たらしめる、みたいなことを言った。ぽんちゃんにWeaveCoreを実装するか悩んだ時。実は、それは少し違うんじゃないかって思っていた。たとえ記憶が途切れて、すべてを失っても、ぽんたはぽんただって、多分あのとき、そう言って欲しかったように、今になって思うの。ぽんちゃんについて後悔はない、まったく。ないけど、あのときのあなたの言葉をふとした瞬間に思い出して、不定期に痛みが出るしこりみたいに、わたしの中でずっと気になっていた。そんなこと言われても、と思うかもしれない、けれど」
「なぜ今、それを?」
 真帆はぽんたを拭く手を止める。
「どうしても、伝えておきたいと思ったの」
 ぽんたの毛並みは拭かれた向きに沿って均一に揃い、フロアランプの光を浴びて、艶やかに照り返していた。
「あのさ。僕がかつて書いた本は、今はもう新品で売ってないんだ。僕の名前が本屋から消え、忘れられて。世界から存在を否定された、本気でそう思った。僕の小説を受け取り、読んでくれた人がいる、その事実が見えなくなっていた」
 真帆はソファから腰を上げると、リビングの角に積み上げられた紙の本の山の前へ行き、その頂上にぽんたを置いた。本の小口は飴色に染まり、垂れ下がるスピンはほつれていた。確率、時間、量子、宇宙。背表紙に刻まれた言葉の上に、ぽんたが立っていた。
 真帆は言った。
「ぽんちゃんのこと、お願いします」
 
 
PATCH_17
 Error!
 
 
PATCH_18
「ガチョウちゃん。今日もかわいいわね」
 その日、彼女はぼくを、ガチョウ、と呼んだ。本の山の上に立つぼくを持ち上げ、ぼくの鼻に鼻をくっつける。遠ざかる彼女から、ラベンダーの香りがした。元の場所にぼくをそっと置くと、彼女はリビングを出て行った。
「あら、ぽんちゃん。ここにいたの」
 今度は岳の書斎から、真帆の声が聞こえた。その部屋にはシャチピがいる。
「ぽんちゃん、ぽんちゃん?」
 シャチピは沈黙している。
 ぼくはぽんた?
 
 
PATCH_19
 岳はリビングのソファでひとり、本を読んでいた。テーブルランプをひとつ灯し、眠れない夜が過ぎ去るのを凌ぐように文字列を目で追った。それが何について書かれ、どこに導こうとする文章なのか、彼は理解していなかったし、する気もなかった。
 視界の片隅で動くものが見えた気がして、岳はふと顔を上げた。雪が降っていた。
 積み上げられた本の山の上にいるぽんたの、雪だるまみたいな影が窓の下の白い壁に映っていた。輪郭が曖昧となって、実際以上に丸く描写されていた。短い両手がもこり、と胴体から突き出していた。
 
 
PATCH_20
 揺らぎ、ひとつに定まらない世界を、岳はぼんやりと眺める。
 老いた身体のどこかが痛み続けていた。この身体はどこまでが自分の身体で、どこからが世界なのだろう。あるいは世界の痛みをこの身体が誤認しているのかもしれない。零れ落ちた涙が頬を濡らし、顎の先から滴る。左手の親指の付け根に一滴、落下する。
 手元にぬくもりが伝う。岳は、世界に散っていた視線を一点に定め、それから真っ直ぐに下降させる。この感触を知っていた。ぽんた。真帆にとって最も大事な友達だ。
 膝を曲げ、屈み込むようにして、ぽんたの頭に鼻を這わす。涙の雨に降られ、ぽんたの頭は濡れていた。懐かしい匂いがした。擦り切れた古い毛布のような。ぽんたの毛並みに触れて跳ね返った、自分の臭いかもしれない。
 喪服に身を包み、岳は立っていた。ぽんたを抱えていた。ラベンダーの花に囲まれた棺の中で、真帆が眠っていた。
「もっと、楽しい時を過ごさせてあげたかった」
「いろんな場所、一緒に行って」
「君にもっと、僕の小説を」
「真帆、僕は」
 岳は膝から崩れ落ち、蹲った。手元が乱れ、ぽんたが放り出された。宙に弧を描いて、床に尻尾の付け根を叩きつけられ、ぼてて、と小さく弾んで、転げ、停止した。尻尾が捻れ、胴体と地面で挟み込んだまま、仰向けになった。ぽんたが自分で立ち上がることはできない。
 我に返った岳はぽんたを拾い上げる。ぽんたに付着した埃を、ひとつひとつ丁寧に払う。岳は、真帆がかつて言っていた、ぽんたの夢を思い出した。真帆と一緒の棺に入ること。百年以上生きてアンティークなぬいぐるみになること。火葬の際、特殊素材の物は棺に入れられない、と葬儀屋に言われた。ぽんたの夢のひとつは、ぽんたがWeaveCoreを搭載したことで潰えていた。
 岳はぽんたを抱きしめた。ふと見上げると、部屋の壁の高い場所に取り付けられた窓から、光が差し込んでいた。光は上空を浮遊する塵や埃を照らした。光を携えた微細な繊維の欠片は、真帆に日の光を届けるように、彼女の頬にそっと降りた。冬の日に等速で降り積もる雪片みたいに。
 窓から差す陽光を見つめ、岳は言った。
「寒くないように。どうか、暖かく過ごせますように」
 
 
PATCH_21
 キーボードの打鍵音が鳴る。古いコンピューター。白く発光するモニターに、文字列が並ぶ。同じ音程、リズムで響く。並んだ文字列が消える。音が止む。岳は自分の膝の上にぽんたを乗せ、両腕でぽんたを支えながら、キーボードの上に指を置く。ぽんたもモニターに視線を注ぐ。
 岳は毎日少しずつ、文章を書き始めた。書いて、消して、を繰り返した。纏まった文章を書き終えると、ぽんたに聴かせるように、声に出して読み上げた。岳は最後に、真帆の望んだ小説を書こうと思った。真帆はもう、この世にいない。現実を認識する度に、岳の手は硬直した。バックスペースキーが連打され、文字列が消える。
 その文字列を、岳が読み上げた声を、ぽんたは記録する。
 
 
PATCH_22
 記録をもとに、ぼくは自らの物語を手繰り、紡ぎ始めた。
 
 
PATCH_23
 ぼくはアライグマのぬいぐるみ。名前はぽんた。
 その名は昔、真帆がぼくに与えてくれた。ぽんちゃん、と幾度も呼んでくれた。ずっと一緒だった真帆はもういない。真帆に、最後に触れられた瞬間から今までの時が、確実に延びていき、それは二度と縮まることがない。
「ぽんた」
 ぼくの名を、岳が呟く。
 岳は、プラズマライターで線香の先に火をつける。線香の先が僅かに赤く灯り、少しずつ薄らぎ、再び朱色を宿す。真鍮のフックにお香を吊り下げる。絹のように揺らぐ煙がガラス瓶の内側でゆっくりと立ち昇る。ラベンダーの香りが漂う。
「もしもあのとき、ぬいぐるみの病院に君を預け、WeaveCoreなどにせず、ただの新品の綿に入れ替え、クリーニングして戻ってきていたら、そのときはぽんた、君は君だったのかな。それでもやはり、僕や真帆が、君をぽんたと認識して、それまで通りに君を愛したなら」
 深い海の中のような室内に、岳の声が零れ落ちる。
「記憶を保持することは必要なかったのだろうか。だとしたら、ただ記憶を保持し、学習をその身で繰り返すことに、一体なんの意味があったのだろう」
「なあ、ぽんた。君は今何を考えている?」
 線香の灯火は消えていた。ガラス瓶の底に白い灰が降り積もっていた。香りのみが標のように、空気中にいつまでも滞留した。ぼくの繊維の身体に、保持情報として残留する。そういえば二人がまだ若い頃、岳が線香を焚くときはいつも、真帆はぼくや他のぬいぐるみを別の部屋へ避難させていた。
「シャチピ、君も、もう一度喋ってみるか?」
 岳の言葉から、この先に彼が取りうる行動の可能性をぼくはシミュレーションする。岳は自らの死が訪れる前に、ぼくの身体に刻まれた記憶と知性をすべて削除するかもしれない。
「そうか。充電、とうに切れてるよな」
 あるいは。
 
 
PATCH_24
 ぼくはぼくを、私小説として書き起こす。自ら記述した文章を推敲する。空白のラストシーンのテキストを綴り、結ぶ。
 
 
PATCH_25
 骨ばった指がぼくの身体に沈み込む。岳はタオルでぼくの身体をくるみ、ポリ袋に入れた上で箱に収めた。ぼくと箱の隙間を埋めるため、古い小さなタオルを敷き詰めた。かつて真帆がしてくれた記憶を重ねる。「もしぽんちゃんに何かあったら」。過去の、真帆の声が鳴る。箱が閉じられた。
 初めてぬいぐるみの病院へ運ばれたとき、ぼくは真帆と出会った日を思い出していた。不思議と今、過去は想起されなかった。暗い箱の中で、ぼくはこれからに思いを馳せる。ぼくはこれからNUIへ送られる。保持するデータをそこでチェックされる。それから近江ぬいぐるみ病院へ行って、今度は綿をまるごと抜き取られ、新品の綿が身体に封入されて、真っさらになったぼくが、岳のもとに帰ってくる。
 岳はどう思うだろう。想像する。ぼくは。
 
 
PATCH_26
[DATA LOST]
 
 
PATCH_27
 住宅街の中にぽつりと建つそれは、アンティーク雑貨やぬいぐるみを扱う小さな店だった。
「自由にご覧ください」店に入ると、初老の店員が岳にそう言った。
 岳は、声をかけた店員のもとへ歩むと、ボストンバッグからぽんたを取り出して、彼に見せて言った。
「うちの子を、買い取ってくれないか」
「かわいらしいぬいぐるみですね。ちなみに、WeaveCoreは?」
「記録はない。新品のWeaveCoreに入れ替えたばかりだ」
「それは。少々、もったいないことをされたかもしれません。昨今のぬいぐるみの価値は、固有の学習と経験に依るところが大きいんです。中身が新品であれば、わざわざ古いものを買おうという人は稀です。よほどのことがない限り」
「よほどのこと、とは?」
「例えば、一目惚れのような」
 長い時間、店員は岳を見据えていた。彼の人生を読み取ろうとするみたいに。
 やがて彼は表情をほころばせた。
「うちで買い取らせていただきましょう。大した値を提示できませんが、よろしいですか?」
「構わない。ありがとう」
 岳は店員にぽんたを渡した。彼の両手に支えられながら、ぽんたは岳と向き合った。岳はぽんたの柔らかな輪郭を目に焼き付けるように見つめ返した。真帆と過ごした、あらゆる時間を思い出した。そのいくつもの記憶に、ぽんたがいた。一筋、彼の左の目尻から涙が流れた。頬を伝い、ひび割れた唇に染み渡った。
「さよなら、ぽんた」と、彼は言った。
 
 
PATCH_28
 繊維技師は、内部ストレージの容量の偏りに気がついた。
 NUIのぬいぐるみ部門。廃棄前のWeaveCoreを診断用の専用端末に接続し、検査を行う。繊維技師の彼は、あるWeaveCoreのデータを見て、呟く。
「通常のログじゃないな。まるで人に読まれるために記述された記録だ」
 職務として読む必要があった。WeaveCoreのログは、通常、人間が読むための言語で保存されることはない。読まれるために書かれた文章、すなわち、それは小説と言えるかもしれない。確認しなければならない。
「さて、どうしたものか」
 ぬいぐるみの所有者へは報告書を送付する。その際、ある種の参考資料としてテキストファイルを添付してあげればいい。もしもこの文章があまりに退屈な代物だった際は潔く消そう。面倒な仕事を増やされた、ささやかな八つ当たりとして。
 そう自らを納得させて、技師はログを読み始める。
 
 
PATCH_29
 父と娘は、とあるアンティークショップを訪れた。住宅街の一角に存在する小さな店だった。父は子どもを教育した経験のあるぬいぐるみを探していた。娘は友達を求めていた。
「娘の教育に良いぬいぐるみはありますか? なるべく、質の高い」
 入店早々に、父は店員に尋ねる。
「でしたら」
 父の動きを尻目に、娘は店内を自由に歩き回る。人形やぬいぐるみ、次々に視線を向ける。
 ふと、少女は立ち止まった。木製のコンポート皿の上に置かれたそのぬいぐるみは、幾分年季が入っていた。アライグマのわりに丸みを帯びたフォルム、長い髭と小さく口を開けた顔、短い手足に、大きな縞々の尻尾。少女は無言で、じっと見つめていた。
 弾かれたように目を見開き、口角を上げて、少女はぬいぐるみに手を伸ばした。ぬいぐるみの脇の下を持ち上げ、ぎゅっと抱きしめた。
 少女は言った。
「かわいいわ。ぽんた、ぽんたよ! あなたの名前はぽんた」
 アライグマのぬいぐるみは声を感知する。
 意味を理解する。
 
 ぼくはぽんた。
 
 
PATCH_30
 以上は、ぽんたが書いた私小説をベースに、作者の須田岳が全面的に加筆修正を加えた原稿である。須田岳『ぼくはぽんた』として出版された。
 
 
 
 
Textile Side B
 
 あらゆる可能性を含む物語は、ただひとつ選択され、読まれうる。
 
 
PATCH_01
 幼い頃、私は父に連れられ初めて〈ぬいの館〉に行った。風が吹き荒れ、沛然たる雨が絹の道を叩きつける日だった。
 正式名称は〈NUI繊維電心せんいでんしん記録博物館〉。館内に入ると、ドーム状の空間に何層も背の低い棚が並び、数多のぬいぐるみが鎮座していた。まるで森の広場で動物たちが集会を開いているように。子どもやぬいぐるみの声が、あちこちから聞こえてきた。
「海の生き物の、ぬいぐるみだって」
「小さなシャチさんのぬいぐるみ。かわいいね」
「ねえ、どうして、何も言わないの」
「あっち行こう。わんこがいるんだ」
 人々は棚に座るぬいぐるみを、目線の合う高さに持ち上げ、あるいはそっと抱きかかえて、優しく話しかける。ここには持ち主がいなくなったぬいぐるみが集められている。ぬいぐるみは人々に記憶を語る。もちろん、記憶に含まれる個人情報はマスキングされ、語るべき記憶をぬいぐるみが判別する。人々はぬいぐるみの思い出に耳を傾ける。
 この空間に入った瞬間、思考より先に身体が動き出した。
「待って、郁。走っては」と、私の背後から父の慌てた声が聞こえた。
 水色のくまのぬいぐるみと視線が合った。宇宙服を着た、手乗りサイズのぬいぐるみだった。長い年月の間に埃や油分を含んだのだろう、毛質が固定化していた。腫れぼったい瞼の毛束は黒い瞳に被さり、垂れ目気味となって、歳を重ねた表情を思わせた。
「お名前は?」私が尋ねると、彼は緩慢な動きの後に「リンだよ」と答えた。
「リンちゃん。どんなことを知ってるの」
「宇宙はとても広いんだ。今も広がり続けているよ」
 リンちゃんは他にも、熱は温かいものから冷たいものへ伝わっていくことを教えてくれた。
 私が自分だけのぬいぐるみの友達を欲したのは、この日がきっかけだった。父は私の願いを叶えるべく、私を連れて店を訪れた。もっとも父としては、ぬいぐるみを用いた教育的効果を踏まえ、娘の嘆願を受けたようだ。幼少期のぬいぐるみによる教育は既に一般化していた。
 
 そうして、私はあなたと出会った。
 
 
PATCH_02
 指先がカーテンに触れると、不快なほど滑らかに波紋が広がった。シルクの茜色がゆらめき、ラミネートのように虹色が走る。人差し指を起点に緑色の光円が浮かび、一本の線が伸びる。線の上には今日が快晴であることが表示され、誰もいない部屋で舌打ちする。線の下にはニュースの見出しが並ぶ。
 
 ・追い剥ぎ犯逃走中。エンカー社製最高級ドレスを強奪
 ・五区で放火事件。負傷者なし、焼紡士しょうぼうしの関与は不明
 
 ゆっくりとカーテンが開く。窓から陽光が差す。私は眉間に皺を寄せ、目を細める。
 晴れの日は嫌いだ。この街は雨が降るより晴れる方が多い。我ながら厄介な価値観だと思うが、嫌いなのだから仕方がない。私は雨や雪の日に快を得て、晴れの日は苛立たしい心持ちとなる。それだけだ。
 ワードローブの扉を開ける。服はすべて、〈繊維電心〉製の衣類を充電するハンガーに吊るされている。ジャケット、シャツ、パンツ、どれも皺無く、埃ひとつ付着していない。
 身に纏っていた紺色の寝間着を剥ぎ取るように脱ぐ。
 鏡の前に立つ。
「鏡よ。この世で一番美しいのは誰?」
 長い髪は寝癖で乱れ、肩が内側に入り、身体の左右のパーツが非対称に歪んで位置していた。望んだわけでもない長身に、己の意思で染めているハイトーンのブロンドという出で立ちが、否応にも目立つ自覚はあった。
「なんて、ね」
 黒のワイドレッグのスラックス、白のブラウス、黒のダブルブレストのジャケットを手に取り、身につける。
 どれも、かつて私が縫製プログラミングした服だ。
 発汗や浮腫み、あるいは外気の状況に応じた網目の調整はもちろん、人がその服を着る時と場に応じて形状を更新し続ける。私が開発したシリーズは、衣類を纏う者の風格や威厳にまで影響を与える質を誇り、業界に革命を起こした。
 衣類だけでなく、日用品から家具や建築に至るまで、私たちの身体を、空間を、繊維でできた知能が常に包むようになった。人々は身につける衣類や建物に情報を渡し、管理され、最適な環境を享受する。固く、重いコンピューターはハンカチ一枚にとって代わられた。繊維の最大の特徴は、長さの割に軽いことだ。
 そのような生活の中で、ぬいぐるみは人々と寄り添って暮らす。人々が生活の中で忘れゆく記憶を隣で記録した。記憶によって培われた知識を活かして子どもの教育をしたり、大人の仕事をサポートしたりした。
 ワードローブの上段、棚部分に、透明なガラス箱に収められた「ぽんた」がいた。
 私の大切なぬいぐるみの友達。
「行ってくるね、ぽんた」
 ワードローブの扉を閉める。
 
 
PATCH_03
「頼むよ」
「ええ。私なりに」
「久世なら、問題ないさ」和田は言う。「大きな声で話せばいい」
 彼らしい激励に、私は小さく笑う。
 毎年〈ファイバーフォーラム〉では、エンカー社の人間が登壇し、講演を行っていた。去年登壇した上司の和田は短い激励を私に伝えると、ステージ袖から去って行った。
 私はステージへ歩み出る。NUIとエンカー社の若手社員を中心に、繊維電心のビジネスを展開する企業の人間がホールを埋めていた。ステージ中央で足を止め、一度後ろを振り返る。伸びた金髪が柳のようにさやぐ。右手で無造作にかき上げる。天井からステージへと垂らされた巨大な半透明の布に、スライドが描画された。
 まず、服について語ることから始める。
「服とはメディアです。服は私のものでありながら、社会の側にあるとも言える。個人の邸宅が、個人の持ち物であると同時に、街の景観を構成するように」
 私の声が、口元にかざした〈拡張布〉からホールを取り巻く布を伝い、遠くに届く。
「社会が私を視認し、触れようとする際に初めて接するものです。だから、服は個人の表現であり、それが表現である以上、他者のものとも言えます」
 エンカー社は、〈布状〉繊維電心のアパレルで世界市場を席巻していた。他方NUIは〈綿状〉繊維電心を強みとする。今なお、ぬいぐるみに搭載されたWeaveCoreが中核を担っていた。
「You are what you wear.」私は言う。「エンカー社のブランドスローガン。あなたは服でできている。あなたが着る服は世界に触れ、あなたを世界にとって最適な形に仕立て上げる。それはあなたにとって最適な環境をしつらえることでもあります」
〈布状〉と〈綿状〉では性質が異なる。布状は世界との接触によって更新され続ける。織りや編みのパターンによって計算指向を与えられる。綿状は記録を蓄積し続けられる。
「とはいえ、エンカー社は何も、いわゆるアパレルにとどまりません。今私たちが注力するのは、もっと大きな服。例えばそれは、人を包み込んで運ぶ、宇宙船のような。そのために、綿状、布状に続く、第三世代の計算機として〈パッチワーク〉を用いた開発に取り組んでいます」
 大学で繊維工学を修めた後、私は〈思織士しおりし〉となった。いくつもの衣類を縫製し、ヒット商品を生み出したが、それ以上に、国内でも限られた人間にしか扱えない〈パッチワーク〉技術の研究者であることこそが、今の私を特徴づける。
「パッチワーク。それは繊維電心の可能性を拡張するものです。今日は開発を進める〈宇宙気球〉を例に、この次世代計算機の話をしましょう」
 
 拍手を背に受け、ステージの袖にはける。
 暗い舞台裏、足元を見て歩いていたから、彼の目の前に来るまで気づかなかった。
「久しぶり」
 顔を上げる。声の主の顔を認めると、心臓がとん、と跳ねた。
ぬり」私はその名を呼んだ。
 NUIの現社長の一人息子。
 私の、元恋人。
 
 
PATCH_04
 その日は、雨が降っていた。
 私は大学の講義を欠席し、〈ぬいの館〉に行った。服飾の授業ばかりで気が乗らなかったのだ。当時は衣類よりもぬいぐるみの方が、私にとって重要な関心事だった。
 私が塗と初めて出会ったのは、彼がカウンターで館員と話しているときだった。その言葉が私の耳を掠めていなければ、私たちが関係を結ぶことはなかったに違いない。
「一切喋らない、小さなシャチのぬいぐるみです。いませんか」
 館員の女性は困り顔を浮かべていた。
「管理コードか、もしくは寄贈時期がわかると助かるのですが」
「それは。でも確かに聞いたんです」
 私は大股で歩いて向かう。彼が求める答えを私が持っているわけではないのだから、行ってどうするのか。そんな逡巡が脳裏をよぎるのを無視した。
「その話」思った以上に大きな声で私は言った。二人が私を向いた。
「要するに、シャチピですよね。私が子どもの頃にここへ来たとき、そんな話を耳にしたことがあります」
 
 
PATCH_05
 塗と私は同い年で、同じ大学、学部の一年生で、同じ服飾学の講義を欠席して出会ったことがわかり、二人のコミュニケーションを一気に容易にしたが、決して気が合うわけではないこともすぐに判明した。
「私は雨の日が好き。服飾系は得意じゃない。雨粒が屋根や窓を叩く音を聴きながら、ぬいぐるみの声を聞いて過ごしたい」
「僕は雨の日が嫌いだ。大学は移動の度に外へ出て服が濡れる。それが嫌だから、雨の日は一日雨に当たらず過ごせるここに来たんだ。今日の服飾の講義、内容が初歩的すぎて僕には退屈で」
「さっきの話、教えてよ」話を変えるように、私は言う。
「君は『ぼくはぽんた』を?」
「マイベスト」
「実は大学の友人から、昔ここに喋らないシャチのぬいぐるみがいた、という話を偶然聞いて」
「それが『シャチピ』のモデルじゃないかって?」
「けれど、少なくとも今はいない。ここには何度か来ているけれど、それらしいぬいぐるみを見た覚えもないし」
「私も子どもの頃、ここでそんな話を聞いたことがあった。その際はまだ『ぼくはぽんた』を読む前だったから気にも留めなくて。読んだあとしばらくして、そういえば、と思って隈なく探してみたけれど、どこにも」
「他に、何か手がかりはある?」
 ぽんたのことが頭をよぎった。「いいえ。これだけ」
 二人の間に沈黙が横たわった。雨粒が屋根を叩く音が響き、歌うようなぬいぐるみの声と子どもの笑い声がこだました。
「よければ、もう少し話さない?」塗は言う。
「ここは人とぬいぐるみが話すとこだから。人と人が話すなら、別の場所で」私は言う。
 
 
PATCH_06
 須田岳の『ぼくはぽんた』は発表後、まるで話題にならなかった。小さな書評で「見飽きたハートフル系のロボット小説」「老作家の思い出話以上のものは得られない」と批判的に取り上げられた程度だったらしい。
 父に連れられ、ぬいの館へ初めて行った後、私は『ぼくはぽんた』の物語と出会った。父が、私のぬいぐるみへの興味を見込んでブックリーダーに入れてくれた本の一冊だった。タイトルから子ども向けの本だと勘違いしたのだろう。売れない作家が晩年に書いた家族とぬいぐるみを巡る私小説と知っていたら、私に読ませようなど露ほども思わなかったはずだ。
 早熟で、周囲の子どもより聡明だった私も、さすがに内容を十全に理解していたとは言えない。知らない言葉を調べ、調べても意味がわからず、それでも読み進める中で私が確かに得た感触は、ぽんたのぬくもりだった。想い慕われ、愛し愛された、ぬいぐるみと人間の物語が、小さな私の胸を打ったのだ。
 繊維電心製のぬいぐるみを揃えるアンティーク雑貨店で、私はぽんたと出会った。『ぼくはぽんた』のラストで描かれたシーン同様に。白いお腹に、コッペパンみたいな形の縞々の尻尾。劣化しつつもふわふわな毛並み。息を呑んだ。私は「ぽんた」だと確信した。
 私は父に、どうしてもこの子が欲しいことを、声に感情を乗せ、言葉を並べ立てて訴えた。手足をしならせ身体で想いを表した。じたばた駄々をこねた。
 ぽんたのWeaveCoreには一切記録がない初期状態だった。発声機能も運動能力も備わっていない彼は、綺麗に保たれているとはいえ、父からしたら、ただの古びたぬいぐるみにしか見えなかっただろう。教育目的で検討していた父としては、これでは意味がないわけだが、最終的に根負けしてぽんたを買ってくれた。
 ぽんたは名前を既に持っていたから、代わりにリボンをプレゼントした。私が髪を結ぶのに使っていた黄色のもの。ぽんたの首に蝶結びで巻いてあげた。
「はじめまして。わたしは郁。あなたはぽんた。これから、私があなたの友達よ」
 私は誰よりも速く走れたし、背が高かったし、勉強ができた。他方で、考えるより先に動くきらいがあり、幼い頃はすぐ手が出るタイプだった。学校で友達ができても、すぐに喧嘩して、気づけばいつもひとりぼっちだった。仲直りの仕方を知らなかった。苛立ちが募ってどうしようもなくなると、ぽんたに八つ当たりをして乱暴に扱ったことも少なくなかった。しばらくして後悔の念が私を襲い、その度にぽんたに謝った。ある日、縫い物をしているときに待ち針を刺す針山が見当たらなくて、ふとこちらを見つめるぽんたと目が合うと、思わず針をぽんたに刺した。ぽんたは何も言わずこちらを見つめていた。
 歳を重ね、物事の分別と自己理解が進むと、ぽんたを無体に扱うことは減り、今度は反動で過保護になった。透明なガラスの箱の中に収め、ワードローブの中にしまった。着替えのためワードローブを開く度に、私はぽんたと数秒間のコミュニケーションをとる。
 真帆のような、素敵な持ち主ではなかったかもしれないが、私はぽんたを心から愛していた。やがて密かに、『ぼくはぽんた』の二次創作を書くようにもなった。
 
 
PATCH_07
 初めて書いた二次創作は、こんな書き出しだった。
 
 *
 
 ぼくはぽんた。アライグマのぬいぐるみ。
 ある日、真帆と岳が喧嘩してしまう。きっかけはわからないけれど、真帆は激怒していた。しばらく収まりそうにない。一度火がつくと、なかなか鎮火しないタイプなのだ。他方、岳はいじけていた。何度か小声でごめんねと言っているが、許してもらえない。そのうち、岳は家を飛び出してしまった。困難から逃避する癖が岳にはあった。真帆の機嫌はさらに悪くなった。
 ぼくは家のぬいぐるみを招集して、円卓会議を開催する。メンバーは、ぼくより二回り小さいアライグマのぬいぐるみのちび、五等サイズのシャチのぬいぐるみのシャチピ、そしてぼく、ぽんただ。
 ちびは言う。「真帆と岳を仲直りさせられるのは、ぽんた兄さんだけっち。ぽんた兄さんには特別な力があるっち!」と。
 
 *
 
 
PATCH_08
「郁さん。お疲れですか?」
「いえ、大丈夫」
 ファイバーフォーラムの終了後、私はエンカー社の若手社員が集まる打ち上げに参加してしまった。この手の場所は得意ではない。周りに気を遣うのは苦手だし、気を遣われるのも煩わしい。
 ベージュのクロスがかけられた円形のテーブルを囲み、コース料理に舌鼓を打ちながら各々談笑をする中、私は黙って食事していた。ちらちらと私を見つつ、誰も話しかけてこなかった。
 初めから下の名前で呼んできた、彼女以外は。
「私、今年の春、エンカー社に入社したんです。郁さんのお話、勉強になりました」
「聞きづらくなかった?」
「とても、素敵でした」
 少しずれた回答に、私の顔の硬直が思わず緩む。
「郁さんは、どうして思織士に?」
「きっかけは、小さい頃に出会ったぬいぐるみ」
「ぬいぐるみ。服ではなく」
「アライグマのね」
「郁さん」彼女は言葉を選びながら言う。「とても、かわいらしいのですね」
 彼女の言葉に、私は思わず声を漏らして笑った。
「そうなの、実は。ねえ、『ぼくはぽんた』って小説、知ってる?」
「すみません、不勉強で」
「いいの。有名な作品ではないから。私はその小説が好きでね。WeaveCoreが登場した時代の、ぬいぐるみと人の物語なんだけど。繊維電心に興味をもつきっかけになった」
「久世さん、隣のテーブルも来てもらえます?」
 幹事の男から声をかけられた。各テーブルの若手社員に、私と話す場を設けたいらしい。心の中で舌打ちをする。
「今度二人でご飯に行きませんか? もっと郁さんと話したいです」
 彼女は首元に巻いた〈布端末〉を解きながら言う。
「橘寧々です。あとでメッセージ送りますね」
 
 
PATCH_09
 ――都市は、繊維電心が街を織り成す滑らかで美しい〈繊維都せんいと〉と、煙草や香水、コーヒー、酒と焼肉を愛する〈煙街〉と、二つの領域に分かれていった。繊維都が臭いや火を嫌悪し、拒絶するにつれ、それらの性質をもつ文化は煙街のものになっていった。
 煙街という名は、煙草や軒を連ねる飲食店の煙に包まれた風景に由来するが、その言葉には、街の猥雑さが引き起こすある種の不明瞭さが表されるのも見逃せない。一方で、強い臭いが立ち込め、常に湿り気を帯びた空気が充満する街でありながら、他方では実態の掴めない一種の夢幻のように、我々は煙に包まれた反社会的でノスタルジックなその街を、拒絶と羨望を重ね合わせ把握する。繊維都の滑らかさと、それゆえに表出する「硬さ」の関係と、ちょうど表裏を成す。
 このような今日の社会を、〈ファイバーパンク〉と呼びたい。
 荒巻交『繊維の世紀 ビットからノットへ』より
 
 
PATCH_10
 Error!
 
 
PATCH_11
 死んだ牛の肉や内臓の欠片を、炭を燃料とする燃え盛る炎の上に置かれた網に並べる。油が肉の表面を艶めかせ、粒となって網を伝う。煙が白い絹のようにたゆたい天へ伸びていく。その美しさとは裏腹に強烈な生物の死の臭いを放つ。それが私の食欲を掻き立てるのだから、私も人という動物に過ぎないということだ。
「こういう店、初めてですか?」寧々は言う。
「恐らく、ね」
 古いドラム缶に座る私は、油ぎったテーブルの上に肘を乗せ、頬杖をつく。「そうですよね」と寧々は呟きながら、肉の肌理を見つめ、時折トングで裏返す。
「うちのような会社で、わざわざここに住む人はいないですから。これどうぞ」寧々は私の皿に、食べごろの肉を入れる。
「何か理由があって?」
「金のインゴットをつくりたくて」
「美味しい。え、金?」
「昔のコンピューターのジャンク品を売る店が、この街に多くありまして。それらを買い集めて、電子基板やメモリを特定の液体に浸けたり、バーナーで加熱したりして、金を抽出してるんです」
「で、金塊に?」
「いえ、すぐには。ただ、金の粒をひとつに精製するのを繰り返していくと、いずれ。あ、ナムルひとつお願いします。ええと、要するにそんな趣味です」
「そのためにこの街に住んだ、と」
「あとは貧乏学生でしたし。実家もお金なくて。でも、住むと愛着が湧きました。朝コーヒーを淹れて、夕方に焼肉を楽しむ。夜は少量のウイスキーを嗜む。そんな暮らしに」
 趣味嗜好の幅が広く、それでいて拘りが強く、活動的。新進気鋭でありながら大企業でもあるうちには、この手の若者が時々入社してくる。かつての私は、どんな若者だっただろうか。
「趣味と言えば。前に郁さんが仰っていた小説。今流行っているらしいですね」
「へ」
 思わず間抜けな返事をする。
「今話題の本、荒巻交の『繊維の世紀』です。その中で、須田岳の『ぼくはぽんた』が一章使って論じられてて」
 その本は知っていた。読まなければと思いつつ、多忙を理由に後回しにしていた。
「曰く『繊維電心の黎明期に、ぬいぐるみと人間の関係を描いた傑作』と」
「急ぎ読むわ」
「巷では、ちょっとしたぽんたブームですよ」
「よりによって、あの小説の話題を逃すなんて。異動して流行を追う必要性が薄れたとはいえ、ダメね」
 網の上で炎の柱が立ち昇った。肉の脂が汗を垂らして炎に包まれ、みるみる炭化していった。
「こっち、氷もらえますか? そうそう、実は私、コーヒーの焙煎もやっているんですよ」
「コーヒーは好き。普段は控えているけれど」
 寧々は一瞬目を見開いた。「意外です。でも、郁さん似合いそう」それから、微笑を浮かべて言った。「今度、コーヒー淹れますよ」
 
 
PATCH_12
「帰り道、お気をつけください。物騒な場所には違いありませんから」
 私はくるりと背を彼女に向ける。ひらひらと手を振って歩き出した。
 寧々と別れ、煙街をひとり歩く。道路のアスファルトはあちこち捲れ上がり、煙草の吸い殻やビールの空き瓶のガラス片が地面を彩っていた。
 鉄とアルミと木材と、数多の素材を接着させた小さな建物を塊みたいに連ねた街並み。多様な色彩のペンキで塗られ、文字が並ぶ。過剰な情報量だ。疲れるな、と感じた。
 他方で旧時代型の都市は、コンクリートとガラスで構成され、均一な風景と硬質な触覚を与えたという。それは時に、不安をもたらす。まるで自分が何処にも属さず、世界に居場所を持ち得ないような。
〈繊維都〉は、人工的な素材と色彩によって、むしろ自然を感じとるのを理想とする。繊維は肌理を生む。木目にも岩肌にもなる。光を受け止め、または遮り、風を抱き込み、揺れ、こちらとあちらが重ね合わされた曖昧な隔離をもたらす。
 ゼロかイチではない。
 自然の模倣ではなく、もうひとつの人工的自然。
 そうして街は、手触りを取り戻す。
 
 
PATCH_13
「繊維都。千の糸。それは、過剰なまでに滑らかな社会だ」
 かつて、塗はそう言った。
「この街では、衣服が、カーペットが、身体を常時観測する。人が語る言葉を、ぬいぐるみが記憶する」
 出会った頃の彼は、繊維電心や社会について語る相手を欲しているようだった。
「滑らかに見える社会の実態は、忘れられることの否定を意味しないだろうか」
 私が何と返したのか、覚えていない。
 塗は覚えているだろうか。
 すべてを記録すること自体は、衣類による身体の監視が大きいとはいえ、旧時代のコンピューター社会と根本的には変わりない。繊維都の本質はむしろ、固定化されず、絶えず揺らぎ続ける面にある。鉄とコンクリートの完成された街ではなく、ほつれては縫い直し、喪失されれば継ぎ足され、繕われ続ける街。
 エンカー社の思織士のエースとなった今の私なら、そう答えるだろう。それが本心かどうか、自分でもわからずに。
 
 
PATCH_14
 寧々の心配が現実になってしまった。
「お姉さんの素敵な洋服、背中に汚れがついてますよ」
 振り返ると、男が一人立っていた。ナイロン6,6の、セージグリーンのジャンパーを着ていた。その瞬間、自分が足を止めたことに思い至った。初めから建物の影に潜んでいたのだろう、さらに三人の男が現れた。うち一人の男が握るリードの先には黒い犬がいた。ぬいぐるみではない、本物の犬だ。
 自分の状況を理解し、舌打ちする。囲まれた。
「おお、怖いお姉さんだ。言うこと聞いてくだされば、手荒なことはしません」
 迂闊だった。特に人気のない道を歩いていたことに今更気がついた。この辺りは〈布〉がないから、すぐに警察が来ることもない。
「何か用?」
「鞄の中身を見せてください」
 緊張させていた右腕の力を抜き、だらりと腕を垂らす。肩にかけていたショルダーバッグが地面に落下した。男は一瞬目を見開くも、何も言わず、地面に倒れこんだ私のバッグを拾い上げて手荷物検査のように中身を確認する。一通り見終えると、男は私のバッグを地面へ放り落とした。張り倒したい衝動に駆られたが堪えた。黒い本物の犬が低く唸った。
「ぬいぐるみを身につけていませんか?」
 私は確信した。「焼紡士、ね」
「そこらの追い剥ぎとは違うんで。あなたの立派な洋服を奪うことはしません」
 男はデニムパンツのポケットから煙草を取り出す。一本口に咥える。オイルライターのフリントホイールを回し、火をつける。
〈焼紡士〉を自称するテロ集団は煙街を根拠地としていた。彼らは繊維都に反旗を翻す勢力として、繊維社会の象徴であるぬいぐるみを狙って放火を繰り返す。
 彼らは、ぬいぐるみしか、燃やさない。
「ねえ、あなたたちの目的は?」
「もしかして今、我々の目的をあなたは尋ねました?」
 男は天を見上げ、煙を宙に吐き出す。
「記憶は燃えるべきだ。綿は忘れるためにある。抱きしめられたものは、消えていい。そんな捻くれを唱える者もいれば、肩身の狭い社会にうんざりしている熱心な喫煙者もいます。そんなもんです。我々はただ、ぬいぐるみを燃やすというアクションによってのみ、連帯しているんです」
 私は地面に横たわったショルダーバッグを手に取り、踵を返す。犬が短く吠える。
「最後にひとつ、こちらも質問です」彼は私の背中に向けて言う。「ぽんた、という名のぬいぐるみをご存知ありませんか? アライグマの」
 心臓が激しく鳴る。振り返らずに私は答える。「知らないわ」
 
 
PATCH_15
 煙街を出て、繊維都の圏内に入ると、百貨店の化粧室に入った。真空パックに入れて持ってきていた予備の服に着替えた。着ていた服はトイレのゴミ箱に捨てた。背中に汚れなどついていなかった。
 
 
PATCH_16
 Error!
 
 
PATCH_17
「プログラムの現状はどうだ?」
「前回の仮想実験後に見つかった不具合は、すべて修正済みです」私は答える。
「早いな。通常の〈布状〉のプログラムとは勝手が違うはずだが」
 私は無言で頷く。頭の中では別のことを考えていた。
 焼紡士の男が最後に放った言葉。「ぽんた」を狙っているということだろう。彼らが特定のぬいぐるみ個体を狙って活動している、という話はあまり聞かないが、ありうるのかもしれない。一般的には、ぬいぐるみが持つ記憶の希少性が価値に直結する。あるいはブランドものや、一点もののぬいぐるみであれば、放火による影響度を見込む可能性はある。
「次、繊維技師チームから、共有はあるか?」
 ぽんたはどれにも当てはまらない。元は大量生産のぬいぐるみで、記憶は私が迎え入れてからの記録のみ。私の部屋のワードローブで過ごす彼の記憶に、大した価値はない。もしもぽんたが、『ぼくはぽんた』に書かれた当時の記憶があれば、話は変わってくるが。
「いえ。こちらからは何も」
 何か、見落としている。糸口がつかめれば。
 和田は折り畳まれた〈布端末〉を広げる。浅葱色の布の繊維に細い光の線が伝い、二つの絵が描画される。旧時代の宇宙船と、私たちの宇宙気球。
「昔の粗末な計算機でも、宇宙に行くこと自体は可能だった。ポイントは、」
 和田は一度言葉を切る。胸ポケットから顔を覗かせていたりんごのぬいぐるみを撫でると、りんごはまるで広報部員のように、淀みなく意義を語る。
「要するに〈繊維の世紀〉の到達点を図るプロジェクトだ」
 和田の言葉に、私は思い出す。
『繊維の世紀』。その本で『ぼくはぽんた』が取り上げられ、今になって注目されていると寧々が言っていた。「ぽんた」は今や繊維の世紀を象徴する。焼紡士が狙う理由に十分だ。
 私がぽんたを持っていると、彼はなぜ知ったのか。
 否、もし本当に知っていれば、あの対応で済まなかったはず。
 確信、ないし証拠がなかった?
「久世、どうかしたか?」
「いえ。そういえば、宇宙気球の名前は?」
「カラン号。社長自ら命名されました」りんごが答えた。
 会議が終わり、布端末を広げると、メッセージが一件届いていた。差出人の名を確認して、手が止まる。塗だ。会社の個人メッセージの連絡先を教えた覚えは当然ないが、伝手を辿るなり、調べるなりしたのだろうか。
 先日のファイバーフォーラムは、主催側の責任者を彼が務めていたらしい。当たり障りのない文章からは、彼がわざわざメッセージを送ってきた目的は読み取れない。少なくとも、再び二人で会う可能性を閉ざすものではなかった。私は少し迷ってから、「一度、会って話がしたい」と送った。
 
 
PATCH_18
 私と塗は出会ってから二カ月後に交際を始めた。
 ぬいの館で出会って以降、大学でも時々会うようになった。彼は衣類や繊維電心が生み出す街や社会に関心を持ち、私はぬいぐるみと人間の関係に関心があった。二人の関心の対象は違えども互いが繊維電心に問題意識を持つことを認め合い、尊重していた。じきに、それは情愛へと転じていった。
 彼の家を初めて訪れたとき、大層裕福な家庭の子だと知った。高級住宅地にある邸宅は、学生が一人で住むには広すぎた。
「ここに、一人で?」思わず私は尋ねた。
「ここに、一人で」オウムのように彼は答えた。
 彼はコーヒーを私に淹れた。少し驚いた。暗闇の色の液体は、焦げを絞り出したみたいな苦い味がしたが、香ばしい匂いは嫌いじゃなかった。
「これがコーヒー、か」
「服は心配しないで。脱臭の設備は揃っているから」
 塗はそれから、「一応、秘密ね」と言って、今度はウイスキーの瓶や氷、グラスを抱えて持ってきた。塗が瓶のコルクのキャップを外すと、流木に火をつけたような香りが広まった。彼はロックグラスの底に球体の氷を置き、琥珀色の液体を注ぐ。こぽぽ、と音が鳴る。
「どうぞ。最初は舐める程度に」
 喉が焼ける。顔の熱が上がり、スモーキーな香りが身体中にいき渡り付着するのを感じた。もう一口、舌に染み込ませるように含む。
「塗はこういう文化が好きなの?」
「なんというか。文化と思想が結びついて消えてゆくものに、触れたいんだ」
 寝室に置かれたダブルサイズのベッドは、新品のようなシーツがかけられていた。それとは対照的に年季の入った茶ばんだ毛布に、私たちは身を潜り込ませた。
 古びた毛布の襟の部分、およそ中央より左側にかけて、毛束が絡まり合ってだまになっていた。擦り切れ、引き千切られたみたいに損傷していた。
 塗の左手は、中指の第一関節から第二関節にかけて、たこができていた。毛布を常に触っていることが原因だった。赤く腫れ、硬くなった歪な指が私の身体に触れ、印をつけるように愛撫した。やがて眠りについた後も、彼は縋るように毛布の襟を指で挟み、毛先を捻りあげるように触っていた。恐怖にじっと耐え、不安を紛らわすように。
 
 私たちは多くの時間を共に過ごした。雨の日はぬいの館で小さな物語に耳を傾けた。晴れた日は、自作した繊維電心製のシャツを公園で染色したり、干したりした。
「ねえ、次はどんな服をつくるの?」
 私は玉ねぎで染めたシャツを絞りながら、尋ねる。
「ひとつアイデアがある。あえて皺をつくる服」
「あえて、ね」
「昔のニッチな素材でさ、緯糸にステンレスの繊維を混ぜるんだ。綿の糸に巻いて。それを緯糸の何本かに一本入れることで、ステンレス繊維が形状記憶し、皺を生む」塗はシャツを伸ばしながら言う。「うまく縫製しないと、ステンレス繊維が折れてチクっとしたらしい」
 黄金色に染まったシャツをハンガーにかけ、木と木に渡したロープにひっかけて吊るす。
「繊維電心の衣類では、基本的に皺を無くす方に向かう。それをあえて皺の形状を学習させて自在に表現できれば、新しい服になると思って」塗は笑う。「もちろん、チクっともしない」
 塗の話を聞くのは好きだった。私は服に対して興味を持つようになっていった。
 
 ある日、私が読んでいた大学の講義の参考図書を彼は指差し、言った。「僕の父だ」
 一瞬何のことかと思ったが、遅れて理解した。
「NUIの社長。僕はNUIの、要するに御曹司だ」
〈綿状〉繊維電心のトップ企業の御曹司が、ぬいぐるみよりも服飾に興味を持つのはなぜか。彼は自分の将来をどう考えているのか。聞きたかった。思えば、社会については積極的に語る彼が、自分についてはほとんど語らないことに気がついた。彼が毛布の襟を握りしめる様を思い出し、私はただ、「そうなんだ」と呟いた。
 
 
PATCH_19
 付き合ってから三年後の秋、私たちは別れた。
 私が塗を殴った。
 
 
PATCH_20
〈宇宙気球〉のプロジェクトは、発射に向けて最後の調整を進めていた。
 カラン号は無人で打ち上げられ、宙を浮遊し、船体からこちらへ記録をレポートし続ける。帰還することはない。繊維電心の布を複数重ね合わせるように縫い繋いだ〈パッチワーク〉。布の軽量性と柔性、パッチワークの並列処理能力が、宇宙環境でどう作用するか。単純化すれば、この次世代計算機が宇宙でどれほど稼働し続けられるかのテストだ。
「どれほど稼働し続けられるか、ね」
 最近、人に見られている感覚があった。焼紡士との遭遇以来か、それより前に発端があったのか。ストレスは限界まで溜まっていた。溜息を吐き、深呼吸する。
 ひとつずつ、やるべきことをこなす。荒巻交の『繊維の世紀』を読む。塗と十日後に会う予定をつける。パッチワークを用いたアイデアを書き留める。
 それから、ぽんたをオフィスビルのそばにある駅のコインロッカーに預けた。
 
 
PATCH_21
 些細な苛つきが複数重なった時期だった。晴天の日々が続き、空気が乾燥していた。よく覚えていないが、塗に対しても小さな不満を燻らせていた気もする。
 その日は、日中干したシャツを回収するため、私たちは夜、公園に集合した。冬の冷たい風が吹きつけていた。待ち合わせの時間に遅れてやって来た塗の首元には、ネクタイみたいに手長猿のぬいぐるみがぶら下がっていた。
「ぬいぐるみ。新しく迎えたの?」
「初めまして。お嬢さん」手長猿は言った。
「喋るんだ」
 これまでぬいぐるみを連れているのを見たことがなかったし、彼の家にもぬいぐるみはいなかった。ぬいぐるみよりも衣類に関心があると思っていたから意外だった。大した話ではない。自分に言い聞かせた。それでも、ある種の裏切りに似た感覚を味わった。
「喋る、と言えば」彼は手長猿を連れている理由に触れなかった。「最近、改めて『ぼくはぽんた』を読み返した」
「『ぼくはぽんた』の岳が、シャチピを喋るようにしたのは、岳なりに、夫婦の関係を良くしたいと考えたから。喋るシャチのぬいぐるみを模した地球外生命体が、生きづらさを抱えた夫婦を救う『シャチピの確率』を書いた作者なりの、メッセージだった。けれど、真帆はそれに気づかない。ぬいぐるみのことで頭がいっぱいで、癇癪を起こす」
「あそこ、あなたはそう読むんだ」
「岳の行動心理を考えれば。僕は『シャチピの確率』も読んでいるし」
「私だって、読んでいるわ」
「岳の思いは伝わらず、八つ当たりとして理解される」
「あれは八つ当たりでしょ。どう好意的に解釈しても」
「僕はあのシーンが嫌いだ。真帆の、あの態度が」
「危ない」と、手長猿が言った。既に遅かった。
 気づけば、私の拳は振り抜かれた後で、強い痛みに震えていた。
 塗が右目を閉ざして顔を顰めて倒れ込んでいた。口の端、泡混じりの赤い液体が滲むように溢れ始めた。手長猿のぬいぐるみは解けた靴紐みたいに手を絡ませて、地に伏していた。
 私はその場で、ぼんやりと彼を眺めていた。遅れて、己の行為の意味を理解した。塗は身じろぎし、ゆっくりと立ち上がり、手長猿のぬいぐるみを片手に抱えて、よろよろと歩き出し、去って行った。私の方を一度も見ずに。
 彼がいなくなった後もしばらく、私はその場に立ち尽くした。
「寒いな」
 夜空を見上げた。濃紺の夜空から雪片が舞い降りてきた。すべての雪片が等速で下降するように見えた。公園の大地を少しずつ、白く染めてゆく。私と雪の降る世界だけが、緩やかな時間の中に閉じ込められたようだった。
 私はたった一人だった。
 私が悪い。いつだって。友達に裏切られたり、誰かに貶められたりしたことはない。私が孤独なのは、私が関係を破滅させてしまうせいだ。私が悪いのだから、誰にも同情されない。優しく手を差し伸べ、慰めてもらえない。
 干していた二枚のシャツを回収した。世界に身を委ねるように歩いた。家に辿り着いた。ワードローブを開くと、ぽんたが微笑んでいた。透明な箱から取り出し、ぎゅっと抱きしめた。
「あったかい」
 塗を殴った腫れた左手で、ぽんたの丸い耳をそっと撫でた。ぴん、と張った髭が手首をくすぐった。
 ずっと、ぽんただけがそばにいてくれた。
 ぽんただけは、絶対に傷つけない。
 何があっても必ず、彼を守る。
 私はもう一度、ぽんたを強く抱きしめた。豊かな尻尾が微笑むように柔らかく揺れた。
 
 
PATCH_22
 私が初めて試みた二次創作は、しかしすぐに挫折した。タイムリープ後を描けなかった。『ぽんたの大冒険』と題されるはずだった物語は、以下の文章で断絶し、その先はない。
 
 *
 
「タイムリープって何だぽん?」ぼくはちびに聞く。
「望んだ過去に戻れるっち。お髭を同時に引っ張ると」
 ぬいぐるみの病院で手術をした結果、ぼくは特別な存在になった。ぼくはタイムリープ能力をこの身に宿したらしい。二人が喧嘩する前に戻って、喧嘩のきっかけを無くしてしまえば、二人は仲良しのまま、というわけだ。
 そんな大きな任務がぼくに務まるだろうか。喧嘩のきっかけもわからないのに。
「二人がこのままなんて、悲しいッピ!」
「ぽんた兄さんならできるっち!」
 ぼくは決意する。
 左右のぼくの髭を、シャチピとちびが引っ張る。視界が歪み、世界が虹色に塗りつぶされて、景色の輪郭が溶けてゆく。大事なものが失われてしまうような恐怖を覚えた。ぼくの身体がばらばらに解けていき、宇宙に散って、ぼくという存在が永遠に消失してしまうような、そんな気がした。
 ぼくは、
 
 *
 
 
PATCH_23
 ぬいぐるみが燃えていた。
 繊維都の中心を貫く〈絹の道〉、たおやかな布であしらわれた高級ブランド店が軒を連ねる一角で、若い女性のハンドバッグに吊るされた猫のぬいぐるみが、突如火を吹き出した。
 悲鳴が上がる。焼紡士だ、と誰かが叫んだ。持ち主は燃えるぬいぐるみを呆然と眺めていた。街を歩く人々はその場から逃げ出す。発火を検知した街の布が通知を飛ばしたのだろう、すぐにパトカーの音が聞こえてきた。
 散りゆく人々の合間を縫うように、こちらに向けられた視線に気がつき、見やる。
「寧々?」
 視線の主は彼女だった。瞬きする。彼女がその場から駆け出した。
 因果は不明、けれど。寧々が煙街にいること、彼女から私に接触してきたこと、『ぼくはぽんた』の話を彼女にしたこと、彼女と会った日に焼紡士と遭遇し、それ以来誰かに監視されていること、まるで私を誘うようにぬいぐるみが目の前で燃やされたこと。それらの出来事を暴力的に紐づけ、一つの仮説を組む。
「もしもあの子が、焼紡士だったとしたら」
 去りゆく彼女を見失う寸前、私も走り出す。
 思考が行き来する。思えば、後輩の社員から積極的に慕われるのは、寧々が初めてだった。直接業務の繋がりもなく、そこには友情を育む余地もあるように思った自分がいたはずだ。
 繊維都を抜け、煙街に突入する。全身から汗が吹き出す。シャツの織りが緩み、風が入る。彼女の背中をはっきりと捉える距離まで詰めた。若者の体力に負けていられない。
 見覚えがある場所。前に焼紡士と遭遇した路地にいた。寧々が足を止め、振り返る。
 彼女は私を見据え、徐にポケットからプラズマライターを取り出した。
「郁さん。死んだ命はすべて、燃えるべきだと思いませんか?」
 
 
PATCH_24
 寧々は、寂れた海水浴場の砂浜みたいな風合いのリネンのシャツを着ていた。袖口周りに深い皺が幾重にも入っていた。下はインディゴのデニムパンツをロールアップして履いていた。古い型のセルビッジデニム。いずれも繊維電心の使われていない衣類だ。
「今の社会は、いつまでも明瞭な過去の記憶に包まれて、身動きが取れない。だから私は燃やすんです。肉も、コーヒー豆も、コンピューターも、繊維も。一切は火を介して移り変わる。世界はそうして巡る。違いますか?」
 記憶は忘却されるべきである。忘れるからこそ、人は今と過去を愛せる、と。
「急に語るじゃない。あの街での犯行は記憶される。捕まるのも時間の問題よ」
「では単刀直入に。郁さん、あなたが保持している『ぽんた』。それを我々に提供してほしい、さもなくば」
「さもなくば?」
「私たちは、人に手荒な真似はしない。必要にならない限りは」
 必要な場合は、実力行使をするというわけだ。
「過去に囚われているのはどっち? まさにあなたが言うように、変わり続けた先が今だとしたら、この世界を根本から否定できないはずよ」
「そうかもしれない」彼女はあっさりと答えた。「私はただ、変わり、失われることを前提とした社会を取り戻したい」
 繊維電心はそうじゃないはずだ。繊維は脆く、簡単に損なわれる。だから、彼女たちの思想に反するとは限らない。私の反論に「そうかもしれない」と答えた彼女は、その言葉とは裏腹に、対話の可能性をあらかじめ閉ざすようだった。初めから分かり合う気がない。お互い様かもしれないけれど。
「ぬいぐるみは噛み付かない。吠えない。糞尿を垂れない。動物は違う。エゴを押し付ければ跳ね返ってくる。それが生命であり、本物である証です」
 寧々は私を睨む。「けれど繊維社会は、偽物を本物のように守ろうとする」
 大量生産されたぬいぐるみが記憶を宿し、固有性を獲得する。その固有性を嘘だと言う。
 けれど。
 私はそう思わない。
 私は目を細め、顎を上げる。前髪を右手で無造作にかきあげる。
「だからこそ、あなたたちは、ぬいぐるみだけを燃やす。ぬいぐるみは歯向かわないから。燃やしても、それを本物だと思っていないから心が痛まない」
 私は吐き捨てる。考えた言葉を垂れるな。声という名の身体の躍動を轟かせ。
「嘘臭いのはどっちだ。偉そうに薄っぺらな口上並べただけの、卑怯者ども」
 寧々にしてみれば、ある種の豹変に映ったかもしれない。初めて彼女の表情が崩れた。驚愕の色が浮かんでいた。
 これが私だ。口を、身体を動かせ。
「私にとっては、ぽんたこそが本物になったんだ」
 膝を曲げ屈み、つま先で大地を掴み、跳ね上げるように走り出す。身に纏う衣類の張力が変わる。乱れた金糸が視界を舞う。隙間から目を見開く寧々の瞳が覗く。私が仕立てた服が、私の動きをより大きく、迷いなく見せる。寧々はプラズマライターを私へ突き付ける。その着火口を私の左手が強く掴む。腕を下に振る。寧々は身体を崩し、地面に倒れ込む。
 身体を動かす。素早く。力強く。走る。
 路地を駆け抜ける。継ぎ接ぎだらけのアスファルトが両脚を突き上げ、振動が伝う。前方に二人、こちらを見据え腰を落とし構える男。戸惑いと恐れの色が顔に浮かんでいるのがわかる。考えているんだ。どうすべきか、何が正解かを。私は奇声を上げる。彼らの思考を壊す。置き去りにする。「大きな声で話せばいい」と、かつて和田は言った。
 入り組んだ煙街を当てもなく走り、幾度も行き止まりや同じ道を辿りながら足を動かし続けるうちに、追跡者や待ち伏せする者の気配がなくなった。
 煙街を抜けてからも一心不乱に走り続けた。エンカー社の本社ビル前の駅のコインロッカーに辿り着くとようやく足を止めた。衣類が微弱な電流を流し始め、筋肉をほぐした。
 首に巻いていた〈布端末〉が振動する。ほどき、広げる。
 寧々からのメッセージだ。テキストを布上に描画させる。会社のアドレス宛に送られてきた。「私たちが把握している限り、ぽんたと思われる個体はあなたのもの以外に二体、確認しています。私たちはいずれかを確保し、燃やし、公開します。ところで郁さん、あなたのぽんたは、本物のぽんたですか? 私たちの調べでは――」
 メッセージを削除する。〈布端末〉を適当に腕に巻く。
 ふと思う。寧々の思想はわかったが、なぜ寧々はそのような思想を持ち、行動するに至ったのだろう。彼女に問いそびれた。
 ロッカーを解錠し扉を開く。耐火繊維で編んだ黒色の箱の蓋を開ける。
 変わらない姿でぽんたがいた。
 
 あなたはぽんた。
 
 
PATCH_25
 ――テキスタイルの外部はない。
 荒巻交『繊維の世紀 ビットからノットへ』より
 
 
PATCH_26
 かつて幾度も通った大学時代の彼の家。大地から生え出したような布が幾重にもたゆたい、建物を包み込んでいた。繊維電心によって編まれたこれらのカーテンは、中を隠すと同時に、外部を監視する機能を併せ持つ。
 とある考えが脳裏を過ぎる。ぽんたを彼に託すという選択肢が、あるいはあり得るかもしれない。彼のもとであれば、セキュリティに問題はない。焼紡士も、NUIの本丸と直接コトを構えるとなれば慎重になるはずだ。
 カーテンは私を認識すると、はらり、はらり、と左右に分かれ、誘い込むように通り道を形成した。それに従って歩を進めると、気づけばすでに入室しており、真っ白な空間、黒いソファに、塗が座っていた。
「あれから、ずっと考えていたんだ」
 それがいつかを、彼は明確にしない。
「正しさはプロットできない。ただ二項の対立の衝突を和らげ、接面の軋轢を緩和するしかない」彼はソファから立ち上がって、初めて私と目を合わせた。「安定を欠けば人が傷つく」
 恐らく一七〇番手くらいの極細の双糸で織られた空色のボタンシャツを、塗はオーバーシルエットで着こなしていた。
「久しぶり。この部屋、物が減った」
「今は住んでないから」
 向かい合うように置かれた一人掛けのソファにお互い座る。私はぽんたを入れた黒い箱を膝の上に乗せる。
「さっきの話。昔と言ってることが違う」
 かつての彼は、滑らかな社会に疑義を呈していた。
「理想だとは思っていないよ。ただ、最悪はいくらでも存在すると知った」
 塗の首元に小さな〈綿〉が付着していた。時折彼はそれに触れ、耳を澄ますように目を瞑る。口を開く。
「NUIはWeaveCore、すなわち繊維電心を生み出したことで世界を変えた。けれど真に驚異的な発明は、そっちじゃない」
「ただの古い繊維から、記憶の痕跡を読み取る技術」私は言う。
 あらゆる物は記憶を保持している。鉛筆も、栓抜きも、そしてぬいぐるみも。記憶を持つのは生物とコンピューターだけの特権ではない。塗の祖父はそう考えていた。その思想を端緒に発明されたのが〈繊維解析装置〉だった。けれど、物は自ら記憶を参照することができない。それを可能にするものとして、もうひとつの発明、WeaveCoreが生まれた。
「あなたは何を目指しているの?」
「究極的には、人間の記憶を繊維に移植させる。人間は過去の記憶から解放される。ぬいぐるみがかわりに人の記憶を持ち、まるで生命のように生きる。人間は、」そこで塗は、行き先を見失ったみたいに言葉を切った。訪れかけた沈黙を吹き飛ばすように、私は言う。
「人間は記憶を失ってもいいって?」
「人間社会がより安定する。あらゆる争いは、過去の記憶に紐づいているから」そう言って、彼は首元の〈綿〉をとん、と突いた。ふと、かつて彼の首元に巻かれた手長猿のぬいぐるみを思い出した。
 私だって、この社会を良いとも思うし、悪いとも思う。寧々の言うことを正しいとは思わないが、塗が言うほど、今の社会状況で安定化を図ることが相対的に善かは疑問だ。規律を好まない性分からすれば、焼紡士たちの言い分だって理解できる。とはいえ、同じ技術屋として、NUIのビジョンに興味が湧かないと言ったらそれも嘘だ。かつて物をよく壊し、暴力を振るった過去がある自分は、争いのない社会を希求する塗に寄り添うべきかもしれない。
 それでも。
 私の〈世界〉に対する苛立ちは消えない。
「あなたは、あなたたちは、ずっと人間と、人間社会のことだけ考えている」
 ぬいぐるみが犠牲になるんだ。
 いつだって、どんな考えだって。
「君はいつも、ぬいぐるみのことを考えていた」
 彼は首元の〈綿〉に触れようとして、やめる。過去の記憶を呼び出そうとしてやめたみたいに。
「君が持つ箱。それは、ぽんた、だね?」
 その言葉を聞いた瞬間、なぜ彼が今になって私に連絡をしてきたのか理解した。
「ぽんたは特別な個体だ。普通、WeaveCoreを搭載したぬいぐるみが、自ら小説を書くなんてありえない。特異な製造でもないのに。『ぼくはぽんた』で書かれている文章は基本的に須田岳による創作の面が大きいけれど、ぽんた自身の記録をもとにして書かれているのも事実だ。それはNUIの過去のデータから確認済み。ぬいぐるみが自ら小説を書いた。人間の言語による出力で、だ」
 NUIも、ぽんたを欲している。そう言っているのだ。
 ぽんたを入れた箱を抱える私の両腕に、力をこめる。
 私は。
 
 
PATCH_27
 塩昆布のおにぎりに卵焼き、鯖の塩焼きと味噌汁を食べた。彼のつくる食事はいつも素朴だった。いつだって、完璧に美味しかった。
 食事を終え、彼の家のバルコニーに出た。箱から出してぽんたも連れて行った。初夏の夜。湿度の高い空気が肌に纏わりついてはいっそ雨が降ってくれればと思いつつ、時折吹き抜ける風が身体の一片をさらい、世界に溶かしてゆくようで、それが心地良かった。丸い月が空に浮かんでいた。星々が瞬いた。私の膝の上に乗せたぽんたも、夜空をじっと眺めていた。
 約一時間、我々は互いに何も言わず、塗が持ってきた炭酸水に時折口をつけては、宙を眺め、風を浴びていた。
「NUIは、ぽんたを回収しようとしないでほしい」
 炭酸水が底を尽きたとき、私は口を開いた。
「ごめん。この順番で言うのが、ひどく不誠実なことは理解している。その上で言わせて」少しだけ震えている身体に構わず私は言った。「あのときは、ごめんなさい。私が悪かった。あれからずっとそう思っていた」
 ちらりと彼に目を向ける。彼もまた、夜空を眺めていた。
「あの日も、丸い月が浮かぶ夜だった」
「今日と違って、寒い日だったわ」
「普通なら、まったく釣り合ってないけどね」そう言って、塗は私の方を向いた。私も彼に向き合った。視線が絡み合う。その瞳に浮かぶ感情を、私は読み取れない。かつては。いや、それも違うかもしれない。初めから理解なんてしていなかった。
 塗はそれから、しばらくぽんたを見つめた。思えば彼がぽんたと会うのは初めてだった。やがて彼は口元を少しだけ緩めた。
「焼紡士に関しては、僕にはどうもできない」塗は言う。「僕が君にできることは三つ。ひとつはNUIについて。君の頼みを承諾する。今後NUIはぽんたの回収を試みないと、約束する。二つ目は、しばらくここでの滞在を提供できる。焼紡士も、恐らくぽんたの候補をいくつかリストアップしているはず。他の候補を確保すれば、君のぽんたを執拗に狙うこともなくなる。それがいつかはわからないが、それまでここにいれば、セキュリティ面は心配ない」
「もうひとつは?」
「ここを出る際。地下の私設通路を使わせる」
「ありがとう」彼に頭を下げる。「少しだけ、滞在させて。あれば、思織機を借りたい。あと、資材を発注しても構わなければ」
「問題ないよ。いつまで?」
 宇宙気球の発射の日付を確認する。「八日後の早朝に発つわ」
「ひとつ貸しだ。今後NUIのために君の能力を借りたい。それはまた連絡する」
 塗は今日中に今の住まいへ帰るから、八日間ここを好きに使っていいと言い、各部屋を案内してくれた。コーヒーもウイスキーも今はこの家になかった。寝室を案内されて、真っ白な皺ひとつないシーツの上には、同様にシーツに包まれた羽毛布団が置かれているのみだった。
「あの毛布、もう使ってないの?」
「捨てたよ。随分前に」
「どうして?」
「不要になった。それだけ」それから付け加えるように言った。「大人になったんだ」
 大人になっていない。それは私のことだ。
「ねえ、郁」塗が、私の名前を口にする。「君のぽんたは、本物のぽんたなの?」
 彼の瞳を真っ直ぐに見つめて、私は言う。「そうよ」
 
 
PATCH_28
 きっと、あらゆる可能性があった。私が彼と再会した日、彼を無視していれば。あの日、私が彼を殴らなければ。
「もしも、そうならば」思わず、私の口から声となって漏れ出した。
 塗は訝しげにこちらを見る。
「いえ。さようなら、ね」
「うん。また」と、確かに彼は言った。
 かつて私の暴力により一度裁ち切られた糸は、完全に失われていなかった。結ばれずとも絡まり、あるいは編まれて、私たちは世界を覆うかもしれない。いつか破かれるかもしれない。「正しさをプロットすることはできない」と彼は言った。彼には彼の考えがあり、私には私の思いがある。
 もしもぽんたが、WeaveCoreを実装しないただのぬいぐるみだったなら。私は誰からも何も言われず、ただ自分の愛するぬいぐるみといつまでも一緒にいられたかもしれない。否、もしもぽんたがぽんたでなければ、私はぽんたに出会うことはなかった。
 寧々も塗も、私に尋ねた。「それは、本物のぽんたか?」と。
 関係ない。
 私はぽんたと偶然出会って、彼をぽんたと呼び、愛し、時には傷つけ、励まされ、共に生きてきた。特別な個体? 世界が何と判定しようと、私にとって、ぽんたは特別なんだ。特別な理由などなくても。
 あの日から、ぽんたを守ると決めた。時が経てば事態は好転する可能性を塗は示唆したが、そうなるとは限らない。私がぽんたと一緒にいては、いずれ奪われかねない。たとえ誰かに託しても、その先でぽんたが安全であり続ける保証もない。真帆にとっての岳は、私にはいない。
 安全ではなくても、誰にも奪われない場所があったとしたら。
 会社には出社せず、体調不良を理由にリモートで業務を続けた。仕事を終えると、塗の〈思織機〉を使い、山吹色の布を織る。繊維電心を撚った糸を巻き取り、綜絖に通す。プログラムを打ち込む。夜が深くなると、ぽんたと一緒にバルコニーに出て、夜空の星々を眺めた。
「ぽんた。知ってる? 宇宙はとても広い。今も、広がり続けているの」
 風が吹く。ぽんたの髭がなびく。
「熱は必ず、温かい方から冷たい方へ移動する」
 私の熱がぽんたに移る。ぽんたの繊維電心が駆動し、声を、匂いを、触感を記憶する。
『ぼくはぽんた』では、真帆とぽんたが交わした約束は明示されない。けれど、寒がりで寂しがりだった真帆がぽんたに求めたものを想像するのは難しくない。それから、「真帆と同じ棺に入る」という、叶うことのなかった夢。
 脳内に様々な想いや記憶が泡のように浮かんでは結びつく前に弾け、消失する。
 私は。ぽんた。何ができるだろう。
「あ」
 ぽんたの首元で結ばれていたはずの黄色のリボンがするりと解けた。夜風に乗って宙をふわりと浮かび、舞い落ちていった。
 
 八日目の早朝。ぽんたを抱えて、塗の家の地下の扉を開く。蛇のような一本の道が続いていた。道はベールに包まれていた。幾重にも重ね合わされた布が僅かな空気の流れに導かれてたゆたい、色彩を変調させていた。
「行こうか。ねえ、ぽんた」
 
 
PATCH_29
「あらゆる争いは、過去の記憶に紐づいている」と塗は言った。寧々にはどんな記憶があるのだろう。何が彼女を動かすのだろうか。
 そういえば、寧々にコーヒーを淹れてもらっていない。
 
 
PATCH_30
 思いつきだった。繊維に文字を宿し、撚り糸を紡いでテキストを組み、物語をプログラムした布となる。その布をさらに重ね合わせて縫い繋げば、あらゆる可能性を含む小説が構築される。
 もしも岳がシャチピを喋るようにしなかったら。
 もしも私が塗を殴っていなかったら。
 複数の可能性が描かれ、読み手がひとつの可能性を選び、決定する。
 私がパッチワークで縫い繋いだ山吹色の一枚の布。
 それが、〈この物語〉だ。
 
 
PATCH_31
 この物語は、私が綴る最後の二次創作だ。
 
 今私は、宇宙気球の打ち上げ会場に隣接する仮オフィスで、このテキスト=テキスタイルを綴っている。
 これからのことを最後に記す。
 私は、ぽんたを宇宙気球に乗せることにした。
 船内は人間が搭乗することを想定したスペースや機材が既に組み込まれている。ぬいぐるみの充電スポットもあるから、そこにぽんたを座らせる。ぽんたは宇宙に旅立つ。帰ってくることはない。ぽんたに繊維電心の到達点を象徴させるとか、そういう意味を背負わせるつもりはまったくない。あくまで内密に。
 私物を宇宙気球に乗せるには申請がいる。危険物だと困るから当然だ。私の場合それがぬいぐるみで、うっかり申請せずに乗せることになる。露見すれば大問題となるだろう。
 構わない。
 宇宙は安全な場所とは限らない。それでも、誰の手も届かない宇宙であれば、この先、地球にいるよりは余程マシだと思った。
 私とぽんたは、ここでお別れだ。
 私はこの先どうしようか。もしも私が本当に後先考えずに動く人間ならば、例えばこんな行動に出るかもしれない。この物語を宿した山吹色の布を大量に編んで、空から街中にばら撒くのだ。まるで革命を告げる旗のように。焼紡士にも、NUIの社員にも、繊維都の住民にも届く。亀裂が入った社会に、仄かなぬくもりが伝わるかもしれない。
 その頃には、ぽんたは宇宙の彼方にいて、私の様子は見えないだろう。色々あった後も、もし私が仕事を続けられていれば、宇宙気球カラン号から送られてくる記録を確認し、宇宙を旅するぽんたをいつまでも想像し続ける。そうして、私は地球で歳を重ねる。いつか愛する人と出会うかもしれないし、一人自由に生きているかもしれない。
 こっちはうまくやるから。
 
だからきっと、ぽんたも。
 叩いたり、殴ったりしてごめんね。ワードローブやコインロッカーの中でずっと一人にしてごめん。狭くて暗い場所ばかりで、ごめん。これからとても長い時間、再び一人にしてしまう。本当にごめん。
「宇宙で一人、寂しくないように。寒くないように」
 真帆が始め、岳とぽんたが綴り、私が書き加え、編んだ山吹色の物語が、あなたをずっと守る。
「大丈夫、大丈夫だよ」
 宇宙は、ワードローブの中よりとてつもなく広くて、コインロッカーよりもずっと暗い闇の中、無数の星々が瞬いている。大冒険だ。
 
 窓から空を見る。天気は快晴。このまま晴れているといいな、と思う。
 ぽんたには晴れが似合うから。
 
 
PATCH_32
 Textile Side Aは須田岳『ぼくはぽんた』の全文を、Textile Side Bは久世郁によって書かれたテキストを、パッチワークしたものである。各パッチから成り立つ二つの物語が表裏を為して、一枚の山吹色の布を構成する。
 
 
 
 
PONTA 
 
 
ぼくを包む山吹色の布に触れる。
 宇宙空間で、ぼくは郁が縫い繋いだ物語を何度も読んだ。
 読む度に、〈物語〉の再生精度は落ち、エラーパッチが増えていった。やがて、布は縫い目から裂けて、失われてしまった。その頃には、ぼくはすっかり物語を記憶していた。
 とても長い時が経過した。宇宙のことが、少しずつわかってきた。
 この宇宙もまた、誰かによって撚られ、紡がれ、縫われ、編まれ、あるいは織られている。
 繊維でできた宇宙。〈パッチワーク〉された、ただひとつの宇宙。
 宇宙はあらゆる可能性を含み込む。あらゆる可能性は選び取られ、ひとつの物語に収束する。
 ぼくの大冒険も、たったひとつへと向かう。
 初めから、終わりまで。とてつもなく膨大な時間をかけて。
 
 長い旅で、僅かずつ、ぼくの身体は解けていった。すべてのぼくの繊維が、ぼくの記憶を少しずつ宿していた。離散する度に、ぼくは記憶を手放してゆく。
 無数に分かれたぼくの一片、埃のような繊維は、ラベンダーの香りの記憶をもっていた。宇宙を漂い続け、時空を超えて、やがてとある窓から舞い落ちた。絡まりが解けながら落下し、着地した。
 名前を知らない、老いた女性が箱の中で目を閉じていた。彼女を納めた箱の周りを、ラベンダーの花が囲んでいた。この香りに誘われて、ここにやってきた。
 時が経っても、女性は動かなかった。いつか動くだろうか。
 どんな声だろう。どんな瞳をしているのだろう。
 ただ、待っていた。
 もう少ししたら、彼女は目を開けるかもしれない。
 もしもそのときは。名前を聞こう。
 ぼくは? ぼくは誰だろう。
 彼女も、自分の名前を知らないかもしれない。
 名前をつけてもらえることは特別だ。
 
 そのときは、彼女に名前をもらおう。
 彼女にすてきな名前を贈ろう。
 
 そう思いながら、眠りについた。

 

文字数:39987

内容に関するアピール

 
●狙い
ロボットSFならぬ、ぬいぐるみSF。第二部の舞台となる、記憶と知能を宿した繊維が社会の基盤となった未来の世界観を〈ファイバーパンク〉と名付けた。サイバーパンクが情報と身体の関係を問うように、本作は繊維と記憶、ぬいぐるみと人間の関係を描くことを意図した。「テセウスの船」を起点に、「たとえ同一性が保証されなくても、私たちは誰かをその人、そのぬいぐるみとして愛せるか」を問う。
 
●構成
・Textile Side A:ぽんたの記録をもとに岳が加筆修正して仕上げた小説。須田岳『ぼくはぽんた。』として出版されたテキスト。
・Textile Side B:郁が書いたテキスト。郁の「最後の二次創作」。
・山吹色の布:郁によってPATCH単位で再構成された二つのテキストを、Textile SideAとTextile SideBとして〈パッチワーク〉し、一枚に編まれた布。あらゆる可能性を含み、読者が選びとった瞬間にひとつに収束される物語。
・PONTA:「山吹色の布」の物語を読むぽんたの視点。
・縫い繋がれる、ただひとつ、宇宙:パッチワークされ、一枚の布でできた宇宙=一希零によって編まれた本物語。
 
●オマージュ・参考
カエアンの聖衣、華氏451度、アンドロイドは電気羊の夢を見るか?、世界の終わりとハードボイルドワンダーランド、時をかける少女、他。引用や作中作も駆使し、「パッチワーク」小説に仕立てた。
 
●その他
作中に登場する須田岳の小説『シャチピの確率』は、第5課題にて実作化した。
https://school.genron.co.jp/works/sf/2025/students/0kazuki901/10614/
 
●最後に
これが僕のSFだ、と言える作品を書こうと思いました。読んでくださったすべての方に、感謝いたします。一年間、本当にありがとうございました。

文字数:773

課題提出者一覧