第ゼロ遺失物センター
真壁セイジが失敗に気づいたのはコンビニエンスストアのレジだった。
昼食にしようとしたサンドイッチと缶コーヒーの支払いを、スマホでタッチ決済しよとしたけれど、肝心のスマホがなかった。 今まで何度もスマホをいろんな場所に置き忘れているセイジは、これではいけないと思い、数日前に携帯ストラップを購入して首から提げるようにしていた。朝、家から出たときは首からぶら下がっていた。昼休み休憩に会社から外に出てきたときも、首にぶら下げたスマホが腹の前で揺れていたことは間違いない。それなのに今はない。挙動不審になるセイジを、怪訝な表情で観ている店員に「あ、すみません。これ、買うの止めます」と言って急いでサンドイッチと缶コーヒーを元あった場所に戻して、セイジは店を飛び出す。会社からこのコンビニまでは歩いて五分足らずだ。こんな短い距離で、僕は何処にどうやってスマホを置き忘れたんだ? まったくなんて間抜けなんだ、と自分に呆れながらセイジは会社へと戻る。七月に入ったばかりだけれど、真夏の熱い日差しを浴びてセイジは汗だくになる。会社に戻って急いで自分の机に行ったけれど、そこにスマホはない。やっぱりちゃんと首から提げて外に出たんだ。じゃあ、どこだ? セイジは、昼休みになってからの自分の行動を思い出してみる、あ、そうか、あそこか。とある場所がひらめいて、そこへ向かおうとしたとき、遺失物AIがコントロールしている忘れ物お届けロボットが近づいてきてセイジの前で止まった。そして、前面のスライドドアが開く。そこにセイジのストラップ付のスマホがある。「これは、あなたのものですね。間違いなければ受け取って受領ボタンを押してください」と中性的な合成音声が言う。セイジはスマホを受け取り受領ボタンを押す。「お忘れ物にはお気を付けください」と言いながらロボットは去っていく。セイジは去り際にロボット表面のディスプレイを見る。取得場所一階男子トイレと表示されている。
個人の持ち物のほとんど全てに、識別タグが埋め込まれるようになって十年ほど経つ。爪の先ほどもない微細なタグは、製造時に素材へ織り込まれ、所有者の躰に埋め込まれている個人情報タグと紐づけられる。持ち物が持ち主から、一定の距離を離れて一定の時間が経過すると、遺失物AIはそれを忘れものと判断する。そして、識別タグの信号を追跡して近くにいる忘れ物ロボットが回収して、中央遺失物センターに運ぶ。そのとき近くに所有者を発見出来たら、ロボットは直接所有者に忘れ物を渡す。持ち主が紛失したことに気づいて申請すれば、遺失物センターからロボットが届けてくれる。西暦2076年の日本で物を紛失して見つからない、という最悪な状況は限りなくゼロに等しくなっている。スマホを落として誰かに拾われても変な事件に巻き込まれることもない。
「また、どこかに置き忘れたの?」
背後から声をかけられてセイジは驚いて振り向く。同期で入社した甲本サキがあきれ顔で笑っている。
「僕の記憶は、発作的に一瞬空白になるみたいだよ。そのときに、きっと忘れちゃうんだろうね」
「真壁さん専用のロボットが必要そうね」
「そうしてくれると助かるよ」セイジは苦笑しながら午後の仕事に戻っていった。
セイジは都内の設備点検会社で働いている。主な仕事はビルやマンションの空調設備、排水、非常用電源、古いタグ配線などの確認だった。AI管理が進んだ時代でも、人間が目で見て手で触らなければ分からない故障は残っている。セイジはそういう場所へ行く仕事だった。その出先で何度も忘れものをして遺失物ロボットに届けてもらっていた。今日は珍しく社内で仕事をしていた。セイジの毎日は朝、現場に出る。昼、コンビニでサンドイッチを食べる。午後、古いビルの制御盤を点検する。夜、会社に戻り、報告書を書く。という忙しい日々が続いていた。一日が終われば一人暮らしの部屋へ帰る。
その夜、セイジのもとに気になるメールが届く。
セイジのスマホに届くメールは、そのほとんどがスパムだった。毎日大量に届く迷惑メールをセイジはルーチン作業のように無意識に削除していたが、その日の夜は、なぜか一通のスパムメールを開いてしまった。そのメールのタイトルは「第ゼロ遺失物センターからのお知らせ」だった。いつもお世話になっている遺失物センターという文字に反応してしまったようだ。でも、遺失物センターは、中央遺失物センターと、地方にある第一遺失物センターから第七遺失物センターしかない。忘れ物の常習犯であるセイジは遺失物センターについて詳しく知っていた。第ゼロなんて聞いたことない、と思って開いてしまったメールを急いで削除しようとしたけれど、メール文の内容を読んでセイジの動作は止まった。それは
『遺失物AIでも見つけられない忘れ物を、あなたに届けます。
本当に大切な物はAIには見つけられません。
今すぐ申請してください。第ゼロがあなたのために探して届けます。
ただし、必ず代償を用意してください』この後にURLが記されている。
本当に大切な物って何だろう? とセイジは考えてみる。すぐに、そんな物、自分にはないなぁーと答えを出して、セイジはそのスパムメールを削除して寝てしまう。
次の日の昼休み、セイジは甲本サキから、ある不気味な話を聞かされる。
「ねぇ、真壁さん、第ゼロって知ってる?」
一晩寝て、セイジは昨夜のスパムメールのことをすっかり忘れていたので
「え、知らないよ。何それ?」と言う。
「死んだ人を遺失物として届けると、第ゼロ遺失物センターが探し出して届けてくれるんだって」
「昭和から令和にかけて流行った、都市伝説ってやつかな? また流行ってるの?」
「うん、そうみたいね。なんかメールが届くみたい」
あ、昨夜のあれか、とセイジは思い出す。本当に大切な物って、亡くなった人のことか。セイジは昨夜のメールのことをサキに話そうとすると
「わたしにそのメールが来たら、試してみようかなぁ?」とサキは言う。
「試すって、生き返ってほしい人がいるの?」
「人じゃなくて猫なんだけどね」
「ああ、そっかー、二十年だっけ? 長生きした猫が死んじゃったって、こないだ言ってたね。えっと、名前は……」
「きなこ、もう一度会いたいなぁ」と言いながらサキは午後の仕事に向かっていく。
自分には生き返ってほしい人もペットもいない。まあ、都市伝説なんて嘘だよなぁ、と思いながらセイジも午後の仕事に向かう。
それから一週間後、甲本サキは行方不明になる。
セイジが出先から戻った夜の八時過ぎ。社内はほとんどの社員が帰宅して閑散としている中で、甲本サキの上司の植田に声をかけられる。
「君はたしか甲本さんと同期入社だったよね」帰ろうとしていたセイジは突然のことで驚いた。植田と言葉を交わしたことはほとんどない。
「はい、そうですけど」と戸惑い気味に返事をする。
「彼女と連絡が取れなくてね。この三日間、無断欠勤してるんだよ」困り顔して植田は言う。
「え、そうなんですか」
「プライベートで甲本さんと会うことあるかな? あ、申し訳ない。こんなこと訊くのは、よくないよね」
「あ、いえ、大丈夫です。会うことはないですね。社内で休憩時間に会話するくらいですよ」と言いながら、セイジは最後にサキに会ったのはいつだったか記憶を探る。
「明日も出社しないようだったら、彼女の家まで行くしかないかな」自問自答するように植田は言う。
「携帯は繋がらないんですか?」
「電源を切っているのか、電波が届かない所にいるのか。ラインのメールも既読にならないんだよ」
「甲本さんに最後に会ったのは、たしか先週の火曜日の昼休みだったと思います」今日は木曜日だ。三日間欠勤しているってことは、あの会話から一週間後にサキはいなくなってしまったってことか、とセイジは思う。
「あ、疲れているところ、引き留めてしまって、すまない。明日になれば、ケロッとした顔して出社するかもしれないな」苦笑しながら植田は言って帰っていった。
セイジはサキと交わした会話の内容を思い出していた。第ゼロ遺失物センターのメールがサキにも届いたのかもしれない。セイジは削除したメールをゴミ箱から探そうとしたけれど、一週間以上過ぎているのでもう無くなっていた。
次の日も甲本サキは出社しなかった。
翌日の土曜日の午後、セイジは地下鉄に乗って甲本サキが住むワンルームマンションに向かった。植田に「せっかくの休日に、申し訳ないのだけれど、様子を見に行ってくれないか」と頼まれた。「上司である植田さんが行くべきですよ」とセイジは言おうとしたけれど、「私が行くべきだということは分かっている。でも、どうしても外せない用事があって。頼まれてくれないか」と先に言われて懇願された。休日でも特に何の予定もないセイジは、苦しそうに困惑する植田を見かねて「わかりました。どうせ暇な土曜日なんで、ちょっと行って見てきますよ」と言う。「ありがとう、ありがとう、ありがとう、本当にありがとう。このお礼は必ずするよ」と心から安堵した表情をして、ありがとうを繰り返しながら植田は去っていった。
甲本サキの住所は会社の社員個人情報データーベースから入手した。そこへのアクセス権を持っている人は限らていて、その権限を持っている人でも、緊急条件に適合した場合にだけ、そのDBを閲覧することができる。植田はアクセス権を持っていて『甲本サキ、4日間無断欠勤、本人とも連絡できず、至急自宅にいき安否を確認したい』とぃう要求を社内管理AIに要請した結果、サキの住所を得ることができた。その個人情報を他部署の人間である僕に教えてもいいのか? という疑問がセイジの心に浮かんだけれど、その気持ちはもみ消すことにして、セイジは『午後三時ごろまでには行けると思います』とサキの住所を伝えてきた植田からのメールに返信した。
サキの住まいは、地下鉄の駅から歩いて五分ほどの、まだ築三年ぐらいと思える奇麗で都会風のワンルームマンションだった。
同じ給与体系の会社に勤めているのに、どうしてサキは、こんな家賃が高そうなところに住めるんだ? と不審に思いながらセイジはエントランスに入ろうとした。すると、ドアの前に立っている最新式のセキュリティAIロボットに入場を拒否されてしまう「どうして中に入れてもらえないんだ?」とそのAIロボットに問うと「住民以外の人間は、住民が訪問を許可して登録した人物しか、このマンションには入れません」と、忘れ物お届けロボットとは違った中性的な声で言われてしまう。
「僕は、ここの203号室に住む甲本サキという人の会社の同僚です。彼女が四日間も無断欠勤していて、連絡も取れないんです。だから僕は、彼女の様子を見に、休日を返上して、ここまでやって来たんです。もしかしたら部屋の中で倒れているかもしれない。これは緊急事態です。中に入れてください」セイジは、ドア前で通せんぼをするように無表情で佇むAIロボットに向かって、説得するように状況を説明する。
「わかりました。あなたの侵入は許可できませんが、203号室の甲本サキさんを呼び出してみます」そう言うとセキュリティAIロボは、ドア横にある操作パネルのようなものと向かい合った。スムーズな動作で何かを操作している。セイジは長く感じたが、おそらく一分ほどだろう。AIロボはセイジのほうを向いて「203号室の甲本サキさんは不在です。その代わり小さな生命反応があります」と感情をこめずに言う。
「小さな生命反応って、それはなに?」嫌な胸騒ぎを覚えながらセイジはAIロボに言う。
「人間ではない別な生き物です」と人間ではないAIロボは無感情な声で言う。
「その生き物を確認したい。これはAIロボットの君にはできないことだ。もう一度言う。これは、最大級の緊急事態だ。今すぐ、人間である僕の203号室侵入を許可すること。この判断を誤れば、君は無能なAIロボだと判断されて廃棄処分になるよ」セイジはAIロボにはったりをかけた。
「了解しました。あなたの203号室侵入を許可します」そう言うとAIロボは入口のスライドドアを開けてセイジを招き入れた。
「203号室に案内してくれ」
セイジのはったりに動揺したのかAIロボの動きが少しぎこちなくなっている。その後を追いながらセイジは203号室に向かう。
203号室の小さな生命反応は、一匹の猫だった。
きなこという名前のメスのマンチカンは、セイジには懐かなかった。セイジも、どこか異様な雰囲気を纏っている猫とは、できれば関わり合いたくはなかったのだけれど、引き取ることにして自宅に連れて帰ってきた。サキが死んだと言っていた猫のきなこがいて、サキがいなくなっている。サキは、できることならもう一度きなこに会いたいと言っていた。サキは第ゼロに、きなこを遺失物として届け出たのだろうか? 第ゼロはきなこを見つけ出してサキに届けた。そして、その代償としてサキはいなくなった、ということなのか? 噂の都市伝説は本当に起こることなのか? セイジは信じられなかった。とりあえず植田には「甲本さんは、本当に行方不明になっているようです。警察に届け出ることをお勧めします」とメールで伝えた。その直後、スマホが震える。メールを一件受信したようだ。第ゼロからのメールだった。開いてみると前回と同じ文面がセイジの眼に入る。甲本サキは自分にとって本当に大切な物だろうか? とセイジは考える。甲本サキを遺失物として第ゼロに申請すれば、彼女は戻ってくるのか? そしてその代償として、今度は自分が行方不明になるのだろうか? セイジは深く考え込んだ。ある方向から何かの視線を感じて、そっちを見ると、きなこが、じっとセイジを見つめている。その目は虚ろな光で、生きている猫の眼とは思えなかった。けれども、きなこはゆっくりとセイジに向かって歩いてくる。セイジは動くことができなかった。
セイジは、いつもお世話になっている遺失物センターに、この第ゼロからのメールを見せてみようと思い立つ。実際には存在しない第ゼロ遺失物センターから、こんなメールが来ていることを、現実として存在している遺失物センターは把握しているのだろうか? 知っていて放置しているとしたら、それは国の機関として許されない行為ではないだろうか? 全国にある遺失物センターを統括している中央遺失物センターは無休で24時間稼働している。明日の仕事帰りにでも寄ってみよう、と決めてセイジは眠りに落ちていく。
セイジが中央遺失物センターに着いたとき、時刻は夜の九時をまわっていた。もっと早い時間に来たかったのだけれど、出先から会社に戻ってすぐに帰ろうとしたとき、植田に捕まってしまい、サキについて質問攻めにあってしまった。いろいろ訊かれてもセイジはサキのことは、ほとんど知らない。
セイジは中央遺失物センターの受付窓口にいく。最近はどこもAI対応だけれど、ここは人間が窓口に立っていた。セイジよりも年長と思える窓口女性に、セイジは第ゼロ遺失物センターからのメールを見せた。そして、「このメールの第ゼロ遺失物センターについて質問があるんですが」と告げると、窓口女性は明らかに動揺した声で「しばらくお待ちください」と言って小走りに去っていった。仕方なくセイジは近くにある待合用の椅子に腰かけて待つことにする。時刻は夜の九時半になろうとしている。こんな時間でも仕事帰りと思える人が数人いる。失くしたものを受け取りに来ているようだ。セイジの躰には疲れが溜まっていた。定期的に休日はとっているけれど、疲れはとりきれないようだ。まとまった休日をとってリフレッシュしたいなぁーとセイジは思いながら眼を閉じて待った。
「お待たせしました」という声にセイジはハッと目を覚ます。自分でも気づかないうちにうたた寝をしてしまったようだ。顔を上げると、さっきの窓口女性とは違うセイジと同年代と思える女性が立っている。「わたしがお話を伺います。こちらへ、どうぞ」といってセイジに背を向けて歩き出す。慌ててセイジは立ち上がり女性の背中を追った。時刻は十時をまわっていた。
案内されたのは五人も入れば満員になりそうな小さなミーティングルームだった。セイジは女性から名刺を受け取った。お客様相談係・神崎ユナと書かれいてる。テーブルをはさんで向かい合って座ると「そのメールを拝見させてください」と言う。セイジは、メールが読みやすいように彼女に向けてスマホをテーブルに置く。「失礼します」と言って彼女は人差し指でスクロールしながらメールを読む。
「このメールは誰かのイタズラです。第ゼロ遺失物センターは存在しません」神崎ユナは、セイジの眼をまっすぐ見つめながらハッキリ言った。
「僕もそう思います。遺失物センターさんには、いつもお世話になっているので、第ゼロが存在しないことも知っています」
「それじゃあ、なぜ、わざわざ来られたんですか? こんなメール削除してしまえば、それで終わりです」
「最初はそうしましたよ。でも、それは二通目です」
「二通目も削除して、無視し続ければ、そのうち来なくなります」
「そうであればいいんですけど。最初の窓口にいた人はこのメールを見て、明らかに動揺していました。そして、あなたが現れるまで、三十分くらいかかっている。こんな部屋にまで通して。何か隠していませんか?」
「お客様に丁寧に対応するのが、遺失物センターのモットーです」
「三十分以上も待たせておいて、丁寧な対応ですか?」そう言うと、神崎ユナは困った表情になった。
「僕の同僚の女性が三日前から行方不明なんです。そのかわり、死んだはずの猫が現れました。彼女は行方不明になる前、第ゼロ遺失物センターの話をしていました。そして、死んだ猫にもう一度会いたいと言っていました」
「何をおっしゃりたいんですか?」困り顔を隠すように冷静な声を保ちながらユナは言う。
「彼女は、死んだ猫を遺失物として第ゼロに申請した。猫は見つかって戻って来たけれど、その代替として彼女が遺失物になった、と僕は思います。神崎さん、あなたはどう思いますか?」
神崎ユナの顔が困惑から驚愕にかわった。そして、
「その猫は、今どこにいますか」と震える声でセイジに訊いた。
「僕の部屋です」
「誰かに預けたり、外へ連れ出したりはしていませんね」
「はい」
「その猫に触れましたか」
「はい、猫は好きですから、撫でたり、抱き上げたり、しましたよ」
「そのとき噛まれたり、引っかかれたりは」
「そんな凶暴な猫じゃないですよ」
「その猫、人間の言葉で、話しませんでしたか」
セイジは冗談を言われたのだと思った。けれど、ユナは真剣な顔で笑みはなかった。
「それは、どういう意味ですか」
「質問に答えてください」
「話すわけないですよ。普通の猫ですよ。少し気味が悪いだけで」
「どのように気味が悪いんですか」
「目が虚ろで、じっと僕を見るんです。死んだ猫だと聞いていたから、そう感じるだけかもしれないですけど」
ユナは視線を落としてテーブルの上に置かれているセイジのスマホを見て
「もう一度、そのメールを見せてください」と言う。
セイジをスマホを手に取りメールを表示させてユナに渡す
彼女はメールを数秒間見つめて
「このスマホの電源を切ってください」と言う。
「え、なぜですか」
「とにかく、はやく切ってください」と強く言う。
セイジは戸惑いながら電源ボタンを長押しした。画面が暗くなる。それを確認するとユナは椅子から立ち上がり、壁にある小さな操作盤へ近づいた。
「何をしているんですか」ユナの豹変ぶりに恐怖と不安を感じながらセイジは訊くけれどユナは何も答えない。操作盤へ職員証をかざして、暗証番号のようなものを入力しているようだ。すると、天井の隅で赤く点灯していた監視カメラのランプが消えた。それと同時に扉から電子錠の作動音がした。思わずセイジは椅子から立ち上がり
「鍵をかけたんですか」とユナに言う
「安全のためです」
「危険な事でも起きるんですか?」
「分かりません」ユナは正直に答えているようだ。その返事がセイジをさらに不安にした。ユナはテーブルへ戻らず扉のそばに立ったまま言った。
「真壁さん。あのメールは、ただの都市伝説。全部、嘘。そう思って、お帰り頂くことはできませんか?」冷静さを取り戻して、懇願するようにユナはセイジに言う。
「できることなら僕もそうしたいです。でも、さっきからのあなたを見ていると、このまま帰るわけにはいきません。このメールの第ゼロについて、何か隠してますよね」
ふーと大きく息を吸って吐いて、ユナは自嘲気味に少し笑いながら
「第ゼロについて対応するのは初めてだったから、ちょっと慌てちゃって」と言う。
「第ゼロ遺失物センターは都市伝説ではない、ということですか?」
「いえ、都市伝説です。とわたしは思っています。でも」ユナは、この先をセイジに言っていいかどうか迷うように口ごもった。セイジは話の続きを促すように黙ってユナを見つめ続ける。その視線に耐えられなくなったようにユナを重そうに口を開いた。
「第ゼロ遺失物センターは存在しません。でも、規則があるんです」
「存在しない物の規則って、よく分からないなぁ。それは、どんな規則ですか」
「第ゼロ遺失物センターという施設を、国が設置した記録はありません。それなのに、ここ数年、その名称を使ったメールについての問い合わせが、ときどき寄せられるんです。決して多くはありません。だから、誰かが言い出した都市伝説として、片づけていたんです」
「都市伝説としては片づけられない事が起こったと?」
「それは、わたしは知りません。でも、一年くらい前から、第ゼロ遺失物センターの対応規則がマニュアル化されて、職員全員に周知されたんです」
「上層部の人たちは、都市伝説の発生元を知っている、ってことなのかな?」
「わたしもそう思います。その規則では、第ゼロという名称を口にした来訪者がいた場合、まず第ゼロの存在を否定する。そして、第三相談室、この部屋です。に案内する。持参してきたスマホなどの端末を通信不能にする。そして」ユナはここで大きく一息ついて、
「来訪者を帰宅させず、指定部署へ連絡する、これが対応マニュアルです」
「指定部署には連絡したんですか?」
「はい、もうすぐきます」
ユナの言葉を待っていたかのように相談室の扉が叩かれた。続いて扉の電子錠が外側から解除される音がする。入ってきたのは三人だった。二人の男性と一人の女性で、三人とも黒に近い灰色のスーツを着ている。あきらかに遺失物センターの職員ではない雰囲気を纏っている。セイジは警戒心を強めて身構えた。
先頭で入ってきた五十代と思える眼鏡をかけた白髪交じりの男性は、ユナに視線を向けて「通報者はあなたですか」と問いかけた。
「はい、そうです。わたしはお客様相談係の神崎です」とユナが緊張気味に答える。
「対象者は?」と男がいうと、ユナはセイジを見て
「こちらの真壁セイジさんです」と苦しそうな表情で言う。
『対象者』という呼び方にセイジは違和感と不快感をもつ。男は名乗らずにセイジの向かい側へ座った。後ろの二人は扉の両側に立ったままだ。セイジが逃げ出そうとしたら、すぐ確保できるように待機しているように見える。
「あなたのスマホをこちらへ渡してください」丁寧な言葉だけれど、逆らうことは許されない命令が男の声に含まれている。
「嫌です。どうして、あなたに渡さなければいけないんですか? あなたたちは誰ですか?」セイジは抗う。
「スマホを渡してください」鋭い眼でセイジを見据えながら男は言う。
「名乗りもしなければ理由も言わない。そんな人には渡せません」セイジも男の眼を直視しながら言う。その眼は怒っているようには見えなかった。思い通りに動かない機械を前にした技術者のような冷たい眼だった。
数分間、無言でにらみ合ったあと「甲本サキさんを探したいのでしょう」と男が言う。さっきとは違う柔らかな声だった。
「どうして、その名前を」セイジは戸惑いながら言う。
「わたしの質問に回答してください」
「探したいです」
「ではスマホを」
セイジは迷った末、電源を切ったスマホを男に差し出した。それを、男は素手では触ろうとしない。後ろにいた女が銀色の袋を取り出して、スマホをその中へ滑り込ませる。袋の口を閉じると、その袋についている小さな表示灯が緑から赤へ変わった。
「受信端末を隔離しました」女が言った。
「どうして、そんなことするんですか? 電源を切ったスマホなんて、何の役にも立たない、ただの金属ですよ」
「第ゼロからのメールはどんな状態でも受信してしまうんですよ。都市伝説の不気味なメールって、そんなもんですよね」
「あなた方は、第ゼロ遺失物センターの人たちですか?」
「違います。第ゼロ遺失物センターなんて存在しません。でも、我々はそれを監視しているんです」
男からの質問攻めが始まった。
「戻ってきた猫について確認します。名称は?」
「あなた方は、今、僕に起きていることを、ぜんぶ知っているようですね。猫の名前は、きなこです」
「品種と性別は?」
「メスのマンチカンです」
「死亡日は?」
「知りません。二十歳で死んだと聞いてます」
「死因は?」
「それも知りません」
「現在、猫の周囲で異常は?」
「ありません。僕のほうを、じっと見てくるのが、ちょっと不気味なだけです」
「あなたの名前を呼んでいない?」
「猫ですよ。呼ぶわけないじゃありませんか」
「甲本サキの声を発していない」
「だから、猫なんだから、そんなこと、あるわけないでしょう」
この男には感情というものがないのか、とセイジは思う。無表情で淡々と質問してくる。こっちが感情的になるだけ疲れてしまう。男は手元のタブレット端末へ何かを入力しながら、
「返却個体は、返却の代価となった人物の音声を、再現する場合があります」と言う。それを聞いてセイジの頭は混乱する。
「返却個体って、あの」
「あなたの部屋にいる猫です」
「それじゃあ、返却の代価って、甲本サキさんのことですか」
「現時点では断定できません」
「でも、同じことが前にもあったんですね」質問されるばかりでは嫌になってしまうのでセイジは思い切って質問してみた。「第ゼロのメールを信じて、死んだ人間を遺失物として届け出た人がいて。死んだ人間は見つかって返却されたけれど、届け出た人がいなくなる。そういう現象が起きていることを知ってるから、あなたは、そんな質問をするんでしょ」しかし、男は答えなかった。
「質問を続けます。甲本サキさんとの関係は」セイジの質問は完全に無視された。
「会社の同僚です」
「恋愛関係は?」
「ありません」
「家族関係は?」
「彼女とですか? ありませんよ」
「金銭の貸借は?」
「ないです」
「彼女を取り戻すため、自分または第三者の生命を、代価として提供できますか」
セイジは、この質問の意味を理解するまで、数秒かかった。
「それは、甲本サキさんを第ゼロ遺失物センターに遺失物として申請する、ってことですか? 僕にはできません」
「即答できるかどうかは重要です。あなたは、この質問に答えるのに、四秒ほどかかりました」男は端末に記録した。
「何なんですか、その質問は」
「第ゼロがあなたへ二度メールを送った理由を知りたいんです」
「そんな理由があるんですか? あんな、ありもしない都市伝説のメールなんて、何処かの誰かが適当にばら撒いているだけじゃないんですか?」
「第ゼロからの通知は、無作為には送信されません。それに、実際に死んだ猫が返却されています」
男は初めて眼鏡を外した。レンズを布で拭きながら淡々と続ける。
「第ゼロからのメールは、返却対象を失った、つまり、大切な物を失くしてしまった人物、代替候補になり得る人物、あるいは既に所在状態に異常がある人物へ送られます」
「所在状態に異常って、どういう意味ですか?」
「あなたのような人です。あなたは頻繁に短時間の記憶欠落、つまり、何処にいたのか分からない状態を経験していますね」
セイジの頭の混乱度は増すばかりだった。
「あなたは忘れ物が多いですよね。遺失物AIの履歴を調べました」
「ええ、それは自覚しています。遺失物管理センターには大変お世話になっています」
「忘れ物をするとき、あなたの個人識別タグは認識できないんです」
「どういうことですか?」
「具体的に言います。記録を調べたところ、先週の月曜日、十二時十四分から十二時十七分まで、あなたの個人識別タグを、遺失物AIは認識できませんでした」男が言う。
個人識別タグは、出生時に誰もが躰に埋め込まれるタグのことだ。そのタグは死ぬまで、個人の位置情報を発信し続ける。普段の生活の中では誰もそのことを意識していないだろう。セイジも、今この男に言われて、自分の躰の中に小さなタグが埋め込まれていることを思い出した。そのタグのおかげで遺失物管理センターは忘れ物を個人に届けることができる。
「それは、三分間だけ通信障害だったとか。そんなのよくあることですよね」
「いえ。そのような障害は、現在はほぼゼロです。それに、その時間、あなたが所有するスマホのタグは正常に認識されていました。一階男子トイレに置かれていた記録があります」
「だったら、やっぱり僕が置き忘れただけでしょう」
「あなたが、そのトイレへ入った記録がありません」
セイジは黙った。
「トイレへの入退室カメラにも、廊下の移動記録にも、あなたの姿は映っていません。十二時十四分、あなたは自席からコンビニへ向かっています。スマホも首から下げていた。十二時十五分、あなたの識別情報だけが消えた。十二時十七分、あなたはコンビニの入口付近で再び確認された。その時、スマホは男子トイレにありました。トイレに行った記憶はありますか?」
セイジは、先週の月曜日のことを思い出そうとした。スマホを忘れ物お届けロボットから受け取ったことは覚えている。そのとき、表面のディスプレイに、取得場所一階男子トイレと表示されていたことも覚えている。だから、トイレに行ったものだと思い込んでいたけれど、でも、その記憶は
「一週間も前の日のトイレに行った時間なんて、はっきり覚えてませんよ。でも、僕のスマホがトイレにあったんだから」
「記憶は曖昧だけれど、記録は残っています。つまり、あなたは忘れ物をするとき記憶喪失になっているんです。第ゼロは所在に異常のある人間を好んで窓口に選びます」
そういえば、そんなことを冗談で甲本サキに言ったことをセイジは思い出した。
「窓口って、いったい何の窓口ですか?」
「こちら側とあちら側を接続するための窓口です」
セイジの背中に冷たい汗が流れた。
「すみません。あなたが何を言ってるのか、僕には,ぜんぜん理解できません。僕がその時間にトイレに行っていないのなら、どうして、僕のスマホがトイレにあったんですか? スマホが自分でトイレに歩いて行ったとでも言うんですか?」
「相手は第ゼロです。そういうことも、あるかもしれません」
おもむろに男は立ち上がった。
「今からあなたの自宅へ行かせてください。返却個体を回収します」
「猫のきなこをですか? 何のために回収するんですか?」
「調査のためです。我々はまだ第ゼロについて、その全容を把握していません。分からないことだらけです。だから、返却された猫を詳細に調べます」
「解剖するんですか?」
「ご想像にお任せします」
「今回は猫だけれど、返却されるのが人間の場合もありますよね。人間の事例のほうが多いはずだ。返却された人間も解剖したんですか?」
「それも、ご想像にお任せします」
突然、袋の中に隔離されていたセイジのスマホが震えた。それを持っていた女が驚いてテーブルの上に落とす。電源を切った筈なのに、振動音を不気味に鳴り響かせながらテーブルの上で生き物のように震えている。。赤い表示灯が激しく点滅している。男の顔から初めて平常心が消失した。女がおそるおそる袋に触ろうと手を伸ばすと
「触ってはいけない。袋を開けるな」と男が叫ぶ。
袋越しにスマホの画面が黒く光っているのが分かる。そこに白い文字が浮かび上がってくるのをセイジは信じられない思いで見つめる。
『第ゼロ遺失物センターからのお知らせ
品名:甲本サキ
状態:所在不明
申請者:真壁セイジ
返却対象として登録されました』
「僕は申請していない」セイジは小さな声で否定する。スマホ画面に新しい一文が現れた。
『代替候補の確認を開始します』
その直後、相談室の照明が消えた。暗闇の中で神崎ユナが息をのむ気配が伝わってくる。そして、セイジのすぐ後ろから「真壁さん、わたしを見つけて」と言う声がきこえた。甲本サキの声だった。セイジは反射的に振り返る。しかし、そこには暗闇しかない。
「いまの声は」
「喋らないでください」灰色のスーツの男の低く命じる声が聞こえる。その声に先ほどまでの事務的な冷静さは感じられなかった。
「全員、その場から動かないでください。自分の名前が呼ばれても、それに返事をしてはいけません」
セイジは暗闇の中で息を殺した。どこかで、爪が床を掻くような音がした。間を置いて、もう一度。猫が歩くときの音に似ていた。
「きなこ?」声に出してから男の命令を思い出した。
「返事をするなと言ったでしょう」
「でも、ここに猫がいるはずが」
「ここにはいません」男が即答した。「少なくとも、物理的には。やはり、あなたは窓口みたいですね。今、この部屋は、あちら側とこちら側が繋がっています」
セイジのスマホが再び振動して、黒い画面に白い文字が暗闇の中に浮かんでいた。
『第ゼロ遺失物センターからのお知らせ
直近返却対象:きなこ
分類:小型愛玩動物
状態:返却済
代替者:甲本サキ
状態:保管中
返却作業は完了しました。ご利用ありがとうございました』
「状態が、所在不明から保管中に変わっている」セイジは思わず声に出して言ってしまう。死んだ猫を返却して、代替品の甲本サキを保管している、という出来事を、第ゼロは何の感情もなく事務処理しているようだ。さらに、新しい表示が現れた。
『第ゼロ遺失物センターからのお知らせ
新たな接続者を確認しました。
接続者:真壁セイジ
状態:所在不安定
優先捜索対象を照合します』
スマホ画面の文字は止まることなく新たな文字列を表示していく。
『品名:真壁綾乃
状態:所在不明
死亡確認日:2061年7月18日
死亡時年齢:10歳
申請者との関係:実妹』
セイジは真壁綾乃という名前を見て、遠い記憶がよみがえってくるのを感じた。それは、十五年前に死んだ妹の名前だった。
「真壁綾乃とは誰ですか」男がセイジを問いつめる。
「妹です。十五年前に交通事故で死にました。僕のせいで。忘れていたわけではないんです。思い出すのが怖かった。申し訳なくて」
「あなたは、我々の前でその人物の名前を口にしましたか」
「いいえ。そんなこと、さっきから会話してるんだから、あなたにも分かるでしょ」
「神崎さん、この真壁綾乃という人物について聞いていましたか?」男がユナを見る。
「いえ、聞いてません」ユナが答える。
男は手元のタブレット端末へ視線を落として「こちらの情報ではないようだな」と小さくつぶやく。
「どういうことですか」セイジが訊いても男は答えない。スマホ画面の文字列が増えている。
『捜索対象を確認しました。
保管状態:良好
返却可能です』
「綾乃も第ゼロに保管されているんですね」スマホ画面を見つめながらセイジは言う。
「真壁さん、落ち着いてください」ユナが言った。
「名前も死亡日も年齢も合ってる」
「第ゼロが、あなたの記憶から情報を拾った可能性もあります」
「記憶から? 第ゼロは、そんなこともできるのか」セイジは自分の頭に手をあてて、最初のメールに書かれていた言葉を思い出す。本当に大切な物はAIには見つけられません。あれは甲本サキのことではなかった。もちろん、きなこのことでもない。第ゼロは最初から知っていたというのか。セイジが失くしたまま、十五年間探し続けているものを。スマホ画面の一番下に、長方形の選択ボタンが表示された。
『返却申請を開始しますか?
はい いいえ 』
「触らないでください」灰色のスーツの男が言った。
「触るつもりはありません」そう答えながら、セイジは自分の右手が隔離袋の中のスマホ画面に向かって伸びかけていることに気づいた。男がセイジの手首をつかんだ。
「見ているだけでも危険です。第ゼロが、申請者が選択したと判断する条件は一定ではありません」
「僕は何も選んでいない。綾乃のことを遺失物として申請していない」
男はセイジの手を離さなかった。
「声に出して名前を呼ぶ。対象を強く思い浮かべる。画面を一定時間見つめる。それだけで申請と判断された事例があります」
「僕はどれもしていない。綾乃のことなんて、思い出すこともない」それは嘘だった。
「意識しなくとも、あなたの心の奥底に妹さんへの思いが強く残っているんじゃないですか? それを第ゼロに感づかれてしまったんですよ」
突然、相談室の照明が戻った。眩しさにセイジは目を細める。壁も扉も先ほどと変わっていない。猫の姿はどこにもなかった。
灰色のスーツの男は女の職員に指示した。
「対象端末を第二隔離容器へ。施設内ネットワークを第六段階で遮断。急いで行きましょう。神崎さんにも同行してもらいます」
「どこへ行くんですか」セイジが訊いた。
「あなたの自宅です。さっき言いましたよね」
「あ、そうでしたね。きなこを回収した後はどうするんですか?」
「あなたを保護します」
「保護ではなく隔離ですよね」セイジの言葉を男は否定しなかった。
*
中央遺失物センターを出たのは午後十一時を過ぎてからだった。
セイジは灰色のワンボックスの車の後部座席に座らされていた。運転しているのは初めて見る男で、助手席にはさっきまで相談室に一緒にいた男が座っている。後部座席は三人掛けのシートが向かい合わせになっていて、進行方向に向かって座る位置にセイジとユナが座り、反対方向に向くシートには、まだ名前も知らない灰色スーツの男が座っている。相談室にいた女は、セイジのスマホを二重の隔離容器に入れて、別の車両でこのワンボックスのあとを走っている。
「まだ名前を聞いていません」セイジは向かいの男に言った。
「名前を知る必要はありません」
「僕のことは全部調べたのに? 名前くらい教えてくれてもいいでしょ」
「久世です。久世冬一。所属については回答できません」男は諦めたように言った。
「警察ではないんですね」
「違います」
「中央遺失物センターの職員でもない」
「違います」
「国の機関ですか」
「質問は、返却された猫を確認してから受けます」久世は冷たく言い放つ。セイジは黙るしかなかった。
車は夜の幹線道路を走っていた。窓の向こうを見ると遺失物回収ロボットが横切っていく。道路脇に落ちていた傘を拾い、持ち主の情報を照会しているようだ。
「甲本さんは、生きているんでしょうか」ユナが久世に訊いた。
「分かりません」
「保管中と表示されました」
「第ゼロにおける保管が、生存を意味するのか、死亡を意味するのかは確認されていません」
「過去にも同じ表示がありましたか?」セイジが訊く。
久世はしばらく黙っていた。
「あります」
「何件くらいありましたか?」
「回答できません」
「返却された人もいるんですよね」
「質問は後にしてください」
久世はそう言ったが、セイジには十分だった。過去にもあった。サキだけではない。死んだ者を戻し、代わりに誰かが消えた事例を、彼らはすでに知っている。
「あなたたちは、第ゼロを止められないんですね」セイジが問うと、久世は窓の外を見た。
「完全には」
「だったら、何をしてるんですか」
「広がらないようにしています」
「もう都市伝説のようにして広がってますよ」
しばらくして、車はセイジの住むマンションの前に止まった。
築十年以上になるごく普通の賃貸マンションだった。サキが住んでいた新しいマンションと比べれば外壁も共用廊下もくたびれている。エントランスに高度な警備ロボットはいない。住人の認証情報を読み取る古い管理端末が一台設置されているだけだった。セイジが住民認証を行うと自動ドアが開いた。
「部屋には、あなた以外の人間はいませんね」久世が訊く。
「いません。猫だけです」
エレベーターの中では誰も話さなかった。三階でエレベーターを降りる。廊下の照明が人の動きに合わせて順番に点灯していく。セイジは自分の部屋の前で止まる。後ろには、久世とユナ、相談室で一緒にいた男と、隔離箱に入れたセイジのスマホを持っている女が立っている。扉の鍵を開けようとしたセイジに久世が
「最後に猫を確認したのはいつですか?」と訊いてセイジを静止させる
「出勤前だから、昨日の朝の七時ごろです」
「餌と水はどうしてます?」
「自動給餌器を設定しています」
「室内監視機器はありますか?」
「ありません」
久世は頷いて同行してきた男に指示をする。
「現実所在照合を開始」
男が鞄から薄い板状の装置を取り出して扉へかざす。すると、画面に部屋の内部構造と生体反応らしき光点が表示された。扉にかざしただけで、人の家の内部が分かってしまう、こんなプライバシー侵害する装置があるのか、とセイジは驚くが何も言えない。
「室内に小型生体反応があります。体温三十八・四度。心拍数毎分百七十六。猫としては正常範囲です」画面をみながら男が報告する。
「所在照合は? 猫は部屋の何処にいる?」久世の質問に男は答えることができない。
「どうした」
「反応はあります。しかし、位置情報として固定できません」戸惑いながら男が言う。
「どういうことだ。具体的に、わかりやすく言ってくれ」
「この部屋の内部に生命反応があることは確認できます。ただし、それが室内の何処にいるのかを特定できません。反応点が一秒ごとに移動しています」
画面の光点は、居間、寝室、浴室、天井裏を不規則に移動していた。セイジは扉を見た。
「そんな速さで移動できるわけがない」
「移動しているとは限りません」久世は言った。「所在が定まっていないだけかもしれない」
その言葉を聞いた瞬間、扉の向こうから鈴の音がした。きなこの首輪についている小さな鈴だった。きなこは扉のすぐ向こうにいるようだ。セイジが鍵を開けようとすると、久世が腕を押さえた。
「我々が先に入ります」
「ここは僕の部屋ですよ」
「現在もそうである保証はありません」
「それは、どういう意味ですか?」セイジの問いに久世は答えない。
久世の同行者の男は防護用と思われる透明な覆面を装着した。きなこは顔面を引っかいたりするような狂暴な猫じゃない、とセイジは声に出さずに言う。男の手には折り畳まれた収容容器がある。セイジが認証を行い扉の鍵を開けた。久世がゆっくりとドアを押す。玄関にきなこはいなかった。
室内は暗かった。カーテンの隙間から夜の街の光が入り、家具の輪郭を薄く浮かび上がらせている。給餌器に置かれた皿は空になっていた。
「きなこ」セイジが呼んだ。
「名前を呼ばないでください」久世が低く言った。部屋の奥で鈴が鳴った。今度は寝室から聞こえた。同行者が携帯型検査装置を向ける。
「生体反応、寝室方向です」
その直後、装置の表示が切り替わった。
「いえ、背後にいます」
全員が振り返る。誰もいない。
「天井」
装置を持つ職員が見上げる。天井にも何もいない。鈴の音が、今度はセイジの足元から聞こえた。見ると、きなこがいた。いつ現れたのか分からなかった。短い脚。淡い茶色の毛。虚ろな目。きなこは人間たちを順番に見た。最後にセイジを見上げる。
久世の同行者が検査装置を向けた。
「生体反応あり。体温、心拍とも正常」
「識別情報は」
「照合中です」
識別タグ読取装置が短い警告音を発した。
個体名:きなこ
種別:猫
登録状態:死亡確認済
死亡日:2076年6月24日
現在位置:該当なし
所有者:甲本サキ
所有者状態:該当なし
「どうして、目の前にいるのに現在位置が該当なしなの?」ユナが呟いた。きなこがセイジに近づいてくる。
「触らないでください」久世が言った。
猫はセイジの足元で止まって見上げる。そして、その口がゆっくりと開いた。
「真壁さん」
聞こえてきたのは甲本サキの声だった。ユナが後ずさった。きなこは猫の姿のまま続けた。
「わたし、ここにいるよ」
「甲本さんなの?」
セイジが呼びかけると、久世が腕をつかんだ。
「応答してはいけません」
「でも、甲本サキさんの声ですよ」
「断定できません」
きなこの首が、不自然な角度に傾いた。
「返して」サキの声が言う。「わたしを返して」
セイジの胸の奥に罪悪感が湧いた。サキが第ゼロの話をしたとき僕は止めなかった。自分にもメールが届いたことを教えなかった。都市伝説だと笑って何もしなかった。
「どうすればいいんだ」
セイジが言いかける。きなこの目が細くなった。
「違うよ」
声が変わった。高く、幼い声。セイジの全身から血の気が引いた。
「お兄ちゃんが、見つけたいのは、わたしでしょ」
十歳の綾乃の声だった。きなこの首筋に白い文字が浮かび上がった。
返却済。その文字は毛の上に表示されているのではなかった。皮膚の内側から透けるように光っていた。
久世が叫ぶ。
「対象を収容しろ!」
同行者たちが透明な容器を広げる。きなこは逃げなかった。セイジだけを見つめている。
「第ゼロで待ってるね」綾乃の声が言った。「今度は、ちゃんと迎えに来て」
透明な容器が猫を覆った。蓋が閉じる直前、きなこは一度だけ鳴いた。今度は普通の猫の声だった。容器の表示面に赤い文字が現れる。
返却生体を収容しました
暫定識別番号:Z-0-107
久世はその表示を確認するとセイジを見た。
「ここから先は、あなたを一般人として帰すことはできません」
「どこへ連れていくんですか」
「第ゼロを調べている場所です」
「第ゼロ遺失物センターを知ってるんですか」
「知っているのは、存在しないということだけです」
久世は透明な容器の中のきなこを見た。
「存在しないのに、人を返す。存在しないのに、人を奪う。私たちは長いあいだ、それを記録しています」
「あなたたちは何者なんですか」
久世はしばらくセイジを見つめた。それから、胸ポケットから黒い身分証を取り出した。そこには所属名だけが記されていた。
内閣府特異所在事案対策室。
「我々は、所在室です」
久世は言った。
「死者を遺失物として届け出ると返却される、という都市伝説が噂されるようになったとき、国が作った組織です」
久世はそう言うとセイジの部屋から出ていく
セイジは収容容器に入れられたきなこを見る。きなこは、眼を大きく見開いてセイジを見ている。いや、違う、とセイジは思う。
その瞳には、どこまでも続く白い棚が映っていた。
*
セイジたちを乗せた灰色の車は、都心から離れる方向へ走っているようだった。セイジは車窓を流れ去るまだ夜が明けない暗い街並みを見ている。どうして、自分はこのような状況に陥ってしまったのだろうか? 第ゼロからのメール、あれが全ての始まりだ。ただの都市伝説だと思って削除してしまったのがいけなかったのか?
久世は無言で座っている。 助手席には、きなこを収容した透明な容器が固定されている。猫は前脚を揃えて座り、瞬きもせずにセイジを見ていた。ときどき、口が動くけれど、サキの声も、綾乃の声も聞こえなかった。久世たちは、第ゼロから返却された人間も、このように透明な収容容器にいれて検査のために連れ去ったのだろうか? 訊いてもきっと答えてはくれないだろう。
ユナも後部座席に同乗していた。中央遺失物センターの職員である彼女まで連れてこられた理由を尋ねると、久世は「ゼロ種事案の初動対応者だからです」と答えただけだった。それじゃあ答えになっていないぞ、とセイジは思ったけれど、それ以上は質問しなかった。
「私は家に帰れますか」ユナが久世に訊いた。
「もちろん、調査が終われば帰っていいですよ」久世が言う。
「真壁さんは?」
「それは調査結果によります」久世の声は平坦で何の感情もこもってなかった。
車は高速道路を降りて、古びた倉庫と研究施設が立ち並ぶ区域へ入った。夜の街灯に照らされた建物は、どれも使われていないように見える。やがて、車は窓のない灰色の建物の前で止まった。
入口にも施設名が記されている看板はない。ただ、壁の横に小さく「国土情報保全倉庫第三号」と記されていた。
久世が黒い身分証をかざすと厚い扉が左右に開いた。建物の中には警備員も受付もいなかった。その代わりに天井や壁に設置されているいくつもの監視カメラのようなものが、セイジの眼に入った。
床に引かれた黄色い線に沿って進んでいくと、途中の壁に『特異所在事案対策室』『第三収容区画』『一般所在情報との接続を遮断しています』という文字が現れた。
「ここが、所在室なんですか」セイジが久世に訊くと「所在室の施設の一つです」と答えが返ってくる。
「このような施設が全国にあるんですか」
「質問は後で受けます」
久世は同じ言葉を繰り返した。
最初に通されたのは医療施設の診察室に似た部屋だった。セイジは椅子に座らされて手首と首筋に小さな計測器のような物を取りつけられた。壁際に立つ検査装置が全身を走査する。ユナはガラスの向こうで立ってみ見ている。きなこの収容容器は見当たらなかった。別の部屋へ運ばれていったようだ。
「何を調べてるんですか」
「あなたが、現在も現実世界に存在しているかを確認しています」
検査を担当する女性職員が当然のことのように答えた。
「まちがいなく僕は今ここにいますよ」
「目の前に存在していることと、所在が確認されていることは、同じではありません」女性職員も久世と同じように冷たく言い放つ。ここの関係者たちは、同じような口調になるように訓練されているみたいだ、とセイジは思う。
「意味が分かりません」
「すぐに分かりますよ。あなたの躰の中に埋め込まれている個人識別タグの内容が、間もなく表示されます」
壁面にセイジの情報が映し出された。
氏名:真壁セイジ
生年月日:2046年3月3日
国民識別番号:正常
戸籍情報:正常
医療情報:正常
現所在:第三収容区画
所在状態:確認済
「ほら、正常じゃないですか」とセイジが言った次の瞬間、検査職員は椅子から立ち上がっていた。ガラスの向こうでは、ユナがガラスに手をついて驚いた表情でセイジを凝視している。壁際の警告灯が赤く点滅している。
「どうしたんですか」とセイジは周囲を見回しながら不安な気持ちをこめて言う。何かが起きたらしい。だが、セイジには何も感じられなかった。
「いま、何か見えましたか」検査職員が訊いた。
「何がですか」
「声が聞こえたり、周りの景色が変わったり、それから、時間が飛んだような感覚は、ありますか?」
「ありません」
壁面に表示されている情報に新しい記録が追加されていた。
所在状態:確認済
直前所在異常:4.17秒
個人識別信号:途絶
身体位置:変化なし
「約四秒間、あなたは所在不明になりました」
「僕は、ずっとここにいましたよ」
「あなたの躰はこの椅子にありました」
「だったら、所在不明じゃないでしょう」
「でも、壁の表示は、所在状態が不明になったんです。そのときの、あなたは」
検査室の扉が開いて久世が入ってきた。
「映像を見せてください」
壁面ディスプレイに数分前の検査室が映し出された。椅子に座っているセイジが「ほら、正常じゃないですか」と言う。その直後、映像の中のセイジは口を閉じて両手を膝の上に置き、正面を向いたまま動かなくなる。目は開いているが、どこか虚ろで焦点があっていない。四秒間、セイジは誰もいない壁の一角を見つめ続けた。やがて瞬きを一度して周囲を見回しながら「どうしたんですか」映像の中のセイジが言う。
「これが僕?」
「はい」
「ずっと座っているじゃないですか」
「躰はです」
久世は映像を停止した。
「この四秒間、あなたの個人識別タグは完全に反応を失っています。行政記録、遺失物AI、施設の入退室管理。そのすべてが、椅子に座っている人物を真壁セイジとして認識できなかった」
「カメラには映ってますよね」
「映像は、ただ人間の形を記録しているだけです」
「顔を見れば僕だと分かるでしょう」
「我々には分かります。この四秒間、あなたとその躰の結びつきが切れていた。だから、あなたの個別識別タグの情報は、所在状態が不明になったんです」
セイジは映像の中の自分を見た。目を開けている。眠ってはいない。だが、その顔は虚ろな表情で何の感情もなかった。
「この間のことを、僕はぜんぜん意識できていません」
「そうです。この間の記憶は作られていません。躰は起きています。簡単な行動もできます。ただ、自分が真壁セイジであるという認識と、その行動を記憶する機能が切断されている」
久世は別の映像を表示した。
「これは先週の月曜日、あなたがトイレにスマホを置き忘れたときの映像です。今まで、あなたがトイレに入る映像は見つけられなかったんですが、つい先ほど発見されました」
セイジが自席から立って歩き始める。首からスマートフォンを提げている。途中で進路を変えて男子トイレへ入る。
「どうして、今になって、この映像は見つかったんですか?」
「理由は不明です。このときには、あなたの個人識別信号は消えています」
トイレの洗面台を映した記録に切り替わる。プライバシー保護のためトイレ内部は映っていない。洗面台と出入口だけが記録されている。セイジが画面の中へ入ってくる。スマートフォンを首から外して洗面台に置く。手を洗い、鏡を見つめる。映像の中のセイジは鏡を見つめたまま動かない。
数秒後、唇が動いた。音声は記録されていなかった。
「何を言ってるんですか」
「読唇解析してみましょう」
画面の下に文字が表示された。
“返却場所を確認しました”
セイジの背中に冷たいものが走った。映像の中のセイジはスマホを洗面台へ残してトイレから出ていく。その後、コンビニへ向かった。
「僕がスマホを置いたのか」
「そのようですね」
「でも、覚えていない」
「あなたは物を失くしていたのではありません。あなたが自分で置いていた。ただし、それを行った時間のあなたは、真壁セイジとして世界に登録されていなかった」
「僕自身が、この世界からいなくなっていた、ということですか?」
「あなたの躰は、ずっとこの世界にありました。ただ、その数分間だけ、躰と『真壁セイジ』という個人との接続が切れていたんです。個人識別タグは反応せず、あなた自身もその時間を記憶できていない。躰だけが、誰のものでもないように動いていた。あなたがスマホを置いたことに間違いはありません。ただし、そのとき躰を動かしていたものを、真壁セイジと呼んでいいのかは分かりません」
「第ゼロが動かしていた? 僕は第ゼロに操られていたってことですか?」
「その可能性は十分にあります」
「あなたは過去一年間で、少なくとも二十七回、今のような短時間の所在消失を起こしています」
「所在消失って、どういうことですか?」セイジの頭は再び混乱していた。
「遺失物AI、交通管理AI、勤務先の入退室記録を照合しました。短いものは一秒未満。長いものは三分二十七秒。その時間、あなたの躰を撮影した映像が残っている場合もあります。しかし、行政上の所在情報だけが消える」
「ときどき、あなた自身が世界から失くなっているんです」
セイジは何も言えなかった。自分がいなくなった場所に物だけが残されていたのだ。
「どうして僕が」
「原因は不明です」
「第ゼロのせいですか」
「順序が逆かもしれません」
「逆?」
「あなたが所在不安定だから、第ゼロに発見された」
久世は検査装置の表示を確認した。
「第ゼロからの、いわゆる都市伝説のメールは。誰にでも届くわけではありません。強い喪失を抱えた者。返却対象と感情的な関係を持つ者。そして、所在状態に異常がある者。あなたは、そのすべてに該当している可能性があります」
「綾乃のことを、どうして第ゼロが知っているんですか」
「それを調べるために、あなたをここへ連れてきました」
「きなこはどうなるんですか」
「返却生体として収容します」
「殺したりはしませんよね」
「現時点では行いません。ただし、返却された個体が、周囲の人間の所在へ影響を及ぼす場合は、別の措置を検討します」
「ただの猫ですよ」
「二十日前に死亡しています」
「でも、今は生きてる」
「生きているように活動しています」
「同じことでしょう」
「我々は、同じだとは判断していません」
久世の言葉に、セイジは強い違和感を覚えた。第ゼロは、人間や動物を品名として扱う。所在室は、それらを返却個体や収容対象と呼ぶ。言葉は違っても、目の前の存在を一つの物として分類している点では同じではないのか。久世はセイジの表情を読み取ったようだった。
「我々が冷酷に見えるのは理解しています」
「冷酷というより、不気味です」
「不気味で構いません。理解できないものに親しみを持つ方が危険です。我々は人を救出する組織ではありません。第ゼロ遺失物センターという存在しない異常な物を、封じ込める組織です」
*
検査が終わったあとセイジは窓のない個室へ移された。
簡素なベッドと机、それから、トイレの小部屋があるだけのシンプルな部屋だった。周囲の白い壁には時計も鏡もない。扉の取っ手は内側にはついていない。この部屋から外に出てはいけない、という無言の警告のようだ。ユナは別室で事情聴取を受けているらしい。きなこがどこへ運ばれたのかは教えてもらえなかった。
セイジはベッドに横になり天井を見上げた。天井一面が照明になっているようで、眩しくない白い光を部屋全体に浴びせている。
セイジは、第ゼロ遺失物センターからのメールを受信してからの出来事を思い返してみた。甲本サキが行方不明になり、死んだはずのサキの飼い猫が現れて、自分が引き取ることにした。そして、第ゼロからの2通目のメールが来て、そのメールを見せに中央遺失物センターに行き、それから、振り回されて今ここにいる。
セイジは、真壁セイジという人間の存在が分からなくなってきた。自分は確かにこの世界に存在して生きている、ということを今までは何の疑いもなく信じていた。でも、どうやらその認識が間違っていたようだ。
きなこが発した綾乃の声は、セイジの記憶に残る妹の声と同じだった。十五年前の記憶だけれど間違える筈がない。忘れることはできないから。十五年前の大雨の日、セイジが迎えに行かなかったために、綾乃は交通事故で死んでしまった。その綾乃が第ゼロ遺失物センターに保管されている。返却可能だというなら、自分が代替となるように申請すれば、とセイジが考えたとき、唐突に部屋の照明が消えた。
「またか。あちら側とこちら側を繋げてしまったのか」と言いながらセイジはベッドから起き上がる。窓がないから完全な闇に包まれている。でも、眼が慣れてきたのか、どこからか微弱な光が漏れてきているようで、部屋の中が薄ぼんやりと見えるようになる。セイジはどうすることもできずに、同じ姿勢でしばらくいると、部屋の扉の向こうから音が聞こえてきた。いつも聞きなれている忘れ物お届けロボットが走行する音に似ている。この建物へ入ってからロボットの姿は一台も見ていない。一般所在情報から遮断されたこの収容施設に、遺失物AIが管理コントロールしているロボットが入れるはずはない、とセイジは思う。車輪の音が扉の前で止まった。そして、
「遺失物をお届けします」いつも聞きなれている中性的な合成音声が聞こえた。
セイジは返事をしなかった。扉の下のわずかな隙間から白い光が差し込んでくる。
「真壁セイジ様。遺失物をお届けします」
自分の名前を呼ばれても返事をしてはいけない、と久世が何度も言っていた。その理由は教えてくれない。返事をしたら第ゼロにみつかってしまう、ってことなのか? セイジはもう何年も前から見つかっていて利用されている。
「受領してください」扉の向こうから辛抱強く合成音声が聞こえてくる。僕はここにはいない、立ち去ってくれ! とセイジは強く思う。しかし、内側に取っ手がない扉から電子錠が外れる音がする。セイジはベッドの上で躰が動けなくなる。ゆっくりと扉が開く。セイジが見つめる扉の向こうに、忘れ物お届けロボットがいた。
セイジがいつも見慣れているものより古い型だった。車体の表面は黄ばんでいる。角には無数の傷があり前面の表示板は光が弱く文字が滲んでいた。十五年くらい前の懐かしい形だった。子供のころ駅や学校で見かけた初期型の遺失物回収ロボットに似ている。
「これは、あなたのものですね」
前面の扉が開く。中には黒い携帯端末が入っていた。
現在の薄いスマートフォンではない。十五年ほど前に学生がよく使っていた厚みのある旧式だった。画面は割れて角が潰れている。表面には泥がこびりつき乾いて黒くなったものが広がっていた。それは血に見えた。セイジは、その端末を知っていた。それは、セイジが中学生のころに使っていたスマホだった。
「これが、どうして、こんなところにあるんだ?」
十五年前、あの事故のあとに紛失した。綾乃の遺品を整理していた混乱の中で何処かへ置き忘れたのだろうと思っていた。あの当時はまだ遺失物AIは開発段階で実用化はされていなかった。だから、落とし物が届けられることはなく、セイジは新しいスマホを両親に購入してもらった。
どうして十五年も経った今になって届けられるんだ。セイジは恐る恐るお届けロボットに近づく。
「これは、あなたのものですね。間違いなければ受け取って受領ボタンを押してください」何度も聞いている決めゼリフをロボットが喋る。
ロボット表面のディスプレイに文字が現れる。
取得場所:未登録
取得時刻:2061年7月18日 18時42分
綾乃が事故に遭った日付と時刻だった。セイジは呼吸が止まりそうなくらい息苦しくなりながら、右手を伸ばしてトレイ上の古い旧型スマホを受け取ろうとする。廊下の奥から複数の足音が近づいてくる。異常に気づいた久世たちが走ってくる。ユナもいる。
「それに触るな!」久世の叫び声が聞こえる。しかし、セイジは旧型スマホを手に取ろうとして指が振れる。その瞬間、セイジの意識は遠のき始める。
「受領ボタンを押してください」中性的な声を聞きながらセイジの意識は暗闇の中に落ちていった。
*
セイジの意識に最初に戻ってきたのは音だった。
路面を叩く激しい雨音。車両の走行音。歩行者用信号の電子音。
次に匂いが戻った。
濡れたアスファルト。排気ガス。雨水の溜まった側溝から立ち上る生温かい臭い。
最後に視覚が戻ってきて景色が見えた。
セイジは交差点に立っていた。そこは、十五年前に綾乃が事故に遭った交差点だった。道路沿いの建物は古く、広告画面には記憶にある昔の商品の映像が流れている。信号機も、走っている車両も、十五年前の形式だった。
なぜ僕はこんなところにいるのか? 時間を遡ったのか? たしか自分は所在室の収容施設に連れてこられて、検査をされて、そのあと窓のない部屋に入れられて、あ、そうか、十五年前に亡くした古いスマホが返却されたんだ。セイジは思い出した。
セイジは自分の服を見た。所在室へ連れてこられたときの服を着ている。信じられないことに、雨は躰を通り抜けるように降っていて、服も髪も濡れていなかった。自分の影も路面に落ちていない。どうやら過去へ戻ったのではないらしい。ということは、これは夢なのか? それにしては、意識はハッキリしている。
歩道の向こうに黄色い傘が現れた。
綾乃だった。十歳の妹が、音楽教室の鞄を肩から下げて立っている。事故の日の姿だった。
「綾乃」セイジは名前を呼んだ。しかし、少女は反応しない。今ここにいるセイジの姿は見えていないようだ。
綾乃の視線は道路の反対側へ向いていた。一人の少年が雨の中を走ってくる。それは制服姿の十五歳のセイジだった。
その姿を見た瞬間、現在のセイジの記憶が拒絶した。自分はあの日、綾乃を迎えに行かなかった。友人と遊ぶ約束を優先してしまい、母親から届いた、綾乃を迎えに行ってほしい、という連絡を無視した。だから綾乃は一人で帰り、事故に遭った。
そのはずだった。
しかし、少年のセイジは雨に濡れながら綾乃へ向かって手を振っている。綾乃が兄に気づいて黄色い傘を持ち上げた。笑っている。セイジの胸の奥で、音を立てて何かがひび割れた。この情景を忘れていたのではない。セイジの頭の中には、綾乃を迎えに行かなかった、という嘘の記憶が十五年間埋め込まれていたのだ。
綾乃が横断歩道へ足を踏み出す。大型配送車両が交差点へ近づいていた。速度を落とす気配はない。
豪雨のため、車両の検知センサーが綾乃を歩行者として認識できていなかった。
警告音が鳴る。
少年セイジが車両を見た。綾乃を見る。走り出した。
「やめろ」現在のセイジは叫んだ。声は届かない。
少年は綾乃の肩をつかみ歩道へ突き飛ばした。
黄色い傘が宙を舞う。
車両が少年の躰へ衝突した。
セイジの視界が白くなった。
次の瞬間、胸に凄まじい圧迫感を覚えた。骨が砕けた感触ではない。十五年前に失われた痛みの記録が、一瞬だけ現在のセイジの感覚に流れ込んできた。
呼吸ができない。口の中に鉄の味が広がる。
視界の端に雨に濡れた路面が近づく。しかし、セイジは倒れていなかった。現在のセイジの躰は交差点に立ったままだ。けれども、路面へ横たわった十五歳の自分が見ていたものが同時に見えた。
崩れた黄色い傘。泣きながら這ってくる綾乃。雨を受け続ける街灯。急速に暗くなる空。最後に見えたのは綾乃の顔だった。
惨劇の交差点の景色が黒い水に沈むように消えた。
*
消毒薬の匂いに意識が目覚めた。
セイジは病院の廊下に立っていた。窓の外はまだ激しい雨だった。廊下の椅子に綾乃が座っている。右腕を包帯が巻かれていて膝は汚れいている、おそらく兄の血がついたままなのだろう。綾乃から少し離れた場所では両親が医師から説明を受けている。
母親がその場に崩れ落ちた。父親は壁へ手をつき顔を伏せた。声は聞こえなかった。それでも、医師が何を告げたのか分かった。
真壁セイジは死亡した。
セイジは椅子に座る綾乃へ近づいた。触れようとして手を伸ばしたけれど、指先が妹の肩を通り抜けてしまう。
綾乃が顔を上げた。姿が見えたのかと思ったけれど、その眼はセイジではなく、廊下の奥を見ていた。そこに扉があった。
それは病院の案内図には存在しない扉だった。古い木製で曇りガラスがはめ込まれている。ガラスの向こうに明かりが点いていた。
綾乃は椅子から立ち上がってその扉へ向かった。周囲の大人たちは誰も気づかない。両親も、医師も、看護師も、少女が廊下を歩いていく姿を見ようとしなかった。
綾乃が扉を開けて入っていく。セイジは後を追いかける。扉の向こう側は待合室のように椅子が並んでいて、小さな木製カウンターの受付窓口があった。誰もいない。外の雨音も聞こえない静寂につつまれている。
窓口の上には黒い文字で『第ゼロ遺失物受付』浮かんでいる。それを見てセイジの心は嫌な予感でざわつく。
綾乃がカウンターの前に立つと暗い窓口の奥から声がした。
「何を失くしましたか」忘れ物お届けロボットと同じ声だった。
「お兄ちゃん」綾乃が答えた。
「お兄ちゃんを失くしたんですね。遺失日時を教えてください」
「さっき」
「遺失場所を教えてください」
「あそこの道路」
「遺失物の状態を教えてください」
綾乃は何も答えなかった。唇を震わせている。
「それは生存していますか」
綾乃が首を横に振った。
「死亡した人物は、常の遺失物AIでは捜索できません」
「探して」
「捜索を希望しますか」
「探してください」
「遺失物の返却を希望しますか」
「はい、返して欲しいです」
窓口の向こうで何かが動いている。暗闇の奥に白い棚が浮かんでいる。一つではない。上下も左右も見渡すかぎり幾つもの棚がどこまでも続いていた。そこには人間の形をした影が収められていた。
動かないもの。
ゆっくり首だけを動かすもの。
窓口の方へ両手を伸ばしているもの。
人間より多くの手足を持つ影も混じっていた。
「返却品一件につき、代替品一件が必要です」
「何を渡せばいいの」
「あなたを代替品として受領します」
窓口の奥の暗闇から、異様に長い白い手が伸びてきた。指の数を数えようとすると、そのたびに本数が変わって見えた。
「代替品を受領後、真壁セイジを指定場所へお届けします」
綾乃は白い手を見た。
「お兄ちゃん、帰ってくる?」
「返却可能です」
綾乃は振り返った。廊下の向こうでは両親が泣いている。他の人は誰もこちらを見ていない。
「わたしがいなくなったら、お母さんたちが悲しむ」
声は答えなかった。
「でも、お兄ちゃんが死んだのは、わたしを助けたからなの」
「遺失物を受領しますか」
綾乃はしばらく動かなかった。やがて、包帯を巻いていない左手を伸ばした。不気味な白い指が綾乃の小さな手を包む。
「お兄ちゃんを返してください」
「代替品の受領を確認しました」
病院の照明が消えた。棚の中にいた影たちが一斉に顔を上げた。綾乃の躰が暗闇へ引かれていく。悲鳴は上げなかった。ただ、何度も兄の名前を呼んだ。
「セイジお兄ちゃん」
一歩ずつ窓口の向こうへ消えていく。
「セイジお兄ちゃん」
白い棚の一つが開く。
「セイジお兄ちゃん」
その奥から十五歳の少年の影が押し出された。
セイジはどうすることも出来ずに、ただ見ていることだけしかできなかった。
*
気づくとセイジは窓のない個室の前に立っていた。右手は黄ばんだ旧型ロボットの受領ボタンに触れたままだった。雨音は消えている。病院の消毒薬の匂いも、濡れたアスファルトの臭いもない。けれど、息を吸うたびに胸の奥が痛んだ。十五年前の車両に押し潰された感覚がまだ躰の内側に残っている。
「真壁さん、大丈夫ですか?」すぐ近くから久世の声がした。声のほうにセイジが顔を向けると、久世と二人の職員が数メートル離れた場所に立っていた。その後ろにユナもいる。その全員がセイジではなく黄ばんだロボットを見ていた。
「真壁さん、そこから離れてください」久世の声がわずかに震えていた。
セイジは受領ボタンから指を離した。ロボットの前面にある収納部には古い携帯端末が残っている。まだ受け取っていなかったか、と思ってセイジは手を伸ばす。
「それに触れないでください」久世の強い声が飛んでくる。
「これ僕のものです」
「いまは所有権の話をしていません」
久世が同行者へ合図を送ると、その職員の一人がタグ読取検査装置を黄ばんだロボットへ向けた。
「識別信号なし。熱源なし。重量も測定できません。重さゼロです」
「目の前に見えてるのに、これは幻ってことですか?」ユナが恐怖を含ませた声で言う。
「映像はどうですか?」久世が訊くと別の職員が手元のタブレット端末を見る。
「監視カメラには映っていません」
セイジは黄ばんだロボットを見た。車体表面の傷も、剝がれかけた文字も、収納部の中のスマホも、この眼にはっきりと見えている。
「我々には見えているのに、機械には記録できないということか」久世は誰に聞かせるでもなく呟いた。
黄ばんだロボットの収納部が前方へせり出してきて、古いスマホがセイジの方へ差し出される。
「これは、あなたのものですね」中性的な合成音声が言う。
「答えないでください」久世が言う。しかし、セイジは答えずにはいられなかった。
「僕のものです」
その瞬間、スマホが収納部から滑り落ちた。セイジは反射的に両手で受け止めた。冷たく湿っている。手のひらに十五年前の泥がつく。ロボットの前面スライドドアが閉まった。
「返却作業を完了しました」ロボットはそう言うと黄ばんだ車体の輪郭が揺れはじめた。透明になったのではない。壁や床に溶け込んだのでもない。そこにある筈なのに、どこにあるのかを認識できなくなった。それに視線を合わせようとすると眼が勝手に壁へ逸れてしまう。
車輪が回る音がする。ロボットは廊下を進んでいるはずだった。しかし、セイジには何も見えなかった。音だけが遠ざかり角を曲がったところで静かになった。
「追跡班を回して施設の出口をすべて封鎖してください。それから、監視記録を保存するように」久世が二人の職員に命じた。
「監視記録には何も映っていません」
「何も映っていない記録を保存するんです」久世が声を荒らげたのはそれが初めてだった。慌てて二人の職員が走っていく。
久世はセイジの持つ古いスマホを見た。
「それを床へ置いてください」
「これは、本当に僕のものです」
「分かっています。だから危険なんです」
透明な隔離容器が運ばれてきた。セイジがスマホを容器の中へ置くと久世が蓋を閉じた。
「真壁さん。いま何が起きました」
「事故を見ました」
「十五年前の事故ですか」
「見たんじゃありません。あそこにいました」
久世の眉がわずかに動いた。
「あなたの躰は、ずっとこの廊下にありましたよ」
「僕は十五年前のあの交差点にいたんです」
「監視映像では、十二秒間、あなたはロボットの前で立っていました」
「それでも、僕はあそこにいたんです。車にはねられた感覚も、この躰に残っているんです」セイジは自分の胸を押さえながら言った。
ユナが近づこうとするのを久世が手で制した。
「話を続けてください」
「十五年前のあの日、僕は綾乃を迎えに行ったんです。綾乃が横断歩道を渡っているとき、車が来るのを見て、僕は綾乃を突き飛ばした。そして、死んだのは僕のほうだったんです」
久世は話の続きを促すように黙って聞いている。
「そのあと、綾乃が病院の中にあった窓口へ行った。第ゼロ遺失物受付と書いてあった。綾乃は、死んだ僕を探して返してほしいと頼んだ」
「誰に?」
「分かりません。窓口の向こうには、人間はいなかった」
「綾乃さんは、何を代価にしました」
「自分です」
久世は隔離容器に収められた携帯端末を見た。
「今あなたが言ったことは、現在の事故記録と矛盾しています」
「記録の方が書き換えられたんです」
「どうして、そう言い切れるんですか?」
「僕が見たものが真実なら、そうとしか考えられない」
「この返却された古いスマホを調べてみましょう」久世は隔離容器ごと職員へ渡して検査するように命じた。スマホの表面から泥と黒ずんだ付着物が採取される。識別タグは壊れているように見えたが微弱な情報が検出された。
「製造番号を確認できました」
職員が読み上げる。
「所有者、真壁セイジ。登録日時、2058年4月12日です」
それはセイジが中学生になった年だった。
「最終位置情報は、2061年7月18日、18時42分。場所は例の交通事故現場です」
久世の表情から血の気が引いた。
「現在の遺失物記録では、その端末はどうなっていますか」
「記録がありません。製造番号自体が、データベースから削除されています」
「付着物はどうですか?」
「簡易検査では人間の血液です。DNA照合には時間が必要です」
突然、検査装置が警告音を発した。表示画面にセイジの所在情報が表示される。
『現在位置:第三収容区画』
その下に、見慣れない情報が重なっていた。
『2061年7月18日 事故現場』
表示は交互に入れ替わっている。
「これは何ですか」
セイジが訊く。久世は答えなかった。検査職員が怯えたように画面を見ている。
「過去の位置情報が、現在の所在情報に重なっています」
「そんなことが起こった事例はありますか?」久世が訊く。
「ありません」
「返却個体で類似した現象は」
「一度も記録されていません」
久世はタグ読取検査機の画面と古いスマホを交互に見た。先ほどまでの冷静さは消えていた。
「記憶を見せられたのではないんですか」ユナが訊いた。「真壁さん本人が持っていない忘れた記憶です」
「第ゼロは人間やペットだけではなく、我々が時間と呼んでいるものを、第ゼロは遺失物と同じように扱っているのか」
「遺失物には、最後に存在していた場所と時刻が記録されます。あのスマホは十五年前の事故現場で失われた。そして、あなたも同じ場所で一度失われた」
「第ゼロが、僕が忘れていた事故の記憶の時間を、遺失物として僕に返却した、ということですか?」
「その表現が正しいかどうかも分かりません。ただ一つ確かなのは、あなたが過去へ行ったわけではないということです」
隔離容器の中で壊れているはずのスマホの黒い画面に白い文字が現れる。
『お届けした遺失物に間違いはありませんか
はい いいえ 』
二つの選択肢が、一定の間隔で明滅している。
「誰も触らないでください」久世が言った。
職員たちは古いスマホが入っている隔離容器から距離を取った。スマホへ向けられたタグ読取検査装置は、現在地と十五年前の事故現場を交互に表示し続けている。その表示を見ながらセイジは立ち尽くす。それは間違いなく自分が十五歳のとき持っていた物だった。傷の位置も、側面に貼った好きだったアニメキャラのシールも覚えている。あの事故に遭ったとき事故現場に落とした忘れ物だ
「真壁さん、質問に答えてはいけません」ユナが言った。
「でも、これは僕の物です」
「だから危険なんですよ」久世が制するようにセイジと隔離容器の間に立つ。
「第ゼロが、あなたを所有者として照合しようとしている。承認すれば、次に何が起こるか分かりません」
「承認しなくても、もう起きてますよ」セイジは壁面に表示されている文字を指した。
『現在位置 2061年7月18日 事故現場』
その文字は消えようとせず、現在位置の表示へ重なっている。
「僕は十五年前に死んだ。綾乃は僕を第ゼロに届け出て、自分を代価にした。第ゼロは僕を返したあと、僕が生きていることに矛盾がないように、記録と記憶を書き換えたんです」
「それは、あなたが体験した現象から導いた、ただの推測です」
「だったら、どうして、あのころ僕が持っていたスマホが、ここにあるんですか」セイジは久世を問いつめた。
「十五年前の事故現場で失われた僕のスマホが、どうして今ここに届いたんですか。どうして、僕の知らない綾乃の行動を、僕は見たんですか」
「事故記録を再検証します。それまで何も選ばないでください」久世が言う。
前に立つ久世を押しのけて、セイジは隔離容器に近づく。久世が腕をつかもうとしたが、その手を振り払った。
「これが僕の遺失物なら受け取ります」
透明な蓋の上から「はい」の位置へ指を置いた。触れていないはずの画面が反応した。
『選択を受け付けました』
古い端末の画面に白い円が広がった。同時に施設の照明が暗くなる。遠くから、きなこの首輪の鈴が聞こえてきた。鈴の音は壁の内部を移動していく。床下から天井、そして、施設の通路の奥へ遠ざかって消えていく。やがて、甲本サキの声が聞こえた。
「わたしを、そっちに返して」
壁の中から響いている。
「きなこを、こっちに返して」
セイジは壁へ近づいた。
「甲本さん?」
「応答しないでください」久世が言った直後、古いスマホに新しい文章が表示された。
『前回お届け品の返却を受け付けます
お届け品:きなこ
保管品:甲本サキ
受け取ったお届け品を返却しますか?
はい いいえ 』
セイジは画面を見た。
「これで甲本さんを戻せる、ということですか?」
「そう書かれているだけです。そのような事例は今まで確認していません」
「返却された物を返せば、代価になった人間が戻る。第ゼロが交換を元に戻そうとしてる、ってことですよね」
「保証はありません。我々には、この文章が何を意味しているか判断できません」久世は隔離容器の古いスマホを指さしながら言う。
壁の向こうでサキが泣いている。
「真壁さん。ここは暗いの」
声が遠ざかり、また近づく。
「棚がいっぱいある。みんな、こっちを見てる」
サキの声の後ろで大勢の人間の囁き声が聞こえてくる。
「きなこを、そっちに返します」セイジは言うと久世が止めるより早く『はい』の位置へ指を置いた。
警報が鳴った。
収容室の映像が一瞬だけ回復する。透明な容器の中に、きなこがいた。猫はセイジたちのいる方向へ顔を向けている。その後ろに白い棚が見える。収容室の壁ではない。棚は容器の内部から暗闇の奥へどこまでも続いていた。
きなこが立ち上がる。容器の透明な壁へ向かって歩く。鼻先が壁へ触れる。そのまま、きなこの躰が透明な素材の向こうへ沈み始めた。
壁をすり抜けたのではない。猫が前へ進むにつれて収容容器の奥行きが伸びているように見えた。
「容器を開けるな!」
久世が叫ぶ。
「開いていません!」
職員が答える。
きなこは白い棚の間へ歩いていく。一度だけ立ち止まって振り返った。その眼には何も映っていなかった。次の瞬間、猫の姿が暗闇へ消えた。透明な容器の内部が元の大きさへ戻る。生命反応が消失した。鈴の音も止まった。
施設全体が静まり返る。
「甲本さんは?」セイジが訊く。誰も答えなかった。
十秒ほど経ったころ収容室の床に黒い染みが現れた。濡れた場所が広がるように黒い円が大きくなり、それは穴になった。穴の中に無数の白い棚が見える。そこから人間の手が伸びてきた。爪が割れて指先に血が滲んでいる。その手が床をつかむ。続いてもう片方の手が現れた。
人間が穴の中から這い上がってくる。長い髪。灰色の服。甲本サキだった。サキは収容室の床へ倒れ込んだ。黒い穴は彼女の足先を吐き出すと急速に縮んで消えた。床には継ぎ目も傷も残らない。
「医療班を呼んでください」久世の指示で、複数の職員が収容室へ駆け込んだ。サキの首筋へ計測器が当てられる。
「呼吸あり。心拍あり」
「識別情報を確認してください」久世が言う
「甲本サキとして照合しました。所在状態、確認済」
サキが目を開いて、何かを言うように口が動く。声は聞き取れなかった。セイジには「きなこ」と言ったように見えた。古い携帯端末に文字が表示された。
『返品を受領しました
お届け品:きなこ
返品状態:保管中
代替品:甲本サキ
返却完了
ご利用ありがとうございました』
画面の文字は公共施設で見かける事務的な通知と変わらない。猫が再び死者の側へ引き戻されて代わりに人間が返された。その出来事を第ゼロは商品の返品と同じように処理している。
「交換を逆にできる」
セイジが言った。
「断定はできません」
久世はそう言ったが、その声にいつもの強さはなかった。
「今、目の前で起きたでしょう」
「起きた現象と、その仕組みを理解することは別です」
隔離容器の中の古いスマホが震えた。再び画面が黒くなる。白い文字が浮かんできた。
『長期保管品があります
品名:真壁綾乃
保管期間:十五年
保管状態:良好
返却可能
代価を用意してください』
その下に、小さな文字が続いた。
『お届け品を返品する場合、新たな代価は必要ありません』
セイジは、その文章を一度読んだだけで意味を理解した。十五年前、第ゼロが届けた品はセイジ自身だ。セイジを返せば綾乃が戻る。サキときなこの交換を元に戻したように。
「これが、僕を窓口として使っていた理由なんですね」セイジは言った。
「第ゼロは僕を完全に返したわけじゃない。十五年間、貸し出していただけなんだ」
「そのような記載はありません」
「僕の個人識別情報が何度も消えた。第ゼロが僕の躰を使っていた。僕は返却されたあとも、第ゼロとの接続を残していたんです」
事故で死んだセイジを返却するために綾乃は代価になった。しかし、返却されたセイジは、普通の人間には戻らなかった。記憶が途切れるたび、第ゼロはセイジの躰を使って、こちらの世界の現実を調べていた。そして、遺失物AIが全国の物の所在を管理するようになってから、その接続はさらに深くなった。
「真壁さん、急いで決める必要はありません」ユナが言った。
「事故の真相を知ったばかりです。甲本さんも戻りました。いま決めることじゃありません」セイジは隔離容器に入った古いスマホを見た。
「第ゼロは待ってくれると思いますか」ユナは答えられなかった。
「僕が十五年間生きてこられたのは、綾乃が自分を差し出したからです」
「それは綾乃さんが選んだことです」
「十歳の子供が、兄を返してほしいと願ったんです。選択の意味なんて分かっていなかった」
「だからといって、今度はあなたが同じことをしたら」
「同じじゃありません」
セイジは自分の胸へ手を当てた。
「もともと事故で死んだのは僕です。それに、僕がここにいる限り、第ゼロはこの世界への窓口を持ち続ける」
「第ゼロとの接続が切れる保証はない」
久世が言った。
「分かっています」
「真壁綾乃が、正常な人間として返される保証もない」
「それも分かっています」
「第ゼロが見せた事故が真実である保証さえありません」
セイジは久世を見た。
「でも、あなたも、あれが僕の記憶ではないと分かっている」
久世は黙った。
「第ゼロが見せたことを信じるんじゃありません。僕は、綾乃が僕のためにいなくなったという事実を、放っておけないだけです」
古いスマホの表示が変わった。
『返却を希望しますか
はい いいえ 』
セイジは透明な容器へ手を置いて「はい」と声に出した。 画面に触れる必要はなかった。
『回答を受け付けました。受取場所を照会します。
中央遺失物センター
第一窓口
返却予定時刻 午前六時』
*
中央遺失物センターへ戻ったとき夜は明け始めていた。
所在室の久世たちは、設備異常が発生している、という嘘を理由にして、施設内にいた職員と利用者をすべて避難させていた。周辺道路にも工事用の規制表示が出されている。
第ゼロが綾乃の返却場所として指定した第一窓口はシャッターが閉められていて、その前には透明な隔壁が設置されている。セイジの古いスマホは、第ゼロとの連絡手段になっているので、隔離容器に入れられたまま窓口の前に置かれている。
セイジはシャッターを見つめながら、そのときが来るのをまっている。両隣に久世と神崎ユナが立っている。
「甲本さんは、その場ですぐ返却されたのに、どうして綾乃は、返却されるまで時間がかかるんですかね?」セイジは答えは期待せずに隣に立つ久世に訊いた。
「わかりません」予想通りの言葉を久世が言う。
窓口の上の壁にある時計が午前五時五十五分になった。
「この隔壁は、何のためにあるんですか?」ユナが久世に訊いた。
「真壁綾乃が返却されるとき、向こう側から何ものかが侵入してくるかもしれません。我々は、あらゆることを想定しています」久世が淡々と答えた。
セイジは、もし侵入してきたとしても、こんな壁で防げるとは思えなかった。第ゼロは電源を切ったスマホに通知を送る。存在しないロボットを収容施設へ入れ、床のない場所に穴を開ける。第ゼロは、人間の頭がする想定を遥かに超えたことをする。
午前五時五十八分。
待合室の隅に止められていた十数台の忘れ物お届けロボットが一斉に動き出した。
「ロボットを停止させてください」久世が命じる。
「すでに停止しています。動くなんて信じられない」職員が答える。
ロボットたちは、第一窓口のほうを向いて停止した。まるで、何かを待っているように見える。
午前五時五十九分になった。第一窓口のシャッターの向こうから棚を引き出すような音が聞こえてくる。奥の事務室には誰もいない。でも、何か重い物が動いているような音が聞こえる。そして、一つ、また一つと、棚が順番に開かれていくような音が聞こえる
第一窓口のシャッターが上がり始めた。久世の職員は操作していない。金属製のシャッターの向こうには事務室がある。しかし、セイジたちが眼にしたのは暗闇の中に並ぶ無数の白い棚の列だった。
セイジが十五年前の病院の窓口の奥に見た棚とおなじだった。どこまで続いているのか分からない。上も下もなかった。棚は水平に並んでいるようにも、垂直に落ちているようにも見える。遠くにある棚が、目を動かしただけで目の前へ近づき、近くにあったはずの棚が暗闇の奥へ消えていく。
棚には人のような影が納められているように見える
眠っているように見える影。目を開けたまま動かない影。こちらへ手を伸ばす影。人間に似ていながら、見つめるほど形の分からなくなる影。セイジには、そこが死者を保管する場所なのか、そもそも場所と呼べるものなのか分からなかった。
ただ、暗闇の奥にある何かが自分を見つけたことだけは分かった。その何かの力に操られるようにして、セイジは窓口に向かって歩き始めた。一歩二歩と窓口へ近づくと、久世に腕をつかまれて立ち止まる。
「まだ中止できる可能性があります」久世の言葉にセイジ振りかえって「綾乃をお願いします」と言う。久世は何も言えずにセイジの腕を離した。
ユナがセイジの服の袖をつかんだ。
「わたしは、あなたを忘れません」セイジはユナを見た。
「忘れた方がいいかもしれませんよ」
「それを決めるのは、真壁さんじゃありません」セイジは小さく笑った。
古いスマホが隔離容器の中で震える。画面に文章が表示された。
『お届け品:真壁綾乃
返品対象:真壁セイジ
交換を開始します』
白い棚の間に黄色い傘が見えた。事故の日と同じ服を着ている十歳の綾乃が歩いてくる。右腕には包帯がまかれている。綾乃は窓口の向こうで立ち止まって、歩いてきたセイジと向かい合った。「お兄ちゃん、迎えに来てくれて、ありがとう」十五年前と変わらない声だった。
その言葉を聞いたとき、セイジの頭の中に十五年間も居座り続けた偽りの記憶が、音もなく崩れ去った。母親の頼みを無視した自分。綾乃を見捨てた自分。そのような過去は、最初から存在しなかった。
セイジは第一窓口を越えると、綾乃がこちら側へ押し出されてきた。すれ違う瞬間、セイジは妹の肩へ手を置いた。温かかった。逆らうことができない力に押されるようにして、セイジは白い棚の間へ入った。振り替えるとユナが綾乃を抱き止めているのが見えた。
*
白い棚が周囲から迫ってきてセイジを包み込む。そのときセイジの意識の中に第ゼロ遺失物センターの意味が流れ込んできた。
第ゼロ遺失物センターという都市伝説は、遺失物AIが偶然に発見した理解できない存在だ。この無限に広がる無数の棚は、宇宙の外側にある生命台帳のようなものだ。ここには、このに宇宙に存在したすべての生命の所在情報が収容されている。
生きている生命は「所在確認済」、死んだ生命は「所在不明」、返された生命は「返却済」と分類される。生命台帳にとって、生命の死や失踪は悲劇ではない。ただ、現実世界の中で所在が分からなくなった生命という個体の記録にすぎない。
ひとつの生命を戻したら、そこにひとつ分の空きができる。それを埋めるものが必要なだけだ。愛も、悲しみも、死も理解していない。ただ、数を合わせている。
白い棚の一つがセイジの前で開いた。セイジはその中へ進む。第一窓口のシャッターが下り始める音が聞こえる。そして、
「返却作業は完了しました。ご利用ありがとうございました」並んでいた忘れ物お届けロボットだちが一斉に放つ合成音声が聞こえた。
シャッターが閉じてセイジの意識は空白になった。
*
三日後。
真壁綾乃は所在室の保護区画にいた。躰は十歳のままだった。健康状態に異常はない。綾乃にとっては十五年という時間は経過していなかった。兄を第ゼロへ届け出たあと白い棚の間にいたことは覚えている。しかし、そこで何を見たのか、と訊かれると彼女は口を閉ざした。眠るときは必ず部屋の扉を開けておくよう求めた。扉を閉めると向こう側に棚が現れるのだという。
真壁セイジに関する公的記録は交換の直後から消失を始めた。
セイジの会社では誰が使っていたのか分からない机が一つ残った。戻ってきた甲本サキも、同期入社した男性がいたような気がするというだけで、その名前を思い出すことはできなかった。
ユナと久世を含む、交換現象に立ち会った数名だけが、セイジの記憶を保持していた。
所在室は、セイジが消えたことで、第ゼロと現実世界を結んでいた窓口も失われたと判断した。
セイジの古いスマホは第三収容区画の隔離庫へ保管された。電源は入らない。識別タグも反応しない。あれ以来、第ゼロからの通知の文字が現れることはなかった。
表面に付着していた血液は十五歳当時の真壁セイジのDNAと一致した。その結果が確認された翌朝、全国で異常が発生した。
午前九時。
稼働中だったすべての忘れ物お届けロボットが同時に停止した。日本全国の数十万台のロボットが運んでいた遺失物を収納したまま動かなくなった。中央遺失物センターからの制御命令にも反応しない。やがて、全ロボットの表示画面が黒くなって白い文字が現れる。
『第ゼロ遺失物センターからのお知らせ』
その下に、新しい案内が表示された。
『死者を遺失物として届け出れば、探し出してお届けします。
本当に大切な方のお名前を入力してください。
ただし、必ず代償を用意してください』
画面の下には、名前を入力するための欄があった。表示を見た人々は、最初は悪質な広告か、システムの不具合だと思った。けれど、何人かは第ゼロの都市伝説を知っていた。その人たちは、もう一度だけ会いたいと願っていた人間の名前を思い浮かべた。名前を強く思っただけで画面の空欄へ文字が現れた。
一台の忘れ物お届けロボットが動き始める。続いて、別の一台。道路のあちこちで、何台ものロボットがそれぞれ異なる方向へ走り出した。
久世は中央遺失物センターの監視室でその映像を見ていた。隣にはユナがいる。
「真壁セイジさんを窓口として使っていたんじゃなかったんですね」ユナが言った。
相変わらず久世は何も答えない。
第ゼロ遺失物センターは十五年間セイジを窓口にしていた。それは間違いではない。しかし、窓口を失えばこちら側へ接続できなくなる、と考えたことが間違いだったようだ。第ゼロはセイジを通して、人間の遺失物制度を調べていたのだ、と久世は理解した。
監視映像の一つで、小学生くらいの少年の前に一台の忘れ物お届けロボットが止まる。少年の隣には母親が立っている。ロボットの前面扉が開く。中には何も入っていない。
「これは、あなたのものですね」ロボットが少年に言う。母親が少年の手を引いてロボットから離れようとする。表示画面に母親の名前が現れた。その横には、現在の状態が表示されている。
『所在確認済 生存中』
少年は母親を見上げた。ロボットの表示が書き換わる。
『取得予定日時 2076年7月31日』
それは明日の日付だった。母親はまだ生きている。まだ失われていない。それでも第ゼロは、すでに彼女を遺失物として登録していた。ロボットの表示が再び書き変わる。新たな白い文字が現れた。
『ただいま、保管場所を確保しています』
中央遺失物センターの存在しない地下室から、重い棚が動く音が聞こえてくる。
了
文字数:38909
内容に関するアピール
梗概の内容とはちょっと変更して、自分なりに考えたSCP風味を加えてホラーサスペンス感を高めてみました。今、自分の中にある思いを全部出して書きました。一年間ありがとうございました。
文字数:89




