梗 概
シャチピの確率
不幸体質の充と、時間を守れない椿は、自分のせいでない理由で、うまく生きられない夫婦だった。充は不幸体質が遺伝すると思うと、子がほしいと思えない。椿は仕事がうまくいかず、充にも迷惑をかけるのを気に病んでいた。二人はある日、検見川シーワールドへ行く。ぬいぐるみが当たる「シャチくじ」をやる。結果は5等。小さいサイズのぬいぐるみを持ち帰り、シャチピと名付ける。
その夜、二人はシャチピの声を聞く。彼の正体は《シャルルチルピス生命体》––地球外生命体だった。「ぼくらは増えない。分裂し、散った」。他のシャチぬいぐるみ個体とテレパシーで知覚を共有する。普通、人にシャチピの声は聞こえないが、二人は特殊だった。
充の不幸体質は、実は《主観過敏症》という疾患であり、椿が時間を守れないのは個人の内在時間と世界時間がズレる《クロノ・デシンク症候群》の症状だとシャチピは説く。地球では病気として発見されていないが、他星では疾患らしい。それはいわば世界から疎外される病。地球の理から弾かれた二人ゆえ、シャチピの声が聞けた。
シャチピの目的は《確率の観測》。彼らは「未来が確率として分岐する惑星」を見つけ、その星の生命体の確率を観測する。くじで喜び、落胆する、その瞬間の熱量をエネルギーとして回収し、母星に送信する。
5等のシャチピは「最もどうでもいい確率を引いた人間」の観測を担う個体。人間は5等のシャチピに名を与え、話しかける。シャチピは言う。「役に立たないものに意味を与える知性。不思議だね」。充にとってシャチピとの出会いは、自分の不幸体質が幸せに繋がる出来事だった。他方、椿はシャチピを不気味に感じる。
シャチピの別個体たちは持ち主に捨てられ、水族館の在庫処分に合い、次々に死んでゆく。テレパシーの共有知覚がまたひとつ消える。「一度分裂したら、元に戻れない。個体が死ねば僕の存在も薄くなる」
天敵も襲来。《ネルリコルルコス生命体》、通称ネコは確率を喰う。エントロピーの増大の抑制を行動原理とする。ネコに別個体たちがやられる。シャチピもネコに襲われるが、椿が懸命に追い払う。その過程で危機に瀕した椿をシャチピが助ける。以来、椿はシャチピを大切に想う。
シャチピの指導で、主観過敏症とクロノ・デシンク症候群を治療する。椿が普通の時間感覚を初めて得た日、シャチピの声が途切れる。二人の症状は緩和していくが、それ故にシャチピの声が徐々に聞き取れなくなる。
「残機1。それが、5等の僕とはね」。ついにシャチピ以外の個体すべてが死ぬ。充と椿は何があってもシャチピを守ると誓う。
二人はシャチピの声が完全に聞こえなくなった。シャチピに関する記憶も失われたが、二人はシャチピを大切にし続ける。この未来はシャチピが選び、人間が気づかないまま受け取った確率だった。時が経ち、充と椿は子供を連れ、検見川シーワールドを訪れる。子供の手にシャチピが握られて。
文字数:1200
内容に関するアピール
「キャラ」と「成長」を意識しました。
【ジャンル】
「ゆるSF」。少し不思議なSF的な設定を用いたファーストコンタクトもの。テイストは青年向け漫画的なイメージ。厳密なSF世界というより、SFを使ったエンタメに。
【読者】
普段SF小説を読まない、大衆小説を時々読む中高生から大人。いわゆる「SF小説」は読まないものの、SFっぽい小説は読むし、アニメや漫画でも比較的このジャンルを好む。読書インフルエンサーのショート動画がたまたま流れてきて、興味をもったらポチる。そんな層を想定。
【方針】
キャラに設定を。夫婦にSF的な属性を与えつつ、現代の生きづらさを描き、読者の感情移入を誘う。その上で、エンタメに不可欠な要素と考える登場人物たちの「成長」を描く。
文字数:320
シャチピの確率
1
「椿、準備できた?」と充が尋ねたとき、椿は半裸の状態で泣きべそをかいていた。下半身はロングスカートを履いているものの、上半身はブラジャーが露わになっていた。数分前、充が横目で彼女の姿を確認した時、確かに支度が整いかけていたようだったが。
「ごめんね、もうちょっと待って」彼女はそう言うと、なぜかスカートを脱ぎ出し始めた。ほぼ全裸になった。
「慌てなくていいから、ゆっくりね」そう言って右腕の腕時計を見る、午前八時十分。午前八時に家を出ると予定だったが、この分だと九時頃になるだろう、と推定する。いつものことだ。
「お待たせしました」
デニムパンツに白のティシャツ、という装いに落ち着いたらしい椿は、充のもとでぺこりと頭を下げた。
「よし、じゃあ行こっか」
「遅くなってごめんね」
そう言って家を出た矢先、充の肩に、ぽとり、と白濁色の液体が付着した。鳥のフンだった。
「ごめん、着替えてくるわ」
項垂れ、家へ戻ってゆく彼の後ろ姿を、椿は切ない気持ちで見送ることしかできない。
*
充は自らを不幸体質と呼ばずして何だというのだ、と常日頃感じて生きてきた。洗濯物を干せば雨に振られ、外を歩けばフンを落とされる。他方、椿もまた、自分がどうしようもなく時間を守れないことに悩んでいた。本人としては、前もって準備をしたり、時間に余裕をもって行動したりしているつもりなのだが。
夫婦は互いに生きづらさを抱えていた。二人の将来を考える上でも、無視できない要素だった。充は不幸体質がもし子どもに遺伝したらと思うと、子が欲しいと言えない。椿は私生活でも仕事でも、物事をうまく進められず失敗して落ち込んだ。こんな自分がまともな母親になどなれはしない、と決めつけていた。
それでも、二人が仲の良い夫婦であることに違いはない。互いの欠点を認め合い、彼らなりにうまく生活を営んでいた。これからも、二人であればきっと良い形で生活していけるはずだと、硬く信じていた。
そうして笑い飛ばしながら、仲良し夫婦の充と椿は、電車を乗り継ぎ、ようやく水族館に辿り着く。太陽が頭上高くから、光を降り注いでいた。
*
五月の検見川シーワールドは賑わっていた。家族連れが目立った。充と椿はレインコートを着てシャチショーを観た。シャチの艶やかな黒色の身体が陽光に照らされ光っていた。シャチの豪快なジャンプによって生み出された大量の水飛沫を全身で浴びた。
ショーを観終えると椿は言った。
「そうだ、あっちで、シャチくじやってたよ」
「シャチくじ?」
「そう。一等は特段大きなシャチのぬいぐるみ。五等は小さなぬいぐるみ。かわいい感じに見えた」
シャチくじの場所には多くの人が集まっていた。一回千円、一等から五等まで、景品はすべてシャチのぬいぐるみ。五等は手乗りサイズだが、一等になると子供の身長くらいの巨大なサイズとなっていた。
「やる?」充は首を傾げて言う。
「やる」椿は強く頷く。
列は思ったよりも早く進み、順番がやってきた。透明な球体の中に空気が流動的に流れ、くじの紙が宙を舞っていた。
「これはね、充くんがやってほしい」
「え、僕がくじを?」
充の不幸体質話を散々聞かされてきたはずだが、椿は彼にくじを引くことを求めた。
「これはね、ぜひとも充くんに」
充は中に手を入れ、怪我をした蝶のように舞う一枚を手にとって引く。開けると「五等」の文字が書かれていた。充は肩を落としていたが、隣で椿は小さく喜んだ。
「五等のサイズが、一番かわいい」
「ああ、それで僕に」
係の人の案内に従い、景品交換コーナーにやってくると、シャチが一様にこちらを見つめていた。椿は素早く視線を左右に動かし品定めを行う。
「難儀だね」充は言う。
「ねえ、バーネットの『小公女』、知ってる?」
「読んだことないな」
椿は五等の中で、白黒のぬいぐるみの中から一番手前に置かれた一体を手にとって、係の女性に渡した。ビニル袋に入れられて小さなシャチは再び椿の手元に戻ってきた。
「ね。この子の名前、充くんがつけて」
「ぼくが?でも、これは椿が」
「充くんが引いたんだから。自信もって」
充は少し考え込むような様子をみせてから、「じゃあ、シャチピ」と言った。
*
家に帰ってきて、あちこち歩き回ってシャチピをどこに置こうか悩んだ末、テレビボードの一画に決定した。当初、正面を向くよう置いたが、開かれた口のピンク色の部分がタラコ唇みたいで、ちょっとだけ”ぶさかわ”だった。「シャチピ、正面あんま可愛くないね」と二人で笑った。いくつか置き方を試し、正面から斜め四十五度の角度に落ち着いた。しかし今度はタグが目立つのが気になった。
「タグ、切っちゃおうか」と椿は言った。「ブランドでもないし、いいんじゃない?」
充はしばらく考え込んでから答えた。「いや、それはやめよう」
「どうして?」
「なんとなく、かわいそう」
「タグがついていないことが?」
「タグを取ってしまうことが、かな」
椿は不思議そうに首を傾げたが、特に反対しなかった。「うまくタグ部分を切れなくて、ぼろぼろになるのも嫌だしね」と言って頷いた。
こうして、二人にとってささやかながら素敵な土曜日となった。
その、はずだった。
2
夜も深まり、二人は寝室で就寝していたが、充がふと目を覚ました。物音がする。まるで話し声のような音。身体を少し起こし、聴覚に集中する。隣で椿も、もぞもぞと身をよじり、目を擦り出した。
「なに、誰かいるのお」寝ぼけた声で、椿が呟く。
「やっぱ、聞こえるよね。お隣さんかな。でも変だ」
二人はベッドから起き上がり、忍び足で音の方へ向かう。声はリビングから聞こえるようだ。針穴に糸を通すような慎重さでドアを開け、僅かに開かれた隙間からリビングの中を覗く。深緑色のソファに、ガラスの天板のテーブル、モルタル調のボードに五〇インチのテレビ。いつものリビングだ。
充と椿は異常がなさそうなことを認めるとリビングに入室し、幾分力を抜いて、ソファに腰を下ろす。すぐにベッドへ戻って眠るのが良い気もしたが、目が冴えてしまった。
「何か飲む?」充はそう言って、キッチンへ向かう。
「ピ、いや何でもないッピ。一瞬、ぼくの声をヒトに認識されたような気配がしたのだけど、そんなことはあるはずない。いずれにせよ、問題ないから、計画について話の続きを」
二人は身体を硬直させた。
シャチピもまた、身体を硬直させた二人に気がついた。
時が止まり、あるいは地球の自転と公転もその瞬間止まったのではないかと思われるくらいの”停止”が辺りを支配し、ほぼ同時にその呪縛から逃れた三者が悲鳴を上げた。
日曜日、深夜二時のことだった。
*
「で?」
「ピ」
「ピ、じゃなくて」
だん、とガラスのテーブルの天板を充は叩く。いつになく荒々しい様子に、椿は目を丸くする。椿は、そんな充の拳が小刻みに震えていることも見逃さない。
「君は何者だ?」
「《シャルルチルピス生命体》、といっても知るはずないか。要するに、僕は君らかたら見たら異星人、地球外生命体というやつッピ」
「なぜ地球に?何が目的なの?」
その問いには答えず、シャチピは言う。
「ぼくらは生殖によって増えない。ひとつの個体を分裂させるッピ。そうして《僕ら》はこの星に散った。シャチくじとして」
他のシャチぬいぐるみ個体とテレパシーで知覚を共有できるらしい。シャチピがぶつぶつ話していたのは、まさにテレパシーで別の個体と通信していた最中だったとのこと。普通はヒトにシャチピの声は聞こえないから、平気で通信していたわけだが。
「僕も迂闊だった。君らはちょっと特殊ッピね。この惑星の生命体として、些か例外的な存在だな。よりによって、二人とも。珍しい疾患にかかる生命体に引き当てられるなんて、僕もそんな《確率》は想定していなかったッピ」
「話が見えないんだけど」
「うん。君たちのソレは、確かに疾患だけど、不治でもないし、深刻な悪化もまだ見せていない。治療すれば問題ないッピ」
「疾患?どういうことだ?」
「なるほど。そうね、この星ではまだ発見されていないッピね」
「ぶつぶつ言ってないで、教えなさい」
椿は自分の髪の毛を触りながら、棘を含ませた声を放つ。
「充、君が言うところの不幸体質とやらは、《主観過敏症》という疾患ッピ。椿、君が時間を守れないのは怠惰ではない。個人の内在時間と世界時間がズレる《クロノ・デシンク症候群》の症状ッピ」
「もう少し、詳しく」
「絶妙にかわいくないなあ。ちょっとキモい」椿がげんなりした様子で呟く。
「シャチピ?僕らの疾患とやらを」
シャチピはぽつり、と呟く。
「シャチピ、ね」
「なに?名前、不服なの?」
「役に立たないものに意味を与える知性、か。不思議ッピね」
こうして、二人+一体の新生活が始まった。
3
表に出さないにせよ、充は地球外生命体であるシャチピとの出会いについて、密かに心躍らせていた。未知との遭遇という純粋な好奇心もさることながら、自分の不幸体質によって特別な存在を引き当てたことが嬉しかった。自分の不幸も、地球外生命体の尺度では疾患として捉えるらしいことも、不幸であることを逃れられない運命のように感じていた充にとって、小さくない希望を与える話だった。
他方で、椿はシャチピを不気味に感じていた。二人の思い出の水族館、かわいいぬいぐるみのシャチピが、実は変な喋り方をするキモい異星の生命だったわけで、激しく裏切られた気分だった。
「然るべき機関に報告したほうがいいんじゃないかな」椿は充に言う。
「この場合の、然るべき機関って何だろね」
「保健所とか、警察とかさ」
「でも、僕らの疾患の治療を手伝ってくれるって」
「口止めの交換条件だよね。でもその話だって、あいつが勝手にでっちあげた法螺話かもじゃん。正直、物は言いようだな、としかわたしは思わなかった」
椿がシャチピのことを「あいつ」と呼んだことに、充は少しショックを受けた。
「たとえ法螺でも、もし僕らのこの性質が改善に向かうのであれば、それはそれで良いと思うんだよ」
「そうはならなかったら?」
「その時は然るべき機関に」
「保健所なり、警察なり、ね」
「僕ら以外の普通の人間には、シャチピの声は聞こえないなんだよな。側から見たら、ただのぬいぐるみを預けに来た人だ」
シャチピの生態は謎が多かった。食事や排泄行為を一切行わない。時速五キロ程度のスピードで、運動中は一方向にしか動けない。会話の際に身体が動くことはなく、ただシャチピから声が鳴るような形で届く。
「で、どこに行くわけ?」
「まいったね。無念ッピ」
目を離すと、シャチピはその制約の多い運動能力を駆使して、部屋から抜け出そうと試みるが、決まって椿に捕まえられ、元のテレビボードの上に戻されるのを繰り返した。
「で。君の提示した条件、僕らの疾患はすぐに診てもらえるのかい?君が治療するの?」
「少しだけ時間を欲しいッピ。大掛かりな準備不要なのだけど、まずはもう少しこの惑星と、君らヒトという種族についての知見を増やしたい。正確な処置のためにッピ」
「都合のいい言葉に聞こえるけど」
「まあまあ、もっともらしい、とも聞こえるよ」
「決定された選択は全うする。保証するッピ」
*
ある夜、眠っていた充はふと目が覚めた。彼は昔から、ちょっとした物音で即座に目が覚めてしまうのだ。寝室を出ると、シャチピの話し声が聞こえたため、足を忍ばせながらリビングのドアを僅かに開くと、隙間に左耳をねじ込み、聞き耳を立てた。
「ピ、ピ、そうッピか。やれやれ、まいったね
「うん。選択肢は二つ。一、残機で救出に向かう、二、残機の生存を優先する」
「そうだね。救出、といったが、希望的表現だ。実際は単に墓参りに過ぎない。むろん、墓もなければ、亡骸もない」
「在庫処分か。世知辛いッピな」
充はドアから耳を離した。シャチピの話から推察するには、どうやらシャチピの別個体たちが危機にあるようだった。在庫処分、というワード。例えば水族館のあのシャチくじブースには、今もまだシャチピの別個体たちがたくさんいたけれど、在庫処分として破棄されることがわかった、そんな話に聞こえた。
充にはそれが何を意味するのか、わからなかった。わからないことに頭を悩ませ、眠れぬまま、日が昇った。
「なあ、シャチピ。聞いてもいい?」
「どうしたッピか?」
充はシャチピを持ち上げ、そのまま両手の上に乗せ話しかけた。椿が家にいないタイミングだった。なんとなく、充は椿に聞かせないほうがいいのではないか、と考えた。彼女は「死」や「廃棄」といった、その手の話を特別苦手にしていた。
「夜、シャチピがテレパシー?で話してるの、ちょっと聞いちゃってさ」
「知っているッピ」
ばつが悪そうに、充は表情を崩す。
「実際、持ち主に捨てられて、焼却された個体も少なくない。昨日も一機、そうして潰えた。よくある話ッピ」
日々、テレパシーの共有知覚がひとつ、またひとつと消えてゆく。消えた瞬間、ぷつ、ぷつ、とノイズ混じりのラジオのような音声が共有感覚に反響するのだという。充はシャチピが「ノイズ混じりのラジオのような」という表現をしたことに驚きつつも、そのことは口にせず、質問する。
「別の個体が死ぬ、というのはどういう感覚なんだ?自分の一部が失われるような?」
「君らの種にわかるように説明するのは難しいな。基本的にはそうだと言えるが、じゃあそれが今僕のヒレが取れてなくなると同じかと言われると、やはり感覚に差異はある。遠くで暮らす血の繋がった家族が亡くなる感覚と、毎日使う歯ブラシをある日唐突に無くしてしまった感覚、足して二で割ったような感覚ッピ」
「その計算は、きれいに割れるの?」
「割れる、と言えば。僕らは一度分裂したら、元の一個体だった状態に戻ることはできない。分裂した別個体が死んでいけば、そうだな、僕の存在自体が薄くなってゆく、そんな感じッピ」
シャチピは動じることなく、充の両手の上に鎮座した。充はシャチピと視線が合致するように、手の角度を調整する。その瞳から何かを読み取ることはできないし、読み取られる何か、があるかも不明だ。つぶらな瞳を暫く見つめ、充はそっとシャチピを撫でた。
4
「じゃあ、行ってくるね。帰りに惣菜買ってくるから」
「ありがとう。ごはんは炊いておく。あと味噌汁もつくるね。おかず、野菜系もあればお願い」
「意外と難しいんだよね、惣菜で野菜。まあ適当に買うね」
「ありがとう。いってらっしゃい」
充の声を背中で受け止め、椿は家を出て鍵を閉める。
そして、走り出す。
充の前では平然を装っていたが、五分後の電車に乗れないと遅刻が確定する。駅まで歩いて七分。信号が二度立ちはだかることも踏まえれば、今すぐ可能な限り走る一択だった。
駅の改札をノンストップで走り抜け、エスカレータを駆け上がり、ホームに到着すると、既に電車が口を開けて停車していた。口が閉ざされようとする、その寸前に己の身体を滑り込ませた。悲鳴をあげる肺と止まることのない発汗を感じながら、椿を膝に手をつき、呼吸を整える。電車はゆっくりと動き出した。
「間に合ってよかったッピ」
椿の肩から半ばずり落ちるように提げられたトートバッグから、シャチピの声が聞こえた。ハッとして、彼女はバッグのファスナーを開くと、シャチピが開口部に顔を向けて突き刺さるように収まっていた。むろん、バッグにシャチピを入れた覚えはない。
「もう少し世界を知りたくてね。それに、椿のことも」
やれやれ、と椿は溜息を吐く。スマホを耳元にかざし、電話をしている風を装ってから彼女は小声で言う。
「暴れないでね。特に、わたしが会社に着いてからは話しかけないで。いい?」
「心得たッピ」
今は信じるしかない。シャチピが不用意に事を荒立てたり、こちらにとって不利益になる行為をしたり、そういうことはまずやらないのはこの数週間でわかっていた。とはいえ、シャチピが以前気味の悪い存在であることは椿の中で揺らがない。
「充は、今日は家にいるんだッピな」
「在宅勤務よ。彼の会社は出社の融通が効いて、羨ましいよね」
「今日の勝因は駅までの信号二つ、どちらも青信号だったことッピ。確率の勝利ッピな」
「充君なら、負けてた勝負だわ」
「充なら、そもそもぎりぎりにならないッピ」
それもそうだ、と椿は思うと同時に、シャチピに馬鹿にされたのが癪だったため、トートバッグのファスナーを閉じる。耳元にかざしたスマホをポケットに仕舞う。
「椿は会社で何をやっているッピ?どんな仕事?今日はどんな予定ッピ?」
シャチピの声を、椿は無視する。
*
十九時にオフィスを退勤し、電車に揺られ、自宅の最寄り駅で降りる。自宅と反対側の出口からすぐの場所にあるスーパーへ行く。値引きシールが貼られた惣菜を中心に品定めして、鶏の唐揚げ、小松菜のおひたし、豆腐とわかめのサラダを購入した。
左肩に仕事道具を入れたトートバッグを、右肩にスーパーで買ったものを入れたマイバッグを担ぎ、椿はとぽとぽと歩く。すっかり日が暮れ、黄ばんだ白色の灯りがアスファルトの大地を照らしていた。後方からりんりん、と音が聞こえ、椿は素早く振り向き横へ一歩移動すると、掠めるように自転車が続けて二代、疾走していった。学生服を着た男子二人。同じ形状のカバンを自転車のカゴに入れていた。
その時、シャチピが急に「ピピッ!」と声を出した。朝以来、すっかり大人しくしていたので、椿も存在を忘れていた。
「まさか」
「急に何、どうしたの?」
「前方に見える、四つ足の生命体」
「生命体?」椿はぼんやりと正面を見据えて、言う。「ああ、犬のこと?」
「まいったね。これが僕の確率、か」
「ねえ、犬が怖いの?」
「あれはイルヌコルルコス生命体、僕たちは敵意を込めて、イヌ、と呼称している」
「うん、ただの犬だよね」
「そう、イルヌコルルコス生命体、通称イヌだッピ。彼らと僕らは、長きにわたって敵対し、争い合ってきた。星間戦争が五百年ほど続いた時期もあるが、今現在表面的には落ち着いている。が、こうして異星で出くわすことも少なくないッピ。実際、この星にイヌがいるとう情報は別個体から共有されていたけれど」
「マズイ状況なの?」
「僕らが楽しいくじ引きみたいな存在だとしたら、彼らは初めからハズレしか存在せず、引く側もハズレしかないとわかっていて引く、完全に結果が決定されたハズレくじみたいな存在ッピ」
「全然わからないけれど」
シャチピはじたばたすることなく、椿には一見いつも通りに見えた。犬との距離は数メートルになっていた。犬は、歩きスマホしながら歩くおじいさんのリードに繋がれていた。柴犬で、どうも卑屈そうな顔に見えるのは、椿の先入観によるかもしれない。
夜道は思いの外静かだった。さっきの自転車のベルの余韻が、椿の耳の奥に残っていた。
シャチピが「ファスナー、少しだけ開けておいて」と言った。椿はシャチピに従い、トートバッグのファスナーを開け、両手でバッグを硬く握った。
犬は飼い主のリードを引きちぎるような勢いで前のめりになり、老人がよろめいた。リードが地面を引きずられる音がして、柴犬は一直線に椿へ向かってきた。
「ああ、ダメだ!赤座衛門!」
この時代にどんな名前だ、と椿は一瞬思考を奪われる。リードの色は青だった。
椿はバッグを守るように、ぎゅっと抱きかかえて屈み込む。
「椿、バッグを地面に置くッピ」
「え」
「置くッピ!」
訳がわからないまま、椿はバッグを地面に置いた。柴犬はバッグに飛びかかり、ファスナーの開いた口に鼻先を突っ込んだ。シャチピを嗅ぎつけている。椿はバッグの持ち手を掴んで引っ張ったが、犬の力は強く、簡単に引き戻された。
「離しなさいよ!」
椿は犬の鼻先を手で払う。うなり声をあげてから、鋭く吠えた。飼い主の老人が「赤座衛門、赤座衛門」と遠くから呼んでいたが、犬にはまるで届いていない。
再びバッグを引っ張ったとき、椿の体勢が崩れ、アスファルトに右手をついた。
身体全体が崩れ落ちる中、シャチピが「ピピッ!」と声を出しながら、椿の頭部を守るように、アスファルトと椿の間に自らの身体を滑り込ませた。椿の後頭部がシャチピを押し潰す。なんとか頭を打つ直前に右手を地面に着いたこともあって、衝撃を和らげられた。
その時、椿の視線の先で、歩道を自転車が走って来るのが見えた。ヘッフドフォンを装着し、スマホを操作しながら走行する彼は、こちらの現状が視界に入っていない。このままだと倒れこむ椿に衝突する。
「確率、選択。違うッピな、これッピ」
シャチピは呟くと、走行自転車はふと頭を前方にあげると、状況を理解し慌てて椿を避けるようにハンドルを切った。その結果、今度は犬にぶつかりそうになって、直前でブレーキが握られ、甲高い悲鳴のようなブレーキ音とともに、自転車は停止した。
「逃げるッピ」
身体を無理やり起こして、椿は走った。
*
「傷、大丈夫ッピか?」
「ちょっと擦りむいただけ。頭はシャチピのおかげ。ありがとね」
「こちらこそ、僕を守ろうとしてくれて、ありがとッピ」
シャチピは感謝を告げた。随分素直な言葉に椿は目を丸くした。
「ねえ、シャチピの仲間も、この星で犬と遭遇してるのかな」
「うんうん、そうか、今、残機二十三、か。一斉在庫処分が執行されたのが効いてるな」
「残機?在庫処分?どういうこと?」
「要するに、僕の別個体の今現在の数ッピ」
「その中には、犬にやられた子も?」
「引き当てた持ち主の家にイヌが潜入していて、出会って即噛みつかれる。今回の僕みたいに、街でイヌと遭遇して襲われる。捨てられた個体が、ゴミ捨て場にやってきたイヌに喰い千切られる。色々なパターンを見てきたッピ」
自宅に到着し、椿はトートバッグから鍵を取り出す。それから、シャチピもバッグから出して、左手の上に乗せた。
「ねえ、さっきの自転車。あれもシャチピのおかげ、だよね。シャチピがいなかったら、わたしも危なかった」
「僕も改めてお礼を言うッピ。椿、この度は助かったッピ。ありがとう、本当に」
「今まで疑っててごめんね。君はいい子なんだ」
椿はそう言って、シャチピを愛おしそうに見つめたあと、頬ずりした。
「うりうり」
「軋轢を感じるッピ。ちょっとあったかいッピな」
*
家に帰ると、充がそわそわしていた。椿がどうしたのか尋ねると、「シャチピが見当たらないんだ」と小さな声で言った。バッグのファスナーを起用に開けて、「ここにいるッピよ」と顔を覗かせ、充を驚かせた。
「シャチピ、そんな動き出来たんだ」
「あ、先に驚くのそっちなんだ」
5
「ポリ袋を二つ、コピー用紙を十枚、ボールペン一本、持ってくるッピ」
いつものようにリビングのテレビボードの上に鎮座するシャチピは、充に言う。
「ほい。これでいいかな」
「紙を適当に切って、百枚にして欲しいッピ。終わったら、そのうちの一枚に当たり、と書く。それをポリ袋に入れて完成ッピ」
「言われた通りにやるけど、これ、何が完成するの?」
「くじ引きッピ」
充の顔が引き攣る。これは自分の治療のため。大人しく言われた作業をこなす。
コピー用紙を幾度か折り畳み、再び開き、折り目に沿ってハサミを入れる。充は中学生の頃、同じように、担任の先生が作ったくじ引きをやった。修学旅行の、奈良での自由時間の行き先をクラスで話し合って決める中、法隆寺へ行くか、明日香村へ行くか、議論で決着がつかず、多数決でもちょうど半々に割れた。先生は「くじ引きで決めよう」と言った。紙を二つに切り分け、法隆寺、明日香村、と各々に記載して、半分に折る。
「充さん、学級委員のあなたが」と言った。
気乗りしなかったが、これは当たり外れが試されるものでもない。充は席を立って教卓へ向かい、先生の持つ紙の一方を引いた。開いて、書かれた文字を読み上げる。
「明日香村です」
「よし、決まりだ」
クラスが歓声と悔しがる声が一瞬あがり、すぐに鎮まった。この結果が、後に事故に繋がるとは、そのときは思いもしなかった。
百枚切り終えると、一枚の紙に、丁寧な字で「当たり」と書いた。
「シャチピ、できたよ」
「ピ。これから充は、毎日『一人くじ引き』をやってほしいッピ。ポリ袋から一枚ずつ引く。引き終えたらもうひとつのポリ袋に入れる。当たりが出るまで引き続ける」
「それだけ?」
「もうひとつは日記を書くッピ。くじ引きをしながら思ったこと、短くていいから」
黙って様子を見ていた椿が口を開く。「なんだろう、ベスト・キッドの修行的な感じ?」
「わからないや」
「で、シャチピ、わたしは?」
「椿はシャチピとマンツーマンのレッスンッピ!」
「なにをするの?」
「デュロロロロン! お歌を歌うッピ!」
「なんか、楽しそうだね」シャチピの自前のドラムロールに若干引きながら、椿を言う。
「やることは簡単。まず、シャチピと一緒に歌を歌う。次に一人で歌う。二回とも歌は録音しておいて、最後に録音を聴く。これを毎日やるッピ」
「何を歌うの?」
「何でもいいッピよ」
「じゃあ、嵐のHappinessで。PCで音楽鳴らして、スマホで録音するね。あっちの部屋でやろ」
そう言って、椿はシャチピを持ってリビングを出ていった。
*
リビングに残された充は、目の前の百枚くじの入ったポリ袋をぼんやりと眺め、溜息をつく。緩慢な動作で一枚紙片を手に取り開く。白紙の紙。ハズレだ。再び袋に手を入れ、くじの紙をわさわさと触れながら、一枚を選び取る。案外、二回目で当たりが出るかもしれない、そんな期待を抱いて紙を開くと白紙。がっくりと肩を落とす。己の単純さが嘆かわしい。
修学旅行。くじ引きで決定された通り、充たちのクラスは明日香村を訪れた。レンタサイクルをして、明日香村を自転車で移動しながら、飛鳥宮跡や石舞台古墳を巡った。突き抜けるような青空が広がり、田や山の木々の緑が良く映えた。普段東京で暮らす充たちにとって、この田舎風景は新鮮なものだった。
それゆえ、彼らは道路を、まるで自分たちの校庭かのように自由に走行し出してしまった。チャリオカートと称して自転車レースを始めた男子生徒六名は、学級委員の充の制止を無視してペダルを力の限り漕ぎ出し、あっという間に遠ざかっていった。見晴らしの良い田園風景から起伏のある住宅エリアにちょうど差し掛かる場所で、チャリオカートの参加者のうち後ろ二名が交差点に飛び出した際に自動車に跳ねられた。
充たち、他の生徒が現場に辿り着いたとき、轢かれた生徒は既に事切れていた。担任の教師に連絡をとり、救急車を呼んで、色々な事情聴取があって、修学旅行どころではなくなってしまった。一応の決着がつき、東京へ戻る新幹線に揺られているとき、後ろの席から「もしも、明日香村じゃなくて、法隆寺になってたら、こんなことにならなかったのに」と、泣きながら呟く女子の声が充の耳に入った。
もしもあのとき、僕が法隆寺を引いていたら。
自分の選択が不幸を招いた。充はいつまでも、自分の罪を忘れないよう己に刻み付けるように、不幸体質を背負い続ける。
ふと手元の紙片に視線を注ぐと、「当たり」と書かれていた。ささやかな喜びが湧き上がり、自然と笑みが溢れた。残りの紙の枚数を数え、実に八十七枚目での当選だと判明した。「八十七枚目にして、ようやく当たった。いつかは当たることがわかっていても、当たりは嬉しいものだ」と、充は日記に書いた。
それから毎日、一人くじを継続した。当たりでもハズレでも、次第に感情が動かなくなっていった。ある日、五枚目にして当たりが出た。不幸体質の人間には、有りえない速度での当選だったが、もはや充にとって、そこに喜びも悲しみも存在しなかった。
*
「前にも言ったように、二人の共通は、この惑星の基準からの逸脱ッピ」
一カ月間、課題をこなし続けた充と椿は、シャチピの解説を聞く。
「例えば、くじ引きは樹形図で表される通り、偶然起こる現象に対する頻度のことッピ。それは理論と結果に基づいた客観確率であり、試行を無数に繰り返したときの自称の頻度の極限値として定義される。これがこの惑星の基本的な基準ッピ。けれど、充の場合はこの客観確率に対し、もうひとつの確率、主観確率が度々上回ってしまう」
「もう少し簡単に」
「肥大化した自意識が、現実の結果を塗り潰してしまっているんだッピ。充に必要だったのは、ただひとつ、その度ごとに選び取られる現実とは、常にどの選択もあり得た現実だということを、身をもって何度も経験することだったッピ」
「なるほど。要するに自意識過剰、ということか」
「たまたま、充が選びとってきたものが、充にとって望ましいものではない結果だった、その結果のみに目を向け続けたのが疾患の原因たッピ。もっと他のことにも目を向けるッピ。充は、望ましくない現実と同じだけ、望ましい結果を手に入れてきたッピ」
充は椿をちらりと見た。
「次は椿」シャチピは切り替える。
「椿は、ある意味で充と真逆ッピ。椿は自意識が弱い。俯瞰で自分を捉えられない、とも言える。先の言葉で言えば、主観確率を持ち合わせていないので、客観確率を都度自分で計算し続け、計算間違いを繰り返す、そういう事態に陥っているッピ。通常ヒトは、まず自分の基準から世界にアクセスし、フィードバックし、その差分をもって世界の基準ないし客観確率を測る。椿の場合は自意識が弱いため、このフィードバックのループが機能せず、結果的に時間を測り損ねる。そして実は、椿がうまく測れないのは時間だけではない」
「音程?」
「あとリズム感。椿は音痴ッピ」
椿がムッとした表情になったが、充は見て見ぬふりをする。
「椿に必要なのは、自分の声を聞くことッピ。自分をもっと知るッピ。もしかしたら椿は、どこかで自分自身を忌避している気がする」
椿はしばし沈黙した後、呟く。「きっと、その通りだと思う」
椿は幼い頃、交通事故で両親を同時に亡くした。残された椿は叔母の家に預けられた。叔母は未婚で一人暮らし、外資系コンサル企業に勤めていた。椿は叔母と、うまく関係を構築できなかった。叔母は椿に細やかに生活行動の指示を与え、その通りに実行するよう求めた。指示に背く行動をとると厳しく注意された。椿は苦労しつつも、叔母の言う通りに動き、生活した。叔母が決めた高校へ進学し、叔母の母校の大学の学部を受験した。京都の大学だったため、奨学金を借りて、叔母の家を出た。
一人暮らしをして初めて、自分が叔母というシステム無しで生きられないことに気がついた。履修ひとつ組むことができない。授業は遅刻し、バイトは客に叱られた。勉強は得意だったから卒業はできた。ITコンサルの企業に就職し、東京に帰って来た。卒業と就職の報告を叔母にするため何度も電話をしたが繋がらない。直接家に帰ると、叔母は既に住んでいなかった。叔母の務める会社の企業サイトを隈なく閲覧した結果、叔母の名前を見つけた。彼女は変わりなくそこで働いていた。変わったのは椿との関係。叔母にとっては最初から、あくまで椿が大人になるまでの間の保護者に過ぎなかったのかもしれない。椿は自分が捨てられたように感じた。
「シャチピの言葉を借りれば、わたしはずっと、いかに世界の基準に自分を合わせるか、を考え続けていた。叔母がいたときは、その基準が叔母だったけれど、叔母から離れると、その基準がわからなくなった。叔母に捨てられてからは一層、ね。でも、本当にわたしが失っていたのは、わたし自身だったのかもしれない」
「椿ならできるッピ。それに、どうしても一人だと難しいときは、充がいるッピ。困った時は充に基準を貰えばいい。何もかも一人でやる必要はない。君らヒトは、そういう種のはずだ」
椿は目を瞑り、小さく微笑む。閉ざされた瞼の隙間から、一筋の涙が流れ落ちた。
次の日、椿は初めて普通の時間感覚を得た。朝起床し、支度をして、適切な時間に家を出て電車に乗り、余裕を持って始業できた。業務中も、会議に遅れることもなければ、会議を長引かせることもなく、タスクも調子よくこなし、残業なしで十八時に退勤した。
なんてことはない一日だったが、椿にとっては達成感に満ちていた。自分は良い方向に向かっている。心からそう思えた。
「シャチピ、ただいま。良い子にしてた?」
椿は帰宅すると真っ先にシャチピのところへ向かい、頭を撫でる。
「椿、お——–ッピね、——–は充も、———」
その日初めて、シャチピの声が途切れるようになり、聞こえなくなった。
6
しばらくして、椿はシャチピの声を聞き取れるようになったが、時々ノイズ混じりになったり、音が吸われたみたいに聞こえなくなる現象は続いた。椿だけでなく、充もまた同様だった。
「初めて君らが僕の声を聞いたとき、僕が言ったこと、覚えてるッピ? 君らはこの惑星の生命体として、些か例外的な存在な立場になっている、と」
「それが、主観過敏症とクロノ・デシンク症候群」
「そうッピ。それゆえ、本来聞き取れるはずのない僕の声が、聞こえてしまった」
「まさか、じゃあ、僕らの疾患が治療によって回復していっているとしたら」
椿が呟く。
「《普通のヒト》となった君らは、僕の声が聞こえなくなる」
リビングを長い沈黙が満たした。まるで、夜の底に沈んだ空っぽの瓶のような、寂寥の色を帯びた静けさだった。
「シャチピは、最初からわかっていたんだね」
「ねえ、シャチピ。地球にいる君の仲間たちは、今は?」と、充は尋ねる。
「残機一、だね」シャチピは言う。「この僕以外、絶えた」
充も椿も何と言えばいいかわからなかった。シャチピは淡々と喋るが、二人はそこに孤独を感じないわけにいかなかった。
「やれやれッピ。まさか、五等の一体として分裂した僕が最後まで残るとは」
「教えてくれないか。君のこと。思えば僕らは何も、君について知らないままだった」
「わたしも知りたいな」
シャチピは「そうッピな」と呟いてから、語り出した。
*
僕らシャルルチルピス生命体は《確率の観測》をする。未来の起こるべき可能性の束を、僕らはある程度可視化できるのだけれども、その可能性の束のうち、ただひとつ選び取られた可能性、選ばれた瞬間に《現実》となるその瞬間を観測すること、これが僕らの目的だ。そうだね、けれど、生命の目的なんて、大概そういうものなんだ。僕らはその確率の観測を通じ、未来がいずれかに分岐する瞬間に生命体が発する熱量をエネルギーとして補給し、生命を維持している。
母星のみでは少々足りなくてね。僕らは宇宙へ飛び出し「未来が確率として分岐する惑星」を見つけては、その星の生命体の確率を観測し、例えばクジで喜び、落胆する、その瞬間の熱量をエネルギーとして回収して、母星に送信する。こうして、僕はこの地球にやってきて、シャチくじになって、エネルギー収集に励んでいたってわけ。
地球に来て、僕は分裂した。五等の一体として存在する”この個体”のシャチピは、すなわち「最もどうでもいい確率を引いたヒト」の観測を担う個体のうちの一機だった。そんな僕を、充が引き当てた。
エネルギーの収集が目的なんだとしたら、それを果たした後の君はこの星になぜ居座ったのかって? なるほど確かにその通り。でも考えてみてほしい。例えばヒトだって、子孫を残すという唯一の生命体としての目的を一度果たしたからといって、その後はどうなる?同じッピ。
僕はある程度真面目な方だ。実は再度くじとして回帰して更なるエネルギー収集に励もうと思って、初めは幾度もこの家から脱出を試みた。けれどその度に、椿が目を光らせて。僕は椿が家にいる時間、リビングにやってくるタイミングを算出して、そうではない瞬間を狙った脱出計画を実行したけど、椿はいつだって僕の算出タイミングと異なる時に現れた。逃亡現場を何度も椿に押さえられたわけだ。クロノ・デシンク症候群、恐るべし。再度シュミレーションしても結果は同じ。完敗だったッピ。やがて、僕も諦めるに至った。
そうして、この家で短くない時間を過ごした。他の個体は既に絶え、これ以上、僕に任務を遂行する力はない。あとは余生をこの星でのんびり過ごすだけ。だから、君たちとこうしてコミュニケーションをとれた日々は、僕にとっては本当にサプライズだったんだ。
*
「ねえ、僕らが君の声を完全に聞けなくなったら、それからどうなるの?」
「この惑星の基準に沿った形で因果が調整されるはず。君らの《常識》通り、ただのぬいぐるみになる」
「君という意識はシャチピの中に残るの?」
「恐らく。いや、どうかな」シャチピは口ごもる。「僕自身、本当にぬいぐるみになるのかもしれない。僕もまた、君たちとのコミュニケーションを通じて、いささかこの惑星に染まってしまったから」シャチピは言う。「そして、君らは僕との記憶を失う」
「そんな」
呻くように、悲痛な声を椿があげる。
「記憶を失う、というより、無かったことになる、かな。水族館へ行き、シャチくじをして手に入れたシャチのぬいぐるみ。大人になる過程で、不幸体質や時間を守れない性質は改善されていきました。めでたしめでたし。そんな感じッピ」
「いっそ疾患の治療をやめれば」
「それはダメッピ。単純に治療をやめればまた元どおりに悪化する、というタイプの疾患ではないッピ。一度軌道に乗って進み出したら、然るべき進路で次の駅に辿り着くようなもの。それに、やはり僕もすっかりこの星の影響を受けてる可能性がある以上、いずれにせよ僕らがコミュニケーションを取れなくなるのは、時間の問題ッピ」
決意したように、充は口を開く。
「何が、あっても、君を大切にする。たとえ、僕らが君との記憶を失っても、絶対、絶対に、だ」
「そうだね、最後の一体のシャチピ。犬が襲ってこようが、古くなってみすぼらしくなろうが、いつまでも君を守り、大切にするわ。約束」
充と椿は、シャチピの胸ビレに手を添える。
シャチピは言った。
「これが僕の選びとった、確率だったんだッピね」
7
シャチピの告白から一カ月後、二人は完全にシャチピの声が聞こえなくなった。シャチピに関する記憶も失われた。テレビボードの上に鎮座するシャチのぬいぐるみは、二人が検見川シーワールドへ行った思い出の土産として、大切にされた。
あの日、充はシャチピを選びとった。それはひとつの確率の結果として。
同時にこの未来もまた、シャチピが選び、人間が気づかないまま受け取った、ひとつの確率の結果だった。
*
「椿、準備できた?」
充がそう声をかけると、チノパンに薄い桃色のシャツを着た椿が準備万端で待っていた。
「うん。行きましょう。ほら律くん、行くよ」
以前に検見川シーワールドへ行ってから、五年が経った。充と椿はずっと、もう一度検見川シーワールドへ行きたいねと話をしていたが、椿が妊娠したり、子どもがまだ小さかったりで、時間が経ってしまった。
以前と違い、今日は二人の子供も一緒だ。律、と呼ばれた彼にとって、初めての水族館。朝からわくわく、そわそわしていた。
「たくさんお魚がいるよ。それにシャチも」
「律くん、楽しみだね」
律は満面の笑みを浮かべ、大きく頷く。
彼の手には大切そうに、シャチピが握られていた。
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