あなたが、うたをつくれるということ

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あなたが、うたをつくれるということ

娘が死んでから初めて夫婦二人だけの食卓で、僕はミラのミネストローネを、きれいに、飲み干した。

赤い、あたたかいスープだった。トマトと、豆と、こまかく刻んだ野菜が、匙のたびに、底から浮いてくる。ひと口ごとに、いくつもの香りが、層になってほどけていく。伴脳が、いつものように食事を解析して、味覚野へ、淡い注釈を添えてくる。香辛料の名前が、いくつか、並んだ。読めない綴りも、混じっていた。けれど、僕は、どれにも、興味がなかった。栄養のことも、成分のことも、ぜんぶ、ミラに任せている。僕にわかればいいのは、おいしいかどうか、それだけだ。……おいしい、と僕は思った。おいしいと思えることに、驚くべきなんだろうな、とも思った。驚けなかったが。

食べるものも、着るものも、暮らしのたいていを、僕は誰かに任せて生きてきた。自分で、うまく決められないのだ。その僕が、週にいちど、心待ちにしているものが、これだった。ミラのミネストローネ。ありふれた名前のわりに、彼女のそれは、どの店でも食べたことのない味がする。何が入っているのか、僕は知らない。訊いたこともない。ただ、この一皿を待つことだけが、たぶん、僕の一週間で、いちばん、生きているらしい時間だった。

向かいで、ミラは何も食べなかった。

二人のあいだに、セラの椅子があった。背もたれの星のシールが、一枚だけ端からめくれている。おとといまで、そこには五歳の身体があった。牛乳の膜を嫌って、パンの耳を僕の皿へ移して、自分で貼った星を毎朝ひとつずつ数え直す身体が。

「何か、感じる?」

ミラが訊いた。

僕は自分の内側を、慎重に探った。曲を書くときにやるのと同じように、胸の空洞へ意識を垂らす。悲しみ、という語に関連する記憶と、身体反応と、過去の文学作品の該当箇所が、伴脳から候補として並んだ。喉の収縮。涙腺の刺激。食欲の低下。どれも起きていなかった。

「わからない」

そう答えたとき、ミラは泣かなかった。責められるより、そのほうがずっと怖かった。

事故は前日の夕方、北岸の自動走行路で起きた。配送車の群制御に、旧式の手動車が一台割り込んで、三台が絡んだ。セラの座席だけが側壁に潰された。僕は運転席にいたはずだった。そこから救命室で目を覚ますまでの記憶が、まるごとない。

病院の記録によると、僕は血まみれの娘を抱いて、救急員に向かって同じ言葉を十九回くり返していたらしい。

――ぼくが前にいた。

映像を見せられても、それが自分の声だとは思えなかった。声が少し低くて、語尾がやわらかかった。伴脳の認証は本人と判定した。虹彩も、指紋も、皮下鍵も、当然ながら一致していた。それでも、他人の口が僕の顔で動いているのを見ている気がした。

葬儀のあと、僕は仕事部屋にこもった。世界でいちばん高い無音室だ。壁のなかに千四百種類の楽器モデルと、都市の騒音から胎児の心拍まで採った音響標本が眠っている。僕は鍵盤に手を置いた。

何も起きなかった。

前は、曲ができる一瞬だけ、自分が自分より大きな場所につながれた気がしていた。旋律は見つけられるのを待っていて、指はそれを拾い上げるだけだった。僕の名前で出た歌は百七十九の言語で歌われて、停戦式にも、月面都市の最初の婚礼にも使われた。人は僕を、悲しみを音に変える人、と呼んだ。

なのに僕は、セラの死を一音にも変えられなかった。悲しみが足りないのか、変換装置が壊れたのか、そもそもその装置が最初から僕のものではなかったのか。どれも同じくらいありそうで、どれもうまく怖がれなかった。

それが続いた少しあと、ミラがアステラ島への旅を提案した。

「弔うのが上手い島が、あるの」と彼女は言った。ミラは栄養士で、普段はものの言い方がひどく正確なのに、そのときだけは輪郭の甘い言葉を使った。「アステラっていう、南の島。誰かを亡くした人が、その苦しみと向き合うのに、いちばんいい場所なんだって。……それに、ただのリゾートとしても、昔から評判なの。海がきれいで、何もしなくていい時間が、たっぷりある。気分転換には、なるでしょう」

「悲しみのテーマパークか」僕は言った。「土産物屋で、遺影のキーホルダーでも売ってそうだ」

「あなたはいつもそう」ミラは薄く笑った。笑い方だけは、事故の前と同じだった。「こんな状況でも冷たいことばかり」

「職業病だよ。世界が全部、曲の素材に見える」

「今回は、素材にしないで」

「努力する」

僕はいつからか、あらゆることを作曲に紐づかせる言葉に変換する癖がついていたが、セラの椅子をみながらもそれは変わらなかった。

アステラ島には、空港がなかった。旧式のフェリーで、四時間かけて渡る。近づくにつれて、伴脳が拾う外の電波は細くなったが、切れはしなかった。ただ、島には、外とつなぐ塔が、ほとんど立っていないらしかった。ミラは手すりにもたれて、海を見ていた。

「向こうでは、脳の増設を、あまり歓迎しないの」と彼女が言った。「伴脳は、島の外の病気だと思われてる。……あなた、頭の中で、いろいろ調べたり、計算したりするでしょう。あれ、島の人の前では、控えめにね」

「頭の中を、のぞかれるのか」

「そこまでじゃない。たぶん、気づかれもしない。でも、彼らは、そういうことに敏感なの。頭の中に、自分で選んでない他人を住まわせるのが当たり前の人たちだから、逆に、自分で買った他人――伴脳を、気味悪がる。あなたに悪気がなくても、失礼になることがある。だから、いちおう、気をつけて」

「わかった。愛想笑いは、自前でやるよ」

アステラ族のことは、フェリーの中で、伴脳が要約してくれた。ひとつの身体に、複数の人格が宿るのが普通の人たち。彼らはそれを座と呼ぶ。ひとりの身体に、二人から、多い者で七人。前に出られるのは一度にひとりだけ。記憶は座ごとに分かれていて、疲れと空腹と痛みだけを共有する。

そして彼らには、僕たちの世界にない死に方がある。身体は生きたまま、座がひとつだけ死ぬ。人格死、と呼ぶらしい。

島に着いた翌朝、僕たちはその葬式に行き当たった。

灰色の低い建物の前に、白い布が掛かっていた。棺はなかった。祭壇に、服のタグと、短い録音端末と、折りたたんだ紙が置いてあるだけだ。列の人たちは、順番にそれを砂に埋めていく。埋めながら、みんなが今日の弔いの相手ではない誰かに、頭を下げている。喪主の身体は生きて立っていて、目を伏せて、居心地悪そうにしていた。彼女の中の別の座が、身内を亡くしたのだ。彼女自身は、その死んだ座のことをあまり覚えていないらしかった。

僕は、その葬式を、しばらく見ていた。

奇妙なのは、悲しみの向きだった。島の外の葬式では、みんなが、いなくなった一人を悼む。ここでは、違った。参列者は、生きている喪主の身体に向かって、頭を下げる。その身体の中に、いなくなった座がいたことを、敬う。死んだ本人ではなく、その死を抱えて生きていく身体のほうを、労っている。

隣で、ミラが、じっとそれを見ていた。彼女の横顔は、妙に、やわらいでいた。故郷に帰った人みたいな顔だ、と思った。

「ここの人たちは」と、彼女は小さく言った。「手放すのが、上手なのね。いなくなったものを、いなくなったまま、ちゃんと悲しんで、送り出す。しがみつかない。……いいな、と思う。わたしには、たぶん、できない」

僕は、その言葉を、傷ついた妻の、素直な感想として聞いた。

年老いた喪主が、砂に埋めたタグの上に、手を置いていた。となりで、若い座が――同じ身体の別の住人が――その手をさすっていた。自分の身体の一部の弔いを、別の自分が、慰めている。ひとつの身体の中で、葬式と、その慰めが、同時に起きていた。

僕は、それを、美しいと思った。同時に、少しぞっとした。美しいものは、たいてい、少しぞっとする。

「妙な光景だろう」

声がして、振り向いた。白髪を短く刈った男が立っていた。骨ばった顔に、皮肉っぽい皺が寄っている。歳のわりに姿勢がよくて、片手に古い革の鞄を提げていた。

「弔われている本人が、そこで生きて呼吸してる。しかも本人は、自分の葬式にほとんど関心がない」男は顎で喪主をさした。「うちの島は、傷を癒すのが上手いって触れ込みでね。外から来る客は、たいてい、きれいな砂浜と、静かな夕暮れを期待してる。ところが、初日にこれだ。生きた人間の葬式。……やさしい島に来たつもりが、ここで、はじめて顔がこわばる。あなたは、どうです?」

「素材に見えます」正直に言った。「不謹慎ですが」

男は一瞬黙って、それから声を出して笑った。

「気に入った。私はジラール。人格をいじって食ってる悪党です」

ミラが、僕の少し後ろで息を吸うのがわかった。この物騒な言葉におびえているのかもしれない。

すかさず「ノイ」と僕は名乗った。「作曲家です。ここには、傷を癒しに来ました」

「作曲家」ジラールは繰り返した。名前のほうには反応しなかった。世界的に有名なはずの僕の名前に、この男は指一本ぶんも動かなかった。「傷を癒す。それはいい。うちの島は、傷の扱いにかけては専門家ぞろいだ。なにしろ、しょっちゅう自分の一部を弔ってるんでね」

「あなたの仕事は」

「死んだ座の足あとを、拾い集めること」ジラールは革鞄を軽く持ち上げた。「そのための機械を作った。座測計という。人がどう手を動かすか、どう言葉を切るか、笑うときに口のどっちが先に上がるか――座はそういう、しょうもない癖の束でできている。私はそれを測って、記録して、必要なら、真似られるようにする」

「死人を、真似る」

「よみがえらせる、と言うと客が喜ぶんですがね。私は嘘が下手なので、真似る、と言う」男は肩をすくめた。「よみがえりはしない。死んだものは死んだままだ。ただ、そっくりさんは作れる。人はときどき、そっくりさんでもいいから欲しがる。悲しいことに」

島の葬式のことが、その日、ずっと頭を離れなかった。

あの人たちは、いなくなった一人のために、ちゃんと、悲しんでいた。砂に名前を埋めて、頭を垂れて、送り出していた。うらやましい、と思った。僕は、セラのために、一度も、まともに悲しめていない。

娘の顔なら、いつでも思い出せる。伴脳が、何千枚も、保存している。笑った顔。むくれた顔。眠っている顔。星のシールを、指で数える横顔。呼び出せば、いくらでも出てくる。出てくるのに、どれを見ても、胸のいちばん深いところが、うまく動かない。他人の子のアルバムを、めくっているみたいだった。

セラは、僕のことを、あまり見なかった。牛乳の膜を僕の皿に移すとき、パンの耳を押しつけるとき、あの子は、僕を、便利な大人くらいにしか思っていないふしがあった。それでも、たまに、理由もなく、僕の膝に乗ってきた。あの、小さな身体の、あたたかさと、重さだけは、伴脳の記録には入っていない。触った感触は、保存できないのだ。いま、僕の中に残っているセラは、映像と、音声と、あとは、膝の上の、もう思い出せない重さだけだった。

その重さを、もう一度、思い出したくて、僕は、この島まで来たのかもしれなかった。悲しむのが上手い人たちに、悲しみ方を、教わりに。

その晩、宿の食卓に、島の郷土料理が出た。魚と、豆と、名前のわからない野菜を、たくさんの香草で煮込んだ、素朴なスープだった。ひと口すすって、僕は、スプーンを止めた。

知っている味だった。正確には、好きな味だった。舌の、いちばん奥のほうが、これを知ってる、と言っていた。伴脳が、控えめに、いくつかの香辛料の名を並べた。そのうちのひとつが、淡く、目の奥のほうまで届いてくる。懐かしい、としか言いようのない、届き方で。

「これ」と、僕は、ミラに訊いた。「この味、なんだろう。すごく、好きだ。……前に、食べたことがある気がする」

ミラは、スプーンを持つ手を、ほんの一瞬、止めた。

「サナ、っていう香辛料よ」と、彼女は言った。栄養士の、正確な声だった。「この島でしか採れないの。……あなたの好きな、あのミネストローネにも、入ってる。気づいてなかった?」

「知らなかった」

「そうでしょうね」ミラは、少し笑った。「あなたは、自分が何を食べてるか、いつも、気にしないんだから」

僕は、スープを、最後まで飲んだ。

食事のあとしばらくしてミラが言った。

「ジラールさんに、会ってみたら」

「今日会っただろう」

「ちゃんと、二人で。あなたの話を、聞いてもらうの」ミラは僕の目を見た。「あなたの曲の素材になるかもしれない」

僕は妻の顔を見た。心配してくれているんだな、と思った。それ以上のことは、思わなかった。

翌日、僕は研究所へ行った。

研究所は、島の南のはずれの、崖にめり込むように建っていた。半分は昔の灯台だ。中は雑然としていて、二百年前の光学部品と、最新式の基板が、同じ机の上で仲良く並んでいる。ジラールは僕を見ても驚かなかった。来ると思っていた、という顔ですらなかった。ただ、椅子を蹴って寄こした。

「で、悪党に何の用です、有名人」

「僕の名前を知ってたんですね」

「昨日の夜に調べた。孫が一曲、聴かせてくれた。悪くなかった。悪くないどころじゃなかったが、褒めると高くつきそうだからやめておく」ジラールは古いカップに何か茶色い液体を注いだ。僕にはくれなかった。「座って、用件を」

僕は座って、用件を言った。曲ができないことでも、素材集めの話しでもなかった。

「一度も、わからないんです」

「何が」

「自分の音楽が、どこから来るのか」僕は自分の手を見た。世界を泣かせたと言われる手だ。「曲ができるとき、僕は自分がいない。気づくと譜面ができている。すごい旋律が。まるで誰かが置いていったみたいに。みんなは才能と呼ぶ。伴脳の補助だと言う人もいる。どっちでもいいんですが、問題は、僕がそれを、一度も自分のものだと感じられたことがないってことです」

ジラールは茶色い液体を飲んだ。何も言わなかった。

「たとえば、です」僕は、少し間を置いて言った。「三年前に、大きな賞をもらった曲があります。喪(も)の曲、と呼ばれてる。世界じゅうの葬式で流れてる。ある記者に、あれをどうやって書いたのか、と訊かれて、僕は、答えられなかった。書いた記憶が、ないんです。授賞式で、僕は、自分の曲を、初めて聴く人みたいに聴いてた。涙を流してる観客の中で、僕だけが、乾いてた。……作曲家です、と名乗るたびに、僕は、嘘をついてる気がしてた。ほんとうの作曲家は、僕の中の、僕が会ったこともない誰かなんだ、と」

ジラールの、皮肉屋の目が、初めて、少しだけ、僕を憐れむような色になった。憐れまれるのは、久しぶりだった。有名人は、あまり、憐れんでもらえない。

「借り物の才能で、世界中を泣かせてきた。停戦式で流れた曲も、僕が書いたことになっている。でも僕は、あれを書いた瞬間の記憶がない。ずっと、詐欺師の気分でした」僕は続けた。自分でも意外なほど、言葉が滑らかに出た。「娘が死んで、書けなくなった。それでわかったんです。悲しくて書けないんじゃない。悲しみを書くための装置が、最初から僕のものじゃなかったから、僕には触れないんだ、と」

「それで、私に何を」

「源泉を、解明してほしい」僕は言った。「その座測計で、僕を測って、僕の音楽がどこから来るのか、突き止めてほしい。それが自分のものだと実感できれば――たぶん、また書ける」

長い沈黙があった。ジラールは、カップの底の澱を見ていた。

「金は」ようやく彼が言った。

「あります」僕は金額を言った。研究所を二十回建て直せる額だった。

ジラールの眉が、はじめて動いた。ほんの数ミリだったが。彼は立ち上がって、窓の外の海を見た。それから、こちらを振り返らずに言った。

「引き受けますよ、有名人。ただし条件がある。途中で私が何を見つけても、あなたは最後まで聞く。逃げない。……この仕事は、途中でやめると、たいてい人が壊れるんでね」

「壊れませんよ」僕は言った。「壊れる自分が、もともとどこにあるのか、わからないくらいなので」

ジラールは、今度は笑わなかった。

宿に戻って、長期滞在を決めた、とミラに告げた。彼女がどう反応するか、僕は少し身構えていた。驚いて、反対して、それを僕がなだめる、という段取りを予想していた。

ミラは、驚いた。それは本当だった。目が大きくなって、口が半分開いた。

そのあと、快諾した。それも本当だった。

「よかった」と彼女は言って、僕の手を握った。「あなたが、自分から何かを選んだの、久しぶりに見た」

僕はその言葉を、優しさとして受け取った。手の温度も。ミラの手は、少し震えていた。うれしいときの、あの震え方だ、と思った。

滞在は長くなった。

島に来てしばらくすると、ミラは、島の料理を作るようになった。

宿の主人の妻に、教わったらしい。市場で、見たこともない海藻や、根や、乾かした花を買ってきて、台所で、それを刻んだり、煮出したりした。栄養士の顔だった。この島の人間が、何を食べて、なぜ、あんなに丈夫なのか。彼女は、それを、心底おもしろがっていた。「この根っこ、鉄と、たぶんカリウムが、街のどの野菜より、多いの」そう言うときのミラは、早口だった。指に、灰汁のしみが、ついていた。

夕方になると、宿の狭い台所から、嗅いだことのない匂いが立った。少し苦くて、奥に、甘い。島の匂いだ。僕は、それを食べた。何が入っているのかは、例によって、知らなかった。訊きもしなかった。ただ、ミラが、鍋の前で、少しだけ、背筋を伸ばしているのを、見た。街にいたころ、事故のあとのミラは、うつむいて料理をする人だった。ここでは、違った。手が、動いていた。

うれしかった。それだけは、僕にも、はっきりわかる感情だった。妻に、活力が、少し、戻っている。理由は、島の風でも、海でも、なんでもよかった。ミラが、鍋の湯気の向こうで、久しぶりに、生きている人の顔をしている。それが見られるなら、僕は、出されたものを、何だって、きれいに、食べた。

ジラールの測定は、退屈で、細かかった。毎日、決まった時間に研究所へ行って、座測計の前に座る。額と手首と喉にうすい電極を当てられて、あとはただ、日常のことをやらされる。文字を書く。水を飲む。適当な話をする。名前を呼ばれて振り向く。ジラールはそれを黙って記録して、ときどき「もう一度」とだけ言った。

「音楽の源泉を探すんじゃなかったんですか」僕は文句を言った。「これじゃ、行儀作法の教室だ」

「源泉ってのはね、有名人、しぶきの立ってるところじゃない」ジラールは画面から目を離さずに言った。「川底の、いちばん動かないところにある。だから、あなたのいちばんつまらない仕草を集めてる。手が退屈してるときに何をするか。それが、あなたという川の川底だ」

僕の川底は、たいして面白くもなかったらしい。ジラールは毎日、少しずつ不機嫌になっていった。何かが合わない、という顔をしていた。

島でも、木曜になると、ミラはあのミネストローネを煮た。宿の狭い台所で、いつもの手順で、いつものサナの匂いを立てて。僕はそれを食べて、いつものように待った。昔は、この食事のあとに、よく曲ができた。身体が軽くなって、鍵盤の前に座ると、気づいたら譜面が埋まっていた。事故のあとは、何も来ない。食べても、待っても、僕は僕のままだ。ミラはそれを、台所の入口から黙って見ていた。僕が何も来ないことに、僕以上にがっかりしているように見えた。

ミラは、セラの、小さな靴を、持ってきていた。島へ来てから、それに気づいた。彼女の鞄の、いちばん底。片方だけの、白い、マジックテープの靴だ。もう片方は、事故のとき、どこかへいってしまったらしい。

見つかったのを知ると、ミラは、僕に背を向けて、しばらく、動かなかった。

「捨てられなかったの」と、彼女は言った。振り向かずに。「片方だけなのに。片方だけじゃ、何の役にも立たないのに」

僕は、何と言えばいいか、わからなかった。慰めの言葉を、伴脳が、いくつか並べた。どれも、口に出す前に、消した。既製品の言葉を、ミラに渡すのは、いやだった。

ミラは、その晩、その靴を、枕元に置いて眠った。

僕は、それを見て、ひとつのことを、はっきり知った。この人は、ちゃんと、悲しんでいる。セラのことを。僕が、うまく悲しめない、その同じ娘のことを、この人は、片方だけの靴を抱いて、毎晩、悲しんでいる。

そのことが、僕には、こたえた。同じ子どもを亡くして、片方は、靴を抱いて眠り、もう片方は、乾いたまま、出されたスープを、一滴も残さず、きれいに飲み干している。父親のほうが、だ。

靴のことがあってから、僕は、ミラの荷物が、気になりだした。

見るつもりは、なかった。ただ、夜中に洗面所へ立ったとき、彼女の鞄が、半分開いていた。いちばん底に、白い、小さな箱があった。手のひらに乗るくらいの。蓋に、セラの名前が、彫ってあった。

遺骨だ、と、すぐにわかった。火葬した、あの子の。ほんの一部を、持ち歩けるようにしたやつだ。その隣に、指くらいの記録端末があった。ラベルに、やはりセラの名前。あの子の、生まれてから五年ぶんの記録。声も、動きも、癖も、ぜんぶ入っている。

僕は、蓋を閉めて、鞄を、元のとおりにした。それから、その夜、眠れなかった。

ミラは、セラを、連れてきていた。骨と、記録を、まるごと。傷を癒しに来た、と、彼女は言った。嘘だ、と思った。ここは、死んだ座を、痕から呼び戻す島だ。ジラールは、死者のそっくりさんを作る男だ。……ミラは、セラを、取り戻しに来たんじゃないか。あの子を、もう一度、この島で。

そう思うと、いろんなことの、つじつまが合う気がした。彼女が、この島に、やけに詳しかったこと。ジラールを、最初から知っている顔だったこと。僕の長期滞在を、あんなに、あっさり許したこと。ぜんぶ、セラのためなら、筋が通る。

僕は、その考えを、口に出さなかった。出せば、ほんとうになる気がした。ミラが、死んだ娘を、取り戻そうとしているのなら――僕は、それを、止めるべきなのか。手伝うべきなのか。どちらも、わからなかった。乾いた目のまま、僕は、天井を見ていた。

島が騒がしくなった。

僕は最初、島がひとつの島だと思っていた。実際には、二つに割れていた。

片方は、ジラールのような人たちだ。座測計を、希望だと思っている。人格死で失った家族を、痕跡からでも取り戻したいと願う人たち。もう片方は、それを冒涜だと呼ぶ。死んだ座は死なせておけ、と言う。頭に機械を入れた島の外の人間――つまり僕のような人間――が、島の聖なる仕組みに手を突っ込みに来た、と考えている。反テクノロジーの一派だ。

ある晩、研究所に火が入った。

大きな火ではなかった。裏口の資材が燃やされただけで、座測計の本体は無事だった。ジラールは焦げた扉を見て、舌打ちして、「またか」とだけ言った。慣れているらしかった。

「またか、で済む話ですか」

「済ませなきゃ、仕事にならない」彼は焦げた木を蹴った。「連中は、私が神様の仕事を横取りしてると思ってる。死んだ座を真似るのは、死者を弄ぶことだ、と。……まあ、間違ってはいない。私は死者を弄んで、飯を食ってる」

「なんで、こんな仕事を」僕は訊いた。「憎まれて、火をつけられて。それでも続ける理由が、あるんでしょう」

ジラールは、焦げた木を、しばらく見ていた。

「女房が、いた」ぽつりと言った。「この島の人間でね。前に出てるのが好きな座と、奥で本ばかり読んでる座と、二人いた。私が惚れたのは、奥のほうだ。無口で、皮肉屋で、私の冗談に、十回に一回しか笑わない女だった。その一回のために、私は残りの九回を言い続けた」

「その座が」

「ある冬に、黙った。人格死だ。理由は、わからん。ある朝、出てこなくなった。身体は生きてる。前に出てるのが好きなほうの座は、今も元気だ。町で、私にあいさつしてくる。……だが、私の冗談に十回に一回笑う女は、もういない」ジラールは、鼻で笑った。「私は、諦めが悪くてね。あの女の癖を、しぐさを、笑い方を、片っ端から記録しはじめた。前に出てるのが好きなほうの座に頼み込んで、身体を借りて、何百時間も測った。それが、座測計の始まりだ。……最初は、ただ、忘れたくなかっただけだ。あの女がどんなふうに笑ったか、記録の中でだけでも、残しておきたかった。それは、弔いの一部だと思ってた。いまも、そう思ってる」

「でも、それが、仕事になった」

「なった」ジラールは、苦い顔をした。「機械が痕を拾えると知れ渡ると、客が来た。記録が欲しい、っていう客じゃない。返してくれ、と言う客だ。死んだ座を、また動くように、しゃべるようにしてくれ、と。……拾った記録を、生きてる身体の上で、演じさせる。この島の人間なら、同じ身体の、生きてる別の座に、稽古をつける。死んだ座の癖を、隣の座に、少しずつ、覚え込ませていく。そうやって、死んだ誰かを、生きてる誰かの中で、真似させる。それが、そっくりさんだ。私は、金をもらって、それをやる。何度も、やってきた。この島が私を憎むのも、当然さ。私は、死者を弄んで、飯を食ってる」

「なら、奥さんのそっくりさんも、作れたはずだ」僕は言った。「誰より、あなたが、欲しかったんじゃないですか」

「作らんよ」ジラールは、はっきり言った。「作れる。技術は、私がいちばん持ってる。だが、作らん。……いいか、有名人。記録は、弔いだ。あの女が、いたってことを、覚えておくための。だが、そっくりさんは、その逆だ。家に置いたら、私は、あの女を、二度と弔えなくなる。毎朝『おかえり』を言って、まだいるふりをして、悲しむのを、先延ばしにし続ける。……それは、覚えてることじゃない。忘れないために、忘れる、ってことだ」

ジラールは、コーヒーの澱を見た。

「客には、その毒を売る。売っておいて、自分では飲まない。だから、悪党なんだ。ただの悪党じゃない。自分の売り物が毒だってことを、いちばんよく知ってる悪党だ。……それでも私は、いまでも、あの十回に一回を、ちゃんと、悲しんでる。それだけは、手放さない。手放したら、私に、何も、残らんからな」

「じゃあ、なんで、続けるんです」僕は訊いた。「金なら、僕もあれだけ渡したんだ。もう、じゅうぶんでしょう。憎まれて、火までつけられて。毒だと知ってて、売り続ける理由が、まだ、あるんですか」

ジラールは、しばらく、答えなかった。それから、低く言った。

「本物を、作りたいんだ」

「本物」

「そっくりさんじゃない。真似ものでもない。……死んだ座を、ほんとうに、もう一度、生かす方法だ。記録の再生でも、演技でもなく、あの女が、もう一度、あの女として、私の冗談に、十回に一回、笑う。そういう、本物だ」ジラールは言った。「できるのか、と訊かれれば、わからん、と答えるしかない。そもそも、本物ってのが何なのか、それが、まだ、わからんのだ。どこまで真似れば、真似じゃなくなるのか。どこからが、本人なのか。その線が、どこにあるのか。……私は、三十年、それを探して、まだ、見つからん」

「見つかるまでは、そっくりさんを作る」

「そうだ。本物の作り方は、わからん。だが、そっくりさんは、作れる。作るたびに、データが増える。どこまで似せると、客が『帰ってきた』と泣くのか。どこで、ふと、『これは違う』と気づくのか。その境目が、一件ごとに、少しずつ、見えてくる」ジラールは、僕を見た。「客は、そっくりさんでいいから欲しい、と言う。私は、本物への手がかりが、欲しい。利害は、一致してるんだ。断る理由が、どこにある」

「被験者が、多いほど」

「研究は、進む」ジラールは、悪びれもせずに言った。「悲しんでる人間ほど、いい被験者はいない。こっちが止めても、金を積んで、頼み込んでくる。……ひどい商売だ。ひどいと知ってて、やめられん。本物に、もう少しで手が届く気が、三十年、し続けてるんでね」

僕は、その言葉を、覚えておこうと思った。

そのすぐあとで、もっと悪いことが起きた。

港の漁師が、殺された。正確には、漁師の中の、ひとつの座が。

やり方があるのだと、ジラールが、声を落として教えてくれた。この島の、北の断崖にしか生えない植物がある。〈戻らず〉と、島の人間は呼ぶ。灰色がかった、淡い花で、根に、妙な成分をためこむ。触るぶんには、なんともない。だが、その根を、決まった手順で灰にして、決まった量だけ、決まった溶媒に溶く。そこまでして、はじめて、あれは効く。

効く相手は、いま前に出ている、たったひとつの座だけだ。ちょうどその座が、身体を握っているあいだに、強い刺激と一緒に、それを飲ませる。すると、その座は、いちど奥へ引っこんだきり、二度と、前に戻ってこられなくなる。座から座へ渡り歩くための、内側の道が、そこだけ、焼き切られるんだ。座測計で測れば、はっきり出る。断ち切られた、戻り道の跡が。ほかの座は、無事だ。身体も、生きている。狙われた、たったひとりだけが、消える。

「調合を、しくじれば」ジラールは、指で、宙に、匙加減を測るような仕草をした。「何も起きないか、身体ごと、死ぬ。効く量と、殺す量の、あいだが、紙一枚だ。だから昔から、あの花の栽培も、持ち出しも、島の法で、固く禁じられてる。花を一輪、崖から摘んでくるだけで、罪になる。調合の手順を知ってる年寄りは、もう、島に数えるほどしかいない」

その手口を、島は、人格殺人と呼ぶ。

「身体は、誰も傷ついてない。だから、島の外の法律じゃ、罪にすらならん。誰も死んでないことに、なってるからな」ジラールは、吐き捨てた。「だが、この島じゃ、いちばん重い罪だ。人ひとりを、この世から、あとかたもなく、消すんだから。……あの漁師の身体は、明日も海に出る。ただ、その身体を漁師にしていた座が、もう、いないだけだ」

その漁師の別の座が、埠頭で泣いているのを見た。自分の指をなくしたみたいに、右手をずっとさすっていた。同じ身体の、知らない同居人のために泣いていた。

島は、憎しみで煮えかけていた。

その煮え立ちの、いちばん熱いところで、僕は一人の若い男に呼び止められた。カイ、と名乗った。二十歳そこそこの、痩せた身体で、目だけが不健康に光っていた。反テクノロジーの一派だ、とすぐにわかった。彼は、僕の後頭部――伴脳の埋まっているあたり――を、汚いものを見る目で見た。

「あんた、あの悪党に、自分を測らせてるんだって?」カイは言った。「島じゅうの噂だよ。外から来た有名人が、大金を積んで、死んだ座を掘り返してる」

「掘り返してはいない。測ってるだけだ」

「同じことだ」カイは吐き捨てた。「なあ、有名人。おれの母親はな、七年前に、座をひとつ亡くした。母親を母親にしてた座だ。それで、親父が、あの悪党に頼んだんだよ。痕から、母さんのそっくりさんを作ってくれ、って」

僕は、黙って聞いた。ジラールが言っていた「たいてい人が壊れる」という言葉が、頭をよぎった。

「そっくりさんは、よくできてたよ。母さんみたいに笑って、母さんみたいに、おれの名前を呼んだ。……でもな、あれは、母さんじゃなかった。母さんの真似をする、何かだった。親父は、それにすがった。毎日、それに『おかえり』って言った。おれは、耐えられなかった」カイの声が、震えた。「本物の母さんは、ちゃんと死なせてやりたかった。弔って、送り出して、悲しみたかった。なのに、あの真似ものが、いつまでも家にいるせいで、おれは、母さんを、いつまでも埋葬できなかったんだ」

「……それで、君は」

「あれを壊した」カイは、まっすぐ僕を見た。ためらいのない目だった。「〈戻らず〉を、手に入れたんだ。北の崖の花だ。摘むだけで、罪になる。調合を知ってる年寄りに、半年、頼み込んだ。教えてくれたそのじいさんも、いまじゃ、おれと口をきかない。……それでも、やった。真似ものが、母さんの顔で笑って、おれの名前を呼んでるあいだに、飲ませた。真似ものの座は、奥へ引っこんで、それきり、戻ってこなかった」

「人格殺人だ」

「島じゃ、そう呼ぶ」カイは、唇を歪めた。「おれは、罪人だよ。族長にも、面と向かって、そう言われた。人ひとり、この世から消したんだから、とな。……笑わせる。もともと死んでる母さんの、そっくりさんを、もう一回、殺せるわけがないだろう。おれはただ、終わらせただけだ。親父が、いつまでも先延ばしにしてた、母さんの埋葬を」

島は、カイを、まだ裁けずにいる。消されたのが、生きた人間なのか、死者のそっくりさんなのか――その一点で、島が、真っ二つに割れているからだ。人ひとり殺した罪人だと言う者と、あれはただの供養だと言う者。カイは、その裂け目の、ちょうどまんなかに、罪の名だけを着せられて、立っている。港で泣いていた漁師のことも、頭をよぎった。あれも、この少年の手なのか。訊く気には、なれなかった。

「真似ものを作るのは」カイは、去りぎわに言った。「死者を弄ぶことじゃない。生きてる人間から、悲しむ権利を、奪うことだ。……あんたも、覚えとけよ、有名人」

その言葉が、なぜか、いつまでも耳に残った。素材にする気にも、ならなかった。

その争いを、じかに見たのは、それから数日あとだった。

市場で、諍いが起きた。座測計の側の男と、反テクノロジーの側の男。最初は、ただの、小突き合いだった。人だかりができて、僕も、足を止めた。

反テクノロジーの側の男が、懐から、小さな瓶を出した。中に、濁った液が、入っていた。彼は、それを、相手に浴びせようとした。「機械に魂を売った、おまえの座を、消してやる」そう叫んだ。まわりが、いっせいに動いた。〈戻らず〉だ、と、誰かが叫んだ。瓶が、宙で、はじかれた。

濁った液が、飛んだ。細かい飛沫が、何粒か、僕の口に、入った。

とっさに、舌が、その味を、探った。苦くて、奥に、かすかな甘み。……知っている味だった。今朝、ミラが出した、島の料理。少し苦くて、奥が甘い、あの味と、同じだった。

僕は、動けなくなった。

「おい」誰かが、僕の肩をつかんだ。市場の、年寄りだった。僕の顔を、下から覗きこんだ。「飲みこんだか。……大丈夫か。なんともないか。おい、有名人、自分の名前は、言えるか」

「……言えます」

「前に出てる座は、変わってないか。頭の奥へ、誰かが、引っぱられていく感じは」

「ない、と思います」

年寄りは、僕の目を、しばらく覗きこんで、それから、太い息を吐いた。肩の力が、抜けた。

「なら、いい」彼は言った。「あんた、運がよかった。……いや、この島の人間じゃ、ないからかもしれんな。効かんのは。頭に、機械なんぞ入れてる、外の人間だ。〈戻らず〉ってのは、島の身体に、島のやり方で効く毒だからな。あんたみたいなのは、たぶん、蚊帳の外なんだ」

年寄りの口ぶりは、いかにも、いい加減だった。昔から島で言い伝えられてきた、根拠のあやしい安心の、その受け売り、という感じだった。それでも、僕は、少しだけ、ほっとした。

ほっとしたのに、ひとつだけ、頭の芯に刺さって、抜けないものが、あった。

今朝の、あの味だ。

宿へ帰る道で、僕は、伴脳に、今朝の食事の解析記録を、呼び出させた。いつもは、見向きもしない、成分の羅列を。読めない綴りの中に、灰色の花の名前が、ひとつ、あった。北の崖にしか咲かない、とジラールが言っていた、あの花の名が。

心臓が、いやな打ち方をした。

念のため、ジラールに、診てもらうことにした。〈戻らず〉が口に入った、それだけを言った。今朝の料理のことも、灰色の花のことも、言わなかった。

ジラールは、僕の顔を見るなり、面倒くさそうに、電極を出した。喉と、こめかみに、当てた。しばらく、画面を睨んだ。

「なんともない」やがて、彼は言った。「微動だにしてない。……市場の年寄りに、何か言われたか」

「島の外の人間だから、効かないんだろう、と」

「まあ、外れちゃいないが、理屈が雑だな」ジラールは、鼻を鳴らした。「外だろうが、内だろうが、関係ない。〈戻らず〉が消せるのは、あとから、その身体に来た座だけだ。生まれつき、いちばん最初に、その身体で目を覚ました座――島じゃ、主(あるじ)の座、と呼ぶ――あれだけは、何度盛っても、奥へは引っこまん。前に出てるのが主の座なら、あれは、ただの、苦い水だ」

「じゃあ、僕は」

「本土の人間はいわば主の座しかないようなものだ。それだけのことだ」ジラールは、そこで、ほんの一瞬、言葉を切った。僕の川底の、どこか一点を、見定めるような目だった。それから、何事もなかったように、続けた。「……これは、島でも、知ってる者の少ない話でね。前は、当たれば、その身体の座はみんな死ぬと思われてた。主の座だけは別だと、わかったのは、つい近ごろだ。年寄り連中の言い伝えは、まだ、そこまで追いついてない」

僕は、その一瞬の間が、何なのか、わからなかった。

族長に呼ばれたのは、その週の終わりだった。

族長は、思っていたより若い女だった。いや、若い座だ、と言うべきなのかもしれない。彼女の身体は六十を過ぎているらしいが、いま前に出ている座は、三十代の落ち着いた口調で喋った。名を、羽(う)、といった。

「島の外の、有名な作曲家さんだそうね」羽は、茶を出しながら言った。「傷を癒しに来て、うちのいちばん厄介な男と組んでる。趣味が悪い」

「よく言われます」

「単刀直入に言うわ。島のために、唄を書いてほしいの」

僕はカップを持つ手を止めた。

「島が割れてる。座測計を希望と呼ぶ側と、冒涜と呼ぶ側。両方とも、自分の正しさで頭がいっぱいで、相手の声が聞こえてない」羽は静かに言った。「昔から、こういうとき、島はひとつの唄でつないできた。理屈じゃ和解できないものを、同じ旋律を口ずさむことで、いっとき同じ身体にする。あなたなら、それが書けるでしょう」

「買いかぶりです」僕は言った。「僕は、この半年、一音も書けていません」

「知ってる。それでも、お願いしたいの」羽は、静かに言った。「あなたの唄を、いくつか聴いたわ。うまく言えないんだけど……聴いてると、なんだか、落ち着くのよ。うちの島の人間はね、ひとつの身体の中でさえ、座ごとに、好みが、てんでばらばらなの。上に出てる座が替わるたびに、好きな食べ物も、好きな音楽も、変わる。同じ身体の中で、しょっちゅう、喧嘩になる。……なのに、あなたの音楽だけは、どの座も、いやがらないの。前に出てるのが、誰であっても、みんな、ふっと、聴き入ってしまう。そんな音楽は、この島の長いあいだにも、ほかに、なかった」

僕は、うまく、返事ができなかった。自分の音楽が、なぜ、そんなふうに響くのか。それを、いちばん知らないのは、僕自身だったからだ。

「割れた島を、ひとつにするには、そういう唄が、いるの。座ごとに、好みの違う人間たちが、同じ旋律を、いっしょに口ずさめる唄が。……だから、あなたに、頼みたい」

引き受けた。書けないまま。断る理由を、うまく組み立てられなかった。

それから僕は、唄のために、島を歩いた。

書くためではなかった。書けないのだから。ただ、島の音を集めた。素材を集めるときの、いつもの癖だ。漁師の子守唄。網を繕うときの、手拍子に似た合いの手。人格死の葬式で、誰かが小さく口ずさむ、旋律とも言えない旋律。

浜辺で、焚き火をしながら佇んでいる老婆にあった。彼女は、鼻歌を歌っていた。

僕は足を止めた。

知っている歌だった。

聞いたことがある、ではない。知っている、だった。次にどの音が来るか、僕の喉が、老女より半拍早く動いた。老女が歌をやめても、僕の中で歌が続いた。三番目の小節で、旋律が半音下がる。そこで歌詞が、島の言葉から、もっと古い言葉に変わる。僕はその古い言葉を知らないはずだった。なのに、口が動いた。

「あんた」老女が、洗濯物のあいだから僕を見た。「その歌、どこで」

「わかりません」僕は言った。喉がまだ震えていた。「どこで覚えたのか、まったく」

「外の人間が、知ってる歌じゃないよ」老女は目を細めた。「これはね、この浜の、身体の中に二人目が来た子に、母親が歌うやつだ。二人目の座を、迎える歌。……あんた、島の生まれかい」

老婆が少し考えて告げる。

「あんた、この浜の、歌うたいの家の子じゃないか?」火を見たまま、老女は言った。「歌い方で、わかったよ。あの家の子は、みんな、三番目の小節で、半音を落としすぎる」

知らない家のはずだった。なのに、胸の奥が、鍵をかけた戸を内側から叩くみたいに、鈍く鳴った。

老女は、話してくれた。切れぎれに、思い出しながら。僕の母は、この浜で歌のうまい人だったこと。父は早くにいなくなったこと。僕が五つのとき、母が病気で死んだこと。そのころ、僕の身体に、二人目が来たこと。

「小さいあんたには、母親の死は、重すぎたんだろうね」老女は、火に枝をくべた。「だから、二人目が来た。ちいさいあんたを、守るために。……この島じゃ、よくあることさ。いちばん重いものが来たとき、それに耐えられる新しい座が、身体の奥から出てくる。あんたの二人目は、あんたのかわりに、悲しんでくれたんだよ。感情を引き受けてくれたんだ。あんたが壊れないように」

これまでの全てを理解した気がした。

僕に感情が少ない意味も、音楽が勝手に生まれる理由も。

「その二人目は、いま、どうしてるか、わかりますか」僕は訊いた。

老女は、しばらく黙って、それから、僕の顔を見た。皺の奥の目が、火に光っていた。

「あんたの顔を見りゃ、わかるよ」彼女は言った。「もう、いないんだろう。……あんた、いま、ひとりで、その顔をしてる。二人目を亡くした身体は、そういう顔をするんだ。喪主の顔さ。自分の中の誰かの、たった一人の弔い手の顔だ」

僕は、答えられなかった。火が、爆(は)ぜた。海が、暗かった。

「ジラールさん」翌朝、僕は研究所の扉を開けるなり言った。「僕を測る前から、あなたは僕を知ってた」

ジラールは、コーヒーを淹れる手を止めなかった。

「あなたは僕の川底に『合わない一枚』があると言った。まるで、探し物が見つかったみたいな言い方だった。あなたは最初から、僕の中の何かを探してた。測定は、あなたの目的じゃない。手段だ」僕は机に手をついた。「約束しましたね。途中で何を見つけても、僕は最後まで聞く、と。だから言ってください。あなたは、誰に雇われた」

ジラールは、カップを二つ出した。今日は、僕にもくれた。

「あなたが、この島に着くよりずっと前だ」彼は椅子に座った。「島の外から、女が一人、私に連絡してきた。金は、あなたが昨日提示した額と、桁が同じだった。……依頼は、死んだ者を、よみがえらせてほしい、と」

「初めは」僕は言った。声が、掠れた。「ミラが、セラを――娘を、よみがえらせに来たんだと、思ってました。骨と、記録を、鞄の底に、隠すみたいに、持ってきてたから」

ジラールは、何も言わずに、僕を見ていた。

「でも、違う」僕は言った。「そっくりさんを作るにも、稽古をつける、生きた身体が要る。あなたが、そう言った。……セラの身体は、もう、灰と、骨だけだ。器が、どこにもない。この島の技術でも、あの子は、蘇らない。ミラだって、それは、とっくに、わかってるはずだ」

ジラールは、低く言った。「そのとおりだ。娘さんじゃない」

「本当のことを、話してください」僕は、机に、両手をついた。「ミラが、よみがえらせてくれと頼んだのは――誰なんです」

ジラールは、コーヒーを、ひと口飲んだ。それから、静かに言った。

「女の依頼は、こうだ。近いうちに、夫を連れて、島へ行く。その夫の中に、死んだ座が、ひとつある。その座を、あなたの機械で、よみがえらせてほしい、と」

夫の中に。僕の、中に。

コーヒーの湯気が、まっすぐ立ちのぼって、天井の手前で崩れた。

「僕は」声が、うまく出なかった。「依頼された品物として、ここに来たわけだ」

「そう聞くと感じが悪いね。事実だが」ジラールはカップを回した。「私は、あなたが自分の足で研究所に来たとき、少し驚いた。依頼人は、夫は乗り気じゃないから、うまく誘導すると言っていた。なのにあなたは、自分から扉を開けて、自分から金を積んで、自分の音楽の源泉を教えてくれと言った。……皮肉なもんだ。あなたが探していた源泉と、依頼人がよみがえらせたがっている座は、同じものだった」

「同じもの」

「あなたの曲を書いていた座だよ、有名人」

僕は、椅子に座った。座らないと、まずいと思った。

「あなたは島の生まれだ。子どものころ、あなたの身体に二人目が来た。トーアと言うらしい。」ジラールは淡々と続けた。「そういう座は、たいてい、幼い一人目を守るために来る。強い一人目のかわりに、痛みや、恐怖や、あなたに耐えられないものを引き受ける役でね。……いつからか、そのトーアが、あなたの中で音楽を書くようになった。あなたじゃない。あなたは、トーアが書いた譜面を、目が覚めると見つけていただけだ」

「じゃあ、僕は」

「あなたは、器だよ」ジラールは、少しだけ声を落とした。「悪く言ってるんじゃない。この島の言い方だと、いちばん最初にその身体で生きはじめた座を、そう呼ぶことがある。家の、いちばん古い柱だ。柱は、家を支える。ただ、家を有名にするのは、たいてい、あとから来た住人のほうだ」

長いこと、僕は黙っていた。伴脳が、気を利かせて、悲しみに関連する候補をいくつか並べた。僕はそれを、手で払うように消した。今回ばかりは、既製品の悲しみは要らなかった。

「そのトーアは」ようやく訊いた。「どこにいるんですか」

「死んでる」ジラールは言った。「あなたの中で、人格死してる。座測計が拾えるのは、痕だけだ。冷めた灰の形から、火がどんな形だったかを推し量る。それが、私の仕事だ」

「よみがえらせられるんですか」

「よみがえりはしない。昨日も言った」ジラールは、まっすぐ僕を見た。「死んだものは、死んだままだ。私にできるのは、そっくりさんを作ることだけだ。……だが、あなたの依頼人は、そっくりさんでいいと言った。そっくりさんでいいから、返してくれ、と」

僕は立ち上がった。膝が、他人の膝みたいに頼りなかった。

「その依頼人の名前を、言ってください」僕は言った。「わかっていても、あなたの口から聞きたい」

「ミラ」ジラールは言った。「あなたの、奥さんだ」

僕は、ドアに手をかけた。それから、振り返らずに訊いた。

「そのトーアの声は、残ってるんですか」

「痕からなら、少しは」ジラールは言った。「声の高さと、抑揚の癖くらいは、再構成できる。中身のない、ただの音だがね。……聞くか」

「お願いします」

ジラールが、機械を操作した。スピーカーから、ノイズまじりの声が流れた。座測計が、痕をつなぎ合わせて、しゃべらせたのだ。意味のない、テスト用の一文だった。今日は、いい天気ですね。それだけ。

僕は、その場に立ち尽くした。

その声を、僕は知っていた。少し低くて、語尾がやわらかい。救命室で見せられた映像の、あの声だった。ぼくが前にいた、と十九回くり返した、あの声。僕の顔で、僕でない誰かがしゃべる、あの声。

生まれて初めて、僕は、僕を書いた男の声を聞いた。会ったことのない、僕自身を。

「もういいです」僕は言った。声が、うまく出なかった。「ありがとう」

ジラールは、機械を止めた。それきり、何も言わなかった。

宿に戻ると、ミラは窓辺で、譜面を見ていた。

僕の顔を見ると、悟ったようにつぶやく。

「知ったのね」と、彼女は言った。

「うん」

「どこまで」

「トーア、というところまで」僕は、向かいに座った。妻の顔を、素材として見ないようにするのに、少し努力がいった。「あとは、君の口から聞きたい」

ミラは、譜面を撫でた。僕が書いたとずっと思っていた、トーアが書いた譜面を。

「あなたと出会ったのは、二十二のとき」彼女は話しはじめた。声は、驚くほど落ち着いていた。何百回も、頭の中でこの話をしてきた人の声だった。「あなたは、島を出たばかりだった。自分が島の生まれだってことも、忘れてた。子どものころに、いろいろあって、島の記憶ごと、蓋をしてたの。……わたしは、あなたに惹かれた。ぼんやりして、世界と半分しかつながってなくて、でも優しい人だった。ほんとうよ。最初に好きになったのは、あなた。ノイ、あなたのほう」

「最初は、ね」

「意地悪な言い方」ミラは、少し笑った。それから、笑うのをやめた。「あなたには、週にいちど、様子の変わる日があった。目つきと、声と、手の動きが、別人になる日が。あなたは気づいてなかった。その日の記憶が、あなたには残らなかったから。……わたしは栄養士でしょう。あなたの身体に入るものを、全部、記録してた。それで、気づいたの。ある成分を、ある量、あるタイミングで摂ると、必ずその日が来るって」

「あの、週にいちどの」僕は言った。「木曜の、僕の好物」

「そう。あのミネストローネだけが、トーアを呼べる鍵だった」ミラは、僕を見なかった。譜面を見ていた。「サナよ。あの、島の香辛料。ある量を、決まった配合で摂ると、あなたの中で、トーアが、前に出てくる。……偶然だったの。あなたのために煮たスープに、たまたま、貰い物のサナを入れた日があって。その週だけ、あなたが、別人になった。わたしだから、気づけた。何が、あなたの中の扉を、開けたのか」

ミラは、少し、笑った。泣きそうな笑いだった。

「わたしは、週にいちど、そのスープを出した。あなたは、よろこんで、食べた。自分の好物を、疑う人なんて、いないもの。……そうすると、トーアが出てきて、鍵盤の前に座って、世界を泣かせる曲を書いた。あなたの名前で」

「わたしは、サナの産地を探した。トーアに、もっと会いたくて。……たどり着いたのが、この島。アステラ。サナが採れる、たったひとつの場所だった。何年も前。あなたには、内緒で、一度、来たことがある」

彼女は、窓の外の、暗い海を見た。

「サナを探しに来て、わたしは、この島が、どういう場所なのかを、知ってしまった。死んだ座を、痕から呼び戻す島だ、って。……そのときから、わたしの中に、良くないものが、棲みついたの。トーアを、週にいちどじゃなく、ずっと、そばに置けるかもしれない、って。事故が起きる、ずっと前から」

ミラは、少し、笑った。泣きそうな笑いだった。

「わたしは、週にいちど、その料理を出した。あなたは、よろこんで、食べた。……そうすると、トーアが出てきて、鍵盤の前に座って、世界を泣かせる曲を書いた。あなたの名前で」

「ひとつ、わからないことがある」僕は言った。「君は、さっき、言ったろう。トーアを、ずっと、そばに置きたかった、と。……なのに、十年、週にいちどを、守ってた。もっと、会おうと思えば、会えたはずだ。毎日だって。……なんで、週に、いちど、だったんだ」

ミラは、しばらく、黙っていた。それから、譜面の上に、そっと、手を置いた。

「それは……トーアとの、約束だったの」

「約束」

「トーアは、あなたを、愛してた」ミラは言った。静かな声だった。「たぶん、わたしより、先に。あの人は、あなたを守るために来た座でしょう。だから、自分が前に出て、あなたの時間を、奪うのを、いやがった。……あなたは、覚えてないと思う。わたしが、うれしくて、あのスープを、週に何度も、出したことが、あったの。トーアに、もっと会いたくて」

ミラの指が、譜面の、焼けた端を、なぞった。

「トーアは、すごく、怒ったわ」ミラは言った。「初めてだった。あの、優しい人が、あんなふうに怒るのを見たのは。……『ここは、ノイの身体だ』って。『ぼくのじゃない。ぼくが前に出るぶんだけ、ノイが、自分の人生を、生きそこなう』って。……それから、決めたの。週に、いちどだけ。木曜の、夜だけ。それ以上は、トーアが、許さなかった」

僕は、うまく、息が、できなかった。

僕を守るために生まれた誰かが、僕の妻に、僕を、あんまり呼ぶな、と言っていた。僕の人生が、僕からこぼれ落ちないように。……僕は、その約束のことも、その怒りのことも、何ひとつ、知らなかった。僕の中で、僕の知らない誰かが、僕のために、僕の居場所を、守ってくれていた。

「君は、それを管理してた。十年、僕に嘘をついて」

「そう」

「なんで」

ミラは、そこで初めて、僕の目を見た。

「トーアを、愛してしまったから」

窓の外で、波の音がした。

「あなたを好きになって、結婚して、そのあとで、あなたの中のトーアを知った。週にいちどしか会えない人を、わたしは、だんだん待つようになった。木曜が来るのを。……ひどい妻でしょう。夫のふりをした夫の、中の別人を待つなんて」ミラの声は、震えていなかった。震えることは、とっくに済ませたあとの声だった。「トーアは、優しかった。あなたよりずっと、世界とちゃんとつながってた。あなたが感じられないものを、あの人は感じられた。だから曲が書けた。あなたの悲しみを、あなたのかわりに、あの人が音にしてた」

「セラは」僕は訊いた。喉が、やっと動いた。「セラは、どっちの子だ」

「あなたの子よ」ミラは、即座に言った。そこだけは、強い声だった。「セラは、あなたとわたしの子。それは、絶対に、そう。……でも、あの日」

「事故の日」

「木曜だった」ミラは言った。「わたしが、鍵を回した日だった。前に出ていたのは、トーアだった。運転していたのも」

——ぼくが前にいた。

七十九回、僕の顔で繰り返された、あの声。少し低くて、語尾がやわらかい。あれは、僕じゃなかった。トーアが、自分が前に出ている時間に、娘を死なせてしまった、と言っていたのだ。

「トーアは、耐えられなかった」ミラは、譜面を強く握った。焼けた紙の端が、少し崩れた。「自分が前にいたときに、セラが死んだ。あの人は、それに耐えられる強さを持ってなかった。もともと、あなたが耐えられないものを引き受けるために来た座なの。いちばん重いものを渡されて、あの人は――消えた。人格死した。あなたの中で、二度と前に出てこなくなった」

「それで、僕は書けなくなった」

「あなたが書けなくなったんじゃない。トーアが、いなくなったの」

僕は、自分の両手を見た。世界を泣かせたと言われる手。一度も、自分のものだと感じられなかった手。当たり前だった。この手を動かしていたのは、ずっと、僕じゃなかったのだから。

「だから君は、僕をここへ連れてきた」僕は言った。「傷を癒すためじゃない。トーアを、取り戻すために」

ミラは、答えなかった。答えないことが、答えだった。

「セラの骨を」僕は言った。「記録を、君は、持ってきてた。僕は、てっきり、君が、あの子を――」

「あの子は、諦めた」ミラの声が、はじめて、はっきりと、崩れた。「諦めたのよ。だって、あの子は、身体ごと、いってしまったんだもの。骨しか、残らなかった。……この島でも、身体のない子は、呼び戻せない。稽古をつける座も、器も、どこにもない。ジラールさんに、何度も、訊いたわ。娘を、戻せないか、って。無理だ、と言われた。何度も、何度も」

ミラは、あの白い箱を、思い浮かべているようだった。

「あの子は、諦めた。諦めるしか、なかった。……でも、トーアは、違ったの」彼女は、僕を、まっすぐ見た。「トーアの器は、まだ、生きて、目の前を歩いてた。あなたの中で。手が、届くのよ。娘は、どうやっても、戻らない。でも、トーアは、戻せるかもしれない。……その差が、わたしには、どうしても、諦めがつかなかった。神さまは、ずるい。片方だけ、手の届くところに、残していくんだから」

僕は、しばらく、黙っていた。それから、ずっと喉につかえていたものを、出した。

「料理に」僕は言った。「〈戻らず〉を、入れてたね」

ミラの指が、止まった。譜面の端を、そろえていた手が。

「気づいて、たの」

「市場で、こぼれたのが、口に入った。……今朝、君が出した皿と、同じ味がした。伴脳に成分を調べさせたら、北の崖の、灰色の花が、入ってた」責める声には、ふしぎと、ならなかった。「いつから、やってた」

「島に来て、しばらくして、から」ミラは、うつむいた。「島の女の人に、料理を教わって……そのときに、噂話を聞いたの。前に出てる座を、いちばん奥へ、追いやる草があるって。……思ったの。いちばん前にいる、あなたを、奥へ、追いやれたら。あなたの奥の、トーアが、前に、出てくるんじゃないか、って。ジラールさんの研究を待つより、ずっと、早いんじゃないかって」

「僕を、消せば」僕は言った。「トーアが、席に、戻る。そう思って、毎朝、少しずつ、盛ってた」

「……愚かだって、わかってる」ミラの声が、掠れた。

「わかってなかったんだ。君は」僕は、静かに言った。「あれは、僕には、効かない。市場の年寄りが、教えてくれた。〈戻らず〉が消せるのは、あとから来た座だけだ。いちばん最初に、その身体で目を覚ました座、主の座は、何度盛っても、奥へは、引っこまない。近ごろ、わかったことで、島でも、知ってる者は、少ないらしい。……僕が、その、主の座なんだ。君は、いちばん最初の僕を、殺そうとして、殺せなかった。そして、君が、席をあけてやりたかったトーアはとっくに、自分で、死んでた」

ミラの目から、涙が、こぼれた。

「じゃあ、わたしの、やったことは」

「毒も、愛も」僕は言った。「ぜんぶ、届かなかった」

言ってから、ずいぶん、ひどい台詞だと気づいた。でも、取り消さなかった。この島に来て、初めて、僕は、既製品じゃない言葉を、自分の口から、出せた気がした。よりによって、いちばん、優しくない、ひとことを。

「ひとつだけ、訊いていいか」僕は言った。「君は、一度でも、僕を、トーアじゃなくて、この、ぼんやりした、器のほうの僕を、愛したことがあるのか」

ミラは、長いこと、答えなかった。撫でていた譜面の端で指が切れて血が流れて乾く。

「あったと思う」やがて、彼女は言った。「最初の一年くらいは。……でもね、ノイ。正直に言うと、わたしにも、もう、わからないの。あなたを好きだった気持ちと、あなたの中のトーアを好きだった気持ちが、どこで分かれたのか。」

「区別のつかない愛を、僕は、もらってたわけだ」

「ずるい言い方をしないで」

「事実だろう」

「事実よ」ミラは、うつむいた。「だから、ごめんなさい、って言ってるの」

僕は、笑った。皮肉な笑いだったと思う。ただ、その皮肉が、誰に向けたものなのか、自分でもわからなかった。妻にでもなく、トーアにでもなく、たぶん、区別のつかない愛を、それでも区別してほしいと願ってしまう、自分自身にだ。

「ごめんなさい」ずいぶん経ってから、彼女は言った。「あなたには、本当に、ごめんなさい。でも、わたし、止められなかった。トーアを、もう一度、おかえりって迎えたくて」

僕は、妻が泣くのを、初めて見た気がした。事故のあとも、葬式でも、泣かなかった人だった。トーアの名前を言うときだけ、彼女は泣けるのだった。

その夜、僕は宿を出て、島を歩いた。

考えごとをするとき、伴脳は便利だ。問題を脳内で浮かべれば、選択肢を並べてくれる。妻は、自分ではなく、自分の中に住んでいた別人を愛している。その別人は死んでいる。妻はそれを取り戻すために、自分をここへ連れてきた。

伴脳は、しばらく黙って、それから「該当する事例が見つかりません。しかし…」と参考にならない答えを返した。世界中の悲劇を学習した機械が、僕の悲劇には前例がないと言った。少しだけ、誇らしかった。ずいぶん安い誇りだったが。

歩きながら、ひとつずつ、ほどいていった。

ミラは、トーアを愛した。それは、僕への裏切りだ。腹を立てる権利が、僕にはある。ところが、腹が立たなかった。理由を探して、すぐに見つかった。トーアは、僕だからだ。正確には、僕から生まれたものだからだ。

子どものトーアは、幼い僕を守るために来た。僕が耐えられない何かを、かわりに背負うために。それは、この身体が、僕を生かすためにやったことだ。つまりトーアは、いちばん最初の、僕自身の、僕への愛だった。僕が僕を守ろうとして、生み出した誰か。

その誰かを、ミラは愛した。

だから、こうなる。僕を守るために生まれた者が、僕の妻に愛された。僕を経由して、僕から生まれた愛が、僕を飛び越えて、僕の妻に届いた。愛は、ぜんぶ、僕の中を通っている。なのに、僕のところで止まったものは、ひとつもない。僕は、あらゆる愛の、通り道だった。宛先になることはなかった。

海に向かって、少し笑った。笑うしかなかった。泣くための装置は、そういえば、死んでいるのだった。

歩いているうちに、セラのことを、思い出した。

思い出す、というのは、僕には難しい。伴脳は、映像も、音声も、正確に保存している。呼び出せば、いつでも、あの子が星のシールを数える声が再生できる。でも、それは記録であって、思い出ではない。僕は、記録を再生することはできても、それを胸のどこかが痛むような形で抱えることが、うまくできなかった。

ひとつだけ、記録じゃないものがあった。

あの子が、一度だけ、僕に言ったことがある。木曜の夜だった。パパ、今日はやさしいパパだね、と。僕は意味がわからなかった。毎日、同じ父親のはずだった。でも、あの子には、わかっていたのかもしれない。週にいちど、父親の中身が入れ替わることが。やさしいパパ――トーアのことを、あの子は、そう呼んでいた。

セラは、二人の父親を、知っていたのだ。そして、たぶん、やさしいほうを、好きだった。

その記憶だけは、呼び出すたびに、胸のどこかが、ちゃんと軋んだ。壊れた装置が、そこだけ、動いた。あの子を死なせたのは、やさしいパパのほうだった。トーアは、それに耐えられなかった。僕なら、耐えられたんだろうか。耐える資格が、そもそも僕にあったんだろうか。娘の好きだった父親は、僕じゃなかったのに。

夜明け前に、浜に出た。あの老女の浜だ。

僕は、砂に座って、子守唄を歌った。母が僕に歌ったはずの歌。二人目が来る子に、母親が歌う歌。二人目を、こわがらなくていいよ、と迎える歌。

歌いながら、わかったことがあった。

この歌だけは、僕のものだ。

世界を泣かせた百七十九言語の歌は、ぜんぶトーアのものだった。でも、この子守唄は違う。これは、トーアが来る前に、僕の中に入っていた。母の声で。トーアより古い。世界一の名曲ではない。ただの、子どもをあやす歌だ。でも、これだけは、間違いなく、僕が最初から持っていた、うただった。

朝、僕は研究所へ行った。

「頼みがあります」僕は言った。

ジラールは、コーヒーのカップを、机に置いた。

「トーアの痕を」僕は言った。「座測計が拾ったトーアの痕を、できるかぎり、僕の伴脳に学習させてほしい。手の動かし方。声の高さ。ミラの名前の呼び方。鍵盤に触れる前の、あの、撫でるような手つき。ぜんぶ」

ジラールは、長いこと、僕を見た。

「復活は、できないんでしたよね」僕は続けた。「死んだものは死んだまま。それでいい。復活はいらない。……真似るんです。僕が、トーアを。伴脳に学習させて、僕が、トーアを演じる」

ジラールは、指で、机を叩いた。

「島の人間なら、こうはやらないんだ」と、彼は言った。「ふつうは、同じ身体の、生きてる別の座に、稽古をつける。死んだ座を、生きた座に演じさせる。それなら、しくじっても、その座は、いつでも自分に戻れる。逃げ場が、ある。伴脳なんか、使わん。この島の連中は、頭に他人を買って入れるのを、何より嫌うからな」

「僕には、伴脳が、あります」

「わかって言ってるのか、ノイ」ジラールの声から、初めて皮肉が完全に消えていた。「勘違いするなよ。これは、あんたを、消す話じゃない。……消せるものなら、まだ、楽だった。あんたは、主の座だ。〈戻らず〉でも、押し出せなかった座だぞ。いちばん最初に、その身体で目を覚ました座は、何を上書きしても、いなくならない。しかし伴脳は優秀だ。手も、声も、名前も、ぜんぶ、トーアにしていくだろう。だが、あんた自身は、残る。自分がノイだと、わかったまま、ずっと、起きてることになる。トーアが、あんたの手で生きるのを、見ながらな。……いっそ、きれいに忘れて、あんたごと消えられたら、まだ、救いがあった。あんたには、それが、できないんだ」

「残る、と言われても」僕は言った。「もともと、いたためしが、ない気がするんです。一度も、自分の才能を自分のものだと感じたことがない。自分の悲しみすら、触れなかった。そんな僕が、いちばん奥に、残ったところで……いても、いなくても、同じでしょう」

「あんたが困る」

「困る自分が、どこにあるのか、わからないんですよ。最初に会った日に、そう言ったでしょう」僕は、少し笑った。「でもね、ジラールさん。二つ、はっきりしてることがある。ミラを愛しているということ。全てがわかった上で、それでも消えなかった。そして、これは、僕が選んでるということ。誰にも誘導されてない。ミラにも、あなたにも。生まれて初めて、僕は、自分の使い道を、自分で決めてる。……皮肉ですよね。自分のものだと実感できる何かを探しに来て、見つけたのが、自分を明け渡すという選択だなんて」

ジラールは、椅子の背に、体を預けた。天井を見た。それから、僕を、まっすぐ見た。

「訓練は、いらない。」彼は言った。「島の連中は、生きた座に、何か月もかけて、稽古をつける。死んだ座の癖を、少しずつ、覚え込ませていく。……だが、あんたには、伴脳がある。トーアの痕は、もう、そっくり、拾ってある。あとは、同期を、いちばん深くまで、かけるだけだ。……一瞬だぞ、ノイ。あんたが『やってくれ』と言った、その次の瞬間には、もう、あんたじゃない」

ジラールは、少しも、笑わなかった。「生きた主の座の上に、死んだ座を、まるごと、注ぎ込む。……喉から手が出るほど、欲しいデータだ。私は、悪党だからな。この研究が、一歩でも、本物に近づくなら、私は、何を使っても、惜しくない。あんたの、その身体も、その一生も、な」

僕は、笑った。ふしぎと、腹は、立たなかった。

「お願いします」僕は言った。「いちばん、深くまで」

ジラールは、うなずいた。電極を、僕の喉と、こめかみに、当てた。それから、後頭部の――伴脳の埋まった、あのあたりに、指を、そっと、置いた。

「目を、閉じてろ」

僕は、目を、閉じた。

――来た。

伴脳の奥から、何かが、ひたひたと、あふれてきた。冷たくも、熱くもない。ただ、なつかしい、としか言いようのない、何かだった。指の先が、じん、と痺れた。触れてもいないのに、右の手が、勝手に、撫でる形を、つくった。埃を払うように。挨拶を、するように。

母の顔が、見えた。僕には、記録の、ない顔だ。伴脳のどこにも、保存されていないはずの顔。なのに、見えた。トーアが、覚えていたのだ。トーアの中に、僕の失くした、いちばん古いものが、ぜんぶ、しまってあった。

流れ込んでくる。僕の、いちばん奥の部屋まで。ずっと、空(から)だと思っていた部屋に、誰かが、帰ってくる。ただいま、と言う声が、僕の喉の、内側で、鳴った。僕の声で。僕の声じゃ、ない声で。

僕は、席を、立った。いちばん奥の、いちばん古い椅子から。そこは、これから、この人のものだ。……明け渡すのは、こわいこと、ではなかった。ずっと空けておいた席に、ようやく、正しい人が、座る。それを、いちばん近くで、見ているような。僕は、最後に、その席のあたりを、指の先で、そっと、撫でた。鍵盤に、するみたいに。

愛している、と、口が動いた。それが僕の言葉なのか、トーアの言葉なのか、もう、境目はなかった。

ただ、愛されたい、というだけかもしれない。ミラにも、トーアにも。

想像していた以上に満ち足りていた。

愛する人が求める自分を、表現できること。自分の人生を、自分で選んだこと。器には、器なりの、使い道がある。僕は、僕という器に、いちばんふさわしい中身を、自分で選んで、注いだ。

ねえ、トーア。わたし、すごく、しあわせなのよ。

あなたがいないあいだ、とても、苦しかった。

わたしにも、罪悪感は、あるわ。あなたを呼ぶために、あの人の好物に混ぜて、週にいちど、食卓に出した。あなたに、会うために。……あの人は、自分の好物だと言って、よろこんで、食べていた。その一皿が、自分に会うための鍵だなんて、思いもせずに。……ノイには、悪いと思ってる。

セラが死んだのは、わたしのせいでも、あるの。わたしが、あなたに会いたくて、あの日も、ミネストローネを、作らなければ。前に出ていたのは、ノイだったかもしれない。セラは、死ななかったかもしれない。

あなたが人格死したと知ったとき、わたしは、こう思った。あなたを死なせたのも、わたしだ、って。だから、取り戻さなきゃ、いけなかった。どんな手を使っても。ジラールさんを見つけて、ノイを、この島へ連れてきた。傷心旅行だと、言って。

……あの人は、自分の足で、研究所の扉を開けたのよ。自分の音楽を、知りたい、と。かわいそうに。源泉は、自分じゃ、なかったのに。

でも、あの人は、あなたを、見つけてしまった。

もう、駄目だと思ったわ。

だから、驚いたの。ジラールさんから、研究がうまくいった、と、連絡が来たときは。

トーア。あなたは、わたしを、責めると思っていた。ノイを愛していた、あなたなら。……それを、覚悟していたの。

でも、あなたは、何も言わずに、わたしを、抱きしめてくれた。許してくれた。

あなたの目から、涙が、一滴、こぼれたわね。

トーアは、涙を流せる人だった。ノイには、それが、できなかった。あの人は、泣くための装置が壊れている、と、いつも言っていた。だから、この涙は、あなたのものだ。まちがいなく、あなたの。

わたしのために流してくれた涙だ、と思った。

わたしは、その一滴を、指で受けた。あたたかかった。この十年の、ぜんぶが、報われた気がした。

ああ、トーアのうたがきこえる。島のみんながうたってるわよ。

あなたが、うたをつくれるということ。

木曜日の思い出が蘇ってくるわ。

あなたがここにいることを噛み締められる。

何度でも言うわ。おかえり、トーア。

もう、どこにも、行かないで。

文字数:28464

内容に関するアピール

SF創作講座での一年は、SFと、小説と、そして自分自身と、これまでになく向き合う一年でした。ただ受動的に読むだけだった対象を、自分の手で形にする。学べば学ぶほど新しい世界が広がり、面白さは増していきました。一方で、生み出すことの苦しさや悔しさも味わい、その全部が、創作の醍醐味なのだと感じています。

最終実作は、そんな「自分」と向き合う話で挑みました。日々生成AIの話題が尽きません。いまは使う・使わないの論争が、ニューラリンクのように脳でAIが動くようになれば、どこまでが自分で、どこからがAIか、区別がつかなくなるのではないか。そのとき人は、「自分」の線をどこに引くのだろう。そんな問いが出発点でした。

主人公は、世界で響く曲を書きながら、書いた記憶を持たない男です。才能の正体は、幼い自分を守るために生まれ、いつしか音楽を書くようになった、もう一人の自分でした。妻が愛したのも、その「もう一人」。愛も才能も悲しみも、すべて自分の中を通り過ぎるのに、自分のところで止まらない、「通り道」でしかない。

複数人格が常態の民を描いたのは、彼の最後の選択が、別の人格への切り替わりではないと際立たせるためです。明確に「自分」でありながら、別人を模倣し続けること。それは、本物の自分と言えるのか、言えないのか。彼にとって自分とは意思と行動であり、願いが叶った結果ですが、消えることすら許されない残酷な献身でもあります。幸か不幸か、読後も容易には決められない。そんな余韻を目指しました。

何度も書き直すうちに、最終の梗概と変わり、当初のこうしたい、を表現しきれませんでした。ただ、その過程で新たに書きたいこと、問いたいことも、たくさん浮かびました。これからも書き続け、その問いに向き合っていきます。

講師陣とスタッフのみなさま、そして同期のみなさん、一年間、本当にありがとうございました。

文字数:785

課題提出者一覧