ゐ臓

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ゐ臓

1. 唐木一貫

唐木一貫からきいっかんのふたつめの胃が見つかったのは、1月下旬のことだった。
健康診断で中性脂肪が基準値の倍を叩き出し、しぶしぶ受けさせられた精密検査だった。そこで胃と脾臓の間に、5センチほどの影が写ったのだ。楕円形の影は当初、悪性腫瘍が疑われたが、腫瘍ではなく臓器だった。仕事柄、人体の構造には詳しい唐木だったが、こんな臓器を見たのは初めてだった。
「層構造がある。血管ともつながっている」
医師の白山が、MRI画像を指しながら言った。
「副脾とは違うんだな?」
唐木は尋ねた。副脾とは先天性の変異で、脾臓の隣にできるしこりのことだ。
「僕も最初はそう思った。でも一貫の臓器は、内部が空洞なんだ。小さいけれどしこりじゃない。それに生検で採取した組織は……」
白山はためらいながら続けた。
「胃粘膜と同じ構造をしていた」
「おれには胃がふたつあるのか?」
唐木は笑ったが、白山は真顔だった。むかしから冗談が通じないやつだったと、唐木は思い出す。
「組織と形は胃そのものだ。ただ、臓器として機能していない。腸や食道、周囲の神経にもつながってないらしい。らしいってのは、ここ数年でいくつか似た症例が報告されているみたいなんだ。迷入性胃器官発生症、って呼ばれてるんだけど」
モニターに向かって論文データベースを叩き、医学ジャーナルの要約を表示する。
「原因不明の、後天的な突然変異とされている。害もなければ益もない。ただそこにあるだけの、言ってしまえば無用の臓器だね」
唐木は思わず自分の腹をつかんだ。柔らかな肉が、低反発まくらみたいに指を押し返してくる。
「取ったほうがいいのか?」
白山は画面に顔を近づけたまま、首を振った。
「驚いたな。切除しても、そのうち再生するって書いてある。肝臓も元の大きさには戻るけど、臓器ごとってのは聞いたことがない。イモリの脚みたいだ」
そして黙って論文をひとしきり読んだあと、思い出したようにこちらを向いた。
「混みいった場所にあるから、むしろ切るほうがリスクだろうね。まあ大きさも変わらないようだし、放っておいていいんじゃないかな」
その言葉に唐木は唸った。
「曖昧だな」
「仕方ないよ。症例が少なくて、論文もほとんどないんだ。少なくとも君の場合は、脂肪肝のほうが問題だ。肥満治療薬は別で処方されてるんだろ?ちゃんとそれを飲んだほうがいい」
ふん、と唐木は鼻を鳴らす。
「同級生だからって適当言ってないか?」
白山は苦笑いした。
「体型も見違えたけど、中身も変わったね。大学の頃の一貫は、もっとなんというか、素直で可愛げがあった」
「馬鹿だっただけだ」
唐木が吐き捨てると、白山は「ジャーナル送っとくよ」とだけ言ってモニターに向き直った。
その晩、戻って調べてみると、白山の説明は実際のところ的を射ていた。迷入性胃器官発生症についての文献はほとんど出てこない。原因不明であり、無用の臓器だという点も、彼の説明と一致していた。唯一新たに見つかったのが希少疾患のコミュニティで、そこでは臓器が「ゐ臓」と呼ばれていた。偽の胃、ということらしい。
コミュニティの投稿には、ゐ臓にはヨーグルトが効くらしいとか、がん細胞を食べてくれるらしいとか、根拠のない噂がいくつも投稿されていた。だが唐木は笑う気にはなれなかった。どの投稿者も体内に現れた原因不明の臓器のことを、まるで得体の知れない生き物のように感じていて、それは唐木も同じだったからだ。自分の身体に、なにかが棲みついているような気がしてならなかった。
次第に身体中がむずむずしてきた。唐木は立ち上がり台所へ移動して、いつも通り炊飯器の蓋を開けた。そのまま白米を4合、炊飯器ごと抱えてかっこんだ。満腹になるといくぶん落ち着いてきて、気休め程度に肥満治療薬を飲んだ。しかし白米の栄養分がゐ臓にも流れると思うと、また腹立たしくなってくる。
このままでは仕事にも集中できない。原因がわからないなら、おれが突き止めてやる。唐木は書斎でデバイスを装着し、ゲノム空間へと入っていった。

《ユーザーの個人地図にログインしました》
あたり一面、真っ白な空間に唐木は立っている。
「胃形成関連区間を表示しろ」
唐木がつぶやくと、音声が返ってきた。
《生成中》
足元からにょきりと道が生えた。両手を広げた幅くらいの、半透明の紫色をした道は、凄まじい速度でうねうねと伸びていく。道は立ち上がっては空中で折れ曲がって、建物のような凹凸を形成した。道の裏側に道が回り込み、複雑な軌跡を辿って、あっという間に薄紫の迷宮の街ができた。唐木は道を歩き始める。ここは唐木のゲノム構造を表現していた。
唐木は緩やかな上り坂へと入る。街灯のように白く光っている場所は、遺伝子が働いている区間だ。足元の半透明の道も、よく拡大して見ればグラデーションがあることがわかる。DNAを構成するA・T・G・C、4種類の塩基の並びが濃淡で表されているためだ。坂は徐々に勾配を上げ、巻き上がって一回転した。唐木の100キロを超える巨体も、仮想空間のなかでは軽やかに持ち上がる。
ヒトゲノムは塩基配列こそ解読されたものの、その意味するところは未だに謎が多い。特に細胞の中でぐちゃぐちゃに折り畳まれたゲノムの、構造自体の重要性が近年明らかになってきた。同じ配列でも、ある部分が折り畳まれているかどうかで、遺伝子の働きが変わってくるのだ。
だがその組み合わせは天文学的な数に及ぶため、アルゴリズムだけではシミュレーションしきれない。そこで人間が中に入り、目視による探索を組み合わせる仕組みがゲノム空間地図だった。唐木はその地図を、製薬会社向けに提供している。
奥へと進んでいくにつれ、地形はますます入り組んでいく。道が上へ下へと、縦横無尽に折り返されている。道そのものが壁をつくり、天井を編んで、視界を埋め尽くしていた。毛糸玉の内側みたいな景色を、唐木は進む。途中、小さなループを巻いた道が行く手を阻んだ。唐木が下を潜ろうと、道をつかんで上へ持ち上げたところ、右側の壁が連動して動いた。
《仮想構造を変更。発現予測値が1.2ポイント上昇》
シミュレーションの値が読み上げられた。創薬現場ではこんなふうに、仮想のDNAを押したり引いたりしてみることで、現実の細胞でどんな機能を起こせるのかを確かめる。製薬会社はいわばデベロッパーとして、地図を見ながら「街」の開発計画を立てるのだ。
持ち上げた道を潜り、角を曲がると、地面が白く光っていた。その景色に、思わず唐木は釘付けになった。光の中では道同士が折り重なり、道と道との接触点が生まれている。大通りをつなぐ細道のように見えることから、業界では「路地」と呼ばれるポイントだった。路地では離れた区間同士が物理的に接近し、眠っていた遺伝子が発現することがある。
だがいま唐木の目の前にある路地は、普通とどこか違っていた。まるでペンチで無理矢理ねじ曲げられたような、不自然な曲がり方をしていたのだ。
「前回の地図を表示しろ」
震える声で唐木は指示した。
《542日前の地図記録を復元中》
電子音と同時に、目の前にあった路地と光が、すっと消えてなくなった。思った通り、以前は存在しなかったらしい。
心臓が脈打った。ここだ、と唐木は直感した。これがあのゐ臓とかいう、気味の悪い臓器を生み出した路地ではないか。そしてこの不自然な曲がり方は、人工的な作用 —— つまり薬によるものではないか。

《外部からの着信です》
着信音が鳴って、唐木の思考は中断された。部下からの通話だった。
「インドの弁護士事務所からまた書類です」
部下はくたびれた声で言った。
「地図の技術要件を整理してほしいと」
「この前出したばかりだろ」
「あっちの裁判所が要求していて。あと深圳の海賊版の件も、来週までに。被告は独自の基盤モデルを使用した……と主張しているようです」
舌打ちをしてデバイスを外した。目が現実の蛍光灯に慣れると、デスクに積まれた書類が浮かび上がってくる。仮想空間で味わった興奮が、瞬く間に怒りに上書きされていった。
「独自のモデルだと?簡単に言いやがって」
ゲノムの3次元データは複雑で膨大だ。それを扱いやすい形に加工するためには、創意工夫が必要となる。道路の地図と同じように、ゲノムの地図にも著作権が認められるのはそのためだ。中でも唐木は、個人の検体データを重ねるだけで、その人の地図を容易に作成できるような基盤モデル —— いわば地図の下書きを開発した。これが製薬会社に高く評価され、会社を興したのが15年前のことだ。
だがいまでは地図の海賊版が、世界中で出回っていた。唐木の下書きが流出したからだ。海賊業者はそれをベースに、無数の個人の地図を生んだ。地図が市場に溢れたせいで、会社の収益は大きく落ち込んだ。
唐木は書類の山に向かう。かつて地図の流出に怒り狂った唐木は、会社の法務部長を解雇。自ら指揮を取るようになった。だが海賊版の海賊版まで出回り始め、一向に収拾の目処は立たない。こうして仕事時間のほとんどを、海賊版への対応に費やすようになった。暴食の日々が始まったのも、その頃からだった。
アナログな手続きに痺れを切らした唐木は、立ち上がって台所へ向かい、炊飯器のスイッチを入れようとした。そこでさっき飲んだ肥満治療薬の薬袋に気づき、「常和ときわ製薬」という表記にあっと声をあげた。

 

2.

「いっそ、地図ごと公開しちゃったら?Googleマップだって無料で使えるじゃん」
一週間後の朝、妹のりつはパフェをすくいながら言った。ゐ臓の件で、唐木が近所のファミレスに呼び出したのだった。
「道路地図とは違う。そもそもGoogleは他で稼いでいて、おれたちにそんな余裕はない」
唐木が言い返すと、すぐに律は反論する。
「にしても、海外企業相手の裁判なんて不毛だよ。正直、いまじゃどこの地図を使ったって大した違いはない。うちの会社も、調達先の見直しをするって噂だし」
コスト削減ばっかで嫌になる、と律は愚痴をこぼした。律は大手の常和製薬で、研究者として働いている。だから地図のことにも —— それからあの薬のことにも、それなりに詳しい。
「おれの地図は、おれにしかつくれない。おれの作品を、盗むことは許されない」
肉を口に押し込みながら唐木は言った。黄色い歯をむき出しにして、くちゃくちゃと噛む。律は眉をひそめた。
「朝からステーキって」
「お前だってパフェじゃないか」
「妊娠してから、甘いものが欲しくなったの」
そう言って苺を慎重に運ぶ。
「元から食ってたくせに。だからお前も、飲んでたんだろ」
そう言って唐木は、家から持ってきた薬を取り出した。「ヤセリラ」という肥満治療薬だった。満腹感を長引かせる効能を持つヤセリラは、「痩せ」を想起させる露骨な名前もあって話題を呼び、常和製薬のヒット商品となった。妊娠前に飲んでいたという律に紹介されて、唐木も最近処方を受けていたのだ。もっとも常和は取引先でもあり、営業の話題になるという下心もあった。
「やっぱり、ヤセリラが原因なのかな」
律はうつむいて自分の腹を撫でた。そこには3ヶ月を過ぎた胎児と、それから別の異物が棲みついている。
「おれたち両方が飲んだことがあって、胃に効能をもつ。これしかないだろ」
「病院には様子見って言われたんだけど。赤ちゃんのこともあるし」
ゐ臓がもし薬の副作用だったとしたら、毎日飲んでいるヤセリラが怪しい。そして遺伝的に似た兄妹であれば、同じ薬に対して同じ反応がでやすい。その唐木の悪い予感は、的中してしまった。律にも精密検査を受けさせたところ、ゐ臓の存在が判明したのだ。
「一通り論文を見たんだけど、胎児への影響については書かれてなかった」
「旦那はなんて言ってる?」
明人あきとはいつも通り。なにも心配しなくていいってさ」
律の旦那とは、唐木も一度だけ食事をしたことがある。企業のパンフレットをつくる会社だかなんかで、営業をやっていると言っていた。何を言ってもニコニコしていて、この時代に紙を売るような人間とは、やはり馬が合いそうにないなと唐木は思ったものだ。
「わたしも心配ないとは思ってる。でも、やっぱりこの子のこととなると、ね」
不妊治療を受け続けていたという話は唐木も聞いていた。夫婦にとって、待望の子どもであることも。律は続ける。
「たしかにヤセリラはエピジェネティック薬だから、構造に直接作用する。お兄ちゃんの言うように、誤って路地をつくる可能性はあると思う」
エピジェネティック薬とは、ゲノムの折り畳み構造を狙う薬だ。研究が進むにつれて、従来の薬より強い薬効をもった、この種の薬が急速に増えた。
「でもヤセリラはうちの主力製品だよ。関わっている人の数が違う。そんな、臓器をつくるなんてこと……あったとしたら、とんでもない不祥事になる」
律はスプーンを置いた。揺れる瞳には、研究者としての理性と、母親としての感情が綱引きしているようだった。
「広く飲まれてるからこそ、稀な症状も出たんじゃないのか。というかお前の会社だろ。ヤセリラの標的座標はわからないのか?」
唐木が尋ねると、律は首を振った。
「一番の企業秘密じゃん。わたし基礎研究部門だし、そんな権限ないよ……まさか証拠でも掴もうとしてる?」
唐木は頷いた。
「薬害となれば、世間も注目するはずだ。そしたらゐ臓の研究も進む。子どもへの影響だって、明らかになるかもしれない」
律は途端に身を乗り出した。
「だったら創薬地図に入ればいいんじゃない?お兄ちゃんの会社は、地図の基盤ごとうちに提供してるじゃん。薬効シミュレーションを見ればなにかわかるでしょ……その手があったか、みたいな顔してる」
「いや、いきなり地図を見せてくれ、なんて言ったら怪しまれるだろ」
「メンテに入りますとかなんとか、適当な理由つくればいいのよ」
唐木は押し黙った。かなりのグレーゾーンではあるが、たしかに可能だ。
「お兄ちゃん、やっぱり経営者なんて向いてないと思う」
律は口元を丁寧に拭きながら続けた。
「研究に戻ったら?うちでよければ、繋ぐくらいはできるよ」
「いらない」
唐木はぽつりとつぶやいた。牛肉にフォークを突き立てると、赤い肉汁が皿へと染み出していった。
「おれには、地図しかないんだ」

《ベンダー権限を認証しました。創薬地図にログインします》
その夜、唐木はアドバイスに従って、メンテナンスと称して常和の地図へと入りこんだ。先日見かけた、ねじ曲げられたような路地を探して、深部へと歩いていく。
あのとき入った唐木個人の地図にくらべれば、ここは道の曲がり方が滑らかで、入り組んだ路地も少ない。まるで再開発された街のように、すっきりとしている。これは地図の製法が異なるからだ。
そもそも長さ2メートルのゲノムは、わずか5マイクロメートルの核に押し込められている。あまりに小さく、高密度な毛糸玉の構造は、どんなに優れた顕微鏡を使ったとしても直接見ることはできない。そこで「Hi-C」と呼ばれる手法で、毛糸をバラバラに刻んでから、計算によって構造を推測し、個人の地図をつくる。
そして数千人分の個人地図をアルゴリズムに学習させ、共通構造を抽出したものが、唐木の歩いている「創薬地図」だ。個人差のノイズが消え、整然とした道だけが残る。製薬会社はこの創薬地図をもとに、薬の標的を探す。
しばらく歩くと、水色の粒子の川が目の前に現れた。宙に浮いて流れる川は、ヤセリラの薬効シミュレーションだ。川は唐木の思った通りの方向へ流れていき、やがて探していた場所へ辿り着いた。薬効の川が、あのねじ曲がった路地を流れていたのだ。
唐木はヤセリラの錠剤を思い出す。やはりあの薬が、この歪んだ地形をつくったのではないか。少なくともヤセリラとゐ臓が関係していることの、有力な証拠になりうる景色だった。だが唐木がデータを保存しようとした瞬間だった。
《権限がありません》
突然、視界がブラックアウトした。慌ててデバイスを外すと、自分の書斎にいた。しばらくして何が起こったのかに気づいた。常和製薬の地図から、強制的に追い出されたのだ。

「ゐ臓の原因が、ヤセリラにあることは間違いない。しかもお前んところの会社は、恐らくそれを隠蔽している」
すぐさま律に通話した唐木は、鼻息荒くそう告げた。
「現場は押さえた。これにお前の知識を組み合わせれば、証拠に近いものを出せるんじゃないか?それを持って、マスコミにリークするとか……」
興奮に任せるまま喋ったあと、なに考えてんの、とあしらわれると思った。だが律は、
「考えてみる」
と答えた。
「いや、でも、お前のキャリアに悪いぞ。やめたほうがいい」
自分の提案なのに、思わず引き止めてしまう。そうだった。こいつはむかしから、いざとなるとおれ以上の無茶をするのだ。
「いいの。もし本当に隠蔽してるなら、そんな会社こっちから願い下げだし」
律はそう言って通話を切った。そして数日後、協力すると送られてきた。記者をやっている友達にも相談してみるという。
自分の身体に何が起こっているのかを、知りたいから。メッセージはそう締めくくられていた。

 

3. 律

浴衣の帯を引くと、思ったよりも手前で締まった。お腹の膨らむペースは、いつも感覚より数センチ先をいく。わたしは帯をすこし緩めてから、座布団の上で足を崩し、長机に間取り図を広げた。
「子ども部屋のことを考えると、収納か玄関の面積を減らさなきゃだな。明人はどっちがいい?」
「任せるよ」
夫の明人が向かい側でにっこり笑った。
「というかこれ、いまどきいい紙を使ってるな」
そう続けて間取り図の手触りを確かめている。思わずため息を漏らしかけたが、飲み込んで作業を続けた。中古マンションのリノベを思い立って3ヶ月。ようやく目当ての物件が見つかったものの、リノベプランの作成に住宅ローンの審査と、やることは山積みだ。
「子ども部屋ってどれくらいの広さかな。ていうかいつから必要なんだろ」
間取り図の左上に、ぐるぐると円を描く。明人とのふたり生活に新メンバーが加わるなんて、まだちっとも実感がわかない。
「ベビーカーを置くなら、玄関の広さは必要だよね」
にもかかわらず、わたしの思考は会ったこともないその子を中心に回っている。そのことがとても不思議で、すこしざわざわした。やりたいことも欲しいものも、いつだって自分で決めてきた。明人もそれを尊重してくれる。けれどもこの子が出てきたら、きっと主役が変わるのだろう。わたしはそのときを、素直に受け入れられるだろうか。
明人に希望を訊き直そうとしたところで、部屋に料理が運ばれてきた。仲居さんが手際よく皿を並べていく。出産前の最後の旅行だからと、せっかく旅館まで泊まりに来たのだ。家で考えればいいと思い直し、間取り図を鞄へとしまった。
「フグ鍋じゃん!」
蓋を開けた明人が、嬉しそうな声をあげた。
「冬って感じがするな。あ、でも妊娠中にいいんだっけ」
「火が通ってたら大丈夫」
そっか、と言って明人はお玉でつゆをすくう。この人はいつでも、わたしのぶんからよそってくれる。
「こないだ刷ったパンフで読んだんだけどさ。フグの毒って外からくるらしいな。餌の細菌なんだって」
明人が蓋をしめながら言った。脳裏に、病院で見たMRI画像が浮かぶ。胎児の隣に写っていた、小さな影を思い出した。
「……そういえばフグってね、ゲノムの容量がすごく小さいんだ」
「なんか単純そうだもんな」
明人は箸でつまんだフグをしげしげと眺めた。わたしが唐突な話題を振っても、一応はついてきてくれる。
「と言っても、遺伝子の数は人間とほとんど同じ。違うのはそれ以外。ヒトのゲノムは、98%以上が余白でできてる。でもフグには、余白がほとんどないの」
「むしろ人間には、なんでそんなに余白が?」
「一番多いのは、トランスポゾンの残骸かな」
「トランスポゾン?」
「ウイルスみたいに、自分をコピーして増え続けた配列の残骸。と言っても何億年も前の話で、いまは動かないように押さえ込まれてるんだけど」
「壊れた輪転機が、大量に埋まってるみたいな?」
「うーん、まあそんなとこ」
「怖いな。印刷所のトラブルってヤバいんだよ。輪転機なんて、数分で何千枚も刷っちゃうから。誤植に気づいたときには……」
明人は大袈裟に肩をすくめた。話題を仕事に持っていきたいんだな、とは思った。でもあえて抗ってみる。
「あとはね、遺伝子を操作するためのスイッチも、余白に存在することがわかってる」
だから兄のつくっている地図では、路地が重要になる。折り畳まれた場所でスイッチが接触することで、遺伝子が発現する。ヤセリラも、そんな効果を狙ってつくられた。
「スイッチがちょっと動いただけで、とんでもないことが起こるかも」
「……例の臓器の話?」
つゆまで飲み干したあと、こちらを覗き込むようにして明人が言った。わたしは頷く。
ゐ臓。外の世界からやってきた、わたしの中の毒。そのことを考えて、帯をまたすこし緩めた。
「うちの薬が関係してるかもしれない、って話をしたでしょ。あれ、もうちょっと調べてみようかなって。前に見たデータに心当たりが……」
「律、落ちついて」
明人が遮った。眉の垂れ下がった優しい目で、こちらを見つめてくる。
「医者も問題ないって言ってるんでしょ?安静にしなきゃ。余計なことをして、母体に障ったら大変だよ」
「余計なこと?」
思わず声を荒げてしまった。
「ごめん、言い方が悪かった」
明人はすぐに謝り、ふたたび鍋の蓋を開いた。大量の水蒸気が、鍋からたちのぼっていく。
「心配しなくていい、って言いたかっただけ。お代わりいる?」
水蒸気に覆われ、明人の顔が白く霞んでいく。お腹の底がかすかに動いた気がして、わたしはそっと手を当てた。

二週間後、社内データベースを漁り続けたわたしは、ついに探していたものを掘り当てた。ヤセリラ開発初期の記録だ。培養細胞にヤセリラを投与し、ゲノム構造がどう変化したかが、網羅的に測定されていた。
数字の羅列を加工していく。何千という接触点の変動は、全体解析では有意差なしと処理されている。だが兄の見つけた路地の周辺に絞ってみると、接触頻度が急上昇していた。
やはりそうだ。わたしは生唾を飲み込んだ。ヤセリラが、あのねじ曲がった路地をつくっている。ということは、やっぱりゐ臓は——
通話音が響いて、びくりと顔をあげた。ジャーナリストとして働く、古い友人からだった。兄と会ったあと連絡を取り合っていたのだ。オフィスに誰も残っていないことを確認し、通話に出る。目の前の発見について話すと、記事にしたいと彼女は言った。そして提案があると付け加えた。
「被害者である律自身が、表に出たほうがいいと思うの」
「……わたしの名前を出すってこと?」
「うん。これまでも薬害を追ったことあるんだけど、やっぱり世間って所詮、他人事には無関心なんだ」
友人は熱っぽく続ける。
「律が自分の言葉で話せば、子どもを持つたくさんの人たちに、自分に起こりうる問題として捉えてもらえると思う。もちろん仕事に関わることだから、律次第なんだけど」
即答はできなかった。そんな会社は願い下げ、と兄に啖呵は切ったものの、簡単に決めてしまっていいものか。夫に相談してみる、と言おうとしたところで、旅館での明人を思い出した。明人がいつも優しい目になるとき、わたしと同じものを見てはいない。そのたびにわたしは、自分の不安ごとを否定されるような気持ちになってしまう。
迷った末に返事を告げ、通話を切った。わたしの不安は、わたしだけのものだ。たとえ主役が変わったとしても、それだけは譲れない。

東央新聞デジタル版 3月18日

【独自】肥満治療薬ヤセリラ、「第二の胃」を形成か 研究者が告発

常和製薬の「ヤセリラ」が、胃に似た器官ができる「迷入性胃器官発生症」を引き起こしていた可能性が高いことが、本紙の独自取材により明らかとなった。

ヤセリラは、胃の働きに関わるDNAの接触点を安定させ、満腹感を長引かせる肥満治療薬だ。だが本紙が入手した開発初期のデータによると、ヤセリラが本来意図しない接触点をつくっていたことがわかった。この接触点が、迷入性胃器官発生症を引き起こした可能性がある。
同症状により発生する器官は、インターネット上では「胃(い)」の古い仮名遣いになぞらえて「ゐ臓」とも呼ばれている。切除しても再び生じることで知られるが、専門家によれば、これは今回明らかとなった接触点が、器官を取り除いても細胞内に残り続けるためではないかという。
常和製薬は本紙の取材に対し、事実関係を確認中と回答している。

内部資料を本紙に提供したのは、常和製薬の研究者、西山律(にしやま・りつ)さん(34)だ。律さん自身もヤセリラを服用した後、迷入性胃器官発生症と診断された。現在は妊娠中で、胎児への影響を懸念しているという。
痩せ薬という巨大市場が生んだ、謎の臓器。次ページでは律さんへの取材をもとに、当事者の声を紹介していく。

 

東央新聞デジタル版 4月2日

「ヤセリラ」販売中止 常和製薬、臓器形成との関連認める

常和製薬は、肥満治療薬「ヤセリラ」と迷入性胃器官発生症の関連を認め、同薬の販売を中止すると発表した。一方で関連を意図的に隠蔽したとの見方は否定している。

類を見ない薬害は、いま社会的な関心を集めている。本紙に情報提供した同社研究者の西山律(にしやま・りつ)さん(34)にも、注目が集まっている。開発元に所属する研究者でありながら、自らも被害者となった律さんを、「悲劇の内部告発者」として取り上げる報道が相次いだ。
常和製薬は律さんについて、内部資料を無断で社外に提供したとして、10日間の出勤停止処分を下した。報復だとの批判については、「告発そのものを理由とした処分ではない」としている。

 

4. 唐木一貫

ゐ臓の原因を見つけたのは、おれだ。
書斎でひとり、唐木はつぶやいた。今晩中に書面を確認する必要があるのに、どうしても目が滑ってしまう。
路地を見つけたのはおれだ。告発までの絵を描いたのもおれだ。それなのに、世間は律のことばかり持ち上げて、おれの名前すら出てこない。律の評価は当然だとわかっていても、この状況に自然とかつての構図を当てはめてしまう。
いや、妹があいつらと同じはずはない。唐木は頭を振り、弁護士が書いた準備書面の下書きを、指で追いながら読み上げた。

「第一、本件技術の開発経緯。本件技術は、原告代表者である唐木一貫が、大学院在籍中に行った基礎研究に端を発する……」

中学生の頃から、唐木はゲノムの研究者を目指していた。遺伝という運命に、科学の力で立ち向かう。唐木はそこにロマンを見た。ゲノム構造を研究する教授に師事し、大学院での6年間を研究に捧げ、寝る間も惜しんで実験に明け暮れた。
そうしてついに教授と確立したのが、ゲノムの一部を動かした際、その構造がどう変わるのかを予測する技術 —— 現在のゲノム空間地図の核となる技術のひとつだった。
だがいざ学術誌に掲載された論文には、唐木の名前はなかった。共著で提出したはずが、教授ひとりの成果となっていたのだ。唐木がそれを問いただすと、逆に教授は唐木のことを糾弾した。唐木が研究室の成果を、不正に主張していると申し立てたのだ。大学は教授の言い分を認め、唐木の居場所はなくなった。

「第二、本件技術の独自性。人間の空間認識を創薬に利用する本件技術は、前記基礎研究を発展させ、原告が独自に開発、実用化したものである……」

研究者の道を絶たれた唐木だったが、それでも情熱は消えなかった。会社を立ち上げ、地図開発に没頭した。当時はまだゲノムの折り畳み構造の重要性が今ほど認識されておらず、周囲からは冷ややかな目で見られた。だが唐木は諦めなかった。諦めるのが怖かった。ここでやめてしまったら、これまでの人生が否定されるような気がした。研究者時代の同僚に頭を下げ、慣れない営業を繰り返して数年、ついに転機が訪れた。

「第三、本件技術による成果。本件技術が最初の成果を上げたのは、関節リウマチ治療薬を開発していた製薬会社への試験導入である。担当研究者が、本件技術を用いて構造操作をした結果、炎症関連遺伝子を抑制する新たな構造が発見された。これにより、人間の空間認識を組み合わせることで、アルゴリズムのみでは膨大な計算量を要する構造を、効率的に発見できることが初めて実証された……」

唐木の人生を賭けた研究が、実った瞬間だった。
しかしそれすらも盗まれた。
守らなければ、奪われる。地図の海賊版が出回り始めたとき、唐木は思い知らされた。研究室での絶望を、二度と味わいたくない。そこで唐木は法務部長と二人三脚で、あらゆるコピー対策を繰り返した。ウォーターマークにフィンガープリンティング、難読化……だが盗人たちは、どんな網も潜り抜けてしまう。
そこで唐木は、とある罠を思いついた。地図の一部に、唐木にしかわからない印を仕込もうとしたのだ。開発中のバージョンに、夢中でいくつかの印をつけているうちに、しかし我に返った。自らの作品を守るため、不純物を混ぜるなんて本末転倒だ。唐木は思い直し、地図から印を削除した。
だが直後に出回った新たな海賊版から、続々とその印が見つかった。

「……第六、識別標識の一致。被告製品の座標118,492,378に存在する接触点は、原告の未公開版に一時的に付加され、公開版では削除された識別標識と位置及び形状において一致する。被告製品が原告の未公開版に依拠して作成されたことは明らかであり……」

未公開のバージョンにつけられた印。社内データの履歴を辿ると、そのバージョンにアクセス権限を有する人物が、唐木以外にもひとりだけいた。コピー対策の戦友、法務部長その人だった。
法務部長を追及すると、すぐにデータを社外に持ち出したことを認めた。訴訟手続きのために必要だったと言い張ったが、唐木はもう誰も信じられなかった。法務部長を解雇し、すべてのコピー対策をひとりで担当するようになった。

書面を一通り読み終わった唐木は、赤いマーカーで一文一文、直しを入れていく。表現が弱い。これでは十分に伝わらない。おれのつくった作品の価値は、こんなものではない。
研究であれ製品であれ、作品と呼ばれるものたちは、自分の費やしてきた時間そのものだと唐木は考えている。すなわちそれは、自分の差し出した命そのものだ。だから作品を奪われることには、まるで命を削られるような痛みがあった。
作業が一通り終わった頃には、書類は真っ赤に染まっていた。それでも満足できない唐木は台所へ行き、大鍋にたっぷりと水を入れ、パスタを4束放り込んだ。コンロのつまみを回したが、チチチと音がするばかりでなかなか点かない。唐木は低く唸りながら、床をドシドシと踏み鳴らした。
ようやく点火したコンロが、ゆっくりと湯を沸騰させていく。柔らかくなった麺が曲がり、絡まってもつれ、ひとつの塊となって、複雑な構造を形成していった。
ゲノム構造に関する論文について、問い詰めたときの教授の顔。あるいは内部データについて、追及したときの法務部長の顔。唐木はどちらの顔も忘れることがない。二人とも、驚いたように目を丸くしていた。まるで本当に、自分が正しいことをしていると、信じ込んでいるかのように。
タイマーが鳴る前に火を止め、トングでパスタをつかんだ。そのまま口へと運ぶ。小麦の香りが口に広がった。もう一口、さらに一口。麺を飲み込んでいくうちに、頭がくらくらとしてきた。血糖値が急上昇するような感覚が、裏切り者たちの顔を上書きしてくれる。唐木はコンロの前に立ったまま、ずるずると音を立てながら、パスタをすすり続けた。半分ほど食べ終わったところで、急に胃を押し返されるような苦しさを覚えた。唐木はうずくまり、身体を曲げてその場に嘔吐した。涙の滲んだ目で、吐き出した麺を見つめる。
最近の唐木は、食事のたびに胃に強烈な異物感を覚えていた。もちろん5センチしかないゐ臓が、胃を圧迫することなどありえない。改めてMRIを撮り直してみたが、医師の白山にも錯覚だと断言された。
だが落としたものを拾おうとして身を屈めたとき。あるいは夜に寝返りを打ったとき。日常のふとした瞬間に、ゐ臓の存在を感じた。ゐ臓が内側から膨らんでいって、最後は身体ごと破裂してしまうのではないか。そんな妄想に苛まれ、寝不足の日々が続いていた。
このままでは身体がもたない。白山に連絡しようと端末を握ったところで、ちょうど届いた通知をタップしてしまった。律からのメッセージがずらりと展開される。昨日から何度か連絡があったが見る気にならなかった。仕方なく内容を確認すると、何枚かの写真が添付されていた。
白黒の写真は、胎児のエコー画像のようだ。そのうちの一枚を見て、唐木はすぐにかけ直した。
「見た。たしかなのか?」
唐木が尋ねても、律はすすり泣くばかりだった。
「……まさか遺伝するとはな」
3Dエコーに混じった、胎児MRIの画像。そこには胎児の胃の隣に、小さな臓器が写っていた。何度も見たこの形を、見間違えるはずがない。
ゐ臓だった。胎児の体内にはゐ臓が遺伝していたのだ。だがそれだけではなかった。
「これは一体どういうことだ?」
胎児の身体には、ゐ臓の隣にもうひとつ同じ臓器が写っていた。ゐ臓は、ふたつあったのだ。
「増殖するのか?ありえない」
唐木は頭を掻きむしった。
「生殖細胞がどうなったら、そんなことが起きる?」
「産んでいいのかな」
律がつぶやく。
「いいに決まってるだろ」
唐木は即答した。
「ふたつあったところで、ゐ臓のサイズなら害はない」
「そういう問題じゃない!」
律が叫んだ。
「無事に産まれたとして、この子はどんな不安を抱えて生きていくの。わたしを恨む?」
答えられなかった。代わりに恐ろしい考えが唐木の頭を支配していた —— ゐ臓がもし、世代間で倍々に増えるとしたら。
「ねえ、大きくなったらこの子は、子を持つことをどう思うんだろ」
取り乱す妹に、唐木は後悔した。成果を横取りされたなどと考えていた自分は、なんと愚かだったのか。律はそんな人間ではない。むしろ幼い頃から、おれを信じすぎるくらいなのに。
しばらく無言の時間が続き、律が口を開いた。
「受精卵の空間地図をつくれないかな」
「受精卵の地図?」
唐突な申し出に唐木は困惑した。
「それならうちにもサンプルデータがあるが」
「ううん。わたし自身の、受精卵の地図」
律は続けた。
「この子の身体になにが起こったのかを、自分の目で確かめたいの」
「……つまり受精卵にゐ臓ができる瞬間を見たいのか?」
「特に初期分割のタイミングが、怪しいと思う」
「無理だ」
唐木はきっぱりと言った。
「ただの地図なら、血液の検体さえあればつくれる。だが受精卵の地図となると、胚そのものが必要だ」
律のお腹にいる胎児は、すでに成長してしまっている。その子の身体に何が起こったのか、遡って調べるためには、他の受精卵を見なければいけない。
「わかってるのか?胚を解体することになるんだぞ」
地図をつくるためには、細胞を破壊し、ゲノムを切り刻む必要がある。受精卵でその作業を行うことは、生まれるかもしれない命を、壊してしまうことを意味していた。
「すでに死んでいたら?」
律が静かに言った。
「発育を停止した胚をいくつか調べれば、どれかに決定的な瞬間が残っているかもしれないでしょう?」
「できなくはないが」
唐木は言い淀んだ。
「どうやってそんな数を用意するんだ?お前、ただでさえ不妊治療を受けてただろう……あ、そうか」
唐木はその意図にようやく気づいた。うん、と相槌が返ってくる。
「体外受精で、育たなかった受精卵がたくさんあるの。まだ病院で保管されていると思う」
なぜそこまで、と言いかけて唐木はやめた。増えながら受け継がれる臓器。ヤセリラの薬害は、もはや自分の身体だけの問題ではなくなった。この現象が行き着く先を確かめたいと、唐木は思うようになっていた。

 

5. 律

駅から徒歩20分、雑居ビルの一角に兄の会社のオフィスはあった。古びたエレベーターに乗り、ほとんど消えかかった4階のボタンを押す。ガタガタと揺れたのちに扉が開いて、冷たい空気が肌に触れた。造花の観葉植物がひとつだけ置かれた、簡素な無人受付のタッチパネルで名前を選ぶと、しばらくして兄が出てきた。
「洒落たオフィスじゃん。リノベしたの?」
廊下からはガラス張りの来客用会議室と、打ちっぱなしのコンクリートの壁が見えた。
「前に入居してたスタートアップの趣味だ。安く居抜きできたからな」
前を歩く兄が答えた。一歩を踏み出すたびに、靴底が悲鳴をあげるようにきゅうきゅう鳴っている。
「そういえば、家のリノベは順調か?」
「うーん、ぼちぼち。ラボはどこ?」
兄は壁のむこうを指差した。
「執務室の奥だ。ラボと言ってもちっぽけなもんだ。うちは地図屋だからな。大掛かりな装置が要る工程は、外に投げてる」
会議室を通り過ぎ、立ち入り禁止と書かれた扉を開くと、兄の書斎があった。
「ねえ、ここに住んでるの?」
つんとした匂いが漂ってきて、わたしは顔をしかめた。小綺麗な空間から一転して、そこら中に書類やらビニール袋やらが散乱している。床には布団まで敷いてあった。
「社員が減ってスペースが余ったんだ。台所もあるし、不便しない」
そう言うと兄は、難儀そうに足で布団を脇へやった。くたびれたワーキングチェアを差し出され、恐る恐る腰掛ける。奥には兄が台所と表現した、小さな給湯室のようなスペースが見えた。食生活が気になるが、確かめる勇気はない。
「お風呂は?」
「近くに銭湯がある」
壁際のラックを漁りながら兄は答えた。大量のケーブルが、蔦のように絡まって湧き出していた。あった、と言って兄は蔦の中から新品のデバイスを掘り出し、放り投げた。
「受精卵の地図はもうできてる。突貫工事だがな」
兄が足元のスイッチを起動すると、ハードディスクが唸りをあげた。
「1時間もあれば十分だろう。おれはコインランドリーに行ってくる」
「え、お兄ちゃんは入らないの。まだ見てないんでしょ?」
兄はぽかんと口を開いた。
「いや、そうだが。なんというか、プライバシーが」
脂肪の垂れ下がった下顎を、もごもご動かしている。
「わたし科学者だよ。そんなの気にしないって。ていうか地図の操作をしてもらわないと」
兄はそうか、と言って自分のぶんのデバイスを手に取り、床に座った。
「行くか」
兄に続いてわたしもデバイスを装着し、受精卵の空間地図へと入っていった。

《生成完了》
世界が紐になった。
真っ白な空間を、足元から伸びた紐が瞬く間に埋め尽くしていく。わたしは息を呑んだ。こうして自分の —— 正確には自分と明人の —— ゲノムに入るのは初めてだった。
「受け取った検体は、全部で7つ」
兄の声が聞こえる。地図には主観しか表示されないので、同時にログインしても兄の姿は見えない。それでもすこし安心した。
「分裂せず成長を止めた胚が2個。分裂は起きたものの、途中で失敗した胚が2個。そして最初の分裂を完了し、二細胞期で停止した胚が3個だ。それぞれを分解して、各胚が停止した時点の空間地図を復元した」
「動いてるのはなぜ?」
紐で覆われた空が、さっきからコマ送りのように、時折カクカクと動いていた。
「7つのスクリーンショットを繋ぎ合わせて、動的な地図にしてみたんだ。ゐ臓が増える瞬間を、見られるかと思ってな」
「なにそれ。大変だったんじゃない?」
細胞内のゲノムは、常にわずかに揺れ動いている。すべての景色を繋げるには、座標同士の正確な対応が必要なはずだ。
「大した仕事じゃない」
顔は見えないが、照れ隠しであることはわかった。
「共通部分はうちのシステムで補完できる。あとは間にどういう動きがあったかを、アルゴリズムに推測させるだけだ」
「ちょっとだけ、ひとりで散歩してもいい?」
わたしが言うと、兄はあとで合流しようと言い残して、どこかに去っていった。
なだらかな下り坂を歩く。灰色の道に、ところどころ白い光が街灯のように灯っていた。光は遺伝子のスイッチが起動している場所らしい。空間地図は本来カラフルなものだと聞いたが、ここは急ごしらえだからか、モノクロの景色が続いていた。物音ひとつしない空間は、なんだか夜の街を歩いているみたいで心地がいい。
壁に顔を近づけると、小さな粒がたくさん見えた。この壁にも空にも地面にも、街じゅうにわたしと明人の塩基配列が埋まっているのだ。わたしたちから半分ずつを受け継いだ末に、成長を止めてしまった卵。もし君たちが産まれていたら、どんなふうになったんだろうか。
道に記された座標を、数えながら歩いていく。ここを右、今度は左、つぎはまっすぐ。進むうちに、ビルのように屹立した紐の群れが見えた。その足元には小さな橋が架かっている。わたしはしゃがんで橋を見つめた。むかし画像で見て以来だった。仄かに光るその橋を撫で、
「ごめんね」
と語りかけた。
「そろそろいいか?」
兄の声がしたので、立ち上がってそれに応じる。
《座標を移動します》
景色が移り変わると、ねじ曲がった路地が目の前に現れた。
「ヤセリラのつくった路地だ」
兄が言った。路地の片端では、街灯が橙色に光っている。
「あの光が路地で目覚めた、ゐ臓をつくるスイッチだな。ここだけ目印をつけておいた」
白黒の世界に、橙の色が眩しい。あんなに小さな光が、わたしたちの生活を脅かしている。そのことが信じられないと同時に、案外そういうものなのかも、とわたしは思った。どんなに安定して見えるものも、きっとほんの小さな歪みで崩れてしまうのだ。大丈夫だよ、と囁く明人の姿が脳裏に浮かぶ。
「……うまくいってないんだ。リノベ」
ぽつりと言った瞬間、兄が叫んだ。
「見ろ!」
突然、街灯から橙色の光が分離し、宙へと浮かび上がった。光は蛍みたいにふわりふわりと、目の前を横切っていく。離れた地面へと着陸した光は、そこにもうひとつの橙色の街灯をつくった。振り返ると、元の場所にも橙色は灯ったままだ。わたしはふたつの灯りを見比べた。同じだった。
「コピーだ!」
兄がまた叫んだ。
「コピーして、離れた場所に入り込んだんだ。こんなことができるのは……」
頭の中に、また明人の顔が浮かんだ。フグを食べながら、たしか彼はこう言った。
—— 壊れた輪転機が、大量に埋まってるみたいな?
「トランスポゾンだ」
わたしはつぶやいた。コピー&ペーストを繰り返し、ゲノムを渡り歩くもの。
「ヤセリラは、トランスポゾンも一緒に開いたんだ」
「そんな偶然が……いや、ありうる。ゲノムの半分近くはトランスポゾン由来なんだから」
ぶつぶつと独り言を言う。集中したときの兄の癖だった。
「ヤセリラの路地の近くには、トランスポゾンもあった。それが受精卵の段階で活性化した……筋は通っている」
太古より暴走を繰り返したトランスポゾンは、普段は細胞によって厳重に封じ込められている。だが受精卵では、人間の身体をいちからつくるために、その規制が一時的に緩んでしまうのだ。
「……本来のコピー機能を取り戻したトランスポゾンは、ゐ臓のプログラムごと複製した」
兄は震えた声で言った。わたしは頷く。
「壊れた輪転機が、動き始めちゃったんだ」
「輪転機?」
兄が訊き返した刹那、目の前の路地が大きく揺れた。足元がガタガタと震えている。地響きは次第に大きくなり、わたしは咄嗟に壁に手をつこうとした。しかしあったはずの壁はすでにほどかれ、紐の束となって宙に浮かんでいた。
「はじまった」
兄が掠れた声で言った。
「受精卵の分裂だ」
ひときわ大きな揺れがした。遠くに見えていた毛糸玉の街がほどけ、猛烈な勢いでこちらに向かってくる。足元の道が垂直に立ち上がって、わたしは悲鳴をあげてうずくまった。
「ただの映像だ!」
兄の声は強張っていた。わかっていても、立ち上がることができない。
世界が展開していく。絡まりあう無数の道がほどけ、空が開いて地面が割れ、宙の一点へとするすると巻き取られて、さっきまでいたビル群も小さな橋も、ゐ臓をつくる橙色のふたつの光も天も地も、なにもかもすべてが引きずり込まれ、凝縮され、そしてねじ上げられていった。
長い鳴動が終わり、わたしは恐る恐る立ち上がった。街が消えて残った空間には、紐たちがねじ上げられてできた、巨大な染色体の塔の群れがそびえていた。
「きれい……」
思わず息が漏れた。塔たちは見渡す限り、遠くまで立ち並んでいる。
凝縮を終えた46本の塔は、やがて縦に引き裂かれていく。ふたつに分割され、再びほどけ、さっきの光景を逆再生するように、元の街へと編み直されていった。受精卵の最初の分割が、終わったのだった。
言葉が出なかった。ひとつの受精卵から始まった生命は、そこから37兆個になるまで、こんな複製を繰り返していくのだ。産まれることのなかった卵たちが、わたしに生命の奇跡を見せていた。
《終了します》
視界がブラックアウトして、デバイスを外す。視界に散らかった書斎が戻ってきた。
わたしはお腹に手を当てた。あの子たちの、あったはずの未来の先に、君がいるのだ。
ふう、とため息が聞こえ、視線を床に移した。兄もまた、なにかとてつもない神秘と出会ったような、恍惚とした表情を浮かべていた。

 

6. 唐木一貫

白山がホワイトボードに円を描いた。
「ゐ臓は遺伝する。ついでに倍増もする」
そう言って円から矢印を伸ばし、2つの円を付け加える。
「ばらつきはあるみたいだけど、基本的には子世代で2つ。孫世代で4つ、ひ孫世代では8つ」
増えていく円を唐木は眺めた。受精卵の地図に入ってから2ヶ月。海外の複数の研究機関からも、ゐ臓の倍増モデルを裏づける結果が出ていた。
「どこで限界がくる?」
唐木が尋ねると、白山はその場で計算を始めた。
「ゐ臓は5センチ。大きさが成長に比例するとしても……10個を超えると危ない。胎児が産まれられなくなってしまう」
「破裂するのか?」
白山は首を振った。
「その前に横隔膜が押し上げられて、肺の発育が妨げられるはずだ。先天性横隔膜ヘルニアみたいになって、呼吸できなくなる」
「10個だと玄孫世代……100年後くらいか」
「そうだね。だいぶ先の話だ」
ホワイトボードを消しながら言う。唐木は黙って、消えていく円たちを見つめた。
「じゃ、そろそろ見せようか」
手を叩いた白山は一度奥に引っ込み、両手に箱型の装置を抱えて戻ってきた。
「灌流装置さ。普段は臓器移植に使う」
卓上に置いた装置の蓋を開けると、ケースの中に淡い紅色の物体が沈んでいた。
「これが……」
唐木が目を見開いた。白山がにやりと笑う。
「ゐ臓だ」
本物のゐ臓が、目の前にあった。
唐木は生唾を飲み込む。切断された血管の断面には透明なチューブが2本ずつ差し込まれ、中を液体が循環していた。
「生きた検体はレアなんだ。わざわざ切る人もいないからね。病理ネットワークの順番待ちで、やっと回ってきた。胆嚢摘出のときに偶然見つかって、腫瘍の疑いで切除されたものらしい」
唐木は瞬きも忘れ、臓器を凝視した。ゐ臓は蛍光灯を反射するばかりで、ぴくりとも動かない。
「なんか食べさせてみる?」
白山はそう言うと、臓器の表面に迷いなく針を刺した。その瞬間、臓器がぴくりと縮むように動いたのを、唐木は見逃さなかった。
「pHは中性。胃酸は出てないってことだ。タンパク質を注入しても……」
白山はモニターを見ながら、針をより深くまで差し込んだ。血管が収縮して、紅色が一瞬白く抜けた。刺さった点を中心に、細かい皺が円状に寄る。先端につながったカテーテルから、液剤が注入されていった。
「なんの反応もない。胃粘膜でできてはいるけど、食べ物を消化するような胃じゃない」
「ああ、胃じゃない」
唐木が繰り返すと、針元から透明な液体が染み出した。
「粘液か?」
「そうだね。胃酸もなけりゃ、別に守るものもないのにな」
白山はそう言って針を抜いた。またわずかに筋組織が反応する。唐木はその動きに見入った。こいつはたしかに生きている。だが胃ではない。これまで見たこともない、まったく新しいなにか —— チチチ。頭のどこかで音がした。チチチ、チチチ ——
「一貫、大丈夫?」
白山に肩を揺さぶられ、唐木は我に返った。自分の手が装置にかかっていることに、そこで気づいた。慌てて手を引っ込めて、
「ちょっと疲れた」
と言った。白山が心配そうな顔をした。
「満足に食べられてないんだろう。外まで送るよ」
研究室を出て、病棟の廊下を歩く。夜中にもかかわらず、病院の待合室は混雑していた。
「ゐ臓の検査待ちさ。昼だけじゃMRIの台数が足らなくて、稼働を伸ばしている」
ゐ臓は、増えながら遺伝する。その事実が公にされると、これまで悲劇の告発者という物語に包まれていたゐ臓そのものが、世間の関心の的になった。自分やパートナーは大丈夫かと、不安を覚えた人々が検査へ殺到しているらしい。
「どこの病院もパンクしてる。実際、保有者がどんどん見つかっちゃってるからなあ」
白山は待合室を見渡しながら続けた。
「政府は検査への保険適用を検討してるらしい。勘弁してほしいよ。ますます受け皿が足りなくなる。いまでさえ、他の大事な検査が後回しになってるんだから」
外へ出たところで、若い男女が泣き喚く赤ん坊を必死にあやしていた。それを横目で見た白山が、思いついたように端末を取り出した。
「教えてくれたサイト、たまに見てるんだ」
端末には希少疾患のコミュニティの掲示板が表示されていた。前に調べて以来、すっかり存在も忘れていた。唐木は画面を覗き込んだ。

***

【相談】ゐ臓って付き合う前に言うべき?

1 匿名
アプリで知り合った人と付き合いそう。いつ言えばいい?
2 匿名
結婚の可能性があるなら早めに言うべき
3 匿名
なんで?病気ですらないのに
4 匿名
後から知らされたら隠されてたって思うでしょ
5 匿名
子どもつくらなきゃいいだけ
6 匿名
ていうか今はアプリにも申告欄あるよ。任意だけど
7 匿名
俺は就活で申告したら落とされた
8 匿名
それは普通に落ちただけだろ
9 匿名
そうやって全部気のせいにされる

***

「最近こんなスレッドばかり立ってる」
端末をしまいながら、白山は顔をしかめた。
「子世代くらいなら、医学的にはなんの問題もないのにな。馬鹿らしい」
「ああ、馬鹿らしい」
唐木は頷き、思い出したように口を開いた。
「そうだ、例の件……」
「はいはい、わかってるよ」
白山は苦笑いする。
「どうせ他に頼める人もいないんだろう」
「頼るべきは友だな」
よく言うよ、と手を振って白山は病院へと戻っていった。まだなにかの感触が残っているような気がして、唐木は指を服でぬぐった。

Ectopic Gastric Organogenesis Syndrome迷入性胃器官発生症、通称EGOSについて、『特定』と『根絶』の両面から対応を急いでおります」
記者会見で、WHOの事務局長は力強く述べた。
「『特定』とはEGOSの保有者を特定することです。現在のところ、保有者数は全世界で数万人程度と見積もられており……」
適当言うな、と画面に向かって唐木は毒づいた。潜在的な保有者数は、ひょっとしたら桁の違う規模かもしれない。
無害で無症状なゐ臓の影響範囲を、WHOすら把握しきれていないことを唐木は知っていた。WHOの主導するタスクフォースには、唐木も招聘されていたからだ。表向きは地図の専門家として、ということだったが、唐木自身がゐ臓の当事者であること、それから告発者として有名になった律の兄であることが、人選に影響したのは明らかだった。
「その上で『根絶』とは、EGOSを根本治療する新薬や、遺伝を防ぐ新薬の開発です。こちらも製薬各社と連携しながら……」
記者会見の音声を聞きながら、唐木は別のモニターでチャット画面を開いた。タスクフォースの参加者たちが、会見について話していた。
【新薬だって簡単じゃない】
自動翻訳された投稿からプロフィールを辿ると、著名なアメリカの分子生物学者だった。
【DNAに組み込まれたIzoを治すには、起きた遺伝子を再び眠らせる必要がある】
最初に見つかったのが日本ということで、海外でも「ゐ臓」の名が通っているらしい。投稿に返信がついていく。
【そう思う。ゲノムはネットワークみたいなもんだし、正常な遺伝子も巻き込んでしまうリスクが高い】
同意を示す親指の絵文字が相次いで押された。唐木もそれに倣う。
【治療薬じゃなくて、遺伝を防ぐ薬はどうなんだ?】
【同じ話だ】
【じゃあゲノムを直接編集するのは?】
【遺伝に関するCRISPRは厳しく規制されてる。倫理的な問題が大きすぎるから】
【そもそも、創薬を1年でやろうとするのが馬鹿げてるよ。本来10年は必要なプロジェクトだ】
【別に10年かかってもいいだろ。100年は問題ないんだから】
【それこそがIzoの思う壺なんじゃないか?俺たちを怠惰にするっていう】
【Izoじゃなくて、Tokiwaの企みだったりして】
【どっちにしろ、よくできたシステムだ。無害な顔をして忍び込んで、静かに増えていくなんて】
また親指の絵文字を押してしまって、慌てて取り消した。チチチ、とあの音がまたどこかで聞こえた気がした。
記者会見が終わり、チャットを閉じようとしたところで、ひとつの投稿に目が留まった。
【Izoをうむのは、ヤセリラだけじゃないと思う】
中東の研究者による投稿は、すぐに別の議論に流されてしまった。唐木はその書き込みが気になって、投稿者に直接メッセージを送った。
【ヤセリラだけじゃないって、どういうことだ?】
タイピング中を意味するエフェクトが表示されては消えた。ようやく届いた返信を、唐木は訝しんだ。
【わたしの国では、ヤセリラが承認されていない。それなのにIzoの保有者が何名も報告されているんだ】

 

7. 律

蛇口に手をかざすと、水が自動で流れ始めた。手を傾けると、水はぴたりと止まる。
「これなら小さくても、自分で洗えるかな」
洗面台の仕様を確かめながらわたしは言った。たしかに、と隣で明人が同意した。
世間ではゐ臓が連日話題らしいが、ニュースから距離を置いてしまえば日常は案外と変わらない。カウンセラーに勧められて、SNSも控えるようになった。
洗面台の下のキャビネットを開くと、広い収納スペースがあった。
「便利そうだけど、高さがあるぶん、子どもが使うには踏み台が必要だよね。だとしたら、結局ここに踏み台をしまうことになるか」
洗面ボウルの数に鏡の開き方、化粧スペースの有無。洗面台ひとつで、こんなにも選ぶことが多いとは知らなかった。やっぱりショールームまで来てよかった。こうして家のことを考えていれば、ゐ臓の存在も忘れられる。
「ボウルはふたつあったほうが、並んで使えていいよね。朝とかバタバタだろうし。どう思う?」
「たしかにね」
「どう思うか訊いてるんだけど」
今日何度目かの「たしかに」に、うんざりして思わず語気を強めた。明人はハの字の眉をさらに下げる。
「言ったつもりだけど」
「わたしのを繰り返してるだけじゃん」
明人は頭を掻き、わたしの肩に手を置いた。
「下にスタバあったろう。ちょっと休んでフラペチーノでもどう?律の好きな苺のやつ」
「もうシーズン終わったよ」
その手を振り解いて歩き出す。ショールームの奥へとずんずん進みながら、ほとほと自分に嫌気がさしていた。なにがゐ臓のことを忘れられる、だ。わたしが望んでいるのは、まるで逆のことではないか。
受精卵の地図に入った夜、わたしは明人に尋ねた。本当に産むべきだろうか、と。ゐ臓がふたつあるとわかっている子を、産む責任を取れるのか、と。
まるで試すような、意地の悪い質問だったと思う。明人は思った通り、大丈夫だよと微笑んだ。カウンセラーも微笑んだ。医者も微笑んだ。微笑みを向けられるたび、どうしても苛立ちが込み上げてきた。そうして気づいた。わたしは慰めてほしいのではなく、同じ不安を相手にも押しつけたいだけだ。そんな幼稚な人間が、果たして親になれるのか。
一番大きな洗面台の前で立ち止まった。両サイドの鏡を開いて、中を覗き込んだ。合わせ鏡の世界で、わたしがどこまでも増えていった。

家に帰ると、一通の封筒が届いていた。銀行名の記された書類に嫌な予感がした。開けてみると、住宅ローンの審査結果だった。
【本審査の結果、誠に恐縮ではございますが、ご希望に沿いかねることとなりました】
理由は書かれていない。事前審査は問題なく通ったはずだ。唯一の違いは告知事項として、ゐ臓の申告を求められたことだった。
ゐ臓の保有者だからといって、あからさまな悪意を受けたことはない。ネットの誹謗中傷も、見なければ問題ない。それでもこうして、気づかぬうちに遠ざけられていくのかもしれない。
このことを明人に告げると、すこし顔を曇らせただけで、すぐに切り替えたように励ましてきた。わたしは声を荒げてしまう。
「どうせ家のことなんてどうでもいいんでしょ?この子のことだってそう」
「ちょっと落ち着いて」
明人はなだめるように言った。
「僕はなにも押しつけたくないだけだよ」
「押しつけてないけど、引き受けてもいない」
うつむいて拳を握り締めた。明人が悪くないのはわかっている。だからこそ自分が惨めに思えた。このままでは、わたしですら、わたしの苦しみを否定してしまう。

翌週、いつものファミレスで落ち合った兄は、以前よりすこし痩せたように見えた。目の隈も深くなっていたが、瞳は依然として爛々と輝いている。ドリンクバーだけ注文したあと、板ガムを4枚口に入れてから兄は言った。
「ゐ臓をつくったのはヤセリラだけじゃない」
くちゃくちゃと大きな音を立てる。そばを通った女性が露骨に眉をひそめたが、兄は気づいてもいない。
「中東の研究者から連絡が来たのが最初だった。そいつの国ではヤセリラが承認されていないのに、ゐ臓の保有者がいるというんだ」
そう言ってガムをもう4枚取り出す。
「四って数字、好きだよね」
「おれのラッキーナンバーだ」
縁起わる、とわたしはつぶやく。
「……で、おおかたヤセリラを個人輸入しただけだろうと、そのときは思った。だがなんだか引っかかって、ネットのアーカイブを調べてみたんだ。あれだ、お前にも教えた希少疾患のコミュニティ。古い掲示板を掘り起こしていたら、見つけたんだ」
そう言って画面の割れたデバイスを見せてくる。そこにはとある書き込みがあった。

***

254 匿名
人間ドックで胃の隣にもうひとつ、袋のようなものがあると言われました。悪いものではないとのことです。でも気味が悪くて。どなたか同じ症状の方いませんか

***

「これって」
ああ、と兄が低い声を出した。
「ヤセリラの発売よりも、いやヤセリラの臨床試験よりも、ずっと前の投稿だ」
身体の力が抜けた。なんとなくそんな気がしてはいた。ヤセリラだけにしては、保有者の年齢も地域も広すぎる。でもじゃあ一体、なにがゐ臓を生んだのか。
「ヤセリラが関係あるのは間違いない。常和も認めているしな。きっと他にも、同じ副作用を起こした薬があるんだ。しかしどうやって調べるか」
兄はしゅうしゅうと鼻息を立てながら、まくし立てる。
「薬にはなんらかの共通項があるはずだ。成分なのか開発工程なのか。一番怪しいのは標的座標だ。似た場所を狙ったから、似た症状が起きた。だが常和も具体的な座標はまだ隠している。裁判で出てくるにしても時間がかかる。クソどもが」
そう言って兄は卓上の紙ナプキンを手に取り、ガムの塊を勢いよく吐き出した。黄色い歯がむき出しになり、ナプキンへと透明な糸を引いた。その姿を見て、わたしはすこしほっとする。
幼い頃から、歳の離れた兄のあとをついて回る子だったらしい。シングルマザーの母親は仕事で忙しくて、ほとんど家にいなかったから、兄が父親代わりだった。年齢は一回り以上違うけど、わたしと兄はよく似ていた。太りやすい体質とか、生き物が好きなところとか。生まれつき歯が黄色いところとか。
エナメル質形成不全は、歯の表面を覆うエナメル質がうまくつくられない、遺伝性の症状だ。顔も知らない父から受け継いだ症状は、妹のわたしにより濃く現れた。
子どもの頃は黄ばんだ歯が汚いと、よく同級生にからかわれたものだ。みんなの前で給食を食べられなくなって、毎晩血が出るまで歯を磨いた。兄はそんなわたしの隣で、狭い洗面台の前で身を寄せ合って、いつまでも並んで歯を磨いてくれた。落ちることのない黄ばみのことも、それを笑う人たちのことも、一緒になって怒ってくれた。
「おれが必ず突き止めてやる。せめて常和の創薬地図に、もう一度入れれば……」
目の前で怒り続ける兄は、かつての姿を彷彿とさせた。そのことが嬉しかった。どれだけわたしが遠ざけられても、どれだけ狭い洗面台でも、兄はいつも並んでくれる。
「入れるよ」
ストローをかき混ぜながら言うと、兄はぽかんと口を開けた。
「ベンダー用のアカウントを、同僚に頼んで再申請してもらった。来週には通るはず」
「そんなことできるのか」
「地図の管轄が、調査のために薬事部にうつったんだ。厚労省に色々説明しなきゃいけないらしくて。開発担当がデータを消してないか、ベンダーに検証してもらうべきだよねって言って」
「……大丈夫なのか?せっかく会社に残れたのに」
「あとで偉い人になんか言われるかもだけど。どうせもうすぐ産休に入るし」
兄は慌てて荷物をかき集め、どたばたと駆けていった。わたしは時間をかけてルイボスティーを飲んだあと、ファミレスの外へ出た。大きくのびをする。梅雨の合間の晴天だった。明人に通話をかけ、しばらく別々に暮らそうと告げた。

 

8. 唐木一貫

《ベンダー権限を認証しました。創薬地図にログインします》
常和の地図に入るのは、5ヶ月前に追い出されて以来だった。あのときと同じ道を、唐木は再び歩く。ヤセリラの川を下っていくにつれ、胸騒ぎが高まってきた。なにかを見落としている。地図に入ったときからそう感じていた。
ゐ臓の路地に到着し、周囲を調べる。唐木の権限では、ヤセリラの具体的な標的座標まではわからない。だがこの近くに本来狙っていた場所があるはずだ。川の流れの速いところを見極め、シミュレーションの軌跡を注意深く観察しながら、薬の意図を読み取っていく。そうやって唐木が当たりをつけたのが、地面の真下だった。この裏側になにかがある。紐と紐の間に手を突っ込み、持ち上げたとき、唐木は隙間から見えた景色に愕然とした。
見えたのは地味な一本の道だった。ゐ臓の路地の、ちょうど裏側にも路地が生えていたのだ。だがこれは —— この「裏路地」は、存在してはいけない道だ。
唐木はすぐに現在地を記録し、アカウントを切り替えて自分の個人地図に入った。やはりそうだ。この裏路地は、おれのゲノムには存在しない。いや恐らく地球上の、どんな人間の体内にも存在してはいない。
再び常和の創薬地図に戻った唐木は、地面に腕を突っ込んでこじ開けた。潜るようにそのまま裏側に回り込んで、裏路地の上に立つ。ヤセリラの粒子の川が、滝のように勢いよく注ぎ込んでいた。間違いない。ヤセリラはこの路地を標的としたのだ。唐木は四つん這いになって、両手で路地を撫で回した。
この路地は、人間には存在しない。にもかかわらず、唐木はこの路地のことをよく知っていた。這いつくばって移動するうち、路地に浅い窪みがあることが地形データに表示される。唐木は祈るように窪みの数を数えた。1つ、2つ、3つ……4つ。ゲノムを構成する塩基の種類の数。生命を記述するための記号の数 —— おれのラッキーナンバー。
これは、おれがつくった路地だ。
足元が崩れていくような感覚を覚えた。頭の中に、生涯忘れることのない顔が浮かんでくる。海賊業者へのデータ流出を問い詰められて、目を丸くする法務部長の顔が。
「トラップストリート」
唐木はつぶやいた。
そのアイデアを思いついたきっかけは、たまたま観た報道番組だった。BBCの調査によれば、ロンドンの道路地図には、100本以上の架空の道が描かれているという。もし地図を無断複製された際、この道が記載されていれば、複製者は言い逃れができない。文字通り罠の道だ。道路地図においてむかしから使われる、伝統的なコピー対策の名を、トラップストリートと呼ぶ。
この最もアナログで効果的な罠を、唐木は踏襲することにした。海賊版が出回り始めた10年以上前、当時開発中だったバージョンに、いくつもの架空の路地を仕込んだのだ。路地には唐木にしかわからない印 —— 4の数字を刻み込んだ。そのうちの一本が、目の前にある裏路地だった。
呼吸が荒くなってきた。くらくらと目眩がする。
コピー対策とはいえ、嘘を自らの作品に忍ばせたことは、唐木にとって職業人生の汚点だった。皮肉にもその罠が機能し、法務部長の解雇につながったあとも、二度と同じことはしまいと誓った。だがそのときすでに、トラップストリートは広まってしまっていた。
落ち着け、と自分に言い聞かせながら、唐木は裏路地をわたる。
「ひとつずつ整理しよう」
あるはずのない道の上で、独り言をつぶやきながら自問自答する。
「まずここにトラップストリートがあるのはなぜだ?簡単だ。常和の調達した地図の中に、海賊版由来のものが混ざっていたからだ」
製薬会社が創薬地図をつくるには、何千人分もの個人地図の学習データが必要だ。おおかた費用削減のために、安価なデータセットを学習元として混ぜ込んだのだろう。
そしてそのデータセットに、海賊版をベースとしてつくられた地図が、大量に含まれていたとしたら。アルゴリズムはトラップストリートを共通項として —— 実在の路地として判断するはずだ。そうやって完成したこの創薬地図にも、トラップストリートが反映された。
「とすると、隠蔽の理由は別だったのか」
唐木は納得した。常和製薬は記者会見で、薬害の隠蔽を頑なに否定していた。あれは事実だったのではないか。つまり常和が唐木を地図から追放したのは、薬害を隠蔽するためではなく、海賊版のことを知られたくなかったからではないか?
「いや、常和の内情なんてどうでもいい」
唐木は頭を振った。重要なのは、なぜここにトラップストリートがあるのか、という原因ではない。ここにトラップストリートがあると何が起こるのか、という結果のほうだ。
「考えろ。最悪の想像をしてみるんだ」
唐木は足元を睨んだ。ヤセリラの川が渦を巻き、トラップストリートの両端を蛇のように締めつけていた。
「常和はトラップストリートを見て、実在する路地だと思い込んだ。それでこの嘘の路地を、標的とする薬をつくった。そうだ。存在しない接点を、固定しようとしたんだ」
この架空の路地を固定すれば、満腹感を長引かせられると、常和は判断したのではないか。
「そしたらなにが起こった?この嘘の路地を標的にして、何が生まれた?」
背筋に冷たいものが走った。動悸が止まらなかった。耐えられなくなって、唐木はデバイスを放り投げた。椅子から立ち上がって布団の周りをぐるぐると走り、書斎を飛び出して、小綺麗なオフィスを猛然と駆け抜けた。視界の端で、社員が怪訝な顔をしているのが見えた。無人受付を通り抜けて、そのまま雑居ビルの非常階段を駆け降りた。膝の関節が鈍く痛み、背中から汗が吹き出して、息も絶え絶えに地上まで降りた。外は初夏の日差しが眩しかった。足が体重を支えきれなくなり、えずきながら道路に座り込んだ。
「……ヤセリラが狙った先には、実際はなにもなかった」
ようやく息が整ってきたところで、唐木は思考を再開させた。
「その結果ヤセリラは、なにをしたか?」
路地を固定させようとする作用は、離れた区間同士を無理矢理に引き寄せた。それで満腹感を長引かせる当初の目的は、強引にでも達成されたのだろう。だが過剰な変形の代償は大きかった。周囲のゲノムは大きくねじ曲がり、その影響で裏側に新しい路地ができてしまった —— ゐ臓を生み出し、トランスポゾンを開いた路地が。
「嘘の路地が、本当になってしまった」
全身が粟立っていた。視界が歪んでいく。
「おれのトラップストリートが、ゐ臓をつくったんだ」
自転車のベルが鳴った。唐木を避けた電動式のママチャリが、目の前を通り過ぎていく。チャイルドシートに乗せられた子どもと目が合った。
トラップストリートを仕込んだのは、地図を守るための正義だった。悪いのは地図を奪った連中であり、確認もせずに薬をつくった製薬会社だ。頭ではそう思っていても、善悪を超えた一筋の因果が、唐木の身体を貫いた。
すべての始まりは、おれにあった。
いまにも叫び出しそうになりながら、唐木はふらふらと立ち上がり、自分の身体を強く抱きしめた。口をぱくぱくさせて周囲を見渡す。ママチャリの後ろ姿が遠くに見えた。後ろに乗った子どもが、まだこちらを見つめていた。舗装されたアスファルトを走り、建設中のマンションの角を曲がっていく。
地図とは世界の基準だ。単なる薬害ならその薬を止めればいい。だが薬をつくるための、基準自体が間違っていたとしたら。一体、唐木の地図からいくつの海賊版が生まれ、そこからいくつの薬が、そしていくつのゐ臓が生まれたのか。
かつて自分が描いた道が、仮想空間を飛び出して地上に降り立ち、世界中の街へと伸びていく。頭に浮かんだ途方もない景色に圧倒され、唐木はいつまでもその場に立ち尽くした。

 

9. 律

手のひらに人差し指を添えると、小さな手が握り返した。わたしはその拳を、もう片方の手で上から包み込む。
8月の第一週。3890グラムの、ちょっと大きめの赤ちゃんが無事産まれた。元気に泣き叫んでは、必死におっぱいに吸いついてくる。まだ十分に目も見えないはずなのに、生きようとする本能の強さに感心してしまう。
「WHOが、あそこまで呑気な組織だとは思わなかった」
眠りに落ちた子の隣で、汗だくの兄が憤慨していた。
「治療薬も遺伝を防ぐ薬も、どっちもすぐにはつくれない。重要なのは倍化を止めることなんだ。倍化さえ止められたら、遺伝したって問題ない」
子を気遣ってか、ささやき声でぶつぶつと続ける。
「しかも倍化を止めるだけなら、トランスポゾンの働きを抑えるだけでいい。よっぽど簡単だ」
「そう提案してみたら?」
「何度もした」
兄は舌打ちした。
「倍化だけを防ぐというのは、遺伝は許すということだ。それをなかなか認められないらしい。世論に怯えてやがる」
WHOに世論。狭い病室で過ごしていると、まるで遠い星の話に聞こえる。
「参加者に有名な疫学者のジジイがいるんだがな。なんて言ったと思う?遺伝させるなら、ゐ臓の保有者に開示義務を課すべきだとよ」
兄は怒る。怒り続ける。
「歴史を習ったことがないのか?そんなことをすれば、どんな……」
こちらを見て、はっとしたように口をつぐんだ。
「熱くなった」
いいよ、とわたしは笑った。
「なんだかわからないものは、みんなとりあえず遠ざけたいんだよ」
お兄ちゃん以外は、と心の中で思う。別居を始めたと兄に告げたとき、入院の準備から退院の手配まで、全部ひとりで率先してくれた。
「でもそれじゃだめだ。食っていいか?」
見舞いに持ってきた和菓子の箱を、自分で開けながら兄は続ける。
「ゐ臓のひとつやふたつ、当たり前の社会になるべきだ。生まれつき指が6本のやつもいれば、肋骨の数が多いやつもいる。胃がふたつあったところで、なんだというんだ」
口を大きく開けて、豆大福を丸ごと放り込んだ。
「そういえば、常和の地図には入った?」
わたしが尋ねると、
「ん?ああ」
兄は一拍置いてから、
「目新しいものはなかった」
咀嚼しながらモゴモゴと言った。嘘だ、とわたしは直感した。
兄の執念は並大抵ではない。やると決めたらとことんやる。ゐ臓の真相を突き止めてやると言ったのなら、なにかわかるまで進み続けるはずだ。なのに今や怒りの矛先が、WHOにすり替わっていた。
「呑気なWHOも、保有者が増えれば態度を改めるだろう。そのタイミングで、絶対に倍化抑制策を通してやる」
考えられる理由はひとつ。恐らく兄は、ゐ臓の真因にすでに辿り着いてる。それをなんらかの理由で、隠そうとしている ——
「おれにしかできないことだ」
兄はそう言ってふたつめの大福にかぶりついた。白い粉が、口の端からぽろぽろとこぼれた。
「ひとつちょうだい」
わたしは手を差し出してせがんだ。隠すなら追及しまい、と苺大福を受け取りながら誓う。
いまのお兄ちゃんこそが、わたしの望んでいた姿なのだから。

律ちゃん、歯磨きしてる?
クラスの女の子に、汚いものを見るような目をされた。泣いて帰ったわたしに、兄は一枚の画像を見せた。白黒の景色を指差して、これがゲノムだと兄は言った。
「のっぽの塔の足元に、小さな橋がかかってるだろう?これが歯を黄色くしている原因だ。これはおれのだけど、律の身体にも同じ橋がある」
にっと口を開けて兄は笑った。
「いま、ゲノムの研究をしている。律の歯もおれが治してやる」
結局、歯が生え変わるまでには間に合わなくて、大人になってから治療を受けた。それでもわたしは、自分の歯のことなんてそっちのけで、研究に耽る兄のほうがかっこいいと思った。同じ大学に進み、製薬会社で働き始めたのも、兄の影響だった。
だが研究室での騒動以降、兄は変わってしまった。あとから大学で聞いた噂によれば、兄の担当教授は、論文は自分の成果だと本気で信じ切っていたらしい。二人の間にどんな齟齬があったのかはわからない。いずれにせよ純粋な兄は、そのことで深く傷ついてしまった。自分のつくったものを作品と呼ぶようになり、ぶくぶくと太っていった。
それでヤセリラを、兄に勧めた。
ヤセリラの開発記録を見つけたのは、2年前のことだ。社内データベースで別の資料を探していて偶然ヒットした。前に自分が飲んでいたこともあって、なんとなく数値を眺めてみた。すると小さな引っかかりを覚えた。統計上はノイズとして処理されていて、たしかに誤差の範囲にも思える。心配ないとは思いつつ、不妊治療への影響が頭によぎった。それで兄にそれとなく相談してみた。
「社内で開発してる薬があって。ゲノム構造の記録になんか引っかかるの。ノイズとして処理されてるんだけど、お兄ちゃんならわかるかもって……」
「だったらノイズだろ」
通話の向こうから聞こえた声に、わたしはびくりとした。冷ややかな声は、まるで兄とは別人のようだった。
「今日も徹夜なんだ。切っていいか?」
そんなふうにあしらわれたのは初めてのことで、わたしは呆然とした。仕事のふりをしたからだろうか。わたしの飲んだ薬だと正直に言えば、親身になってくれただろうか?確かめる勇気はなかった。そのときに思いついたのだ。兄自身もヤセリラを飲めば、データに興味を持ってくれるのではないか、と。
ちょうど兄の暴食を心配していたところだ。わたしも飲んだからと、ためしに紹介してみよう。すでに認可されている薬だし、どうせノイズの中身も大したものではない。
まさかそれが、ゐ臓をつくるなんて思いもしなかった。最初にファミレスに呼び出されたとき、本当は謝ろうと思っていた。でも兄はわたしが勧めたことなど一言も責めず、薬害の証拠を掴んでやると息巻いていた。そのときに思った。むかしのお兄ちゃんが、帰ってきてくれた。

子がふえんと泣いた。精一杯の泣き声で、存在を世界に示している。
抱っこしてみてよ、とわたしは兄に頼んだ。兄は逡巡したのち、太い両腕を子の背中に差し込んで、恐る恐る抱き上げた。そのまま微動せず固まったものだから、思わず吹き出してしまった。
兄がゐ臓の真因を隠しているのなら、きっとなにか理由があるはずだ。ひょっとしたら兄自身が関わってるのかもしれない。でもそれを問いただすことで、邪魔をするのは避けたかった。評価や功績といった外側の尺度は、兄の純真さを曇らせてしまう。だからこそ、記者の友人に取材を受けたときも、兄の関与はあえて伏せていた。
「よくぞ産まれた」
そう言って兄は鼻をすすった。子を抱いて直立不動のまま、えぐえぐと嗚咽しはじめる。大粒の涙をぼたぼた流しながら、小さなお腹に頬をすり寄せた。
この人がいつも並んで歯を磨いてくれる、ママのヒーローなんだよ。わたしは心の中で、子どもにそう語りかけた。兄に抱かれた子は、いつの間にか眠ってしまっていた。

兄が帰ったあと、子をベッドに置いて隣に腰掛けた。窓辺に置かれたコップには、一輪の向日葵が挿してある。明人が持ってきたものだった。
一度だけ面会に訪れた彼は、大きな花束を抱えて来て、生花はお断りしているんですと看護師さんにたしなめられていた。赤ちゃんに会った明人は、目尻を下げて嬉しそうに抱き上げ、「よかったね」とわたしに言った。うん、とわたしは頷いて、花束から一輪だけを受け取った。

外の景色を眺めているうちに、夏の日差しが雲に隠れた。病室がすこし暗くなって、窓ガラスに子が映った。すこし垂れ下がった優しそうな眉毛は、明人とそっくりだ。
「ちゃんと継いじゃって」
わたしの独り言に反応するように、子は眠ったままあくびをした。
「本当、よくぞきてくれたね」
この小さく開いた口に、どんな色の歯が生えようとも。
産まれなかった受精卵たちの中で、わたしは生命の運動を見た。わたしと明人を半分ずつ受け継いだ細胞が、気が遠くなるほどの分裂を繰り返して、君はここまでやってきたのだ。
子のお腹に手を当てた。寝息に合わせて、萎んではまた膨らんでいた。それだけで十分だった。
子の姿が映った窓を開けると、生ぬるい風が吹き込んできて、向日葵を揺らした。

 

10. 唐木一貫

アル=マダール通信(ドーハ)8月21日 抄訳版

EGOSの保有者、最大で800万人に WHOは倍化抑制を最優先へ

世界保健機関(WHO)は21日、EGOS(迷入性胃器官発生症)との関連が確認された肥満治療薬が5種類に増えたと発表した。新たに対象となったのは米国の「タルモレスタット」やインドの「デロメチン」など。これによりEGOSの保有者は、全世界で最大800万人に達する可能性があるという。これを受け一部の国では、入国時に申告義務を課す動きも出ている。

WHOは各薬に共通する原因を特定するため、製薬各社に標的座標の提出を求めた。しかし企業側は、国際協定で保護された知的財産に当たるとして開示を拒否。強制開示には各国での法的手続きが必要となり、原因調査は長期化する見通しだ。

また推定保有者数の急拡大を受け、WHOは従来の方針を転換。次世代で器官数が倍増する現象を、より緊急性の高い脅威と判断し、今後は倍化抑制薬の開発を最優先すると決定した。今週開かれる会合では、その研究体制が協議される見込みだ。

唐木が書斎から会議に入ると、10人ほどの顔が画面に並んだ。左下には蛇の巻きついた医神アスクレピオスの杖 —— WHOのロゴが表示されている。
「倍化抑制薬をつくるためには、まず幅広い保有者のデータを収集し、トランスポゾンの位置と構造を特定する必要が……」
喋っているのは、MITの分子生物学者か。途中参加の唐木はミュートにしたまま、ほかの参加者を素早くチェックする。大手製薬会社の幹部に、オックスフォードの法学者、北京大の進化生物学者と、そうそうたる面子が集まっていた。
「薬の流通までにどれくらいかかる?」
割り込んで尋ねた黒人女性の顔を見て、唐木はにやりとした。今回の議長はWHOの事務局長補、アマラ・オビオマ。タスクフォースの人事権も持つ大物だ。
「5年は見込んだほうがいいかと」
製薬会社の男が答えると、オビオマがため息をついた。
「しかしですね」
老齢の進化生物学者が、白い髭を撫でながら口を挟んだ。
「そもそも危険水域に達するまで、まだ四世代あります。いまの推定保有者数も、人口動態に影響を与えるには程遠い」
その推定が甘いのだ、と唐木は思う。原因は地図にあるのだから、ゐ臓と関連する薬がこれからも見つかるだろう。とはいえその事実を知る者は、おれ以外にいない。
トラップストリートのことがばれるまで、まだ当分かかると唐木は踏んでいた。たとえ地図がおかしいと気づいても、そこからが長い。海賊版を混ぜ込んだことを、製薬各社は認めようとしないだろう。正規の地図を使ったと主張している限りは、地図会社に責任を押しつけられるからだ。
唐木にとって都合のよい展開だった。一刻を争う状況で、足止めを食らいたくない。いずれ明らかになるとしても、いまではない。
「社会制度の整備にも時間がかかる。仰る通り、この問題は長期的な視点で考えるべきです」
法学者が言って、唐木は鼻を鳴らした。所詮こいつらにとってゐ臓は他人事。やはり頼りになるのは彼女だけだ。唐木は初めて挙手ボタンを押し、簡単な自己紹介をした。自動翻訳のラグがあったあと、値踏みするような沈黙が流れてきた。
「たしかに時間はかかる。だからと言って悠長に構えていていいはずはない。その間にもゐ臓の保有者は増え続ける。社会の分断が広がっていく」
そう言いながら律の子を思い出す。新生児の身体は、驚くほど小さかった。でもあの身体のなかに、ゐ臓がふたつも入っているのだ。
「もっと短期的な成果が必要だ。それがあって初めて、いずれ倍化は止められるのだと、だからいまゐ臓があっても心配ないのだと、そう示せる」
「どんな成果を?」
議長のオビオマが乗り出してきた。よし、と唐木は心の中で思う。引き出しから試験管を取り出し、カメラに向けた。
「血だ」
律と病院にお願いして、採取させてもらった新生児の血だった。
「EGOSの子世代の血。おれは地図屋だ。だからこの子の地図を描こうと思う」
沈黙にも構わず、唐木は弁を振るう。
「倍化抑制薬の開発には、ゐ臓保有者の地図が必要だ。トランスポゾンはゲノム中を動き回る。空間内でシミュレーションを繰り返さねば……」
「その地図を、あなたの会社に発注しろと?」
製薬会社の男が割り込んできた。
「金なんて要らない!」
唐木は拳を机に叩きつけた。
「地図は無料で公開する。どんどんおれの地図をコピーしてもらって構わない」
「だとしても、創薬地図には大量の学習データが必要でしょう」
「他の地図会社にも協力してもらえばいい。そのための協力を、我が社は惜しまない。なんなら、地図づくりのノウハウも無償提供しよう」
男はまるで、不思議な生き物でも見つけたような顔をした。しばし場が静まり返り、オビオマが口を開いた。
「なぜそこまで?」
「当事者だからだ。おれも、妹も、妹の子も」
病室で赤ん坊を持ち上げたとき、ゐ臓がこの子に遺伝したのだという事実に、はっきりとした実感が伴った。その瞬間、頭の片隅でチチチと鳴り続けていたコンロがついに着火した。火は燃え上がり、たちまち大鍋の湯を沸騰させ、ゲノムのパスタが洪水のように溢れ出した。気づけば唐木は病室で涙を流していた。受精卵に入ったときも、白山の病院でゐ臓を見たときも、その感情に蓋をしていた。だがもう目を逸らさない。おれは、おれにしかできないことをやる。そう決意して、小さなお腹に頬をすり寄せたのだった。

「どれくらいかかりますか?」
オビオマが尋ねた。
「半年以内」
唐木は答えた。
「数ヶ月でプロトタイプを完成させ、半年以内に公開する」
オビオマが顎に手を当てた。彼女の事務局長補としての任期は、あと1年ほどのはずだ。次期局長への推薦を狙っているという噂も耳にしていた。短期の成果に飢える彼女だけが、唐木と同じ時間軸で動いてくれるはずだ。
「いいでしょう」
オビオマは言った。
「唐木氏には、EGOSの地図化を主導してもらいます。必要な設備があれば、こちらで準備しますので」
カメラに会釈を返しながら、唐木は血の入った試験管を握り締めた。

40億年前、この星に初めて自己複製する存在が現れた。生命の始まりだった。それから生命はDNAを複製し、細胞分裂しては、次世代へと受け継いできた —— 卓上に並んだ灌流装置を眺めながら、唐木は悠久の時に思いを馳せた。
会議から数ヶ月が経ち、プロジェクトは順調に推移していた。ジュネーブの研究室では、トランスポゾンの活性を抑える実験に初成功したらしい。だが人間の身体に適用させるには、まだ時間がかかる。そのために必要となるのが、シミュレーションを行うための地図だった。
顔をあげた唐木は、誰もいないオフィスを見渡す。広々とした空間が気持ちよくて、思わずのびをした。会議室も執務室も、全部ぶち抜いてラボにした甲斐があった。既存の事業を停止させ、地図の無料公開に専念すると告げると、社員はみんな離れていった。でもそれでいい。おれの仕事を、もう誰かに理解してもらう必要はない。
いくつか並んだ灌流装置の一番左には、目に見えないくらい小さな塊が浮かんでいた。薄紅色のそれは、発生初期のゐ臓だった。そこから右にいくにつれて、まるで生物が進化していくみたいに大きくなっていく。右端にある5センチのゐ臓が、完成形だった。
地図を正確に描く上での障壁は、ゐ臓の段階ごとのデータが必要なことだった。まだ研究途上のゐ臓では、育つ過程でゲノムの構造が変わる可能性がある。それに加えて異なる人間同士のデータを突合するとなると、かなり骨の折れる作業になる。そこで思い出したのが、別々の受精卵をひとつの映像につなげた経験だった。ひとつの人間から、異なる時間のゐ臓を切り出せばいいのだ。
息を吐いてのびを終えると、シャツからぼよんと腹が飛び出た。腹にはいくつもの赤い傷跡が残っていた。WHOのタスクフォースを名目に、同級生の白山に頼み込んで、唐木は以前から定期的な手術を受けていた。切っても再生するゐ臓の特性が、このときばかりは役に立った。

右端の灌流装置を脇に抱え、書斎へと戻った。オフィスで唯一、元のまま残した空間だった。
デスクの上には、相変わらず書類の山が溜まっている。唐木はそこから一枚の封筒を取り上げた。「ライセンス許諾契約書」と書かれたそれは、唐木が毎年払い続けている、特許ライセンスの更新通知だった。
かつて研究室で成果を奪った教授は、論文をもとに特許を取得した。地図をつくるにはその特許が必要で、唐木は自身が生み出したはずの技術に、ライセンス料を支払うことになった。毎年この封筒を見るたびに、心臓がえぐられるようだった。
だがもう、どうでもいいことだ。
唐木は書類の束を薙ぎ払い、床に落とした。バサバサと鳴る音が気持ちよかった。久方ぶりに平面を取り戻したデスクの上に、灌流装置を載せた。ケースから5センチのゐ臓を取り出し、素手でつまむ。ぬめりとした感触が指に広がった。
卓上ライトに近づけた。光が臓器を妖しく照らした。唐木は顔を近づけ、ゐ臓に頬をすり寄せた。粘りつく感触に、唐木はうっとりとして思う。
こいつがおれの、最高傑作だ。
ずっと目を背けてきた歓びを、いまでは受け入れていた。
研究成果は盗まれ、地図もコピーされた。だがゐ臓は、紛れもなくおれだけのオリジナルだ。おれは人類に、新しい臓器を生み出した。それに比べれば研究成果や特許など、ちっぽけな話にすぎない。自分の名はいつか消えるが、ゲノムへの刻印が奪われることはない。
ゐ臓を愛でながら、唐木は考える。
こいつを100年後も残すためには、体内で増えすぎてはいけない。ひとつやふたつがちょうどいい。害のないまま人体に留まってくれれば、人類とともに永らえられる。そうすれば律も律の子も、生きやすい社会となるだろう。だからこそ遺伝はそのままに、倍化だけを止める薬が必要だ。そしてそのための地図が必要だ。
ケースに映った自分の顔に、唐木はにっと歯を剥いた。黄色い歯が治せないなら、他の白い歯も黄色くしてしまえばいい。おれはいまから、そんな地図を描く。ゐ臓があることを基準とした、新しい人類の地図を。
ゐ臓を抱き寄せた。律の子を抱いたときの感慨がまた蘇った。自分が死んだあと、何世代も経て産まれた赤ん坊の身体にも、ゐ臓がひっそりと佇んでいる。そんな光景を想像して、唐木は身悶えした。
炊飯器の炊けた音がした。唐木は目元をぬぐって、小躍りしながら台所へと歩いていった。

文字数:35658

内容に関するアピール

ある日、体内にふたつ目の胃が見つかった ——
本作は「ゐ臓」という謎の臓器をめぐる兄妹の物語です。わずか5センチの無害な臓器が二人の生活へと侵入し、周囲を巻き込みながら、それぞれが内に抱えているものを明らかにしていきます。
ゐ臓という一つの嘘を放り込むことで、問題が徐々にスケールアップしつつ、主人公たちの多面的な姿が浮かび上がる。一年間の講座でいろんなものを書いたり読んだりしてきたなかで、最後はそういう「自分の中でSFっぽいと思ったもの」に挑戦したいと思いました。兄と妹の視点を交互に入れることで、二人の関係性を掘り下げていくことも目指しています。

一年間ありがとうございました!とにかく楽しかったです。これからも書き続けます。

文字数:312

課題提出者一覧