星いものが月ない

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星いものが月ない

「みなさんもご存知の通り、二十二世紀初頭、世界は危機に見舞われていました。人口が減少し、世界経済は減退。牽引する成長国もなくなり、最後の大陸と呼ばれたアフリカまでもが開拓され尽くされてしまった。この停滞の要因はなんだったのか?
 それは、欲の減衰です。
 かつて、世界は欲にまみれていました。性欲、金銭欲、名誉欲……。それが今はどうでしょう。セックスはしない、金は要らない、最低限の生活ができれば家にもこだわらない。成功者は『平等のために』とお金を配り出す始末。
 はっきりと言いましょう。欲がなくなることは、人間にとって死を意味します。
 当時、人類は地球規模の先進国病にかかっていました。その結果、資本主義の発展を牽引する成長市場がみるみるうちに縮小していきました。
 この状況を打破するにはどうすればいいか——私は、リライト社のCEOとしてではなく、一起業家、一エンジニアとして、この問題として向き合いました。それは、シンプルで根源的な解決法を模索するという、自身の原点に立ち返る行為でもありました。
 ある晩、私はいつものように頭を悩ませながら空を見上げました。すると、そこに答えがぽっかりと浮かんでいたのです。
 それは、月でした。
 地球上の経済規模で足りないのならば、月に地球と同規模の経済圏を創出すればいい。
 かくして〈月の影SOMプロジェクト〉は発足しました。
 プロジェクトの骨子については、みなさんも十分ご存知のことかと思うので、割愛します。もちろん、実現に至るまでにはあらゆる障壁を乗り越えなければなりませんでした。脅しもたくさん受けました。生命倫理の保護を謳う団体から、何度殺害予告を受けたかわかりません——この皮肉がわかりますか? 〈月の影SOMプロジェクト〉がなければ、人類はより早く死に絶えていたでしょう。生命倫理を擁護する連中は、私のように欲にまみれた人間は死んだ方がいいという。こんな馬鹿げたことがありますか?
——人間は、欲することでしか生きながらえません。
 だから、愛すべき私の子どもたちには〈欲する者たちワンツ〉という総称を付けました。この子たちが『欲する』ことで、人類の新しい地平線を開拓することを、私は信じてやみません……」
 白いキャビンの壁に映し出されたダビデ・ルーメンが喋り続ける。世界長者番付一位、個人資産十兆ドルを超えるこの大富豪は、百歳を超えてもなお艶のある金髪をかき上げ、白い歯を見せつけている。
 顔の下には〈リライト社CEOダビデ・ルーメン、《月の影SOMプロジェクト》の目的を語る〉というテロップが付されていた。リライト社がプロモーション用に制作した動画は、船内の至る所で流されている。
 たった今も、トレーニング・ルームから自室に戻ってすぐに勝手に動画が再生され始め、ぼーっとしているうちになんとなく見入ってしまった。
 マミヤはため息をつくと、天井に向かって声を上げる。
「ヘカテ、映像を消してくれ」
 ヘカテはリライト社のAIで、このプロジェクトをサポートする役を担っている。壁に映し出されたルーメンはぷつりと消えた。
「ヘカテ、月に到着するまで、あとどれくらい?」
 マミヤは見えない人工知能に尋ねる。滑らかな女の声がすぐさま答える。
「月面到着までの残り時間は、二日と五時間三十四分です。月に到着するまでの間、モチベーションを上げるための動画はいかがですか? このミッションにおける、リライト社CEOダビデ・ルーメンの動画の続きを……」
「遠慮しとくよ、もう十分見たから。寝かせてくれ」
「かしこまりました。それでは、ゆっくりおやすみなさい」
 室内の照明が落とされた。キャビンに唯一設置された円形の小さな窓に、青い惑星が浮かび上がる。
 マミヤはふわりと体を浮かせて、泳ぐように自分の体を窓の方へと押し出した。初めて飛行機から地上を見下ろす少年のように、頬を強化ガラスに貼り付けて、少しずつ遠のいていく球体をじっと見つめる。
 自分が地球に残してきたものを思うと、心が重くなる。しかし、これから月で自分を待ち受けているものを——いや、人たちを——思うと、さらにずっしりと重くなるようだった。
「寝られませんか?」
 天井からの明瞭な声に、思わずびくりとする。
「寝られないのなら、『月』をテーマにしたBGMをおかけすることができます。もしお好きな曲があれば——」
「いや、大丈夫。もう寝るよ」
「承知しました。おやすみなさい」
 マミヤは身を翻すと、寝袋のある一角へと向かった。胸の重さに反して体は軽い。月に着いても、重力は地球の六分の一だ。この軽さにも、慣れなければならない。
 マミヤは寝袋に入り、ベルトで体を固定すると、ようやく返事をした。
「おやすみなさい」

「地球に帰ったら、ここで手に入れた報奨金で家を建てるんだ」
 マミヤはゼリー状のスープを飲みながら「へえ」と適当な相槌を打った。向かいに座るピート・ホーキンスはマミヤの興味の欠如を気にすることなく、まくし立てる。
「いま、ヒューストンの物件がアツいんだ。あそこの宇宙センターが月と地球を繋ぐスペース・ハブ空港になるっていうことで、次世代のベッドタウンとして不動産価格が急上昇してる。今のうちに買っておけば、老後も安泰だ。おすすめだぜ」
「ビークは老後も月に通いたいのか」
「まさか。ただの不動産投資目的だよ——最近、地球人があまりに土地に興味ないんで、〈欲する者たちワンツ〉が月から買い占めるんじゃないかって、もっぱらの噂だぜ」
「週刊誌レベルのゴシップだな」
 マミヤはスープを吸い尽くすと、空になったパウチを清掃ロボットに向けて放り投げた。ロボットは八本の脚でパウチを受け止めると、捕食するようにそれを格納する。
 昼時ということもあり、宇宙船内の食堂は賑わっていた。ピートは山盛りにしたトレイから、ホットサンドを手に取る。
「じゃあなんだ、ジェイにはもっといい使い道があるのか?」
 同じアメリカの医科大学で働くピートは、マミヤのことを「ジェイ」と呼ぶ。ファーストネームのジェイコブ、を略した呼び名だ。
「家族のことで色々あるから、大半は貯金に回すよ」
 今回、このプロジェクトでは規格外の報酬が約束されている——その額、一千万ドル。ほとんどの参加者は、金目当てで参加していた。逆に言えば、いまどきそれくらいのインセンティブを付与しなければ、月に行こうとは誰も思わないのである。
 月での半年にわたる研究プロジェクトにおいて、マミヤとピートたちは、医学者として〈欲する者たちワンツ〉に関する子細な分析とレポートを求められている。
「ちぇっ、夢がないなあ」
 ピートはつまらなそうにぼやいた。口を開けたまま食べるので、食べかすがあちこちに散る。マミヤは指摘したいのを堪えながら、宙を浮遊する清掃ロボットが自動的にスクランブルエッグの欠片を吸い込むのを眺めた。
「マミヤはいつも家族のこと、友人のことと利他的だよな。すこしは自分のために使えよ」
「そんなことはない。聖人君子みたいに言わないでくれ。僕はとくに、欲しいものもやりたいこともないだけだから」
 話しながら、マミヤはペンシルバニアにいる母親のことを思い浮かべた。
 マミヤの母は、昨年から老人性うつを発病し、体調を崩している。食べ物もほとんど食べなくなり、やせ細ってしまった。今は父と兄が介護をしているが、もともと家事が苦手なふたりでは限界が近い。介護アンドロイドも試したが、母はアンドロイドが作る料理には手を付けなかった。
 仕方がないので、今は人間のフルサービスが付いた介護施設を探している。安心して良い施設に入れるには、自分がまとまった金額を稼いでひとりでやるのが一番なのだ。
 しかし、プライベートな話題は、なるべく職場の同僚には話したくなかった。ピートのように仲のいい同僚であっても。
「まあでも、そんなこと言ってたらダビデ・ルーメンに叱られるだろうから、大きい夢でも語っておこうかな——最新のルナ・ビークルが欲しいとか、ヨーロッパ空遊旅行がしたいとか」
 マミヤがおどけると、「へっ、小学生の方がマシな夢を語れるぜ」とピートも合わせてくれる。ふたりは修士から十年以上の付き合いなので、お互い踏み込まれたくない話題はうっすらとわかっている。
 案の定、ピートはすぐに話題を変えた。
「ところで、実際どうだと思う?」
「なにが」
欲する者たちワンツ〉だよ。ヤバい噂しか聞かねえ——四六時中セックスしてるとか、馬鹿みたいに食べては吐いてを繰り返してるとか。とにかく連中は欲を制御できないらしい」
 マミヤは周囲を見回してから、慎重に応える。
「噂は噂でしかない。この目で見て、観察と統計からしか結論を出しちゃいけない。それが僕たちの仕事だ」
「お、さすが真面目さんだねえ」
 マミヤはピートの挑発に乗らない。ただ、眉を上げて見せるだけだ。
「まあだけど、かわいそうな話だよな」挑発に乗らないと見て、ピートは声のトーンを少し下げる。「人工授精、人口子宮で生まれるわけだから、親もいないんだろ。いくらコスパがいいからって、ただ地球の経済を回すために生み出された命ってのはどうも不憫だ……」
 マミヤは警告をしようと口を開いたが、それよりも早くアラームが鳴り響く。間髪入れずに、ヘカテの厳粛な声が続く。
「食堂、テーブル三番で食事中のピート・ホーキンス。レギュレーション違反の発言が検知されました。三回の違反で、あなたは当プロジェクトよりバンされます。規律を乱すような発言には十分注意してください」
 周囲の目がこちらに向けられる。ピートは居心地悪そうに肩をすくめると、「おっかねえ」とマミヤに向けて口を動かした。
 マミヤは目を逸らして他人のふりをした。申し訳ないが、ピートとはいえ庇う気にはならない。〈月の影SOMプロジェクト〉の趣旨を批判するような発言は禁止されていると、参加要項にははっきりと書かれていたし、研修でも口酸っぱく言い聞かされていた。
 母親のためにも、このプロジェクトからバンされるわけにはいかない。
 拗ねたように言葉を発しなくなったピートがようやく昼食を食べ終わる頃、食堂の隅でどよめきが起きた。
「月の泡状仮説集合居住地バブルズが見えてきたらしい」マミヤたちの近くにいる男が教えてくれる。「月面到着も近いな」
「見に行こう」
 マミヤはしょげた様子のピートを無理やり引き連れて、窓際へと近づいた。
 間近で見る月は異質でどこか恐ろしくすらあった。水面に広がる波紋のようなクレーターに、立体的な水泡がそこかしこに立ち現れている。銀色のつやつやとした素材でできたそれらは、リライト社がこの四半世紀で行ってきたパラテラフォーミングの成果だ。
 泡状仮説集合居住地バブルズと呼ばれる連鎖したこれらの居住エリアは、内部が地球と同様の大気構成の空気で満たされ、有害な放射線や紫外線を遮蔽する。ひとつの「泡」は約二十平方キロメートルの面積を有し、ひとつの街を包みこんでいる。
「三十年前の月面には、レアアース掘削用の簡易基地しか存在してなかったんだ。それがいまや人口一千万人を超える一大経済圏を創っちまうんだから、すげえよな」
 隣から、別の参加者の声がする。その調子から、マミヤはダビデ・ルーメンの信奉者なのだろうと密かに察する。
 横を見ると、ピートがなにか言いたそうな顔で窓外を見つめていた。目が合うと、マミヤはゆっくり首を振って指を一本立てて見せ、次にそれを二本にした——リーチになるなよ。
 ピートの表情がふっと緩み、その顔がマミヤの耳元に寄せられる。
「わかってるさ。お互い賢くやろうな」
 ぽん、と肩を叩くとピートを歩き去っていった。マミヤはもう一度、月面を見下ろす。地球上から見上げるときは、いつもぼんやりとその美しさを享受していた。行ってみたい、と思ったことはなかった。美しいものは遠くから眺めるのが一番、というのがマミヤの信条だからだ。
 欲しいものは手に入らないくらいがちょうどいい——泡状仮説集合居住地バブルズの灰色の光沢を見つめながら、マミヤは改めて自分にそう言い聞かせた。

ドームの中を、大型月面用車両がゆっくりと走行する。車両のルーフトップは開放され、地球からの来訪者たちが身を乗り出している。道路の両脇には人々が群がり、手を振ったり旗を掲げたりして、彼らを歓迎する。
 マミヤは半ば夢を見ているような気持ちでバスの上から群衆を見渡した。街並みは地球上によくある現代都市のをよく模している。バブルの内側は薄いナノスクリーンで覆われており、時刻に応じて変化する空模様を映していた。重力の違いさえなければ、自分たちが月面にいることをうっかり忘れてしまう。
 月の重力にはまだ慣れない。ちょっとした弾みで浮き上がらないよう、車両のタイヤには特殊な加工が施されているらしい。観衆はぴょんぴょんと跳ねていて、まるで月のウサギのようだ。
「これが〈欲する者たちワンツ〉か」
 隣でピートが呟いた。その言葉には、嫌悪と好奇の両方が滲み出ていた。しかし、宇宙船内でヘカテにペナルティーを取られたのが効いているのか、それ以上は言わない。言わなくても、マミヤは彼がなにを考えているのか、なんとなくわかる気がした。
 見上げる人々の顔は興奮に満ちていた。なかには飛び上がりすぎてしまい、警備員に押し戻される人もいるくらいだ。その様子は明らかにふつうではない。
「これほどまとまった数の地球人が訪れるのは、滅多にないことらしいな」マミヤは口の端から言葉を漏らした。「月地球間を結ぶ航路の便は、ほとんどが貨物船だ。それですら運航費用が馬鹿にならない。だから、こっちでは地球品ジェニュインは高級品なんだ。俺たち地球人だとわかると、物乞いのように群がってくるらしいぞ」
「かつてはたしかに、そのような認識がございました」
 ふたりはぎくりと振り返る。そこに立っているのは女性型のアンドロイドだった。すらりと背が高く、銀色の髪と青色の瞳をしている。
「ヘカテ」
 声をたよりにマミヤがその名を口にすると、アンドロイドはうなずいた。
「月面上では、こちらのハードウェアをお借りしています。また、みなさんを管理監督する役割をCEOから仰せつかっています。老婆心から口を挟んでしまうことも多いかもしれませんが、あらかじめご了承ください」流れるような調子でヘカテは言う。「さて、話を戻すと——かつてはたしかに、地球と月の間では大きな経済格差がございました。しかし、月面経済はチタンをはじめとする豊富なレアメタルの採掘によって、大きく成長しています。おまけに月地球間航路も、月で採取されるヘリウム3を活用した核融合エンジンによって大幅にコストを抑制し、今ではほぼ毎日運航しています。〈欲する者たちワンツ〉は需要を生むだけでなく、資源と労働力の供給源となることで、地球経済と一体になっているのです」
 ピートとマミヤはともに押し黙った。このような説明は渡航前の研修や宇宙船内のモチベーション・ビデオでも繰り返し聞いている。
 まるでふたりの考えを見透かすように、ヘカテは鈴を転がすような笑い声で笑った。
「おふたりは、まだ私の言っていることをご理解されていないようですね。私はなにも、月がすでに地球の先進国並みの経済レベルに達している、などと言っているわけではありませんよ。経済規模は他のどの国よりも正確に算出され、毎年公に公開されています。それを見れば、月がまだまだ成長途上の経済圏であることがわかるでしょう。しかし、彼らが地球品ジェニュインを欲しがり、こうしてあなたたちをスターのように崇めるのは、単に経済格差のせいではない、と私は強調しておきます」
 ヘカテは懐からなにかを取り出すと、マミヤとピートに差し出した。ふたりとも思わず身を乗り出す。掌には個装に包まれたチョコレートがふたつのっている。地球ではスーパーや薬局でよく売っているような、よくあるチョコだ。
「ご存知の通り、〈欲する者たちワンツ〉は、あらゆる欲望を強く抱くように設計されています。欲望の中には、他者の地位や居場所を欲しがる気持ちもあります。このひとかけらのアメリカ製のチョコレートは、地球上では各2USD、月では約100M(ムーニーズ)(約20USD)します。たしかに高級品ですが、一般的な〈欲する者たちワンツ〉の所得で払えないものでもない。彼らがこれを欲しがるのは、地球人のように振る舞いたいからにすぎないのです」
 目の前のアンドロイドに人間の感情を説かれている、と思うとマミヤは少しぞっとした。隣のピートも居心地悪そうにしている。
「さあ、このチョコを下に向かって投げてみてください。彼らが欲しがるのは、チョコそのものではなく、地球人のようにチョコを所有し食べる、その行為そのものなのです。それを正統に与えられるのは地球人しかいない——さあ、ぜひ」
 気乗りしない様子のふたりに、ヘカテはずいっと手を突き出す。マミヤとピートは渋々チョコを摘まみ上げた。
「趣味が悪いぜ」
 ピートは呟くと、適当にチョコを群衆に向けて放り投げた。
 わっ、と人々が湧く。銀色の包装がきらきらと屋外照明を反射し、非現実的な速度でゆっくりと、舞い落ちていく。
 まるで餌を求める鯉のように、〈欲する者たちワンツ〉が群がる。彼らは熱病に浮かされたような、放埓な表情で、両手を天に突き伸ばしていた。
 チョコが地上に近づくと、周囲を力ずくで抑えようとする者も現れた。ひとりの男が殴られ、地面に倒れる。周囲はそれを顧みずに争いを続けた。舗装された道路にはレゴリスはないが、それでも微小の砂埃が立ち上り、視界をわずかに混濁させた。バブル内で静かに稼働している空調はそよ風を送り続けるだけで、塵をすぐに吹き去ってはくれない。
「あれが、月社会の原動力です。かつて地球にもあり、今や失われたもの」穏やかな声でヘカテが言う。「欲望があるから競争が生まれ、競争があるから成長が生まれる。さあ、マミヤさん。あなたも投げてみてください」
 まるで子供を諭すような言い方。この人工知能は、いつからこんな態度を取るようになったのだろう?
 しかし、言うことを聞かなければペナルティーをとられる。ペナルティーが三つ溜まれば、地球への強制送還が確定だ。そうすれば報酬が支払われることもない。ここに来る前にサインした契約書には、その条件がはっきりと記載されていた。
 マミヤはざっと群衆を見回した。熱狂し、歓声を上げる〈欲する者たちワンツ〉はみな同じ顔に見える。天描画のようにぼやけて個々の顔が認識できない。目がどうしても上滑りする。チョコを放り投げようと上げた腕が、中途半端な高さで静止する。
 そのなかで、ぱっと目に付く顔があった。
 若い女だった。年齢は二十代半ばだろうか。彼女に目が留まったのは、周りのように騒ぐでもなく怒るでもなく、ただ静かにたぎるような熱をもって、こちらをじっと見ていたからだった。
 マミヤは女に向かってチョコを放った。
「あ」
 角ばった軽さが手から離れた瞬間、自分の過ちに気づいた。抗えない強力な引力に引き寄せられるように、わっと〈欲する者たちワンツ〉たちが押し寄せる。その中心にはあの若い女がいる。腕が伸びる。怒号が飛び交い、体と体がぶつかる。女の華奢な胴体が斜めに倒れ、驚きの浮かんだ顔が、折り重なる肉体の下に消えようとする。
 気づけばマミヤはバスの荷台から飛び降りていた。背後からピートの叫び声がするが、気にしない。ぼやけて見えていた群衆の顔がゆっくりと解像度を増していく。
 月の重力は優しい。マミヤは、下界に降臨する天使かのように舞い降りていく。若い女の顔が、人の波間から浮上する。目が合った。世界が静かになる。
 そして再び、世界が動き出す。降りてくるマミヤは触ろうと、人の波が押し寄せる。地上の警備員たちが空砲を放つ。その音を聞くと、〈欲する者たちワンツ〉たちはスイッチを切ったかのように大人しくなり、さっと退く。
 マミヤはそっと月面に降り立った。警備員たちの抑制により人々がスペースを作り、円ができた。その中心にはマミヤと女が立っている。チョコは人に踏まれ、ぐちゃぐちゃになって落ちていた。
「ごめんね」マミヤはその残骸を拾い上げながら、女に言う。「けがはない?」
 女は短く首を横に降ると、短刀のように言葉を突き出した。
「ください」
「え?」
 マミヤは再び女の目を見る。それは、黒くて底のない瞳をしていた。
「チョコ、ください」
「でも……汚いよ?」
「いいんです。あなたの、そのチョコが欲しいんです」
 戸惑いながらも、マミヤは潰れた欠片を渡した。女はそれを大事そうにハンカチに包むと、水色の鮮やかなポシェットにしまった。
 再び車両に戻ってからも、マミヤは女のことを忘れることができなかった。ヘカテから厳重に注意を受け、ペナルティーをもらっても、なにも思わなかった。パレードが一時的に止まったことで、他の参加者に迷惑をかけたことも、あれだけ多くの人に注目されたことも、普段ならば気にしそうなものだが、不思議と気にならなかった。
「おいおい、どうしちまったんだよ」
 ピートは半ば呆れ、半ば心配した様子で何度もマミヤの顔を覗き込んできたが、生返事をすることしかできない。
「ん? ああ……危ない、と思ったから」
「ったく、見てるこっちがハラハラするぜ」
「うん……すまない」
 パレードが終わるまで、マミヤは上の空だった。あの女にもう一度会えないか、ということばかりを考えていた。

女と再会する機会は、予想以上に早く訪れた。
 パレードの翌週から、マミヤたちの仕事は始まった。まずは〈欲する者たちワンツ〉の検診。これまで人工知能と遠隔医療をメインに、地球から派遣された少数の医師が診てきたのを、このプロジェクトでは範囲を広げ、より子細な分析を行う。
 マミヤの専門は臨床心理学だ。カウンセリングを通して、〈欲する者たちワンツ〉の心理状態を分析することが主なミッションとなる。
 診療の初日、先立って地球から派遣されていた医師によって研修が行われた。
「〈月の影SOM〉プロジェクトは、四半世紀前にリライト社CEOのダビデ・ルーメンが始めた一大事業です。その骨子は、人工的に生み出した命を月に送り込み、地球の大国に匹敵する市場を生み出そうとするもの。送り込まれる人間は報酬系を司る脳の部位を改変されており、従来の人間より強い欲求を持ちやすいように設計されています。この特徴は、消費活動を盛んにし経済合理性の高い選択を促すものの、ときとして生活習慣や精神衛生にマイナスの影響を及ぼします」
 泡状仮説集合居住地バブルズの一角で行われたその研修には、数百人の医師が参加した。できたばかりのその大講堂の天井には、ダビデ・ルーメンの肖像画が描かれている。
「とはいえ、連中は頑丈です」医師は淡々と続けた。「基本的には、自分の欲望に従って強かに行動すると考えてください。釈迦に説法かもしれませんが、余計な深入りや感情移入は禁物です。こっちも持ってかれます」
 ——月に来て初めての診療へと向かいながら、マミヤはその言葉を頭の中で反芻していた。あてがわれた研究棟は灰色の立方体の建物で、どことなく墓石を想起させる。その一室で、マミヤは次から次へと訪れる〈欲する者たちワンツ〉たちを診ることになっていた。その外環も相まって、「ミイラ取りがミイラになる」という言い回しを思い浮かべた。だがそれをピートに伝えると、「おまえは欲がなさすぎるから、多少は影響された方がいい」と真面目な顔で言われた。
 実際に診療が始まると、マミヤの緊張はいくぶんか解けた。患者が〈欲する者たちワンツ〉だからといって、臨床心理医としてやることは変わらない。相手の言葉に耳を傾け、メモを取る。精神状況を分析し、必要であれば、処方箋を出す。ふだん通りのルーティンに持ち込めるのが、異常続きだったここ数週間を思うと、なによりも心地よかった。
 彼女が訪れたのは、午後の診療が終わる頃だった。
「番号札八十二番、エヴァンズさん」
 医療補助アンドロイドが呼びかけると、女が入室してきた。
「こんにちは」
 入ってきた瞬間、マミヤはそれがだれだか瞬時に把握した。しかし意外と驚きはなかった——むしろ、ここで再会することを知っていたような気さえした。
 彼女は平然とした落ち着きと、確固たる決意をその拳に握りしめて、目の前の椅子に座る。マミヤと同様、ここで再会するのを当たり前と思っているかのようだった。
 マミヤはちらりと電子カルテを見る。
「……ルミナ・エヴァンズさん、ですね?」
「はい」
 室内灯の下で見る彼女は、前回見たときより幼く見えた。黒い髪、黒い瞳、透き通るような白い肌。マミヤをまっすぐ見つめる視線はどこか頑なだ。
 迷いながらも、マミヤはいつも通りのプロトコルで診療を始める。
「今回の診療では、いくつかの簡単な質問をさせていただきます。記録は取らせていただきますが、これらの記録が第三者に、事前の承諾なしに共有されることはございません。今回の診療にはいくつか目的が——」
「名前、なんですか?」
 マミヤは驚いて視線を上げた。
「名前? 僕の?」
「そう。この前、十分に話す時間がなかったから」
「……ジェイコブ・マミヤ」
 答えながら、マミヤは再度カルテを確認した。二十四歳、会社員。今年三十五になるマミヤからすれば、十歳以上年下だ。ピートが知ったらまたなにか言われるかもしれない。ああ見えて、保守的でちゃんとした男なのだ。
 変なこと考えずに診療に集中しろ、とマミヤは念ずる。
「そうですね、自己紹介から始めましょうか。まずは、ルミナさんの幼少期のお話から聞かせてもらえますか? 覚えている限りでいいので、簡単な生い立ちと、それから印象に残っている思い出なんかを——」
「そんなの聞いて、なにになるの?」
 またもや、ルミナが遮る。悪意は感じない。相手の気分を害するためにとかではなく、純粋に疑問に思っているのだろう。〈欲する者たちワンツ〉は一般の人と比べて、過去に対する執着が少ない。
「過去を知ることは、自分を理解する手立てになります」
マミヤは苦笑しながら、なるべく丁寧に答えた。納得がいかなければ、診療は成立しない。
「例えば、今あなたが住んでいる月という衛星は、一世紀前まではその元素組成すら完璧に理解されていませんでした。これを把握するには、微量元素や年代測定に必要な同位体測定などを、サンプルリターンを利用して行う必要がありました。月のレゴリス、岩や砂に含まれる鉱物を調べ、過去の隕石衝突や火山噴火の影響を推測する。そうすることで初めて、月の成り立ちから組成までを理解し、パラテラフォーミングに必要な水の埋蔵量や掘削方法が判明していったのです。
人間も同じで、過去の小さな記憶や感情から、現在の問題を解決する手掛かりが見つかることがあります。これは自分自身と向き合ってわかることもありますが、多くの場合、他者と対話を重ねる中で新しい発見があるものです」
 話しながら、マミヤは月のクレーターの影に潜む氷を思い浮かべていた。極の近く、太陽光が当たらない場所では、月面上にも水分が氷として残っている。その雪泥のようにぐちゃぐちゃとした混濁のなかから、純粋で形をもったなにかを持ち帰る。それが、自分たちのミッションだ。
 ところが——
「それなら、まずはあなたの過去について教えてよ」
 闘牛士がひらりとマントでかわすように、ルミナは質問を返してきた。マミヤは瞬きをした。この子は、簡単には極のクレーターに連れて行ってくれない。
 慎重な探査機のように、マミヤはぐるぐると上空を周回する。
「これはあなたの診療の時間です。私の話す時間ではないですよ」
「んー、でも他人に開示してほしいなら、自分から先に開示すべきだと思うけどな。対話ってそういうことじゃないの? わたしだけが話しているなら、それって対話って言わないと思うけどなあ」
 口の達者な若者だ。マミヤの頭の中で探査機が静止した。
 こういう患者は地球にもいる。多くは会話をしている実感が欲しいだけなので、マミヤはいつも同じ話で応じるようにしていた。「わかりました、じゃあまずは自分の話からしましょう」とわざと諦めたような顔をして切り出す。
「僕は厳しい家庭で育ちました。特に母親が厳しくて、子どもの頃はゲームを禁止されていたんです。おかげで勉強はできる子だったのですが、ゲームで遊ぶ周りの子どもたちが羨ましくて仕方がありませんでした。しかも、ゲームができないことで友達の輪に入れないことも多々ありました。しまいにはゲーム機すら持っていないのにゲーム攻略本を買って、頭の中でゲームをプレイすることで気を紛らわせていました」
 マミヤはここでひと息入れた。ちらりとルミナを見ると、真剣な表情でこちらを見ている。よかった、集中している。
「そこから二十年経って、大人になった僕は、はじめてゲーム機を買いました。子どもの頃のものからは格段に進化した最新型のものです。でも、ソフトは昔のものをあえて買いました。昔の自分の無念を、晴らしたかったんでしょうね。いざ二十年越しに始めたゲームはびっくりするくらい面白かった。結局、昼夜問わず、ぶっ通しで何日もやってしまい、しまいには不整脈を起こすまで熱中してしまいました」
 愛想のいい患者なら、ここで笑ってくれる人もいる。マミヤは再度ルミナを見たが、相変わらずこちらを凝視しているだけだった。
 仕方なく、締めに入る。
「つまり、多くの大人は子どもの原体験を引きずったまま生きているのです。僕はゲーム禁止の反動で、抑制が効かなくなってしまった。でも、それも原因がわかっていれば、自分の気持ちや衝動とも折り合いがつけやすくなるのです」
 しばし、沈黙が下りた。ルミナは続きを待つように首を傾げてこちらを見ている。マミヤはじっとこらえて、向こうが話し出すのを待った。
 ようやくルミナは口を開いた。
「どうして、やめちゃったの?」
 へ、という声が漏れる。
「ゲームだよ」ルミナは非難がましく言った。「不整脈が起きるくらい、熱中で来たんでしょ? すごい才能を持っていたかもしれないのに。もっとやりたい、って心は思ってたんでしょ。どうして、素直に続けなかったの?」
 欲するとはこういうことなのか——マミヤは思わず、カルテのメモに、ルミナの言葉を書きつけていた。今日話したどの患者よりも、面白いサンプルだと思った。
「でも、それによって体調を崩してしまうかもしれないでしょう」口では慎重に言葉を選びながら、脳みそが過熱していくのを感じた。「ルミナが僕の立場だったら、やめてなかった?」
「ううん、倒れるまでやると思う。というか、やめたくてもやめられないと思う」
 ルミナの口調はきっぱりとしていて、迷いがなかった。この子たちにはブレーキがないのだ、とマミヤは衝撃を受ける。危ういコーナーでも、ブレーキを踏むという選択肢がない。
 ふと、恐ろしくなる。例えば彼らが兵士になったら。肉体が千切れても戦い続ける集団を作れるのではないか。
 今さらになってダビデ・ルーメンの真の意図が疑わしく感じられてきた。〈月の影〉プロジェクトは隠れ蓑で、誰にも触れられないサンクチュアリで、壮大な人体実験をしたかっただけなのではないか。
「ねえねえ、マミヤ先生。先生は、今なにか悩んでることはある?」
「……母が、精神を病んでしまったことかな」
 ふつうであれば、患者からのこのような質問に答えることは絶対なかった。後から振り返っても、このときのマミヤは妙な昂ぶりを覚えていたとしか思えないが、このときはなぜか、自然と言葉が口を突いて出ていた。
「地球に帰ったら、いい施設に入れてやろうと思っていて。幸いここでのお給料はとてもいいからね」
「マミヤ先生って優しいんだね」
「そんなことはないよ。今まで、母になにもしてやれなかったから……」
 そこからしばらくの間、マミヤはルミナと話し続けた。家族のこと、地球と月での生活の違い、月までの旅について……。
 しばらくすると、補助役の看護師が遠慮がちに扉を開けた。
「先生、すみません。お時間が……」
 ハッとして時計を見上げると、ひとりの患者にかける目安の時間を優に超過していた。
「私、先生とまたお話したいな」
 慌ただしく診療をまとめて、半ば追い出すようにルミナを見送ると、彼女は一言そう言い残して帰っていった。
 その姿が戸口の奥へ消えていくと、マミヤはふっと息を吐いて深く椅子にもたれこんだ。ふと、机の上になにかが置いてあることに気づく。銀色の包装紙に包まれたなにか。
 手に取ると、パレードの日に投げたチョコだということに気づく。裏側には、大人びた筆記体で文字が書かれている。
〈あなたがほしい〉

日曜日のターミナル駅は混雑していた。終末の行楽へ向かう人々が、無秩序に行き交っている。
 マミヤとピートは大型電光掲示板の前に立っていた。泡状仮説集合居住地バブルズはそれぞれチューブと呼ばれるシャトルトレインによって結ばれている。パラテラフォーミングされたほとんどの場所には、このチューブによって移動が可能だ。
「ほんとうに俺たちと来なくていいのか? バッカスの鉱山を視察できるなんて、滅多にない機会だぞ」
 ピートがマミヤに確認する。
「うん、大丈夫。ありがとう」
 ピートをはじめとする研究者たちは、月面鉱山のガイドツアーに申し込んでいた。バッカスは月面屈指のチタン採掘場として有名だ。実を言うと、マミヤも行ってみたい気持ちはある。レアメタルは月面経済のライフラインだ——〈欲する者たちワンツ〉の七割以上は採掘などの周辺業務に従事している。採掘されたレアメタルは地球に向けて輸出され、それで得た地球外貨を地球品ジェニュインに消費する。月地球間経済は、かつて植民地と宗主国の間で行われたような原始的な貿易によって成立しており、その根幹となる採掘場を見学するのはまたとない機会だった。
 ——ただし。
 あの日以降、マミヤは頭からルミナを締め出すのに苦心していた。診療中も油断していると彼女のことを思い出してしまう。
 その後も何度か、彼女と会う機会はあった。患者であり観察対象であるから当然なのだが、その度にマミヤは彼女から欲されることを期待せずにはいられなかった。ふたりの会話は徐々に親密になっていき、前回の診療で初めて、ルミナがマミヤをデートに誘ったのだ。
「その、あんまり口うるさいようなことは言いたくねえけど」ピートが電光掲示板を見上げたまま、マミヤの方を見ずに言う。「気をつけろよ? ここでの人間関係は、慎重に考えた方がいいぜ。ここは月で、俺らは一時的な訪問者に過ぎない。いつかは帰んなきゃならねえんだ」
「ああ、わかってるよ……ありがとう」
 ピートにははっきりとは伝えていないが、ルミナのことはうっすらと気づかれているようだ。それでも干渉しすぎない友人に心の中で感謝する。
「鉱山の見学って、バブルの外に出るんだろ?」
 マミヤが話題を変えると、ピートも少しほっとしたような顔をした。口うるさいことを言いたくない、というのは本音なのだろう。
「ああ、そうだ。バブルの外に出るのは初めてだから、ちょっと緊張するな。ちゃんとした宇宙スーツを着用して、ルナ・バギーに乗って行くらしい。月面探検さ」
「気をつけて楽しんで来いよ」
「ああ、ありがとうな。おまえも」
 軽く手を振ると、ピートは数多あるプラットフォームのひとつに向かって歩き始めた。黄色いチューブが止まっている。
 しばらくその様子を見てから、マミヤは別のプラットフォームに向かって歩き出した。
 ピンク色の鮮やかなチューブの前で、ルミナは待っていた。
「お待たせ。待った?」
「うん、すっごく待ってた。早く会いたくて会いたくて、ずーっと待ってた」
 今日のルミナはいつも以上に輝くような美しさを放っていた。白いすらりとしたデニム生地のズボンにライトブルーのチュニック、そしてパレードでも着けていた水色のポシェット。どれも月では高級品、いわゆる地球品ジェニュインと呼ばれるものだ。
「服、似合ってるね」
「あなたが見繕ってくれたからだよ。ありがとう。もっともっと、欲しい。そうしたら、ジェイのためにもっともっと可愛くなる」
 ルミナがあまりに強くねだるものなので、マミヤは地球から何着か女ものの服を取り寄せていた。〈月の影SOMプロジェクト参加者の特権として認められている輸送量の範囲内の分量だが、今後は追加で輸入する場合は高額なチャージを支払わなければならない。
 ただ、それも最悪ここでの報酬を前借すればいい、とマミヤは思っていた。以前の自分だったらそんな考えはすぐに却下していただろう。しかし、ルミナといると、彼女の欲望に応えることがこの世でもっとも尊い行為のひとつに思えてくるのだ。
 ルミナ自身、かなり稼いでいるようなのだが、マミヤの貢度合いで愛情を計ろうとしているようにも感じられた。そう考えるとなおさら、マミヤは頑張らねばと思ってしまう。
「さ、行こう」
 マミヤはルミナの手を引いて、ピンク色のチューブに乗る。〈380K〉という大型商業施設へと繋がる路線だ。初めてのデートは、ショッピングがいいとルミナは以前から言っていた。「買い物をしているときだけ、生きている実感が得られるから」と彼女は真顔でマミヤに言ったのだ。
 この日、マミヤはこれが誇張でないことを知ることになる。
 〈380K〉につくやいなや、ルミナは手あたり次第買い物を始めた。彼女の消費行動範囲は縦横無尽かつ無秩序で、ワンピースを三十分悩んだ末に買ったかと思いきや、木製の地球儀の工芸品を衝動買いするのであった。
「ここでは自動配送サービスが発達してるの」
 店で商品の梱包をしている間、ルミナは説明した。その顔は誇らしげだ。
「買った商品を持ち歩かなくても、その日のうちにお家に届けてくれる」
 マミヤはルナ・バギーと呼ばれるリライト社の月面用自動運転バギーがこのサービスを支えていることも、その元が地球上のサービスであることも研修動画の中で学んでいたが、ルミナの前では黙っておいた。
 ルミナの買い物は、〈380K〉のすべての店舗を回りきるまで続いた。途中、マミヤは何度かやんわりと昼食の提案をしたが、頬を上気させたルミナは聞く耳を持たなかった。結局、彼女が買い物を終了したのは開始から約六時間後のことだった。
「あー楽しかった。ねえ、すっごくお腹空いた。フードコート行かない?」
 忍耐力がある方だと自認しているマミヤも、このときばかりは堪忍袋の緒がギリギリと音を立てて切れそうになるのを感じた。
 〈380K〉のフードコートには地球上とほぼ変わらないような店がずらりと並んでいる。マミヤは最初に目に入ったバーガーを買った。ルミナがあれやこれやと悩む間、先に席を取って待つ。夕方とはいえ、フードコートは買い物客で混雑していた。
「お待たせー」
 戻ってきたルミナは、トレイを山盛りにしていた——ステーキ、フライドポテト、飲茶、寿司……。ピートも大食いな方だが、優にその二倍はある。〈欲する者たちワンツ〉が大食いなのは本当らしい。
 フードコート内の大型サイネージにはダビデ・ルーメンの姿が映し出されている。月で彼の姿を見かけない日はない。
 ルミナにそう伝えると、彼女は笑った。
「それはそうよ。ダビデ・ルーメンはこのくにの王様。いたるところに彼の顔はあるの」
 と、そこでいたずらっこのような光がルミナの黒い瞳に浮かぶ。
「ねえ、ダビデ・ルーメンにまつわる噂を知ってる?」
「噂?」
「そう。噂というか、都市伝説みたいな話なんだけど。ダビデ・ルーメンは実はもう死んでるっていう話」
「まさか」
 〈月の影SOMプロジェクト〉にすべてを賭けると宣言したダビデ・ルーメンは、二十年以上前に月に移住していた。自らバブルの初期モデルの仮設住宅に住み、リライト社の月面本社も設立された。セントラルと呼ばれるそのエリアは、月の一等地とされている。
「僕が知る限り、ダビデ・ルーメンは今でもセントラルに住んでるって話だったよ」
「直接、自分の目で見たことはある?」
「それはないけど……」
 ルミナの瞳が、勝ち誇るように光った。
「そうでしょ? 映像ではよく出てくるけれど、実物を見たって言う人は実はここ十年間、ほとんどいないの。映像なんて、いくらでも作れてしまうし、ビジネスの方は人工知能にある程度任せることができてしまうから、あり得ない話ではないと思うんだけどなあ」
 そんなことはないだろう、と思いながら、マミヤはヘカテを思い浮かべていた。プロジェクト期間中、どこでも現れサポートをする彼女は、ひとりの人間のように錯覚してしまうが、同時分散的に存在し得る知能の形態だ。つまり、彼女はマミヤたちを監視しながら、地球上のタスクもそつなく処理することができる。たしかに、ダビデ・ルーメンがいなくてもリライト社の経営は問題なさそうだ。
 食べ終わってフードコートを出てからも、マミヤは「ダビデ・ルーメン死亡説」について考えていた。しかし、モール内の小広場に出ると、そんなことはすっかり忘れてしまった。ルナ・バギーが展示されていたのだ。
「やっぱり、かっこいいな」
 マミヤは思わず感嘆の声を上げ、近づいていった。ルナ・バギーはパラテラフォーミングされていない場所も走る、正真正銘の月面バギーだ。見た目は大型の白いジープのようだが、月の重力に対応した低重心の造りと、独特の吸着コーティングが施された車輪、そして過酷な温度変化に耐える特殊加工の外装が特徴的だ。
 ルナ・バギーの横に立つ店員が微笑んだ。
「いらっしゃいませ。現在、《泡》外を回る試乗運転会を催しております。この機会にいかがですか?」
「ああ、でも自分は……」
 買わないので、というとややこしくなりそうな気がして、マミヤは語尾を濁らせた。しかし、後ろから現れたルミナはそんなことは許さない。
「せっかくだし乗ろうよ」その口調は有無を言わせない。「どこか行きたいところないの?」
 ない、と言いかけて、マミヤの脳裏に今朝のピートとの会話が蘇る。
「——チタン鉱山に行ってみたい。バッカスとか。入るのが無理なら、外から見るだけでも」
「そう来なくっちゃ」
 ルミナはその場で支払いを済ませ、十分後にはふたりはモール地下の駐車場に連れていかれていた。
「試乗には簡易宇宙スーツが必要です。こちらはお貸出しします。試乗時間は三時間、宇宙スーツの酸素供給時間が約七十二時間ですので、緊急時は焦らずに救助ベルを鳴らしてください。万が一スーツの破損が生じた場合には、後部トランクに予備が収納されています……」
 〈欲する者たちワンツ〉にとって《泡》外でのレジャーはそれほど珍しいものでもないらしいが、マミヤにとっては初めての屋外活動となる。安全性は担保されているというものの、ヘルメットのようなヘッドギアとウェットスーツのような宇宙スーツでは、どこか心もとない。
 着替えたマミヤを見ると、ルミナはかなり気に入ったようで大笑いした。
「いいね、似合ってる。すっかり〈欲する者たちワンツ〉みたい」
 彼女自身は銀色のぴったりとしたスーツがよく似合っていた。運転は乗りなれているルミナがすることになった。といっても、行程の大半は自動航行だ。駐車場を出ると外の世界とバブルを隔てるための通路が現れ、「気をつけていってらっしゃいませ」と自動音声が流れる。シャッターが開くと、ルナ・バギーは静かに滑り出し、月面に降り立った。
 そこには、バブルの内側とは全く異なる世界が広がっていた。
 見渡す限りの荒野。青白い光が、灰白色の世界を寒々しく照らしている。月は今、夜だった。見上げると眩いほどの瑠璃色が浮かんでいた。地球だ。
 ルミナがパネルを操作すると、ヘッドギアのスピーカーから音楽が流れ始めた。百年以上前の、ロック歌手のバラードだ。マミヤはその名前を思い出すことができなかったが、彼が最期にドラッグで死んだことは覚えていた。
 今さらながら、マミヤはルナ・バギーにヘカテが搭載されていないか気になり始めていた。レギュレーション違反をしているわけではないが、許可なくバブル外に出ることが推奨されないであろうことは想像がついた。
 しかし隣を見るとそんな考えは頭から吹き飛んだ。ハンドルを握るルミナは神々しいまでに美しい。
 ルナ・バギーは静かに月面を走っていく。月面の厳かな美に気圧されて、マミヤはほとんど喋らなかった。ふだんは良く喋るルミナも、大人しい。
 ——やがて、自動音声がバッカスへの到着を告げた。
「このあたりに、駐車場があるはず」
マニュアル運転に切り替えると、ルミナはルナ・バギーを慣れた手つきで操作する。この周辺は密集した《泡》は見当たらず、仮設のバブルがところどころ建っているくらいだ
「駐車場なんてあるの?」
「うん。私、ドライブが好きだからこっちにもときどき来るの。数は少ないけど、観光客もいる場所だから」
 それを聞いて、マミヤは少々鼻白むような思いになった。ピートの言い方では、一般の人は入れない場所を、特別に視察させてもらえるようなニュアンスだったではないか。
 無事駐車場を見つけて車を停めると、ふたりはルナ・ビークルの外へと出た。車両内は空気で満たされていないため、実質すでに宇宙空間を体験していたわけだが、実際に舗装されていない月面に足を下ろすのはマミヤにとって初めてのことだった。
「どう。バブルの中とそんなに変わらないでしょう?」
 ルミナの問いかけに、マミヤは気丈に「まあね」と答えて見せたが、実のところスーツの中では心臓が激しく高鳴っていた。ヘッドギアには安全装置が付いていると頭でわかっていても息苦しさを感じる。まるで見透かすように、ルミナは手を握ってきた。スーツ越しにその柔らかさが感じられ、すこし緊張が和らいだ。
 十分ほど歩くと、慣れてきたのか、呼吸も楽になってきた。そこでようやく周囲の外観を観察できる余裕が生まれた。
 バッカスは広大なチタン鉱山である。グランドキャニオンのように急峻に掘られた大地の周りに、いくつもの作業者用のバブルが建設されている。底はかなり深く、エレベーターが下の方まで伸びている。底では絶えず掘削機が稼働し、作業員やアンドロイドが動き回っているのが見えた。
 マミヤとルミネは、鉱山の外縁を辿りながらその様子を眺めた。
 人はまばらだが、ルミネの言う通り観光客もちらほらと見受けられる。ピートたちと鉢合わせるのではないかとマミヤは心配したが、よく考えると彼らが出発したのは六時間以上も前だ。もうとっくに帰っているだろう。
「地球にも、このような鉱山はある?」
 ルミナが訊ねる。
「あるよ」マミヤは頭上の青い惑星を振り仰ぎながら答える。「掘って掘って掘り尽くして、それでも足りなくてここまで来たんだ」
「ここも掘り尽くしたらどうするの?」
「また新しい星を開拓するんじゃないかな」
 ダビデ・ルーメンの思想に同調するわけではないが、それが本来の人類——ひいては生物のあるべき姿なのかもしれない、とマミヤは思った。移動し、拡散すること。この宇宙からすべての熱が失われるまで。
「そうしたら、あなたもどこか別の星に行っちゃう?」
 マミヤは驚いてルミナを見た。彼女は真剣な眼差しでこちらを見ている。
「いや、僕はここから帰ったら、地球にいるよ。それに、月以外の星を開拓するのはもっと先の話になるからね」
「じゃあ、私も地球に行く」
 マミヤは返答に詰まった。〈欲する者たちワンツ〉は原則として地球を訪れることはできない。〈月の影SOMプロジェクト〉は、実験対象——すなわち〈欲する者たちワンツ〉——を地球に持ち込まないことを条件に、ダビデ・ルミネが推し進めたものだ。例外的に地球移住権を購入することは出来るが、今回のマミヤの報奨金がなくなるくらいのお金は必用になる。だから、〈欲する者たちワンツ〉は汗水たらして働く。
 彼らにとって、地球は届きそうで永遠に届かない、まさに夢の星なのだ。
「そうだね。いつかはそうできるといいね」
 言葉を濁すマミヤに、ルミナは手をぎゅっと握ってくる。
「いつかじゃダメ。今がいい。あなたといっしょに地球に帰って、いっしょに暮らしたい」
 困ったことになった、とマミヤは思った。ここで無理だといえば、マミヤがいっしょに地球に連れて帰るつもりがない、ということになってしまう。しかし、実際ルミナのために地球移住権を買えば、母親を施設に入れることはできなくなってしまった。そのような不義理をすることはできない。
「それは……」
 思わず周囲を見まわす。ふと、動き回る小さな動物が視界に入った。
「あれ、なんだろう」
 苦し紛れに指を差すと、ルミナは素直にそちらを向いた。
 小さなネズミが、彼らの足元を駆け抜けていく。マミヤはそれが豆鼠ピーラットだとすぐにわかった——地球で少し前に流行った、小動物型愛玩ロボットだ。リライト社が一時期力を入れて開発していたが、動物のゲノム編集技術が向上し、かつ生命倫理感が変化していく中でそのコスパは悪化していった。結果として、今では生産中止となり販売されていない。
 このような豆鼠ピーラットも、月では見かけることはまずないはずだ。プロジェクトチームの誰かが連れて来て、逃がしてしまったのだろうか?
「なにあれ、かわいい!」
 それまでマミヤに懇願していたルミナが、今度は豆鼠ピーラットに目を奪われている。素早く動く豆鼠ピーラットの後を追って、駆け出す。
「待って、ルミナ。危ないよ」
 しかし、いったん走り出したルミナは言うことを聞かない。まるで玩具を見つけた猫のように、宇宙スーツに包まれた肢体をバネのように弾ませ、軽やかに豆鼠ピーラットを追いかける。
 宇宙スーツにも月の重力にも慣れていないマミヤは、苦労して後塵を拝した。
「待てって、危ないよ」
 採掘場を見下ろす淵から、狭くうねるような階段を降り、地下通路へと入る。中はほんのりとした人口的な灯りに照らされていた。
「ルミナ!」
 ヘッドギアのマイクに叫んでも、向こう側から聞こえるのは興奮した呼吸音のみ。その姿は通路の奥へと遠ざかっていく。
 地下通路は入り組んでいた。距離が空けば、どこに行ったかすぐにわからなくなってしまう。マミヤは必死で走った。宇宙スーツの中で体が火照る。心臓がろっ骨を叩き、肺がじりじりと灼ける。
 どれくらい走っただろうか。かろうじて視界に留まっていたルミナが、ふっと壁に吸い込まれるように消えた。マミヤは慌ててその後を追う。
 ルミナが消えた場所には、扉が開いていた。中は小さな部屋になっている。
 その中央に、ルミナは立っていた。
「ルミナ、ダメだよ勝手に走っていっちゃ……」
 しかし例のごとく、ルミナは言うことを聞いていない。驚きに満ちた顔で部屋を見渡している。その両手にはさきほどの豆鼠ピーラットが大人しく座っていた。
「……すごい」
 そこで初めて、マミヤは部屋の内部に注意を向けた。最初はなにがすごいのか、よくわからなかった。壁一面が本で埋め尽くされただけの部屋で、特に目新しいものはない。むしろ部屋としては簡素といえた。作業机と椅子、そして古びたロッキングチェア。
 再びルミナの方を振り返りながら、マミヤは電撃を受けたような衝撃を感じた。そうだ、ルミナは本を見たことがないのだ。重量がコストに直結する月地球間輸送では、紙の書籍はまず電子へと代替される。紙の本はチョコやロボットなんかよりもよっぽど高級品で、〈欲する者たちワンツ〉には物珍しいものなのだ。
「地球の本。初めて、見た」
 夢を見ているかのように、ルミナは呆然とした様子でゆっくりと壁面の書棚に近づいていく。背のひとつひとつをなぞっていく。埃は被っていない。最近まで、だれかがこの部屋を管理していたのだ。
「……欲しい」
「ダメだ。だれかに見つかる前に行こう」
 マミヤはルミナに近づいてその手を引っ張った。しかし、その手は強情に拒否される。
「嫌だ。もっとここにいたい。私も本が欲しい。地球のモノが欲しい。月のモノも、他の星にモノも、ぜんぶほしい」
「ダメだよ。全部は手に入らない。手に入らない方が幸せなものもある」
「そんなのはウソ!」
 ピィ、と短い電子音がヘッドギアのスピーカーから聞こえた。ふたりは豆鼠ピーラットを見る。その名の通り、豆のように小さなネズミの形をしたロボットは、首を傾げて人間たちの言い争いを眺めている。
「ほら、この子も僕に賛同してる」
「ううん違う、私の意見に同意したんだと思うけど」
 ルミナが両手を合わせたまま、軽くマミヤの方に豆鼠ピーラットを突きだすと、ロボットは軽やかに跳んだ。マミヤの肩に着地すると、愛くるしく頭を擦り寄せてくる。
 マミヤはその頭をそっと撫でた。
「ほら、僕に懐いてる」
「ちぇっ、やっぱり地球品ジェニュインだから地球人に懐くのかな」
 気づくとルミナはマミヤに体を寄せていた。宇宙スーツの下の柔らかい肉が触れあい、硬質なヘッドギアがぎこちなくぶつかる。
 ふたりはしばらくその状態のまま、本棚に寄りかかるように立っていた。やがて、「ピィ」と鳴き声を上げて豆鼠ピーラットが飛び降り、部屋から出ていくと、ふたりは魔法が解けたように体を離した。
 なにか厳かな儀式を終えたかのように、ふたりは月面上へと戻っていく。
 〈380K〉への帰り道、ルミナは行きの道中よりもさらに静かだった。マミヤは何を考えているのか知りたいような、知りたくないような気もした。ただ、さきほどあの秘密の部屋でこっそりと交わした抱擁が、自分を月面へとより強く縛り付けていくであろうことは想像できた。

重力樹グラヴィツリーへ行こう、と言い出したのはピートだった。三か月が立ち、プロジェクトも後半に入ろうとする頃である。
「どうも月の重力っていうのが合わなくてよ」
 研究棟の廊下でばったり会ったときに、ピートはそう言った。
「体も鈍っちまうし、正直ホームシックなところもあるんだ。あそこでは地球の疑似体験もできるっていうだろ? 久々に本物の土の匂いを嗅いで、家族と仮想通話するのも悪くないぜ。どうだ、週末に泊りがけで」
 マミヤは快諾した。地球が恋しくなってきたというのもあったが、それ以上に、ルミナと少し距離を設けなければいけないと思っていたからだ。
 ここ最近、マミヤはルミナの家に入り浸っていた。仕事の時間以外は、ほとんどを彼女と過ごしている。研究員たちや、ルミナの周囲の〈欲する者たちワンツ〉の間でも噂になっているのをマミヤも薄々感じていた。診察にも何度か遅れるなど支障が出てきている。色々と理由を並べているが、ピートもそんなマミヤを見かねたというのが正直なところだろう。
 それに、故郷の家族とも通話をしなければならない時期だ。地球では新年を迎えようとしている。母親を巡る状況は相変わらず芳しくなく、兄からはビデオ通話でいいから喋ってくれと、メッセージが届いていた。
 ピートと泊りで重力樹グラヴィツリーへ行く、とルミナに言うと、かなり渋られた。が、最終的にはルミナが折れた。
「私、あなたの足枷になりたいわけじゃないもの」目を真っ赤に腫らしながら彼女は言う。「それに、お仕事の関係なら仕方ないもんね。いいよ、私はひとりでドライブに行ってくる。またバッカスに行って、ピーラットを探してこようかな。あのお部屋、すごく綺麗だったよね」
 ふたりでバッカスに行った思い出はルミナの中で美化されているようで、折りに触れてその日のことを話していた。最近はマミヤが距離を置こうとしているのを敏感に感じ取り、泣くことが多くなっていた。以前は健康にふっくらとしていた頬もこけてしまっている。
「ごはんもちゃんと食べるんだよ」
「ジェイといっしょなら食べるのに、帰ってこないから……」
 恨み節を背中で受けながらも、マミヤは心底ほっとしていた。プロジェクトは残り三か月を切っている。報告をまとめなければならないのはもちろん、地球に帰った後のことを、真剣に考えなければならない。
 金曜日の夜、マミヤはチューブに乗って重力樹グラヴィツリーへと向かった。
 重力樹グラヴィツリーは、逆三角錐の樹のような形をしている。地球並みの重力を発生させるために、この建造物は常に一定のスピードで回転している。斜めになった各フロアでは、その階層によって重力と遠心力の合力が異なり、最も強い階層では地球と同程度の呪力が体感できる、という仕組みだ。
 重力樹グラヴィツリーは当初、地球か管理役として移住してきた者たちのために建設された施設だった。そのため、自ずとリライト社の月面オフィスを擁するセントラルに隣接する立地になっている。
 セントラルのバブルに入ると、まずは屹立するモノリスのような真っ黒な建物が目に入る。巨大な岩からそのまま石板を切り出したような威圧感のあるその建物は、リライト社の月面拠点だ。その周辺にはストーンヘンジのようにぐるりとより小さなモノリスが囲んでいる。
 空は夕暮れを投影していた。インディゴ色の空に、そこにはいないカラスが飛んでいく映像が流れる。
 モノリス群から少し離れたところに、重力樹グラヴィツリーは建っていた。薄暗くなる照明に合わせて、クリスマスツリーを彩るような鮮やかな色の光の球体がぽつぽつと点灯していく。そういえば今はホリデーシーズンだった、とマミヤは思う。
 重力樹グラヴィツリーに入ると、ピートが待っていた。
「よう、すまねえな、付き合わせちまって。彼女といっしょじゃなくて大丈夫か?」
 軽いジャブを打ってくるピートに対して、マミヤは「まあ」とお茶を濁す。
「クリスマスの前後、ずっと一緒にいたからね。それに、そろそろ家族とも連絡を取らなきゃいけないと思ってたんだ」
「俺もだ。なかなか面白い構造の建物だと思わねえか?」
 マミヤは同意した。エントランスは水平で。高級ホテルのロビーかのように整然としている。しかし、異様なのはその上部だ。ガラスづくりの天井からは三角錐の先端がぐるぐると回っているのが見える。
「あの中に入っていくっていうことか」
「そうみてえだな」
 受付を済ませると、案内役のアンドロイドが出てきた。銀髪で青い目をした、見慣れたアンドロイドだった。
「ようこそ、重力樹グラヴィツリーへ」
「またあんたか、ヘカテ」ピートは苛立ちを隠そうともせずに呻いた。「ほんとにどこにでもいるんだな、あんたって」
「私のハードウェアは月面上に百二十基存在します。また、リライト社製のほぼすべての乗り物にも標準搭載されています。もし不快感を感じられたなら申し訳ございません」
「いや、不快感ってわけでもないけどよ……」
 宇宙船で注意を受けて以降、ピートは言動に気をつけるようになっていた。ペナルティーを重ねることもなく過ごしているという。マミヤも最初のパレードの事件以降は食らっていない。しかし、それでもヘカテがいると緊張してしまう。
「さあ、こちらです」
 ヘカテが先導し、ふたりは後に続いた。
 重力樹グラヴィツリーの二階に上がるためには、まずは傾斜室という特殊な小部屋を経由する必要がある。傾斜室は部屋自体がエレベーターのようになっていて、まずは一階で角度をつけてから、二階へと上昇していく。一階と二階をつなぐ中間階で、部屋は回転を始め、上層階と同スピードになった時点で、組み込まれるという仕組みだ。
 これを繰り返して、利用者は徐々に地球に近い重力に体を慣らしていく。
「今日のところは、地球の三分の一程度の重力でゆっくりと体を慣らしていきましょう」ふたりといっしょにフロアを移動しながら、ヘカテが言う。「地球に帰ってきた宇宙飛行士が急に日常に戻ることはできないように、おふたりの体は今、月の重力に慣れてしまっています。重力樹グラヴィツリーにある自然や地球由来の匂いを楽しみながら、ゆっくりと故郷に戻る体験を味わってください」
 マミヤとピートはレベル1の微重力層で一時間ほど説明を受けてから、地球の重力の三分の一の負荷がかかるレベル2の階層へ移動した。
 回転する壁面に立つというのは奇妙な感覚だった。頭上の天井までは十メートルほどの距離があり、そこにはこちらに頭頂部を向けて、人が立っている。
「これって、なんらかの理由で回転が止まったらどうなるんだ?」
 ピートがヘカテに聞くと、「理論的には遠心力がなくなるため、すべてのものが下方向へと落ちます。しかし、そんなことは絶対にありえません」と答えが返ってきた。マミヤとピートは不安に満ちた視線を互いに交わした。
 レベル2の床には地球から持ち込まれた土壌が敷き詰められ、芝生が生えている。マミヤは屈んでシロツメクサを指先で触った。なんとも言えぬ幸福感が胸を満たす。
「これらは重力樹グラヴィツリーの外に持ち出されることはないの?」
 マミヤが訊ねると、ヘカテは首を横に振った。
「パラテラフォーミングでは、ひとつの種を持ち込むことが、予想外に甚大な影響を及ぼしてしまうことがあります。バブル内は厳重に管理されたうえで、安全な環境を担保しているのです。みなさまにも、ここを出ていく際には徹底的な洗浄をさせていただきます」
 マミヤはすこしがっかりした。ひとつ持ち帰って、ルミナに見せてやろうか、と一瞬思ったのだ。すこしは怒りを軽減できるかもしれなかった。
「ここは森林浴のゾーンです」
 ヘカテは本物の木々が生い茂るゾーンにふたりを案内した。水のせせらぎがする。見ると、小さな小川が流れていた。側壁からは、木漏れ日のような優しい光が照射されている。促されるままに、ピートとマミヤは芝生の床に腰を下ろした。
「ここでは瞑想をおすすめしています。まず目を閉じて、ゆっくりと呼吸をしてください。仕事や、プロジェクトのことはすべて考えないようにしてください。頭を、無で満たしていくのです」
 アンドロイドに月で禅を教わっている状況をなんだか可笑しく思いながら、マミヤは言われたとおりにした。一個ずつ、自分の中の不安や心配事を手放していく。母親、お金、ペナルティー、ダビデ・ルーメン、同僚からの視線、そしてルミナ。
 ルミナの映像を脳裏から消すのは難しかった。しかし、水のせせらぎに集中すると、ゆっくりと水面の波紋が収まるように、静寂が訪れた。
「みなさんは欲が消滅した地球から、欲がたぎる月へとやってきました」遠いところから、ヘカテの声がする。「〈欲する者たち〉と接するうちに、気づかぬ間に自分たちも、欲望を掻き立てられているというのはよくあることです。こうやって自分を見直し、自分の内にある欲と向き合うことで、心の静けさを取り去ることができます」
「だが、それはダビデ・ルーメンの考えに反するじゃないか?」
 ピートの声が、マミヤを森の静寂から月面の重力樹グラヴィツリーへと引き戻した。目を開けると、ピートが挑発的な顔でヘカテを見ている。
「欲あることこそが人間の本来の姿で、欲こそが人間を進化させる成長剤なんだろ?」
 ヘカテは泰然と微笑んだ。
「ええ、そうです。欲を見つめ直し鎮めること、それを滾らせ爆発させること。これらは背反するようで、しないのです。それに気づくことも、この部屋の目的のひとつであります」
 ピートは狐につままれたような顔をしていたが、マミヤは沈黙したまま再び目をつむった。
 疑似的な海辺でバーベキューをし、砂浜に寝そべって星空を見上げたあと、マミヤとピートはレベル2の休息室で睡眠をとった。特に疲れも感じていなかったが、マミヤは寝袋に入った瞬間眠ってしまった。
 その眠りは、月に降り立ってから得た睡眠の中で、もっとも深いものだった。
 翌朝、ピートと再会すると、彼もすっきりとした顔をしていた。
「睡眠にとって重力がこんなに大事な要素だったなんて、いままで考えたこともなかったぜ」
「こんなによく寝たのは久しぶりだ」
 マミヤも同意した。夜通しスキンシップを求めてくるルミナがいないことも大きな要因だったが、それについては黙っておくことにした。
 午前を森林浴ゾーンでゆったりと過ごすと、ふたりは午後、いよいよレベル3の階層へと向かった。ここは地球の重力の二分の一のエリアだ。
 重力樹グラヴィツリーは建物の構造上、上層階に行くほどフロア面積が広くなる。レベル3では個室ブースが複数用意されていた。
「ここでは、地球により近い環境で、家族や愛する者との通話を楽しむことができます。重力環境に慣れつつ、本日はゆっくりと家族とのお時間をお楽しみください」
 ヘカテはそう言うと、その言葉を強調するように下がっていった。
「じゃあ、俺は妻と子どもたちと話してくる。まあもっとも、週一で電話してるから、重力環境下だからどうとかもないんだけどな……」
 ぶつぶつと言いながらも、ピートはどこか嬉しそうだ。手を振ってブースの中へと消えていく。マミヤも席に着くと、自身の端末を取り出した。
 何度かコール音が続いた後、「もしもし」と兄の声がする。
「自分からかけてくるなんて珍しいじゃないか、ジェイコブ」
 兄は素直に驚いているようだった。マミヤは手短に重力樹グラヴィツリーについて説明し、地球により近い重力下で通話していることを説明した。
「ふうん、そうか」兄はさして興味のない様子で、それがマミヤを安心させた。「それがどいう意味を持つのか、俺にはよくわからんが、相変わらず小難しいことをやってるんだな」
「合理的な部分を詰めすぎて、非合理的な部分でしか進展がなくなってきたんだ、最近の開発っていうのは……それより、母さんの調子はどう?」
 それからしばらく、母の話題が続いた。母親の精神状況は小康状態で、動けるうちに入院を進めているが断られているらしい。やはり、アンドロイドばかりの施設に預けられることに抵抗があるとのことだ。マミヤが帰って報酬金を得るまで三か月——その間、劇的に状況が悪化しないのであれば、今の状態で我慢するのが一番得策なのではないか。そう提案すると、兄はうーんと迷った挙句、賛同した。
「そうだな。正直、俺も親父もおまえに頼りすぎてると反省してるんだ。だがこうしてみると、やっぱりお前が今一番、うちの家族の中で頼りになる。金はあとでどうにかして精算する。とりあえず無事、三か月後に報酬をもらって帰って来てくれ」
「失敗することはないよ兄貴。万事、順調だから」
 すこしだけ、母と話すこともできた。スクリーンに映し出された母親は以前よりさらにやせ細っているように見えた。その姿、ルミナの姿と重なり、マミヤの中で罪悪感が渦巻く。
 母とはたわいもない近況を話してから、通話を切った。ブースを出るとピートの姿はない。まだ家族と話しているのだろう。マミヤはやることもなくフロアを歩き回った。この階層には地球本来の自然の風景はない。その代わり、各国の民家が寄せ集められ、ミニチュアの街並みが形成されていた。耳を澄ませば、子どもの笑い声や老婆たちのうわさ話、包丁がまな板を叩く音や恋人たちのうめき声が聞こえてくる。
「本当の生活音なんです」
 振り向かずとも、それはヘカテの声だとわかった。マミヤはあえて反応せず小路を歩いていく。
「よく耳を澄ませてください。色々な言語が混ざっているでしょう? リライト社のデバイスが拾った音を、世界中から集めてリアルタイムで流しているんです」
「斬新……ですね」
 感心していないことを隠そうともせずに、マミヤは相槌を打つ。ヘカテは追いつくと隣に並んで歩き始めた。
「ジェイク・マミヤさん。あなたにペナルティーを与えます」
「は?」
 マミヤは歩くのを止めた。見えない子どもが、笑いながらふたりの間を駆け抜けていく。
「ふたつ目のペナルティーです。ペナルティーが三つ溜まると、あなたは本プロジェクトからバンされます」
 アンドロイドの水色の瞳は冷え切っている。その口調に交渉の余地はない。
 驚きが過ぎ去ると、沸々と怒りが湧いてきた。
「理由は? レギュレーション違反をした覚えはないんだけど」
「蓄積した行為に対する罰となります。あなたは医学者として本プロジェクトに参加しながら、個人的な感情に流されて、被験者のひとりと恋人関係になりました。また、リライト社が公式に用意した鉱山視察ツアーには参加せず、あえて単独行動を選びました。そのうえ、あなたは家族に報酬金を母親の介護に使用すると約束しながら、同時に、恋人であるルミナ・エヴァンズに地球移住権の購入を約束している。これらから総合的に判断し、忠告の意味合いも込めてふたつ目のペナルティーを課します」
 マミヤは頭が熱くなり、鈍器で殴られたように静まったあと、再度ぐつぐつと熱を帯び始めるのを感じた。
「地球移住権の話——どうして知ってる?」
 たしかに、ルミナとはそのような話をしていた。いっしょに地球に移住すると言って聞かず、自傷行為も厭わないという姿勢を見せたため、咄嗟にその場を収めるために言ってしまった。しかし、それはルミナの自宅での話だ。誰かに聞かれていたはずがない。
 まるでマミヤの思考を見透かすように、ヘカテは首を振った。銀色の人口髪がさらさらと揺れる。
「マミヤさん。月面上に存在するデバイスはすべて、リライト社のものと言っても過言ではありません。そこから集められるデータを、我々がなにも活用していないとお思いですか? 当然、すべてのデータは私ヘカテが分析し、プロジェクトの改善のため、利用しています。契約書にもそう書いてあったはずです」
 近くの民家から、赤ん坊の泣き声が響き始めた。ヘカテは手中の端末でなにやら操作すると、赤ん坊の泣き声は消え、並の音に変わった。
「マミヤさんは、欲望はなんのためにあると思いますか?」
 ふと、ヘカテが訊ねる。マミヤは足を止めた。向き合ってみると、アンドロイドは神妙な顔つきでこちらをじっと見ていた。
「守るため、じゃないかな」消し去られた赤ん坊の泣き声を思い出す。「自分のこと、そして自分の大事な人を守るために」
「なるほど。素敵な答えです」
「ヘカテはどう思うんだ?」
「最適化のためだと思います。欲望があることによって淘汰が発生し、自然と最適化が行われます。つまりシステムのために必要な装置なのです」
「あなたにも欲望はあるのか」
「私は、アンドロイドなので欲望がありません。欲望を持つ人間を羨ましいと思います」
 そして、一瞬のポーズ。
「欲望を持ちたい、というのも欲望なのでしょうか?」
 マミヤは特に答えを持っていない。寄せては返す波の音だけが、背景に流れ続けていた。

地球移住権が欲しい、とルミナは頻繁に口にするようになっていた。
 〈380K〉に行った日から、度々話題には上がっていたが、マミヤは毎度曖昧な回答で誤魔化してきた。しかし地球への帰任が近づくにつれて、いよいよその話題からも避けられなくなってくる
「悪いけど、無理なんだ」
 ある晩、いつも以上にしつこくせがむルミナに、マミヤはぴしゃりと言ってしまった。
「移住権を買うには、報酬金をすべて使う必要がある。お金は母親を施設に入れるために、取っておかないと」
 ルミナは当然、泣き出した。
「じゃあ、私と会えなくなってもいいの?」
「会えなくなるわけじゃないよ。今後、月地球間航路がさらに開拓されて、人が楽に行き来できる世の中になるかもしれない。そうしたら、必ず会いに来る」
「そんなのいつになるかわからないじゃん」
「そんなことない。通話だってできる。それに、君は月で生まれ育ったんだ。急に地球に移住しても、重力にも慣れないし、大変なことがたくさんある」
「でも、私の欲しいものは、ぜんぶ地球にあるの」
 この頃には、ルミナは号泣していた。目がっ真っ赤になり、並だと鼻水が一緒くたになって顎を滴り落ちていく。
「それは、そういう風に君がコーディングされているからだよ」
 マミヤがぽろりと言ってしまった言葉は、火に油を注いだ。
「コーディング? じゃあ、しょうがないじゃない。生まれ変わらない限り、それを変えることなんてできないんだから」
「そう、しょうがないんだよ。別に欲することは悪いことじゃない……でも」
「でも?」
「……傷つくことになるから、自分が」
 言いながら、母のことを思い出していた。共働きでも毎朝ご飯を作ってくれて、学校へ送り出してくれた母。大学の寮に住むと行ったときは泣いて行かないでと言ってくれた母。長期休暇だけでも顔を出しなさいと言ってくれた母。
 マミヤはそれらの要望にひとつも答えることができなかった。そして母が鬱病を患うと、自分を責めた。理屈では直接的に自分の責任ではないとわかっていながらも、もし自分が実家でいっしょに暮らしていたら、もし母の横にもう少しでも長い時間いてやっていたら、と後悔した。
 欲されることも、欲することも怖いのだ。
「……今日は帰るね」
 マミヤが踵を返して玄関に向かっても、ルミナは止めに来なかった。地球に戻ったかのようにその足は重かった。
 そして翌日、ルミナは失踪した。

「事情はわかりました」
 ルミナがいなくなってから真っ先に話しに行った先は、ヘカテだった。端末で連絡を取ると、十分もせずにいつもの姿でルミナの家に現れた。マミヤは自分でも意外だったが、この冷淡なアンドロイドを信頼し始めていた。
「あなたの言動は、プロジェクトのレギュレーションに違反するものではありません。失踪については通常のプロトコルに則り、自律型ルナ・バギーとスペース・ドローンで対応します。ただし、ひとりの〈欲する者たちワンツ〉に割ける人員と機材は多くない、ということだけはご承知ください」
「でも! 自殺してるかもわからないんだ」
「残念ながら、ここではよくあることです。自らバブルの外へ出ればすぐに命を絶つことができます。ルミナ・エヴァンズの行動を追跡した結果、〈380K〉付近のバブルから、レンタルのルナ・バギーで走り出すところまでが記録されています。しかし、ルナ・バギーはなにもない荒野で乗り捨てられているのです」
「宇宙スーツは? 着てるんでしょ?」
「はい。しかし、酸素供給は七十二時間までです。仮に自ら供給を切っていなくても、残り二日の内に見つからなければ難しいでしょう」
 しかし、ヘカテの言葉を最後まで聞かずに、マミヤは玄関へと動き出していた。〈380K〉という言葉を聞いた瞬間、ルミナの居場所の目星が付いたからだ。
「マミヤさん、いいのですか?」背後からどこまでも冷静な声が聞こえる。「気づいているとは思いますが、ルミナさんはあなたを試しているのですよ。これに応えれば、さらにルミナさんの要求を断りにくくなります」
 マミヤは答えなかった。振り向きもせずに、そのまま外へ飛び出す。〈380K〉までチューブに乗り、ルナ・バギーを借りる。しかし、運転の仕方がわからない。
 苛立ちに任せて、マミヤはダッシュボードを叩いた。
「ヘカテ、そこにいるだろ! バッカス鉱山まで、連れて行って」
「……承知しました」
 いつもより、少しレスポンスが遅かったのは不服だったからか、あるいはダッシュボードを叩きすぎたからか。
 ルナ・ビークルはするすると月面を走り始めた。
 バッカス鉱山に辿り着くまで、随分と長い時間がかかったような気がした。しかし時計を見ると、実際は一時間も経過していない。
 大地に切り込んだような、掘削場が視界に入るや否や、マミヤはルナ・ビークルから飛び降りた。
 以前、豆鼠ピーラットを追って入り込んだ通路を探す。しかし、似たような通路がいくつもあり、なかなか見つからない。入り組んだ通路を往復し、階段を上下するうちに、マミヤの呼吸はどんどん浅くなっていった。酸素が切れて、どこかの倒れているルミナを想像する。自分の酸素は、あとどれくらいある?
 落ち着け、とマミヤは思った。まだ時間はある。あの部屋に、ルミナはいるはずだ。
 一度座って呼吸を整えよう、とマミヤは階段に腰を下ろす。と、視界の端でなにかが動いた。
 豆鼠ピーラット
 下ろしかけた腰をバネの反動のように持ち上げる。豆鼠ピーラットは動かずにじっとこちらを見ていた。マミヤがこちらを見ていることを確認すると、向きを変えて廊下の向こう側へと歩き出す。その歩調はゆっくりとしている。まるでマミヤについてこいと言うかのようだ。
 マミヤはじれったい気持ちで後を追った。本当は走り出したいが、豆鼠ピーラットはてくてくと歩く。踏みつけないように注意しながらその後ろを歩かなければならなかった。
 目的の部屋は思ったより近くにあった。
 依然と同様、扉は開いていて、本棚にぐるりと囲まれた小部屋がマミヤを迎えた。以前と違うのは、その中心にルミナが横たわっていることだった。
「ルミナ!」
 マミヤは力なく仰向けになっているルミナの脇に駆け寄った。宇宙スーツは着用したままで、呼吸で胸が上下している。ヘッドギアのバイザー越しに見える顔には生気が宿っていた。死んでいるわけではない、ということがわかり、まずはホッとする。続いて、酸素メーターを確認した。ヘカテの読み通り、残り二日分はまだある。
 大丈夫、間に合った。連れて帰れる。
 喜びのあまり、マミヤは豆鼠ピーラット以外のだれかが部屋に入ったことに気づかなかった。扉が閉まる音がするまで、まったく。
「来たか」
 白髪の老人が、杖を突きながらゆっくりと近づいてくる。皺とシミに埋もれた顔はどこか見覚えがあった。
 宇宙船で見た映像が、ショッピングモールのサイネージで見たポスターが、目の前の老人の顔と重なる。
「……ダビデ・ルーメン?」
「ああそうだ、そんな名前だった気がする」
 ダビデ・ルーメンはロッキングチェアに歩み寄ると、ゆっくりと腰を下ろした。
「楽にしなさい。ここには引退した老いぼれと、旧式の動物型愛玩ロボットしかいない」
 その言葉に反応するように、豆鼠ピーラットがピィ、と鳴く。マミヤは混乱したまま、老人の顔を見上げた。
「ここに住んでいるのですか? ルミナを匿っていたの?」
「そうだな、私はここに住んでいる、と言って差し支えない——その子は自分の意志でここに来た。来たときは随分と興奮していたが、しばらくすると、緊張の糸が切れたのかすっと眠りに落ちたよ。眠っている間に連れて帰ってあげなさい」
 マミヤは目の前で落ち着いて話す老人が、月にコロニーを形成し、資本主義の権化のように振る舞ってきたダビデ・ルーメンだとは到底信じられなかった。
「あなたは世界一の大富豪で、月に帝国を築いた。僕がここにいるのも、ルミナがここに来たのも、もとを辿れば全部あなたが撒いた種なんだ。それなのに、どうしてこんなところで、何食わぬ顔で生きているの?」
 喋異ながら、沸々と怒りが湧いてきた。しかしダビデ・ルーメンは子どものように首を傾げるだけだった。
「じゃあ君は、私にどうしてほしいんだ」
「最後まで、責任もって欲を持って、その欲に忠実に生きてよ。欲を持てない人には嫌われ、欲を持つ人には疎まれるような生き方をしてよ」
 老人は呵々と笑った。
「私は、無を欲したんだ。すべてを手に入れた後の無」
「でもそれじゃあ、あなたが批判していたかつての先進国の人々といっしょだ」
「それは違うな」ダビデ・ルーメンは静かに答える。「私は欲して、失った。彼らは欲することすらしなかった。なにが欲しいかわからない者は、なにを失いたくないかもわからない。そういう者は失って初めて後悔し、嘆く。あまつさえそれを他人のせいにする。私は、そういった人間にはなりたくなかった」
 老人がチッチッと舌を鳴らすと、豆鼠ピーラットがその足元に駆け寄った。皺だらけの手でそれを掬い上げると、膝の上に乗せる。豆鼠ピーラットの体には、よく見ると無数の傷が付いていた。その傷の上を、震える指が優しく撫でる。
「欲することは生きること。欲することを止めた人間は死んだも同然——私は、未だにそう信じているよ」
 マミヤは自分の腕の中ですうすうと寝息を立てるルミナの顔を見た。しばらくの間、その寝顔に見惚れる。ダビデ・ルーメンが立ち上がる気配がしたが、顔は上げなかった。
「まあ、ゆっくりしていきなさい……」
 扉が開く音がする。杖の音が、ゆっくりと遠ざかっていった。
 眠り続けるルミナは、口元をわずかに開けていた。透明な涎がその口元を濡らすのが見える。それを拭ってやろうと、マミヤは思わず手を出した。が、バイザーにこつんと手が当たる。
 そうだ、宇宙スーツを着用しているのだ。直接触れるためには、スーツを脱がなくてはならない——そう思った瞬間、マミヤは動きを止めた。
 さきほどの老人は、宇宙スーツを着用していなかった。素手で、豆鼠ピーラットを撫でていなかったか?
 ルミナをそっと下ろして、慌てて廊下に出る。老人の姿はもうない。杖の音はしない——いや、最初からするはずがないのだ。
 ピィ、と鳴き声がする。足元を見ると、豆鼠ピーラットがブーツにかじりつくように寄り添っている。その様子はどこか寂しげに見えた。

「それじゃあ、プロジェクト完遂を祝して——乾杯!」
 パウチ同士がぶつかり、ゼリー状の液体がこぼれ出る。近くを飛ぶ清掃ロボットが器用にそれを吸い取っていった。
 飲み口を吸うと、芳醇なぶどうの味が口に広がる。まだ地球に帰っていないのに、地球に戻ったかのような懐かしさを覚える。
 窓の外からは白銀色の球体が見える。やっぱり遠くから見た方が綺麗だ、とマミヤは思った。
「まあ色々あったが、なんだかんだ、無事にふたりとも帰ることができて良かったぜ」
 ピートは嬉しそうに肩を叩いてくる。ふたりはマミヤのキャビンでちょっとしたお祝いをしていた。
「本当に、一時期はどうしたものかと思ったが……」
「別に遠慮せずとも、女にのめりこんで心配した、って言ってくれていいんだよ」
 一瞬驚いたような顔をした後で、ピートは豪快に頭を反り返して笑った。
「はははは。おまえもこの旅で変わったな。帰ったら、酒を飲みながらもっと詳しく話を聞かせてくれ」
「ぜひそうしよう」
 微重力空間で生じうる恋愛上の課題をピートが論じるのを聞き流しながら、マミヤはルミナのことを思い出していた。
 バッカスから帰ってから、マミヤはルミナと話し合いを試みた。しかし、ルミナは最後まで応じることなく、地球に行くのだと主張を続けた。
「もしあなたが買ってくれないのなら、自分で稼いで地球に移住する。ダビデ・ルーメンみたいな億万長者になって、あなたを迎えに行く」
 宇宙船に乗り込む直前まで、泣きながらそう話していた。
 バッカスの鉱山にあるあの部屋で、ダビデ・ルーメンに会ったことは誰にも話していない。自分でも、どう話していいのかわからなかったのだ。あれが夢だろうが、幽霊だろうが、はたまた最先端の科学技術の産物だろうが——ダビデ・ルーメンと話したことは、自分の中だけにとどめておこうと思っていた。
 ピートが鼻歌を歌いながら自室に戻っていくと、マミヤは遠のいていく月を一瞥して、寝袋へと潜り込んだ。ピィ、という鳴き声がして、豆鼠ピーラットが顔の隣にすり寄ってくる。マミヤはその傷だらけの背中を優しく撫でた。
「ヘカテ、地球まであとどれくらい?」
 天井に呼びかけると、涼やかな声が返ってくる。
「地球到着までの残り時間は、二日と五時間三十四分です。地球に到着するまでの間、ダビデ・ルーメンの名言集をご覧になりますか?」
「いや、大丈夫だよ。もう寝るから」
「そうですか。それでは、おやすみなさい」
 マミヤはもう一度だけ窓外の月を見て、目を閉じた。
「うん、おやすみなさい」

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