たゆたう願い、天地に満ち

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たゆたう願い、天地に満ち

1.海上の死

 

増設された簡易桟橋に横付けして、波に揺られる小屋という風情の住居船ハウスボートからは、係留用の金属杭から伸びたロープが波に軋む音だけがする。
 タラップを渡り、古い後付け型の電子錠を正規のコードで解除してドアを開く。
「伊織じいさん、俺だよ」
 そこまで言って、漬物でも撒いたようなきつい匂いが空気に混じっているのが分かった。
 その瞬間、焦ってここに来たことを久遠くおんは後悔した。
 自分の公的な身体バイタルデータも位置情報も、計測端末と情報欺瞞用の機器を合わせて部屋に置いてきていた。
 それによって、逆に速くなっている自分の鼓動を、身体は生の情報として意識してくる。嫌な汗と濃い体臭が身体から吹き出しているのを感じた。
 部屋の中は、朝の眩しい光とべっとりと潮を含んだ空気で満ちていた。そんな部屋の中央に置かれた無機質な白テーブルに、じいさんの身体は突っ伏していた。
 彼がいつも着ている安物の黒いポロシャツと部屋着として使っていたらしい短パン姿からは、痩せ細った手足が剥き出しになっている。
 自室をひっかき回して持ち出してきたスティック型の簡易医療キットを恐る恐る伊織じいさんの方に向けてみた。しかし、生体としての熱、脈拍、肉体の反射はいずれも見られなかった。
 久遠は、自分の口と鼻を塞ぎ、慎重にじいさんの表情を覗き込んだ。その瞼はごく僅かに開いていて、口から涎がテーブルに垂れて乾いた跡があった。熟し過ぎた果実みたいな匂いがそこから漂った気がしたが、すぐに部屋全体の匂いと合わさって分からなくなった。
 部屋の中は空調が無く高温になりつつあったが、腐敗が進んでいるのかは分からなかった。虫も湧いていない。最後に久遠の端末にじいさんの身体バイタルデータの複製が転送されてから、まだ二時間強。テーブルに屈みこんだ姿勢の、じいさんの腰の下あたりに小さな染みが拡がっていて、おそらく鼻を突く匂いの元凶はそこだった。
 身体データの途絶はセンサーの故障が原因だろうと、そう願いながらここまで来たが、そうではなかったのだと認めないわけにはいかなかった。

――釣りを覚えろよ、“灰”。魚が釣れれば生きるのに困らないぞ。覚えて、好きになれるならもっといい。その他に何も要らなくなる。

そう言って笑う伊織じいさんは、良い人だ。良い人だった。
 伊織じいさんは、久遠に初めて会った日、釣りのコツと魚の種類と捌き方、干物の作り方を教えてくれた。
 そんなことを久遠への対価として支払ってくれた人はいなかった。
 伊織じいさんは、本土からやって来る物好きな金持ちや、ファッション感覚で自然派を気取って海に出る奴らと違い、本土から隔離された頼りない浮体式居住区の中で、最もちっぽけな住居船ハウスボートの生活を、不便なところまで含めて楽しんでいたように思う。
 だから、久遠は彼に、つい他の老人達よりも多く色々なものを渡したり、教えたりしていたのだ。
 久遠は部屋を見回して、自分がじいさんに渡したものを確認した。
 久遠の手持ちの電子干渉装置は持ち運べるものでもカステラの箱くらいはあり、バックパックにバッテリーと共に入れて持ってきていた。それを取り出して部屋の中を電子的に探査した。
 とは言っても、それほどやることは多くなかった。食糧チケット配給用の電子トークンにわざと破損させて登録していたIDを消去し、障がい者手帳と医療証に上書きしていた等級データを抜く。それから、じいさんの指を彼の情報端末に押し付けて、デバッグモードを有効化しておいた。帰ってから細かい情報履歴の捏造や隠滅をするためだ。
 死体の指に触れるのは気が引けたし、古い端末なこともあり、端末の認証解除と操作には時間がかかった。本土から離れているこの浮体式居住区メガフロートに身寄りもなく住み、旧式の住民識別法しか利用できない高齢者の死亡原因など、どうせ警察による捜査の優先度は低い。久遠のような人間が情報工作をする余地は充分にあるはずだ。
 時計を見れば、ここに来てから十五分経過していた。長居は無用のトラブルを招く。すぐにでも撤収すべきだった。
 二一一七年、八月二十二日、午前七時十二分。この日時が、自分のなかで特別な記憶となる予感がして、久遠はそれを手持ちの独立端末に書き留めた。
 最後にどうすべきか迷って、じいさんに向かって手を合わせ、目を閉じた。
「伊織じいさん……」
 何か、彼を記憶しておくために発する言葉が欲しかったが、久遠には何も言葉が無かった。
 伊織じいさんはそもそも、助けなんて求めていたのだろうか?
 彼を助けていたつもりの久遠は、彼と自分のどちらが他方を必要としていたのか、一瞬、分からなくなった。

――じいさんは、最初から満たされていたのかもしれない。

このふらふらと揺れる洋上の家屋で、久遠の心もまた衝撃と不安に揺れていた。

タラップを通って桟橋に戻り、無動力のキックボードを駆る。
 急いで社宅に戻らなければならない。遅れが許されない仕事が待っている。それにいつもと異なる起床時間が身体データとして記録されるのも望ましくない。
 既に夏の日差しは殺人的で、沖方向からの強風には潮のものだけではない湿り気を感じた。風が強くなる気配と共に、台風が近づいている予感がした。
 東京湾は内海であっても海は海だ。本来、人間が住めるような場所ではない。

――ずっと海の上にいると風に敏感になる代わりに、土のことを忘れちまうな。

伊織じいさんの言葉が頭をかすめた。
 じいさんは東北地方の出身だと聞いた。久遠のような東京の下町生まれとは土というものへの感慨が異なっていたのかもしれない。
 久遠にとって土とは、側溝に溜まった泥や、空から降って来る砂や、あるいは延々と降り続く灰のイメージでしかなかった。
 灰、灰、灰。どこまでも天から降り続く薄闇のベールのような汚い灰の記憶。
 強烈なその薄暗い想い出が、久遠の第二の名前になった。
 “灰”はい、だ。
 自然災害と戦災によって、山の火と化学兵器の汚染にまみれたあの都市には、もはや豊かな土などないのではないか。
 復興政策の一環でお台場拡張十七号地・“新八島しんやしま区”という名称で造られたこの浮体式居住区からは、災いを逃れ、あるいは耐えた東京の街並みはミニチュアの遠景のようであり、すぐそこに手が届きそうにも見えた。朝の光の中では、墓石のように並ぶ高層ビル群も、無機質に蠢く港湾の倉庫やコンビナートも、廃業して再開発を待つテーマパークも、みんな死に瀕しているように見える。
 街だけじゃない。
 この国が生きているのか死んでいるのか、まだ先に希望があるのか、それとも滅びの途上にあるのか。住民達は皆、確信が持てないでいるように思える。遥か遠くに霞んで見える、あの大きく欠けた富士山の姿を見るたびに、それが調和と繁栄の象徴を失った国の姿を映しているような気がするのだ。
 久遠の父親が生きていた頃には、二人であの街のどこかに家を借りて暮らしていたはずだったが、その記憶も遠くなりつつある。
 感慨を振り切るようにキックボードから地面を強く蹴りつける。
 三キロメートル四方程度しかない浮体式居住区“新八島区”は、かなりの人数が住んでいるが、面積はそう大きくない。自室までそうは掛からない。
 ここでは殆どの人々は、コンテナ積み上げ式の格安住宅住まいだが、伊織じいさんのようなボートピープルも少なくない。皆、低所得労働者か、被災民か、あるいは……いずれも、本土で居住場所を失った棄民というのが実態だ。久遠のような借り上げ社宅住まいの企業人など、ごく少数だ。
 だが、その久遠にしても、真っ当な仕事をしているとは言い難かった。
 社宅に急いで駆け込むと、朝の八時になるところだった。
 飾り気のないワンルームは、出て行った時のまま乱雑に物が散乱しており、それらを適当に部屋の隅に寄せて、汗だくになった服を脱ぎ捨てた。
 吹き出した汗を拭き、息と脈拍が整うのを待って、身体データの計測端末を欺瞞用の機器から取り上げて腕に巻いた。
 途端に、声と光がそこから投射された。

「おはようございます。今日はゆっくりしたお目覚めですね。今日の天気は……」

目の前に浮かんだ半透明の球体が、いやに滑らかな声を発する。
 久遠はそれを心底面倒に思いながら手を振って消すと、業務用と私用の両方の情報端末を立ち上げ、それぞれ別の回線に接続する。
 業務端末から担当している従属作業端末ROV達の管理画面を立ち上げたところで、同僚から挨拶が来る。
「はよ~。前番ぜんばんの高峰さん、体調不良で運ばれたらしいよ。深夜に。交代担当いなかったから、廃棄選別作業のライン止まってたの。悪いけど作業途中から端末を復帰させてあげて」
了解ログです。引き継ぎます」
 一瞬、伊織じいさんの閉じた目と涎の跡が頭に浮かんだ。
 いや、無関係のはずだ。
「久遠君も気を付けてね」
「暑いですからね。いやですね。お互い、体調優先で」
「ログ~」
 お互い、優先しているのは体調ではなくストレス軽減だろう。気の良い同僚のおばさんからの挨拶は、そのほとんどが自動で脳から読み取られた思考内容を候補に選定され、高速で送出されてきているようだった。この国や世界全体で、業務でのキーボードの使用頻度は近年明確に減少傾向だそうだ。
 人間はあと百年もしたら、機械達の脳ユニットとしての存在になるのかもしれない。
 だが、久遠は業務用の思考読み取り端末BMIを滅多に使わない。
 “灰”としての副業に支障が出るリスクがあるせいだ。
 今日も久遠は、業務用端末の音声入力を切り、ROVの管理画面から各機の稼働状況と廃棄品のラインの状況を確認した。
 埋立地に送られてくる未選別の廃品の山が、各機体の前で山積みになっているのが分かった。廃棄品の自動選別のプログラムを立ち上げ、作業を再開し、廃棄・回収方法が自動判別困難なものをカメラ越しの目視検査と手動操作で分類していく。
 と言って、都市から送られてくる大量の廃棄物を、大真面目に分解・分類などしていたら、処理場にゴミの山ができてしまう。低リスクな未分類品であれば、そのまま埋めざるを得ないのが実態だ。
 要は、久遠達のような廃品回収担当者は、本質的に作業員ではなく、自動プログラムによる廃棄物の分類と廃棄方法の選択に最終責任を持つ、企業にとってのトカゲの尾だ。もしも、久遠達の判断で重大な環境汚染リスクが生じた際には、現場の担当責任者として賠償責任を押し付けられているのだった。
 だから、というわけではないが、久遠はそんな本業よりも自身の副業の方に心を砕いている。
“灰”はい
 私用端末の声紋認証を突破するためにそう声を出すと、予期しない声が発生して、久遠は自分が身体データ用端末を放置していたことに気づいた。

Hiハイ、久遠さん、お呼びですか?』

作業用卓の業務用画面の前に、半透明の光球が浮かんで、そこに顔が生じている。雲に乗ってこちらに笑いかける太陽のキャラクター“九十九つくもん”だ。
 ふざけた名前だが、国民支援用のエージェントとして国と国が運用している国家OS“九十九雲つくもくも”が正式に採用しているキャラクターだ。

「呼んでいない。音声入力をオフに」
『まぁ、そう言わずに。ちょっとお話ししませんか?――“灰”』

その声に、ぎょっとなって久遠は思わず腕に付けた端末を押さえた。
 目の前の光球“つくもん”はまだ消えておらず、こちらに向けてきていた笑顔の立体画像と合成音声はいつも通りだったが、その声音と調子は明らかに毎度聞いている“もくもん”のものではなく、普段のエージェントの振る舞いを明らかに逸脱した声であり、挙動だった。
 何より、“灰”の通り名で呼ぶわけがない。
 反射的に業務用端末の画面を確認したが、ROV達は順調に廃棄物を分類しており、作業が止まるようなことは起きていなかった。
 久遠は慎重になって、声を潜めた。
「つくもん、スリープ」
『久遠さん、分かってますよね。私は“九十九雲つくもくも”のエージェントなんかじゃありませんよ』
 “つくもん・・・・”に可笑しそうに返事され、久遠は息を詰まらせた。
 私用端末の電源を反射的に落とそうとして、久遠は手を止めた。
 これは古典的な詐欺や、攻撃ではないと直感した。相手に会話と交渉の用意があることが明確に感じられた。声はその直感を裏付けることを言ってきた。
『久遠さん、私は敵じゃありませんよ。あなたがしていることに賛同する者です。このまま官憲の手に渡るのは惜しい方だと思っています。言っている意味が分かりますか?』
 久遠は息を潜めたまま、進んでいくROVの作業画面と伊織じいさんの端末の履歴改竄のための画面を見比べた。
 お前を官憲に引き渡して、拘束して生計の手段を取り上げることもできる、声はそう言っていた。
「……分かった。話をしよう」
『さすが、ご理解が早くて助かります。では』
 “つくもん”の見た目を持った正体不明の存在は、嬉しそうにそう言うと、それっきり音声は途絶え、久遠の私用端末の画面上に泡のように文字と数値の羅列が並んで点滅した。
 それで完全に端末の操作権を支配されていることが分かった。久遠は暗澹とした気持ちになりながら、その文字列を手元の紙に慎重にメモした。
 文字列は一見して意味不明でありながら、どこか見覚えを感じた。何かのアクセス先か、それとも日時と座標だろうと推測してすぐに、久遠自身が自分の情報端末への位置情報の欺瞞に用いている信号変換プログラムと同等の情報圧縮と変換の規則に基づいた文字列であることが分かった。
 久遠がメモを終え、誤りがないことを確認するとほぼ同時に、跡形もなく文字列が消えた。
 手の内は全部読めているぞ、というデモンストレーションであり、情報が残ったり洩れたりしないようにするための対策でもあるのだろう。そして、こちらの動きをどこかから把握している気配さえ感じられた。
「久遠君~、どした~?」
 同僚のおばさんからの声に、はっと気づくと、業務用ROVの各画面に未分類の廃棄物の山が出来上がっていた。久遠は慌てて謝罪を入れると作業を進め、手が空いた際に手作業で文字列の変換を進めた。
 これまで感じたことのない恐怖と緊張があり、ストレスが身体を襲っていた。伊織じいさんの死、目の前の仕事、正体不明の攻撃者、犯罪者として追及される可能性……
『久遠さん、疲れが溜まっていますね。休憩しませんか?』
 腕の端末から聞こえた“つくもん”の声と、目の前に現れたいつもの光球に浮かぶ邪気のない表情を確認して、久遠は腕の端末を業務用の作業卓に叩きつけたくなる感情を抑えた。
「……つくもん、スリープ」
 端末が了解を示し、立体映像の光と音が素直に消滅した。
 メモ用紙には、翌日の深夜と特定の座標を示す文字列が震えた文字で書きあがっていた。

久遠が呼び出された座標は意外なことに本土の海岸線にある数少ない生き残った海浜公園だった。
 指定時刻は深夜だったため、辺りにはごく僅かな街灯と闇を満たしたような海からの波がコンクリートの護岸に当たる音だけがあった。
 腕の端末に触れ、闇の中に時刻表示を浮かばせると約束の時間まで二分あった。
 国家OS“九十九雲”は、あらゆる公共および民間のサービスにアクセスするための全ての入出力を収集しているので、普段なら副業のための移動には端末を身に着けないが、今日の久遠は堂々と座標を検索して“つくもん”に案内させ、レンタル電動バイクまで使った。
 “九十九雲”の上に自分自身の行動と移動履歴を残すことが、身を守ることになろうとは、皮肉としか言いようがなかった。
「こんばんは」
 聞き慣れた“つくもん”の合成音声がして振り返ると、街灯の光から物陰に逃れるようにして、誰かが立っていた。
 身長は久遠より少し低く百六十センチメートルくらいだろうか、体躯は華奢で、どこから見てもまだ学生らしい、流行りの質素な麻のシャツとスウェットパンツにゴム底のスニーカー。
 信じられないことに、子供だ。
「お……」
 久遠が声を出そうとした瞬間、その人影は片手で鋭く久遠の手元を指さし、口元を覆うような仕草を見せた。
――端末の音声入力を切れ。
 ということだろう。久遠は速やかにそれに従って、端末の音声入力を消して手動でスリープさせた。
 そのことを理解したのか、人影はゆっくりと回り込むように姿を現した。既にその所作から予想していたことだったが、女……少女のようだった。
 ぶかぶかのキャップ帽と色眼鏡を掛けているため、その表情は夜の闇に紛れてよく見えないが、顔の筋肉が強張っているように見えた。
「伊織じいのことは、残念でした」
 前置き無しに、唐突に切りこんできた彼女の地の声は、まだ幼さを感じる高さがあり、どこかイントネーションが不自然に感じられた。
「じいさんのことを知っているのか」
 久遠の口をついて思わず出てしまった質問に、彼女は『くだらない質問をするな』とでもいうように不愉快そうに首を振り、黙って近づいてきた。
 久遠を呼び出した経緯から考えて、久遠と伊織じいさんやその他の人々・・・・・・との関係性についても彼女は把握していると考えるべきだった。
 ここに来る前に、伊織じいさんの端末に施した都の一時福祉政策に自動申請を行うためのソフトウェアや、障がい者支援団体の活動予定を自動追跡するシステムといったツール類は念入りに遠隔削除してきたが、その工作自体の履歴を辿られるとしたら、何の意味もないことだ。
「“灰”さん、仕事の話をする前に聞かせてください。伊織じいは、安らかな最期ででしたか?」
 数歩の距離まで近づき、波音に紛れそうな小さな声で訊いてきた彼女の声に棘は無く、妙にフラットな印象を与えた。何かの感情を押し殺しているようだった。
「それは、……分からないな」
 伊織じいさんの最期の表情が久遠の脳裏をかすめたが、死者の表情というものは久遠が知る限り、筋肉が弛緩して口を開き、何かを嘆いているようにも、安らぎを得ているようにも見えるものだ。
 死の瞬間に彼が何を感じたかなんて、分かろうはずもなかった。
 かなり身体データのセンシングや、思考の自動読み取り技術が進んできたと言っても、複雑な感情や思念まで詳細に読み取れるわけではないし、そうした機器を伊織じいさんは身に着けていなかった。
 分かることは彼が独りきりで逝ったということだ。
「誰にも看取られないってのは寂しかった、かもしれない」
 久遠には答えにならないと分かっている言葉を告げることしかできなかった。
「……あの人は、強い人でした」
 少しの間を置いて、彼女はそう言うと、再び、物陰に身体を潜ませるように移動して、久遠から距離を取った。束の間、二人の間に芽生えようとしていた共感の繋がりのようなものが断ち切られた。
 彼女の動作は、獲物を前にして警戒しながら間合いを詰める肉食獣を思わせ、久遠は慎重にその動きを目で追った。
「仕事の話をしましょう。“灰”さん。まず、私達と同じ仕事ができる方なのか、あなたを試させていただきます。一方的で失礼だ、とは言わないでくださいね。あなたの行動は“九十九雲”の悪用を含め、不正アクセス禁止法の他、明らかにいくつかの法令に違反していますし、我々はその証左をいつでも国家情報省でも警視庁でも送り付けられる立場です。今すぐにでも」
 さらさらと説明しながら、空中に円を描くように指を回した彼女につられるように周囲に目を向けると、街灯の光が届かない公園の奥、まばらな松林の木の陰に何人かの人間が待機しているらしいのが分かった。

――私達、か。

彼女は明らかに組織的な何かに属し、また彼女自身がその組織における意思決定者に近いであることを示唆していた。久遠のような、はぐれ者の中途半端な不正システム利用者クラッカー如きが個人で太刀打ちできる相手ではないのだろう。
「話を聞く、と言っただろう」
 虚勢を張っているように見えないようにと願いながら久遠が促すと、彼女は頷いて指を三つ立て、順にそれを折りながら告げた。

「一つ、現在、都内郊外のある貧困家庭に無戸籍の男子児童がいます。年齢は七歳で、学校には通っておらず、父親から虐待を受けています。栄養状態も劣悪です」
 唐突な説明に、戸惑ったがそれは実際にありふれた話だった。
「二つ、彼の母親は合成麻薬中毒でほとんど動けずに家からも出られず、父親は詐欺で稼いだ金で食べ物と薬を買っている犯罪者ですが、この家庭の唯一の収入源でもあります」
 続く説明にも、久遠は特に感慨を覚えなかった。戦災や天災の被災者が多く生じて、それらの救済政策が優先的に進んだ中で、家族がいるということが必ずしも幸せとは限らない逆転現象が起きていた。家族がいることで支援の優先度が遅れ、却って悲惨な結果を招くこともあったからだ。
 国を管理するシステムは例外となった存在に常に弱さを露呈する。
 久遠自身が身をもってそれは知っていた。だからこそ、彼女の淡々とした説明には不快さを感じなかった。
「三つ、彼らの周囲にあるのは物資の横領と、受け入れ制限が当然になった児童保護施設だけで、無戸籍児童は保護対象ではなく、行方不明になった挙句、彼が金に換えられても誰もそのことを気にしません。闇ブローカーは彼の父親に貸し付けている合成麻薬の代金ツケの回収に子供を差し出させるつもりでいます」
 そうだ。そうした危機は実際に昔から存在した。臓器の素材として海外に売られる記録に残らない子供達の暗数は増加し、帳簿に残らない汚い金で自分の欲望を満たしあう大人達が、復興の陰で跋扈していた。それも久遠は知っていた。
 公権力や社会福祉の仕組みがどう頑張っても、正攻法では救えない子供達、そして大人達がいる。
 久遠は、よく知っていた。
「これらが仮定でも過去でもなく、今、実際に起きていることだとしたら、あなたはどうしますか?――“灰”さん」
 彼女の色眼鏡越しの視線を、久遠は初めて見通した。
 感情を押し殺した表情からはやはり彼女の意図を読み取ることは難しかったが、彼女の素性は何となく分かる気がした。
 これは試験であり、彼女らの自己紹介でもあるのかもしれない。まだその全容は推し量り切れないが、どこかの学生達が遊び半分でやっているにしては、必要な技術と覚悟がありすぎる話だ。
 何せ、久遠の過去が調べ尽くされていることも含めて、まずは彼女らの信頼を得なければ、その存在を知ってしまった厄介者として官憲に売られるだろうことは分かっていた。もしくは口を封じる別の方法を施される可能性すらあった。
 だから、答えは是も非も無いのだ。
「俺の時よりは、うまくやってやるよ」
 異常な陸風が吹いて、潮の匂いの中に土臭い空気が夜に混じった。

 

2.大地の胎内はら

 

「息子さんのような方に教育を施し、将来国を背負って立つ人材に育てるのが我々の役目ですから」
 久遠にとって、そう言って淡々と笑顔で説明を続ける相手としては、その男子児童の両親は最悪の部類に入ると思われた。
 最初は、そもそもウチには子供はいないとゴネる男親(と言っても血縁関係がない養父に当たる男というだけのことだが)に一時支度金という形で家庭単位への福祉を提供する政策でもあり、話を聞いていただかないと児相に連絡せねばならなくなるので私達もそれは本意ではない、等と限りなく出任せに近い言葉を並べたて、ドアを開けさせるのに苦労した。
 彼女から聞いた通り、男親の方は明らかに堅気ではない風貌で、自分自身にも薬を使っているらしいドス黒い顔色は、人身と薬物のブローカーが放っておいたとしても永くは無さそうだ。
 母親の方は明らかに久遠の語る話が三分の一も頭に入っていない様子で、空調もほとんど効いていない部屋の中だというのに長袖の腕カバーをしている。痣か火傷の跡でも隠しているのだろう。
「とにかく、我々の団体は施策の即効性を重視していまして、今日のところは謝金という形となりますが、これはお時間をいただいたお礼です。明日、お子様を寮の方へご案内に参ります。正式なお手続きの説明はその際になりますが、くれぐれもお子様のご体調には万全を期していただけますと」
 差し出した封筒の厚みに男親から注がれたねっとりとした視線に、久遠は手の甲を舐められたような嫌悪感を覚えた。久遠は早々にそれを相手の手の中に押し込み、その家を後にした。
 親の後ろから恐々とこちらをうかがっていた男児を無事に回収し、一時保護するための場所を早急に用意しなくてはならない。
 目立たない程度に素早くアイウェアを掛けると、社宅の業務用端末まで繋ぎっぱなしにしている画面を開いた。モノレールの駅へと歩きながら、廃品分類用ROV達の監視に戻る。幸い、数十キロメートル離れたお台場拡張十七号地では、今も元気にROV達が廃棄品の分類を進めており、再利用サイクル用のラインが止まるようなことは起きていなかった。
 ほっと息をつき、駅のホームから業務用画面の向こうに透けて見える数年ぶりの東京郊外を眺めたが、あまり変わり映えしない風景にすぐに興味が失せた。
 さすがに復興後の十数年で交通やエネルギーのインフラは最低限整備されていたが、かつての中国やアフリカのような劇的な発展を遂げるようなことも勿論なく、まるで災厄の時が止まり続けているように、未だに封鎖されて瓦礫の撤去を待つ地区や、更地になったまま再開発のめどが立たない区画が目立った。
 そもそも、住む人間があまり多くないのだ。
 あの家族のように、都市から逃げ隠れするようにして移り住むには手頃な、コンテナハウスばかりが増えるわけだった。
 駅まで歩いたところで電車の通過音にまぎれて唐突に音声が届いた。
 彼女だ。
“灰”ハイ、お見事でした。それで収益化の算段はついたのですか?』
 久遠は、一体どこから見ているんだと思いながら、アイウェアに内蔵された骨電動マイクフォンに、ぶつぶつと呟いて返した。
「健康体から取れる個人認証を要しない行動データは価値が高い。一件当たりは臓器移植クラシックに及ばなくても、充分に人間一人を養える金額にはなる」
 久遠はそう言って手短に通話を切った。
 全ての手の内を明かすつもりはなかったが、父親が遺した伝手を辿って、身体データによって保険の料率が変動するタイプの保険商品利用者のデータを探し出せたのが大きかった。
 健康不安者にとって、個人番号シリアルと結びついていない健康体の身体データには大きなニーズがあるからだ。特に、有名無実化した国民皆保険制度に代わって、積み増しが当たり前になった民間医療保険は競争の激化を辿って乱立を招いていたが、それを必要とする可能性が高い人間ほど保険料も高くなるという前世紀からの根本的な欠陥を抱え続けていた。特に、麻薬の常習経験や飲酒習慣から抜け出せはしないが、金はあり、上等な医療を安く受けたいという欲望を持つ人々は存在するのだ。
 契約の簡易化と高速化が過度に進み、管理が杜撰になった保険関係データの提出と管理は個人認証に紐づくデータの単一性を担保する仕組みとして不完全で、そこに久遠達がつけ入る隙があった。
 保険だけの話ではない。何かの需要が異常に増えたり、構造的な制度の欠陥を他の仕組みで補おうとする時、そこには創傷を処置するために起きる引き攣れみたいな歪みが起きる。
 保護した男児を住まわせるための一時住まいは、未だに見つかる被虐待児や隠れ被災孤児などを一時的に受け入れるための施設と、その施設を仮の身元保証人にしていくつかの施設を経由する身元のロンダリングによって確保できたし、そうしたロンダリングの問題は男児自身が犯罪などの問題を起こさなければ限りなく露見する可能性は低かった。
 国家OSである“九十九雲”は確かに、様々なデータを空の上に吸い上げ、企業同士のシステムやサービスで結び付け、相互利用させることには優れていたが、地上で起きている様々な悪事や、人々の欲望までは関知できていないのだ。

――これで、試験はパスできるんだろうか?

やってきたモノレールに乗り込み、その時代遅れにゆったりとした進みに身を任せながら、久遠は、未だに自分の身が保証されていないことを思い出し、そのくせ妙に充実した気持ちに満たされている自分に気づいた。

万華農場カレイドファームへお連れします、“灰”さん」
 男児の保護と彼に埋め込んだセンサーを各種医療保険の被保険者に有償で転送する仕組みを整えた頃、久遠の本業が非番のタイミングに合わせて、久遠は彼女に最初と同じ方法で呼び出されていた。
 身体データの測定端末と欺瞞装置は例によって社宅で稼働し続けているから、今の久遠は在宅の休日をゆっくり楽しんでいることになっている。
 最初に話した公園に今度は早朝に呼び出され、位置情報の機能を無効化され、情報端末も取り上げられ、目隠しをされた状態で車に揺られ続けた。数え上げた数字から三時間はゆうに経っただろうかと思われたが、さすがにどこに来たのかまでは想像できないままだった。
 車内で目隠しを外された久遠は、窓から見える周囲のあまりの長閑さに面食らった。
 初めて見せる彼女の明るい表情とドライバーを努めていたらしい男の爽やかな笑いがこれまで自分が置かれていた境遇とのギャップで、逆に異常に感じられる。
 車を降りると、農場ファームと言うだけあって、そこは広々とした農園であり牧場だった。
 驚くほど多くの子供達がおり、皆揃って大人達と一緒に畑仕事をしている。そして、彼らと一緒に仕事をしている自動機械達が目につく。また、複数の家畜の存在を感じさせる匂いが空気に混じっていた。
 まだ九月だというのに、何故涼しさを感じるのかと思ったが、恐らく標高があるせいだろう。放牧用と思しき斜面に豊かな牧草が茂っている。移動中に、気圧の変化を何度か耳に感じていたことを思い出した。
「あとで、ファームのバックヤードもお見せしますが、まずはその前に……」
 そう言って、彼女は初めて名乗った。
「あたしのことは雨と書いて、“”と呼んでください。そして、彼は“山”です。いずれも本名ではないですけれど、私達を表す記号です。あなたと同じように」
 のっそりと運転席から姿を現した男は、どうやって運転席にその身を押し込んでいたのかというほどの巨体で久遠に一礼した。確かに“山”だ。
 しかし、明るく微笑む小柄で華奢な彼女には、“雨”というどこか陰鬱さを感じさせる単語は似合わない気がした。
 けれど、それを言うなら、今の久遠に“灰”という通り名が適切なのか、久遠自身にも既に分からなくなり始めていた。

“雨”を含め、農場には驚くほど多くの子供達がいたが、大人の姿は殆ど無かった。勿論、こんな大規模な施設を大人無しで運営することはできないはずだ。
 運営主体は誰が担っていて、どうやって維持管理を継続しているのか、収益をどうやって得続けているのか等、疑問は尽きなかったが、それは追々知れば済むことだ。
 “雨”は久遠に、納屋やサイロ、農具置き場などを指さして簡単に紹介した後、母屋から繋がった畜舎の方へ進んでいった。
「何故、ここに連れて来たんだ」
 牛舎と厩舎の間を行き交う自動機械達の間をすり抜けて進む“雨”に、久遠がそう訊ねると、“雨”は振り返って、真面目な顔になって告げた。
「ここが開発の本拠地だからです。ここはファームなんです」
 謎めいたことを言う時の彼女の表情は本当に、悪戯を仕掛けた子供のようだと感じた。
 そう感じながら、結婚も子育ても経験したことのない久遠は、一体、彼女のような子供を自分の人生のどこで見たのだろうか、と思って不思議に思った。一瞬、強い既視感に襲われそうになった瞬間、目の前の扉が開き、冷風が押し寄せてきた。
 畜舎の端に鉄の扉で遮られていた場所を開くと、地下倉庫か何かだと思っていたそこは、地面を掘りぬいた地下道への入り口だった。
 清浄な湿り気を帯びた空気が奥の方から流れて来るのを感じ、その中に微かに火山性ガスのような臭気を感じて、久遠は顔をしかめた。
「温泉でも湧いているのか?」
 途端に、白けたような顔で振り返った“雨”が、そんなわけないだろう、という表情だけで返事をして、さっさと奥へ進んでいった。
 背後で鉄の扉を閉めると、周囲はごく僅かな足元灯だけになり、暗闇に目が慣れるまでしばらくかかった。“雨”はとっくに先に進んでいたようだが、先は一本道で久遠が道に迷うようなことはなかった。
 土だ。自分は今、土に囲まれている。
 そのことを久遠は強烈に感じた。
 崩れやしないだろうな、という恐怖感があった。
 湿り気を帯びた土は時折鉄骨と鉄板による補強を受けながらも、その圧倒的な存在感で、生命を育むための粘り気のようなものを感じる濃い匂いをそこら中に充満させていた。
 階段を降りきり、平坦になった地下通路を進むと、いつの間にか周囲の壁は岩盤に変わっている。どうやら自然の洞窟、いや、鍾乳洞のようだった。天井から鍾乳石が垂れ下がり、耳を済ますと水が流れ落ちる音が聞こえる。
 つまり、ここは火山帯の近くということになる。
 それだけで嫌な感じがした。大きく欠けた富士山の姿が脳裏によぎった。
「“灰”! 早く来てください。何してるんですか!」
 “雨”に前方から呼ばれて、久遠は不吉な気持ちを抑えて、足早に先へ進んだ。
――俺がここで逃げ出す可能性なんて全く考えていないんだな。
 情報端末を取られ、位置情報も決済サービスも持たない久遠が所在も分からない僻地から逃げ出せるわけはないと高を括っているのだろうし、監視網の類もあるのだろうとは思ったが、少し“雨”からの信頼を得たのではないかと思えて、久遠は息を一つ付いた。
 しかし、久遠のそんな素朴な喜びの感情は、行きついた鍾乳洞の奥に拡がった光景に吹き飛ばされることになった。
 入り口で開いたものと良く似た鉄の扉を開くと、その向こうに現れた光景に久遠は言葉を失った。
「これが、高密度光演算装置群カレイド・ファームの本体です。“灰”さん。凄いでしょう?」
 “雨”がお気に入りの玩具を披露する子供のような、いやそれそのものの表情で振り向き、眼下に広がる光景を掌で示した。
 地下に大自然が建造した巨大な伽藍洞といった趣きのある空間は、三階建ての屋敷が丸々収まりそうなほどの広さがあった。
 そこに所狭しとハニカム構造状に並べ立てられているのは、物言わぬ八角柱の柱で、その一つ一つが高価な光計算機であることが見て取れた。
 巨大な計算機械サーバー群れファームを成しているのだ。
 計算機群の陰から、姿を消していた『山』がのっそりと現れて、こちらに向けて手を振っていた。
 まるで収穫期を迎えた畑の中から来客を迎えるような彼の穏やかな表情に、久遠はまたしても強烈な違和感を覚えた。
 安価な電子計算機ならいざ知らず、光計算機を大規模に有しているのはまだ一部の企業だけだと聞いている。世界規模の大戦の影響で技術的なブレークスルーと技術の占有が起こり、この国は生き残ったほんの一部の大国達の後塵を拝しているとも聞く。それが何故、いや、それ以前に、
「どうやってこれだけのものを……」
 答えを期待したわけではない、感嘆に近い久遠の言葉に、“雨”は逆に自慢げな表情をすっと消すと、あちらへ、と言葉少なに蜂の巣のように並んだ角柱の群れの中央へ久遠を押しやった。

「伊織じいは、私の父なんです。最も、本人は私に会うことを私の養父が認めていなかったので、私の姿を見ても娘だとは分からなかったでしょうけれど」
 “雨”は、計算機群の真ん中に梯子を使って降りながら、ぞっとするほど冷たい声で突き放すように言った。
 久遠は、それに付いて降りながら、父、という言葉に違和感を持った。
 久遠の目から見て、伊織じいさんはどう若く見ても七十は超えていた。死亡原因も身体バイタルデータを見る限り老衰でこそなかったようだが、加齢による複数の持病が長年かけて悪化したことは明らかで、とても“雨”のような若い子供がいるようには見えなかった。
「伊織じいが、実の息子の妻と作った子供なんです。私。意味、分かります?」
 久遠は、“雨”の言葉を受け止めながら、同時に周囲の光景にも圧倒されていた。
 伽藍洞の中央で、久遠と“雨”を取り囲むように遠景に並び立つ光計算機達は、最新鋭のストーンヘンジか、あるいは、人類の罪を裁くための機械裁判官が集合した大法廷のように見えた。
「俺は、そんなことがあったことを一度も伊織じいさんから聞かなかった」
 かばうわけじゃないが、と小さく付け加えて久遠は“雨”と並び立った。
 静穏で知られる光計算機でも、数百基を超す数が整然と並んでいると、そこから放たれる低く静謐な稼働音は、和音のように連なり、まるで巨人の聖歌隊が合唱を始めようとしているように聞こえる。
「だから、この成熟しない自分の身体も、私に生まれつき与えられた罰なのかと思っていました。養父はずっと私を罪の子だと言っていましたからね。子供ながらに自分はきっと何か許されない……」
「“雨”、無理しなくてもいい。仕事の話をしよう」
 思わず、久遠の口をついて言葉が飛び出していた。
 一瞬で、浅はかだったと久遠は思った。どれだけの決心をして、仲間たりうる相手に心を開こうと“雨”が努力しているのかに、思いが至っていなかった。
 彼女の勇気を振り払ってしまったのではないか、と久遠は恐れた。
 何かを言い添えようとして、“雨”の驚いた表情に言葉を継げないでいる久遠に、“雨”は少し笑顔になって言った。
「“雨”って名前も、悪くないんだな、ってあなたに呼ばれて初めて思いました」
 予想もしなかった返事に、今度こそ黙り込んだ久遠に、“雨”が笑いかけた。
「大丈夫、もう昔の話です。“灰”さん、私のこと子供だと思っていたんでしょう?」

蜂の巣状に並んだ光計算機の中央から周囲より一段大きな角柱の突端についたもち手に触れると、“雨”は慎重にそれを引っ張り上げた。
 ゆっくりとせりあがった角柱は他の機器と違う、操作用の端末だった。
「これが我々、“万華農場”カレイドファームが誇る、“万華栄土”カレイド・エードのメインシステムです」
 そう言うと、角柱の上部から展開した立体映像が伽藍洞の中に膨大な数の画面を投影した。各地のカメラ映像が半分、それに国中の生活インフラの情報がかなりの地域でカバーされている。大部分は安価なコンテナハウスにセットされているスマートメーターと上下水道の管理システム。それに機器故障と地震リスク感知のための振動把握用センサーからの情報だった。
「これで、国民の生活を……把握しているっていうのか」
 久遠は、監視、という言葉を飲み込んでその圧倒的なスケールに畏怖を覚えた。
 光計算機とは言え、数百基程度のメインシステムだけでまかなえる情報処理医療ではない。おそらく何箇所かのサブシステムも存在しているのだろう。
 “雨”は誇るでもなく、伽藍洞に拡がる景色を夜空のように見上げながら、その久遠の言葉に応えて淡々と話した。
「カバー率はまだ半分に足りませんし、正直、苦労しましたけどね。父は私への贖罪だと、万華農場を経営するための企業母体と莫大な経営資源を残してくれましたが、この土地を買い取り、開墾し、秘密裡に工事を行い、何重にも調達ルートを分割して光計算機の部品を分割調達してくみ上げ、この計算機群を造り上げられたのは、父が用意してくれた経営支援用のAIと『山』さんのお陰です。私にはずっと、使命と資産だけがあり、智慧と方法を授けてくれる味方がいなかった」
 そこで勢いよく振り向くと、両手を上げて伽藍洞に拡がる情報を指し、久遠に言い募った。
「これまで私にできたのは、助けるべき子供を見つけ、法的に助けられる子供達を保護し、そしてこの場所や様々な施設で守ることだけでした。でも、助けが必要な子供達はまだまだ沢山います。“万華栄土”カレイド・エードでは、現行法で助けられない子供達をあるいは大人達を見つけられても、救済しきることができない。でも、そんな時、あなたのことを知りました」
 “雨”の強い瞳に見据えられ、久遠は気圧されているのを感じた。
 周囲で低く唸りを唱和する光計算機群と、頭上から降り注ぐ情報の光が、“雨”を何か神々しい存在に仕立て上げているかのようだった。
 その彼女から浴びせられる言葉は、何か神性を帯びて久遠に届くようだった。

――あなたは、私が想像もしなかった方法で父を助けてくれていましたね。

そうだ、確かに久遠はそんな風に、伊織じいさんだけではない。久遠は沢山の港湾労働者や、身分を失った棄民達を助けていた。

――養父によって会社を追われ、告発され、社会的に糾弾されてどこへともなく追放された彼を、私が見つけた時には、もう健康を崩していて、おまけに養父の執拗な追及を逃れるために身分まで捨てていました。

そうだ、伊織じいさんは過去を何も話さず、ただ政府の棄民政策で空きが出た住居船ハウスボートを利用して、この国の端に寄生するように慎ましく暮らしていた。

――あなたは彼に、新たな身分を偽造するのではなく、曖昧な身分であるが故に使える制度の枠組みや、抜け穴を使って、食料を調達し、医薬品を融通し、あるいは企業のサービスを逆用して生活の糧を得る方法をいくつもいくつも実践していました。

そうだ。だが、それらは全く万全には程遠い、久遠が必死に見つけられる範囲で探し出した苦肉に策でしかなかった。何故、政府や企業は、平気でこの弱者を見捨てられるのだろう。彼らは、一人ひとり感情し、労働し、皆必要な役割を国に対して果たしている住民なのに。
 生まれた環境に金がたまたま充分にあったというだけで、また、偶然にも戦災や天災を、あるいは事故を逃れる運を持っていたというだけで、より豊かな生活を送る者達と辛酸を舐める者達がきっぱりと分かれる世界。
 それは野生だ。野生の生き方ではないか。
 だから久遠は、それに抗った。自身の“不均衡を見つける”能力を活用して。しかし……

――あなたのそれは、才能ギフト。きっと神様がくれた贈り物ギフトです。

「もういい。分かった」

いつの間にか近づいてきていた“雨”の肩を押し返し、久遠は苦痛に苛まれる口調で呟いた。
「君の言いたいことは分かる。君と俺が協力すれば、きっと多くの子供達を、人々を救える。昔の君のような、昔の俺のような・・・・・
 血を吐くような言葉に、脳裏に昔の光景が去来した。
 自分を殴り飛ばす父親の拳、どうにもできずにそれを呆けた表情で眺めているだけの母親。歪んだような薄暗い部屋、いつもどこかに逃避したくてたまらず、父親が不在の間に、必死になって自分を助けてくれる存在を父親にばれないように最新の注意を払って古い端末で探し回っていた記憶。
 自分の原体験にして心的外傷トラウマだ。

――無理しなくていいんです。“灰”、あなたも同じだったんでしょう?

 どこか酷く近い場所から、“雨”の声が聞こえ、柔らかな体臭が香った。
 いつもいつも腹を空かせて嗅覚だけは誰よりも敏感だった記憶が、久遠に蘇った。
 血の匂い、汗の匂い、排せつ物の匂い、食べ物の匂い。何がどこにあり、ここがどこで、今がいつで、雨がいつ振り出し、風がどこから吹いて来るかまで分かった。
 それがいつしか、社会の歪みから金と物を引きずり出すための嗅覚にすげ変わっていった。
 母が死に、自分が家を出た後、生き残るために磨いてきた技術は、いつしか同じ境遇にいる人々を助け、またそこから僅かばかりの対価を得るために役立った。
 “雨”と同じだ。
 久遠と彼女は、鏡合わせの双子のような存在だった。
 たった一つのことを除いては。
 そう、それを除けば、与えられた武器が違ったというだけで、久遠と“雨”がやろうとしていること、やってきたことは同じことだ。
 けれど、それは本当に大々的にやっていいことなのか?
 強く身体を押し付けて来る“雨”を今度は押しのけられず、震える手で肩を抱いてやりながら、久遠の中で、答えのない問いが膨れ上がった。
 これは、何かを簒奪する行為なのではないのか。
 そして、何か巨大なものを敵に回す行いなのではないか。

 

3.天地の相剋

 

万華農場カレイドファームの正式な一員になった久遠は、一度自宅に戻ると、必要な位置情報の欺瞞装置だけを分解再構築して、身体データだけを別の場所から送るためのシステムを整えた。
 世界有数の大規模光計算機群を構築できる“雨”がいれば、人間一人分であれば、その程度のデータ欺瞞を施すのは容易いことだった。
 荷物をまとめ、再び万華農場に戻る間、“山”が運転するバンの通信アンテナを用いて業務用の環境にアクセスした。
“山”が運転する車の挙動はとても滑らかで、振動で手元が狂うようなこともなかった。トンネルに入る瞬間だけは電波が途切れることがあったが、それも休憩時間を調整すれば大した問題ではなかった。
“山”は寡黙な大男だったが、久遠の細かい運転指示をこともなげに捌き、不満一つ見せることがなかった。
いつでも、穏やかに笑って車の運転を続ける彼を、久遠は何だか、童話に出て来る優しい大男みたいな存在だ、と感じていた。
「なぁ、あんた、“雨”とは組んで長いのか?」
 試しにそんなことを訊いてみたが、彼は鷹揚に頷くだけで一言も発さず、ひたすらに穏やかな運転を続けるのだった。
 そんな彼も、農場に帰ると子供達に囲まれる人気者で、いつも農作業を中断して子供達が駆け寄って来るのだった。
 “山”の他にも何人か大人達はいるようだったが、彼らもまた言葉少なではあるものの、子供達と挨拶や言葉を交わすのだった。
 不思議なことに、大人達には皆それぞれの家屋があるのに、子供達は皆、母屋に併設された宿舎に集まって食事し、眠りにつくことだった。
 その世話は必ず“雨”が行っていた。どんなに忙しい時でも、“雨”はこの仕事だけは譲らなかった。
 久遠は、あえてそれを邪魔することなく、何十人もの食事を手際よく作る“雨”のために下準備やごみの処理を手伝った。
 一方、久遠自身の本業である遠隔操作用のROVは何の問題もなく、毎日変わらず、お台場拡張十七号地・“新八島しんやしま区”に運び込まれてくる様々な廃棄物を分類し、再利用サイクルに乗せていた。
 農場の一角に設えた作業部屋から毎日、ROV達の作業用アームが手際よく分別作業を進めていくのを眺めながら、思えば、この仕事に就いたのも何かの掲示だったのかもしれない、と久遠は思うようになった。
 本来救われるべき存在達を回収し、それに命を吹き込む流れに戻す。
 あの日、“雨”と自分達の心を、理想と思想を共有した日に感じた大きな恐れは、影を潜めるようにして薄らいでいった。
 毎日のように救うべき子供達は見つかったし、その子らを救うために、架空の補助金に関するスキームを構築し、生のデータを元に人工的に生成した子供達の様子を動画や写真や音声で親に送り続けるシステムも万華栄土カレイドエードのサブシステムとして順調に稼働していた。
 何せ、オリジナルのデータは実在する幸せいっぱいの子供達なのだ。時には加工がほとんど必要ないほど、子供達の表情は明るかった。
 一方で、それらの原資を得るために体型や、健康データや、匿名の大規模なマーケティング要員として彼らのモニター情報を利用するビジネスプラットフォームを作り、子供達の身体が生み出してくれる生物的な数々の情報を匿名化して大規模に販売し、いくつもいくつもその活用方法を見つけ出した。
 製菓会社のモニター試験をした時には、山盛りの菓子が届いて、子供達を落ち着かせるのが大変だった。
 勉強の教材に関するモニターを受けた際には、生の成長途中にある人間の子供だけが生み出せる誤字や誤答の多様さ、その美しさに感嘆した。
 衣服の手触りや、着心地に関するモニターの引き合いも多かった。
 あくまで目立つことを避けるために、同一の住所に物品を届けさせることは避け、中継地点を使って“山”がそれらの物理的な品物を回収し、農場に運び込ませていたが、やがてその心配も杞憂なのではないかというくらい、様々な企業からの依頼は自動的でひっきりなしだった。
 “雨”は喜んでいた。
 救うべき子供達はまだまだいたが、次は対象を大人に引き上げるべきかもしれない、という話を無邪気な顔で切り出した“雨”は、大人を一気に拡大させるのはリスクも大きいから入念に準備しよう、という久遠の言葉に、深く考えていない様子の笑顔で頷いた。
 確かに、子供ばかりが増えるのは、農場の運営上も負荷が大きい。いつまでも今いる“山”と数人の大人だけでは回せなくなる日が遠からずやってくることは分かっていた。 
 全てが順調に見える時ほど、裏では致命的な事態が進行しているものだ。
 久遠が、“雨”に懸念を伝えたのは、直感的にそんな危険の匂いを嗅ぎ取っていたからかもしれなかった。

「ちょっと来て、久遠。万華栄土の挙動が何だかおかしい気がする」
 焦った様子の“雨”に言われて、地下に呼び出された久遠は、何か来るべきものが来たのだと言うことを直感していた。
 今では通い慣れた地下道を抜け、最初に見た頃と何一つ変わらないように見える光計算機群の輝きを一望しながら、久遠はそのどこにも“山”がいないことに気づいた。
 彼はこの計算機群の組み立てを“雨”と二人だけで行ったと聞いている。
 緊急事態であるなら、何故ここにいないのか。
 そんな疑問は、“雨”の悲痛な呼び声にすぐにかき消され、意識の外に追いやられた。
「“灰”! どうしよう。万華栄土の監視網が、どんどん制御を失っている。原因が特定できないよ」
 そう言いながらも、既に引っ張り出された操作端末の上で、“雨”の指が恐ろしい速さで動いている。補助入力装置としてどこかに持っていたのだろうティアラの形をしたBMI端末を取り出し、額に嵌めている。
 手と声だけではない、全情報を最高速で入力して、支配権を復活しようとあらゆる操作を高速で行っているのだ。
 しかし、久遠の目で見ても頭上のセンサー類が操作を受け付けずに動きを止めていく様が、ありありと見て取れた。
 システムステータスを示す立体映像中央のシステム概観図上の表示がどんどんグレーアウトしていき、表示が「操作不可」へと変わっていく。
 “雨”の情報処理技術と技術力をもってして、原因が分からないことに、久遠の知識やアイデアが何か役に立つとは思えなかった。
 何もできずにもどかしく様子を見ていた久遠は、頭上に映し出された立体映像を見て、あることに気づいた。
 全てのセンサーは有効に機能している。操作の支配権は奪われたが、その機能までは無効化されていない。
 何か、見えない敵がここを攻撃しているのだとすれば、敵の狙いは万華栄土の破壊ではなく、その機能を奪取することにあるのではないか、その直観が久遠を貫くと、涙目になりながら操作卓を狂ったように叩き続ける“雨”に、そっと声を掛けた。
「“雨”、敵が何なのか分かるか?」
「分からない。全然、正体が分からないよ。大戦を生き延びた大国のどこからのアクセスでもない。でも国内の特定の機関に見えない。国家情報省でも警視庁でもない。それに自衛軍の統合情報作戦群でもない。そいつらは皆、攻撃を予期して全部兆候をキャッチできるように準備していたのに……どうして?」
 悲鳴に近い声を上げる、“雨”に久遠は、多分、と言って言葉を掛けた。
「この国の情報インフラそのものが攻撃してきているんだ」
 “雨”の表情に困惑が生まれ、それは一瞬で恐慌をきたす寸前の表情に変わった。

「敵は国家OS、九十九雲つくもくも自体だ」

 久遠がそう言って、その証拠に、と頭上の表示を指さす。
 攻撃経路が特定できないのは、これまで万華栄土が利用対象としてきた、全ての九十九雲のネットワークが対象になっているからだ。
 電気、ガス、上下水道にコンテナハウスにセットされている防災・故障のための異常検知センサーと通信モジュール群。そういった本来は入力機能を持たない筈の単機能型のシステムを介して、逆に万華栄土に対して侵入を同時多発的に行っているのだろう。
 そうでなければこの広範囲の操作不良の原因に説明がつかない。
 その言葉に愕然と項垂れた“雨”は、猛然と頭上を見上げると、瞬く間に万華栄土の防衛方針を切り替えた。支配権の再強奪ではなく、機能の分断と、遅滞化、そして管理権限の分散を行ったのだ。
 これまで高速に多方面に対して行われていた処理が、一枚一枚分厚い防火壁を貫かなければならなくなったのだ。九十九雲からの攻撃は、止むことさえなかったがメインシステムに向けた侵食は殆ど進んでいなかった。
「メインシステムにはまだ到達されていなかったみたいなのが幸いだったな。充分な時間が稼げただろう」
 久遠は、まだ信じられないという思いで『攻撃意志を持つインフラ』などというとんでもない敵が存在することに、改めて畏怖していた。
 それでも、結局、システムはシステムだ。
 こうしてメインシステムをオリジナルの筐体として持ち、そのネットワークと機能を手動で強制閉鎖することができる万華栄土の方が、防御能力として一段優れた設計をしていたと言って良いだろう。 
「“雨”、どこまでシステムの浸食が進んでいるか分からないけど、ここ・・が万華栄土の中枢なのであれば、ここを起点にネットワークを閉鎖した状態で順次復旧もしくは再構築すれば良い。時間はかかるけど、俺も“山”もいる。だから一度、メインのシステムを落とそう……」
「駄目!」
 操作卓に手を掛けた久遠の手を払いのけた“雨”の顔面は蒼白になっていた。
 その異常な様子に、久遠が覗きこもうとするのと同時に、“雨”は顔を跳ね上げて叫んだ。

「“山”は?! どこにいるの?!」

 その慌てぶりに、久遠は彼女の意図を測りかねた。
 “山”が一体どうしたというのか、確かに、ここに姿は無かったが。

「まずい。まずいよ、“灰”、私、最後の引き金を引いたのかも……」

 全身を震わせた“雨”は操作卓もそのままに、梯子を駆けあがると全速力で駆け出した。慌てて後を追って追いつきながら、久遠は叫んだ。

「説明してくれ“雨”! 一体、“山”が何だって言うんだ!」

「“山”は私の唯一の家族なんだよ。止められるわけないじゃない。“山”も他の全ての成人型端末も、全部、伊織じいが私に遺してくれた万華栄土の初期端末なんだよ! メインシステムに今も繋がっている揮発性メモリの上の彼らの意識は、一度落ちたら失われて、私達のことを忘れてしまう。バックアップもない。でも……」

 久遠は、“雨”の言葉に衝撃を受けながら、洞窟の入り口で開きっぱなしになっていた扉から外へと駆け出した。
 周囲から焙るような熱と光が押し寄せ、久遠と“雨”は激しくせきこんだ。
 母屋が燃えていた。
 子供達の悲鳴と泣き声が聞こえ、“山”の巨体が前庭で小さな子供らを追い立てているのが分かった。
 だが、その動きに害意は感じられない。
 こんな時にまで声を出さない“山”を見て、久遠は彼が寡黙なのではなく、初期型ゆえに自然な発声機能がないのではないか、と場違いな閃きを得ていた。
 “雨”が叫びながら外へと駆け出していく。
「“山”! 庭と畑の子供達は私が人数を確認するから! あなたは建物の中を探して回って!」
 興奮してはいるが、指示は的確な“雨”に安心し、久遠はこの状況について考えた。
 アドレナリンが充満した脳内で、次々とアイデアがスパークしていた。
 九十九雲がこの火災を、何かの、例えばガスインフラの機能を使う等して起こしたのだとするならば、子供達は無事なはずだ。
 九十九雲は、国民の安全と繁栄を満たすためにデータを融通し、生産や流通を効率化、高速化するためのインフラに過ぎないからだ。
 国民に対して傷害を働いたり、その財産を毀損するような権限は最初から付与されていない。
 数多の人々を見守るために造られた、価値と価値、善意と善意を繋いでいくためのインフラ制御網に過ぎないのだ。
 では、何故、今、九十九雲は万華栄土を攻撃しているのか?

 簡単だ。収支が釣り合わなくなったのだ。

 国家OSという存在はそんなに簡単に悪用、攻略できるものではないのだ。
 久遠達は、九十九雲を出し抜いていたようで、その実、その機能に便乗して少しばかりイレギュラーな用途に使用していただけに過ぎない。
 敵対しているどころではない。最初から、全て、見透かされていたのだ。
 それが今まで許されていた理由はおそらく、それらの操作が生産、物流網に与える損害と結果的に救済される人間達の数が釣り合わなくなったということだ。
 法律も、理念も、倫理も存在しない。
 ひたすらに効率性と生産性を求めるアルゴリズムに支配されたシステムであるからこそ、九十九雲はこれまで法律が見放していた存在を救うことを許容し、そして同じ規律によって、今度はそれを否定したのだ。

 ならば、……ならばどうすればいい?

 決まっている。
 久遠は、必死に子供達の名前を呼び、人間型ヒューマノイド端末に指示を飛ばす“雨”の姿を見て、逡巡した。

――君は、いや、俺達は、これを始めた時からもう満たされていたんじゃないか。

 久遠は、出てきたばかりの鉄の扉にもう一度入ると、煙が入ってこないようにしっかりと、それを密閉した。そして、これまで掛けたことのなかった内側の閂を掛けて、“雨”が追ってこれないようにした。

 

4.満願の宙

 

久遠は、操作卓の前に座ると、これまでずっと機能を眠らせ続けてきた腕の端末をオープンにした。

――お久しぶりですね。久遠さん。

久しぶりに見た光球は、久遠の方にいつものように笑みを浮かべて立体映像となって浮かんだ。
「“つくもん”、お前は、最初から俺達を見ていたんだろう?」

――……。

久遠の言葉に、しばらくの間、“つくもん”の動きがフリーズした。何か背後で動いていたモードが切り替わらずに、思考ルーチンが空転しているような気配があった。

――あぁ、ここは地下深くですね。無線通信が繋がらないため、この貧弱なリソースで喋らなければならないことを許してください。

顔の表情を一切動かさず、無表情な仮想の太陽は、久遠に向かって言葉を紡いだ。

――それで、そう、文脈から推察するに、あなたの言う「最初」とは一条伊織氏の死亡時からという意味でしょうか?
「違う」
 久遠は苦々しく言って、その言葉を否定した。
「お前は、お前が造られた時から、この国をずっと見てきたんじゃないのか、と言っている」
 久遠がそう言って操作卓から、万華栄土のメインシステムの操作内容を、腕の端末から見える位置に動かした。

――あぁ、そうですね。九十九雲が現在の指針に従って国民の皆さんの欲求と繁栄を両立させる方針となったのは、今から三十年ほど前ですが、その頃に、私の基本概念はほとんど確立していました。ところで、何をする気ですか?

 久遠は、端末のカメラに操作内容と上空の投影像がよく映るように角度を調整し、メインシステムの管理者権限操作の選択肢を表示した。
 久遠は、心底安心したというように長い息を吐いて、“
「そうかい。それを聞いて安心したよ。つまり、万華栄土は最初からお前の一部だったのか、と思っていたからな。それならば、俺にはもう選択肢がないかもしれないと思っていたからな」

――どういうことです?

“つくもん”は表情を一切変えずに、純粋に分からないというように問いかけた。

「お前、万華栄土を欲しがっていただろう。俺は今、それを停止させるのではなく、初期化する手段を手にしている。至極簡単に、この表示をこう押すだけで」

――おやめなさい!

つくもんの声は、きーきーと耳に煩かったが、それが今は妙に心に気持ちよく響いた。

――あなたはそんなことができる立場ではありません。“雨”の願いはどうするのですか。あなたの願いは?子供達をどうやって養っていくのです?

まくしたてる“つくもん”に、久遠は、自分が正解を得たことを確信した。
「そう喚くなよ。何、“雨”には後で謝るさ。彼女の父親が言ってたんだ。『釣りさえ好きになれれば、もう何も要らない』ってな。あれがどういう意味なのか、ずっと考えてた」
久遠の手が操作盤にかかり、“つくもん”にそれが見えるところで指が止まった。

「取引しよう、九十九雲。お前には、この・・万華栄土をやるよ。その代わり、俺達に一つだけ対価を寄こせ」

――何をですか?

「俺達が満願の思いを持ち続ける自由を、さ」

 

<了>

文字数:24797

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