エコー404

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エコー404

 

「あなたは無罪です。よって、《忘却刑》は取り消されました」

 

 白衣の職員はそう言って、穣(じょう)の前にテーブルミラーを置いた。

 鏡のなかには、頬のこけた青年が映っていた。伸びた黒髪のすきまから、落ちくぼんだ目がこちらを見つめている。穣は自分の頬にそっと触れた。すると、鏡の青年も、同じようにした。

 

「これが、俺ですか?」

 

 そう言ってから、バカみたいなセリフだと思った。鏡の男と同時に口を動かしておいて、それが自分以外のなんだというのだろう。それでも、鏡に映る痩せぎすの若者が、自分であるという実感がまるでなかった。自分の顔をもっと覗き込むため、腰かけたベッドから立ち上がろうとする。

 ―鋭い痛み。

咄嗟に左脚を浮かせ、ベッドに手をついた。左膝の内側がジンジンとうずく。左膝は、少し曲がったまま固まり、伸ばしきれない形になっている。かかとが床につかないので、立ち上がるには右脚に体重を逃がすしかない。

 

 すると、おぼろげな記憶が、脳のなかで像をむすんだ。振り上げられる鉄製の警棒。それが左脚に叩き込まれる。バキッ、と濡れた枝を折るような音。激痛。声にならない苦悶。そして警棒をふるった、長い髪の女監視官が自分を見下ろす冷酷な視線―。そうだ。服役中に、この左脚は傷つけられた。穣は、だんだんと自分のおかれた状況と、9年間の服役生活について思い出しはじめていた。

 

 しかし頭のなかが整理されるより先に、ガチャッと背後の扉が開いた。別の職員が入ってきて、ぶっきらぼうに呼びかける。

 

「報道陣が集まってきています。すぐに出てください!」

 

 なんだって言うんだ? 穣はあわただしく医務室を追い出された。殺風景な廊下。左脚をかばいながら、壁づたいに歩いていく。扉を開けると、白い光が目を刺した。次の瞬間、柵の向こうで一斉に声が上がった。

 

 

「佐野穣さん!」

「こちらを向いてください!」

 

 何十人もの人間が、カメラやマイクを突き出している。職員が門を開けると、報道陣は待ち構えていたように穣を取り囲んだ。

 

「戦災孤児院の寮父殺人事件について、冤罪が認められたいまのお気持ちは!」
「《忘却刑》を受けて、どのような被害がありましたか!」
「9年間の服役生活は悲惨でしたか!」

 

 質問が四方から飛んでくる。人波の熱気とフラッシュに圧倒されて、頭がグラつく。目の前では、汗ばんだ記者がなにか期待するようなまなざしでマイクを向けている。

 

「記憶のミュート技術そのものに問題があるとは思いませんか!」

「……ミュート?」

「あなた自身、その被害者ですよね!?」

 

ミュート。

 その言葉を聞いた途端、バラバラの記憶が、また少しつながった。

 ミュートは、ある人間だけを忘れさせる技術だ。一度ミュートに設定した人間のことは、名前を聞いても、顔を見ても、その人のことだとわからなくなる。《忘却刑》は、その技術を犯罪者に使う刑罰だった。国民全員が受刑者を忘れる。さらに受刑者自身も、自分の名前や顔を認識できなくなり、自我を失ってしまう。そうだ。死刑が廃止されたとき、その代わりにつくられた制度だ。9年前、穣もそう説明された。ひと昔前なら、育ての親殺しなんて死刑で当然だったのに、生き延びられるなんて。新技術に感謝しなさい、と。

 

「制度に反対ですか!」

「ミュート技術は禁止すべきだと思いますか!」

 

 答えられるはずがなかった。自分に何が起きたのかさえ、まだ半分も理解できていない。むしろ穣のほうが、記者たちになにもかも尋ねたかった。

 

 9年前、何があったのか?

 なぜいまになって俺は無罪になったのか?

 服役中、俺はどんなヒドい目にあわされたのか?

 体のいたるところが痛んでしょうがないが、今夜は熱い風呂とまともなベッドにありつけるのか?

 それから―。

 

「誰か捕まったんですか?」

 

 穣は、目の前の記者に問いかけた。実感はないが、事件から9年の時がたったらしい。いまさら自分が殺人犯じゃないと認められたのは、誰か真犯人が捕まったからじゃないか。そう思い至るのは自然だった。自分と入れ替わって捕まった者がいるとすれば、それは誰なのか。

 

「真犯人がいたんですか?」

 

 しかし穣がそう問うと、記者団のあいだに奇妙な沈黙が広がった。目の前の記者を見つめても、クエスチョンに答えようとしない。記者が穣にマイクを向け、再び喋ったのは、またもミュート技術の是非を問う質問だった。穣は無性にイラだってきた。

 すると、人だかりの後ろのほうで、なにごとかざわめきが起きた。報道陣のかたまりが、わっと道をあける。数人の警護を従えた、銀色に近い白髪の男が歩いてくる。壮年のその男は、濃紺のスーツに身を固めている。記者たちから声が上がった。

 

「神崎さん!」

「神崎委員長! 冤罪についてコメントを!」

 

 神崎と呼ばれたその男は、穣の前までやってくると、深々と頭を下げた。

 

「佐野穣さん。内閣府ミュート・テック推進委員会を代表して、心よりお詫び申し上げます。われわれが普及に努めてきたミュート技術が、あなたのかけがえのない9年間を奪ったことについて、いかなる弁明もありません」

 

 シャッター音がけたたましく盛り上がる。豊かな白髪を撫でつけた神崎という男に、穣はなぜか見覚えがあるような気がした。どこかで出会ったことがあるような……。しかしその記憶の手触りはあまりにもかすかで、なにか思いあたりそうな気配はちっともなかった。
 神崎は頭を上げると、報道陣へ向き直った。

 

「今回の事態は、決してあってはならない重大な冤罪です。事実関係を徹底的に検証し、再発防止に努めるよう、司法・行政の両面で働きかけて参ります」

 

 記者の一人が叫ぶ。

 

「ミュート技術の廃止も検討しますか!」

 

 しかし神崎の表情は変わらなかった。

 

「人間には元来、『忘れられる権利』があります。『忘れられる権利』をたしかなものにするこの技術は、いまや多くの人を救っています。ミュート技術がなければ、この国は文字通りバラバラになってしまうでしょう」

「しかし、これは技術の濫用ではありませんか?」

「今回の事件は、きわめて特殊な事情が重なった例外的なケースです」

「制度そのものに問題はないと?」

「技術によって救われている人々がいる。それは、この冤罪事件とは別に存在する事実です。事務的な誤りがあったからといって、救いそのものを否定するべきではありません」

 

 神崎はそう言うと、穣へ手を差し出した。穣が動かずにいると、神崎は笑みを浮かべたまま、小声で促した。

 

「穣くん、カメラが見ています」

 

 神崎は穣の手を取ると強く握り、二人の握手を報道陣から見える高さまで持ち上げる。

 

「政府は、佐野穣さんの社会復帰を全面的に支援します」

 

 シャッターが一斉に切られた。神崎はさらに穣の肩へ腕を回し、自分の隣へ引き寄せた。穣の左脚に体重がかかり、膝の奥に痛みが走る。痛えよバカ、とばかりに穣は神崎を押し返そうとする。が、穣の腕に入る力はあまりに弱く、反対に神崎の力は見た目の年齢に反して異様なまでに強かった。神崎の連れの黒服たちが、穣と記者のあいだに割って入る。そのまま黒服にカバーされるかっこうで、穣は神崎とともに公用車の後部座席に乗り込まされた。ドアが閉まると、記者たちの声が一段遠くなった。神崎が手を上げると、車は窓に貼りついてくる記者団を押しのけながら重たげに発進した。穣は隣に座る神崎に言った。

 

「降ろしてください」

「降ろすって? 行く当てがあるのかい?」

「……」

 

 そう言われて、気がついた。穣には行くべき場所がなかった。あれだけの人が押しかけた釈放の瞬間だというのに、神崎たちを除いて、誰も穣を迎えに来る者はいなかったのだ。穣は、戦災孤児院で育った天涯孤独の少年だった。

 

「君の育った孤児院ならなくなったよ。なんせ寮父の桑島さんが殺されたからね」

 

 うちに帰る、と答える前に潰されてしまった。悟られないように努めたが、落胆した。いよいよ身寄りを失ってしまった。

 

「仮の住まいはもう用意してある。言っただろ? 穣くんの社会復帰は全面的に支援する。君は15歳から24歳までの9年間を失った。ようするに、中身はまだ子どもだ。学校に行き直したければ手配しよう」

「別に行きたくありません」

「子どもらしい答えだな。それなら、何が欲しい? とりあえずはメシか?」

 

 助手席から、警護か秘書らしき男が、さまざまな仕出し料理の載ったメニュー表を差し出して見せてきた。しかし穣にはそんなものはどうでもよかった。

 

「誰が父さんを殺したんですか?」

 

 穣は、孤児院で唯一の寮父のことを「父さん」と呼んでいた。その「父さん」が殺され、そして自分がその罪を着せられていた。

 

「俺がいま知りたいのは、それだけです」

 

 神崎は目を瞑って首を横に振った。

 

「それは私にもわからない」

「なんでですか?」

「それはもちろん、その人物がミュートされているからさ。真犯人は逮捕された。そしてすでに《忘却刑》を受けている。だからもう、誰にも真犯人の素性はわからない。僕にだってわからない。そして君がそうだったように、本人でさえ、自分が何者であるか忘れてしまう。例外はないというわけだ」

 

 トントン、と人差し指で頭を指しながら神崎は言った。いや、正確には神崎が指し示しているのは、頭のなかのナノデバイスだ。記憶は、脳細胞同士の電気信号のやりとりによって形づくられている。脳内の十数カ所に配置されたナノデバイスは、海馬や扁桃体に保存されたさまざまな記憶のかけらと、側頭葉前部に保存された人物の顔や名前といった記号理解のあいだのネットワークを、微弱な電気信号によって切っている。多くの国民は幼児期に施術を受けているが、ナノデバイスはカテーテルで脳静脈に注入すれば、適切な部位に自己配置する。

 9年前にそんな説明を受けたはずではあるが、穣にとってはどうでもよい知識だった。理科は好きではなかった。

 

「よくわかんないけど、あんた偉い人なんでしょ。それでも他の一般人と同じように、忘れちゃうわけ? そのミュートって設定、取り消せたりしないんですか」

「それはできない。《忘却刑》はこの国で最も強いミュート処理のひとつだ。立場ある職務についているからといって、おいそれと《忘却刑》の効果から特別に逃れるなんてことがあってはならない。『忘れられる権利』の前に人は平等なんだよ」

 

 神崎の言っていることは、穣にはほとんどよくわからなかった。そしてそれきり、話す気もなくなってしまった。車窓を流れていく街並みと、鉛を張ったような曇り空を眺めながら、穣はぼんやりと考えた。9年ぶりに自我を取り戻し、少しずつ思い出した自分自身の正体が、天涯孤独の身であるということ。

 

 思い出さなくたってよかったのに。

 忘れたままでよかった。

 俺の人生なんか、思い出さなくてよかったのに。

 

 それが、穣がこの世界に復帰してはじめて強く抱いた感情だった。

 

 車窓にポツポツと水滴がついた。やがて流れはじめた雨粒を見つめているうち、穣は眠ってしまった。

 

 

 夢のなかで、穣は海辺にいた。左脚はまっすぐ伸び、はだしのまま波打ち際に立っている。15歳の身体だ。足の下で砂粒が波にさらわれる感触がくすぐったい。すこしはなれたところでは、孤児院の子どもたちがきゃあきゃあと歓声をあげて、一生懸命に小さなヤドカリを探したり、飛沫をかけあったりしている。みんなで海へ来たのは、この一度きりだった。

すると背後から、穣を呼ぶ声が聴こえた。

 

「こっち向いて」

 

 女の子の声だった。振り返るとその先に、首からポラロイドカメラを提げた少女が立っていた。ウェーブがかった髪は長く、はねがちな毛先がシャツワンピースの柔らかい生地の上で踊っている。年は穣と同じくらいだ。少女は白い手をくるりと翻しながら言った。

 

「もっとこっち」

「眩しいよ」

「そう、じっとしてね」

 

 カシャ、とシャッターを切る。少女は、せり出してきた写真紙を引き抜くと、日光にあたらないようにプリント面を内側にして胸の中央に当て、穣のもとへ駆け寄った。穣の隣で肩を並べると、少女は2人の体でできた影のなかで、そっとポラロイド写真を胸から下げ、表に返した。白いフィルムに、ぼんやりと像が浮かびはじめるのを、ただじっと2人で見つめた。ふと少女が呟いた。

 

「穣は、生まれたときの記憶って覚えてる?」

 

 穣は首を振って、いいや、と言った。それから問い返した。

 

「□□□□は、覚えてるの?」

 

 そう言ってから、奇妙に思った。いま呼びかけたはずの名前が、もう思い出せない。少女はすこし微笑んでから、口を開いて穣の言葉に答えた。

 

「遘√b蜈ィ辟カ隕壹∴縺ヲ縺ェ縺?」

 

 少女の言葉が、まったくわからない。ぞっとした穣は、咄嗟に視線を上げた。すると、海や砂浜の景色が、まるでポラロイド写真の現像を巻き戻すみたいに淡く白くなって、急速に輪郭を失っていく。隣を見ると、少女の姿はすでにない。ただ真っ白な空間がどこまでも広がっていた。穣は呟いた。

 

「ここはどこだ?」

 

 ◇

 

「ここは、君の新しいアパートですよ」

 

 

 警護の黒服が言った。穣が目を覚ますと、公用車はもう停まっていた。のっぽの黒服に肩を貸されながら車を降りると、そこは木造アパートの入り口だった。神崎の車は、すぐに走り去っていった。残った黒服は、穣をかつぐようにしてアパートの階段を登らせた。それから、404号室の部屋取りを案内し、言った。

 

「学校に行くのが嫌なら、働いてみるのはどうだろう?」

「そのつもりです」

「どこかいい職場を探してあげるよ」

 

疲れ切っていた穣は、うっとおしそうに答えた。

 

「いいです。自分で見つけます」

 

 しかし穣は、アルバイトの面接にとことん落ち続けた。仕事はなんでもよかった。とりあえずの金を稼いで、神崎たちに手配されたアパートを出たかった。アパートはかなりのボロだったけれど、アパートにいると、神崎に恵んでもらっているような気分になるのだ。だが、バイトの面接の感触はつねに最悪と言ってよかった。

 

「中学校は、卒業していない?」

「はい」

「職歴は?」

「ないです」

「では24歳になるまで、なにをしていたんですか?」

「逮捕されてました」

 

 会話はたいていそこで終わる。冤罪だったと説明しても、殺人事件がらみで9年も服役していたというだけで敬遠された。かといって、経歴をうまく隠したり、同情を引くように身の上を語ったりする器用さも穣は持ち合わせていなかった。どこにも属さない根無し草の日々が続いて、ますます穣は自分がわからなくなった。広告ビラの裏面に、「じょう」「ジョー」「JOE」などと書きつけて、自分の名前がしっくりくるまで試してみたりもした。そんなある日、アパートに帰ると、また黒服が待ち受けていた。黒服は、見かねたような顔で言った。

 

「仕事を紹介しますよ」

 

そうして穣は、地域のミュート・センターで働くことになった。結局神崎が委員長を務める、ミュート・テック推進委員会がらみのバイトをはじめることになってしまった。仕方がないが、ますます癪だった。

 

ミュート・センターは、駅前の雑居ビルの3階にあった。室内は、役所の出張所とデンタルクリニックとケータイショップを混ぜたような空間で、白い壁に番号札の発券機が置かれ、待合用の椅子が規則正しく並んでいる。ここでは、脳内に埋め込まれたナノデバイスの設定と操作を受け付けていた。穣は、ミュート・センターの床や受付台を拭いたり、ゴミ箱を替えたり、トイレを磨いたり、荷物を運んだりしながら、利用者とセンター職員のやり取りに耳をそばだてていた。そうすれば、ミュート技術の仕組みや制度を理解できると思ったからだ。神崎たちに仕事をあてがわれている状況には腹が立った。しかし、技術への理解を深めれば、穣の釈放と入れ替わるように忘却刑を受けたあの真犯人についても、何か探る手がかりが得られるかもしれない。

 

「ぼくら、お互いを忘れようって決めたんです」

「ね」

 

 ある日にそう言ってあらわれた男女カップルは、受付台の前でもピッタリと体を寄せ合っていた。二人とも泣き腫らした目をしている。さっきまで駅前で、互いのスマートフォンを奪い合いながら、つかみ合いのケンカをしていた男女だった。3階の窓から、穣にもよく見えていた。同意書に記入しながら、嗚咽交じりに二人は受付の職員に訴えかける。

 

「何度も別れようって話してたんです」

「そうなんです」

「でもこいつ、俺がいないと何もできないから心配で……」

「ほらこの人、こんなこと言って、本当の私のこと見てくれないんです!」

「おれはユカぴょんを想って言ってるんだ!」

「タクにゃんはそればっかり!」

「どうしてユカぴょんはわかってくれないんだ!」

「タクにゃんだって!」

 

 穣の先輩にあたる職員は、書類をまとめ機器の設定を終えると言った。

 

「1番と2番のメモリーノをお使いくださーい」

 

 メモリーノは、脳内のナノデバイスにミュート設定を書き込む装置だ。親しみやすいように、かわいらしげな名前がつけられている。プリクラのようなブースのなかに、つるりとした乳白色の半球がぶらさがっている。この半球がメモリーノ本体の機器である。どことなく懐かしくなるような、不思議な形状だ。メモリーノの下に座るだけで、ミュート処置は完了する。カップルはブースの前で、いつまでも別れを惜しんだ。穣がゴミ袋を出して戻ってきても、まだひしと抱き合ったり、頬をつつきあったり、耳元で囁きあったりしていた。男の方が「やっぱり―」と言いかけたところで、後ろに並んでいたビジネスマンが大きく咳払いし、2人はギリギリまで手をつなぎながらそれぞれのブースに入っていった。

 

 数分後、処理の完了を知らせる陽気なチャイムが鳴った。ブースのカーテンをめくって出てきた二人は、目をあわせると軽く会釈をして、そのままバラバラにセンターをあとにした。この元カップルは、互いの姿は見えていても、相手が自分にとってどんな存在だったのか忘れているのである。

 

 また別の日には、電撃結婚で炎上した推しのメンズアイドルを忘れたいという女性が来た。そのほかにも、公正な採点のため、出場者の顔や経歴を一時的に忘れてから審査に臨むコンテスト審査員や、かつていじめた同級生から自分を忘れてもらいたいという者など、利用目的は多岐にわたった。

 

 警察官に付き添われてくる者や、カウンセラーの紹介状を持参する者もいた。
ある日、生活安全課の刑事にともなわれて、悪質なストーカー被害に苦しめられている女性が来たことがある。この場合、ナノデバイスの設定変更を受けるべきなのは来訪した女性ではなく、ストーカーの方だ。警察からの命令書を確認すると、先輩職員は遠隔処置の手続きを進めた。それから、不安そうに両手を握りしめている女性に説明する。

 

「メモリーノで直接書き込む場合と違って、遠隔処置の場合はミュート・プログラムが対象者の脳内で定着するまで1日か2日かかります。それまでは、これまでどおり警戒してください。でも、定着さえすれば。相手はあなたのことを綺麗に忘れます」

 

 女性の顔に、ようやく安堵の色が浮かんだ。

 

 あくる日には、「ハンバーガーもしもし男」がやってきた。

 ハンバーガーショップのバックヤードで、客に提供するバンズを耳にあて、電話の真似をしていた青年である。その動画がSNSで拡散され、たちまち全国的な笑いものになっていた。ミュート・プログラムの配信対象が全国に及ぶため、本部から上位資格を持つ職員が派遣されてきた。

上位職員は慣れ切った様子で青年に告げる。

 

「ネット上に氾濫したコラージュ画像やMAD動画そのものを、我々が消すことはできません。ただ、ミュート処理が進めば、来週にはそれらを見ても、なにが面白かったのか、誰も思い出せなくなります」

「ありがとうございます……!」

 

 青年は泣きそうな顔で何度も頭を下げ、センターをあとにした。その背中を見送ると、上位職員はセンターの壁に貼られたポスターをトントンと指先で二度叩いた。職員たちを見渡し、よろしく、と言うようにうなずいて、本部へ帰って行った。

 ポスターには、こんな標語が書かれていた。

 

「人には元来、『忘れられる権利』がある」

 

 ほとんど毎日、1カ月も働いて聞き耳を立てていると、穣にもミュート技術の仕組みが感覚的にわかるようになった。

 人についての記憶は、脳のどこか一カ所にまとまって保存されているわけではない。顔、名前、声、出来事。その断片が脳のあちこちから呼び出され、互いにつながってはじめて、ひとりの人物として思い出される。ミュート技術が切断するのは、そのつながりだった。

 顔を見ても、名前を聞いても、それらが同じ人物を指しているとわからなくなる。ちょうど、ひとつづきの映画フィルムをハサミでバラバラに切り刻み、順番もシャッフルしてしまう行為に似ている。バラバラの映画フィルムからは、そこに映っている画を眺めることはできても、元のストーリーを読み取ることはできない。

 

 ただ仕組みを理解したところで、9年前の殺人事件の犯人に近づけたわけではなかった。センターで働けば、忘却刑の記録や、ミュート技術の抜け穴についてなにか知ることができるのではないか。穣は密かに期待していたが、いまのところ手がかりはさっぱりなかった。

その代わり、黙々とした働きぶりが認められた。穣は、無資格でも扱える、もっとも軽いミュート処理の受付と操作を任されるようになった。

 

「『一人分の空白』を、記憶を消してもう一回観たいんです」

 

 その日、穣の受付に来た女性も、娯楽目的の利用者だった。

 

 ミステリー映画のキャラクターを忘れて、初見の感覚で鑑賞を楽しむ娯楽利用。

 映画『一人分の空白』は、「ラスト5分間で、あなたは必ず騙される」というキャッチコピーで有名になった洋画だ。物語の最初からひっそりと登場していたエリザというキャラクターが、じつは真犯人だった。それが最大のどんでん返しらしい。

 駅前ミュート・センターの近くの映画館では、ミュート技術を使った初見リピート鑑賞が人気を集め、何年も上映が続いている。穣は映画を1秒も観ていないのに、毎日のように申請を受けるせいで、犯人の名前も役どころも覚えてしまっていた。

 

 架空の人物も実在の人物も、脳のなかでは同じ仕組みで記憶されている。エリザだけをミュートすれば、もう一度、真犯人が明かされるどんでん返しの驚きを楽しめる。

 嬢がいつものように受付のPCで設定をはじめると、申請者の女性が声を上げた。

 

「もしかして、穣くん……?」

 

 その声を耳にしても、穣はすぐに顔を上げることができなかった。

 釈放されてはじめて、《忘却刑》にも仕事にも関係のない人から名前を呼ばれた。

するとそこに立っていたのは、9年前、中学校で穣と同じクラスにいた菜美だった。短く切りそろえた髪も、丸みをおびた小さな鼻も、穣の記憶にある姿とほとんど変わっていない。クラスで目立とうとするタイプの女子ではなかった。けれど、ろくに教材を揃えられなかった穣に、いつも机を寄せて教科書を半分見せてくれたのは菜美だった。

 

「久しぶり」

 

 穣はそう答えた。心臓が妙に締め付けられるような心地になった。しかし、ほかに何と言えばいいのかわからなかった。

 

「ニュースで見たよ。無罪になったって」

「うん」

「びっくりした。私、テレビで見るまで、穣くんのこと、すっかり……」

 

 菜美はそこで言葉を止めた。忘れてたの。そう言いかけたのだということは、穣にもわかった。きっと穣を傷つけると思って言葉を飲み込んだのだろう。その優しさも、9年前と変わっていなかった。

 

「『一人分の空白』、観に行くんだ。面白いらしいね」

 

 菜美は、あわてて答えた。

 

「う、うん。けっこう前に一度観て、すごく面白かったから。ほらあの、どんでん返し」 

「それならミュートするキャラは、エリザでいいね。主人公の恋人にして、真犯人、だろ?」

「うん。そんな物語だったね」

 

 穣は設定画面にエリザの短縮コードを入力した。申請が多いので、すぐに打ち込めるように操作が簡略化されていた。

 

「ミュートして観直すと、最初より感動する人も多いらしいよ。『エコー効果』っていって」

「『エコー効果』って?」

「真犯人にかかわる記憶を消しても、最初に観たときの感情までは、きれいに消えるわけじゃないんだ。映画の音とか光の印象とか、おもしろいと思った感じとか。そういうかけらみたいな情報が脳のなかにバラバラなまま残っていて、もう一度観ると、はじめて観る驚きと一緒に浮かんでくる」

「うん」

「それで、感動が二重になることがあるんだって」

 

それがエコー効果だ。

 

「そうなんだ」

 

 菜美は、感心したように穣を見た。

 

「すごい仕事なんだね」

「別に、ただのバイトだよ」

「ううん。やっぱり穣くん、昔から頭よかったもんね」

「そんな風に言うの、菜美だけだ」

 

 本当にそうだった。9年前の穣は、お世辞にも成績が良いとは言えなかったし、まともに会話をする同級生もほとんどいなかった。菜美は、たまたま隣の席だったから哀れんで教科書を見せてくれるのだとばかり思っていた。

けれど、ある日の放課後に、菜美は穣に「ずっと好きでした」と告白した。ひどく驚いたそのときの感覚が、ふいに胸のなかに戻ってきた。はじめて、9年前までの自分といまの自分が地続きにあると感じられた。

 

「でも、それなら一緒に観たことにならないのかもね」

 

 菜美が言った。

 

「え?」

「『エコー効果』があるなら、私は初見の人より感動しちゃうんでしょ? 旦那が珍しく、2人で映画館に行こうなんていうから。せっかくだし、一緒にどんでん返しにビックリしたいなって思ってたんだけどね」

 

 ちょうどその時、センターの自動ドアが開き、大柄な男がバタバタと入ってきた。ハンカチで額の汗を拭きながら、男は受付台に立つ菜美の隣に並ぶ。

 

「ごめんごめん。仕事が長引いちゃって」

 

 男は菜美に謝ると、ほがらかな笑顔を穣へ向けた。

 

「妻の『一人分の空白』の記憶をミュートしてください!」

 

 その言葉を聴いて、菜美が笑いながら言った。

 

「もう、いまお願いしたわよ」

「ああっ、そうか! これはスミマセン。妻は映画にくわしくってね。僕は見てくれの通り、文化的なものにはさっぱり縁がないんですけど」

 

 男は照れたように頭をかいた。

 

「でも、赤ん坊が生まれると、夫婦で映画館にもなかなか行けなくなるでしょう。いまのうちに満喫しておこう、なんて話していて」

 

 受付台をはさんでよく見えなかった菜美の体に、穣は目をやった。ゆったりとした若草色のチュニックごしでもわかるくらい、お腹が大きくふくらんでいた。菜美はもうすぐ母親になるらしい。穣はドギマギしてしまって、それからとにかくむやみに恥ずかしい気持ちになった。

 9年前、隣の席にいた菜美は、あたりまえにそれから9年間を生きてきた。他者と出会い、家族をつくった。そのあいだ、穣は誰の認識のなかにもいなかった。菜美と話したわずかな時間、宙ぶらりんの9年間が戻ってきたような気がした。しかし、それは端的に勘違いだった。自分だけが15歳の世界に置き去りにされていることを思い知って、恥ずかしいと思った。

 赤面していることを知られたくなかった。穣は顔を上げないまま黙ってうなずくと、手元でメモリーノの設定を進めた。

 

「3番のメモリーノを、使ってください」

 

 そう案内した声もうわずった。

「ありがとうございます!」

 菜美の夫は、菜美の荷物を肩にかけ、先にブースへ向かった。
 菜美もあとを追おうとしたが、何歩か進んだところで立ち止まった。受付へ戻り、小さな声で穣に言った。

 

「ねえ、穣くん。落ち着いたら、ご飯にでもいかない? ゆっくり思い出話しようよ」

「あ、ああ」

「じつは、気になってることがあって……」

 

 気になっていること? 9年前の事件になにか関係することだろうか。しかし、そのとき穣は少しでもなにかに期待することにひどく臆病になっていた。

 

「おーい! これだ、3番ブース!」

 

夫の呼ぶ声に菜美は振り向いて。「また、あとで」と穣に言い残すと、大きなお腹をいたわりながらメモリーノの方へ歩いていった。

穣の手元のPCには、3番ブースのメモリーノへ送信する前の設定画面が表示されたままだった。ミュート対象、エリザ。

菜美が3番ブースのカーテンを開けてその中に入っていく。

穣は咄嗟に、菜美のミュート対象をひとり追加した。

《佐野穣》。穣自身である。PCの画面にポップアップが浮かぶ。

 

「ミュート対象が、実在する人物に設定されています。有資格者の承認が必要です」

 

 菜美の記憶は、菜美のものだ。勝手に奪っていいはずがない。

 しかしそれでも―。視界の端に、壁のポスターの標語が見えた。

 

「人には元来、『忘れられる権利』がある」

 

穣は、先輩職員が休憩に入る直前に、通用口前のサイドテーブルに置き忘れていたIDカードをさっと手に取った。カードをリーダーにタッチして、ミュート対象の追加を承認。そして、エリザと穣を忘れさせるプログラムを、メモリーノに送信する。プログラムは、菜美の脳内デバイスへ書き込まれる。

 

 数分後、処理の完了を知らせる陽気なチャイムが鳴った。

 ブースから出てきた菜美は、穣と目が合うと、にっこりと微笑んで会釈した。これまでこのミュート・センターで幾度となく目にした、ただの初対面のスタッフに向ける表情そのものだ。

穣は菜美とその夫に言った。

 

「いまからなら、15時上映開始の『一人分の空白』に間に合いますよ」

 

 二人は、ありがとうございます、と頭を下げた。そして手を取り合い、駅前ミュート・センターをあとにした。穣は、受付業務を切り上げて、トイレ掃除に向かった。

 

 トイレの床に洗剤をまき、ブラシを動かした。目地の黒ずみの一つ一つを徹底的に落とすように、一心にタイルを磨いた。そうしているうちに、ふと、疑問がわいてきた。

中学生のころの菜美が「ずっと好きだった」と言ってくれたとき、自分はなんて答えたんだっけ。たしか、ごめんと謝った。それから、こう言ったはずだった。

 

「ほかに好きな人がいるんだ」

「そっか……」

「ごめん」

「それってやっぱり、□□□□さんのこと?」

 

記憶のなかで、また何かが抜け落ちた気がした。

 

穣が好きだと言った相手。

―それって、誰のことなんだ?

自分がほかに誰を好きになるというのだろう。学校には、菜美のほかにろくに話す相手なんていなかった。「好きな人」というのが実在する誰かだったのか、たんに菜美に応える勇気がなくて、その場ででっちあげたフィクションだったのか。何度たどろうとしても、穣には一向に思い出せない。

床はこれ以上きれいにならないほど磨かれてしまった。ホースで水を流すと、白い泡は排水溝へ吸い込まれていった。しかし、その違和感は消えずに残った。

 

危害を加えてくる相手から忘れられたい者。過去の失敗と自分との結びつきを消したい者。特定の誰かに、特定の状況で、自分を忘れてほしいと願う人間は大勢いる。

けれど、世界中のすべての人間から、永遠に自分そのものを忘れられたいと願う者はいなかった。

 

 職員用のマニュアルには、こう書かれている。

 

「すべての人間からのミュートを希望する利用者が現れた場合、ただちに受付を中止し、医療機関へ連絡すること」

 

なぜならそんな依頼をする人物は、きまって自殺志願者だからだ。誰にも迷惑をかけないように、忘れられたままひっそりとこの世界から消えてしまおうと願う人物だけが、そんな処置を申し出る。

 

穣は、菜美の他人行儀な会釈を思い出した。たったひとりから忘れられただけで、体に穴が空いたようだった。9年間、すべての人間から忘れられていたことの喪失感がいまになって胸に迫ってきた。

 

神崎の言葉が、頭のなかで繰り返された。

 

「忘却刑は、この国で最も強いミュート処理だ」

 

マニュアルが自殺願望として止める状態に、穣はずっと置かれていたのだ。忘却刑を執行される前、死刑になるよりはましなのだから感謝するべきだと言われた。けれど、誰の記憶にも存在せず、自分が誰なのかすら認識できない9年間は、死んでいたことと何が違うのだろう?

 

穣は残りの雑用を終えると、暗澹たる気分のまま帰路についた。

 

 眠るための部屋ならある。

神崎たち内閣府ミュート・テック推進委員会に手配された、あの木造アパートの404号室だ。しかし、そこを自分の帰る場所だと思ったことは一度もなかった。穣は、駅前ミュート・センターを出て在来線の入り口まで来ると、きびすを返して歩き出した。

 ほかに行くところもないが、できるだけ長くアパートに着きたくない。

 釈放されてから1カ月半。どうがんばって思い出しても天涯孤独。親も兄弟もいなければ、菜美のほかにろくに思いあたる友達もいない。その菜美のなかからでさえ、ついさっき、自分で自分を消してしまった。神崎いわく、育った戦災孤児院も、9年前の事件をきっかけにつぶれたらしい。穣は歩きながら、ひとりごとを呟いた。

 

「誰を恨めばいいんだろう?」

 

 誰かを思いきり恨みたい。そういう気分だ。すべてをその誰かのせいにして、楽になりたい。

 歩道のわずかな段差に、ひきずっていた左足がひっかかった。左膝の内側に、突き刺すような痛みが走る。

 

 その瞬間、記憶の底から、鉄製の警棒が振り上げられる光景が浮かんだ。

《忘却刑》を受け、忘我のなかで服役していたときのフラッシュバックだ。女監視官が、警棒を穣の左膝へ振り下ろす。
バキッ、と濡れた枝を折るような音。
警棒をふるった拍子に、女監視官の頭から制帽が落ちた。帽子の下に押し込められていた長い髪が、ほどけるようにあふれ出した。恐ろしくウネウネと波打った黒髪は、激しく乱れて監視官の顔を覆う。
女監視官が、激痛に悶える穣を見下ろしている。女監視官の意地悪く捻じ曲がった性根を体現するようにウェーブした髪。その髪に覆われた顔から片目だけ覗いて見えた見下す視線が、膝の激痛と結びつくように穣の脳裏にこびりついた。

 

 穣は街路樹の幹に手をついた。荒くなった息を整え、痛みが落ち着くのを待つ。通行人が数人、不審そうに穣を避けていった。

 あの監視官を恨めばいいのだろうか?

 左脚を壊したのは、間違いなくあの女だ。あの一撃のせいで、穣は一生、まともに歩けないかもしれない。恨んで当然の相手だ。
けれど、穣の心が本当に傷ついているのは、そこではなかった。

 

異様な喉の渇きに気がついて、穣はコンビニエンスストアに入った。適当な缶ビールを冷蔵ケースから取り出して、レジに持って行く。
店員は何も言わずに缶ビールをよこした。年齢を確認されることもなかった。穣は店を出て、はじめて自分でかった酒の缶を眺めた。頭のなかは15歳のころとたいして変わっていないのに。いつの間にか大人になってしまった。穣の心が本当に傷ついているのは、左脚を壊されたことではなく、15歳から24歳までの9年間―すこしずつ大人になっていくはずだった時間を奪われたことだ。

 

 穣は路上で缶ビールを開けた。一口飲む。

 

「マズい」

 どうやら自分はビールに向いていないらしい。

 だけど、普通の若者ならそんなことも、こんな風に一人寂しくではなく、成人したときに誰かと一緒に試して知るものなんじゃないだろうか。夜中の神社では、若者たちが石段にたむろして、めいめいの酒を片手に笑ったり、小突きあったりしている。その笑いは、穣がなくした9年間の姿に見えた。

 

「まあ、普通に生きてきた15歳までも、ろくに友達なんか作れてなかったみたいだけどな」

 

 自嘲めいた独り言をこぼして、ノロノロ歩いていく。

 

総じて、思い出さなくてよかった。忘れたままでよかった。

いっそ本当に人でも殺して、また《忘却刑》を受けてみようか。なんてヤケクソなことも思った。自分の名前も、失った9年間も、また何もかもわからなくなれば、少なくともいまよりは楽になれるのではないか。

 

 穣は足を止めた。

 何かが引っかかった。

 

 《忘却刑》を受ければ楽になれる?

 そうだ。穣にとっては、《忘却刑》を受けていたときよりも、失った時間をまざまざと突き付けられるいまのほうが、ずっと苦しいのだ。穣の心の深い底から、ふつふつと怒りがわいてきた。「真犯人」に対する怒りだ。

9年前の戦災孤児院寮父殺人事件の真犯人。その人物は、釈放された穣と入れ替わるように、いま《忘却刑》を受けている。

穣は怒りが湧いてきて、思わず真夜中の路上で叫んでしまう。

 

「ラクしてんじゃねえよ!」

 

 穣は9年間の青春を奪われた。

 そして、育ての父親を殺された。

 それなのに、そのすべての元凶である真犯人は、殺しの罪を世界中から忘れられて、自分自身さえもボンヤリして、静かに生きているのだ。

 

 それが「罰」と呼べるのだろうか?

 たしかに《忘却刑》は残酷に見える処置だ。だけど、実際に《忘却刑》を受けていた穣にははっきりとわかった。これは、忘却の世界に逃げ込んでいるに過ぎない。

 

 

「虫がよすぎるだろ……」

 

 穣は立ち尽くして、震える体のなかに漲る怒りを味わった。

いま《忘却刑》を受けている真犯人。世界中がお前を忘れても、俺は絶対に許さない。

 

穣はそう念じると、ふたたび歩き出した。怒りのなかから、憎しみが立ち上るのを感じた。

真犯人を突き止める。

―突き止めたら、どうする?

《忘却刑》を受けている人間に、罪の清算をさせるには。罪を自覚させ、謝罪させるなんてことはできない。やはり、殺すしかないか。

真犯人を突き止め、殺す。

―そのあとは?

もしもそんなことが成し遂げられたら、もう自分も、死んじゃってもいいか。

 

穣は左脚を引きずって歩きながら、いつのまにか笑っていた。暗い感情を杖にすれば、壊れた脚でも立って歩くことができた。

夜空には星ひとつ見えなかった。穣は結局、歩きどおしでアパートにたどりついた。

 

穣は階段をのぼった。

この木造アパートは、出所後の身寄りがない元囚人たちの仮住まいとして使われているらしい。ようするに、前科者たちが住んでいる。その一室を与えられたわけだ。穣はそれを知ったとき、「俺は無罪なのに……」と思った。それに、脚の悪い人間に4階の部屋を割り当てるなんてどうかしてる。

 

 2階。

 3階。

 踊り場ごとに休みながら、ようやく4階までたどりつく。廊下を歩いていくと、404号室の前に、人影がある。穣は近づいて、ギョッとした。

 

 女の子だった。

 16歳か、17歳くらいだろうか。両膝を抱え、404号室のドアにもたれて眠っている。はっとするほど明るく脱色されたプラチナ色の髪が、夜の靄のなかできらめいている。頭には白いレース編みのバブーシュカをかぶり、その結び紐はプラチナの髪の一部をとって作られた細い三つ編みに編み込まれている。凝った髪型だ。レースの髪飾りとは打って変わって鮮やかな赤色の、NBAユニフォームデザインのタンクトップに、ダボつかせたデニム。髪の色と同じようにクリアカラーの厚いサンダル。

安くてペラペラ、上下とも黒色のシャツとスラックスに身を包んだ穣とは、まったく対照的に派手でカラフルな恰好だった。しかし、独特の統一感がある。都会的で垢抜けたそのいで立ちは、このボロアパートには、あまりにも場違いだった。

穣は、その金髪に声をかけた。

 

「おい、危ないよ」

 

 返事はない。

 

「危ないって。こんなとこで寝てたら。ここ、元囚人用のアパートなんだぞ」

 

 この建物には、苛立った人間や、絶望した人間も住んでいる。

 そう言いかけて、それじゃ自己紹介じゃないか、と思った。とにかく。

 

「起きろって」

 

 穣が靴先で床を鳴らすと、女の子のまぶたがゆっくりと開いた。

 うすいブルーに色づけられたまぶた。眠たげな目が、穣の顔を見上げる。

 女の子はしばらく、値踏みするように穣を見つめて言った。

 

「あんたが佐野穣?」

 

彼女は、乾希咲(いぬい・きさ)と名乗った。

 

どこか深夜営業のファミレスにでも行こうかと思ったが、階段の上り下りをこれ以上するのが苦痛で、しかたなく404号室に希咲をあげた。すると希咲はサンダルを脱ぐやズカズカと畳敷きの部屋に踏み込んで、言った。

 

「コップない?」

 

 穣が戸棚を指さすと、希咲はグラスを取り出し、水道水を注いで一気に飲み干した。

 

「あー生き返った。最近夜も暑すぎ」

 

 希咲は2杯目の水を飲みながら、ジロジロ部屋を見渡した。といっても、この和室のほかには、廊下の小さな台所と風呂場くらいしかない。

 汗がひくと、希咲は言った。

 

「あたし、勢いでパパと縁切っちゃったから。しばらくこの部屋に住もうかなって思ってるんだよね」

 

 穣は面食らって聞き返す。

 

「この部屋って、この部屋?」

「それ以外ないじゃん」

「俺の部屋なんだけど」

「俺のって、国のでしょ? 税金で建ってるんでしょ」

「そりゃそうだけど」

「別に出てけって言ってるんじゃないんだから。スペースをわけてくれたらいいじゃん」

「あのさあ、お前いくつだよ」

「16歳」

「税金払ってないだろ」

「消費税払ってる」

「バカ」

「は?」

「バカだろ」

「あのさ、年上だから! あたし16歳。お前15歳」

 

 釈放されてはじめて、15歳扱いを受けた。虚を突かれて一瞬黙ってしまう。

 しかし、なぜこの希咲と名乗る少女は、穣の境遇を詳しく知っているのだろうか。

こいつは何者なんだ? 希咲の勢いに飲まれて、はじめに問うべき疑問が棚上げになっていた。希咲は窓辺にもたれかかりながら言った。

 

「つまんないこと言うのやめてよ。ここにたどりつくまでだってけっこうパワー使ったんだからさ、佐野穣氏」

 

穣のことはニュースで知ったのかもしれない。しかし、なぜ居場所がわかるのか。ミュート・テック推進委員会関連の人物なのか? この、生意気というか、端的に態度のデカい家出少女が。

 

「なんでこのアパートに俺がいるって知ってるんだ」

「社会復帰支援用のアパートメントに入居したってことまではわかってたの。でもどこのアパートなのかも不明でさ」

「なんでわかった?」

「おとなりの山井さん、けっこうヤバい前科者なの、知ってた?」

「となり?」

「うん。重い前科の人って、居場所がGPSで公開されてるんだよね。そういう公開されたGPS情報がいくつか重なってるポイントから、更生支援用のアパートメントをリストアップしたの。あとは順番にアタックして、やっと見つけたんだよ。苦労したぁ」

 

 穣は呆気にとられた。この404号室に押しかけてきたみたいに、元囚人の暮らすアパートを一軒一軒訪ね歩いたというのだろうか? あまりにも無防備すぎる。

 

「てかおとなりの山井さん。昨日の晩に見かけたけど、一見すっごい普通の優しそうなおじさんなんだね。それがあんな犯罪するなんて、世の中怖いよね」

 

穣は頭を抱えてしまった。

また、「バカ」と言った。バカ、バカバカバカ、バーカ! と、今度は口をついて出た。

 

「はあ? ムカつくんだけど。だからあたしの方が年上だって……」

「お前、自分で何してるのか理解してんのかよ」

「え?」

「こんなアパートに、一軒一軒来たって言うのか? 危なすぎるだろ」

「……」

「パッと見ただけでわかるよ。お前には帰る家がある。ちゃんと愛されて、大事にされてきたんだろ。そういうの、持ってない奴にはすぐわかるんだ。孤独に生きてる奴のなかには、それが気に入らなくて、傷つけようとする人間もいる。だから、こんなところを一人でうろつくなよ。家族がいるなら、わざわざ危険な真似しないでくれ。頼むから」

 

 そう言ってから、穣は自分で驚いた。一度にこんなに長く言葉を発したのは、釈放されてからはじめてかもしれない。驚いた様子ですこし黙った希咲が、再び口を開いた。

 

「あのさ。『更生支援住宅に順番にアタックした』ってのは、サイバーアタックね。一棟ずつ、管理会社の入居者リストを覗いただけだよ。それで、あんたの部屋がわかったの」

「……それって、ハッキングってこと?」

「そんなそんな。ハッキングっていうか、不正ログイン?」

「ハッキングじゃん」

「まあ」

「お前、マジで何者?」

「別に普通の高校生だよ。先週から、夏休み」

 

 希咲は、かぶっていたバブーシュカをシュッとほどくと、その辺に放り出した。それから言葉を続けた。

 

「まあでも、心配してくれてありがとう。やっぱり君、殺人犯なんかじゃないね」

「当たり前だろ。あれは冤罪なんだ」

「じゃあ、どうしてあの事件の現場にいたの?」

「え?」

「戦災孤児院寮父殺人事件。穣くんはその現場にいて、逮捕された。それから、多分あたしも、そこにいたの」

「希咲も?」

 

背筋を冷たいものが走った。

 カチリ、と音を立てるように、穣の頭の奥で、長いあいだ噛み合わなかった歯車が動きはじめる。途端に、ばらばらだった光景が矢継ぎ早に押し寄せた。

 

 床いっぱいに広がる血だまり。鼻の奥へまとわりつく、生温かい鉄の匂い。見開かれたまま動かない父さんの目。赤く濡れた自分の両手。

 すべて、同じ夜の記憶だった。ずっと答えの出なかった疑問が浮かび上がる。

 

 ―どうして俺が、犯人になったのか?

 

 その答えが見つかる予感がした。

しかし、どうしてもまだギリギリのところで記憶の扉は開ききらない。目の前にいる希咲が、決定的な鍵を持っているのだろうか?

 

 希咲は、404号室を訪ねることになった経緯を話しはじめた。その話は、希咲が自らの父を、血のつながった本当の父親ではないと気づくところからはじまった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 希咲の育ての父親は、優れた脳科学者だった。

 

「ねえパパ。ちょっといい?」

 

 老いた乾博士は、書斎の机に置かれた顕微鏡の接眼レンズから目を離し、背後の希咲へ向きなおった。

 

「どうした? 希咲」

 

 希咲は、書斎に入ってドアを閉めると、打ち明けるように問いを投げかけた。

 

「あたしって、子どものころに人が殺されるのを見たことがあるの?」

「だれがそんなことを言ったんだ?」

「何日か前から、変なイメージが頭からはなれなくなったの。床に広がる血だまりと、虚ろな目。最初はただの夢だと思った。でも、頭に浮かぶたびに現実感が増していく気がして」

 

 乾博士は首に下げた老眼鏡を触りながら、穏やかな調子で答える。

 

「それは変なことじゃないよ、希咲。人間の脳は、同じことを何度も思い描くことで、その情報を深く記憶していく。それが現実のことであろうと、なかろうとね」

「うん」

「妄想が、現実の記憶と区別がつかなくなってしまうこともある。君の年齢なら、残酷なビジョンを想像してしまうことは、珍しいことじゃない」

「でも、これは想像じゃないの」

「そう感じるだけさ」

「パパの研究が関係しているんでしょ?」

 

 乾博士の書斎の机には、分解されたメモリーノの内部機構の一部と、脳細胞のサンプルがいくつか置かれていた。

 

「その機械で、パパがあたしに昔のことを忘れさせたんじゃない?」

「どうして私がそんなことをするんだい」

「たとえば、残酷なトラウマからあたしを守るため、とか」

 

乾博士は深いため息をついて、言った。

 

「私が君にそんなことをするものか。それに、忘れさせるのは私の専門じゃないよ」

 

 乾博士の主な研究分野は、「エコー効果」にまつわる脳の働きだった。「エコー効果」。ミュート技術を使ってある人物を忘れたあとも、その人物に結びついた漠然とした感情や身体感覚だけが残り続けることがある、脳の不思議なふるまい。「エコー効果」という現象名も、乾博士の名づけによるものだ。

 希咲は、乾博士の目をじっと見て、素直に言った。

 

「じゃあ、信じるよ。パパは私の記憶を消してない」

 

 乾博士は、深く頷いた。希咲はホッとした表情を浮かべる。そして希咲はこう続けた。

 

「その機械。メモリーノ、だっけ? それって、パパが発明したの?」

「まさか」

「誰が作ったの、そんなバカげたもの」

「ミュート技術を完成させた人たちのことは、誰も知らないんだ」

「誰も知らない? なんで?」

「きっと、作ったあとで最初に、自分たちの存在をみんなから忘れさせてしまったんだろう」

 

 希咲は、なんだか釈然としなかった。

 

「だけど、私もこの年だから、どうしてこの忘却技術が作られたのか、その理由はよくわかる」

「どうして?」

「内戦の傷を忘れるためさ。あの内戦では、あまりにも人が死にすぎた。南北の日本統一戦争での死者はおよそ210万人」

 

 三十年ほど前、長い内戦がやっと終わった。第二次世界大戦の終結以降、社会主義陣営と資本主義陣営に分割されていた日本国がはじめてひとつになった。

 

「210万人の死者だ。わかるかい」

「うん」

「私たちは、統計上の死者数を認識することができる。だけど、実際にその数字ほど悲しみにくれて生きてはない」

「ミュートを使って、みんな戦死した人の思い出を忘れたってことね」

「ああ」

「それって、悲しい話だね」

 

しばし沈黙があった。

ふっと息を吐いて、希咲は言った。

 

「パパが私の記憶を消してないのはわかった。でもやっぱり、何か隠してるでしょ?」

 

 乾博士は、観念したようにゆっくりと目を閉じた。

 

「ニュースであの佐野穣って男の子のこと見たとき。突然頭のなかに、血だまりと虚ろな目のイメージが浮かんだんだよ。だけどそれ以上に強く、あたしあの佐野穣くんのこと、『こいつは絶対に悪い奴じゃない』って感じたの。なんでかはわかんないけど、理屈抜きで、ものすごく強烈にね。これが『エコー効果』ってやつじゃない?」

「ああ」

「佐野穣のこと、何か知らない?」

「更生支援用のアパートメントに入れた……と、神崎が言っていたよ」

「そう。ありがと、とは言わないからね」

 

 希咲は乾博士に背を向けて、書斎のドアノブに手をかけた。希咲の背中に、乾博士は声を投げかける。

 

「聞きたかったのは、それだけなのか?」

「ここから先は、自分で調べるから」

 

 希咲は乾博士の書斎をあとにして、荷物をまとめはじめた。

 それから、連日ネットカフェを転々としながら穣の家を突き止め、ここにやってきた。

 

◇ ◇ ◇

 

 一通り話し終えると、希咲はまたコップに水を注いだ。しかしその水に口をつけることはなく、シンクに手を置いたまま、穣に問いかけた。

 

「生まれたときの記憶って、覚えてる?」

 

 穣は、その質問がなぜかすごく懐かしい気がした。だけどその理由はわからなくて、首を横に振った。

 

「そうだよね。生まれたときのことなんて、覚えてなくて普通。でもあたしの場合、7歳くらいまでのことがほとんど何も思い出せないの」

「ああ」

「だからずっと、乾博士のことをパパだと思って暮らしてきた記憶しかない。でも、ニュースで君を見てから、あの血だまりと虚ろな目のビジョンがあたしの一番古い記憶になった」

 

 穣は黙って希咲の話を聞いていた。

 希咲は、唇をかみしめて言った。

 

「穣ならわかる? 私はどこで生まれたの? 私の本当の家族は、誰?」

 

 希咲の話を聴きながら、穣はゆっくりと9年前の殺人事件のことを思い出していた。はじめはおぼろげに。それから徐々に、ありありと―。

 バラバラだった光景が、穣のなかで嚙みあい、ひとつはっきりとわかったことがあった。

 希咲の言う通り、穣は9年前、孤児院の寮父・桑島の死の現場に居合わせていた。

 

ただし、ただならぬ物音を聞いて、駆けつけたその時には、すでに「父さん」は死んでいたのだ。血だまりが床に広がり、猛烈な鉄の匂いが鼻をついた。そしてそこに、たしかに7歳くらいの少女もいた。怯えきった様子で、奇妙な乳白色の機械のそばにいた。あの幼い少女が、希咲だったのだ。

 穣は、うなだれて希咲に言った。

 

「ごめん。きっと俺の答えは、希咲の気に食わないと思う」

「うん。でも、言ってほしい」

「たしかに、父さんが殺されたとき、ちっちゃな子どもがいたよ」

「それが私なんだ」

「ああ。だからお前も、俺と同じ、孤児院で育った子どもだ」

 

 シンクに、ぼた、と水滴が落ちる音がした。

 

「俺たちは、内戦で親を亡くした戦災孤児だ。本当の家族なんて、最初からいないんだ」

 

希咲は泣いた。

あまりにも静かに涙をこぼすので、穣のほうがむしろこの部屋の雑音であるような気がして、音をたてないように404号室を出た。アパートの屋上の欄干にもたれて、ボーッとした。墨で塗ったような鈍重な夜空を、たったひとつ人工衛星らしい光の点がゆっくりと横切っていくのが見えた。また階段に苦労して屋上から4階に降り、そっと404号室に戻る。

希咲は勝手に布団を広げて眠っていたので、俺は畳で寝た。

浅い眠りを繰り返し、もう何時ごろかもわからなくなったころ、希咲がぽつりと呟いた。

 

「明日になったら、ちゃんと出て行くから」

 

穣は何も言わなかった。

そのあとも時々、鼻をすする声が聞こえた。

 

 夢を見た。

 穏やかな波の音が聴こえる。

 穣はまた海にいた。左脚はまっすぐ伸びて、はだしのまま波打ち際に立っている。15歳の体だ。これは夢ではなく、記憶なのだろうか?

 

「こっち向いて」

 

 振り返ると、ポラロイドカメラを穣に向ける少女がいる。

 

「もっとこっち」

「眩しいよ」

「そう、じっとしてね」

 

 カシャ、と少女がシャッターを切る。

 ポラロイド写真を取り出すと、少女は穣の隣へ駆けてきて、肩を並べる。少女と穣は、2人の体でできた影のなかで、そっと写真紙を見つめる。乳白色のフィルムに、ぼんやりと輪郭が浮かび上がりはじめる。

 遠くでは、年下の子どもたちが波とたわむれてきゃあきゃあと騒いでいる。

 

 たった一度だけ、孤児院のみんなで海に遊びに来た、遠足の記憶だ。

 

 さきほどからずっと、写真ばかり撮っている少女の様子を見ていた穣は言う。

 

「撮ってばかりじゃ、□□□□の写真がなくなっちゃうじゃないか」

 

 あいかわらず、少女の名前の音はどうしても記憶から抜け落ちてしまう。

 

「私はいいの」

「撮る方が好きだから?」

「うん」

「□□□□は、写真家になればいい」

 

 穣は少女が、よく図書館で写真家の作品集を借りて眺めているのを知っていた。新しいフィルムカメラのために、年齢をごまかして喫茶店でアルバイトしていることも。写真作品集や、カメラのカタログを眺めているとき、少女はとても真っすぐな目をする。

 

 少女はうつむいた。ウェーブがかった黒い髪が肩から落ちる。

 すると、小さな女の子がなにかを片手に、浜辺を走ってやってきた。

 

「お姉ちゃん!」

 

 7歳の希咲だ。

 少女はしゃがんで、希咲と目を合わせる。

 

「希咲、すごいね。ヤドカリさんみつけたんだ」

「うん」

 

 希咲の右手のなかで、小さな巻貝に入ったヤドカリがチョコチョコとハサミを動かしている。希咲は嬉しそうに言う。

 

「この子、持って帰って飼える?」

「どうかな。海の生き物だから、むずかしいかも」

 

 ただでさえ、やんちゃな子どもたちでごった返す孤児院では、昆虫や小動物を飼うとたちまち取り合いになって、もみくちゃにされてしまう。少女は心苦しそうに、希咲に言う。

 

「海にかえしてあげな。バイバイっていって」

「えーー、ヤダ! 絶対飼いたい!」

 

 希咲の表情は、たちまちぐしゃぐしゃに崩れそうになった。すると少女は、首から下げたポラロイドカメラを構えて、言った。

 

「じゃあ、ヤドカリさんお顔の近くに持ってきて!」

 

 希咲はあわてて、右手でヤドカリを自分の頬の横にかまえた。左手はピース。まるでヤドカリのハサミとおそろいだ。

 カシャ、とシャッターを切る。

 ポラロイドカメラから吐き出された写真紙をひき抜くと、少女は希咲にそれを渡した。

 

「ほら。このなかに、ヤドカリさんいるよ。こうすれば、いつでも会えるでしょ?」

 

 幼い希咲は、宝物を貰ったような顔をした。それから、まだ像が浮かびきっていないポラロイド写真をパタパタとあおぎながら、岩場のほうへヤドカリを放しに駆けて行った。

 

 穣は、少女の横顔を向きなおって言った。

 

「やっぱり、□□□□は立派な写真家になれると思う」

 

 少女は、水平線を眺めながら答える。

 

「私には希咲がいるから。中学を出たらきちんと働いて、希咲と生活していかないと」

「せめて高校には行けよ。せっかくめちゃくちゃ頭いいんだからさ。もったいないよ。大学だって目指せる」

「勉強は、働いてからでも遅くないでしょ?」

「働くのだって、勉強のあとでもいい。□□□□なら、奨学金もとれてるじゃないか」

 

 穣は、少女を素直に尊敬していた。だからこそ隣で見ていてもどかしい気持ちになることが多い。

 

「でも、はやくこの孤児院を出たいの」

「どうして? もう少しここにいたっていいじゃないか」

 

 少女は、波打ち際を歩きはじめる。白い飛沫で、シャツワンピースの裾がすこし濡れてしまう。

 

「穣くんは、生まれたときの記憶って覚えてる?」

 

 どこかで聞いた質問だ。穣はまた、無性に懐かしい気分になった。穣は答える。

 

「いいや、なんにも」

「そうだよね。私もなにも覚えてない」

「そういうもんじゃないの? 赤ん坊のころの記憶なんて」

「忘れさせられてる、って思わない?」

「え?」

 

 少女と一緒に歩いていた穣が、足を止める。

「生まれたときから、いままで。私、お母さんとお父さんのこと何一つ覚えてないの」

「俺もそうだよ。そういうもんじゃないの……?」

「本当にそうなのかな」

 

 少女はすこし躊躇って、打ち明けるように言った。

 

「去年くらいに、健康診断があったよね」

「うん」

「あのとき、太いカテーテルで、鎖骨のあたりに点滴みたいのされなかった?」

「あったね」

「あんなの、はじめてだった」

「うん」

「あれから、下の子たちが静かになったと思わない? 夜中に泣かなくなった。それまでは、お母さんに会いたいって、みんなしょっちゅう言ってたのに」

「まさか、俺たちが家族を忘れさせられたって言いたいの?」

「そういう技術があるんだって。大人にしか適用されてないはずだけど……」

 

 穣は、少女の手を取って、落ち着かせるようにそっと握った。つい先日、穣は父さんと呼んでいた孤児院の寮父が、神崎と名乗る裕福そうな夫婦と話しているのを目にしていた。戦災孤児院には、養子を探す夫婦がときどきやってくる。神崎夫妻が引き取りたがっていたのは、希咲だった。

 

「このあいだ、希咲を養子にしたいって人が来たろ。神崎さん」

「うん」

「□□□□は、希咲と離れ離れになるのが怖いんじゃない?」

「……そうなのかもしれない」

 

 少女は、そう言って、黙りこくった。

 余裕のある家庭に引き取られること。それが希咲にとっても一番幸せなのかもしれない。それでも、心配してしまう気持ちは穣にも痛いほどわかった。残される側にとって、ともに育った仲間を送り出すのが精神的に難しいことは、この戦災孤児院にいる年長者なら、誰もが身に沁みて知っていた。

 少女は、波打ち際から足を上げて、砂浜の方へ数歩歩いた。片手でスカートの裾を腿に沿わせ腰を下ろす。穣は、少女の沈んだ様子にいてもたってもいられなくなった。

 穣は、ポケットからペンを取り出して、左手に持っていたポラロイド写真になにか裏書きした。

 

「君がほかの人の写真ばっかり撮るならさ、これでどう?」

 

砂浜の方へ行って、その裏面の文字を見せると、少女はすこし微笑んだ。

 ポラロイド写真の裏面に穣が書き込んだのは、こんな文字列だった。

 

「Artwork by □□□□」

 

 少女が図書館から借りてきた作品集の真似事だった。

 

「この写真は、超天才アーティストの□□□□による初期作品だ。これからグングン価値が上がってくお宝だ。でも俺は、いくら積まれようが、誰にも売ってやらない!」

 

 少女が声を上げて笑う。穣も笑った。

 そろそろ、ポラロイド写真の表面に像がはっきりと浮かび上がっているころだろう。そうお思って、穣は写真紙を表に返した。

 しかし、その写真は依然として、のっぺりとした乳白色だった。

 

 バッと顔を上げて、水平線の方を見る。すると、海の景色が、まるでポラロイド写真の現像を逆回しするみたいに白く消えていく。海が、空が、乳白色のなかに消えていく。

 

 ガチャン! と音がした方を振り向くと、白い床にポラロイドカメラが落ちて、壊れていた。首からカメラを提げていた少女は、煙のように消えていた。

 

 ジョキン、ジョキン、ジョキン、と金属の擦れる不気味な音がする。

 穣が空を見上げると、巨大なハサミが空中で暴れ踊っていた。二枚重ねの刃をむちゃくちゃに開閉しながら、わずかに残った空や海や砂浜の景色を切り裂いている。

 

「ナノマシンだ!」

 

 穣は咄嗟にそう叫んだ。ナノマシンが、穣の脳内の記憶のつながりを切断している。バラバラに切断している!

 

 穣は恐怖のあまり絶叫した。あたりは一面、乳白色の世界。

 

 

「起きて! 穣! 穣!」

 

 希咲に肩を揺さぶられ、穣は畳で目を覚ました。

 

「大丈夫!? すごいうなされてた。汗もすごいし……!」

 

 額も、首元も、体全体も、まるで雨に打たれたように寝汗びっしょりだ。

 

「あ、ああ。いつもこうなんだ」

「いつも? それ、普通じゃないよ。大丈夫!?」

 

 いつもうなされて起きるから、必ず仕事の前にシャワーを浴びた。これまで、うなされても起こしてくれる人がいなかっただけで、穣にとっては日常になってしまっていた。穣はさっとシャワーを浴びながら、思った。また、夢の内容がさっぱり思い出せない。とても重要な夢だった気がするのに。

 髪を拭いて、和室に戻ると、バターの焼けるいい匂いがした。

 ハムトーストをフライパンから紙皿によそいながら、希咲が言った。

 

「ねえここ、お皿ないの!? 紙皿でいつもご飯食べてるわけ、信じられない」

 

 さらに希咲はまくしたてる。

 

「コンロも一口しかないし。トースト焼いたら、目玉焼きが焼けないじゃん。しょうがないから、代わりにポーチドエッグね。てか、そもそも冷蔵庫に食べ物なさすぎ」

 

 希咲は、マグカップから白身に包まれた柔らかい卵をスプーンで取り出し、ハムトーストの上に乗せた。電気ケトルで沸かしたお湯とマグカップで、フライパンのトーストと並行して卵を調理していたようだ。

 

「はい、そこ座って。いただきます」

 

 ちゃぶ台に、ポーチドエッグ乗せハムトーストが二皿。フライパンから取り出したばかりの方のトーストが、穣の前に置かれた。

 

「カリカリの目玉焼きがよかったんだけどな!」

 

 などと言いながら、器用にスマホをいじりつつトーストを食べている希咲を横目に、穣もトーストをかじった。ザクッと心地いい音とともに、ハムと卵の塩気が舌に届いた。

 

「わけがわからないくらい、うまい」

「そんならよかったけど」

 

 穣は夢中でトーストをほおばった。

 

「ねえ、穣」

 

 穣はトーストを食べながら、曖昧な音で返事をした。

 

「ヤドカリの夢見てたんじゃない?」

 

 ゲホ、ゲホッ、と思わずむせてしまった。そうだ、ヤドカリ、海。ついさっきまで、そんな夢を見ていた。思い出せなかった夢は、海の夢だ。

 

「なんでわかんの!?」

「いや、うなされながらヤドカリって言ってたから」

「あ、ああ」

 

 そんなこと、寝言で口走ってたのか。微妙に恥ずかしくなった。穣は水を飲んで、むせた喉を潤した。

 

「でも、私も昨日、ヤドカリの夢を見てた気がするんだよね」

「希咲も? どんな夢?」

「それが思い出せないんだけど。とにかく海の夢。で、ヤドカリが出てくる。それから、誰かもう一人、出てきたような」

「誰かの夢」

「すごく大事な夢だった気がするんだけど……」

「俺の夢にも、誰かが出てきた気がする」

「もしかして、まるきり同じ夢なのかな?」

「同じ夢を見るなんてことあるか?」

「わかんない」

 

 希咲と嬢は、すこし黙った。それから希咲が、ちゃぶ台に身を乗り出して言った。

 

「これも『エコー効果』なんじゃない?」

「『エコー効果』?」

「そう。あたしたち二人が出会ったから、お互いに何かが響きあって、まるきり同じ夢を見た」

「『エコー効果』ってそういうのだっけ? もっと科学的な感じじゃなかった?」

「夢だって脳が生み出すものなんだから、生物学でしょ」

「そういうことになるのか」

「そうだよ」

 

 これも「エコー効果」のひとつだとしたら。穣は、ふと気づいて口を開く。

 

「だとしたら、俺たちが見た夢は、ミュートされている人についての夢だったってことか?」 

「そうなるね」

「俺たちに共通の、ミュートされている人物」

「9年前の殺人事件の、真犯人。……じゃない?」

 

 たしかに、そう考えれば辻褄は合う。穣と希咲、それぞれ共通に関連していて、ミュート処理を受けている人物。いま《忘却刑》を受けて収監されている真犯人は、その条件にぴったりと当てはまる。しかし、穣には決定的な違和感があった。希咲は穣の感覚を察知するように、言い当てた。

 

「わかるよ。夢に出てきた人は、殺人の真犯人だなんて思えない。そんな気がするんでしょ?」

「ああ。どうしても、海とヤドカリの夢の感触が、血なまぐさい殺人事件に関わっているように思えない」

「うん。あの夢は、すごく優しくて、心地よかった」

「ただ、そんな感じがするってだけで、なんの根拠もないけどさ」

「でも、その『そんな感じ』が大事なんじゃない?」

「『そんな感じ』?」

「そう。ミュート技術は、意味のあるつながりを破壊しちゃう。だけど、『なんとなくこんな感じ』とか、『なんかこんな気がする』みたいな、記憶未満の、断片的な感覚の残り香が顔を出すのが『エコー効果』だもん」

「そう、なのかな」

 

 穣には、希咲の考えがなかなかよく掴めなかった。希咲は、さらにつづけた。

 

「だからあたし、『感じ』を大切にしてみる。9年前の殺人事件の真犯人。そいつを突き止めることが、あたしにとって重要な感じがするの」

「希咲にとって重要……」

「うん。真犯人を知ることが、あたしの本当の家族について知ることにつながるって、そんな感じがする」

 

 まだ、希咲は本当の家族を知ることをあきらめていなかったのか。穣は不憫に思った。しかし、誰だって、16年間生きてきて突然自分が戦災孤児だったと知れば、そう簡単に受け入れられないのは当然だと思い直して、ただ一言、こう返した。

 

「俺も、真犯人を知りたいと思ってる」

 

 ―ただし、殺すため。

 真犯人を突き止めたら、殺してやりたい。人を殺めておいて、忘却されて終わりなんて到底許せない。父さんを殺めた罪の清算が、その手段しかないのであれば―。

 殺す。

穣のその気持ちは、変わらなかった。

 

 希咲はすっかりトーストを食べ終わって、考え込んでいた。そして穣に問いかける。

 

「でも、《忘却刑》で誰からも忘れられてる人のことなんて、どうやって突き止めたらいいんだろう?」

 

 その通りだ。穣は、釈放されてからずっとその問題にぶち当たっていた。調べようにも、一切の手がかりがない。さらにそもそも真犯人はすでに捕まっていて、監獄にいる。穣や希咲のような一般人がどうこうして手出しできる問題ではなかった。

 

「なんかさ、《忘却刑》の人のことも覚えていられる、特別な人とかいないのかなあ」

 

 ピピピ、とアラームが鳴った。穣のスマホからだ。

 

「ヤバい! 仕事の時間だ」

「えっ、マジで! ごめん!」

「ごちそうさま! うまかった!」

 

 穣は大慌てで財布を手に取って立ち上がったとき、つい左脚に体重をかけてしまった。

 

「痛って!」

 

 畳に倒れ込む穣。そのとき、雷に打たれたように穣は思いついた。心配して寄ってきた希咲に、穣は大声で言う。

 

「いる! いるよ! 《忘却刑》の受刑者のことも覚えていられる、特別な人!」

「え!?」

「俺、3つ先の駅前の、ミュート・センターでバイトしてるんだ!」

「え、そうなの!?」

 

 希咲は、それをはやく言え、という顔をしたが、グッと飲み込んで穣の話を聴いた。

 

「そこには、いろんな目的で誰かを忘れたり、自分を忘れさせたりする人がやって来る。たいていの操作は簡単だから、即日でミュートの効果が出るんだ。でも、ミュート・センターの職員には、ミュート効果は1日くらい遅れて反映されるようになってるんだよ!」

「そっか、職員も同時に忘れたら、効果を確認できないもんね……」

「そう、ミュート技術を運営するときは、かならずその効果を免除される立場の人がいるんだよ!」

「ってことは……?」

 

 穣は、左膝をギュッと抑えた。膝の奥が痛んで、警棒を叩きこまれたときの光景が思い浮かぶ。しかし、そんな痛みにもかまわず穣は言う。

 

「監視官だ」

 

 《忘却刑》の受刑者たちを管理する、監視官。彼らは受刑者を認識している。

その証拠に、穣の膝を叩き折ったあの女監視官は、たしかに受刑者たちのことを覚えていた。なぜなら、警棒を振った日以外にも、なにかにつけて穣を目の敵にし、何度も暴力を振ってきたからだ。土蜘蛛のような乱れ髪のあの女監視官。思い出せるのは、決まって痛みを与えられた場面の感触や、印象だけだが、それでもあいつだと確信できる感覚がある。穣は、体のあちこちが痛むたびに、おぼろげに収監中の強制労働生活を思い出していた。

 

 監視官になる。もしそれが叶えば、《忘却刑》の受刑者たちをハッキリと認識することができるはずだ。穣の一言でその意図を理解した希咲は、目を輝かせていた。

 

「とりあえず、行ってくる! そんで、監視官になる方法がわかんないか、探ってくるよ!」

 

 穣は、404号室のドアを開けて、あわただしく出て行った。

 

 駅前・ミュートセンターの先輩職員は、すっとんきょうな声を上げた。

 

「ビックリした! 君、話しかけてくることあんのね!」

 

 バックヤードで休憩中の先輩職員は、コンビニのサラダをほおばりながら、穣をジロジロ見た。穣はなんだか気まずくなって、自信なさげな声で言った。

 

「すみません。先輩なら、知ってらっしゃるかなと思って……」

 

 ミュート技術取扱いの、資格について教えてもらえませんか。そう切り出したのが、いきなりすぎたかもしれない。

 

「なに? 資格の勉強したいの?」

「はい。そんな感じです」

「はあー、ああ、そう」

 

 先輩職員は、立ち上がると、書類キャビネットの前の踏み台にのり、一番上の戸棚を開けた。背伸びしたまま戸棚の奥をガサゴソとやると、埃だらけの本が引っ張り出されてきた。

 

「認定ミュート技術取扱者 標準教本」

 

表紙のボール紙はボロボロで、いたるところから付箋が飛び出している。穣は、恐る恐るその教本を受け取った。

 

「なんかちっとも喋んないし、陰気なガキが入ってきたと思ってたけど。やる気あったのね。なんか私、涙がちょちょぎれちゃう」

「あ、ありがとうございます」

「もう異動しちゃった先輩が使ってたやつだから。持ってっていいよ。分厚いけど初級から特級までそれ1冊でまとまってるから」

 

 穣は、宝物を見るような目で、待ちきれず教本をめくってみる。

 

「でもあんたね。資格目指すなら、もう二度とあんなことしちゃダメだからね」

「え?」

「私のIDカード。勝手に使ったでしょう」

 

 ギクリとした。菜美の記憶から、勝手に自分をミュートしたときに、先輩のカードを使っていた。ログを見れば、一発でバレるのは当然だ。

 

「菜美って子、元カノかなんか? まあ、どうせもうミュートも効果切れだろうし。一回なら見逃してあげるけどね。もう絶対ダメだからね!」

「え? ミュートって、効果切れになることあるんですか?」

「そりゃそうよ。人間の記憶には、修復しようとする力があるもの」

「もっと詳しく教えてください!!」

 

 穣は、力の限り先輩職員に頭を下げた。
先輩職員は、まんざらでもない顔で教えてくれた。

 

「ミュートにも、いろいろな設定があんのよ。穣くんが担当してるのは、映画を初見感覚で見るために、犯人キャラを忘れるっていうミュート処理でしょ? そういうのは、1回記憶のつながりを切断すればいいだけなの」

「ほかのミュート処理は、そうじゃないんですか?」

「たいていのミュート処理は、何度も何度も記憶のつながりを切断するプログラムを組むものよ。だって、一度忘れさせただけじゃ、またその人物の写真とか手紙とか見たら、思い出しちゃうでしょ。だから、徹底的に認識できなくするように、ナノデバイスが、ミュート対象の記憶が結びつこうとするのを検知したら、その都度つながりを切断するようにプログラムする。だから難しいし、資格がいる。わかった?」

「菜美のナノデバイスに送ったのは、1回消すだけのプログラムだったんですね?」

「そりゃそうよ。だってこれからその映画見るのに、見るたびに何度も犯人キャラのこと忘れちゃったら、謎解きパートがチンプンカンプンになるでしょう」

 

 さすが有資格者だ。

 そして何より。

 

―人間の記憶には、修復しようとする力がある。

 

この言葉が、穣にはものすごく、光り輝くように聞こえた。

 

「先輩すみません! 僕、今日これで早退させてください!失礼します!」

「あっちょっと! ちょっと優しくしたら調子に乗って……、この、Z世代が!」

 

穣は、希咲の待つ404号室へ、左脚を引きずりながら向かっていった。

 

 

「これだ」

 

 穣は、教本末尾に付録の「資格取得後の職域」のページを開いて、指さした。

 

「ほら、この二つ目に」

 

―認定ミュート技術取扱者 特級:国民統合和平関連業務/忘却刑関連業務

 

 希咲は、苦々しい顔をして言った。

 

「特級かあ……」

「どうした?」

「この本、ざっと見てみたんだけど。特級は、難しいかも」

「何言ってんだよ、こんなの全部暗記してみせるよ」

「たぶん、東大入るよりむずいよ」

「え?」

「脳医学から法学まで広い知識が要求されてるし。大学レベルの数学も平気で出てくる。それに合格の最低ラインが高すぎる。そのわりにはっきりとした答えのない臨床問題とか論文記述とかもあって、口述試験で倫理観も見られる」

「そんな……、さすがにまあ、東大入るよりは簡単だろ……」

「あたし志望校東大だよ」

 

 穣は面食らって、呟いた。

 

「お前ら、ほんと頭いいよな」

「お前らって?」

 

 とにかく、資格試験はあまりに時間がかかりすぎるので別の方法を探ることにした。希咲が言う。

 

「何か、監視官じゃなくても受刑者に会える立場ってないのかな? 慰問とかなかった?」

「慰問って?」

「歌手とかお笑い芸人の人が監獄にきてリフレッシュさせてくれる」

「そんなのなかったな。服役中は、ひたすら何かを掘ったり、運んだり、そんな感じだったはずだ。労働以外で覚えてるのは、時々監視官に殴られたことだけ」

「そう……」

「たぶん、世界の誰からも記憶されていない囚人なんて、扱いは最低なんだと思う。どんなに酷くあたったって、文句を言う人間もいない。そういう立場の人間に、人はとことん残酷になるみたいだ」

 

 むしろ9年間も生きていられたことが、穣自身もいまでなかば信じられない。左脚をギュッと掴んで、当時を思い出そうとしてみる。思い浮かぶのは、いつも想起する、警棒を振り上げる女監視官のすがただ。しかし、今日は何かが違った。穣が呟く。

 

「あ」

「なんか思い出した?」

「俺が左脚を折られた日、たしか俺たちは並ばされて、シャワーを浴びさせられたんだ。いつになく、監視員たちがせわしなく行き来していて……、『今日はゲストが来る』って言っていた」

「ゲスト?」

 

 記憶の底に、黒い革靴が何足も並んでいた。

監獄の床には似つかわしくない、よく磨かれた革靴だった。仕立てのよいズボンの裾。監視官と談笑する男たちの声。穣にはその意味が理解できた。

 

「人身売買だ」

「《忘却刑》の受刑者たちを買いに来る人たちがいた、ってこと?」

 

 穣は頷いた。

 希咲は深いため息をついて言う。

 

「最低だね。でも、ありそうな話。《忘却刑》の受刑者からなら、臓器を奪っても、もっと酷いことをしても、誰も問題にしないもの」

 

服役中のあの日、シャワーを浴びたあと、穣たちはずらりと並べられた。そして「ゲスト」と呼ばれる男たちが、談笑しながら品定めをしているなか―。

突然、女監視官が穣の左膝を打ちのめした。

なぜそんなタイミングで、そんなことをする必要があったのだろうか? ゲストに対する余興か何かか? 売り物をひとつダメにしてまで? しばらく考え込んでも、答えは出なかった。

 

 すると希咲が、パチンと両手を叩いた。

 

「あったよ!」

 

 希咲は穣の肩を叩き、ちゃぶ台に置いたデスクトップPCを見るように促す。

 

「ちょっと待ってくれ」

「何? はやく見てよ」

「このパソコン、いつの間に持ち込んだんだ?」

「ああこれ?」

「朝はなかったよね?」

「穣が仕事行ってるあいだに秋葉行ってきたの。そんなことよりこれよ、これ」

 

 希咲が見つけたのは、《忘却刑》受刑者の人身売買についてのネット上のやり取りだった。

 黒い画面に、白い文字で暗号めいた言葉が並んでいる。

 

《空番 新規入荷 M36 5尺6寸 20貫 外傷なし》
《空番 在庫処理 F70 4尺3寸 11貫 疾患あり》

 

「なんだよこれ……」

「この、『空番』ってのは受刑者のことなんだろうね。ほかの数字は、性別とか、身長とかかな。本当に吐き気がする」

「こんなやり取り、普通にネットで交わされてるのか?」

「いや、これはダークウェブの掲示板。そう簡単にはアクセスできない会員制のサイトみたい」

 

 この一覧のなかに、自分もいたのだろうか? 穣は釘付けになった。しかし、サイトは一定時間ですぐに別画面に遷移し、その度に希咲は再アクセスのために悪戦苦闘することになった。希咲がセキュリティの突破に集中し、穣が掲示板が表示されたわずかな時間にその内容を読み解くことに集中した。すっかり夜になるまでかかって、2人は次のことを突き止めた。

 「ゲスト」が招聘されて、「空番」と呼ばれる《忘却刑》受刑者がその場で売買されるオークションが不定期で開催されるということ。

 そして、次のオークションの開催は、夏の終わり、2週間後に迫っていた。

 

 希咲は、ぐったりと布団に倒れ込んで、呟いた。

 

「2週間か……」

 

 当然、ミュート技術取扱者の試験を受けている時間はない。

しかし、2週間後のオークションでもし、2人の目的である9年前の真犯人が誰かに買われてしまったら―。そこから先を追跡することは、ほとんど不可能になるだろう。そして、オークションに参加するためには、すでに会員になっている者による紹介と、巨額の入会料金が必要だった。時間。コネ。カネ。そのどれもが2人には欠けていた。

 

穣は、無数の隠語を読み解いて目が充血しきっていたが、それでもいてもたってもいられず、先輩職員にもらった教本を、あてもなくめくっては読んでいた。教本にも、内戦とミュート技術の関係が書かれていた。

 

「ミュート技術は内戦中に開発されたとされています。明確な発明者については不明ですが、PTSDに苦しむ多くの復員兵や、戦後遺族を苦しみから解放しました」

 

 そこから先は、ミュート技術の技術革新について、専門的に微に入り細にわたる年表が記載されていた。その中で一カ所だけ、穣の目をハッキリと惹きつける文言があった。

 

「ミュート技術の未成年への使用が認可されるようになったのは、精神医学者で教育者の桑島義之氏の尽力によるもの」

 

 桑島義之。

 穣たちの、「父さん」の名前だ。

 穣や希咲たち内戦の戦災孤児を引きとり、育て、そして殺された男。

 

 穣は、教本のそのページを開いたまま、希咲に語り掛けた。

 

「明日、孤児院があった場所に行ってみないか?」

 

 

孤児院の場所は「桑島義之」の名前を頼りに、図書館で9年以上前の地図を見漁ることでやっと見つけた。
孤児院があった敷地は、まるで雑木林のように鬱蒼と、植物が伸び放題になっていた。建物はすでに取り壊され、地面の上にその残骸が散乱しているだけだった。しかし、穣と希咲はそこを訪れただけで、そこが目当ての孤児院跡地だと、直感した。

 

夕方になると、人通りも少なく、誰も見ていなそうだったので、穣と希咲はオレンジ色の立ち入り禁止フェンスを越えて敷地に入った。
穣が、伸び放題のソテツを踏み越えて行こうとすると、希咲が立ち止まった。
希咲は、パイロンのわきにかがんだ。そこには、小さな石のプレートがたてられていて、いくつかの花束や缶の飲み物が手向けられていた。プレートには、「桑島義之」と書かれている。

 

「父さんの慰霊碑だ」

 

 穣も、希咲の隣にしゃがんで、手を合わせた。

 目を閉じ、想像する。

 自分や希咲を育てた人物。

 最期はこの孤児院で、殺された人物。

 そして、ミュート技術の未成年への適応で功績を残した人物。

 

―ミュート技術の、未成年への適応?

 

 ふと、穣は疑問に思った。それは、いつごろのことなんだ?

 そう思うと、ひとつの記憶が胸の奥で引っ掛かって、顔をもたげてきた。

 

「なあ、希咲」

「ん?」

「希咲はたぶん、覚えてないと思うけど。父さんが、こんな風に言ったことがあったんだ」

 

ある日、孤児院のみんなが集まる朝の会で、寮父・桑島義之は言った。

 

「みんな。タイムカプセルを作ろう!」

 

 タイムカプセル? それってなに? 子どもたちが口々に叫んだ。にっこりと微笑んで、桑島は続ける。

 

「みんなの写真や、手紙。思い出になるものを、みんなカンカンに入れて埋めておくんだ。わかるかい? 未来への贈り物なんだ」

 

 それから、桑島は子どもたちに、自分や孤児院のほかの子どもが映っている写真や、やりとりした手紙をかき集めて持ってくるように言った。めいめい、素敵な遊びとして、宝物のカードや、おもちゃを持ってきた。しかし桑島は、名前や顔が載っているものに特にこだわった。そして、手紙をタイムカプセルに入れずに、手元に置いておきたいと言って泣いた子どもを、ひどく叩いて叱りつけたことがあった。日に日に、桑島のカンカンはいっぱいになっていた。

 

「タイムカプセルは明日で締切だよ。みんな、入れるものを忘れないように」

 

 その話を聴いて、希咲は怪訝な顔をした。

 

「なんで桑島さんはそんなにタイムカプセルにこだわったの?」

「さあ、わからない。でも、その締切の明日は来なかった。その日のうちに父さんは殺されたんだ」

 

 希咲は、目の前の慰霊碑のプレートに視線をやった。「桑島義之」という名前の下に、こう書かれている。

 

―たくさんの思い出とともに眠る。

 

「これって……?」

「誰かが、父さんが死んだあとに、遺品としてタイムカプセルを埋めたのかもしれない」

 

 そう聞くやいなや、希咲は慰霊碑をズボッとひき抜いた。そして言った。

 

「穣! 掘って!」

 

 穣と希咲は、素手で土をかき分けはじめた。土は湿って固く、らちが明かないので、その辺に落ちている建物の残骸らしきモルタルの破片で、ガリガリ削った。すると、子どもたちが思い出の品を入れさせられた、大きな缶が顔をのぞかせた。

 

 缶のなかには、大小さまざまなおもちゃや、シール、カード、ぬいぐるみなどが詰め込まれていた。どれも湿気を吸って変色し、泥の匂いをまとっている。

 その底に、輪ゴムで留められた写真の束があった。写真の縁は水分を吸って、ガタガタに波打っている。表面にも白っぽい染みが広がり、写真同士がくっついてしまっているようだった。

 

穣は劣化した輪ゴムを慎重に外した。指先に力を入れすぎないようにして、一枚ずつ、写真を剝がすようにめくっていく。

 

 食堂で、長机を囲む子どもたち。

 小さな庭での集合写真。

 二段ベッドからピースサインを送る兄弟。

 

 何の変哲もないいくつもの写真。だが写真を目にするたび、孤児院で過ごした日々が、フィルムを早回しするように脳裏を駆け抜けた。

 そのうちの一枚に手が止まった。穣が呟く。

 

「ヤドカリだ」

 

 小さなヤドカリを手にもって、頬の隣で掲げる少女。

 

「これ、私……?」

 

 ヤドカリの写真を希咲に渡すと、その下に、波打ち際に立つ穣の写真が現れた。

 穣の心臓が、胸を破るほどに打つのが感じられる。

 

 穣は、自分が写ったポラロイド写真を裏返した。

 裏面には、黒いペンでこう書かれていた。

 

「Artwork by Eiko Tokita」

 

 穣は、口に出して読み上げた。

「エイコ・トキタ」

 

 栄子。時田。

 時田栄子。

 栄子。

 栄子。

 

 ポラロイド写真の裏書を見つめながら、心のなかで名前を唱えると、なぜか涙が出てきた。穣は頬を拭った。

 

「栄子。時田栄子」

 

 その名前を強く思い浮かべる。頭のなかで、切り刻まれた記憶が揺蕩いだすのを感じる。白い腕。ウェーブのかかった長い髪。ポラロイドカメラ。波。砂。

 あとほんの少しで、すべてがつながりあいそうなのに。穣の脳内のナノデバイスが動作をはじめる。普通なら、ナノデバイスの作動はなにも感じられないが、いまの穣にはハッキリとそれが感じられる気がした。

ポラロイド写真の裏の文字が、穣の視界のなかで崩れはじめる。

 

 

「Eiko Tokita」

 

「Eik0 TÃklta」

 

「Eï¿□0 T□?a」

 

「□□□?a」

 

「□□□□□」

 

「     」

 

読めなくなった。

 

穣は、読めなくなった写真の裏書きを指さした。
希咲の唇が、もう一度その名前をなぞった。
その瞬間、希咲の表情が凍りついた。写真を見つめたまま、瞳が大きく開かれる。

 

「お姉ちゃん……」

 

 次の瞬間、堰を切ったように、希咲のなかへ記憶が戻ってきた。

 

9年前。
6歳の希咲は、神崎夫妻が孤児院へやってくるたび、栄子の背中へ隠れた。
神崎の妻は希咲をたいそう気に入っていた。希咲の前にしゃがみ込み、かわいい、かわいいと言って髪を撫で、持ってきた人形や菓子を渡そうとした。そして決まって、神崎の腕をとって、こういった。

 

「あの子にそっくりよ。ねえ、あなた」

 

しかし希咲は、その神崎がどうしても嫌いだった。神崎はいつも優しそうに微笑んでいた。それでも、怖くてならなかった。神崎に見つめられると、理由もなく胸が苦しくなった。逃げなければならないと、身体の奥で誰かが叫んでいるような気がした。

 

「この人、いや」

 

 希咲がそう言うと、桑島はひどく怒った。

 

「失礼なことを言うんじゃない。神崎さんたちは、お前を幸せにしようとしてくれているんだぞ」

「いや!」

「わがままを言うな!」

 

 栄子は、希咲の手を引いて、一緒にベッドにもぐりこんだ。希咲が栄子の服を握りしめると、栄子は抱きしめ返してくれた。なによりも温かく感じたけれど、栄子も震えているのがわかった。栄子は言った。

 

「私が守ってあげるから」

 

 それから数日後、真夜中に目を覚ますと、希咲は窓のない小部屋にいた。そこは、子どもたちが立ち入ることを禁じられていた、孤児院の離れの倉庫だった。

 

 部屋の中央に、見たことのない機械が置かれていた。椅子の頭上から、つるりとした乳白色の半球がぶら下がっている。太いケーブルが床を這っていた。そのケーブルを、桑島が点検している。桑島は、希咲に気づくと微笑んだ。

 

「ここに座りなさい」

 

椅子を指した。

 

「何するの?」

「希咲は、お姉ちゃんと離れるのが怖いんだろう?」

 

 希咲はうなずいた。

 

「その怖い気持ちを、なくしてあげる」

「お姉ちゃんは?」

「栄子も、もう怖くなくなるよ」

 

 桑島は希咲の肩を押し、椅子へ座らせた。

 

「みんな、これからお互いのことを忘れるんだ。そのほうが、新しい家で幸せに暮らしていける。大丈夫、痛くはないよ」

 

 逃げようとしたときには、希咲の腰へベルトが巻かれていた。両手首も、椅子の肘掛けへ固定される。希咲は喉が張り裂けんばかりに叫んだ。

 

「いやだ!」

「暴れると危ないぞ!」

「お姉ちゃん!」

 

 乳白色の半球が、頭上からゆっくりと下りてくる。視界が白い機械に覆われた。低い駆動音が耳元で鳴り始める。

 すると、小部屋の扉が激しく開く音がした。

 そこで希咲の記憶は途切れた。

 

 ◇

 

 その続きは、穣の記憶が持っていた。

 

 離れの方から、ただごとではない物音がして、木々に覆われた庭の小道を走る穣。立ち入り禁止の部屋の扉が開け放たれている。

恐る恐る部屋に入ると、「父さん」が倒れていた。その頭の下には、黒々とした血だまりが池のように広がっている。目は虚ろに開いていて、そこに命が存在しないことが一目でわかった。

 

 扉のそばで、栄子が震えていた。両手を血で汚し、倒れた「父さん」を見つめている。おそらく、「父さん」は栄子と激しくもみ合った末、作業台にこめかみをしたたかに打ち付けてしまったのだろう。栄子は、必死で血を止めようとしたのだろうが、もう手遅れだった。

 

 部屋の中央では、希咲が椅子に拘束されたまま、乳白色の半球の下で呆然としていた。機械の表示灯は、処理の完了を示している。穣には、それがなんの機械だかわからなかったが、ひとつだけハッキリとわかった。

海へ遠足に行った日。栄子が恐れていたことが、すべて現実になってしまった。

「父さん」が、希咲に栄子のことを忘れさせた。それを止めようとした栄子が、「父さん」を殺してしまった。

 

「栄子」

 

 名前を呼ぶと、栄子が穣を見た。唇が何かを言おうとした。しかし声が出るより先に、栄子の全身からフッと力が抜けた。穣は咄嗟に抱き留めた。栄子は気を失っていた。

 穣は、血に濡れた栄子の服を脱がし、ベッドに寝かせると、離れに戻ってきた。

 

 そして桑島の服に触れた。乳白色の機械にも触れ、作業台にも、床にも、自分の指紋をつけていった。近くに落ちていた花瓶を拾った。穣はそれを両手で握り、桑島の頭へ振り下ろした。割れた。

 

 それから穣は、血まみれの手で携帯電話を操作し、110番をまわした。

 穣は携帯を握りしめ、言った。

 

「いま、僕が人を殺しました」

 

  ◇

 

 記憶から現実へ戻ると、穣の手が震えていた。

 手にしたポラロイド写真が、かすかに音を立てている。

 

 穣は目を閉じた。

 

 いま思い出した出来事を、もう一度たどろうとする。しかし、脳内のナノデバイスが総動員で、ハサミを振うのが感じられた。栄子に結びついた記憶のすべてを消すため、無数のハサミが頭のなかで暴れまわっている。

 

海。
ヤドカリ。
ポラロイドカメラ。
ウェーブした髪。
血だまり。
乳白色のメモリーノ。
「Eiko Tokita」の文字。

 

記憶の断片が、栄子という一人の人間へ結びつこうとするたび、ナノデバイスがそのつながりを切断する。
顔を思い出すたびに切る。
声を思い出すたびに切る。
「Eiko」と読むたびに切る。

 

 穣は、近くに転がっていたモルタルの破片を右手で掴んで、左腕に突き立てた。

 

「穣?」

 

 希咲が声を上げた。

 切っ先は鈍かった。皮膚が引き裂かれ、肉が擦り切れる激痛が走る。血が噴き出した。

 

「何してんの!」

 

 希咲が穣の腕をつかもうとする。穣は振り払った。

 

「痛みで憶えるんだ……!」

「やめて!」

「俺は左脚の痛みで、服役中のことを思い出せた。だから、この痛みと記憶を結びつけるんだ」

 

 頭のなかから消えてしまうなら、身体へ刻みつける。

 穣はモルタルの破片を引き、左腕へ文字を書き始めた。

希咲が、はおっていたカーディガンを俺の腕に巻いて、血があふれてくるのにかまわず布地の上から押さえつけた。血が止まって、カーディガンをめくると、腕に刻まれた文字はひどく線がガタガタで、バランスもグチャグチャで、辛うじてこう読めた。

 

「Echo」

 

それを見て、希咲がほんの少しだけ笑った。

 

「これじゃ、エコーだよ。バカ」

 

 内戦による死者の合同慰霊所は、都心からすこし離れた丘の上にあった。
広場の中央に、赤い球体が融解するような形の巨大なモニュメントが立っている。
そのまわりに、無数の墓石が建てられている。

 神崎は、その中に立っていた。神崎の背後から、声が聴こえる。

 

「神崎さん」

 

 神崎は振り向いて、驚いた。

 

「佐野穣くん。どうして私がわかったんだ? いま私は自分自身をミュートしているはずだが」
「やっぱり。神崎さんなんですね」

 

 穣は、神崎に伝えるために書いてきた手紙を広げて読みながら、話した。
神崎の顔を見ても、ピントがぼけたように印象が薄い。しかし、ただ淡々と、伝えるべきことを伝えるように集中した。フィルムの1コマ1コマが、それぞれにはバラバラの写真でも、つねに連続して見続ければ、それは動画になる。それと同じように、つねに忘れ続けても、つねに思い出し続けられるよう、箇条書きの手紙を用意してきたのだ。

 

「ここにいるんじゃないかな、って思ったんです。娘さんのお墓ですよね。内戦で亡くなった」

「ああ」

「単刀直入に言います。ミュート技術を廃止してください」

 

 神崎は、深いため息をついて言った。

 

「穣くん、それはできない」

「なんでですか?」

「内戦の記憶が、蘇るところを想像してみなさい。あの内戦は、日本人同士が殺し合った戦争だった。親戚筋をたどればすぐにつながりあうような、密接な関係で殺し合ったんだ。憎しみは憎しみを呼び、ますます内戦は止められなくなった。だが、ミュート技術のおかげで、北と南はそれぞれの憎悪を水に流して、またともに暮らしはじめることができるようになったんだ」

 

 神崎は、日本民主国にたてられた、南朝から連れてこられたもう一人の天皇陛下を、全日本国民から忘れさせたときのことを思い出した。こんなことを、目の前の青年に話したところで、なにもわからないのだろう。 

 

「神崎さんのこと調べました。元軍人なんですよね?」

「……」

「孤児院の関係者を巡って、やっとわかりました。希咲と栄子の両親も、軍人だったそうです。きっと、希咲と栄子の両親を殺したのはあなたなんだ」

「それは、誰にもわからないよ。戦場でのことだ」

 

 穣は、手紙のほかにもう一枚、ポスターを取り出した。駅前ミュート・センターに貼られていたチラシだ。穣はそこに書かれている標語を読み上げる。

 

「人には元来、『忘れられる権利』がある」

「その通りだ」

「どうして『忘れる権利』じゃないんですか?」

 

 神崎は、黙って項垂れた。

 

「大切な人を亡くしたことを忘れるのが大事だって言うなら、『忘れる権利』でいいはずです。本当に忘れられたいのは、神崎さん。あなたなんでしょ?」

 

 神崎は、これまで生きていて一度も忘れたことはなかった。軍人時代、はじめて福島の戦線で、敵を撃ったときの感触を。

 

「僕は、神崎さんを責めるつもりはありません。戦争のことは僕にはわかりません。でも、僕は僕らの罪を忘れたくないんです」

「罪?」

「僕は、栄子という人のことが好きです。だけど、その人は人を殺してしまった」

 

 桑島義之……。神崎にとっては、ともにミュート技術の普及に努めた盟友のひとりだった。穣は、さらに手紙を読みながら続けた。

 

「だけど、栄子は、その罪を忘れられたいなんて思っていません。栄子はきっと、ちゃんと罪に向きあって、償って生きていきたいと思っていたはずだ」

「どうしてそんなことがわかる? そんなの、君の勝手な希望なんじゃないか?」

「栄子は、自首しました。科学鑑定の技術が向上して、自分自身が真犯人だと証明できるようになったとき。そうして僕と入れ替わって、《忘却刑》を受けた」

 

 神崎は、言葉を失った。

 穣は言う。

 

「ミュート技術を廃止してください」

「……」

「僕も、正面から罪を償う栄子を支えて生きていきたいんです」

 

 神崎は、腕時計型のスマートデバイスをタップした。すると神崎のミュートが解除された。

 

「穣くん。人間がみんな、君たち2人のようになれるわけじゃないんだよ」

 

 穣は、神崎の目をじっと見た。長い間沈黙して、口を開いた。

 

「神崎さんを頼るのは嫌なんですけど……。それなら、頼み事があります」

「言ってみなさい」

「お金貸してほしいんです」

「いくらだね?」

「けっこういっぱいです」

「構わないよ」

「それから、そのお金を振り込んだら、俺のことはミュートして忘れてください」

「それ……、借りた金を踏み倒すつもりだろ」

「返しますよ、一生かけても。ただ、来週までに必要なんです」

 

 穣は、数か月ぶりに自分のいた監獄に舞い戻ってきた。

 はじめて《忘却刑》から解放されたとき、そのことを穣に説明した医者が、地下へ穣を案内した。この医者が、受刑者の人身売買ビジネスを取り仕切っているのだろうか。

 

地下の工場には、予想以上の人数の受刑者たちがひしめいていた。不思議な感覚だった。男も女も、若い者も老いた者も大勢いるはずなのに、人いきれの存在感がまるでない。受刑者たちをかきわけて進むけれど、視界をはずれたそばから印象が消えていって、いったい全体で何人くらいいるのか見当がつけられない。

 

 穣は何度も左腕を見た。

 ガタガタに歪んたアルファベットが刻まれている。

 

「Echo」

 

9年前の栄子のことは、この傷を見れば思い出せる。しかし、24歳になった栄子を見分けられるかは、純粋な賭けだった。あまり変わってなければいいが。

 

医者が笑う声が地下に響いた。

 

「さっきから同じところをグルグルまわってますよ!」

 

穣は、あああっと叫んだ。その声も地下工場に反響した。

受刑者たちがいっせいに穣を見た。穴みたいな目が並んでる。俺もこんな顔をしてたっていうのか。俺は―。左脚がふいに刺すように痛んだ。俺はひざをついて倒れた。

 

 医者が腕時計を見ながら言った。

 

「もう決めてくださいね。オークションの前に一人選びたいなんて、神崎さんの紹介じゃなきゃあり得ませんから」

 

視線を上げると、ひとりの受刑者が穣に手を伸ばしていた。
自我をなくしても、他人に手を差し伸べることができるのだろうか、と穣は驚いた。
穣はその手をとった。
引き起こされながら、その受刑者の腕を見た。作業服の袖口から、なにか赤く盛り上がっているものがのぞいている。傷だ。あわてて穣は受刑者のの袖をめくった。

 

その白く細い腕には、アルファベットで三文字、深い傷が刻まれていた。

 

「JOE」

 

 穣は息を止めた。

 ―俺の名前だ。

 

穣は、その受刑者の瞳を見ると、驚いて動けなくなった。

瞳は虚ろで、何も映してはいない。だけど、間違いなく栄子だ。

 

そして栄子は、穣の左膝を折った女監視官その人だった。

 

「栄子!」

 

そう叫んだ瞬間、穣は理解した。

 

穣が《忘却刑》を受けたあと、栄子は監視官になることを選んだのだ。

《忘却刑》の受刑者を覚えていられる、ほとんど唯一の職業。

栄子は資格を取り、収容施設へ入り込んだ。そして監視官になれる日まで穣を忘れないよう、自分の腕へ名前を刻みつけた。

 

「JOE」

 

 そして穣のそばにいて、穣が「ゲスト」に買われていかないように、左脚を傷物にした。譲は栄子を抱きしめて、呟いた。

 

「なんでだよ……」

 

穣はポケットから大金が入った封筒を取り出して、医者に投げつける。

 

栄子の手を引いて、穣は地上への階段を上っていく。
地上には、希咲が待っている。いつか必ず、栄子のミュートを解除する方法を見つける。希咲とならば見つけられるだろう。それまでほんの少しのあいだ、そのまま休んでいればいい。
栄子の目にはやっぱりなんの表情もなく、口の端からは透明な唾液の線が垂れていた。

 

「なんでだよ……」

 

―俺がずっと忘れられたままでいればそれでよかったのに。わざわざ無駄にするようなことしやがって。栄子はとびきり頭がよくて、写真が上手くて、なんにでもなれたすばらしい人間なのだ。俺なんか放っておいて、好きなように生きてくれればよかった。

 

忘れたままでよかった。

俺の人生のことなんか、思い出さなくたってよかったのに。

 

それが、穣がこの世界に復帰してふたたび強く抱いた感情だった。

 

文字数:39988

内容に関するアピール

本作は、最終実作用の梗概とは別に、第5回で提出した「受刑者404」を全面的に書き直したものです。

「受刑者404」は、プロットの段階では物語の構造を高く評価していただいた一方、実作では、その面白さや意図を十分に伝えることができませんでした。改めて読み返すと、プロットに記していた重要な出来事や人物の感情が、本文ではほとんど場面として表現されていないことに気づきました。私は文章の細部や言葉の選び方に意識を向けるあまり、読者に「いま、何が起きているのか」「それを主人公がどう受け止めているのか」を伝えるという、小説の基本的なサービス精神を疎かにしていたのだと思います。

普段、舞台脚本を書いている影響もあり、出来事や設定を台詞の中で説明してしまう癖もありました。
しかし「」のなかに長いセリフが入る状態は、読み返してみると読みづらいことこの上ありませんでした。
今回は、時間の許す限り、台詞には最低限の人物の感情や思惑を担わせ、出来事や状況は地の文によって具体的に描くことを心がけました。

上記の修正点を、滋賀県大津の自分の生地で、大津城をテーマにした今村翔吾先生の歴史小説『塞王の楯』を読んだときに思いました。

文字数:500

課題提出者一覧