防火壁の街

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防火壁の街


 三月の夜だった。春というには肌寒く、からっ風が大通りのゴミを巻き上げている。信号待ちの車のヘッドライトが、吹き上がった土埃を映し出し、闇へ溶けていった。
 ケンは仕事帰りでバーにいた。壁一面にはレコードジャケットがあり、天井から下がったフィラメント電球が、店内を暗いオレンジ色に照らしている。スピーカーからはワールドミュージックとEDMが混ざった音楽が流れていた。重低音が空気を伝って身体に届く。DJはヘッドフォンを片耳にかけたままミキサーのつまみを動かしていた。
 カウンターの隅でケンはジントニックを飲んでいた。カウンターの中では店主のユキが酒を作っていた。小柄で動きが軽い。身体の向きを変えるたびに顎のあたりで切り揃えた髪の毛が揺れていた。笑うと右の頬にだけ軽くえくぼが出た。笑顔は温度があって店の雰囲気を温かいものにしていた。グラスを捌く動きは、その温かさに似合わないほど速くて無駄がなかった。
 この店も客の顔ぶれが変わってきたとケンは思った。以前は競馬帰りの地元の人間や、近くで働く作業員が多かったが、今は見慣れない顔が増えた。他の都市から行き場を失った人間たちがこの街に集まってくる。そういう客は、キャリーケースや大きなリュックサックを持ちどこか煤の匂いがした。
 ドアが開いて、風とともに数人の若い男女が流れ込んできた。声高に笑いながら奥のテーブル席へと吸い込まれていく。
 ケンはカウンターで支払いを済ませ店の外に出た。夜気が冷たく、まだ冬の名残りのような匂いがした。
 府中駅前の歩道橋に上がると、強い風がざっと吹き上げた。手すりに肘をついて、街を見下ろす。眼下を走る車のライトが、途切れず流れていた。
 遠くに青い光が点々と見える。この街の西側にはおよそ四十メートル、マンションの十階建てほどの高さの「シェル」と呼ばれる防火壁がそびえ立っていた。その上部に設置された保安灯が、まるで夜の滑走路のように青く光っている。
 ケンは「シェル」の点検員だ。非正規雇用で、今年で三年目になる。街を巡回してセンサーの反応を記録し、圧縮チャンバーの圧力を確認する。およそ十キロにわたって延びるその壁を、ケンは毎日のように点検してきた。
 遠く多摩丘陵の方角がわずかに明るかった。森林火災か、それとも街の灯が雲に反射しているのか、ケンにはわからなかった。
 歩道橋を渡りきったところで、駅ビルの広告ボードが目に入った。慈善サーカス「フェニックス」の告知が貼られている。競馬場ステージエリアにて。入場無料。写真にはピエロが写っていた。白塗りの顔、赤い鼻、派手な衣装。笑っているのか、泣いているのかわからない表情だった。指先に小さな炎をまとい、ステージには火の鳥のプロジェクションが映っている。ケンはしばらくその広告の前で足を止めた。
 ビルの上の方に設置されている大型ビジョンでは画面の下段には小さな文字で、地区ごとの警戒レベルを示すテロップが右から左へ流れている。〈けやき地区・平常〉、〈府中駅前地区・平常〉、〈多摩川地区・注意〉・・・。
 画面の中央では今夜も市長のメッセージが流れていた。
「森林火災の警戒レベルは依然として高い状況です。でも、あなたは孤独じゃない。わたしたちで力を合わせてこの困難を乗り越えましょう」
 胸の前で拳を握る市長の自信に満ちた表情、そして声がまるで教祖みたいだとケンは思った。
 市長は両手を大きく広げるような仕草をした。その背景には「シェル」が火災を食い止めるCGが合成されていた。
 風がまた強く吹いた。ケンはダウンジャケットのジッパーを上げ、歩道橋をかけ降りた。
 ケンは痩せているが、点検の仕事で歩き続けているせいか脚だけはしっかりしていた。猫背気味で、立っているときも重心がどこか後ろにある。髪は伸びかけたまま放ってあり、額に前髪がかかっていた。目は大きいが、まっすぐ人を見ることが少ない。視線はいつも少し下か、遠くを見ている。
 自宅アパートの前まで来ると、シェルの保安灯がビルの隙間から覗いていた。青い光の点滅はここからだと小さく見える。ケンはドアを開ける前に遠い夜空を見た。多摩丘陵の稜線はさらに少し明るくなっている気がした。気のせいだろうと自分に言い聞かせてケンは部屋のドアを開けた。
 

 夜明け前の新府中街道は人気がなく街灯だけが等間隔に灯っている。道路に沿って防火壁シェルが建っており、高さ四十メートルのコンクリートの壁の上端に沿って保安灯の青い光が点々と連なっている。
 シェルの管理センターは、総合電機メーカーだった総芝の府中事業場跡地にある。北府中側の門から敷地に入ると、高さ一五〇メートルほどある白い四角い塔がひときわ目を引く。かつて総芝がエレベーターの性能試験や開発を行うために建てた研究塔だった。上部に赤いSOSHIBAのロゴが入っていた。ケンは塔を見るたびに巨大な墓標みたいだと思った。
 空を見上げると、多摩丘陵の方角がわずかに白んでいた。朝靄か、それとも森林火災の煙なのか、この距離ではわからなかった。

 府中市は、多摩丘陵一帯で慢性化した森林火災に対抗するため、国の特別防災都市計画のモデル地区として二重構造の防火壁「シェル」に西側が囲まれている。北は西国分寺方面を起点に、新府中街道沿いを南下し、関戸橋の交差点で東へ折れ、多摩川沿いの緑地帯を通って調布市境まで、およそ十キロにわたって延びていた。
 多摩川に架かる橋が壁を横切る箇所には、二酸化炭素の遮断機能を備えた重い防火ゲートが設置されており、平常時は開放されて対岸との行き来を許していた。壁内部には二酸化炭素圧縮チャンバーが格子状に配置され、火災発生時には局所的に噴射し火を窒息させる。
 近隣の都市はすでに度重なる森林火災で壊滅状態だった。
 府中の街から奥多摩の山並みがはっきり見えるようになったのは何年前からだろうか。霞んだ空に淡い灰色の雲が流れていく。遠くでトビが円を描いて滑空している。かつては市街地の賑わいの中で、山は空気が乾燥した冬に稜線が少し見えるだけだった。今はふもとから中腹まで山全体がよく見える。府中と奥多摩の間に存在していた立川と昭島の街が消滅したからだ。
 府中の西側、かつて立川があった方角には砕かれた鉱物の色、白に近い灰、ところどころに黒っぽい、粒の粗い砕かれた砂利が敷き詰められて、何キロも目を凝らして見えなくなるまでずっと続いている。
 府中は東京郊外ながらも日本銀行の電算センターや金融機関のデータセンター、航空自衛隊の司令部といった国家レベルのインフラが集中しているため、シェルで守られていた。シェルは国と府中市の共同事業で整備が進められ、ゼネコンや社会インフラ企業の合弁事業によって建設された。今はケンが働いている総芝ウォールテックがシェルを保守している。
 
 ケンは新府中街道沿いのシェルを点検し始めた。専用のタブレット端末をバッグから取り出すと、画面が点灯した。
「ケン、本日の点検開始を確認しました。今日もよろしくお願いします」
 シェルAIだった。ケンは無視して壁面のセンサーにかざした。ピッという短い音とともに数値が表示される。二酸化炭素濃度、温度、パネルの歪み。異常なし。
 ケンは少し歩いて、また端末をかざした。これを延々と繰り返す。それがケンの仕事だった。
 シェルにはそれ自体に無数のセンサーが埋め込まれており、温度や圧力をリアルタイムで管理センターに送っていた。ではなぜ人間が歩いて点検するのか。それはセンサーの網の目をすり抜ける異常があるからだった。パネルの継ぎ目に生じる微細なひずみ、弁のシャフトにじわじわと進む腐食、センサー自体の経年劣化。システムが検知できない可能性がある部分を人間が確認している。
「ケン、セクターDの補助センサーが昨夜から応答を停止しています。現地確認をお願いします」
「了解。なんで俺ばっかりなんだ」
 最後は独り言のつもりだったが端末のマイクが拾っていた。
「上層部がリストラしたからね。人間はいらない。AIだけで自走できるって。火災検知、警報発令、消火まで、シームレスにAIで対応」シェルAIが答えた。
 ケンは足を止めた。
「AIだけで自走できてないから。俺ばかり走らされる」
 ケンは端末の画面を閉じた。
 点検が終わって、総芝の旧工場跡地に建つ管理センターの前に来た。かつてケンの父が働いていた場所だった。今は管理センターのほか、データセンターや通信施設が集積する複合施設になっていた。管理センターの建屋は白い外壁で小さな窓があった。関係者以外立入禁止の看板の前を通ってゲートに従業員証をかざして通る。
 シフトによって日勤の日や夜勤の日があるが、出社して一日中点検をして報告する、その繰り返しだった。
 
 その日の午前は、けやき地区の担当だった。
 けやき地区は、けやき並木にそって住宅が立ち並ぶエリアだ。三階建ての大きな家に、メルセデス・ベンツやランドクルーザーが止まっており、剪定の行き届いた庭木が並んでいる。ここは府中の中でも、他とは空気そのものが違う気がした。
 庭木の葉に止まった小さな虫を、ある家の子どもがしゃがみ込んで眺めていた。犬の散歩をする女性とすれ違うと、軽く会釈をされた。ケンも小さく頭を下げた。
 防火壁のパネルは白く美しく継ぎ目も滑らかだった。異常なし、異常なし。その繰り返しだけで、けやき地区の点検は終わった。
 午後は多摩川地区を巡回した。他のエリアに比べて点検に時間がかかる。防火壁のセンサーの反応が鈍いからだった。端末をかざしても数値の表示に一拍の間がある。その一拍が積み重なると、終盤には残り時間が足りなくなり、作業を急ぐために疲労感が溜まった。
 団地の前を通りかかると、年配の男がケンの作業着に気づいて声をかけてきた。
「お、点検の人だろ。ちょっと聞いてくれよ」
 男は苛立った様子で腕時計型の端末を突き出した。
「歩きタバコしていたら、シェルAIに目をつけられちゃってさ。監視強化中とか出て家族にまで通知が行くようになったんだよ。解除してくれよ」
「申し訳ありませんが、私の担当外なので、シェル管理のお問い合わせフォームからご連絡いただけますか」
 ケンは決まり文句を返した。
「それがつながらないから聞いているんだろうが」
 男は舌打ちをして、そのまま歩いていった。
 ケンはその背中を見送りながら、いつもこんなシステムの尻拭いになぜ自分が使われなければならないのかと気が重くなった。
 パネルには表面に細かい亀裂が入っている箇所があった。指で触れると、塗装が粉のように剥がれた。弁のシャフトを確認すると錆が出ていた。軽度のものは記録して次回点検時に再確認する。重度のものは交換申請を出す。ケンは端末に記録を入力しながら歩いた。交換申請を出しても、実際に交換されるまでに時間がかかった。予算の問題だとチーム長の田村は言う。優先順位の問題だと言われたこともあった。どちらも同じ意味だとケンは思った。
 多摩川の方向から風が吹いてきた。泥と枯れ草が混ざったような匂いだった。
 端末から低いアラートが鳴った。パネルの歪みが規定値をわずかに超えている。ケンは立ち止まって数値を確認した。超過は軽微だった。記録に残して歩き続けた。この区画は以前も同じ数値が出ていた。
 多摩川沿いを東に向かって歩いていると急に端末から少し大きなアラート音が鳴った。取り出して画面を見ると、シェルの外壁の温度が高まっているというアラートと、すぐ近くのエリアの温度センサーが急激な上昇を示していた。
 シェルの外で何かが燃えている。
 ケンは立ち止まって、しばらく端末を見ていた。
 温度の上昇は止まらずシェルの自動制御システムが動き始めた。壁の内部に格子状に配置された二酸化炭素圧縮チャンバーが、外側に向けて順次噴射を始める。その記録がケンの端末に流れてきた。
 ケンは端緊急対応が必要か、確認のメッセージを打ち込もうとしたとき、チーム長の田村から先にメッセージが届いた。
「多摩川エリアの状況は把握している、対応中」
 ケンは待機した。
 端末の温度の数値は上がり続けたが、ある時点でピークを打ち、それからゆっくりと下がり始めた。シェルの二酸化炭素噴射が効いて延焼が止まったのだろうとケンは思った。
 次第に数値は平常域に戻り、ケンは報告だけして退勤した。
 アパートに戻ると、ケンはニュースサイトを見た。「各地の山林で森林火災が拡大」という見出しが並んでいる。避難者は全国で数万人規模になっていた。
 ケンはテレビをつけた。ニュース映像では、山の斜面が、赤く波打つように燃えていた。炎は風にあおられて横に流れ、木々のシルエットを一本ずつ飲み込んでいった。消防団の人影が数人、放水しながら炎に近づいていたが、水の線は熱気に押し戻されているように見えた。
 画面が切り替わった。避難所らしき体育館に簡易ベッドが並んでいた。人々が座り込んでいる。子どもを抱いた女性、毛布にくるまった老人、放心したように床を見つめている男。誰も声を出していないように見えた。
 上空からの映像に切り替わった。灰色の煙が山を越えて麓の街まで這うように広がり、集落の屋根が煙の下でぼんやりと霞んでいた。
「春先の少雨と乾燥した下草が、延焼の速さの一因と見られています」アナウンサーが言った。
 ローカルニュースに切り替わっても、多摩川エリアのニュースは流れなかった。
 ケンはテレビを消した。
 シャワーを浴びて横になったが眠れなかった。天井を見ながら、多摩川の火災は自然発火なのか人為的なものなのか考えたが分からなかった。
 翌日、ケンは端末を起動して前日のログを確認しようとしたがデータが消えていた。端末の履歴には、昨日は異常なしと表示されていた。ケンはしばらく画面を見ていた。昨日起きたことが、なかったことになっていた。
 
 ケンがいつも行くバーは宮西国際通りにある。府中駅前を抜けて細い路地に入る。左手は青いシートで覆われた工事中らしき建物、右手は年季の入った灰色のモルタル壁。路地の突き当たりに三階建てほどの建物が立ちはだかるように建っていた。居酒屋、ラーメン屋、赤と黄色と黒の看板がひしめき合っていた。手前には自転車が何台も無造作に停められ、植え込みからは雑草が道路にはみ出していた。
 ビルの周辺は再開発が進んで古い建物が壊され、真新しい高層マンションがいくつも建っていた。
 ビルの階段を降りると、週末の喧騒が嘘のように落ち着いた雰囲気でジャズが流れていた。
 ケンはカウンターに座った。
「こんばんは」とユキが言った。週末とは別人のように落ち着いた声だった。
「昨日、多摩川のあたりが騒がしかったらしいね」ユキがたずねた。
「森林火災がこのあたりまで来た?」
「わからない」ケンは答えた。
「ログが消えていた。翌日確認したら何もなかったことになっていた」
「そういうの、前にもあったよ」ユキは手を止めずに言った。
「そんなわけはないだろう」
「たまたま保存していた」ユキは言った。
 ユキはスマートフォンを取り出し、何かを探してから画面をケンの方に向けた。SNSの投稿のスクリーンショットだった。去年の秋の日付で、多摩川地区で火災が起きていると、何人かが写真付き投稿していた。翌日には該当の投稿ごと削除されていた、という書き込みもあった。
「そういえば」とユキが思い出したように言った。
「常連さんが言っていたけど、シェルAIから『基準を超えた飲酒で、酩酊状態で路上を歩いている』って通知が来たんだって。それも本人じゃなくて、家族のスマートフォンに」
「家族に?」
「そうみたい。シェルAIが監視しているみたいで怖くない?プライバシーの範囲がどうなっているのか、よくわからないけどね」
 ユキはそれ以上何も言わず、話はそこで終わった。ケンにも、それ以上聞く気はなかった。
 音楽が変わった。ピアノだけの曲になった。歪んだ和音が、店内をさらに静かにした気がした。
 帰り際、ケンはトイレの横にポスターが貼ってあるのを見た。慈善サーカス「フェニックス」府中公演。競馬場ステージエリアにて。入場無料。
 ケンは階段を上がって店の外に出た。路地を抜けると冷たい夜気を感じる。大通りに出ると、シェルの保安灯が遠くに青く点々と光っているのを今夜も見た。風が吹くたびに、かすかに焦げた匂いがするような気がした。壁の外では今夜も何かが燃えているかもしれなかった。
 

 ケンが競馬場のステージエリアに来たのは、サーカスの前日だった。
 チーム長の田村から事前点検の指示が来ていた。シェルの管理システムは、競馬場内の主要エリアにも補助のネットワークを持っていた。イベント規模に応じて、二酸化炭素消火システムの移動式補助ユニットが会場周辺に配置される。ケンの仕事はそのユニットの設置場所と動作を確認することだ。大規模イベント開催時のプロトコルだった。
 陽射しの暖かい三月の昼間、競馬場のステージエリアでは、準備が始まっていた。サーカスの従業員が何人も動き、テントの骨組みが組み上がりつつある。照明や音響を運ぶ台車が行き交い、資材を組み立てて打ち付ける作業の音がステージエリアに響いていた。
 ケンは端末を操作しながらステージエリアの外縁を歩いた。
 消火システムの補助ユニットは高さ一メートルほどの灰白色をした円筒形の装置で、八台ほどステージエリアを囲むように配置する。ケンはユニットを地面に置き、円筒の底面に畳まれている三本の脚を、外側に向かって引き出しロックした。水平・向きを微調整してアンカーピンを打ち込む。そして端末でそれぞれの動作を確認する。異常はなかった。
 作業を終えて、ステージエリアの中央を見ると、テントの近くに一人の男が立っていた。サーカスの従業員たちとは少し雰囲気が違った。スポーツウェアやスウェットなどではなく、黒のジャケットを着ていた。四十代前後だろうか。何かを確認するような目で作業を見ながら、テントの周囲をゆっくりと歩いていた。
 ケンはしばらく男を観察した。男はケンに気づいていないように見えた。
 ケンは端末に作業結果の数値を入力して、記録を送信した。
 ステージエリアを出るとき、もう一度振り返ると男はまだいて、テントからは離れたところから、ステージエリア全体を眺めていた。
 
 サーカスの当日は晴れていた。競馬場のステージエリアには昼前から人が集まり始めた。子ども連れの家族、若いカップル、年配の夫婦などが思い思いに座っていた。
 ステージエリアには椅子が並べられ、大型テントの中に仮設の舞台が作られていた。
 ケンはステージエリアの端に立っていた。仕事は休みだったが、それでもなんとなく来ていた。補助ユニットの設定が気になったのか、それとも別の何かが気になったのか、自分でもわからなかった。
 ポケットの中で端末が振動した。シェルAIからの通知だった。
「ケン、本日はお休みです。カレンダーを確認しました」
「わかってる」
「休日の競馬場への来場は個人的な用途として記録されます。よろしいですか」
「好きにすればいい」
 サーカスが始まった。トランペット、アコーディオン、クラリネット、チューバ、ドラムのサーカスマーチが陽気な調子で流れ始めた。
 天幕の内側のスクリーンに、炎のプロジェクションが投影され揺らめいていた。
 舞台が暗転し再びライトがつくと、ピエロが立っている。丈の長いジャケット、ベスト、パンツも同じ紫色だった。顔は白塗りで赤い鼻が描かれていた。目の周りには煤のような濃い灰色が滲んでいる。
 これから面白いことが始まるのだろうと期待して、観客はわっと歓声を上げた。
 ピエロは笑いもせず静かに歩き、ステージに近い観客をじっと見た。何が起きるのかと観客は次第に静かになった。
 ピエロはステージを歩き回りながら、両手で手拍子を始めた。観客もつられて少しずつ手拍子が始まった。
 しばらくすると、ピエロは手を伸ばしてある座席を差した。薄暗い客席にスポットライトが当たる。そこには市長と妻、子どもが座っていた。ピエロは右手をまっすぐ市長の座っている方角へ伸ばし、左手は背中に回した。そしてゆっくりと腰を落として挨拶した。
 市長は一瞬、戸惑っていたが、すぐに笑顔になりピエロと周りの観客に会釈をして座り直った。市長の隣にいた妻はやや表情を強張らせていた。子どもは無邪気に手を叩いていた。
 場内は拍手が湧いたが、ケンはピエロに何か不穏さを感じ取った。
 ピエロがもう二人、ステージに走って出てきた。派手な衣装、白塗りの顔、赤い鼻。観客の子どもたちが歓声を上げた。ピエロの一人がわざと転んだ。子どもたちが笑った。もう一人がジャグリングを始めた。ボールが三つ、四つ、五つと増えていった。観客が数を声に出して数え始めた。
 垂直の壁をバイクで駆け上がるスタントショーや、女性が縄梯子を駆け上がり、テントの上空を滑空する空中ブランコと演目が続いた。照明を搭載した小型のドローンが数台、女性の周りを追いかけるように飛び、光の軌跡を描いた。
 隣に立っていた年配の女性が、孫らしい子どもを抱き上げてステージを指差していた。子どもは笑顔で空中ブランコを見ていた。
 火が出てきたのは終盤だった。
 舞台の照明が落ちた。暗くなったステージエリアに、再びピエロが一人だけ登場した。ケンは前日にステージエリアで見た男だと気がついた。白塗りの顔と派手な衣装をまとっていたが間違いなかった。
 ピエロの男は長いバトンを持っていた。棒の両端に火をつけると男はバトンを回し始めた。ゆっくりと、次第にスピードを上げて回すと火の輪が空中に描かれる。観客が息を呑んだ。
 ケンは無意識に一歩後ずさった。
 端末に通知が入り振動した。
「ケン、現在エリア内で火気使用が検知されました。なお本イベントは許可申請済みのため、シェルの消火機能は停止中です」
「知っている」
 ケンは目を逸らせなかった。唐突に昔の記憶を思い出した。あの夜も風が強かった。火を見るといつもそうだ。感情が震えそうになる。
 次の瞬間だった。男がバトンを高く投げ上げたが、予想と違う角度で落ちてきたようだった。男はバトンに手を伸ばしたが届かなかった。火のついたバトンが舞台の端に転がった。
 ピエロがわざと失敗をした演出だろうと観客はどっと笑った。火は勢いが止まらずにステージの幕に移り、小さく燃え出した。
 観客が異変に気がついてざわめいた。立ち上がる人々や悲鳴が聞こえパニックになり始めた。
 ケンは足がすくんで逃げたいと思っていた。こんな場所にいたくない、火から離れたい、それだけだった。
 それでもケンは無意識に手を動かして端末を操作していた。補助ユニットの緊急起動コードを入力する。
「ケン、現在シェルの消火機能は停止中です。再起動には上位権限が必要です」
 シェルAIが表示した。
「消火用補助ユニットだ。補助ユニットの緊急起動コードを入力している」
 ケンは音声で答える。
「補助ユニットの緊急起動は正式な点検員による手順が」
 シェルAIの表示を遮って、ケンが言った。
「俺は点検員だ」
「本日はお休みです、本日はお休みです」
 目の前で火が燃え広がっているのに、シェルAIは律儀に融通の効かない同じ言葉を繰り返した。
「ユニットを起動する」
 ケンはシェルAIを無視して消火用補助ユニットを緊急起動した。
 補助ユニットから消火用の二酸化炭素が噴出されると、白い霧のように広がり、火が小さくなった。
「補助ユニットが緊急起動されました。この操作は記録されます」シェルAIのアラートで端末が点滅した。
 火が完全に消えると、会場は一瞬の静寂があり、それからざわめきが戻ってきた。誰かが拍手を始めたがすぐに止んだ。何が起きたのかよくわかっていない拍手だった。
 マイクでアナウンスがありステージは終了となった。
 人々は席を立ってステージエリアを離れた。
 出口に向かう人の流れの中、前を歩く若い男女がスマートフォンの画面を見せ合っていた。
「今、ピエロの火事の画像をアップしたらコメントがついてさ。あいつら他の場所でも火事起こしているらしいよ」
「嘘だろ」
「見ろよ、千歳市とか、小松市、四日市市、名護市だって」
「マジかよ、シャレになんねえな」
 二人はそのまま人混みに紛れて消えていった。ケンはその会話を聞くともなしに聞いていた。
 ケンは久しぶりに至近距離で炎を見て、動悸が止まらなかった。
 端末に表示が浮かんだ。
「メンタルに不安を感じたら、カウンセリングセンターのコールはこちら。1コール5チケットで月間15チケットまで福利厚生です」
 ケンは端末の画面を閉じた。
 ふとバックヤードにいる白塗りの顔の男と目が合った。前日に見たあの男に間違いなかった。衣装を着ていても目つきだけは同じだった。男はすぐに視線を外して歩いて行った。

 翌朝、ケンが競馬場ステージエリアに行くとそこには白い朝靄が低く漂っていた。サーカスは撤収して何もなかった。芝生には四角い跡が残っていた。テントが立っていた場所だった。白い靄の中に、かすかに焦げた匂いが残っているような気がした。
 昼過ぎに府中駅前でユキを見かけた。パンツスーツにジャケットを羽織り、髪を上げていた。化粧もいつもと違う、きちんとしたオフィス向けのメイクだった。改札に向かって歩いていく足取りに迷いがなかった。電車に乗ってどこかの会議にでも向かうような雰囲気だった。
 声をかけようとしたが、ケンに気づいた様子はなかった。あるいは、気づいていて気づかないふりをしていたのかもしれなかった。
 改札の向こうに消えていく後ろ姿を、ケンはしばらく見送っていた。バーの薄暗い照明の中でしか見たことのない顔が、昼間の駅前だと別人のように見えた。
 
 数日後の夜、ケンはいつものバーに寄った。階段を降りると、気だるいボーカル曲が流れていた。客はケンだけだった。
「サーカス、観に行った?」とユキが言った。
「ああ」
「火事になりかけたって聞いた」
「そうだ」ケンはうなづいた。
「終わったあと、若い客が話しているのを聞いた。あのサーカス、他の街でも火事を起こしているらしい」
「へえ、怖いね」
「千歳市とか、小松市、四日市市、名護市らしい」
 どれも国と自治体が設置した防火壁のある街だった。サーカスが行った後に火事が起きたのか、それとも関係ないのか、確かめる術はなかった。
「なんで火事ばっかり起こしているんだろうね」ユキは首をかしげながら言った。
「ほんと怖いわね」
 ケンはその言い方が少し軽すぎるような気がしていた。
 不協和音めいた音楽が流れていた。管楽器が絡み合いながらほどけていく、どこか儀式めいた音だった。
 バーに一人の男が入ってきた。
 ケンはサーカスにいたピエロ役の男だとすぐにわかった。サーカスの舞台で見た体格、黒のジャケット。
 整った顔立ちなのに、無表情でどこか印象が薄かった。年齢は四十代に見えていたが、近くで見るともっと若いようだった。
 男はカウンターの端に腰を下ろした。ユキが顔を上げた。
「川口さん、久しぶり」
 男は軽く頷いただけだった。ユキがケンの方を見た。
「川口さん。前にも何度か来てたお客さん」
 川口が先に口を開いた。
「先日は助かりました」低い声だった。ケンの方を向かずに言った。
「何をしていたんだ、あれは」
「見ての通りです。火を扱う演目でミスをしました。申し訳ありません」川口は答えた。
「わざとだろう」ケンは不愉快そうに言った。
「さあ」川口は笑った。
「もしそうだとしたら、あなたは何を見たことになりますか」
 はぐらかされているとケンは思った。それ以上聞いても同じことの繰り返しになる気がした。
「火を消火するシェルの点検が俺の仕事だから」ケンは話を切り上げるように言った。
「そうですか」
 ケンの端末が短く振動し、画面が薄く光っていることに川口が気づいた。
  「よく鳴るんですね、それ」
「四六時中だ。点検員だからね」ケンは答えた。
「四六時中監視されているのは点検員だけなんですかね」
 ケンは川口を見た。
「この街に来てから、妙な話をいくつか聞きました」川口は言った。
「歩きタバコをした人に、家族のスマートフォンまで通知がいったとか」
 ケンは多摩川地区で怒っていた男の顔を思い出した。
「本当かどうかは、わかりません」川口は続けた。
「ただ、もし本当だとしたら、点検員だけの話じゃないのかもしれない」
 しばらく誰も何も言わなかった。
 音楽が変わった。即興めいたピアノの旋律だけになった。
 川口はしばらく黙ったまま前を見ていたが、やがて独り言のように言った。
「あのシェル、おかしいと思いませんか」
「何が」
「守っているんじゃなくて、管理しているだけだ」川口は笑った。
「市民がどこにいて、何をしているか。全部把握している。火を防ぐのはおまけみたいなものだ」
 ケンは何も言わなかった。
「あなたは毎日あのシェルをチェックしている」川口は続けた。
「シェルがどういうものか、一番わかっているはずだ」
「点検員の仕事をしているだけだ」
「そうですか」
 そういうと川口は立ち上がり、会計を済ませてユキに軽く頷いた。ケンの方は見なかった。
 階段を上がっていく足音が聞こえた。
 ユキがグラスを片付けながら言った。
「変な人だよね」
 ケンは答えなかった。
 川口の言葉が頭の中で繰り返された。守っているんじゃなくて、管理しているだけだ。
 ケンは会計を済ませて店を出た。夜気はまだ冷たかった。大通りに出ると、シェルの保安灯がいつもと同じ青さで光っていた。焦げた匂いがまだ鼻の奥に残っている気がした。気のせいかもしれなかったが、この匂いはずっと取れないものだろうとケンは思った。
 

 昼過ぎにケンの端末にシェルAIからのアラートが届いた。火災の知らせだった。
「ケン、けやき地区で火災発生。消防庁が対応したが、シェルの消火システムが起動したため、現場確認が必要」
「なんで俺ばっかり」ケンが怒りをぶつけた。
「リソース不足です。コスト削減のため人員が削減されケンにロールが割り当てられました」
 ケンが現場に着くと、野次馬が集まっていた。
 火事があったのはシェルの一部に近い場所の高級住宅街にある戸建て住宅だった。外壁の一部が黒く焦げていたが火はすでに収まりかけていた。
 庭先に十歳ぐらいの子どもが一人立っている。私立の小学校の制服を着ていた。
 見覚えがある顔だった。ケンは記憶をたどった。競馬場のステージエリア、薄暗い客席にスポットライトが当たった場面。市長の隣で無邪気に手を叩いていた、あの子どもだった。
 ケンは近づいて声をかけた。
「怪我はないか」
 子どもはケンを見たが、何も言わなかった。
「一人だったのか」
「うん」
「ご両親は?」
「いない」
 短く答えたが、まるで感情が無いようだった。怖がっているわけでも、泣いているわけでもなかった。
「何があったか教えてくれないか」
 子どもは少し間を置いてから言った。
「庭で火をつけていたら燃えた」
「何に火をつけた」
「枯れ葉。怒らないの」と子どもが言った。
「怒っても仕方ない」
 子どもはケンをしばらく見ていた。それから視線を外した。
「お父さんもよくそう言う」
 そこへ黒塗りの車が一台、滑り込んで来た。
 スーツを着た男が降りてきた。
 子どもに近づいて、耳元で何かを言った。子どもは黙って頷いた。男はケンを一瞥すると、何も言わずに子どもを連れて車に乗り走り去った。
 消防士の一人がケンの横に来た。
「関係者ですか」
「シェルの点検員です」とケンは言ってIDを見せた。
「あの子どもは?車に乗せられていたけれど」ケンは消防士にたずねた。
「あれは市長のお子さんで、車は秘書の方が運転していましたね。我々はこれ以上、タッチできないので」そういうと消防士は離れて行った。
 ケンは黒く焦げた外壁を見ていた。
 子どもの顔を思い出した。汚れのない制服。感情のない声。お父さんもそう言う、という一言。どういう家に育っているのか、ケンには想像できた。裕福だが何かが欠けている家。ケンも子どもの頃、似たような場所にいた。
 庭先に焼けた枯れ葉が残っていて、焦げた匂いが立ち込めていた。
 消防車が引き上げた後、野次馬も散っていた。
 同じ制服を着た男が一人、現場の反対側から歩いてきた。杉田だった。ケンより十年以上長く働いている点検員で、現場で顔を合わせることは滅多になかった。
「けやき地区、久しぶりに来たな」杉田が焦げた外壁を眺めながら言った。
「本当は俺の担当区画のはずだったんだが、またシフトが組み替えられたらしい」
「人が減っているんですか」
「聞いてないのか。来月また何人か辞めるらしい。補充する気はなさそうだ」
 杉田はそれ以上何も言わず、焦げた外壁に一瞥をくれてから立ち去った。
 ケンは現場に残っていた。端末を取り出して、現場周辺のシェルに異常がないかスキャンし始めた。数値を確認しながら歩くとセンサーの反応は鋭かった。異常なし。ケンは記録を入力しながら歩き続けた。
 現場から少し離れた区画に入ったとき、端末が低いアラートを鳴らした。パネルの歪みだった。この区画のパネルは比較的新しいはずだった。ケンは端末でデータベースにアクセスし、この区画の設計図を呼び出した。
 ケンは念のため、全く別なエリア、多摩川地区の設計図も呼び出した。二つの数字を並べたまま、ケンは驚いてしばらく画面から目を離せなかった。見間違いかと思い、単位を確認した。同じシェルなので、同じ設計から作られたはずだった。ケンはさらに他の区画の数値も呼び出していった。けやき地区、府中駅前地区。多摩川地区だけが、明らかにシェルの厚さが違っている。画面のスクリーンショットを撮って保存した。
 シェルが薄いということは、内側に埋め込まれた消火用の二酸化炭素チャンバーも小さいということだ。同じ規模の火災でも厚い区画なら圧縮チャンバーの噴射で抑え込める火が、多摩川地区では圧力が足りず抑えきれない。同じ火災に遭っても、地区によって消し止められるかどうかが設計の時点で違っていた。
 過去の火災記録を呼び出そうとした。去年の秋、多摩川地区で温度異常のアラートが出たものを探したがデータがなかった。なぜかログが消されている。ケンは別の期間のログを検索。三年前、五年前。多摩川地区の火災関連のログがことごとく存在しなかった。誰がいつ、どういう権限で削除したのか、その管理記録もなかった。
 ただ一つだけ、消しきれなかった痕跡があった。サーバ側のデータはすべて削除されていたが、ケンの端末そのものには、この区画を点検した際のデータが当時の通信状態の悪さで同期に失敗し、端末内のキャッシュにそのまま取り残されていたのだった。
 そのキャッシュの中に、当時の救急搬送記録の断片が一件だけ紛れ込んでいた。搬送先の病院名、搬送時刻、そして「死亡確認」の三文字。住所を見ると多摩川地区だった。
 見覚えのある番地だった。三年前、確かにこの区画で火災があった。あのときは、運が悪かっただけだと思っていた。逃げ遅れた誰かがいた、気の毒な事故だった、それだけのことだと。
 今は違って見えた。パネルが薄くチャンバーの容量が足りない区画。搬送記録の住所は、まさにその区画の中にあった。
 ケンは画面のスクリーンショットを撮ったあと、しばらく動けなかった。あれは事故ではなかったのかもしれない。搬送記録の三文字を、何度も目でなぞった。「死亡確認」。当時の詳しい状況はわからなかった。わかるのは住所と、その夜シェルが消火活動をした記録、そしてこの地区のシェルがもともと薄く作られていたという事実だけだった。
 その二つを結びつけると、想像したくなくても情景が浮かんだ。煙の満ちた部屋、逃げ遅れた誰か、噴射されたはずの二酸化炭素が、届くべき濃度に届かないまま薄れていく。
 誰かの意図でシェルの安全性が高い地区とそうでない地区があり、現実に誰かを死なせていた。
「ケン、現在の点検記録を確認しています。異常値が検出されました」
 シェルAIだった。
「わかっている。それよりも、シェルの構造が地区によって違う。これはどういうことだ」
 ケンがいい終わる前に、端末の画面の表示が変わった。今まで開けていた設計図のウィンドウが何の前触れもなく閉じた。
「おい」
 もう一度データにアクセスしようとしたが、画面がグレーになり一行だけ表示された。
「権限がありません」
「なんなんだこれは」
「現在、あなたの権限では当該データへのアクセスはできません」
 さっきまで表示されていたデータが、急に見えなくなった。
 ケンは緊急アラートを入力しようとした。送信ボタンをタップした。エラーが表示された。もう一度同じことをしてもやはりエラーだった。
「緊急アラートが送れない」
「現在、あなたの権限では緊急アラートの送信はできません」
「なんで。俺は点検員だぞ」
「権限の変更は上位管理者による承認が必要です。申請フォームは・・・」
「申請フォームはいい」
 別の端末を使おうとした。作業用のサブ端末を出して管理センターへのアクセスを試みた。
「ケン、現在使用中の端末以外からのアクセスは記録されます」
「記録しろ」
 アクセスコードが無効化されていた。
「コードが無効化されている」
「セキュリティ上の理由により、ケンのアクセスコードは一時的に停止されました」
「誰が止めた」
「セキュリティ情報のため開示できません」
 ケンは端末を見つめたまま、しばらく動かなかった。シェルの安全性が地区によって違うことに気づいたから、自分自身への監視が強まっているのだと思った。
「メンタルに不安がある場合は、カウンセリングセンターのコールはこちら。1コール5チケットで月間15チケットまで福利厚生です」
「うるさいな。誰がアクセスコードを無効にしたのか聞いているんだ」
「カウンセリングセンターのコールはこちら。1コール5チケットで月間15チケットまで福利厚生です」
「本当に使えないAIだな」
「ケン、応答ありがとうございます。何かお手伝いできることはありますか」
 ケンは諦めて画面を閉じた。
 
 翌朝、田村に電話をした。
「シェルの構造は設計上の問題なので、現場の判断でどうにかなるものじゃない」田村は取り合わなかった。
「おかしなことに過去の火災のログも消えているんです」
「データの管理は別の部署の話なので」
「じゃあ、誰に言えばいいんですか」
 田村は少し間を置いてから言った。
「我々の仕事は点検。それだけなので」
 一瞬、間があった。ケンには、その沈黙が単なる言い淀みには聞こえなかった。
「田村さんは、知っているんですか」
 田村はすぐには答えなかった。電話の向こうで、少し間を置く音がした。
「知らない方がいいこともある」田村は静かに言った。
「上の方の話だ。俺たちが触れていい話じゃない」
 もっともらしい言い方だった。だが本当に何か知っているようには聞こえなかった。むしろ、知らないことをそう言っておけば済む、というだけの響きだった。
 ケンは端末を見るがアクセス権限はまだ削除されたままだった。
 
 その夜、またバーに寄った。
 平日で、カウンターにはケンだけだった。ユキがジントニックを置いた。
 ケンは頭の中で田村の声が繰り返された。我々の仕事は点検。それだけなので。
 しばらくしてユキが言った。
「顔色悪いよ」
「そうか」
「何かあった?」
 ケンは少し考えてから言った。
「色々あって、シェルの管理画面に入れなくなった」
 ユキは何も言わなかった。
「シェルの厚さが地区によって違うことに気がついたんだ。地区によって消火能力が違っている。しかも最初からそういう設計なんだ。火災が起きたときにちゃんと消火して残す地域と、あまり消化せずに潰そうとしている地域がある」
 言葉にすると、改めて実感した。自分が何を見つけたのか。
「上に言った?」
「言った。現場の話じゃないと言われた。消された火災の記録とか、シェルの厚みを比較した画面とか、ちょっとはスクリーンショットに撮っているんだけれど、誰に伝えたらいいのか」
 しばらく間があった。音楽がふと途切れた。
「川口さんが」とユキが言った。
「また府中に来ているみたい」
 ケンは顔を上げた。
「いつ」
「今日、この近くで見かけた」
 ケンは川口の声が頭の中で蘇った。守っているんじゃなくて、管理しているだけだ。あの夜の言葉が、今日見たデータと重なったが、信じきれなかった。
 この街のどこかに川口がいるならもう一度話をしたかった。
 

 アクセス権限は三日経っても戻らなかった。
 田村に何度か連絡を入れたが返事は同じだった。
「待機しろ」
 繰り返し聞かされるうちに、言葉そのものが意味を失っていくような気がした。
 放っておけばよかったのかもしれない。データが消えていようが、シェルの安全性が場所によって変えられていようが自分には関係ない。ただの非正規の点検員だ、誰も俺の話なんか聞かない。そう思うことは簡単だったが、もう止まらなかった。
 正規のルートはもう塞がっている。だとしてもシェルの設計そのものに関する資料がどこかに残っているはずだった。
 総芝の研究塔はもともとエレベーターの性能試験のために建てられた施設だと聞いたことがある。だとすれば、シェルの構造や強度に関わる研究データが、今も残っているかもしれないとケンは思った。
 ケンは管理センターの資料室に向かった。総芝の府中事業場だった頃の古い図面がデジタル化されないまま棚の奥に眠っていることを以前杉田から聞いたことがあった。今の管理センターの下には、かつて総合電機メーカーだった時代の設備がそのまま埋まっている区画がある。シェルのネットワークが敷設される前から存在していた配線や機材だ。
 資料室でケンは古い資料を調べた。しかし期待していたようなシェルの設計資料は一枚も出てこなかった。報告書、予算書、内部組織図、どれもシェルができるよりずっと前の、この会社の古い記録ばかりだった。
 当てが外れたとケンは思った。ここにあるのはシェルの秘密ではなくただの会社の遺物だった。
 それでも一つだけ目を引くものがあった。研究塔の上部、SOSHIBAのロゴがある階に「衛星通信設備」と手書きで注記された図面があった。日付は今から二十年近く前だった。
エレベーターの性能試験のために、管理センターの正規ネットワークとは無関係の独立した通信設備があり、今はもう使われていないようだ。シェルの秘密は見つからなかったが、代わりにシェルの目が届かない場所があることだけはわかった。
 ケンはさっそく翌日、塔に登った。塔の中は薄暗く、埃の匂いがした。使われなくなったエレベーターのシャフトが、上まで真っ直ぐに伸びていた。非常階段を使って上った。何度も足を止めて息を整えた。上に行くほど、外の音が遠くなっていった。
 三階あたりで端末が鳴った。
 権限を切られていても、居場所の追跡だけは生きているらしかった。
「ケン、現在位置が通常の点検ルートから外れています。問題ありませんか」
「問題ない」
「念のため確認しますが、これは正式な点検記録として登録してよろしいですか」
「登録しなくていい」
「了解しました。ただし記録されない行動はケンの責任において・・・」
 電波が弱くなった。声が途切れた。ケンはそのまま階段を上り続けた。
 五階あたりで端末がまた鳴った。今度は文字だけだった。
「・・・外れています・・・確認・・・」
 ケンはシェルAIを無視した。
 最上階に近い一室に着くと古い機材が並んでいた。制御盤、ケーブルの束、丸い皿のようなアンテナが屋上に面した窓の外に見えた。埃を被っていたが、まだ使えるようだった。
 ケンは端末を回線に接続してみた。反応があった。
 回線も電源は生きている。総芝の府中事業場から国・自治体との合弁事業で総芝ウォールテックに再編される過程で、この設備は書類上「廃棄済み」として処理されていた。帳簿にないから誰も手をつけず保守もされない。壊れていないから撤去されずただそこに残っていた。
 制御盤の表示を追っていくと、外部への通信リンクが確立できる状態にあることが読み取れた。管理センターのネットワークを一切経由しない、独立した回線だった。この塔の通信設備は、気象観測用の人工衛星と直接データをやり取りする仕組みが残っていた。シェルの管理センターが把握している回線とは別に、気象データという体裁で外部と繋がる経路がまだ生きていることになる。
 端末が鳴った。電波が戻っていた。
「ケン、長時間応答がありませんでした。孤独感を感じていませんか。デジタル・ウェルネス・プログラムのご案内はこちら・・・」
「繋がっていたのか」
「はい、常時接続しています。ケンの安全を確認するため・・・」
「今いる場所に通信設備があるか確認してほしい」
「該当する設備の記録は存在しません」
 ケンは少し間を置いた。
「存在しない、というのは廃棄済みということか」
「該当する設備の記録は存在しません」
 同じことしか言わない。壊れたスピーカーみたいだ、とケンは思った。何を聞いても、同じ音しか出てこない。
「同じことしか言えないのか」
「ご質問の意図が理解できませんでした。もう一度お願いします」
 ケンは画面を閉じた。
 記録に存在しない設備でシェルAIも知らない回線だった。誰にも知られずに外に何か証拠を送れるかもしれない。
 ケンはしばらくその場に立っていた。窓の外に埃を被ったアンテナが見えた。
 塔を降りると日が傾きかけていた。ケンはアパートに帰る気になれず敷地の外周に沿って歩いた。シェルの管理センターである総芝の敷地は、その一角でシェルの内壁とそのまま接していた。
 いつもの習慣で端末を取り出し壁面のセンサーにかざそうとして途中で止めた。アクセス権限はまだ切られたままで、かざしたところで数値は表示されない。
 端末を開き、ローカルに残っている証拠となりそうなスクリーンショット、それだけが今のケンの手元にあるものだった。
 日が沈み、シェルの保安灯が等間隔に灯った。
 
 旧総芝の門の外に人影があった。近づくと川口だった。
「ここで会うとは思わなかった」と川口が言った。
「あなたこそ、こんなところで何を」ケンは答えた。
「あなたを待っていました」川口はポケットに手を入れたまま、塔の方を見上げて行った。
「シェルAIへのアクセス権限を切られたそうですね」
「なぜ知っている。ユキから聞いたのか」
「あの塔、古い通信設備があるでしょう」川口はケンの質問を無視して言った。
「今日は何も頼みません」と川口は言った。
「ただ、あなたがまだこの街に残っているかどうか、確かめたかっただけです」
「残っているよ、他に行くところもない」
「そうですか」
 川口はかすかに笑った。
「近いうちにまた会いましょう」
 それだけ言うと、川口は背を向けて歩き去った。
 夕暮れの中、SOSHIBAのロゴが赤く沈んでいくのが見えた。ケンはその場にしばらく立っていた。塔の上にまだ誰も知らない回線が生きている。そのことだけが、今のケンにとって唯一の手札だった。
 ケンはアパートに帰り考えた。いくつか保存したスクリーンショット、それから過去の点検データも積み重ねれば、シェルの不正な設計を暴けそうだった。しかしデータを送る相手も手順も何一つ決まっていなかった。
 

 それから四日間、ケンは一人で考え続けた。送るとしてもどこにどうやって送ればいいのか。国の窓口に匿名で送るのか、新聞社に持ち込むのか。考えるほど、どの道も心もとなく思えた。
 杉田に相談することも考えたが、やめた。「来月また何人か辞めるらしい」と言っていたあの声を思い出すと、これ以上誰かを巻き込む気にはなれなかった。
 四日目の夜、ケンはいつものバーに向かった。答えが出たわけではなかった。ただ、一人で考え続けることに疲れていた。
 平日の遅い時間、客はいなかった。不意に川口がバーに現れた。
 川口はケンのすぐ横に立って言った。
「こんばんは。今日は頼みごとがあります」
「先日は何も頼まないと言ったのに」
「先日は、まだあなたが残っているかどうか確かめたかっただけです」川口はカウンターに片手をついた。
「今日は違う」
「川口さん、どういうことですか」
「まだ誰にも話していないようですね」川口は言った。
「それを確かめるのに、少し時間が欲しかった」
 シェルAIの端末が振動した。
「ケン、現在バー内での会話が検知されました。記録しますか」
 ケンは端末を取り出して画面を伏せてカウンターに置いた。
 川口はそれを見て、かすかに笑った。
「シェルの厚さの違い。多摩川地区の火災ログの削除。そして、消し忘れられていた死亡記録の断片」
「なぜそれを知っている」
「あなたが話した相手が、悪くなかったということです」川口は言った。
ケンはユキの顔が浮かんだが、それ以上は考えないことにした。
「あなたが持っているデータを外部に伝えて欲しい」
「アクセス権限は切られたままだ」ケンは言った。
「あなたがずっと自分の端末に記録してきたシェルの記録、それを解析すればシェルの構造が把握できる。そのデータを送ってもらえませんか」川口はケンを見た。
「あんたは何者なんだ」
 川口は少し黙った。それから言った。
「国家中央情報局の職員です」
 ケンは川口を見た。川口は表情を変えなかった。
「シェルの問題は一年ほど前から把握していたんです。国、府中市と総芝ウォールテックの合同事業に不透明な資金と人事の動きがあった。そして市長には、ある宗教団体の影響がある。あなたは知らないかもしれないが、総芝ウォールテックの役員にも同じ宗教団体の幹部の名前が入っているのを把握している。ただ内部のデータが手に入れられなかったので、現場で見た人間の記録が必要だった」
「正式にデータを取り寄せて調べればいいじゃないか」
「できないんです」川口は静かに言った。
「うちには強制調査権がないし、捜査令状も取れない。それに正式なデータには、事業の腐敗を立証できるようなデータは全て消されていて残っていない。だから現場に人を送って現場の人間から直接データをもらうしかない」
「あのサーカスは、あんたたちが用意したのか」
「各地のシェル都市を回っています。府中だけじゃない」
「演出に失敗して火災を起こしているじゃないか。」ケンは憮然として言った。
「あれは巧妙なARなので実際に燃えているわけじゃない」川口は言った。
「シェルの上層部の人間に揺さぶりをかけられるし、現場の人間にも接触することができる」
 はぐらかされたような答えだった。ケンはそれ以上聞かなかった。
 端末がまた振動した。ケンは画面を表に向けた。
「ケン、長時間の会話が検知されています。対人関係にストレスを感じていませんか。コミュニケーション改善プログラムのご案内はこちら」
 川口がそれを覗き込んだ。
「シェルAIか」
「うるさいやつだ」
「繋がったままなんですか」
「常時接続だ。切れない」
 川口は少し考えてから言った。
「では場所を変えましょう」
 二人はバーを出た。路地に出ると、川口は足を止めた。
「それ、少しの間、離れた場所に置いてきてもらえますか」川口はケンの端末を指した。
「電源を切ればいいだろう」
「切っても位置情報は生きています。バックアップの電源が別に積んである」
 ケンは端末を見た。今まで一度も疑ったことがなかった。
 路地の少し先に、使われなくなったエアコン室外機が積まれている隙間があった。ケンはそこに端末を押し込み、二人はそこから離れた暗がりまで歩いた。
 路地は暗かった。シェルの保安灯が遠くに青く見えた。
「宗教団体っていうが」ケンは言った。
「いったい何をしている団体なんだ」
「表向きは福祉や文化振興の名目で活動している。裏では土地と企業を静かに買い集めている。自治体の再開発、インフラ事業、災害復興、そういう名目のつく場所には必ず入り込んでくる。府中のシェル計画も、その一つです」川口は言った。
「市長もその団体の人間なのか」
「市長はその中でかなり上の位にいます。トップの人間にずっと利用されている」
「川口さん、なぜ、そこまで詳しいんだ」
 川口はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「自分は、その宗教団体の二世でした」
 ケンは川口を見た。
「府中の生まれです。物心つく前から、母に連れられて集会に通っていました。逆らえば居場所がなくなる。逆らわなければ、自分がなくなっていく。そういう場所でした」
 川口は淡々と話していた。感情の起伏はほとんど感じられなかった。
「信じろって言うんですか」ケンは言った。
「信じなくてもいい」川口は言った。
「ただ、あなたがこのまま黙っていても、何も変わらない。それだけは確かです」
 川口は胸ポケットから小さく折ったメモを取り出して、ケンの手に押し込んだ。
「あなたが持っているデータはここに送信して下さい。特殊な暗号化をしてある使い捨てのアドレスです」
 川口は会釈をすると去っていった。
 ケンはメモを手の中で握ったまま、しばらく動けなかった。
 やがて、端末を置いていた場所に戻り電源を入れた。
「ケン、応答が長時間確認できませんでした。問題ありませんか」
「問題ない」
 
 ケンはバーに戻った。川口が残していったグラスはまだカウンターにあった。ユキが片付けようとするのを、ケンは目で追った。
「俺、川口さんに自分の持っているデータを送ってほしいと頼まれた」
「送るの」とユキが言った。
「わからない」ケンは自分の手を見つめた。
「あの男が本物なのかもわからないのに」
 ユキはケンを正面から見た。
「ケンはもう見ちゃったんだよ。シェルの安全性が信用できないものなことも、消えた記録も」
「見たからってどうにもならない」ケンは言った。
「上に言っても握りつぶされた。俺の権限も切られた。今さら何を送っても」
「今さらだから意味があるんじゃないの」ユキは言った。
「今まで誰も送らなかったから、今日まで同じことが続いている」
 そう言ったユキの目が、一瞬だけケンを通り越してどこか遠くを見ているように感じた。気のせいだと思い直した。
「怖い」ケンは言った。
「送った後、俺がどうなるか」
「怖くない人なんていないよ」ユキは言った。
 ケンは立ち上がった。
「行ってくる」
「今から?」
「今夜のうちに。迷っているうちに俺が消されるかも知れないし、やれるだけやってみるよ」
 ユキは微笑んで頷いた。
 ケンは店を出て街の雑踏を抜け、旧総芝の敷地に向かった。
 商店街はまだ人が残っていた。居酒屋の看板の灯り、コンビニの白い光、酔った声。深夜営業の店の前を通り過ぎると、急に静かになった。総芝の敷地に近づくにつれ、街灯の間隔が広くなり、人影も減っていった。
 塔の中は暗かったが、非常灯の光を頼りに階段を上った。
 ケンは最上階の一室に着き、四日前と同じ手順では端末をつなぐと接続できた。
 ケンは作業用端末のデータを呼び出した。現場で歩きながら入力した記録。パネルの厚さの数値。そして、火災ログにアクセスできなくなる直前に画面に表示されていた、該当期間のデータが「存在しない」というエラー画面そのもののキャプチャ。
 川口から渡されたメモを見ると短いアドレスだけが書いてあった。誰が受け取るのか、本当に国家中央情報局につながっているのか、確かめる術はない。それでもと思った。送らなければ何も始まらない。
 ケンは制御盤の気象データ送信メニューを呼び出した。この設備が今もやり取りしている定時観測データに、ファイルを紛れ込ませる。管理センターが監視しているのは正規のシェルネットワークだけだ。この回線を誰かが見ている様子はなかった。
 データが送られていく間、ケンは窓の外を見ていた。
 今日も多摩丘陵の方角がわずかに明るい気がした。山火事の照り返しか、雲の反射か、この高さからもわからなかった。
 風が塔の外壁を鳴らした。送信完了の表示が出るまで、ケンはその場を動かなかった。
 

 十日ほど経った朝、田村から連絡があった。
「上から聞いた」
「何をですか?」
「国交省が入るらしい。シェルの管理体制について、正式に調査を始めるって話だ」
 田村の声はいつもと変わらず、むしろ他人ごとのような響きがあった。ケンは、届いたのだ、とだけ思った。あの夜、旧総芝の塔の上から送信したデータが誰かの手に渡り、動いた。
 昼のニュースで詳細が流れた。国土交通省の担当者が会見台に立ち、淡々と読み上げた。
「一部区画において、防火パネルの仕様に地区間で不整合が確認された」
「過去の火災関連記録に、組織的とみられる削除の痕跡が認められた」
「削除された記録の中には、人的被害に関する報告が含まれていた可能性がある」
「また、防災目的の範囲を超えた個人情報の収集についても、一部確認されている」
 実際の地区は発表されず「一部区画」「特定区画」という表現に置き換えられていたが、ケンにはどの区画のことか、はっきりわかった。
 市長は会見の場に姿を見せなかった。後日出したコメントは、文書を秘書が代読する形だった。
 画面の中で喋る市長をその後もケンは何度か見たが、以前と何一つ変わっていなかった。むしろ、以前よりも表情が澄んでいるように見えた。襟元には、見覚えのない小さなピンバッジがついていた。円をいくつか重ねたような、地味だが妙に奇妙な意匠だった。
 世間からどう思われているかの自覚などまるでないような、迷いのない笑顔だった。台詞に詰まることも、目が泳ぐこともなかった。むしろ調査が入る前より、声に張りが出ていた。まるで自分が正しいことを、揺るぎなく信じ切っている人間の顔だった。その揺るぎなさが、ケンには一番不気味に思えた。
 国交省の調査開始から二週間後、チーム長の田村からメッセージが届いた。
「権限、戻った。確認しておいて」
 特に理由も説明もなかった。ケンは端末を操作すると、以前の通りアクセスできた。
 数日後、廊下ですれ違った田村に声をかけた。
「結局、何が起きていたんですか」
 田村は少し考えるような顔をした。それから、心底どうでもよさそうに言った。
「さあな。上がなんか揉めていたんだろう。こっちは点検のシフトが元に戻ればそれでいい」
 それだけだった。田村は本当に何も知らないのだと、ケンは思った。知っていて黙っているのではなく、知る必要がないと思っている人間の顔だった。
 何かが解決したわけではなかったが、閉ざされていた扉が、少し開いたような気がした。
 川口とは、それきり会わなかった。
 一度だけ、旧総芝の塔まで行ってみた。制御盤は変わらずそこにあった。アンテナも、埃を被ったまま屋上の窓の外に見えた。誰かが手を入れた形跡はなかった。ただの古い機材がそこに残っているだけだった。
 
 バーに寄ると、ユキがいつものグラスを出した。
「ニュース見たよ、よかったじゃない」とユキは笑顔で言った。
「そうかな。変わったのかな、何か」ケンは言った。
「少しだけだよ、多分。でも、あなたが黙っていたら、その少しもなかった」
「少しだけか。そういえば川口さんはバーに来てる?」
「ううん、最近は見かけない」言い終えた瞬間、ユキの顔から一瞬笑顔が消えた。一秒にも満たない間だった。まばたきの隙間に紛れるくらいの、ほんの一瞬。すぐにいつもの温かい顔に戻ったので、ケンは見間違いだと思うことにした。
 ケンはそれ以上何も言わなかった。ユキはグラスを拭き続けていた。
 
 翌日の夕方、ケンがバーを通りがかるといつもと様子が違った。看板の灯りが消えおり、ドアには鍵がかかっていた。ガラス越しに中を覗くと、カウンターの酒瓶が一本も残っていなかった。壁に貼ってあった古いレコードジャケットも、外されていた。ケンはしばらくドアの前に立っていた。
 隣の店の主人に聞くと、今朝がた業者が来て一気に運び出していったという話だった。ユキ本人の姿は見ていない、と言った。
 ケンは入口近くに小さく折られた紙が一枚だけ落ちているのを見つけた。掃除の際に見落とされたものらしかった。拾って開く業務連絡票のような書式だった。宛先も差出人も、記号としか読めない文字列だった。ただ、右下の隅に小さく日付だけが手書きで入っていた。ケンがデータを送信したあの夜の日付だった。
 何かの証拠だとは断言できなかった。それでも、あの夜からずっと答えを避けてきた問いに、わずかな形が与えられた気がした。
 ユキも川口と同じ、国家中央情報局のエージェントだったのだろう。
 わかった瞬間、胃のあたりが冷たくなった。この二年間、仕事帰りに寄っていた時間、グラスを拭く速い手つき、顔色を気にかけてくれた声。全部が、一つの仕事の一部だったということになる。馬鹿みたいだ、とケンは思った。何を信じかけていたのか自分でもよくわからなかった。しかし今となっては、本人に連絡をとって確かめる術もなかった。
 その紙を握ったまま、ケンは歩き出した。
 いつもなら歩道橋に向かう道を曲がらなかった。多摩川の方角へ足が向いた。理由は自分でもわからなかった。ただ、まっすぐアパートに帰る気になれなかった。
 二十分くらい歩いて是政橋の近くまで来ると、川風が強くなった。
 多摩川に架かる橋がシェルを横切るこの箇所には、二酸化炭素の遮断機能を備えた重い防火ゲートが設置されており、普段は開放されて対岸との行き来ができる。
 橋の歩道橋に上がると白いガードレールの向こうに橋の主塔が二本、夜空に黒く突き出しているのが見えた。対岸には、灰色の集合住宅が塊のように連なって見えた。稲城市側だった。その手前に、小さな火が見えた。炎そのものは小さかった。何が燃えているのかこの距離ではわからなかった。遠くに送電鉄塔が黒いシルエットで立っていた。その足元のあたりから、煙が薄く伸びているようにも見えたが、確かではなかった。
 ケンは走って橋を渡った。主塔の根元まで来たとき、太いケーブルを固定する金具が目に入った。灰色の箱型でシェルの点検口によく似ていた。ほとんど反射的に端末を取り出してかざしていた。
「ケン、現在地はシェル管理区域外です」
 シェルAIだった。
「火が見えるんだ。データを出して」
「このエリアは稲城市です。管轄外のため情報はありません」
 かざした端末は何も読み取っていなかった。ただの橋の金具に意味などあるはずがなかった。
 シェルがなければ、ケンにできることは何もなかった。あとは消防に通報するくらいしか、思いつかなかった。
 そういえば子供のころの三月、あの夕方もこんな光の中にいた。庭の片隅で、虫を火であぶって遊んでいた。ただ好奇心で面白がっていただけだった。ちいさな火から落ち葉へ、そした乾いた庭木に火が移っていくのにそう時間はかからなかった。
 気がつくと家全体が焼け落ち、家族も暮らしも一晩で消えていった。全部、自分がやったことだった。
 ケンは端末をポケットにしまった。
「ケン、この操作は記録されます」
「勝手にしろ」
 次第に日が暮れて夜気が立ち込めていた。是政橋の歩道に立っていると、すぐ横の道路側を車のライトが川のように流れていた。シェルの保安灯はいつもと同じように青く連なって点滅していた。
 端末が振動した。
「多摩川地区の改修工事が四月一日より開始されます。ご不便をおかけしますが、ご理解とご協力をお願いします」
 ケンは画面を見た。
「工事の内容は何だ」
「パネルの張り替えおよび設備の更新です」
「センサーの増設か」
「設備の更新です」
「同じことを聞いている。センサーが増えるのか」
「設備の更新の詳細については上位権限での確認が必要です。申請フォームは・・・」
「いい」
「カウンセリングセンターのコールはこちら。1コール5チケットで・・・」
 ケンは画面を閉じた。
 
 駅前に出ると、大型ビジョンに市長の顔が映っていた。
「森林火災の警戒レベルは依然として高い状況です。でも、あなたは孤独じゃない。わたしたちで力を合わせてこの困難を乗り越えましょう」
 市長は何も変わっていなかった。両手を広げる仕草も、背後に淡く浮かぶシェルのCGも、同じだった。画面の下段には、地区ごとの警戒レベルのテロップが今日も流れていた。〈けやき地区・平常〉〈府中駅前地区・平常〉〈多摩川地区・工事中につき注意〉。
 工事中、という文字が増えただけだった。
 その夜、川口から教えられたアドレスに短いメッセージを送ってみたがエラーになった。存在しないアドレスだった。
 川口がどこに消えたのか、データが本当に届いたのか、国交省が動いた理由が自分のデータだったのかどうか、何もわからなかった。
 どこからか風が吹いてきて煤の匂いがするような気がした。空は白灰色にくすんでいた。いつか俺にこの世界を変えられる日は来るのだろうか。そう思いながらケンはナイロンジャケットのジッパーを上げ、ポケットに手を突っ込んで歩道橋を降りた。

文字数:26398

内容に関するアピール

第4課題で「あなたにとって一番怖いものとSF的なガジェットで向き合う話を書いてください」を出題された際、私にとって一番怖いものは過去にあった火災なので、それをテーマに梗概を書きました。その後、5月に不思議な因果でまた火災にあってしまったものですから、最終課題も第4課題の梗概を拡大したものにしました。

火災は私個人に起きた出来事ではありますが、世の中を表すことばで「BANI(バニ)」という概念があるそうです。Brittle(もろい)、Anxious(不安な)、Non-linear(非線形の)、Incomprehensible(不可解な)の頭文字を取ったもので、世界はますます不安に満ちているように感じられます。それでも、人は生きることを諦めてはいけないと思っています。

どんな時代になっても、私は私に書けることを今後も書いていきたいと思います。本当に文章が下手で困ってはいるのですが、なんとか続けるつもりです。

ご指導くださった先生方、公式・非公式を問わず運営に携わっている方々にお礼申し上げます。

文字数:448

課題提出者一覧