ERV-1784
カーラジオから遠い国で起こった戦争のニュースが流れてくる。
自動運転車の座席で論文を読んでいた私は、ふと、チャイルドシートに目を移した。昨日ハーフバースデーのお祝いをしたばかりの娘は機嫌良さそうに外を眺めている。
夏のシアトルらしい、澄み渡った青い空。車の窓から入って来る風が心地いい。
この子が大きくなって、こんな天気の日にマウントレーニアでハイキングができたら最高だろう。樹林帯を抜けて、高山の野草が咲き乱れるパラダイス・メドウズに立ったとき、この子はどんな顔をするのだろう。
娘が生まれて半年。毎日慌ただしく過ごしているけれど、天気が良い時の保育園までのドライブの時間は何事にも代えがたい。
「ノーラ、いい子にしててね。」
私は娘の額にキスをして、保育士に預け、職場であるカスケーディア・ゲノム研究所へと車を走らせた。
研究所の朝は今日も静かだ。私はコーヒーを入れ、昨日、作業を途中にしていたデータを開いた。
研究所のプロジェクトを進める傍ら、出産前に終わらせた自分のプロジェクトを論文にまとめる作業も目途がついてきた。最近は気分転換を兼ねて、次の自分のプロジェクトになるネタを探すのが日課になっている。
昨日、ヒトゲノム中のレトロウイルス由来配列のスクリーニングで見つけた妙な塩基配列はなんだったんだろうか。
ゲノム編集が行われていたような年代のサンプルではないはずなのに、どこか人為的な操作で変異を起こした痕跡のように感じた。
きっと思い過ごしだけど、もう一度確認してみよう。
「おはよう、エレナ。何をやってるの?」
「おはよう、マイク。今進めているプロジェクトには直接関係のないことなんだけど、昨日少し気になった塩基配列を調べようと思って。」
「さすが、家庭もキャリアも順調なうちの研究所の主力助教は余裕があるねぇ。」
「何を言っているのよ。そっちは国際誌に論文が載ることが決まったんでしょ?よかったじゃない。すごく羨ましい。先にテニュア(終身雇用権)取られちゃいそうね。」
「そんな、ちょっと運が良かっただけだよ。」
そう、私はテニュアを取るために、研究で寄り道している場合ではない。しかし、昨日見つけた塩基配列は学生時代にやっていたゲノム編集の痕跡に似ているように思えて、どうしても気になる。
あのサンプルは、工事でたまたま掘り起こされた旧ソビエト圏内の第二次大戦中に亡くなった兵士たちのものだった。
もし、人為的な痕跡なら…いや、そんなはずはない。サンプルのコンタミネーションか、解析ミスだろう。それを確認するだけだ。
例の領域は、数十塩基がまとめて置き換えられたように見えた。けれど、私が知っているどの編集方法の痕跡とも一致しない。
私はコンタミネーションチェックとヒトゲノムデータベースから同様の配列を持つデータをピックアップするよう依頼し、研究所の仕事に戻った。
家に帰ると、キッチンからトマトソースの匂いがした。
リビングでは、エヴァンがチェロの弓をゆっくり動かしている。ノーラはベビーチェアに座って、エヴァンの動かす弓を見つめながら、足をばたつかせている。
「おかえり。今日は早かったね。」
「ただいま。ノーラのお迎えとご飯の準備ありがとう。ノーラはあなたがチェロを弾くといつもご機嫌ね。」
「こんなに嬉しい観客はいないよ。よし、ご飯にしよう。」
交響楽団のチェリストをしているパートナーのエヴァンは私よりずっと家にいる時間を作るのが上手で、ノーラのお迎えも、夕食の支度も、いつの間にか彼が引き受けてくれている。
エヴァンはぬるま湯で戻したライスシリアルにほんの少しだけトマトソースを乗せた離乳食をノーラに食べさせている。トマトソースのパスタを食べ、その光景を眺めながら、私は本当に恵まれているなと思った。
職場に着くと、昨日依頼した確認の結果が出ていた。メールには、あのサンプルにコンタミネーションがある可能性は低いという回答と、同じ人物の別の箇所から採取したサンプルの解析データが添付されていた。解析データには昨日見ていたのと同じ塩基配列があった。一緒に埋葬されていた兵士たちのサンプルも調べると、3割ほどに同じ塩基配列があった。
私はヒトゲノムデータベースからピックアップされたデータを確認した。ピックアップされたデータはすべて十八世紀以降のヒトのものだった。違和感があった。通常、突然変異は特定の地域で起こった後、ヒトの移動と繁殖によりゆっくりと周辺へ伝播していく。ヒトゲノムデータベースには古代から現代までのヒトのゲノム情報が登録されている。あの塩基配列は十八世紀に突然現れ、十八世紀以降のヒトの保有割合は二割を超えている。私は十八世紀のデータを世界地図にマッピングした。
「信じられない。」
その世界地図には、まるで一斉に何かが起動したかのように世界中で同じ変異が発生している。
中東に最も多く分布しているが、ヨーロッパ、東アジア、北米、南米、どの地域にも十八世紀に突然、同じ変異が出現している。
私はマグカップに手を伸ばし、コーヒーを飲んだ。デスクに着く前に淹れたコーヒーはすっかり冷めきっていた。
第十七番染色体、q11.2。その配列のすぐ近くにはセロトニンを運ぶ役割の遺伝子がある。抗うつ薬の開発をしている製薬会社が、狙っている場所だ。
そして、ヒトゲノム研究の人間なら誰でも知っている。ここは墓場だ。
二〇〇〇年代、私が生まれる十年くらい前、この遺伝子の型で性格が決まるという論文が、世界中から山のように出た。不安になりやすさ、落ち込みやすさ、ストレスへの弱さ。新聞にも載った。性格の遺伝子が見つかった、と。
その後、数十万人規模の調査が行われて、そのほとんどが否定された。今では、科学が集団で間違えた例として、大学の授業で紹介される。データが少ないと、人はいくらでも物語を見てしまう、という教訓として。
そんな過去もあり、今、この場所と行動の関係を研究している人間はいない。研究しようとすれば、あの騒ぎを知らないのかと笑われる。
誰も気づかなかったのではない。誰も、この場所に関心がないのだ。
そのため、この場所に埋まっているウイルス由来の配列には、いまだに「機能未詳」という札が下がったままになっている。ヒトゲノム全体のおよそ八パーセントはウイルス由来の配列で占められていて、そのほとんどが「機能未詳」となっている。誰も一つずつ確かめたりはしない。ほとんどの場合、確かめても論文にならないからだ。
公開されている脳組織のデータベースと突き合わせてみた。私が見ている数十塩基の置換を持つ人では、セロトニンを運ぶ遺伝子の働きがわずかに弱い。その影響は十五パーセントくらいだ。大した数字ではない。少なくとも、この塩基配列を操作して、何かしようと思う人間はいないだろう。
でも、それを全世界の二割の人間が、生まれてから死ぬまで持ち続けるとしたら。
不安をどれくらい感じるか。危険をどれくらい大きく見積もるか。まだ来ていない脅威をどれくらい本気で考えるか。全世界の二割の人間の思考が十五パーセント異なることに何か意味はあるのだろうか。
過去にこの領域を調べた研究が、一つくらいはあるのではないか。
私は論文データベースに配列の位置を打ち込んだ。数百件。行動、と付け加える。結果は一件になった。
二十二年前。二〇二〇年、テルアビブの研究チーム。『内在性レトロウイルス配列と行動特性の関連』。
私は要旨を開いた。
彼らは現代人四千二百十六名を調べ、私が見ているのと同じ場所の配列と、行動の傾向を比べていた。目の前の報酬を選ぶ傾向が、わずかに強い。将来の危険を見積もる尺度が、わずかに低い。年齢や収入で補正をかけても消えなかった、と書いてある。それでも小さい差である、と自分たちで認めている。結論は、慎重すぎるほど慎重だった。弱い関連が認められた、ただし因果関係を主張するものではなかった。
引用回数、三回。うち二件は同じチームの自己引用だった。残る一件を開くと、それは「近年の疑わしい関連解析について」という総説で、悪い例として挙げられていた。
コメント欄も読んだ。統計的な有意性が不十分。他の要因の除去が不十分。検定の数が多すぎる。どれも正当な批判だった。私が査読者でも、たぶん同じことを書くだろう。
二十二年前に、誰かが同じところにたどり着いていた。そして、誰にも聞かれないまま埋もれた。
でも、私は今、常識外れの突然変異の発見を経て、彼らが見ていた場所と同じ場所を見ている。
第一著者のカレン・コーエンを検索してみると、彼女はこの論文を発表した二年後に大学を辞めていた。他の研究機関に移った様子はなく、学会の名簿にも彼女の名前はなかった。
ふと、窓を見ると、とっくに日が暮れて外が暗くなっていることに気がついた。夏のシアトルで窓の外が暗いということは、九時をまわっているということだ。
携帯を見ると、エヴァンからの着信が二件あった。
『ごめん、今日は遅くなる。先に寝てて。ノーラにおやすみのキスしといて。』
送信してから、ノーラが生まれて半年、こんなメッセージを送ったのは初めてだと気づいた。
私は画面に向き直り、大規模コホート研究のデータアクセス申請フォームを開いた。数十万人分の遺伝情報と、質問票と、認知課題の記録。私が見ている場所のデータも、取れるはずだ。持っている人と持っていない人で分けて、比べるだけでいい。
研究目的の記入欄で、指が止まった。
どう書けばいいのだろう。正直に書けるはずがなかった。私は結局、”内在性レトロウイルス配列の集団間分布と神経系遺伝子発現の関連解析”、と当たりさわりのない一行を書いて送信した。
翌朝、給湯室でマイクに会った。
「ゆうべ遅かったんだって?警備の記録に出てたよ。エレナ・ウォード、二十二時四十七分退出」
「うそ、そんなの見れるの?」
「見えるよ。ラボを持っている人間は全員見られる。……で、例の寄り道、まだやってるんだ。」
私はコーヒーメーカーの前で少し迷ってから、言った。
「マイク。世界中で同じ時期に同じ変異が起きるって、ありうると思う?」
彼はマグカップを持ち上げた手を止めた。
「同じ時期にって、どのくらい?」
「地域差が見えないくらい。ロンドンも、ワシントンも、リマもよ。」
「ありえないよ。」マイクはあっさり言った。「それ、バッチ効果のせいじゃないかな?
十八世紀以降の骨って保存状態がいいから、たいてい同じ施設でまとめて処理されてるんだよ。同じ機械の、同じ癖が、全部のサンプルに乗る。世界中で同時に何かが起きたんじゃなくて、世界中のサンプルが同じ場所で同じように読まれて、同じ結果が出ているだけってことで。」
その可能性は、昨夜のうちに三回潰していた。処理した施設が違う四つのデータ群で、同じ結果が出ている。
「うん、確認してみる。」
私はそう答えた。なぜ本当のことを言わなかったのか、自分でもわからなかった。
「あんまり根詰めるなよ。」マイクは笑った。「奥さんが徹夜してたら、旦那さんが可哀想だ。」
「エヴァンは私のことを理解してくれているから大丈夫よ。」
そう言いながら、昨日の不在着信を思い出した。
大規模コホート研究のデータアクセス承認が下りるまで、五週間かかった。
その間に、ノーラは匍匐前進でベビーサークルの中を自由に動き回れるようになった。彼女の中では、食事中にコップをテーブルから落とすのがブームになっている。重力を発見したらしい。音が鳴るのが楽しいのかもと、エヴァンはおもちゃのピアノを買ってきて、よく一緒に遊んでいる。
論文の投稿を済ませ、研究所のプロジェクトの中間報告を出し、九月の学会の抄録を書き、私は自分がやるべき仕事をこなしていた。マイクとの会話でも、あのことは特に話題には上がらなかった。承認が下りたら、少し調べて、気が済んだら別の研究テーマを探そう。私は目の前のタスクをこなしながら、そう考えていた。
九月最初の月曜日、シアトルの空が例年通り灰色に変わった日に、承認の通知が届いた。
私はまず、持っている人と持っていない人で、質問票の回答を比較した。
自分をリスクを取るタイプだと思うか。喫煙習慣の有無。借金の有無。健康診断を受ける頻度。使えそうな項目を十二個選んだ。
結果は、拍子抜けするほど地味だった。
どの項目も、差はある。ただし小さい。統計的にはかろうじて有意という程度で、この分野では毎日のように出ては消えていく種類の数字だった。二十二年前のテルアビブの論文が叩かれたのも、たぶんこれくらいの大きさの差だったのだろう。
そして、当然のように交絡因子が疑われる。年齢、収入、学歴、居住地。それから、この手の解析で最も厄介なもの——祖先の違いだ。ある遺伝的特徴を多く持つ集団が、たまたま平均的に貧しかったり、たまたま特定の国に住んでいたりするだけで、遺伝子と行動が関係あるように見えてしまう。過去にこの領域の研究で失敗した人たちは、たいていここで足をすくわれている。
私は考えられる限りの補正をかけた。差は縮んだ。半分以下になった項目もある。
それでも、わずかではあるものの有意であることには違いなかった。
もう一段、確かめる方法がある。きょうだいで比べるのだ。
同じ両親から生まれ、同じ家で育ったきょうだいなら、収入も、地域も、祖先も同じだ。違うのは、親から受け取った遺伝子の組み合わせだけ。その組み合わせは受精のときの偶然で決まる。だから、きょうだいの間でこの配列を持つ人と持たない人を比べて、それでも差が出るなら、それはもう環境のせいにはできない。
データベースには、きょうだい関係が確認できる組が十万組以上あった。
解析には二日かかった。
木曜の午後、結果が出た。
差は、さらに小さくなっていた。しかし、それでも残っていた。
私はしばらく画面を見つめ、十二個の項目を一枚の表に並べ直してみた。
すると、そこで初めて私は、十二個の項目のうちの十一個が同じ方向を向いていることに気づいた。一つひとつは小さい。どれも単独なら「まあ、そういうこともある」で終わる大きさだ。でも、偶然の誤差というのは、そういう並び方はせず、バラけて上に行ったり下に行ったりする。それが偶然というものだ。
十一個が揃って同じ方向を向くということには、意味がある。
その十一個の項目の向きから分かる傾向。
いま起きていることを重く見ない。先のことを軽く見る。目の前のものを選ぶ。
私は椅子を後ろに引いて、天井を見た。LED照明のカバーに、夏に入ったのか、小さな羽虫の死骸の影が見える。
これらは決して病的な傾向ではない。この配列をもつ人は普通に生活をしているだろう。判断の目盛りが、この配列を持たない人と比べてほんの少しだけずれているだけだ。
十八世紀以降に突然全世界一斉に現れ、人類の二十パーセントの人が持つ十五パーセントの判断のずれ。
私は久しぶりに七時前に家に帰った。
エヴァンは譜面を見ていた。週末にコンサートがあるのだ。ノーラはリビングのベビーベッドで寝息をたてていた。
「今日は早いね。」
「うん。ちょっと疲れちゃって。ごめんなさいね。週末本番なのに。いつもありがとう。」
私たちは残り物のスープを温めて、向かい合って食べた。エヴァンはスプーンを持ってはいるが、譜面に集中していた。
「ねえ、エヴァン。」
「うん。」
「変なこと聞いていい?」
彼は譜面から顔を上げた。
「もし……ずっと昔に、誰かが人間の性質を、少しだけ書き換えていたとして、」
「うん。」
「その書き換えのせいで、みんなが少しずつ、先のことを考えなくなってたとしたら、あなたなら、どうする?」
エヴァンは少し考えていた。彼は昔から、私の質問をすぐに笑ったりはしない。
「元に戻せるの?」
「……仮に、戻せるとしたらどうする?」
「じゃあさ、まず、書き換えられる前の人間はどんな人だったの?」
私は答えられなかった。
「戻すって言っても、戻った先を誰も見たことがないんでしょ?それは戻すって言っても戻ったかどうか、確認しようがないんじゃない?」
「うん、そうかもね。」
「あと、俺が思うのは」エヴァンはスープを一口飲んだ。「その人たちって、自分がへんだとは思ってないよね。たぶん、自分は普通だと思って生きてる。だとしたら、それを直すって言うのは、けっこう乱暴な話なんじゃないかな。」
「乱暴か。」
「うん。だってその人にとっては、それが自分なんだから。」
私は何も言わなかった。
「なんかの小説の話?」
「……うん。最近、仕事の休憩時間に読んでるやつ……」
「へえ。面白そうな小説だね。」
彼は譜面に目を戻した。私は残りのスープを飲んだ。
その夜、ノーラの寝室のドアを閉めてから、私はノートパソコンを開いた。
研究所に入るとき、全員が自分のゲノムを解析している。研究用に匿名化されて保管されているが、本人が自分のデータを見ることは禁じられていない。誰もそんなことをしないだけだ。
自分のファイルを呼び出すのに、三分もかからなかった。
第十七番染色体。座標を打ち込む。
カーソルが止まった。
私は、その画面をしばらく見られなかった。見るのが怖かった。
エンターキーの上で指を止めたまま、私はノーラのことを考えていた。あの子のDNAの半分は、私から来ている。もし私があの配列を持っていたら……
エンターキーを押して、画面が切り替わるまで、一秒もかからなかった。
私はあの配列を持っていなかった。
私は安堵のため息をついた。そして、自分がそれまで息を止めていたことに、気がついた。
私は持っていない。だから、ノーラが私から受け取っていることもない。
安心した、と思った次の瞬間に、別の考えがよぎった。安心した、ということは、私はこれを良くないものだと思っている。
判断の目盛りが少しずれているだけの、病気ですらない、ほとんどの人が一生気づきもしない差異。
それなのに、自分のファイルに”検出されず”と出た瞬間に、私は安心した。
エヴァンの言葉が戻ってくる。その人にとっては、それが自分なんだから。
私はブラウザを開いた。
エヴァンのゲノムデータは、研究所にはない。当たり前だ。彼はここの職員ではない。
けれど、ノーラは生まれたときに、新生児スクリーニングを受けている。エヴァンが「せっかくだから全部やろう」と言うから、任意の拡張パネルまで申し込んだ。手元にあるのは結果通知だけだった。検査対象の疾患について、該当なし。読まれたデータそのものは、解析施設にある。親であれば開示を請求できる。その手続きは十分もかからないだろう。
私は請求フォームを開いた。しばらくそのページを眺め、結局、何もしないでそのまま閉じた。
三分前に自分に対してやったのと同じことを、私は娘に対してやろうとしていた。
もし、持っていたとして、私は一体どうするのだろう。エヴァンに言うだろうか。あなたの半分がこの子に渡ったかもしれない、と。エヴァンのゲノムも解析するのだろうか。馬鹿げている。誰にも言わないなら、なぜ調べるのか。調べても何も変わらないなら、なぜ知りたいんだろう。
ただ、知りたいから。
この言葉は、本来は純粋に研究者の好奇心としてあるべきだ。でも、今、私がやろうとしたことは、生後七か月の娘のゲノムデータを、本人の同意なく、母親という立場を利用して開くことだ。
同意。
十八世紀のロンドンの誰か。ワシントンの誰か。リマの誰か。この配列を持つ二割の人たち。彼らは誰も、自分の判断の目盛りが動くことに同意はしていないはずだ。
私はノートパソコンを閉じた。
ベビーモニターから、ノーラの寝返りの通知があった。布が擦れる音と、小さな声。しばらくするとモニターの画面が暗くなり、静かになった。
九月の第三週、私は学会に出席するため、シアトルからフランクフルトを経由して、ポーランドのヴロツワフへ向かった。
自分のプロジェクトの発表は、二日目の午前だった。十五分の口頭発表で、質問が三つ。どれも想定内で、会場の反応に確かな手ごたえがあった。座長が「いい仕事だ。」と言ってくれた。
午後は、自分の研究対象とは関係がない分野のセッションを回った。
三日目のポスター会場で、大学院時代の指導教官に会った。もう七十近いが研究者としては現役で、若手の研究者と熱心に議論を交わしていた。
「君のことは聞いているよ。子どもが生まれたんだって?」
「はい。八か月です」
「大変な時期だな。私がテニュアを取った時は、上の子が二歳で下が生まれたばかりだった。」
しばらく、子どもの話をした。彼は目を細めながら自分の孫娘の写真を見せてくれた。
会話が途切れたところで、私は聞いた。
「先生、カレン・コーエンという人をご存知ですか?」
「カレン・コーエン……」彼は少し考えた。「テルアビブの?」
「はい」
「知っているよ。……ずいぶん懐かしい名前だな。どこで知ったんだい?」
「最近論文を読んだんです。二〇二〇年の……」
彼は私を見た。ポスター会場は騒がしく、人が行きかっていた。
「あれを読む人がまだいるとは思わなかった。」
「先生は、当時のことをなにかご存知なんですか?」
「見ていた、という程度だ。あの論文のレビュアーは私じゃない。」彼は言った。「カレンは優秀だったよ。私の記憶では、彼女は真面目な人だった。だから、あの論文をみたときは驚いた。」
「どうしてですか?」
「あの領域で行動の話をするのが、どういうことか、彼女はわかっていたはずだからだ。」
彼はコーヒーを一口飲んだ。
「叩かれ方も、正直、行きすぎだったんじゃないかと思う。データの処理そのものは丁寧だった。ただ、主張が場所を間違えていた。」
「今、彼女がどうされているかはご存知ですか?」
「わからない。あの論文が出たあと数年で彼女を見なくなった。……どうして、そんなことを聞くんだい?」
私は、並んでいるポスターの一つに目をやった。きれいに色分けされたグラフが並んでいる。
「同じ領域を、たまたま見ていたので、気になって。」
「そうか。」
彼はこのことについてはそれ以上、何も聞かなかった。
別れ際に、彼は言った。
「エレナ。君の昨日の発表、あれはいい仕事だ。あれを続けなさい。そうすれば、テニュアは自然に取れるはずだ。」
「はい。」
「私が言うのも変だが、面白いものというのは、面白そうに見えるだけで思うような結果が出ないことの方が多い。私みたいな老人であれば、面白いというだけでやるのもいいが、君はまだこれから長いんだから。」
帰りの飛行機の窓から、シアトルの街が見えた。
雲の切れ間から西に傾いた太陽の光が差していた。夏の終わりを感じる、やわらかな光だった。
家に着くと、ノーラは起きていた。エヴァンが「今日はお出迎えするために、ずっと待ってたんだよ。」と言った。
私が抱き上げると、ノーラは私の顔を両手で挟んで、そのまま額をぶつけてきた。最近、保育園で覚えた挨拶らしい。
三日ぶりの抱っこは、少し重く感じた。
翌週、私は自分の研究に戻った。
論文の査読コメントが返ってきていて、追加実験の要求が二つあった。まっとうな指摘だった。私はそれに応え、二週間で再投稿し、研究所のプロジェクトの遅れを取り戻した。マイクが「戻ってきたね。」と言った。
寄り道は終わったのだと思っていた。
十月の第三週、研究所の所長のハリス博士から全員にメールが回ってきた。研究所の年次報告に載せるための各研究者の進捗の提出依頼だった。所定のフォーマット。ページ数の上限。締め切りは十日後。
その末尾に、一行あった。
——本年度に申請した外部データアクセスについても、目的と進捗を記載のこと。
私は三カ月前に自分が書いた一行を思い出した。内在性レトロウイルス配列の集団間分布と神経系遺伝子発現の関連解析。
嘘ではない。ただ、あれは研究計画ではなかった。あれは、書けないことを書かないための一行だった。
私はフォーマットを開いた。
進捗を書く欄がある。何もしていない、とは書けない。解析は終わっているのだから。かといって、書ける形にしようとすれば、十八世紀を境に突如世界中に現れる変異と十二の項目と十一の方向について書くことになる。私はこれを、論文にするのだろうか。わからなかった。仮に書くとしたら、どこに出すのか。何を主張するのか。分布の異常だけなら、集団遺伝学の雑誌に出せるかもしれない。ただし行動の話は落とすことになる。行動を書けば、二十二年前のテルアビブの論文と同じになってしまう。そして、どちらを落としても、私が本当に見たものは残らない。
私はフォーマットを閉じて、ヒトゲノムデータベースから最初にピックアップしたデータを開いた。ピックアップされたのは、すべて十八世紀以降のものだった。十八世紀の時点で世界に広がっているのならば、この内在性レトロウイルス配列自体は前からあったのではないだろうか。変異が起こる前は、そこに何があったのだろう。
数十塩基がまとめて置き換えられたように見えた、と私は最初に思った。置き換えられた、ということは、置き換えられる前の何かがあったということではないか。
私は検索条件を書き直した。置き換えられた部分を外して、その前後だけを指定した。この場所に埋まっているレトロウイルス由来の配列そのもの。中身が何であれ、この番地に何かが入っているデータを、全部拾ってくるようにした。年代の指定はしなかった。
翌朝、結果が出ていた。
件数を見て、私は最初、条件の書き方を間違えたのだと思った。返ってきたリストには、七百件以上が並んでいた。
年代順に並べ替える。いちばん上に、紀元前三千年紀のメソポタミア南部。いちばん下に、十九世紀のモンゴル。年代別データを世界地図にマッピングして確認したところ、中東からゆっくりと近代にかけて広がっている。見慣れた形だった。教科書に載っている、農耕の広がりと同じ形をしている。何も不思議なところはない。
私は二枚のマップを重ね合わせた。一枚目は五千年前からあった元の内在性レトロウイルス配列のマップ。二枚目は配列の一部が置き換わった後の、最初にピックアップしたデータのマップ。
分布は、そっくりだった。中東がいちばん多く、遠ざかるほどまばらになる。
二枚目のマップは五千年かけて広がった配列の分布を、そのまま薄くなぞっている。
つまり私が最初に見て、信じられないと言ったあの地図は、二つの結果が重なったものだった。分布の広がりは、五千年分の人類の移動により、元の内在性レトロウイルス配列が広がった結果で、世界同時的に突然変異が現れたのは十八世紀に起こった何か。
私は椅子から立ち上がり、給湯室まで歩いた。給湯室には誰もいなかった。コーヒーを淹れながら、自分が見ているものが信じられずにいた。
五千年前から存在し、ゆっくりと広がった内在性レトロウイルス配列の一部が十八世紀に一斉に書き換わった。
そんなこと、どう考えても起こりっこないのに。そんな技術は今現在も存在しない。
それでも、そうとしか思えなかった。
席に戻ってコーヒーを一口飲み、十七世紀から十九世紀までに年代を絞って、サンプルを細かく見ていくことにした。
「年次報告、出した?」
私はマイクが近くにいることに全く気がつかなかった。
「まだ出してない。」
「僕も。毎年思うんだけど、あれって誰が読んでるんだろうね。」
マイクはデスクの端に腰を乗せて、私の画面を見た。私は閉じなかった。
「地図?」
「うん。」
「何の地図なの?」
私は少し黙ってから、言った。
「五千年前に、中東で人類に入った何かが世界中に広がって、十八世紀に、いっせいに書き換わったんじゃないかと思うの。しかもそれはヒトの行動選択に影響を及ぼしている。」
マイクは画面を見たまま、しばらく何も言わなかった。
「エレナ、それ、誰かに言った?」
「あなたが初めて。」
彼は笑わなかった。それが答えだった。
「……ごめんなさい。悪い冗談みたいよね。」
「そうだね。」マイクは言った。「でも、君が冗談を言っているのではないのは、わかる。」
彼はデスクから降りた。
「バッチ効果の件は?」
「四つの施設が違うデータ群で潰した。」
「祖先の交絡は?」
「きょうだいで比べた。十万組」
マイクは天井を見た。それから、少し困った顔で私を見た。
「じゃあ、論文にすればいいんじゃない?」
私は答えられなかった。
「書けばいいじゃん。分布の話だけなら、書けるだろ。行動選択の話は検討した方がいいと思うけど、査読は通る。おかしな分布があります、原因は不明です。それでいい。続きは誰かやるだろう。」
「続きをやる人がいると思う?」
「……」
「二十二年前にこの塩基配列と行動選択について論文を書いた人がいたけど、その人は学会名簿から消えてるのよ。」
マイクは何かを言いかけた後、しばらく考え込んでいた。
「興味深い内容ではあるし、深追いするなとは言わないけど、僕は、君がいなくなるのは嫌だな。」
私は十七世紀から十九世紀までのデータのうち、精度の高いものだけを選んだ。二百三十一体。それを年代順に並べて、置換の有無を打った。
十七世紀。なし。
十八世紀初頭。なし。
そこから先を見て、私はマウスから手を離した。
一七八〇年代の前後で、線が引けた。
それより前のサンプルでは、一例もない。それより後のサンプルには、その地域の内在性レトロウイルス配列の保有率に応じた割合で、置換後のデータがある。
この時代の年代同定の誤差は十から二十年。私はデータを地域別に分け、地域ごとに見ていった。
ロンドン近郊。一七八〇年代。
パリ。一七八〇年代。
アメリカの東海岸。一七八〇年代。
リマ。一七八〇年代。
同じ年代に、四つの大陸で出現している。
私はしばらく、画面の前で考え込んでいた。十八世紀後半に世界中で共通して起きたこと。何も思い浮かばなかった。あの時代の世界は、まだ一つになっていない。飛行機はもちろんないし、ロンドンからリマやアメリカの東海岸なんて、船で数ヶ月かかる。共通の事件など、ありようがない。産業革命が始まったころではあるけれど、大気の組成が変わり始めるのは、もう少し後だ。石炭を燃やす量が世界規模で増えるのも、鉄道も、化学工業も、全部もっと後になる。
一七八〇年代に、地球上のどこにいても同じように起きたこと。フランス革命があったころか。あのころの飢饉の原因って火山の噴火だったような。アイスランドのラキ火山の噴火。地球全体に影響があったみたいだけど、アイスランドでの火山噴火の影響がロンドンでも中東でも同じように突然変異を起こさせる原因になり得るだろうか。
私は立ち上がって、窓を開けた。十月のシアトルの空気は冷たくて、雨の匂いがした。
原因が特定できない現象は、たいてい、自分の測り方が間違っている。それが科学の常識だ。私はそう教わってきたし、うちのポスドクにもそう言っている。でも、測り方は三回潰した。四つのデータ群で、十万組のきょうだいで、二百三十一体の年代で。
私は窓を閉めて、席に戻った。
「ただいま。」
家の扉を開けると、エヴァンとノーラは保育園から帰ってきたばかりだった。
「おかえり、どうしたの?こんなに早く帰ってくるのって初めてじゃない?」
「デスクにいても考えがまとまらなくて。帰ってきちゃった。今日は私が晩ごはん作るね。」
「それは楽しみ。」
私は鮭に塩を振ってオーブンに入れてから、冷蔵庫にあった人参とじゃがいもと玉ねぎを、適当に切って煮た。柔らかくなったところでノーラの分を取り分けて、ハンドブレンダーにかけた。残った鍋に塩とコンソメを足せば、それで私たちの分になる。
ハンドブレンダーの音にびっくりしたのか、ノーラが大きな声を出した。エヴァンがあやしてくれている。
「ごめんね。びっくりしたね。」私がそう言うと、
「大丈夫だよ。ちょっとびっくりするけど、ノーラは泣かないからね。」
それを聞いて、私は私の知らないエヴァンとノーラの二人でいるときの晩ごはんの準備の光景を思い浮かべた。きっと上手くノーラをあやしながら、食事の準備をしてくれているのだろう。
私は焼きあがった鮭を食卓に並べた。
食事が終わって一息つきながら、私はラキ火山の噴火について調べた。
一七八三年六月、アイスランド南部。ラキ火山。二十六キロにわたる割れ目から、八か月間、溶岩と火山ガスが噴き出し続けた。放出された二酸化硫黄は一億トン規模と推定されている。二酸化硫黄は大気中で硫酸の霧になり、北半球を覆った。当時の記録によると「乾いた霧」と呼ばれたらしい。パリでは太陽が赤く見え、正午でも新聞が読めないほど暗かった。酸性雨で植物が枯れ、家畜が死に、大勢の人が飢えで亡くなった。
同じ年に日本でも大きな噴火が起きている。アイスランドや日本から遠いエジプトでも人口が大きく減った。
一七八三年。
私はしばらく、その数字を眺めた。
説明がつくかもしれない。歴史の教科書に載っていた。世界中に影響があった、たった一つの出来事。
私は初めて、この件について安心した。
翌朝、私はコーヒーを入れてデスクに座り、地図を開き直した。
念のためだった。ラキ噴火が原因なら、影響の強さと変異の出方に相関があるはずだ。硫黄の霧が濃かった場所ほど、変異も多い。そういう勾配が見えれば。
北半球のデータを並べた。ロンドン、パリ、アメリカ東海岸。乾いた霧が記録されている地域だ。
それから、リマを開いた。
南緯十二度。
乾いた霧が南半球に届いていた記録を探したが、見つけられなかった。赤道付近には貿易風がぶつかり合って空気が上昇する帯があり、南北の大気はそこで分かれている。低緯度地域で高く噴き上がった噴煙なら両側に広がることもあるらしいが、ラキ火山は北緯六十四度。乾いた霧はリマへは届かなかったのだろうか。
リマで変異が現れるのは、一七八〇年代だった。
私は椅子の背にもたれた。
その日は、あまり仕事にならなかった。夕方、実験室の片づけをしながら、私は変異原について考えていた。放射線、化学物質、紫外線。変異原は、どれもランダムにDNAを傷つける。ある人では二番染色体、別の人では十一番。同じ人の中でも、当たる場所は毎回違う。がん細胞のゲノムを見てどの変異原に曝されたかがわかるのは、その傷ついた場所の散らばり方に癖が出るからだ。
同じ場所を、同じように、同じ長さで書き換えるような変異原は、存在しない。
私が見ているのは、数十塩基の置換だ。四つの大陸で、一塩基の違いもなく、まったく同じ配列に置き換わっている。
仮に、噴火がトリガーだとして、一体どんなメカニズムで塩基配列が書き換わるのか。火山の噴火により環境が変わり、選択圧が働くことによって、遺伝子プールに影響を及ぼすことはあるだろう。でも、私が見ているものは、明らかにそういった変化とは異なっている。
五千年前から存在している内在性レトロウイルス配列の一部が、何かをトリガーに、世界中で一斉に書き換わる。しかも、その書き換えはヒトの未来のための判断を少し狂わせる。
何者かが人類を操作しようとしているような、気味の悪い妄想が頭をよぎった。
そんなはずはない。オカルトじゃあるまいし。
私は手袋を外し、自分の部屋へ戻った。
年次報告の締め切りは、十月の最終日だった。
私は前日の晩に書いた。三十分もかからなかった。
外部データアクセスの欄には、こう書いた。特定の内在性レトロウイルス配列について集団間分布を解析した。年代による分布の偏りが認められたが、技術的な要因の可能性を含め検証中である。
嘘は一つもない。ただ、書いていないことが、いくつもあるだけだ。
送信して、私はノートパソコンを閉じた。エヴァンはとっくに眠りについていた。
十一月の第一週、所長のハリス博士から個別にメールが来た。件名は「年次報告について」。本文は二行だった。
——外部データアクセスの記載について、少し話を聞かせてください。木曜の十四時、私の部屋で。
木曜の十四時、私は三階に上がった。ハリス博士の部屋は、窓が北向きで、いつも少し暗い。彼はいつもの椅子に座って、私の年次報告を紙に印刷して持っていた。今の時代に紙で読む人は珍しい。
「座って」
私は勧められた椅子に座った。
「まず、論文の件はおめでとう。査読者二人ともOKが出たそうだね。」
「ありがとうございます。」
「君のプロジェクトは順調だ。中間報告も問題ない。そこは何も言うことがない。」
彼は紙をめくって、最後のページを開いた。外部データアクセスの欄に、細い線が引いてあった。
「これだけ、書き方が違うのが気になってね。」
私は黙っていた。
「他の項目は、全部、具体的に何をやったかが書いてあるんだけれど、ここだけ、抽象的な書き方をしているように感じたんだ。」
正確な指摘だった。
「エレナ。私は君を責めるために呼んだんじゃない。書けない理由があるんだろう。それを聞きたいんだ。」
私は少し迷ってから、話し始めた。十八世紀に突然世界中に現れた変異。五千年前から存在していた内在性レトロウイルス配列。行動の十二項目と、十一の方向。ラキ火山の話は、しなかった。
ハリス博士は、一度も口を挟まず、最後まで聞いてくれた。話し終えると、彼はしばらく天井の方を見ていた。
「面白いね。」
意外な言葉だった。
「うん、本当に面白いと思うよ。私が三十代なら、たぶん君と同じことをしている。」「じゃあ——」
「だから危ないんだ。」
彼は身を乗り出した。
「エレナ。私は四十年この業界にいる。その間に、こういう話を何度も聞いた。データが揃っていて、解析も正しくて、それでも誰も信じないような話だ。」
「そのような研究はすべて間違っていたんでしょうか?」
「半分は間違っていた。半分は、いまだにどうなのか正直わからない。」
彼はコーヒーに手を伸ばして、飲まずに戻した。
「わかっているのは、それをやった人たちのその後だ。正しいにせよ、間違っているにせよ、決定打もなく信じてもらえないような話にのめり込んでしまえば、だいたい同じところに行き着く。」
「……」
「君の申請書を見たとき、正直、何かあるとは思った。あの一行は、隠すために書かれた文章だ。私も昔、同じようなことをしたことがある。」
私は顔を上げた。彼は笑わなかった。
「三十年前だ。結局、何も出なかった。二年無駄にしたよ。」
しばらく、どちらも喋らなかった。廊下を誰かが歩いていく音がした。
「エレナ、君の審査は来年の秋だ。」
「……はい。」
「委員会は五人。うち二人は分野の外から来る。彼らが見るのは、君が何を発見したかじゃない。君が信頼できる研究者かどうかだ。」
「私は——。」
「君は信頼できる人間だ。私はそう書く。でも、この話を持ち出したら、私が何を書いても意味がなくなるんだ。もっと堅実な研究をもう一件終わらせて来年の審査を迎えるんだ。」
「……。」
「エレナ。審査は一度きりだ。落ちれば、翌年で契約は切れる。それがどういうことか、わかっているね。」
彼は紙を机に置いた。
「一年待ちなさい。テニュアを取ってからやればいい。取ってしまえば、誰も君を止められないんだ。どんな研究でも好きなだけやれる。私が保証する。」
私は、ハリス博士が本当に私のことを気遣ってくれていることがわかった。
「私が見たものはなんなんでしょうか。」
「わからない。」ハリス博士は言った。「でも、今、君がそれを追うのは危ないと、僕は思う。」
私は何も言えなかった。
「答えは今日じゃなくていい。ただ、これだけは覚えておいてほしい。私は君に、君の見たものが間違っていると言っているんじゃない。優先順位の話をしているんだ。」
私は立ち上がって、礼を言い、部屋を出た。
彼の言うことは正しい。正しい人が、正しい理由を、正しい順番で、私のためを思って語ってくれていた。
一年。
その言葉が、階段を降りきるまで頭から離れなかった。
その週の金曜日、私は自分のラボの二人と、久しぶりにゆっくり話をした。ポスドクのサラは、来年から自分のプロジェクトを立ち上げたがっている。技術員のダニエルは、来月からの勤務を週三日に減らしたいと言った。子どもが生まれるらしい。私は子育ての大変さと、子どもがいることの幸せを二十分以上語ってしまった。
私は二人分の予算を組み直す約束をして、金曜の午後を全部その作業にあてた。
夕方、帰り支度をしながら、机の上の画面を見た。一瞬、あの地図のことが頭をよぎった。一年待てば、この二人の雇用も守れる。
私は地図のことは考えないようにして、席を立って、鞄を持った。
十一月の第二週、シアトルは本格的な雨季に入った。
朝の保育園までのドライブの時は霧が出ていることが多い。そんな日のノーラは少し退屈そうに白く変化のない窓の景色を眺めているので、私は最近はニュースではなく、音楽をかけて車の中でノーラと一緒に歌っている。
私はハリス博士に、例の件について承知しました。とだけ書いたメールを送った。彼からは「よい判断だ。」と一行だけ返ってきた。
その週末、エヴァンの所属する交響楽団のファミリーコンサートがあった。前から二列目の席に私はノーラを抱いて座った。その席からはエヴァンがチェロを演奏する様子がよく見えた。ノーラもエヴァンのことがわかっていたのだろうか。何度もステージに向かって手を伸ばし、声を出すので、私はハラハラした。前の席に座っていたご婦人は一度、振り返って、ノーラをあやしてくれた。
公演の一時間、研究のことを全く考えなかったのは久しぶりだった。
帰りの車で、ノーラは眠っていた。
「演奏とっても良かった。途中の演劇の衣装も凝っていて可愛かったし。」と私は言った。「狼のとこ、ちょっと走った。」エヴァンが言った。「わかった?」
「わからなかった。」
「なら、よかった。」
彼は笑っていた。
信号が青に変わって、車が静かに動き出した。フロントガラスに細かい霧のような雨が当たっている。来年の秋には、ノーラは一歳半になっている。歩いているだろうし、たぶん言葉を話し始めている。順調にいけば、私はその頃にはテニュアを持っていて、あの件を誰にも遠慮せずに調べられる。
それでいい。
このときは、本当にそう思った。
十一月の第三週、私は細胞培養の注文票を書いていた。
うちのチームのプロジェクトのためだ。古い配列の転写活性を調べる培養細胞系を立ち上げる話は、去年から出ていた。サラが自分のプロジェクトに使いたがっていたし、私も次の申請書に書こうと思っていた。
細胞株を二種類。培養液。プラスミドの合成。予算の枠内で、どう見ても普通の注文内容だったが、私は合成を依頼する配列の中に、こっそりと予算の対象でないものを混ぜた。
長さは数百塩基。十七番染色体q11.2の、あの場所の配列だ。置換後のものと、置換前のもの。
ハリス博士との約束は破っていない。彼が止めたのは、あの話を持ち出すことだ。私は誰にも話していないし、すぐに論文にしようともしていない。他の研究のついでに、二つの配列を注文しただけで、研究の合間に少しずつ進めるだけだから。
そう自分に言い聞かせた。
十二月の第二週、デスクで仕事をしていると、エヴァンからノーラがつかまり立ちをした動画が送られてきた。ソファの端に両手をついて、膝を震わせながら、二秒だけだったけど、確かに自分で立っていた。尻もちをついて、驚いた顔をしたあと笑っていた。
「すごい!」とメッセージを送った後、私はそれを三回見た。
年末年始の休暇に入る前の週、私は細胞の実験を始めた。
やっていることは単純だ。ヒトの培養細胞に、あの配列を入れる。置換のあるものと、ないもの、それぞれで隣接する遺伝子の働きにどう影響するかを見る。
サラには、チームのプロジェクトの予備実験だと言っておいた。実際、培養細胞系としては同じものだ。使っている配列が違うだけで。
四日目に最初の測定結果が出た。置換のある方では、活性が下がっていた。その差は、はっきりしていた。ばらつきの範囲を明らかに超えている。数回繰り返したが、どれも同じところに落ちた。
十四パーセント。
脳組織のデータベースで見た数字が十五パーセントだった。あの数字は、人間の脳自体を見た結果だ。遺伝だけでなく、その人の生育環境、食事、運動習慣、全部が合わさったものを見ている。
それに対して、今回の実験結果は、純粋に塩基配列が入れ替わったことによる効果を見ている。それで似たような数字が出たということは、因果関係があるということだ。
その晩は、帰りが遅くなった。家に着くと、ノーラはもう寝ていた。エヴァンはリビングでチェロの弦を張り替えていた。
「おかえり。」
「ただいま。ごめん、遅くなっちゃった。」
「いいよ。ノーラは今日、二歩あるいたよ。」
「えっ!うそ!」
「うそ。あるいたのは一歩。」
彼は笑いながら、弦を巻いていた。
「すぐにファーストシューズが必要になりそうね。」
私は冷蔵庫から水を取り出し、ソファに座った。しばらく、彼が作業をする様子を眺めていた。
「エヴァン。」
「うん。」
「前に、小説の話をしたの覚えてる?」
「覚えてるよ。」
「あの、続きなんだけど、」
彼は手を止めずに私の話を聞いていた。
「あの小説を読み進めると、書き換えられたことがはっきりわかるの。もう間違いなく、そうで。」
「うん。」
「その後、どうなると思う?」
エヴァンは作業の手を止めて、少し考えた。
「その小説の中の人たちは、それを聞いて、どう思うんだろうね。」
「どういう意味?」
「いや。俺だったら、ふーん、そうなんだ。って思うだけかもな。」
私は彼を見た。
「どうして?」
「だって、それって自分が本当の自分じゃないって言われるってことでしょ?」彼は弦を締めた。「そんなの、証拠を見せられても、はい、そうですか。じゃあ、元に戻さないと。とはならないでしょ。俺は今の自分が俺だって思ってるし。」
彼は弦を緩めて、巻き直した。
「その主人公は、たいへんだね。」
「……うん。」
「その小説は最後どうなるの?」
「わからない。まだ最後まで読んでない。」
「その主人公には、家族とかいないの?」
「いるよ。」
「じゃあ、家族には話せばいいのに。」
私は水を飲んだ。
「話したら、家族はどうするんだろう?」
「そりゃ、心配するんじゃない?」エヴァンは言った。「でも、心配されるのって、そんなに悪いことじゃないと思うけどな。」
彼は弓を持って、一度だけ音を鳴らした。
十二月二十四日、研究所は昼で閉まる。休暇中、動物施設や細胞実験を持っている職員は、当番を決めて出勤する。私は当番表に自分の名前を書いた。二十六日と、二十九日。
「先生、二十六日は私がやりましょうか?」とサラが言った。
「大丈夫よ。私の実験だから。」うちのチームの予備実験としてあるけれど、本当は彼女には関係がない実験の世話をさせるわけにはいかなかった。
私は研究所を出て、ノーラを迎えに行った。
車の中で、ママにローストチキンのレシピを送ってもらった。
家に帰って昼食を作りながら、リビングに飾られた大きなツリーを眺めた。
去年まではプラスチックの小さな卓上ツリーだったけれど、エヴァンが「ノーラの初めてのクリスマスなんだから。」と、先週末にモミの木のツリーを買ってきた。私の背より少し高い。部屋の中に木の香りが広がっている。飾りつけは、彼が出勤前に済ませてくれていた。
ノーラは下の枝の赤い玉の飾りが気に入っていて、目を離すとすぐ引っ張ろうとする。
エヴァンは今日は本番だった。十二月の交響楽団は、この街で一番忙しい職場かもしれない。十二月半ばからは毎日のように公演がある。イブの日は夕方に一回なので、八時ごろには帰ってくるだろう。
私たちは昼食を済ませ、買い物に出かけた。
エヴァンが帰ってきたのは、八時過ぎだった。ノーラはもう寝ていた。
「おかえり。」
「ただいま。……ツリーの飾り、減ってない?」
「ノーラが取っちゃって。」
「だろうと思った。」
彼はコートも脱がずに、床に落ちていた赤い玉を拾って、上の方の枝に掛け直した。
二十五日、家族そろって丸一日お休みなのは、ひと月ぶりくらいだった。
「今日は私が作るね。」
「手伝おうか?」
「大丈夫。ノーラと遊んでて。」
母のレシピでローストチキンを作った。子どもの頃から毎年食べていたけれど、作るのは初めてだった。
途中で分量がわからなくなり、母に電話をかけた。バターの量を聞いたら、そんなものは目分量だと言われた。それからノーラの話を二十分して、切った。
チキンは、少し焦げてしまった。皮の一部が黒くなっている。
「おいしいよ。」とエヴァンは言った。
「焦がしちゃった。」
「そこがいいんだよ。香ばしくて。」
ノーラはほぐした鶏肉を少しと、潰したさつまいもを食べた。
良いクリスマスだった。
遊び疲れたのか、ノーラは椅子に座ったまま寝てしまった。
二十六日の朝、私は八時に家を出た。
「行ってらっしゃい。」
「二時間くらいで戻るから。」
外はまだ暗かった。
研究所の駐車場には、車が三台しかなかった。動物施設の職員のものだろう。
建物に入ると、暖房が落ちていて、廊下は外よりも寒く感じた。カードキーで自分のフロアに入る。培養室のドアを開けると、ここだけは温かかった。インキュベーターは二十四時間動いている。中を覗くと、細胞は問題なく育っていた。
培地を吸って、新しいものを入れる。フラスコを四本。三十分もかからなかった。
作業が終わってから、私は自分の部屋に寄った。
パソコンを立ち上げて、この一週間のデータを開いた。
静かだった。この建物には、私と、動物施設の数人しかいない。廊下を歩く音も、話し声も、コーヒーメーカーの音もない。
私は椅子に座ったまま、しばらく画面を眺めていた。
一年待ちなさい。
ハリス博士との面談から七週間が経った。
私はあの約束を破ってはいない。誰にもあの話をしていないし、論文も書いていない。インキュベーターの中に、私が勝手に注文した配列を入れた細胞が入っているけれど、ちょっと確認しておきたいだけだ。
細胞は世話をしなければ死んでしまう。だから、私は家に家族を残して職場に来ている。
私はパソコンを切って、部屋を出た。
休暇が明けて、私は二カ月かけて残りの実験を進めた。
細胞レベルの結果は、どれも同じ方向を指した。置換のある配列を持つ細胞では、その隣にあるセロトニンを運ぶ役割の遺伝子の働きが十四から十六パーセント落ちる。細胞の種類を変えても、実験のやり方を変えても、動かなかった。
三月になって、私はサラに自分がやっていた実験について話した。
彼女は三十分黙って聞いて、それから「もう一度、最初から説明してもらっていいですか?」と言った。
私はもう一度説明した。彼女はメモを取りながら聞いていた。
すべて聞き終えてから、彼女は口を開いた。
「先生、これって、次はマウスでの動物実験ですよね?」
私は答えなかった。
「マウスでないと、行動は見られません。」
「そうね。」
「その内容でうちの動物実験委員会の承認が下りると思いますか?」
「下りない。」
サラはしばらく黙っていた。
「私は来年から自分のプロジェクトを立ち上げたいんです。」
「知ってる。」
「なので、私はこの実験には関われません。でも、このことを誰かに話したりはしないので……。」
そう言って、彼女は席を立った。
四月に入り、私はうちのチームの研究費を使ってマウスを発注した。名目は対照群の確保。系統はこれまでうちのチームで使っているものと同じで、数を多めに取っただけだ。書類の上では、何も変わったところはないはずだ。十六匹。二群に分ければ八匹ずつ。統計としては心もとないが、すぐに論文にするつもりもない。確かめるだけ。
そう自分に言い聞かせて、私はサインをした。
その晩、家に帰ると、玄関の外まで音が聞こえた。おもちゃのピアノとチェロが、同じ音を出そうとしている。
ドアを開けると、ノーラが振り返って、両手を上げた。
「マーマ。」
私はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
「今、言った?」エヴァンが言った。「言ったよね?」
「……ママって言った!」
「三日前から練習してたんだよ。俺が教えたんだからね。」
私はノーラを抱き上げた。ノーラは私の顔を両手で挟んで、もう一度、ママと言ってくれた。
マウスが届いたのは、六月に入ってからだった。
実験の作業はほとんど夜と早朝になった。ダニエルは週三日だし、サラには頼めない。行動試験は毎日決まった時刻にやらないと意味がない。私は朝六時に研究所に入って、七時半に一度家に戻ってから、ノーラを保育園に送るようになった。
エヴァンには、実験が立て込んでいると言った。嘘ではない。
八月までに、マウスを使った四つの行動解析を終わらせた。
置換のある配列を導入した群と、そうでない群。ケージも、餌も、明暗の周期も同じ。これで、置換のある配列がマウスの行動に影響するかどうかがわかる。
遅延報酬課題。すぐ手に入る少しの餌と、待てば手に入る多くの餌。導入した群には、待って多くの餌を獲得する個体はいなかった。
危険学習課題。特定のエリアに入ると、少し遅れて不快な刺激が来る。対照群は数回で覚えて、その場所を避けた。導入した群は、覚えるのが遅く、忘れるのが早かった。
予告刺激。音が鳴った五秒後に刺激が来る。対照群は音で身構えるようになった。導入した群には身構える様子はなく、刺激を受けて驚くだけだった。
協力課題。二匹が同時に離れた場所を押さないと餌が出ない。対照群は四日でタイミングが合った。導入群は十二日かかった。
どの試験でも、差が出ていた。人間のコホートで見た十一の方向と、同じ向きだった。
それだけではなかった。
新しいブロックをケージに入れたとき、対照群は一分もしないうちに寄ってきて、匂いを嗅ぎ、乗った。導入した群は、隅にいた。三十分たっても、新しいものを確認しようとしなかった。
ケージを移したとき、対照群は端から端まで歩いて、角を全部確かめた。導入した群は、置かれた場所からあまり動こうとしなかった。
子が巣から転がり出たとき、対照群の母親はすぐに咥えて巣に戻していた。導入した群の母親は、しばらく気づかなかった。気づいたように見えても、すぐには連れ戻しに行かない。育児を放棄しているわけではない。ただ、遅いというだけだが、子どもにあまり注意を払っていないように感じた。
私はモニターを見ながら考え込んでいた。
餌を食べたり、水を飲んだり、床材で巣をつくったり、そういうことは普通にやっている。
死んだり、病気になったりするわけではない。このマウスたちは、健康で、普通に生きている。
ただ、少し先のことを予想する力や、学習力が低くなっている。
この頃には、私はもう自分が本来やるべき研究に、ほとんど手を付けていなかった。
論文は出した。中間報告も出した。表向きには何も問題はないはずだ。ただ、サラは私に実験の相談をしなくなり、マイクとは廊下で挨拶をするだけになった。
九月には、テニュアの審査があった。
一年待ちなさい、とハリス博士は言ったが、私はその一年で、堅実な研究を終わらせることができなかった。
結果が出るのは十二月だと言われた。
十月、私は置換された後の配列を読み直した。
置換された数十塩基のどれがセロトニンを運ぶ遺伝子に作用しているのか、培養細胞で一塩基ずつ元に戻して確かめていった。
ポイントは二箇所だった。前半の一塩基と、後半の一塩基。どちらか片方を戻すだけで、置換のある配列を持つ細胞と持たない細胞での差がなくなった。
残りの塩基は、何をしているのかわからない。元の配列に戻しても、何も変わらなかった。
私はそれを、何度か繰り返し確認した。
意味を持つ部分と、持たない部分が、区別されないまま並んでいる。ただDNAに傷がついたのであれば、こうはならない。
この配列を設計した者は、必要な部分だけを書いたのではない。一揃いの仕掛けを、組み込んだのではないだろうか。レトロウイルスを使って……。
私は、五千年前のデータの詳細を確認した。
メソポタミア南部の遺跡から出た人骨。紀元前三千年紀。その中に、あの配列を持つものが七体。
もしかすると、仕掛けを組み込んだレトロウイルスを復元できるかもしれない。
私は七体分のレトロウイルス断片を並べ、置換される前の塩基配列をパズルの起点にして、目的のレトロウイルスのゲノムを復元していった。欠けている部分を埋めていき、どうしても埋まらないところは既知のレトロウイルスの類似配列から推定した。
約一万字のパズルは意外にあっけなく完成した。
私はこの内在性レトロウイルスに『ERV-1784』と名前を付けた。一七八四年。該当箇所の書き換えが起こったと推定した年だ。
復元した配列を、私は詳細に解読した。ERV-1784は単なる感染性のウイルスではない。標的を認識する部分、標的の書き換え内容を指定する部分、書き換えるスイッチになる部分。
解読が終わってから、私は書き換え内容を指定する部分の塩基を二箇所書き換えた。
元に戻すレトロウイルス。私はこれを『ERV-1784R』とした。
三か月かかった。翌年の一月、私はERV-1784Rを細胞に入れた。置換のある細胞に作用させて、二週間後に配列を読んだ。二箇所が、元に戻っていた。遺伝子の働きも、元の値に戻った。
その夜、私は研究所を出たあと、駐車場のベンチにしばらく座っていた。
元に戻せるウイルスを作れてしまった。人類の二割が持っているものを、元に戻せる。細胞では確認できた。マウスでも、たぶん同じことができるだろう。しかし、これを人間に使うことはできない。承認も、審査も、同意も、何一つ取れないだろう。
私は膝の上で手を組んだまま、駐車場の街灯を見ていた。
テニュアを取れなかった私は来年、この研究所を去らなければならない。
雨なのか霧なのかわからない白い靄が辺りを包んでいた。
三月、私はマウスで確かめた。
置換のある配列を導入した群に、ERV-1784Rを投与し、その四週間後、行動試験をした。
待てるようになった。危険を覚えるようになった。新しい物に近づくようになった。母マウスは、子が巣から離れると、連れ戻しに行った。
対照群との差は、消えていた。
私はデータを何度も見返した。戻っている。
四月、研究所から書面が届いた。
契約は来年三月まで。それ以降の更新はない。手続き上の通知で、ハリス博士の署名が入っていた。
その週に、彼から個別のメールが来た。件名は空欄で、本文が一行、
——時間があるときに、一度話をしよう。
私は返信しなかった。
五月、私はサラの実験を手伝った。彼女のプロジェクトの立ち上げに必要な手続きは、私がいるうちに済ませておいた方がいい。ダニエルの契約も、次の受け入れ先に繋いだ。
研究所でやるべきことをやっている、という感覚があった。久しぶりだった。
夕方、研究所を出るとき、駐車場でマイクに会った。
「エレナ、聞いたよ。」
「うん。」
彼はしばらく黙っていた。
「あのとき、論文に書いて終わらせとけばよかったんだよ。分布の話のとこだけ。」
「そうかもね。」
「今からでも書けるだろ。原因不明のまま出せばいい。誰かが続きをやる。」
私は自分の車の鍵を持ったまま、彼を見た。
「続きをやる人がいると思う?」
マイクは何も言わなかった。
一年半前と、同じやりとりだった。
七月、ノーラが二歳半になった。
言葉が急に増えて、私が帰ると、その日にあったことを全部話そうとする。順番はめちゃくちゃで、主語がないので、半分くらいしかわからない。それでもノーラが話すのをいつも最後まで聞いていた。
エヴァンは、八月に二週間の夏のコンサートツアーに行くことになっていた。
「大丈夫?二週間、一人で。」
「大丈夫。実家に何日か行くし。」
「ごめんね。」
「謝ることじゃないでしょ。仕事なんだから。」
彼はそう言って、それから少しだけ間を置いた。
「エレナ、次の職場はどのあたりで探すつもり?」
私はすぐに答えられなかった。
まだ探し始めてもなかった。応募書類も一通も書いていない。焦りはなかった。私は自分が作ってしまったものをどうするか。それしか考えられなかった。
「まだ決めてない。」
「うん。決まったら教えて。俺はどこでもついていくから。」
彼は本当にそう思ってくれている。それに対して私はどうだろうか。家族に甘え、自分の成果にならないことに没頭し、キャリアを棒に振った。彼の愛情を受ける権利は私にあるのだろうか。
私は自分の作ったものを、もう一度見直した。
問題は二つあった。
一つは、ERV-1784Rをどうやってヒトに広げるか。作ったのは、細胞に感染して配列を書き換えるウイルスだ。人から人へ効率よく伝わるようには設計していない。
もう一つは、使ったらどうなるかだ。
置換する対象を持たない八割の人間には、何も起こらない。標的の配列がないので、書き換えるものがない。害はない。
置換する対象を持つ二割の人間には、変化が起こる。しかも、その人たちは、それについて同意していない。
八月、エヴァンが交響楽団のツアーに出た。
ノーラを保育園に送って、研究所に行って、迎えに行って、家に帰って、寝かせる。それだけで一日が過ぎていく。夜、ノーラが眠った後に、私は台所のテーブルで作業をした。
十日目の夜、ノーラが起きてきた。
「ママ、まだ?」
「ごめんね、まだお仕事なの。」
「いっしょにねるの。」
私はパソコンを閉じて、ノーラをベッドに連れて行った。
寝かしつけながら、私はこの子のことを考えていた。
私は持っていなかった。エヴァンのことは、調べていない。だから、この子が持っているかどうかも、わからない。
二年前、私はノーラのゲノムデータの請求フォームを開いて、何もせずに閉じた。
いま同じフォームを開けば、たぶん今度はそのまま閉じない。
九月、エヴァンが帰ってきた。ノーラは玄関で抱き着いて、しばらく離れなかった。
その晩は、三人で食事をした。ノーラは食事中ずっとうれしそうにエヴァンに話しかけていた。ノーラが寝てから、私たちはリビングでお酒を飲んだ。
「留守中は大変だった?」
「思ったより平気だった。」
「そう。」
彼はワインを一口飲んだ。
「エレナ。」
「うん。」
「ずっと前に言ってた小説の話なんだけどさ。」
私は顔を上げた。
「あの小説は、最後まで読んだの?」
「まだ読んでない。」
「ふうん。」
エヴァンはグラスを置いた。
「あれって本当に小説の話なの?」
私は彼を見た。彼は責めるふうでもなく、ワインのラベルを眺めている。
「一年半も、同じ小説を読んでる人なんていないよ。」
「……。」
「言わなくていいよ。」彼は言った。「ただ、俺が知らないところで君が困ってるなら、それは俺にも責任があるんじゃないかと思って。」
私は何も言えなかった。
「テニュアのことは、聞いてる。エレナが何も言わないから、俺も聞かないでおいた。でも、その前からだよね。」
「……そうね。」
「話せるようになったら話して。無理なら、それでもいい。」
彼はグラスを片づけて、風呂に入りに行った。
私はリビングに残って、しばらく座っていた。
話せば、彼は信じてくれるかもしれない。信じてくれなくても、心配はしてくれる。
でも、そのあとどうなるかは、もうわかっている。彼は私に、やめてくれと言うだろう。そして、それは正しい。
十月、私は広げる方法を決めた。
ERV-1784Rは、そのままでは人から人へ伝わらない。私は、呼吸器の細胞で増えるようにして、飛沫感染で広げることにした。
三週間で設計を終えた。合成には二か月かかる。外部の受託会社に材料を発注した。研究所の予算は使えないので、私の口座から支払った。分割して、別々の会社に頼んだ。一つの会社が全体を把握できないように。
年末までに、材料が揃った。
一月、私はマウスで確かめた。
一匹にウイルスを投与し、投与していない個体と同じケージに入れた。二週間後、投与していない個体のゲノムを読んだ。
二箇所が、戻っていた。
感染し、感染した先でも効果があるウイルスができたのだ。
二月、私は病院に行った。
ここ数ヶ月、体調がすぐれない日が続いていた。軽いアレルギーかなにかだと思っていたが、めまいで動けなくなっているところをエヴァンに見つかった。
血液検査の結果が出るまでに一週間かかった。それから、追加の検査に二週間。
三月の第一週、診断がついた。
エヴァンには、その日のうちに話した。彼はしばらく黙っていて、それから「治るんだよね」と言った。
治療の見込みについて、医師が言ったことを、私はそのまま彼に伝えた。
彼は「わかった」とだけ言って、その晩、ノーラを風呂に入れて、いつも通りに寝かしつけた。
私は台所で、洗い物をしながら、自分の手を見ていた。
三月末で、研究所を出ることになっている。
私に残された時間はあとわずか。
今までは、まだ迷っていた。ハリス博士に話すか、論文を書くか、誰かに引き継ぐか。どれも、時間があればできることだった。
時間がなくなった今、選択肢は一つになった。
三月の第二週、私は研究所の最後の荷物をまとめた。
私物を段ボールに詰めて、ノートを処分して、実験ノートの原本を規定通りに提出した。マウスは規定通りに処分した。細胞は凍結して、共通の保管庫に移した。
私は自分の実験に使っていたインキュベーターと安全キャビネットを、規定通りに清掃した。
規定通りに、と何度も自分に言い聞かせながら、私はそれをやった。
最後の週、私は三日続けて夜に研究所に入った。カードキーの記録が残る。エレナ・ウォード、二十時十一分入館。二十一時四十分退出。
三日目の夜、私は自分の部屋の窓を開けた。
三月のシアトルは、まだ寒い。冷たい風が心地よかった。
三月三十一日、私は研究所を出た。
ハリス博士が、玄関まで見送りに来た。
「エレナ。」
「はい。」
「体のことは聞いた。何かできることがあれば、言ってほしい。」
「ありがとうございます。」
彼は少し迷ってから、言った。
「あの件は、どうなった。」
「結局、なにもわかりませんでした。」
「そうか。」
彼はうなずいた。それ以上、何も聞かなかった。
私は車に乗って、駐車場を出た。
四月の第三週、研究所から連絡が来た。
定期の環境モニタリングで、私が使っていた区画から、登録されていない組換えウイルスが検出された。
保健当局が入り、私も事情を聞かれた。
私は、実験に使っていた組換えウイルスの不活化処理が不十分だったこと、その結果として排気系から漏出した可能性があることを認めた。
規定違反の内容は、詳細に記録された。無承認の動物実験。予算の不正使用。組換え生物の管理不備。
地元の新聞の記事になったが、私の名前は公表されなかった。
五月、当局の調査結果が出た。
検出されたウイルスは、ヒトに対する病原性がないもので、感染しても症状がなく、重篤な健康被害の報告はない。
「無害な実験室由来のコンタミナント」として、記録された。
監視は、三か月で終了した。
そのウイルスが何をするものなのか、誰も調べなかった。
病原性がないと確認されたウイルスを調べる価値はない。
私は、それから四年生きた。
治療の間、エヴァンは仕事を減らした。ノーラは幼稚園に上がって、字を覚えて、私に手紙を書いてくれるようになった。
私は古代文明について調べた。メソポタミア、シュメール、それより前。誰かが五千年前に何をしたのか、最後までわからなかった。
論文にはしなかった。
私が残したのは、実験ノートと、ウイルスの設計図と、なぜそれを作ったのかを記録したものだけ。
それを、いつ、誰に渡すべきなのか、私はわからなかった。
私の最後の夏、私はノーラをマウントレーニアに連れて行った。
樹林帯を自分の足で抜けるのは無理だったので、車で上まで登った。
パラダイス・メドウズには、色とりどりの花が咲いていた。
「ママ、これなに?」
「アヴァランチリリー。」
「あばらん。」
「アヴァランチ。雪崩のこと。」
「なんで?」
「雪がとけたら、すぐ咲く花だから。」
ノーラは、それをしばらく見ていた。それから、次々に別の花を指さした。
この子は花の名前も、私とここに来たことも、ずっと覚えていてくれるだろうか。
私は、花を見つめるノーラの姿をずっと眺めていた。
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夕焼けが、砂と岩だけの乾いた大地を赤く染めている。
掘り出したばかりの土を手のひらに載せると、まだ湿っていた。
この地域は年間降水量が百ミリを切る。
灌漑設備がなければ農業をすることもままならないこの土地で、地下五メートルから掘り出した土が湿っている理由を、まだ誰も説明できていない。
私はサンプリング用の小瓶に土を入れ、ラベルを書いた。
日付:二〇七五年二月九日、深度:五メートル、採取者名:ノーラ・ウォード。
イラク南部、ナーシリーヤから北西に四十キロ。
十五年前に衛星画像データの解析から、古代都市の存在が示唆されていたが、国際調査隊が入ったのが三年前。シュメールの都市の一つだと言われている。
私はバイオ考古学者として、この調査隊に参加している。土や骨から、当時そこにいた生き物の痕跡を読む。専門は微生物と、古代のウイルス。
今から三十年前、母は自分の実験室から組換えウイルスを漏出させた。
研究所には保健当局が入り、そのウイルスに病原性がないと確認されると、監視は三か月で終わった。母がすでに研究所を辞めた後のことだった。地元紙に三段落の記事が出て、それで終わりだった。
漏出事故があった当時、私はまだ三歳だったので、何も覚えていない。
父からそのことを聞いたのは、母が死んでから十年後、私は当時高校生だった。父からもらった、母の遺したノートには、実験の記録と、設計図と、ウイルスを漏出させるに至った経緯が書いてあった。
私はそれを読んで、母が事故を起こしたのではないことを知った。
母は、事故を装って、ウイルスを撒いたのだ。
母が作ったウイルスは、いまも人から人へと広がっている。
三十年間で、世界人口のおよそ四割に到達している。害はない。症状も出ない。だから、母が作ったウイルスがどうなっているのかを、誰も知らない。
感染症の監視ログを見れば、その痕跡を見つけられる。
母のウイルスは、何も知らない人のゲノムを書き換え続けている。
私にも母が作ったウイルスの痕跡がある。
漏出したウイルスに感染したのか、母が直接私に使ったのかはわからない。
母のノートには、私のゲノムデータについて、書かれていなかった。
神殿の基壇を掘り始めて三週間目に、地中レーダーに妙なものが映った。
地下三メートル、輪郭が鮮明すぎる。石組みではない。空洞でもない。反射が強すぎて、内部は読めない。金属か?それにしてもサイズが大きい。
隊長のマルティンが「配管でも埋まってるんじゃないか」と言った。この付近は二十世紀に何度か掘り返されているので、その可能性はゼロではない。
掘り進めるにつれ、土の湿り気が増していくような気がする。
三日掘り進めると、見たことがないものが出てきた。
五メートル四方の、セラミックなのか、金属なのかわからない深い緑色の材質の物体。継ぎ目がなく、叩くと硬いのに、触ると手が水で濡れてくる。水がしみ出しているのだ。
これが何なのか、誰にもわからなかった。
私はその周囲の土としみ出した水を採取した。上面から、側面から、下に向かって五十センチごと。全部で二十四本。保冷バッグに入れて、その日のうちにバグダッドの分析施設へ持ち込んだ。
結果が出たのは、十日後だった。
私が採取した土と水には、おびただしい量のレトロウイルスが含まれていた。
そのうちの一つは、私が知っているレトロウイルス。ERV-1784。母が復元したレトロウイルスとまったく同じゲノムだった。
謎の物体の存在は、二週間で外部に漏れた。
主要各国が調査団と軍隊を現場に送ってきた。私たち調査隊は現場から締め出されて、基地の宿舎で待機になった。
伝わってきた情報は断片的だった。
材質が、地球上の既知の物質と一致しない。内部は水を多く含む物質で満たされている。密度の測定はできたが、内部構造は読めない。
レトロウイルスの培養装置ではないか、という説が出ている。
宿舎の近くの食堂へ行くと、店員がモニターで番組を見ていた。
『五千年前に宇宙人が地球に来ていた!? 古代遺跡から発見された正体不明の物体』
その番組では有名なコメンテーターがシュメール文明について解説していた。
その夜、私は宿舎の外に出た。
雲のない砂漠の夜空を見上げると、満天の星空に煙るミルキーウェイ。
私が採取した土と水には、ERV-1784のほかにも、ヒトのゲノムを書き換える配列を持つレトロウイルスが多数含まれていた。
母が見つけたのは、そのうちの一つでしかなかった。
母のやったことは、正しかったのだろうか。
母のやったことは、意味があったのだろうか。
私にはわからない。
母がキャリアを投げ出してウイルスを作って、同意を得ることなく人のゲノムを書き換えることに悩んで、その上でウイルスを撒く決断をしたということは理解できる。
でも、私は母に生きていてもらいたかった。
体調が良くないなら、すぐに病院に行ってもらいたかった。
私にとっては、ウイルスのことも、人類のことも、どうだっていいのに。
私は目を閉じて、母のことを思い出していた。
母が死んだ年。
夏のマウントレーニア。
私は何回も、何回も、目に留まった花のことを聞いた。
母は、優しく微笑んで、私の「なんで?」に答えてくれた。
七歳だった私は、母があの後すぐにいなくなるなんて、考えもしなかった。
母が求めていた答えに、私はたどり着けたのだろうか。
「ママ。」
涙が、夜の砂漠の冷たい空気に溶けていく。
星のやさしい光が滲んでいる。
視界の隅を、流れ星が通り過ぎた。
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