少女は真空とキスをする

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少女は真空とキスをする

1

回しまーす、はい。回った。
私は150km下の火星に背を向けて、意味もなく手を叩く。
100年ほど前に廃れたという「カメラの前で同期を取る」儀式が気に入っているのだ。
大昔の動画制作者たちは、こうやって複数のカメラの前で手を叩いたり声を出したりしないと、編集のときにとても面倒だったらしい。動画の素材の前後関係の同期を取る目印が必要だったのだ。2205年の現在では、編集ソフトがタイムスタンプを元に自動で全ての素材を整列させてくれる。
正面のGoPro、引きの全景を撮る宇宙ドローン、五感転送用のFullDive――全てのREC表示を、もう一度確認する。あらゆるミスの中で、素材を撮りそびれることが最も罪が大きい。どれほど素晴らしいパフォーマンスをしても、虚空に消えてしまえば意味はない。特に、一発勝負系の撮影では。
火星軌道上に浮かぶ、小さなポッド。そこから伸ばした100mのアンビリカルケーブルの先に、たったひとり、私は繋がれている。
今から私は、宇宙服のヘルメットを外す。

動画素材用のカメラの準備を終えた私は、Whoopyの放送ページを見る。すでに10万人が待機している。
アングラ配信サイト、そして18歳の若手危険行為配信者、セレナ・カウルにしては上々な数字だ。
タイトルは「宇宙空間で息止めるチャレンジ」、概要欄には「やるったらやるんだ」の1行。このくらいシンプルな方が、ガチ感が出て良い。

私は配信を開始した。

*

昔は芸術家というものがいたらしい。正確には今もいるが、もっとたくさんいて、もっと尊敬されていたらしい。
22世紀の中ごろ、予想よりちょっと遅く実現したAGIによって、大半の芸術がAIによって生成されるようになった。音楽も、絵画も、映画も、全ては個人の好みに合わせて生成される――あらゆる人間が凝らす趣向のはるか高みを、AIたちは軽々と超えていく。多くの人はそれで満足するし、人間製の芸術にこだわる人たちも、バッハやゴッホやタルコフスキーの、枯れた名作の話ばかりしている。

「おはよう、みんな。今日は真空で息を止めるよ」
FullDiveの送受信パッチの吸い付きを肌に感じつつ、私は静かに愛嬌を振りまく。命がけのチャレンジに向きあっても平気な顔をしているけれど、視界の揺れや心拍数が、私の恐れを視聴者に伝える。彼らは私と一体化しつつ、ある者は恐怖からの生還を望み、ある者は馬鹿なインフルエンサーの死をその身で体験することを望んでいる。まともな配信サイトでは見られない、安っぽい演出とともにギフトが飛び交う。私は眉根を寄せつつ、感謝の言葉を述べる。高額ギフトが送られたら、それが何度目であっても困惑した表情を作るのが定石だ――幸いにもFullDiveでは内心は送信されない。

今、人間が創造性を発揮しようと思ったら、FullDive一択だ。20年くらい前に開発された、五感転送デバイス・FullDive。装着した人間の視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚(そして内臓感覚も)を余すところなく視聴者に伝える、低侵襲で安価なデバイスだ。頭部・首・脊髄・四肢の神経束に電極を埋め込み、感覚器から脳へ上る求心性信号を分岐して読みとり、視聴者側の端末を通して、脳に同様の信号を送り込む。視聴者は自室にいながら、世界中のあらゆる人間の五感をそのままトレースできる。感覚の上では、全人類にあらゆる体験が提供されるようになった。ステージ上のアイドルにも、ワールドカップでゴールを決めるフォワードにも、あるいは、絶世の美女と愛を交わす塩顔の美男子にだってなれる。欠陥だらけのVRなんかとは比べ物にならない、圧倒的なリアリティ。
人間のクリエイティビティとそれにかける熱量の大半は、FullDiveに注ぎ込まれている。

*

「そう。鼓膜換気チューブ? ってやつを両耳の鼓膜に付けてもらったの。中耳炎の治療とかに使われてるらしいんだけど、これがあれば真空でも鼓膜が破裂しないの」
私の体は、この仕事のためにカスタマイズされていく。2年前に埋めたFullDiveの電極、去年指の腱を総とっかえして入れた人工繊維。そして今日のために通した鼓膜換気チューブ。どれも私の誇らしい一部。
企画説明を行ううちに、視聴者数は20万人まで膨らんでいた。そろそろ頃合いだ。
改めて、私は火星と宇宙ポッドを順番に見る。配信の道具立てが視聴者の記憶に残るよう、3秒間、視界の真ん中に置いてやる。見やすいFullDive配信をしたいなら、まずは視界の安定から。

緊張からか恐怖からか、左手が震えていることに気づく。大丈夫、死ぬ確率は2か月前の「イーディス溶岩洞の底に着くまで帰れない生放送」よりずっと低い。

じゃあやるね、と言って私は、宇宙服の空調機能をオフにする。聴こえていたかすかなモーター音が消える。与圧を段階的に下げていく。空気が虚空に排気され、少しずつ減圧が進む。宇宙服の金属っぽい匂いが、少しずつ薄れていく。
減圧がほぼ完了した頃合いを見計らって、安全ラッチを引き上げ、まるで瓶のキャップを外すように、ネックリングをゆっくりと回していく。

大きく息を吸い込んだ後、一気に吐き切る。わかりやすさのために配信タイトルは「息止めチャレンジ」としたが、実際に真空中で息を止めると、肺胞に蓄えられた1気圧の空気が勢いよく膨らんで、肺が破裂してしまう。私の今回のチャレンジをより正確に言えば「息を吐ききった状態で、5秒耐える」となる。5秒のうちにドローンを操作して、火星を背景に自撮りをしたらミッションコンプリート。

肺の中が空っぽになった。ネックリングを回し切ると、圧力差でヘルメットは勝手に浮き上がり、私の全身は真空にさらされる。

刹那、世界から音が消えた。
真空は音を伝えられない。
舌の上で唾液が沸点に達し、泡立ち始める。真空は熱くも寒くもないが、沸点が体温以下に降下することにより、体表の水分は沸騰して急速に失われていく。目が乾く。皮下組織の膨張によりまぶたが重くなる。

配信用のカメラを見る。画面の向こうの20万人が、私と一緒に真空に浸され、肌の突っ張りと、適温の真空と、舌の上で踊る泡を感じている。

気がついた頃には、すでに3秒が経過していた。私は狼狽する。本来であれば、すでに自撮りを終えているべき時間。慌ててドローンの操作キーを操り、ポーズをキメる。
鼻の奥に、つんとした痛みが走る。粘膜が沸騰しているようだ。涙が滲み出るが、たちどころに泡立って消えていく。地球史の実習で食べた「わさび」を食べたときの不快感を思い出す。あれを好き好んで食べていた人間がいるなんて未だに信じられない――こんなことを考えている場合ではない。
すでに視野の縁が暗くなりだしている。反射的に息を吸おうとするが、肺はいっさい膨らまず、内臓のうねりだけが生まれる。苦しい。無理やり笑顔を作り、雑にシャッターを切る。ヘルメットを着けて、与圧を――

世界が暗転する。最後に感じたのは、作動した緊急回収システムがアンビリカルケーブルを勢いよく引く衝撃だった。

 

2

海、森、雪。私が見たことのない場所を、それを見たことのない機械が描いている。
私は教室モジュールの隅で、壁面に次々表示されるスクリーンセーバー用の画像を眺めている。次の科目は星間倫理、その次は古典。あまりにも地味なラインナップに、思わずため息が出る。
不本意にも教養課程に進学した私は、将来使いもしない知識を、人格の完成とやらのために詰め込まされている。去年の暮に行われた、平均1割が合格する実務課程への振り分けテストに落ちた瞬間、私の人生の道筋はほぼ決定している。あと2年だけ学校に残り、16歳の卒業以降は一生ベーシックインカム暮らし。先の見えた、ギリギリ貧しくない、そこそこ幸せな人生。
労働の名誉と報酬は、私が入れなかった1割側の人間に実質的に独占されている。

「よっ、セレナ。何シケた面してんの」
振り向くと、後ろには級友のノアがいた。目の下にはうっすらとクマができている。地球コンテンツにかぶれた彼女は、SOMA――ほとんどインフラといっていい、世界最大の配信サイトで、毎日地球の配信者のFullDive配信を視聴している。地球と火星の自転周期は40分ほど違うため、配信を見る時間はいつもまちまち。地球との「時差」が大きい時期は決まって寝不足だ。
髪の毛は地面にまっすぐ降りる、地球スタイルのロングヘア。自然のままのロングは髪先がふわりと広がるところだが、地球かぶれの彼女は強めの整髪剤を使って、髪が地面にまっすぐ向かうよう強制している。重力強めのヘアスタイル。

「今日の時間割ダルすぎ。倫理とか知らないっての。働く人達のものでしょアレ」
「わかる。てか地球だと倫理って選択科目なんだって。こっちだけ必修とかウケる」
落ちこぼれの9割側、地味寄りの容姿という共通点からか、ノアは引っ込み思案の私の数少ない話し相手になってくれている。
「またクマできてるよ。FullDiveばっかり見てたら頭悪くなるよ」
「うるさい。頭よくなってどうすんの、私ら。……あ、そうだ。ミーナの話、聞いた? 配信で1000人集めたらしいよ。顔出しベアで。ウケるよね、素人が」
ノアは隣のクラスの、ノリのいい女子の名前を挙げた。1000人に同時に見られる。自分がその立場になる想像をしてみるが、あまりピンと来ない。同じ教養課程の、同じ9割側の人間が、素顔をさらけ出し、私には想像できない数の目を惹きつけている。
「へー。……そういうの、恥ずかしくないのかな」
トクリと胸の奥が鳴る。

帰宅するやいなや、SOMAを開く。ノアから聞き出したアカウント名で、ミーナの配信アーカイブを検索する。事実だった。
何の変哲もない女子学生の配信を、1000人が同時に聞いている。内容は教室で話しているのと変わらない、ただの他愛もない雑談。投げられるコメントにたまに反応しつつ、日常の不満だの学校で経験したエピソードだのを話している。
私でもできそう、と心の中の私が言う。彼女にできて同い年の私にできないわけがない。だって同じ9割側なんだから。

いてもたってもいられず、私もSOMAで配信を開く。
タイトルの入力を求められる。真似して「雑談をします」と適当に入力する。顔伏せスキン顔出しベアか聞かれる。私は少し迷って、顔伏せスキンを選ぶ。AI加工を施さない、生まれたままの顔をわざわざ晒すのは、何というか……はしたない。
配信が始まる。SOMAのAIが、私の要素を残しつつも、適度に匿名化された容姿を作り上げていく。話すごとに、内容やトーンに応じた背景が生成される。パパやママはこの演出が嫌いって言うけど、生まれたときには “こう” だった私からすると、何とも思わない。
すぐにコメントが付く。「初見です」「わかる、うちの学校も同じ感じ」その後も十数人がコメントをする中、私は30分の配信を終えた。軽い高揚感と心拍の高まり。初配信としてはそこそこ良いのではないか?

翌日。
「あんたもクマ作ってるじゃん。もしかして昨日のスポッチ見たの?」
ノアは最近お熱の、地球のスポーツ系FullDiverの名前を挙げた。1Gの環境で華麗に体を動かす様子は、火星のへなちょこ男児には無い魅力があるらしい。
「ううん、ちょっと眠れなかっただけ」
配信で十数人を集めたという事実のせいで、昨日は一晩中寝付けなかったのだ。

「やっぱり時代は地球だよ。迫力が違うもん。セレナはあんまり配信見ないタイプだから知らないと思うけど、火星の底辺配信者とかマジで地獄だからね」
ノアはSOMAの画面を開く。そこには、ちょうど昨日私がしていたような、顔伏せスキンの雑談配信。胸をチクリと刺された気がした。
「聞いてみ? 本当に虚無だから。おんなじ話題ぐるぐる回しつづけて、たまにギフトのお礼と、UIの説明」
「で……でも、無価値ってこともないんじゃないかな。コメントしてる人だっているし」
「知らないの? だいたいAIなの、これ。最初の数分は弱小配信にも回遊のために視聴者が回されるけど、そこで脈無しと判断されたら、ほとんどの反応はサーバーにいるAIが代わりにやってくれるの。配信者側の自尊心を保つためにね」
「そう……なんだ。至れりつくせりだね、SOMAはすごいや」
早々と話題を変える。9割側らしく、私は大人しくしている方がいいのかもしれない。

プリヤの配信に出会ったのはその半年後くらいのことだった。
危険行為系インフルエンサーのトップをひた走っていた、プリヤ。FullDiveが普及しきって、平場の配信が飽きられてきた頃、装着状態でのBASEジャンプを披露し、界隈での称賛を受ける。その後4〜5年にわたって、フリーソロでのエル・キャピタン登攀、高高度気球からのスカイダイビング、月上空1万mからのダイビングなどを次々と成功。いずれも命綱無し、失敗が即死につながる状況を自らに課すスタイルが話題になり、一躍アンダーグラウンドのトップインフルエンサーとなった。
これらは全て、プリヤの死後、後から調べて知ったことだ。
プリヤは、私が初めて見た配信で死んだ。

地上50kmにわたってそびえる、細い塔。宇宙エレベーターが大気圏での風圧に耐えられるよう建設された、防護用の外壁。プリヤはその登頂を目指していた。
SNSの話題につられてたまたま私が目にしたのは、チャレンジの佳境、高度45kmに至る直前だった。覚醒維持剤とアドレナリンを投与して一週間以上に渡って登り続ける過酷な挑戦を、宇宙服越しの飄々とした笑みを見せつつ進める姿に、私は一瞬で虜になった。FullDive未装着の私にも、彼女の握るかすかな手汗と、規則的に動かされる筋肉の躍動が感じられた。画面上に表示される心拍数は、アドレナリンでブーストされながらも、乱れはしない。数時間淡々と登攀を進めては、カメラに語りかける。その繰り返し。
そのときは突然訪れた。開始から8度目の朝日が登り、プリヤはカメラに向かってつかの間の雑談を行う。一瞬朝日に目を向けた瞬間、しばらくの間、プリヤのまぶたが半開きになる。覚醒維持剤が抑えきれなかった、マイクロスリープ。画面が大きく揺れる。プリヤの四肢全てが壁面から剥がれていた。覚醒したプリヤは壁面に触れ、落下の勢いを抑えようとするも、すでに制御不可能な速度に到達してしまっていた。

数秒間虚しくもがいたのち、プリヤは抵抗をやめた。
そして、カメラを見て、軽く笑みを浮かべる。心配事が無くなって、安心したかのような笑み。画面に表示された心拍数がわずかに下がる。
FullDiveはあくまでも五感の転送装置であり、内心を読み取ることはできない。
私はプリヤの最後の笑みに、ずっと囚われ続けている。

私の初・危険行為配信はこの2年後。顔出しベアでエアロック越しに手を数秒、外に出すチャレンジだった。

 

3

赤い土が舞う。
地表が温められ、地面と大気の温度差から生まれた上昇気流が渦を巻き、発生したダストデビル(要は竜巻だ)が、クレーターを駆け回っている。
クレーターの底には、ダストデビルにより表面の土が巻き上げられてできた、暗い色の轍が無数に残されている。赤褐色の竜巻に、くすんだ黄褐色の空。幼少期から見慣れた火星の光景だ。

マリネリス峡谷から南に50kmほど行ったところにある、名もないクレーターの渕に、私は立っている。
Whoopyの視聴者は2万人ほど。息止めの失敗以降、減り続けている。配信タイトルは「【検証】ダストデビルの中ってどうなってるの?」。
「近くで見ると全然違うね。……ちょっと待って、心の準備する」
私はダストデビルにおびえてみせる。直径20m、高さは100mを超えるくらい。風速は秒速40mくらいだろうか。
火星に詳しくない、一部の地球や月の視聴者は一緒になって怖がってくれる。が、実際大したチャレンジでないことは、私と大部分の視聴者は知っている。
火星の大気の密度は地球に比べてずっと低い。火星での風速40mは、地球換算でせいぜい5mくらいの強さだ。地表で単身突っ込むバカはいないが、本気で死ぬと考える奴もまたバカだ。
唯一死ぬリスクがあるとすれば……放電くらいだ。巻き上げられた砂同士の静電気で蓄えられた電圧が宇宙服に当たると、死ぬ……かもしれない。機器類が壊れれば。実際は絶縁体の宇宙服に守られて、私自身が感電することはまずないのだ。
せいぜい1〜2%で死ぬチャレンジ。危険行為とは名ばかりのぬるい見世物に、ここ数ヶ月の私は挑み続けている。
原因はもちろん、真空息止め配信の失敗だ。ヘルメットの再装着前に気を失った私は、作動した装置によりポッドに回収されていた。命を落とすことは避けられたが、真空に20秒以上暴露したことから、それ相応のダメージを受けていた。低酸素による頭痛や顔のむくみは軽度で済んだが、視界は1週間以上ぼやけたままだった。
脳損傷により、事故直前数時間の記憶も欠落していた――私は自分の失態を、配信アーカイブ越しに知った。

足元に目を移そうと少しうつむいた瞬間、鎖骨に軽い痛みが走る。緊急回収装置にケーブルを引かれた衝撃で折れた名残だ。
私は竜巻に向かって、クレーターの斜面をゆっくりと降りていく。
巨大な柱の影が、徐々に近づいてくる。巻き上げられた砂粒が宇宙服にあたってパラパラと音を立て、うっとうしい。

そのまま歩を進め、ダストデビルの軌道上に私はたどり着く。眼前に迫る砂の柱に気圧され、思わず手に汗を握る。棒立ちのまま、私はダストデビルに飲み込まれる。
膨大な量の砂粒が、左側から襲いかかってきて、私の穴の空いた鼓膜を震わせる。反射的に両足を踏ん張るが、風圧は見かけよりもずっと弱かった。
突如、視界が開け、さっきまで聴こえていた砂粒の音が消える。竜巻の目にたどり着いたのだ。
周りで暴風が吹き荒れているなんて信じられないほどの静寂に、私は包まれる。
不意に息が詰まる。肺の膨らませ方を忘れてしまったかのように、胸が苦しくなる。水分が失われないように、口と目をきつく閉じる。
永遠とも思える数秒ののち、ダストデビルの目を抜け、再び世界に音が戻ってきた。私はその場に崩れ落ちる。体は事故のことを覚えているらしい。

私を心配するコメントたちに、「ちょっとめまいがしただけ」とだけ伝え、そそくさと配信を切る。見え透いた嘘だが、優しい彼らは信じるふりをしてくれることだろう。そうして彼らは、黙って私の元から離れていく。彼らに見放された私は、アルゴリズムにもいずれお払い箱にされてしまうだろう。
これから、どうしていけばいいんだろう。

 

4

半年後、私はそびえ立つ宇宙エレベーターの外壁の足元に立っていた。
午前5時。昇ったばかりの赤道直下の朝日が、開いたままの宇宙服のヘルメットを赤く照らす。危険行為配信者として完全に返り咲くため。そして何より、あのプリヤが死の瞬間に浮かべた笑みの謎を解くため、私は地球へやってきたのだ。

足元を見下ろす。1Gの重力下にもずいぶん慣れたものだ。ふくらはぎに力を入れて、緩める。筋繊維の密度に頼もしさを感じる。これまでの配信活動で稼いだ金の大半をはたいて、3ヶ月前から地球での重力順応トレーニングを行ってきた。
視界の隅のインジケーターには、1万人ほどの待機者が表示されている。大規模な復活配信をぶち上げたところで、一度離れた視聴者はそう簡単には戻ってこない。それでもいい。私がプリヤを超え、プリヤの見ていた景色を理解する。今はそれだけが重要なのだ。

配信を開始し、手短に企画説明を行う。ボルネオ島の西の沖合に建設されたこの宇宙エレベーターは、運営会社の破産によって長年放置されている。高さは50km。その頂上には、かつての乗務員用に造られた緊急避難エリアがある。自力でそこまで登り切れば、私は生還できる。
「今回は、安全装置の類は一切ナシでいくからね」
あえて軽い調子で告げると、コメント欄がにわかに沸き立った。心配する声、どうせフェイクだと茶化す声。それらを尻目に、私は登攀用の装置を起動し、ゆっくりと壁に取り付いた。ここから10日間、私は寝食を削ってこの果てしない壁を登り続ける。

私は壁に触れ、手のひらに仕込んだ静電パッドをONにする。強烈な吸着力で、右手が壁面にへばりつく。外壁と電気的に引き合い、ちょっとやそっとの衝撃では剥がれない代物だ。
私は壁を登り始める。宇宙服の各関節に仕込まれたモーターが動きを補助し、素の体重で登った場合の3分の1ほどの負荷で、体を引き上げる。私は淡々と、毎時200mの速度で高度を上げていく。10日間、スタミナを維持しつつ、正確に腕と足を配置し続けるだけのシンプルなゲームだ。

メントールの香りを感じつつ、私は壁を登っていく。これから10日間、私は風呂にもシャワーにも入れない。宇宙服の空調があるとはいえ、10日後の体臭はひどいものになっているだろう。自分で嗅ぎたくないし、視聴者にも嗅がれたくない。耐久系配信のときにはそういうフェティシズムの視聴者が湧いてくるが、本当にうんざりさせられる。私に死んで欲しがる視聴者の方が、まだ配信の趣旨に沿っている点でましだ。

100mほど登ったところで、ちらりと下を見た。落ちれば確実に死ぬ高さだ。しかし、事前に投与した覚醒維持剤とアドレナリンが神経を麻痺させ、私の心を冷静なままに保っている。
手を伸ばした先で、外壁から剥がれてぶら下がっているパネルがあった。私はそれを乱暴に引き剥がし、背後の虚空へ放り投げた。数秒後、小さく乾いた破裂音が下から響く。コメント欄が一気に加速した。
自分が落ちて、海面でぐちゃぐちゃの肉塊になる様子を想像する。同時に、プリヤの死体に思いを馳せた。

私がこの宇宙エレベーターを選んだのは、プリヤと同じ条件を揃えるためだ。彼女を超えるためにも、あの笑みの意味を知るためにも、同じ場所でなければならなかった。
あの笑みについて、ある者は「インフルエンサーとしての強がり」だと言い、ある者は「視聴者への感謝」だと言った。死への恐怖で顔面神経が引きつっただけだという説もある。どれも説得力はあったが、どれも私を納得させられていない。

私は無心で登り続ける。バッテリーには余裕を持たせているが、立ち止まって休む暇などない。10日分のカメラと吸着パッドを稼働させる5kgのバッテリー、15kgの宇宙服、そして1kgの超高濃度ハイドレーション。素の体重にこれだけの負荷を加え、重力に逆らい続ける。50km先の避難エリアまで、逃げ場は一切ない。
コメントも見ず、一心不乱に壁と向き合う。

右手、左足、左手、右足。

3点を吸着させた状態で、1点ずつ確実に上へ移動させる。1点だけでも体を支える吸着力はあるが、念には念を入れる。這い上がる私の姿は、正面のGoProと背後のドローンが克明に捉え続けている。

1kmを超えた。頬に当たる風が少し冷たくなる。
カメラを周囲に振る。見渡す限りの海が広がっている。雲の欠片すらない完璧な青。じっくりと時期を選んだ甲斐があった。

太陽が南中し、沈む。私は四肢を動かし続ける。気がつくと標高4km地点に到達していた。
ヘルメットを装着する。ここから先、外気を吸い続けると高山病になってしまって早々にゲームオーバーだ。
全身の筋肉が痛み出していることを、覚醒維持剤越しに感じる。火星生まれのひ弱な体が悲鳴を上げ始めたのだ。

「みんなこんばんは! だんだん島が見えてきたよ〜」
私はドローンのカメラを周囲に向ける。夕焼けに燃える水平線の上に、小島がちょこんと乗っている。進捗を喜ぶコメントに混じって、「雲出てきてない?」という不穏な文字列。私は西の空に目をやる。ほんのわずかに、雲のかけらが発生している。

これは想定内の苦難。私は自分に言い聞かせる。
ボルネオ島の上で生まれた雲が、対流で沖合にやってくる。発生率の低い時期を選んだとはいえ、雲とまったく遭遇せずに済む可能性の方が低いことはわかっていた。
雲から目を背け、私はまた手足を上に伸ばしていく。

無情にも、雲は発達し続けた。数百m登るごとに、闇の中で雲の存在感が増していく。1日かけて数千mの高さに成長した積乱雲が、近づいてくる。
そして2日目朝、6km到達を祝いながら、私は積乱雲の端に突入する。
積乱雲内部には過冷却された無数の水滴が浮いているため、突入した物はみな、ゆっくりと凍りついていく。静電パッドの表面にも氷が膜を張り始める。右手のパッドを、左の腕にこすりつけて、氷を落とす。さらに外壁の氷をこそげ落として、そこにパッドを置く。パッドと外壁の間に絶縁体である氷が入ると、十分な重量を支えられなくなるのだ。
そして、積乱雲は氷同士の摩擦により、大量の静電気が蓄えられている。全ての機器の雷対策を行っているとはいえ、実際に撃たれたら何が起こるかはわからない。

右手、左足、左手、右足。
ひとつの雲の切れ端を抜けると、数時間後にまた雲が現れる。
その後2日間、赤道直下の気まぐれな気候に、私はうんざりさせられる。

*

4日目午後。私は積乱雲の頂上から顔を出した。17km到達。
眼下には真っ白な雲海が広がる。絶景にコメント欄が沸き立つ。
あと2kmほど登った先には、アームストロング限界――ヒトの体温で血液が沸騰する、人間の生存限界ラインがやってくる。
とはいえ、すでに宇宙服で全身フル装備の私にはあまり関係がない。同じ調子で登り続けるだけ。

右手、左足、ひだり――

――強烈な閃光。
雷の直撃ではない。雲の頂上から上方向へ向けて放たれる超高層雷放電、ブルージェットだ。
凄まじい衝撃が全身を駆け抜け、静電パッドが一瞬にして機能を失った。
「っ――!」
体がずり落ちる。強い摩擦感が全身を包み、落下速度が徐々に加速していく。死ぬ。死ぬ。
懸命に、狂ったように両手両足のパッドを外壁にこすりつける。動け。くっつけ。
ガガンッ!
左足のパッドが最初に機能を取り戻し、強烈な衝撃とともに私の落下を止めた。左足一本で、宙吊りになる。
全身がガタガタと震え、呼吸が浅く、早くなる。歯の根が合わない。涙と鼻水が顔面を濡らす。
視界の隅で、視聴者数が爆発的に跳ね上がり、大量のギフティングの光が飛び交うのが見えた。私の死の恐怖が、彼らの最高のエンターテインメントになっている。撮れ高ができたというインフルエンサーとしての歓喜と、虚無の真空で溺れかけた記憶が、脳内でぐちゃぐちゃに混ざり合う。文脈も何もない、ただひたすらに生への執着だけを叫ぶ私の無様な身体反応が、20万人にダイレクトに伝送されていく。
ひ、ひっ、と引き攣った呼吸を漏らしながら、私は再び壁にへばりつく。登らなきゃ。登らなきゃ。

気づけば、視聴者数は50万人を突破していた。50万の眼球が、私の生と死の境界線に釘付けになっている。
20mほど上から私を映していたドローンは、ブルージェットの直撃により撃ち落とされてしまっていた。残るカメラは私のヘルメット正面と、FullDive越しの視覚転送だけ。

「頑張れ!! 今月分全部ぶっこむよ!!」
ドローンからの映像が消え、一画面が黒くなってしまった配信では、支給されたばかりのベーシックインカムを、ありったけ投げ銭してくる者が現れていた。この50万人は私を承認しているが、私は彼らを本当の意味で承認しないし、できない。
私はこの歪んだ承認のゲームに乗り続ける。気持ちがいいから。それ以外に、私の生きる意味などないから。

 

右手、左足、左手、右足。
 右手、左足、左手、右足。

 

息が上がる。アドレナリンでごまかしきれない疲労感に、思わず登攀の手を止める。
私はヘルメットのチューブから、ドロドロの超高濃度ハイドレーションをすすり上げた。強烈な化学調味料の味。
普通の胃腸なら、こんな劇物は消化吸収できずに吐き出してしまうだろうが、今の私には関係ない。この日のために大腸の大部分と胃の半分を切除し、肝臓と腎臓の処理能力をブーストさせるバイパス手術を受けてきた。消化器系の極限までの軽量化と、化学栄養素のダイレクトな血中への取り込み。もう二度と普通の食事は楽しめない。

 

右手、左足、左手、右足。
 右手、左足、左手、右足。

 

不意に、教養課程の隣のクラスにいた、ミーナのことを思い出す。
顔出しベア配信で一瞬だけ注目を浴びたあのイケイケ女子は、とうの昔に配信に飽き、今ではベーシックインカムでのんびりとした普通の人生を送っているらしい。

 

右手、左足、左手、右足。
 右手、左足、左手、右足。

 

吸着パッドのバッテリーの減りが、こころなしか早まったような気がする。

 

右手、左足、左手、右足。
 右手、左足、左手、右足。

 

ノア。
地球のFullDive配信にのめり込みすぎていた彼女は、刺激のオーバードーズで精神をすり減らし、今はもう連絡すら取れなくなってしまった。

 

右手、左足、左手、右足。
 右手、左足、左手、右足。

 

バッテリーの減りは加速していく。ブルージェットにより、何らかの異常が機器に生じているらしいが、降りる選択肢は私には無い。
降りるよりも、50kmに到達する方が早いからだ。

 

右手、左足、左手、右足。
 右手、左足、左手、右足。

 

パパとママ。
最後に会ったのはいつだっただろう。

右手、左足、左手、右足。
 右手、左足、左手、右足。

 

9割側の無価値な日常から逃げ出した私の、これが成れの果てだ。

9日目の朝。気づけば、私は到達していた。高度45km。
あの日、プリヤが滑落し――謎の笑みを残した、その場所に。

昇ったばかりの朝日が、外壁を照らす。音も、風もない。私の早くなった呼吸と、モーター音のみが生きている。
足元では、白い薄皮のような雲海の上で、大気の層が青く発光している。
見上げた空には、5km先で終わる外壁を取り巻く、一面の漆黒。黒い空には、数センチメートルの幅のテザーが伸び、はるか先のカウンターウェイトまで続いているはずだ。目を凝らすが、さすがにまだ見える距離ではない。

あまりの途方もなさに、思わず笑みがこぼれる。きっと、プリヤもこんな気持ちで笑ったんだろう。
100万人が、この景色を同時に見ている。でも、ここにいるのは私だけだ。

吸着パッドのバッテリーに目をやる。残り9%。当初の予定では20%以上の余裕を持ってゴールする予定だったが、そのバッファをすでに半分以上食ってしまった。もう一刻の猶予も無い。私はアドレナリンを目一杯追加投与する。

 

5

その後の12時間の記憶を、私は持っていない。
限界を越した不眠と、心不全リスクギリギリまで投与されたアドレナリンによって、これまでの1.5倍のスピードで自動機械のように私は登り続けた。

そして今――48km地点到達、パッドのバッテリーは残り1%。
我に返ったとき、すでに私の死は確定していた。
仮に1時間300mのスピードで昇ったとしても、後6時間以上かかる。最早どう頑張ってもゴールにはたどり着けない。

頭上には、たどり着けるはずだった外壁の先が、今朝よりずいぶんと大きく見える。
画面の向こうには、200万人が固唾を飲んで、私と五感を共有している。予備のバッテリーの存在を信じる者、私との別れの言葉を述べる者、愚かな危険行為配信者を茶化しに来た者。

私には多く見積もっても1時間ほどしか残されていない。生き残るための小細工を、寝不足の脳が画策する。パッドを捨てて素手で登る? ありえない。外壁の凹凸はあまりにも少ないし、体重と宇宙服を支える仕組みもない。パッドを分解して、配線類を外壁に巻き付ける? 無理。配線の強度が足りないし、仮に体を固定できたとしても、バッテリー落ちとともに宇宙服の酸素供給システムも止まる。死を数時間先送りにして、墜落死を窒息死に変えられるだけだ。誰かに救助してもらう可能性に賭けるか? ――私は決断する。

「予備のバッテリーも、命綱も無いよ。ごめんね、みんな」

パッドの出力を、落とした。重力が私を引く。

6分間の落下が始まった。
いろんな物質をすでに投与してしまった影響か、私の意識は乱れることもなく、この上なくはっきりしていた。

これ幸いに、「最後の仕事」に取り掛かろう。正面のカメラを見て、とびっきりの決め顔をして、死ぬ。200万人の脳に、私の笑顔と、無様な死に様をそのまま焼き付けられる、最高の贅沢だ。

私は音速に達しながら、目を閉じ、最高の表情をイメージする。数分後の死とのコントラストが映えるような、屈託の無い笑顔。これだ。
最高の表情まで、3、2、1――

RECを示すタリーランプが消えている。真っ暗な配信画面。
配信画面を数回タップするが、反応はない。たった今、バッテリーが切れたのだ。生命維持装置のかすかな駆動音も消えている。
バッテリーの起動ボタンを連打するが、うんともすんとも言わない。

私の人生のクライマックスが、どこにも残らないまま、私は死ぬ。

そして私は、プリヤの笑みの理由に気づく。
プリヤも、見てもらいたかったのだ。最後の瞬間を、視聴者の脳裏に刻みつけたかった。だから、死が確定した瞬間、カメラを見て、配信が正常に回っているのを確認して、安堵した。ただそれだけだったのだ。

落ち続ける。
あと1分もすれば、濃くなった大気が落下を減速させ、強烈なGが全身に襲いかかる。そこまで私の意識が保つかは、とっても怪しい。
せっかくだから、最後にもう一度だけ味わっておこう。
私は宇宙服のネックリングを素早く回す。勢いよくヘルメットを外し、ほぼ0気圧の虚空に向かって口を開く。

今度の真空は、荒々しく私の口いっぱいに広がる。
唾液が舌の上で沸騰するのを感じながら、私は目を閉じた。

文字数:13640

内容に関するアピール

『AIの発達により、人間に最後に残される仕事は「責任を取ること」になる』という言説をたまに耳にしますが、果たして本当にそうだろうか? 人間特有のコンテンツがあるのではないか? そんな疑問から着想を得ました。

人間が「責任を取る」ことができるのは、人間が役職や賃金など、失うものを持っているからです。つまり人間に残るのは責任そのものではなく、何かを賭けられるという性質のほうです。であれば、役職や賃金ではなく命や人生そのものを賭ける危険行為系インフルエンサーは、賭け金の大きさにおいて「責任を取る」行為を上回り、その分だけ強いコンテンツになりうるはずです。

本作では、危険行為系インフルエンサーの価値をより強く、ワクワクするものにするため、「五感を転送できる装置」FullDiveを着けて配信を行うスタイルにしました。「真空での息止め配信で、唾液が沸騰する」など、宇宙進出した人類の配信コンテンツを感じられるような描写を盛り込んでいます。

主人公セレナは、先輩インフルエンサーの死の瞬間の笑みの謎と承認欲求に突き動かされる形で、自己破壊的な行為を繰り返します。謎の真相はあえて肩透かしなものにすることで、莫大な数字を集めるインフルエンサーが、実際は卑小なただの人間であることを強調するものにしています。

インフルエンサー周りの描写は、YouTuberの裏方仕事をしている自分の経験を敷衍する形で作りました。 真空周りの描写は、1966年にNASA有人宇宙船センターで起きた減圧事故の記録を参考にしています。宇宙服の与圧が約10秒で失われ、被験者は約14秒間意識を保ちました。彼が意識を失う直前に記憶していた感覚は、舌の上で唾液が泡立つことだったといいます。

文字数:722

課題提出者一覧